第五節:手術室の天使

 茨木童子を倒した僕らは七階にやってきた。
 この病院はどうやら九階建てらしいので、いよいよ終わりが見えてきたといえる。
 僕らが癒すべき英霊、倒すべき敵は合わせて二体。
 まだ見ぬ第五の傷病英霊と、同じくまだ見ぬすべての黒幕だ。

「……なんだあれ?」

 ふと僕は窓の外に動く何かを見つける。
 それは旗だった。夜風にはためいて動いていたのだ。
 そういえば今までは、窓から外を見上げたりはしなかった。
 だからこんなものがあることにすら気付かなかったのか。
 そしてこの発見は、僕に思いもよらない情報を運んできてくれた。

「……ドイツの国旗か? あれ」

 ドイツ。此処はドイツだったのか。
 場所がわかっただけとはいえ、これで一歩前進だ。
 てことはプレートに書いてあったよくわからない文字、どうやらあれはドイツ語だったらしい。

「しかし、ドイツの病院か」

 どうしてわざわざドイツなんだ?
 黒幕がドイツの出身なのか、それとも土地に何らかのいわくでもあるのか。
 多分核心に近い部分の話なんだろうけど、流石に僕の悪い脳みそと浅い知識じゃちょっとそこまでは辿り着けそうになかった。
 ぶつぶつ声に出して考えながら歩いていると……くい、とセラピストの彼女に袖を引かれる。

「お兄ちゃん、ちゃんと前見て歩かないと危ないよ?」
「ん」

 おっといけない、確かに前後不覚になってしまっていた。
 傷病英霊たちは病室で大人しくしてくれているという前提はさっきの茨木で既に崩れている。
 アサシンの傷病英霊とかがいないとも限らない。あんまり思考に没入するのもよくないか。

「そういえば君の宝具って、あれ初手から使ったりは出来ないのか?
 あの固有結界もどきを出す前に斬るって手もあると思うんだけど」
「できないわけじゃない、けど……」

 そりゃ僕だって病める英霊相手にそんな手を取るのは心苦しく思う。
 けれど、病んでいるならばこそ弱みを見る前に治してやった方が有情な気もするのだ。
 それにやっぱり攻撃に入られる前にやった方が断然安全なはず、というのもある。
 茨木童子がカーミラを消滅させたように、何もあれを出させないまま倒したらダメ、というわけではないようだし。

「あたしの宝具は、どれだけ心の痛みをさらけ出してくれてるかで弱くも強くもなるの」
「……あー、そういうことか」
「うん……たぶん最初から使ったら、今度は何回か当てないといけなくなっちゃうと思う」

 彼女の宝具はこの英霊病棟において最強のジョーカーだ。
 もっとも、やっぱりそううまい話はなく。
 結局傷病英霊たちと正面から戦って、彼ら彼女らの病みをさらけ出してもらう必要があるらしい。

「ごめんね、そう出来たらよかったんだけれど……」
「気にしなくていい。元々、全員倒してクリアする脳筋戦法で行くつもりだったんだし」

 まあ、どっちにしろやるべきことは至極単純だ。
 おまけにこっちの方が後味もいい。
 見敵必殺でかかったら、先の理由を並べても多かれ少なかれ罪悪感を抱いてしまうのは間違いないのだし。
 しゅんとする童話少女の頭をぽんぽんと叩きながら、僕はまた一歩歩を進める。
 ……その時ふと、茨木童子の言葉が頭をよぎった。
 結局聞けずじまいだった疑問が鎌首をもたげる。


『……なんだ、汝か。またけったいな場所に迷い込み、けったいな者を連れているな』

『汝も殺す。そこの【もどき】も殺す。そして――』

『ほざけまがい物! 行くぞ、酒呑――!!』


 茨木童子はナーサリーのことを【まがい物】とか【もどき】とか呼んでいた。
 あれは結局、どういう意味だったのだろう?
 本人には時間がなくて聞けなかったが、ナーサリー自身は何か知っているんだろうか。
 そう思って、僕は直接聞いてみることにした。

「そういえばさ」
「なあに?」
「君ってなんかこう、特別なサーヴァントだったりするの?
 それこそ最初のクリスマスの子みたいに、変質した英霊だったりとか」

 すると僕の前を歩いていたナーサリーが、くるりと可愛らしく回ってみせる。
 そしてにこりと微笑んでみせた。なんだなんだ、なんだっていうんだ。

「ふふ、そうよ。あたしはね、とくべつなサーヴァントなの」
「だよな。言われてみれば確かに君は変わってる」

 セイバークラスのナーサリー・ライム。
 相手の病み……【心の痛み】を取り除いて無力化する宝具。
 病んでいる相手限定とはいえ、こいつの療法(セラピー)はどんな宝具でも軽々打ち破ってきた。
 童話は人の心を癒すものだからとこじつけるのは簡単だけど、納得のいく答えかというと微妙だ。
 まるでこの病棟を攻略するためだけに生まれたようなサーヴァント。
 それがこの白ドレスの童話少女であった。

ナーサリー・ライム(あたし)はアポクリファ。
 ジャバウォックのおぞましい翼。
 キャロルの下ろした救いのペン先。
 この痛くて苦しいセカイを終わらせるために。あたしはうまれたの」

 ふわっとしたやつ来たな、と普段ならツッコむところだが。
 見た目が見た目だからなのか、それとももっと違う理由なのか。
 僕は何を言えばいいのかわからず黙ってしまう。
 会話のない時間。静寂が耳に痛い。
 けれどそれはすぐに終わることになる。

「あ。見て、あれ!」

 四番もとい五番目の病室が、僕らの前に姿を現したのだ。
 赤い光りで照らし出された部屋の名前は相変わらず読めないが、今回ばかりは読む必要もなくどんな部屋かわかった。
 僕自身、過去にお世話になったことがある。 
 確かあれは、盲腸だったかな。

「手術室か。最後に相応しいといえば相応しいな」

 プレートの文字は【Operationssaal】。
 扉は厚く大きい。気圧されそうな圧力がこの部屋にはある。
 手術室――病人から病巣を切り離すための部屋。
 人の生き死にがダイレクトに決まる、ある意味では運命を定める病室だ。

「全体強化オッケー。ガンドも大丈夫。オーダーチェンジは……いらないか。
 僕はすぐにでもいけるけど、そっちはどうだ? ナーサリー」
「あたしもだいじょうぶだよ。……ここが、最後だね」
「ラスボスもいるけどな。けど病人って意味じゃ、それも間違いではなさそうだ」

 あれ、そういえば件の黒幕ってそもそも病みとかあるのか?
 病んでいないやつにも、ナーサリーの宝具は通用するんだろうか。
 もし通用しないんだとしたら途端に【詰み】の二文字が見えてくるが、どうなんだろう。
 本人にその辺聞いてみようとも思ったが、この手術室を突破しないことには取らぬ狸の皮算用もいいところだ。
 第五の傷病英霊を首尾よく倒せたなら聞いてみるとしよう。

「ありがとね、お兄ちゃん」
「どうした急に」
「きっとお兄ちゃんのおかげであたしはここまで来れたから。
 お兄ちゃんがいなかったら、あっさり負けちゃってたかも」
「……買いかぶりすぎだ。僕は精々、ちょっとした便利アイテムくらいの立ち位置だよ」

 そう言って扉に手をかける。
 その手に、ナーサリーが小さな自分の手を重ねた。
 こくりと頷き合って、僕らは扉を開く。
 最後の傷病英霊が待つ手術室の扉を。

「いこ、お兄ちゃん」

 ――その先に広がっていたのは、地獄だった。


   ▼  ▼  ▼


 手術室の面影はどこにもない。
 いや、これはあれだ。
 これまでの傷病英霊たちも使ってきた、病みが具現化した世界。パラノイアの領域。
 それが最初からさらけ出されている。僕らが何かする前に。

「戦争か……?」

 その言葉にナーサリーが一瞬反応しかけたように見えたが、それどころではない。
 辺りは屍の山だった。中には脳みそがはみ出たり、顔の原型がなくなったりとグロテスクなものも多く見える。
 一応ナーサリーの目を隠しながら、僕は進んでいくと。
 ある程度進んだ辺りから白衣を着た女の屍が多くなっていることに気付いた。
 白衣。戦場。死体。……三つのキーワードが出揃った時点で、僕はこの部屋の傷病英霊が誰かを確信する。
 しかし、ああ。
 なんて皮肉だ、こりゃ。

「やっぱりあんたか」

 外れてほしい予想はあっさりと的中した。
 ナーサリーの目を覆う手を離して、僕は視線の先の【天使】を見つめる。
 死体の胸を押し、介抱する女の顔には包帯が巻かれていた。
 片目を隠すように巻かれたそれはしかし一切の弱さ、衰えを感じさせない。

「……あなたたちは、生きているのですね。この惨状の中にあっても、まだ」

 錆びた機械を動かすみたいに緩慢な動作で、【天使】は僕らを見る。
 クリミアの天使。鋼鉄の白衣。狂気を宿しながら、人を救うことに命を懸ける女。
 ナイチンゲールという名を持つこのバーサーカーを、僕は知っていた。

「ナイチンゲール、あんたは……」
「喋ってはなりません!」

 僕の言葉を遮った叫びはエジソンの雷撃にも勝る音量で響き渡った。
 さっきまでの緩慢さが嘘のような俊敏さで、ナイチンゲールが僕らの方に近寄ってくる。
 その目には確かな狂気があった。
 北米の特異点を共にした彼女のものとは明らかに違う、病んだ狂気が。

「肋骨が肺に突き刺さるかもしれない。
 声を出すことがさらなる出血を招くかもしれない。
 自覚しなさい、あなたたちは生きているのです。
 私が――生かすのです!!」

 じり、とナーサリーが一歩後ずさったのがわかる。
 病みを癒すセラピストである彼女ですら気圧されるほどの鬼気。
 いやこれは、もはやそれすら通り越して殺気だ。
 殺気を放ちながら、生かすと叫んでいる。

「ナーサリー! 来るぞ!!」
「う――うん!!」

 今度は僕が叫ぶ番だった。
 鋼の白衣に容赦はない。
 彼女と世界を救い、その後正式に召喚した僕だからわかる。

「指示に従いなさい。死にたいのですか」
「従った方が死にそうですよ、婦長」
「幻覚と幻聴の症状も出ているようですね。早急に切開しましょう」

 ナイチンゲールがその懐から拳銃を取り出す。
 わかりやすいのはいいことだと言ったが、これはいくら何でも度が過ぎていた。
 迫る【天使】から視線を外すことなく、僕はガンドをいつでも撃てるよう構えつつナーサリーと共に後退する。
 追いかけてくる銃弾は砂糖菓子の剣によって払われた。
 今の行動だけ見ても、ナイチンゲールの救いが死に直結するものであることは明らかだ。

「お兄ちゃん、教えて。
 あの人はどこが痛んでいるの?」

 ナーサリーに促されて、僕は目を閉じ頭の中に流れ込んでくる感情を整理する。
 今まででも一番ごちゃごちゃな混沌模様のそれは、僕のちゃちな脳じゃ解析しきれない。
 まずいなと思いながら目を開いて周囲の惨状を再度見た時、僕はようやくナーサリーに伝えるべき答えを理解した。
 ナイチンゲールの、【癒す者】であるはずの彼女が植え付けられた【病み】が見えた。

「……【救えなかった】思い出だ!」

 かの戦争において、ナイチンゲールは獅子奮迅の働きをした。
 彼女のおかげで救われた命は無数に存在する。
 しかし、救えなかった命も確実に存在する。
 人を救うことに全霊を注ぐ彼女が、犠牲になった者たちのことを忘れ去っているとはとても思えない。
 そんな高潔な精神を土壌として病みが発芽した。
 終わりのないフラッシュバック、それがナイチンゲールの……かつて天使と呼ばれた女の【心の痛み】だ。

「必ずやこの手を届かせましょう。
 私は二度と、私の目の届く範囲で人を死なせない」

 死体が溢れ、蝿とカラスが飛び交うクリミアの地。
 彼女の同胞すら死に絶えた戦場に、一人生き残った鋼の白衣。
 その背後に、巨大な白い看護婦のビジョンが浮かび上がった。
 刃を振り上げるその幻像こそは、ナイチンゲールの宝具に他ならない。

「――全ての命を奪ってでもッ!!」

 天使の吠える声を合図に、最後の治療が始まる。
 砂糖菓子の剣携えた白ドレスが駆けて、僕は彼女を何としても勝たせるために集中を深めた。
 あんたもエジソンと同じだ、ナイチンゲール。
 少し休んだ方がいい。


   ▼  ▼  ▼


       真名判明
第五の傷病英霊 真名 ナイチンゲール


   ▼  ▼  ▼


我はすべて毒あるもの、害あるものを絶つ(ナイチンゲール・ブレッジ)!!」

 白衣をまとった女神の剣が勢いよく振り下ろされた。
 ナーサリーは回避を選んだが、あれは攻撃宝具じゃない。
 戦いを強制的に瓦解させる絶対安全圏の構築。
 傷付いた人を一気に回復させる異端の【対軍宝具】だ。

「えっ……!?」

 ナーサリーの手から、するりと砂糖菓子の剣が落ちる。
 そう、この宝具は戦闘をそもそも【させてくれない】。
 剣は手から落ち、銃は弾を吐き出さず、爆弾は化学反応せず、魔術は組み上がらず、宝具の真名は解放されない。
 現に僕が咄嗟に撃ち込もうとしたガンドも発動にすら到達出来ていない有り様だ。
 しかしナイチンゲール当人は、もちろん別。
 武器を取り落とした童話少女を救わん(撲殺せん)と、魔獣の首さえ叩き折る鉄拳が振るわれる。

「バカにしないで!」

 けれどナーサリーだって負けちゃいない。
 彼女は病人に対するご都合主義だ。デウス・エクス・マキナだ。
 真名解放を行わずとも、その小さな体からは常に対病の力が放出されている。
 『我はすべて毒あるもの、害あるものを絶つ』の強制力をねじ伏せて剣を拾い、拳を防ぐ盾とした。
 此処までは、うまく行ったように見えたが。

「大した暴れぶりです。ですが」
「うぐっ……!?」
「私の方こそ言わせてもらいましょう。馬鹿にしないでいただきたい」

 明らかにナーサリーは万全の戦いが出来ていなかった。
 振るう剣に込められた力が目に見えて弱まっている。
 素人目でもわかるのだ、ナイチンゲールにわからないはずがない。
 素面で弾くには限度がある。
 第五の傷病英霊の宝具は間違いなく、ナーサリー・ライム(ご都合主義)に通用していた。

「殺菌」

 至近からナーサリーの腹に叩き込まれる蹴りの一撃。
 かっと唾液を吐き出しながら、童話少女がノーバウンドで吹き飛んだ。
 う、といううめき声。それにも顔色一つ変えず、鋼の看護婦が走る。

「緊急治療」

 黙って見てなどいられるものか。
 僕は戦う力がない身で、童話少女とナイチンゲールの間に割り込んだ。
 一秒くらいなら時間も稼げる。
 後は死ぬか死なないかのギャンブルだ――そう思っていた僕に、ナイチンゲールの銃口が向いた。

「消毒」

 避けられるか?
 喰らうにしても急所は避けないとな。
 腹を括った僕はしかし、横にまで走ってきて手を引いてくれた童話少女のおかげで難を逃れる。

「危ないことしちゃだめだよ、お兄ちゃん」
「時間稼ぎにはなっただろ。それに僕も、あの人がああなってるってのはちょっと思うところがあるんだよ」

 アメリカでは本当に世話になったし、特異点修復の中で僕自身【救えなかった】経験を何度もしてきたから。
 今回の傷病英霊には、今まで以上に感情移入してしまっている僕がいた。
 冷静であろうと努めちゃいるが、体を張ってどうにかなるならそのへんの行動に躊躇はない。
 それでナーサリー・ライムの剣が届くんなら安いものだ。

「宝具を使おうナーサリー。これじゃ戦いにならない」
「うん。ちょっと弱くなっちゃうけど、しかたないのだわ」

 手を引かれながら走り、次の一手を共有する僕ら。
 魔力が一気に吸われる感覚はもう慣れたし、カルデアにはもっと持っていく奴らがいるからそれほどキツくもない。
 ナーサリー・ライムの宝具が、最強無敵の【ご都合主義】が起動する。
 瞬間、彼女を苛んでいた戦闘禁止の呪縛は砕けて散った。
 そのことが傍目にもわかるほど、身体能力が見違えた。

「……!」

 地面を蹴った童話少女の剣がナイチンゲールの髪の毛を数本散らす。
 病んだ天使の顔に初めて驚きが浮かんだのが見えた。
 そりゃあそうだ、僕だってこんな何でもありの宝具は数えるほどしか知らない。
 その中でも【理不尽】ということにかけてはナーサリー・ライムがぶっちぎりだ。

「く……!」

 一振り一振りが病みへの特攻。
 戦況は必然ナーサリーの方に傾いていく。
 焦燥を覚えるや否や、ナイチンゲールも即断した。
 宝具の解放による、理不尽への対抗。
 傷付け殺すことでの【救命】を。

「毒なき世界を砕き、害なき世界を溶かした。
 ……たったそれだけで。たったそれだけでこの私を邪魔立て出来ると?」

 距離を取ったナイチンゲールの背後に再び、像が浮かぶ。
 しかし今度のそれは、白衣の女神ではなかった。
 返り血で真っ赤に染まり、血涙を流す恐ろしい女神像。
 まさに今のナイチンゲールを象徴するような病理幻想(パラノイア)

「全ての生あるもの、脈打つものを救い、我が力の限り、人々の明日を導かん!
 全ての生あるもの、脈打つものを殺してでも、私は為すべきことを為す!」

 今に始まったことじゃないが言ってることが無茶苦茶だ。
 何もかも道理が通っていない。
 でもそれがナイチンゲールという女で、だからこそ彼女は多くを救えた。
 そんな人がこんな姿で荒れ狂うほどの病み。
 仕込んだやつに怒りも覚えるけど、それ以上に今はこれを取り払ってやりたい。
 だから僕はありったけ、ナーサリー・ライムに魔力を渡す。

「持ってけ!」

 全体強化もおまけだ。
 これから来る宝具を破れるだけの力を、あいつに!
 そして遂に、解放の時が来た。
 血に濡れた女神が剣を振り下ろす。


我はすべて生あるもの、脈打つものを癒す(ナイチンゲール・ディザイアー)!!」 


 弱体化なんて小癪なものは今のナーサリーには通じない。
 だから、恐るべきはあの女神本体だけだ。
 どうやらあれは平常なナイチンゲールの宝具とは違って、剣そのものが破壊力を持っているらしい。
 これを打ち破れれば僕らの勝ち。
 打ち破れなければ、僕らの負けだ。

「繰り返す頁のさざなみ、押し返す草のしおり」

 激突する、血に濡れた剣と砂糖菓子の剣。
 押し返されそうになりながらも、童話少女は必死に力を込めた。
 やがて女神の剣が甘ったるい白に染まっていく。
 浴びた返り血は苺のジャムに変わり、血涙はラズベリー・ソースになった。
 程なくして女神が砕け散り、風に吹き崩されて戦場の一部になる。
 幻想のぶつかり合いは、此処に決した。
 勝ったのは――白ドレスの童話少女だ。

 血腥い臭気が甘い香りに変わっていく。
 幻想を塗り潰して幻想が支配する。
 病みをかき消して元の姿を戻す療法幻想(セラピー)


貴方に還す(ナーサリー)――」


 必勝必殺の一振りが、ナイチンゲールの体を斜め一直線に切り裂かんとして。

「救う願いを砕き、癒す願いを砕いた」

 その瞬間、あってはならないことが起きた。
 ナイチンゲールが一歩、踏み込んだのだ。
 まるで、そう。

 最初から、こうなることを知っていたみたいに。

「たったそれだけで。たったそれだけでこの私を邪魔立て出来ると?」

 ナーサリーの目が見開かれる。

「避けろ、ナーサリーッ!!」

 僕は慌ててガンドを撃つが……僕は理解してしまった。
 ダメだ、間に合わない。
 だってもう既にナイチンゲールの手刀の先はあいつの白ドレスに触れていて。

「――執刀、終了」

 僕のガンドがナイチンゲールをその場に縫い止めた時には。
 ナイチンゲールの手刀(メス)が、ナーサリー・ライムの心臓を貫いていた。
 大量の血液を吐き出して、童話少女ががくりと脱力する。
 誰の目から見てもわかる、明らかな即死だった。
 だって、やったのはナイチンゲール。
 その鋼の看護で世界に名を刻んだサーヴァントだぞ。

「……っ」

 ナイチンゲールが、急所(患部)を間違えるわけがない。
 あの人が執刀終了と言ったんだから、すべては終わってしまったんだ。
 そうでなきゃあの人は絶対にそんなことを言わない。気を緩めるようなことはありえない。
 それが、あの人という英霊が宿した狂気なんだから。

「次はあなたです。どうか動かぬよう。迅速な救命に支障を来しますので」

 ……くそ。
 僕がちゃんとした魔術師だったなら、こうはならなかっただろうに。
 要するに足りなかったんだ、何もかも足りなかった!
 僕にあと二つ、いや一つ手があれば!
 ナーサリー・ライムは勝てたはずなのに!
 後悔する僕に懺悔の余地を与えてくれるほど鋼鉄の看護婦は優しくない。
 地面をいざ蹴り飛ばし、最後の患者を救おうとして。


貴方に還す物語(ナーサリー・ライム)


 その心臓から、砂糖菓子の剣が生えた。
 な、とナイチンゲールが漏らした。
 え、と僕がこぼした。
 それは、意味不明にして理解不能な光景。
 今僕の目の前で死んだはずのナーサリー・ライムが、ナイチンゲールを貫いたのだ。
 ……【心の痛み】を殺す宝具を持って。

「……永久機関・少女帝国(クイーンズ・グラスゲーム)……」

 戦いは終わった。
 ナイチンゲールは崩れ落ちた。
 僕は茫然とその光景を見ていて。
 青空と若葉が満たしていく【痛み】の消えた世界に、無傷のナーサリー・ライムが立っていた。
 それはまるで、幽霊(ゴースト)のようだった。


   ▼  ▼  ▼ 


 優しい風が吹いていた。
 屍は召され、辺りはのどかな一面の緑で満たされている。
 ナイチンゲールは既に起き上がり、自分のこめかみを抑えてすごい顔をしていた。

「不覚。一生の不覚です。よもやこの私が病みに囚われてしまうとは……ッ!」

 背後からの一突きでナイチンゲールは沈黙した。
 不意打ちじみた決め手だったが、問題なく療法幻想は必殺の威力で働いてくれたようだ。
 ナイチンゲールが自身の病理幻想を使ったことで、病みの根源がさらけ出されたためだろう。
 胸を貫かれたはずのナイチンゲールに傷はなく、やはり血の一滴も流れてはいない。
 顔に巻いた包帯は風に吹かれてほどけ、その顔には綺麗な色合いの瞳が二つ揃っていた。
 もはや狂気の兆しは毛ほども見えない。治療は、完了した。

「……ご迷惑をおかけしましたね、マスターと療法士のあなた。
 この御恩は金輪際忘れることはないでしょう。謝礼と言ってはなんですが、怪我などした時にはいつでもお呼びください。
 最善の治療方法を持っていついかなる時でも駆けつけます」
「感謝が重い」

 これほど気合の入ったナイチンゲールの治療は恐ろしいのであまり受けたくないな。
 ……閑話休題。元に戻って何よりだと、僕は胸を撫で下ろした。
 それと同時に、怒りが込み上げてくる。

「私は救えなかった者たちのことを、片時も忘れたことはありません。
 そこを付け込まれたのでしょう。私もまだまだ未熟だったようです」

 クリスマスの子、エジソン、会ってはないけどカーミラ、茨木童子、そしてナイチンゲール。
 英霊たちの弱い部分、不安定な部分に病魔を植え付けて侮辱した黒幕に今更ながら腹が立つ。
 でもそれだけじゃない。僕は、畏怖の念も抱いていた。
 ナイチンゲールほどの人でさえ、あんな有り様に変貌させてしまう。
 この病棟を特異点にした黒幕には、それだけの力があるのだ。
 舐めてかかれば、次に病みを埋め込まれるのは僕……なんて笑えない結末にもなりかねない。

「時に。茨木童子から話は聞いていますね、マスター」
「……あれ、知ってたのか。僕はてっきり茨木はあんたのとこには行かなかったものとばかり」
「来ましたよ。私の『我はすべて毒あるもの、害あるものを絶つ』相手に分が悪いと見るや否や、そそくさと逃げていきましたが」

 ……うん、清々しいほどに茨木らしいや。
 そういやあの子仕切り直しのスキルとか持ってたしな。
 傷病英霊の世界から逃げ出すなんて離れ業も可能だったんだろう。

「彼女の話はさておき、私で傷病英霊は最後です」
「らしいね」
「あなたたちが倒すべき敵はあと一体。最上階、院長室で待ち受ける【英霊病棟のルーラー】」

 黒幕はルーラーなのか。
 尚更一筋縄ではいかなそうで僕はげんなりする。
 なんでろくでもないやつがルーラーになれるんだよ、ジャンヌや天草を見習えってんだ。

「実を言うと私も茨木童子と同じように、当初は病みに抵抗出来ていました。
 どの傷病英霊よりも早くこの病棟に呼び寄せられていた私は、真っ先にルーラーを治療しに向かったのです」
「……それで、どうなったんだ?」
「さっきまでの様を見ればおわかりでしょう。
 あのルーラーは私を破り、弱らせて病みの中に叩き落とした」
「……」

 ナイチンゲールは間違いなく、サーヴァント全体で見ても強力な方に部類される一騎だ。
 その宝具もさることながら、素の肉体性能もかなり高い。
 そんな彼女がルーラーに敗れた。
 病みに抵抗できない段階にまで、痛めつけられたのだという。

「【彼女】はルーラーの基本スキルを持たない異端です。
 ただしその代わり、キャスタークラスと見紛うほど強力な陣地の中にいる」

 神明裁決だとか真名看破だとか、あのへんのスキルを持たないってことか。
 普通それはルーラーを相手取る上では嬉しい情報のはずだけど、どうやらそうじゃない。
 ナイチンゲールの言う【代わり】の陣地は、余程強力なもののようだ。

「私もあまり多くを引き出せたわけではありません。ですがひとつ、確実に言えることが存在します」
「……それは?」

 ごくりと唾を呑み込む僕に。
 ナイチンゲールは重々しく言った。

「あの少女は病人です」

 僕らにとって希望となる情報を。
 ルーラーは病んでいると、鋼の看護婦は断言した。
 何かの間違いだとか誤解だとか、そんなことはありえない。
 くどいようだが、彼女はナイチンゲールなのだ。
 説得力なんて、これだけで十分すぎる。

「……くれぐれもお気をつけて、マスター。そしてお願いです。私の代わりに、あの少女に適切な処置を施してあげてほしい」
「……わかったよ」
「それと――」

 そう言ってナイチンゲールはナーサリーの方に目を向けた。
 ……今回はやけに口数が少ないな、あいつ。
 そんなことを思いながら続く言葉を待っていた僕だが、何故かナイチンゲールは静かに目を閉じて首を振る。

「どうしたんだ?」
「いえ、何でもありません。私の勘違いだったようです」

 言うや否や、ナイチンゲールの体が粒になってほどけ始める。
 消滅が始まったらしい。彼女は茨木と同じくカルデアのサーヴァントなので、座ではなくあっちに帰ることになるはずだ。
 だから悲しくはなかったが、使命感はあった。
 この人に託されたんだから、成し遂げなくちゃいけない。
 ルーラーを倒す。いや……治す。
 それが僕らの、最後のミッション。

「ご武運を」

 ナイチンゲールが消滅して、世界は光と共に無機質なそれに戻った。
 手術室の壁に凭れかかると力が抜ける。
 ナーサリーが僕の方に慌てた様子で駆けてきた。

「お兄ちゃん! どこかいたいの……?」
「いや、大丈夫。ただちょっと疲れたな、流石に少し休んでいきたい」
「もちろんいいよ。お兄ちゃんがよくなるまで、あたしも休むから」

 ちら、と僕はその胸元を見た。
 もちろんいかがわしい意味ではない。
 そこに血や穴がないかを確認したかったのだ。
 だってこの少女はさっき、心臓を貫かれたんだから。
 あれは絶対に、幻なんかじゃなかった。現実だった。
 なのに――ナーサリーは平然と復活して、こうして存在を続けてる。

「さっきはやけに静かだったな。君の方こそ怪我とかしてるんじゃないのか」
「ううん、そういうのじゃないよ。ただあたし、お医者さんが嫌いだから」

 もちろん種はあるはずだ。
 きっと、これまでに見せていなかった宝具かスキル。
 効果の大きさからするに前者だろうか。
 霊核が破壊されて即死しても即座に復活できる規格外の宝具。
 そう考えれば、さっきのあれも不思議なことではない。
 トリックのあるマジックだ。

「子供らしいじゃん。じゃあ君にとって此処はあまりいたくない場所ってわけだ」
「そうだね。けどあたしは、此処のみんなをたすけてあげなくちゃいけないから」

 だから頑張れるんだよと少女は胸を張る。
 医者が嫌いとこの子は言った。病院もまた然りらしい。
 僕がエジソンとの戦いで垣間見た、規則性の薄い謎の映像。
 そしてベッドの上に横たわる、ノイズに覆われた人影らしきもの。
 あれはやっぱり、この子だったんだろう。
 サーヴァントのマスターは夢を通じてその人物の記憶を垣間見ることがある。僕も経験済だ。
 あの時見たものもまた、それなのだと僕は理解する。

「そっか」

 問いかけられなかった言葉がある。
 ナーサリー・ライム。白ドレスの君。
 心の痛みをお菓子に変えて取り除く優しい女の子。

 君は、全部を救ったあとどこに行くんだ?
 質問は口から出てくれず。僕らは最後の休憩時間を静寂の中、過ごした。
 第五の傷病英霊、消滅。
 【手術室】(Operationssaal)、閉鎖。

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最終更新:2018年04月23日 02:32