ぐー、ぱー、ぐー、ぱー。
自分の手を動かして痺れが残っていないか確認する。
さっきのエジソンとの戦いで、僕は怒れる彼の電撃を一度もらってしまった。
幸い致命傷になるようなものではなかったけど、いざという時にうまく動けず無駄死になんて間抜けな結末だけは避けたい。
「お兄ちゃん、だいじょうぶ?」
「多分問題ない。さっき休憩できたのがよかったね」
僕の体のこともそうだが、いかにナーサリーが病人特攻のご都合主義だとしても休憩を挟まずに三連戦はきついはずだ。
本当なら数時間くらいは休んで然るべきなのかもしれないが、あいにくそこまでのんびりはしていられない。
事態の仕組みはシンプルで分かりやすい。ただ、全貌はまるで見えてこない。それが僕らの置かれた現状なのだから。
「だいぶ階を上がった気がするけど、まだ次の病室には着かないのか」
「そうみたい」
僕らは今五階にいる。
エジソンの去った精神病棟で三十分ほど休息して、それからすぐまた進み始めた。
特に何かに阻まれることもなければ、気になるものも見つからないのんびりとした道中。
僕の足音と、ナーサリー・ライムの足音。後は夜の静けさがもたらす耳鳴りだけが僕の聴覚を支配していた。
「ねえ。お兄ちゃんは、この病院の外がどうなってるのか知ってる?」
「まったく。そもそも本当に外の世界があるかどうかも怪しいと思ってるかな」
「?」
「景色が見えてるのと、実際にその景色がそこにあることとは必ずしも一致しないってこと」
「……むぅ。難しくてよくわからないわ」
むくれてみせるナーサリーの姿は愛らしいが、彼女の言うことは一考に値する。
この特異点と思しき病院は一体どういう形で存在している空間なのか。
純粋に全ての病人を退院させればいいだけなら、こうしてあれこれ頭を巡らせる必要もないのだが。
ホームズとまでは言わない。
ダ・ヴィンチちゃんかマシュのいつも通りのナビさえあれば、もう少し気も楽なのになあと改めて思う。
……と。そうこうしていると、角を曲がった先の廊下に何度目かの赤い光が見えた。
病室を示すプレート。あの中に三体目の傷病英霊がいる。
「行けるか、ナーサリー」
「うん! あたしは平気よ、お兄ちゃん」
僕の方も若干疲れは感じるものの、わざわざ立ち止まらなければならないほど酷いものじゃない。
此処までさしたる妨害もなく、順調と呼んでいいペースで攻略して来られたのだ。
舗装された道の上を歩ける内に、なるだけサクサク癒やしてサクサク進んでおきたい。
――さて、次の患者がいる部屋はどんな仰々しい名前だ。
なになに、【Aseptisches Zimmer】。長いな。
……、…………、…………………………。
……プレートの文字列は案の定読めなかったので、僕は無言で隣の少女にあれを読み上げてくれと指し示した。
カルデアに帰ったら何か外国語でも勉強しようかなと真剣に思う瞬間だった。
「【無菌室】、だって」
「無菌室――」
これまでの二部屋と同じく、僕はお世話になったことのない病室だった。
とはいえ大まかな概要くらいはわかる。
というか、名前の通りのはずだ。
特殊な空調設備を用意することで常に清潔な空気を循環させた無菌の部屋。
はてさて、一体どんなサーヴァントがその無菌室に押し込まれているのだろうか。
「礼装のリチャージもばっちりだ。行こう、ナーサリー」
僕は扉にそっと手をかけ、慣れた調子でそれを押し開けた。
▼ ▼ ▼
開けた瞬間、僕もナーサリーも顔を顰める羽目になった。
鼻をついたのは、嗅覚が馬鹿になってしまうのではないかというほど濃厚な血の臭い。
血だけではない。嗅いだことはないけど、多分人間の中に詰まってるいろんなものの臭いも混じっている。
清潔であるべき無菌室にあるまじき悪臭は僕らに否応なしに惨事を予感させ、そしてその予感は敢えなく的中した。
「……なんだ、汝か。またけったいな場所に迷い込み、けったいな者を連れているな」
恐らくその英霊は消滅したのであろうが、無菌室の床には彼ないしは彼女が此処に存在していた証がくっきりと残されている。
バケツ一杯ぶんは優にあるであろう血の海。
壁に、床に、天井に、まんべんなく刻み込まれた破壊の痕跡。
そんな大惨事の中心に佇む、首から上のない骸骨を抱えた――鬼子。
僕はその英霊に見覚えがあった。カルデアに召喚された英霊たちの中の一騎だ。
「茨木童子……っ」
「応とも。吾はまさしく、汝の召喚に応じてやった大江山の首魁よ」
調子に乗った物言いは間違いなく記憶にある彼女のものだ。
しかし状況が異様すぎる。
血塗れの病室も、首のない骸骨も。
何から何まで意味がわからず、僕は自然とナーサリーの前に立っていた。
彼女を隠すようにしてしまうのは、多分僕の中の一般道徳的な何か。
「そう怯えるな。此処に押し込まれていた憐れな病人を喰ろうてやったまでだ」
「――な」
「カーミラと言ったか。いやはや、なかなかに喰いでのある獲物だった。
おかげでこの吾としたことが、片腕を奪われてしまったわ」
カーミラ。
エリザベート・バートリーの成長した姿。
本来は彼女が、この部屋にあてがわれた第三の傷病英霊だったのか。
しかしそれをどういうわけか茨木童子は殺害した。
抱いた骸骨のせいで分かりにくかったが、確かによく見るとその左腕は肩口から寸断されている。
「綱の阿呆にやられた時を思い出す。
まして今度は腕の回収も敵わんときた。
ままならんなあ、ああ、ままならんわ」
くつくつと笑う姿は僕の記憶の中の茨木童子とは異なっている。
羅生門で初めて出会った時も、これほどではなかった。
今の彼女は――まごうことなき鬼だ。
この茨木の前で軽口を叩ける奴は、余程の実力者か命知らずのどちらかだろう。
「知っているか? 汝。鬼というのはな、ままならぬことがすぐ鶏冠に来る生き物なのだ」
それは何となくわかる。
酒呑童子のようなタイプは、鬼の中でもごく珍しい部類らしい。
「今、吾は狂しておる。だから檻を壊した、轡を並べるべき病人を殺した」
「………」
「汝も殺す。そこの【もどき】も殺す。そして――」
ミシ、と何か硬いもののひび割れる音がした。
茨木童子がぺっと口から吐き捨てたのは、何本もの歯。
今聞こえた音は、彼女が自分の歯を強く噛み締めるあまりにへし折った音だったのだ。
ざっと十本近いそれを一度に折るのに、どれだけの力が必要になることか。
「――あの忌まわしい女武者を! 源頼光を殺してやるのだッ!!」
……瞬時に悟った。
今回は、もう感じ取る作業すらいらない。
こいつの病みは――それか。だとすると、抱いた骸骨の正体にも察しがつく。
「酒呑童子、か……!」
「……ああ、そうだ。
これぞ鬼の中の鬼よ、卑劣な奸計に滅ぼされた我が憧憬よ!!」
大江山の酒呑童子は源頼光に騙し討ちされ、その首を落とされた。
そんな過去もあって、カルデアの両者は犬猿の仲という言葉では足りないほど険悪だ。
もちろん茨木も頼光には露骨な嫌悪を示し、一度は殺してやりたいという言葉を聞いたこともある。
しかし、その姿を見たなら即座に襲いかかっていくほどのものではなかった。
サーヴァントになったことと茨木童子本人の小心者な気性が相俟ってのことだろう。
今の茨木童子は、そうではない。
「頼光が此処にいるかもわからないだろ」
「ならばいるところまで向かって殺すまでよ。
吾の怒り、酒呑の怒り! 地獄の苦痛の中で思い知らせてやる!!」
言っていることがめちゃくちゃだ。
頼光を殺すというのならカルデアに帰るのが最も手っ取り早いのに、茨木は僕らを殺すという。
多分彼女が自分で言ったように、狂っているのだろう。今の茨木は。
今までの誰より分かりやすく、それだけに誰より厄介だ。
「――なあ、酒呑? 酒呑もそう思うであろう?」
物言わぬ骸骨に語りかけるその姿がそれをよく物語っている。
僕は直接その時を知っているわけではないが、今の茨木の精神状態を例えるなら【酒呑童子が墜ちた直後】なのだと思う。
彼女らしい恐れや色々なあれこれ全てをかなぐり捨てる向こう見ずな怒り。それが、茨木を苛む病。
「……ナーサリー!」
「うん!」
これ以上語らうことに意味はないと僕は判断した。
ナーサリー・ライムも同じのようだった。
何故ならあっちの語る言葉に、そもそも意味が通っていないから。
どこまで行っても互いに独り相撲なのだから、実力行使で治してやるしか手段はない。
「頭を冷やしてあげるわ、血まみれのお姉ちゃん!」
「ほざけまがい物! 行くぞ、酒呑――!!」
唾を飛ばして茨木が吠えた。
瞬間、命の抜けた骸がカタカタと音を鳴らして動き出す。
【それ】は青いオーラのようなものをまとい、どんどんと膨張して……遂には、巨大なゴーストの姿を象るに至った。
エジソンの機械化歩兵などとはレベルの違う、それこそこれまでの傷病英霊たちに匹敵する力を持った怨霊。
ニィ、と茨木童子が不敵に笑う。
歯の半分ほどが抜け落ちた隙間だらけの笑顔だったが、それだけに背筋が凍るほど恐ろしい。
「血祭りにしてやるぞマスター! 汝の血肉でもって、疲弊したこの身を癒やしてくれる……!!」
▼ ▼ ▼
真名判明
第四の傷病英霊 真名 茨木童子
▼ ▼ ▼
《Krrrrrrrrrrrr――――!!》
大亡霊の嘶きと共に世界が塗り替えられる。
【一番目】は海の上だった。【二番目】は天空だった。
そして【三番目】もとい【四番目】の彼女は――煉獄。
炎に囲まれた荒野こそが、茨木童子の病理幻想。
「うるさいっ!」
亡霊の腕を砂糖菓子の剣で器用に弾いて童話少女が跳ねる。
あくまで目指す敵は茨木童子であり、大亡霊は無視しても構わない。
しかしそんな考えはあまりにも浅はかだったと、僕らは思い知らされる。
突然、童話少女の足が止まったのだ。
くらりと体が揺れる。
まさかと僕は思った。
あの亡霊は――酒呑童子の【果実の酒気】が使えるのか!
「舐めたな、吾らを!」
『Ki-HaHaHaHaHaHaHaHa!!』
前方から炎をまとった拳が、後方から命削る亡霊の腕が迫る。
僕は迷わず全体強化を童話少女へ向けて飛ばした。
ぐらついた心もとない体勢での迎撃が、それによって平時以上のものに変わる。
「うくっ……!」
苦しげな声を漏らしながらも、どうにか童話少女は窮地を脱することに成功。
返す刀で砂糖菓子の剣を茨木童子めがけて逆袈裟に振るうが、あっさりと躱されてしまう。
「きゃっははははは! いじらしい抵抗よ。さぞ甘いのだろうなあ汝の肉は!」
「おいしくない!」
力任せの攻撃には作法も技術もない。
普段の茨木童子が見れば赤面して顔を背けるだろう稚拙な攻撃はしかし、付随する圧倒的な【破壊力】によって正当化されている。
魔力放出を常に惜しみなく使っての連撃。
特攻性以外は見た目通りの少女であるナーサリー・ライムにとってはこういう相手が一番辛い。
……長引かせられないな。
僕は宝具を抜かせようと、声を出しかけ――そこで、大亡霊が魔力を練り上げていることに気が付いた。
『KrrrrrrrrHaHaHaHaHa……!!』
まずい。
もし酒呑童子の宝具を模倣したものが飛んできてしまったなら、目の前の茨木と合わさって完全にナーサリーのキャパシティを超過してしまう。
そうなれば後は赤ん坊をねじ伏せるようなもの。
僕はナーサリーの名を叫びながらガンドを撃ち、亡霊の攻撃準備を中断させた。
『!!』
「酒呑ッ!?」
茨木童子が驚きに目を見開いている。
あれだけ何度も彼女の前で使った魔術なのに、今はそれすら覚えていないらしい。
いや、思い出している余裕がないというべきか。
「……ごめんね」
一言呟いて、童話少女のメルヘンチックな刃が大亡霊の右腕を寸断した。
幻想であるのなら、砂糖菓子の剣はどんなものでも切り裂く。
「しゅッ――貴様あ!」
怒髪天を衝く、狂乱の鬼。
これまで以上に稚拙な突撃で童話少女へと向かっていく彼女に、僕は叫ぶ。
ガンドを切った以上あと戦いに直接貢献する手段は虎の子の全体強化しかない。
けど、口ならいくらだって動かせる。
「茨木童子!!」
ぎろりと人を殺せそうな視線が僕の方を向く。
一瞬怯みそうになるが、そこは伊達に人理を救う旅をしていない。根性で耐えてそのまま言葉を絞り出す。
「いい加減気付け、【それ】は酒呑童子じゃない!!」
茨木童子の動きが、言い終わると共にピタリと止まった。
そうだ、あの骸骨は酒呑童子の骸なんかじゃない。
酒呑は茨木を遥かに越える【格】を持った鬼だが、背丈自体は彼女とそう変わらない小柄なそれだ。
にもかかわらず、あの骸骨の背丈は少なく見積もっても成人手前くらいのものだった。
そして、何より。
「見てみろ、あの醜い姿を!
君の尊敬した酒呑童子はあんな品のない化け物だったのか!?」
酒呑童子があんな亡霊になるはずがないのだ。
あの神をも恐れない鬼の中の鬼が、理性なき亡霊になんてなるわけがない。
茨木の視線が僕から外れる。
新たにその視線が向いた先には、片腕だけで地面を這うように動き、ナーサリーに襲いかかる醜い化け物の姿がある。
「邪魔しないで」
ナーサリーはそれを事もなく切り伏せた。
幻想を切り裂く刃は、茨木童子の外側に転移した病巣である【酒呑童子】を騙った大亡霊を一撃にして霧散させる。
霊体の消失と共に茨木が酒呑と呼んでいた骸骨が床へと落ちてきて、出来の悪いプラモデルのように砕け、バラけた。
さあ、これで後は第四の傷病英霊だけ。
茨木童子の狂気を晴らすだけだ。
「……れ」
その体が震える。
怒りと混乱から来る震えなのは明らかだった。
「黙れ! 汝の言葉は不愉快だ!
吾は鬼、大江山の首魁! 武者の狼藉に憧憬を踏み躙られた大鬼ぞ!
よくも、よくも吾の前で酒呑を殺してくれたな――五臓六腑を火で炙り、生きながらに髄を引き出しても飽き足らんわ!!」
隻腕が、数倍ものサイズに巨大化する。
まさに鬼の腕だ。変化スキルを攻撃に転用して、そこに病んでいるがゆえの破壊力を載せた一撃。
掠っただけでも致命傷になるだろうそれはしかし、悲しいほど対処の簡単な攻撃だった。
僕は黙って全体強化を飛ばす。ナーサリーが踏み込む。
切り上げの要領で振るった剣が。茨木童子の隻腕を切断する。
――終わりにする。ナーサリーはもう一歩、今度は戦いを締めるために踏み込んだ。
「……!」
茨木童子はこの期に及んでなお笑っていた。
それはつまり、詰ませた側であるはずのナーサリーが実は【詰んだ】側だということに他ならない。
本来なら絶対に不可能なそれを可能にする方法はひとつ。
サーヴァントの秘奥、宝具の開放。
「姦計にて断たれ、戻らぬかの首は我が憎悪の呼び水なり!」
鬼の背後で何かが揺らめいた。
先の大亡霊とよく似た形、しかし放つ気配の桁は明らかに違う。
これなるは茨木童子の病み、増幅された怒りが生み出す病理幻想。
「抱け、叢原火――大江山大呪縁!!」
叢原火をまとって燃え盛る巨大な骸骨。
それは無策に踏み込んだ童話少女を抱擁する。
この抱擁を受ければ英霊でも全身の骨という骨を砕かれる。
その上でダメ押しとばかりに焼き焦がされるのだ。
当人への冒涜に等しいほど膨れ上がった怒りの炎で、文字通り火葬される。
この間合いでは今更避けられない。
剣の一本で防げるほど大江山の呪いは小さくない。
よって詰みは決まった。
もはや、未来はない。
「――目を覚まして」
茨木童子が、病人でなかったなら。
「繰り返す頁のさざなみ、押し返す草のしおり」
ナーサリー・ライムは童歌。
心の痛みを取り除くセラピストにしてデウス・エクス・マキナ。
英霊病棟における究極のご都合主義は、袋小路を壁ごと突き崩す。
何か白いものがこぼれ落ちるのを茨木童子は見た。
それを合図にしたように、大江山大呪縁の全身が真っ白に変色していく。
やがて形を維持出来なくなったように崩れたそれは、まさしく砂糖菓子そのものだった。
熱気が甘い香りに変わっていく。
幻想を塗り潰して幻想が支配する。
病みをかき消して元の姿を戻す療法幻想。
「貴方に還す物語」
▼ ▼ ▼
緑が広がっていた。
炎は消え、呪いの断片すら残っていない。
茨木童子は片膝を突いて、ハッ、と自嘲するように笑っている。
「……我ながら見下げた醜態よ。酒呑に知られた日には、何を言われるかわからんな」
宝具を破られた茨木童子は不動だった。
その瞬間、彼女は全てを思い出したのだろう。
怒りに隠れ忘れていたもの、見失っていたもの。
自分の空回りも滑稽な言動も全て全て誤りだったと自覚して、苦笑を浮かべながらその胸を貫かれた。
心臓を破られたはずの茨木童子に傷はなく、やはり血の一滴も流れてはいない。
斬られた腕も、病みが晴れたためか元に戻っていた。
敗れた鬼の顔はしかし、どこか清々しく見える。
「礼を言うぞマスター。そして【まがい物】の娘。
これ以上無様を晒しては、鬼を名乗ることも出来なくなるところであった」
茨木童子は、ナーサリー・ライムのことを【まがい物】と呼ぶ。
それはどういう意味なのだと聞こうとしたが、その前に茨木が言葉を発した。
「最後にだ、マスター。汝に伝えねばならぬことがある。耳の穴をかっぽじってよく聞け」
その体は既に消滅が始まっている。もう永くは保つまい。
……といっても、彼女はカルデアのサーヴァント。無事に異変を解決出来ればまた会えるので然程悲しくはないのだが。
「……吾は狂気に囚われていた。それは事実だ」
「そうだね」
「だが、それはカーミラとやらを殺してからの話だ」
……?
どういうことだ。
カーミラを殺すまでは正気だったっていうのか?
「然り。吾はあの女を殺めるまでは確かに正気だった。
……魂まで焦げ付きそうな激情だったが、病などに負けていては酒呑に笑われるのでな。
歯を食い縛り、指をへし折り、あの手この手で耐えていた」
まあ結局腕を千切られたところで余裕がなくなってあのザマになってしまったが、と早口で付け足す。
場面にそぐわない感想だが、こういうところを見ると元の茨木が帰ってきたなと安心を覚える僕がいた。
そんな感情は置いといて、僕は茨木に問いかける。
「じゃあどうしてカーミラを殺したんだ?」
「そうせねば、【奴】の目論見が遂げられてしまうからだ」
――【奴】。
心底忌まわしそうに放たれたその呼称から、僕が連想したのは【黒幕】の二文字だ。
病人のみが集められた病院の中に、何かを目論む者がいる。
これが黒幕でなかったなら何だというのか。僕にはわからない。
「残りの傷病英霊は一騎。
それを討てば、【奴】も閉じこもってはいられまい。
必ず【奴】を倒すのだ、マスター。あれを生かしておけば……最悪なことになるぞ」
「待て、【奴】っていうのは――」
ダメだ、間に合わない。
茨木童子の体が消えてなくなる。
幻想の退去を告げる白光が煌めいて。
「……その娘が【鍵】だ。
決して手放すなよ、マスター」
その一言だけを残し、茨木童子は消滅した。
無機質な部屋だけが広がっている。
そこに、僕とナーサリー・ライムの二人だけが立っていた。呼吸をしていた。
「ナーサリー、【奴】って誰だと思う?」
「うーん……わからないけど、やっつけなくちゃいけない人なんだろうなーとは思うわ」
「だよなあ」
第一、第二、第四の傷病英霊は倒した。
第三の傷病英霊は茨木童子が倒してくれた。
残るは一騎、第五の傷病英霊のみ。
それを倒したなら、後は茨木童子の言う【奴】を倒して終わりらしい。
此処に来てようやく終わりが見えてきた。
【奴】なる人物は例のごとくよからぬ目的のもとに動いているらしいので、全く安心など出来ないが。
「行こ? お兄ちゃん。次で最後だって言ってたし」
「……そうだな。そうすれば自然と見えてくるか、いろいろ」
「うん、きっとそうだよ」
僕らはまだ進むしかない。
進んだ先で知りたいことを知るしかない。
脳筋じみた結論のもと、僕らは最後の傷病英霊を探す。
第三の傷病英霊、消滅。
第四の傷病英霊、突破。
【無菌室】、閉鎖。
▼ ▼ ▼
「ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィ。
トーマス・アルバ・エジソン。カーミラ。
そして茨木童子……全部ダメですか。よくない流れですわね」
茨の這う、暗く広い空間の中。
残念そうに呟く少女の姿があった。
少女の目は固く閉ざされ、体にまでも茨の蔦が絡みついている。
棘だらけの茨に巻かれているのに、肌には傷一つない。
その存在が触れるもの皆傷つける茨にさえ祝福されている、ということか。
「でもまあ――いいでしょう。
あくせくとするのは性に合いません」
ふあ、とあくびを一つ。
彼女はカルデアのマスターが想像した通り、英霊病棟を作り上げてカルデアから英霊をさらった黒幕である。
しかしそれにしては、彼女は穏やかすぎた。
凪の水面か何かのように、風にそよぐ若葉のように。荒れ狂うことなく静かにそこにある。
「わたくしは眠り、夢見て待つだけ……」
眠る彼女は救いとは何かを知っている。
その瞼が開かれることは、絶対にない。
彼女が彼女である限り、絶対に。
暗闇の中、茨が這う幻想世界の中、眠れる王権がとくとくと鼓動していた。
最終更新:2018年04月22日 02:52