【霊安室】、クリスマスのサーヴァント。
【精神病棟】、トーマス・アルバ・エジソン。
【無菌室】、カーミラ。茨木童子。
【手術室】、フローレンス・ナイチンゲール。
僕らは全ての傷病英霊を退院させて、英霊病棟を消灯させた。
残るは最上階、この趣味の悪い病院を設計した黒幕を倒して……もとい治して帰るだけだ。
休憩を終え、僕とナーサリーはいよいよ最上階への階段を登り始める。
……思えばこの子と出会ってからまだ三、四時間くらいしか経っていないのか。
時間、いくら何でも濃密すぎる。スケジュールがすごいのなんのって。
「最後はルーラーか」
ナイチンゲールを倒し、ついには病ませた【仕掛け人】。
ルーラーでありながら基本スキルを持たず、代わりにキャスター並の陣地を拵えているのだとか。
百パーセント厄介な敵になりそうだが、しかし希望はある。
それはナイチンゲールいわく、ルーラーもまた病人だということ。
「治してあげましょ、お兄ちゃん。こんな悲しい病院をつくった人なんだもの」
「……そうだな。あの婦長に治してって頼まれたんだ。失敗した日には何をされるかわかったもんじゃない」
この特異点は病院を名乗っていながらどこより病的だ。
英霊たちの弱い部分・不安定な部分に病みの種を埋め込んで狂乱させる。
その行為にまず何の意味があるのかも未だわからないままだ。
何が目的かは知らないが、確かにこんなことをしでかせるやつは病んでいても何らおかしくない。
そうじゃなく、純粋な悪意でやっているんだとしたら……それは間違いなく手に負えないだろうけど。
「しっかし」
はー、と僕は嘆息する。
これはルーラー戦を憂鬱に思ってこぼしたものではない。
此処を出たその後のことを思ってこぼしたものだ。
「あのなナーサリー、僕は知ってるんだ。
こういうアクシデントに巻き込まれて命からがら生還しても、大体一週間もすると変な特異点に行く羽目になるんだよ」
「ふふ。お兄ちゃんのまわりには、いつも楽しいことがいっぱいなんだね」
「楽しいもんか。気の狂ったようなイベントで命を落としかける僕の身にもなってくれ」
カルデアのマスターが攻略しなきゃいけないのは何も亜種特異点だけじゃない。
特異点はものすごく簡単にさらっとふわっと発生するから、度々修復のお勤めが入るのだ。
自分がせめて二人くらいに増えてくれたらなと思ったことは一度や二度ではない。
我ながら毎度よくやってるなとちょっと自分を褒めてやりたくなる。
「ううん、すごく楽しそう。だってお兄ちゃん、笑ってるもの」
「……僕が?」
マジか。
それめっちゃ恥ずかしくないか?
などと思いながら自分の顔をペタペタ触る僕を見て、ナーサリー・ライムはくすくす笑った。
「楽しいのは好き。あたしも行ってみたいな、お兄ちゃんのカルデアに」
「多分来ることになると思うけどな。今までのパターン的に」
こう何度も騒動に巻き込まれてるとパターンってものがわかってくる。
今回みたいな特異点やイベントで現れた助っ人サーヴァントは、大体事の収拾をつけるとカルデアにやって来るのがお決まりだ。
というか実際、こいつがカルデアに来てくれたら捗る場面は多そうだなとふと思った。
特異点に召喚された英霊の中にも、病んだ感じのやつって今まで結構いたし。
「そっかあ。うふふ」
僕の言葉に嬉しそうに口笛を吹くナーサリー。
足取り軽やかな彼女に続くように僕も階段を登る。
程なく、最上階が見えてきた。
今更緊張も何もない。さっさと治す。ついでに今までのサーヴァントのぶんをぶちかます。
それで終わりだ。英霊病棟の修復はあとほんの一手で完了する。
「院長室って言ってたな、婦長は」
ラスボスのいる階だってのに廊下の感じは今までと何も変わらない。
部屋数は病院らしくたくさんあるが、用があるのは院長室だ。
今回は相手が傷病英霊ではないから赤いプレートさんの威光(文字通りの)には頼れないが、それでも歩いていれば見つかるだろう。
そうやって歩くこと三十秒。ナーサリーが一つの扉の前で立ち止まった。
扉の上には、光っていない白のプレート。
そこに記されているのは言うまでもなくドイツ語。
【Büro des Direktors】――院長室。
「最後だね、お兄ちゃん」
「ああ。最後だな」
扉にそっと手をかける。
そこにまたナーサリー・ライムが小さな手を重ねた。
これで本当に最後の戦い、最後の治療だ。
この長いようで短かった夜の冒険も終わる。
「いくぞ」
僕らは扉を押し開けた。
その瞬間――鼻いっぱいに植物の香りが満ちる。
最後の部屋は床も天井もすべて、異常な数の茨の蔦で覆われていた。
▼ ▼ ▼
「なんだこれ」
「つぼみはあるけど、お花はないみたい」
此処では転んだだけで大怪我だ。
なんて傍迷惑な部屋なんだと毒づく僕とは裏腹に、ナーサリーは子供らしい観察眼でこの茨たちが持つ特徴に気が付いていた。
茨どもは蕾をたくさんつけているが、一つとして花が咲いていない。
全部同じ状態にまで育った蕾があるだけだ。
まるで蕾になった途端、眠りこけて成長を忘れてしまったみたいに。
「意外と早いご到着ですわね。
茨木童子のつまらない反抗もあながち無駄ではなかった、ということでしょうか」
そんなおよそ人が暮らせるとは思えない部屋の奥に、安楽椅子に座った少女がいた。
ゆるい金髪の縦ロールに、とびきりの質の生地で編まれた黄緑のドレス。
この手の人物の例に漏れず顔もとんでもない美少女だったが、その両目は閉ざされて開く様子を見せない。
「……あんたが黒幕で合ってるな?」
「黒幕……などと呼ばれるのは心外ですが、あなた様の立場からするとそうなるでしょうね」
口元を緩めて茨の少女……英霊病棟のルーラーは自らが事の元凶であることを認めた。
今のところ、特にこれといって鬼気迫ったヤバさは感じられない。
けれど拍子抜けして警戒を緩めるほど僕もバカじゃない。
忘れるな。このどこかふわふわとした少女が、あの趣味の悪い傷病英霊を作り上げたんだぞ。
「わたくしは英霊病棟のルーラー。
真名を【いばら姫】と申します。
本名ではないのですが、通りがいいのはこちらでしょうし、こちらで名乗らせていただきますね」
「……いいのか、そんな簡単に教えて?」
「ええ。知られたからどうということもありませんから、わたくしは」
いばら姫。
歴史に疎い僕でも知っている。
いばら姫は童話の中の登場人物だ。
流石に【不思議の国のアリス】なんかには負けるだろうが、それでもかなり知名度の高いお話といっていいだろう。
「で。あんたはなんだってこんな真似をしたんだよ。
正直もっとイッちゃった感じのやつが出てくると思ってたぞ、それくらいこの病院は悪趣味だった」
「無理もありません。わたくしも心が痛かったです、変質した彼らを見るのは……」
どの口がそんなことを言うんだよと思って睨みつけた時、僕は心底驚いた。
ルーラー……いばら姫の閉じられた目の端に光るものが滲んでいたからだ。
嘘泣きの顔にはとても見えない。
どうやら今こいつが口にしたのは、嘘偽りのない本心であるらしかった。
「ですがあの五人の存在はわたくしの計画に不可欠でした。
孤独。憤怒。潔癖。狂気。悔恨。彼らに植え付けたのは、実のところ病などではないのです」
病ではない。
僕はその先を促すしか出来なかった。
わからない。この女の言いたいことが、さっぱり見えてこない。
「あれはね、悪夢なのですよ。
パラノイアの一種ではありますが、元を辿れば彼らの精神から生まれ出たもの。
幸せな眠りを唯一冒し得る、にっくき病原菌です」
確かに、傷病英霊達と戦う空間はいつも現実離れしたものだった。
一番それが顕著だったのはエジソンだろう。神話の一風景かってくらいの壮大さが、彼の世界にはあった。
夢の中では世界の理は無視される。
そう考えると……なるほど確かに辻褄の合う話ではあった。
「時に、この空間は先人に倣って聖杯を用い作っているのですが……わたくしが手に入れた願望器はかなりの粗悪品でしてね。
普通に運用したなら、せいぜい国をひとつ揺るがせるくらいの効き目しか発揮することが出来なかったのです」
「十分だろうが」
「いいえ、足りないにも程がありましてよ。
わたくしは全人類の救済を成し遂げたいというのに、それがどうして、世界のたった一国ぽっち救っただけで満足せねばならないというのですか」
……全人類の救済。
またとんでもなくでかいワードが飛び出してきたな。
しかしやっぱり話はいまいち繋がらないままだ。
サーヴァントに悪夢を見せること、聖杯が粗悪品なこと、人類を救いたいこと。
後ろ二つはいいとして、最初のキーワードがどうやっても他と結び付かないぞ。
「そこでわたくしは考えました。聖杯を本来の性能で使えるように、優れた【炉心】を用意しようと」
「……【炉心】?」
「サーヴァントをひとり召喚して眠らせたのですよ。わたくしの宝具でちょちょいと」
話が、ようやく見えてきた。
眉間に皺が寄っていくのが自分でもわかる。
「五人分の悪夢を常に流し込み、強制的にパラノイア状態を発生させました。
此処は病みが深ければ深いほど強くなれる世界ですから、英霊五人の悪夢に本人のそれも重ねた病理幻想は申し分ない働きをしてくれましたよ。
いえ、してくれていますよ。こうしている今も」
「そうかよ」
わかっちゃいた。
わかっちゃいたけど――こいつ、どうしようもない。
何が最悪って、本人に悪意は一切ないところだ。
こいつは悪意なしに、純粋な善意だけでこの病棟を作った。
【炉心】のサーヴァントに悪夢を見せるためだけに五人を道具にした。
【炉心】は五人が解放された今も悪夢を見ている。
聖杯の動作を補助出来る良質な病理幻想を供給するために、眠らされている。
「そう怖い顔をしないでくださいませ、藤丸立香さん。
わたくしはただ人を救いたいだけ。皆にやすらぎを与えたいだけなのです」
「ぜひとも聞かせてほしいな。どうやって、あんたは世界を救うつもりなんだ」
「全人類を眠らせます」
…………、……………………は?
僕の口から、素でそんな声が漏れた。
いや、声にすらなっていなかったと思う。
あまりにも意味不明すぎて、予想の斜め上すぎて……声のように聞こえなくもない、間抜けな音を発するしか出来なかった。
「全人類を、全生物を、恒久的に眠らせます。
正しくはわたくしの宝具を聖杯で何万倍にも増幅し、世界中に適用するという感じになりますね。
ああご心配なく。わたくしの与える眠りは、覚めるまでその命を決して傷付けさせません。
寿命も病気も災害もない。おまけに覚めない眠り。わたくしが体験した至福を、皆さんにもおすそ分けしようというのです」
「……っ! あんた、おまえ、それ、本気で……っ」
「本気ですわよ? 人類は眠りに落ちて、ただ幸せな夢だけを見て永遠に救われるのです」
これ以上の救済がどこにありましょうか。
うっとりとした声色でいばら姫は言う。
僕は背筋に鳥肌を立てながら、確信していた。
ダメだ。この女だけは、ダメだ。
この女を止めなきゃ、何もかもが全部終わってしまう!
「悪夢なんて無粋な概念はオミットします。
この病棟であなた様が破ってきた病みが、地上最後の悪夢になる」
「……どこ?」
会話している時間さえ惜しい。
やるぞ、とナーサリーに戦闘開始の合図をしかけたその時だった。
白と水色の色彩を持つ童話少女が、いつになく硬い声でいばら姫に問いかけたのは。
「【あの子】はどこにいるの?」
【あの子】。
ナーサリーの口からそんな言葉を聞いたのはこれが初めてだ。
だが、誰のことを言っているのかはわかる。
多分、【炉心】のサーヴァントのことを言っているんだろう。
僕には何も知らないって言ってたけれど――やっぱりあれは嘘だったらしい。
さしもの僕も、薄々勘付いてはいたけどさ。
「そうでした! わたくしには一つ最大の誤算があったのです。
傷病英霊の暴走なんて軽く思えてしまうくらいの【予定外】が」
「こたえて!」
砂糖菓子の剣を突きつけるナーサリーといばら姫の視線が交錯する。
ナーサリーは明らかに怒っていて。
いばら姫は相変わらず、安らいだ顔で笑っていた。
「心配せずとも、この向こうにいますよ。あの子は――」
言われて僕は目を凝らす。
すると確かに安楽椅子の背後、茨の壁の向こうにうっすらと人のようなシルエットが見えた。
ナーサリーが砂糖菓子の剣を振るって、壁の一部を吹き飛ばす。
それによって【炉心】がどんな姿をしているのかはわかるようになったが――僕は、息を呑んだ。
そしてナーサリーと【炉心】を、何度も交互に見つめた。
「――【誰かの為の物語】は」
【炉心】のサーヴァントは、ナーサリー・ライムと瓜二つだった。
いや、瓜二つなんてものじゃない。これは、同じだ。
服装の細部やカラーは違う。でも顔立ちや体格はすべて全く同じ。
鏡に合わせたみたいに、一致している。
「驚きたいのはわたくしの方ですわよ? 藤丸立香さん。
ナーサリー・ライムは確かに此処にいる。なのにあなた様は確かにナーサリー・ライムと一緒に此処までやって来た。
その子は一体誰なのです? 病を吹き飛ばすという、【ご都合主義】が過ぎる宝具を携えたその子は」
僕は答えられない。
そんな僕に、ナーサリー・ライムは寂しげに笑って言う。
「ごめんね、お兄ちゃん。あたし、お兄ちゃんに言ってないことがたくさんあるの」
「そんな顔しなくてもいいよ、僕も薄々は気付いてたから」
「……やっぱり、お兄ちゃんは優しいな。あの人とはちょっと違う、優しいひと」
ナーサリー・ライム、もとい【白ドレスのナーサリー・ライム】は何か隠している。
そのことに気付いていたというのは本当だ。
ただ、その詳細については自慢じゃないが何もわからない。
だってそうだろ、こんなことになるのをもし予想出来たらそいつは知恵者どころかただの妄想癖持ちだ。
黒いナーサリー・ライムと白いナーサリー・ライム。
【炉心】のナーサリー・ライムと【ご都合主義】のナーサリー・ライム。
……どちらだとしても、今やるべきことはひとつ。
そしてそれは――ナーサリー・ライムの真実を知ることではない。
「僕はあのゆるふわ女子を意地でも止める。【カルデアのマスター】としてだ。
けど【藤丸立香】としては……今まで一緒にやって来たサーヴァントの望みを叶えてやりたいって思ってる」
ぽん、とその帽子に手を置いて左右に動かす。
こういうのはあまり得意じゃないんだけどな、くそ。
僕は椅子に座ったまま動かないいばら姫を睨みつけ、指差した。
「そして運のいいことに、今、僕は両方の願いをいっぺんに叶えられる」
どんな真実が明かされようが、すべては手術室を出た時から何一つ変わっちゃいないんだ。
僕らは英霊病棟を、この悲しくて悪趣味な病院を終わらせるために歩いてきた。
それを完遂するだけ。それだけが、僕とこいつの最後の仕事。
「いっしょに戦ってくれるのね、お兄ちゃん……いや」
「ああ。やるぞ、【ナーサリー・ライム】」
「ううん――【マスター】!」
最終決戦だ。
王子様のキスが来なくて待ちくたびれたのか知らないが、夢から引きずり出してやる。
「残念ですわ。あなた様はナイチンゲールとは違って、わたくしの想いを理解してくれると思ったのに」
「ほざけいばら姫。お前に世界は救わせない」
たまには世界の敵ってのも悪くないな。
僕は蛇のように波打つ茨どもを見ながら、そんな感想を抱いた。
▼ ▼ ▼
真名判明
英霊病棟のルーラー 真名 いばら姫
▼ ▼ ▼
「跳ねなさい、永き眠りの王」
老婆の呪いによって眠りに落ちたいばら姫のユッセ城。
そこに踏み入ろうとした者はすべて、網のような茨の壁に阻まれて落命したという。
まるでその下りを再現するように、複雑に絡み合った茨の蔦が僕らを襲う。
もし指先にでも絡みついたなら最後、たちまち全身を茨が絡め取り、童話の中の犠牲者たちの後を追う羽目になるだろう。
「【あの子】にひどいことするなんて、ぜったい許さないんだから!」
それすら砂糖菓子の剣は苦もなく切り裂く。
茨の鞭を、地面から伸びた剣山を、剣のように振り下ろされるものもすべて。
その姿はこれまでのどの戦いより勇猛果敢なものだった。
それもそのはずだ。
今、童話少女は怒っている。
【炉心】のサーヴァント、もうひとりのナーサリー・ライムに非道を働くいばら姫に激怒している。
怒りは知的生命体の最大の原動力だ。
「なにぶん箱入りでしたから、ケンカは苦手なのです。近付く前に終わらせてしまいますね」
次は嵐だった。
【炉心】と僕らを隔てる茨の壁の表層が、鏃のように迫ってくる。
何百、何千という数のそれは間違いなくいばら姫の全力で。
しかしナーサリー・ライムは、それを。
「じゃまよ」
ただの一撃で吹き飛ばした。
切り裂かれた茨は砂糖に変わって部屋の床を白く染める。
いばら姫は唖然とした様子で、それを見ていた。
「えーと……思ってたより強いのですね? わたくしその、もうちょっとか弱い方を想像していたのですけど……」
「当たり前だろ。あの傷病英霊たちを全員倒したんだぞ、この子は」
正確には全員倒したわけではないが、この際細かいことは置いておく。
目なんか瞑ってるから戦力評価のミスなんて初歩的なことやらかすんだよ、この箱入り娘。
クリスマスの子、エジソン、茨木、ナイチンゲール。全員超のつく強敵だった。
弱いサーヴァントが、あのボスラッシュを越えられるわけがないんだ。
「……今の、全力だったんですよ。実は。一撃で消されちゃいましたけど」
「そうか、じゃあ大人しくやられてくれ」
「そんなああっ」
悲痛な声をあげるいばら姫に、ナーサリーが駆けていく。
砂糖菓子の剣を振りかぶって、何の躊躇もなく。
これはあくまでも治療だ。
病んだ救済願望を全面に押し出した哀れな病人を治すための戦いだ。
それでも、今だけは私情が入ったって誰も咎められない。
思いっきりやってやれ、ナーサリー。
「繰り返す頁のさざなみ、押し返す草のしおり」
茨が溶け始める。
その時、いばら姫の顔が青くなるのが見えた。
明らかな動揺だ。
でも、もう何をするにも遅い。
草の匂いが甘い香りに変わっていく。
幻想を塗り潰して幻想が支配する。
病みをかき消して元の姿を戻す療法幻想。
「――貴方に還す物語!」
砂糖菓子の剣が、いばら姫の胴体を切り裂いた。
ぐらりと揺れるその体。
安楽椅子が大きく後ろに傾く。
かはっと血を吐き出したいばら姫の口が、か細く何かを呟いた。
それは消え入るような声だったが――不思議と。
遠く離れた僕の耳にまで、はっきりと聞こえた。
「呪わしき至福の王権」
「……ぇ、あ……っ!?」
ナーサリー・ライムが崩れ落ちた。
うつ伏せに、突然だ。
いばら姫は血を吐きながらも笑っていた。
その体が金色の粒子に変わる気配は、ない。
そのまま、倒れたナーサリーの背を茨の槍で貫く。
「……嘘だろ?」
ナイチンゲールの時は、必殺の一撃を当てる前に攻撃を入れられた。
それが原因で、ナーサリー・ライムはあの鋼の女に殺されてしまった。
しかし今回は違う。
確かに、病みを殺す一太刀をいばら姫の肉体に叩き込んだはずだ。
ドレスに走った裂け目と、口と傷口から溢れてくる血液がそのことを証明してくれている。
唖然とする僕、立ち上がろうとするナーサリー。
そして、血まみれの口元で笑ういばら姫。
「せっかちは、よくありませんわね。
怒るのも悪い兆候です。心が乱れているから、見落としてしまう」
「ど、ぅ、して……っ」
「そうですね、確かにわたくしはあなた方が言うようにどこか病んでいるのかもしれません。
その砂糖菓子がわたくしの体を切り裂いて、こんなひどい姿に出来たのはきっとそのためでしょう。でもね」
安らいだ顔で安楽椅子をキィキィと揺らすいばら姫はまるで悪魔のように見えた。
僕らに絶望という名の病を突きつける、恐ろしい悪魔に。
「わたくしの病みは、未だあなた方に見せてなどいませんよ?」
自分がどこを病んでいるのかも、いばら姫は自覚しているようだった。
そのしなやかな指がゆっくりと、彼女自身の両目を指す。
いばら姫の瞼は、閉じられたままだ。
「……くそ!!」
僕は叫ぶしかなかった。
そうだ、いばら姫の童話を知っているならおかしいと気付くべきだった!
いばら姫は最後、茨の森に踏み入った王子のキスで目を覚ます。
目を覚ましたいばら姫は王子と結婚し、幸せな人生を送る――それがあの童話の結末だ!
なのにこのいばら姫は今も夢心地。
目を閉じたまま、安らいだまま。
……仕留め時を間違ったのだ、僕らは。
「っ、永久機関……」
「させませんよ?」
でもナーサリーにはまだ奥の手がある。
殺された状態からでも復活してのけた、ご都合主義の究極系のような切り札が。
そんな僕の甘い考えを、いばら姫は笑って切り捨てた。
「うっ、あああああああああ……っ!!」
鳥かごのようにナーサリーを囲う茨。
彼女が恐らく復活を完了した瞬間、鳥かごは鉄の処女と化した。
内側に伸びた鋭い茨の串が、童話少女の全身をめった刺しにする。
「此処はわたくしの寝室ですからね。
あなた様の強さが予想外のものだったのは本当ですが、ナイチンゲールとの戦いで見せた【復活】のことはわたくしも存じ上げていますよ」
「く、ぃー……ん、ず……っ――あ、ぐうううううっ!!」
「大方、自分限定の時間逆行といったところでしょう。
何やらけったいなものをリソースに使っているようですが、消費するものがあるとわかっていれば対策は簡単です」
目を覆いたくなるような光景だった。
ナーサリーが復活するたびに茨が彼女を殺す。
復活すれば殺されるが、復活しなければすべてが終わってしまう。
だから復活するしかない。そして殺されるしか、ない。
「やめろ……!!」
僕はガンドを放つと、それはあっさりといばら姫に命中した。
これなら、と思ってナーサリーに視線を向ける。
その瞬間、三度目の死が彼女を襲った。
いばら姫が笑っている。
「無駄でしてよ。わたくしの寝室……もとい宝具。
『永き眠りの王』は、わたくしが眠っていても為すべきことを為してくれる優れものです。
わたくしの動きを止めたところで何も変わりません」
「……そんなの、ありかよ……ッ!」
「わたくしも心苦しいのですが、皆の幸福のためです。心を鬼にすることにいたしました。
このまま、リソースが尽きるまであなた様のサーヴァントを殺しましょう。もっとも、その時はそう遠くないようですが」
僕は駆け出した。
こんなの見てられるか。
拳を握って、安楽椅子のいばら姫に叩き込む。
……けれど。僕の拳は柔らかい肌に痣すら作れない。
「魔術師としては落第。本当のようですわね。
激情に駆られるあまり、人間とサーヴァントの間に存在する【壁】のことさえ忘れるだなんて」
茨の鞭が僕を打ち据え、蹴飛ばした空き缶みたいに吹き飛ばした。
その間にも、茨の鳥かごはナーサリーを殺し続けている。
やがて、漏れる声は苦悶のそれとは違う……もっと痛ましいものに変わっていた。
「ぅ……っく。い、たい……いたい、痛いっ……!」
嗚咽。泣き声。
僕は英霊が苦痛に耐え兼ねてこんな声を漏らすところを見たことは一度もない。
でも――それもうなずける話だ。
何度も何度も何度も何度も、この一分そこらでナーサリー・ライムは殺された。それはまさに地獄の苦痛だろう。
いばら姫が憐れみを浮かべて、人差し指を少し動かすと……茨の鳥かごがその動作を突然停止する。
……最後にナーサリーの両手足と、胴体の一箇所を貫いて――茨敷きの床に縫い止めた上で。
「かわいそうに。そんな姿を見せられて、心が動かないほどわたくしは人でなしではございません」
死はすぐに訪れるだろう。
だが一瞬ではなかった。
そのわずかな時間で、いばら姫はナーサリー・ライムに語りかける。
「『永久機関・少女帝国』を使わず、すべてを諦めてお眠りなさい」
そうすれば、あなた様は救われる。
もう二度と苦しみに喘ぐことはない。
いばら姫の声に、ナーサリーがどんな表情を浮かべたのか、僕には見えなかった。
鞭に一度打たれたくらいで無様に血を吐いて、何十秒もかけてようやく立ち上がれたような弱い僕には。
砂糖菓子の少女に言葉をかける権利すら、残されちゃいなかった。
――――――そしてまた、少女に死がやってくる――――――
最終更新:2018年04月23日 16:44