『どういうことだ、燕青!』
音割れがするほどにダ・ヴィンチが叫ぶ一方で、マシュが『あ、ありえません……こんな……』と声を震わせている。
当然だろう。眼前に立ち、身に余るはずの大剣を軽々と担ぐその乙女の死は、既に燕青の瞳とカルデアの機材が確認していたのだ。
であるにも関わらず、信じがたいことに……その英霊は今、事情を知らぬ者ならば人畜無害の存在だと錯覚する程に破顔している!
『こちらも機材で確認した身だ……そんな相手から詰め寄られるのは不条理極まりないだろう! 実に不愉快だろう!
だがそれを承知で問わせてもらう! 燕青、これは一体どういうことだ!? 何故あのじゃじゃ馬が! 生きて! ここにいる!?』
「知らん! 俺は確かに殺した! 心臓を潰した感触は、未だこの手に残っている! 奴は確かに死んだ……はずだ……!」
髪をまとめた燕青は大声でこう叫びながら群青色の籠手を魔力で編み、即座に戦闘態勢へと入る。
いつの間にやら風が強くなっていたらしい。籠手に巻き付けられた緋色の衣が、己の存在を主張するかのように激しくはためいていた。
だが、うってかわって燕青の言葉には、いつもの心地よい激しさは纏われていない。
「マスター……我が主よ、どうか……っ」
彼の声に僅かな震えが走る。それを立香は聞き逃さなかった。
生前の主が一番の従者たる彼の言葉を信じずに動く〝さま〟を見たとき、彼はこんな声色で言葉を紡いでいたのだろう。
四大奇書には詳しくない身ではあるが、想像は容易い。故に立香は「待て待て待て。皆まで言うなよ、燕青」と口を挟んだ。
「お前が殺ったって言ってるんなら、ちゃんと殺ったんだろ。疑うもんかよ。なぁ、ケツァ姉」
「ええ。そもそも燕青が私達に嘘をつく理由がないもの! 百歩譲って何か工作を施したとしても、あまりに雑! 彼らしくありません!」
『……だが!』
「解ってる! それじゃ説明がつかないんだろ!? じゃあ、あれだよ……なんか、色々と誤魔化す宝具でも使ったんじゃないか!?
北アメリカでも幻術使いのマーリンがいきなり出てきたじゃんか! もしくはジェロニモさんもビビらせた〝術者〟の仕業とか! どうよ!?」
『…………あり得ない話では、ないが』
「とにかく、今こうなってるのはしょうがないんだ! いつも通り、アッパラパーな俺の代わりにそっちで色々仮説を立てといてくれよ!」
とはいえ、ダ・ヴィンチがここまで狼狽し、燕青に事の次第を問い詰めたくなる気持ちも解る。
というわけで立香は強引に二人の対話を打ち切らせると、
「どうせあれだろ? ヘラクレスの、ほら……十一回までならセーフなやつ! あれだよ、あれみたいなもんだろ、多分!
まぁあいつの場合は、俺の魔力不足のせいでか機能してないけども? ああいう感じなんじゃないか!? いけるいける!」
隠れ家にしていた一軒家が丸ごと吹き飛んだことに改めてどん引きしながら、燕青に声をかけた。
その言葉に燕青は「……恩に着る」と短く返すと、たった一歩の踏み込みで相手の懐へと飛び込み、即座に突きを放った。
狙うは胸部。一切の躊躇も慈悲もない、ただ外部から心臓を潰すことのみに特化した必殺の一撃である。
眼前のバーサーカーではないが、その動きだけで衝撃波が起こりそうだ。
EXランクのスキルにまで昇華された中国拳法は伊達ではない。
「またぁ!?」
だがその一撃は、大剣の腹によって阻まれてしまった。
おかげで、彼女の身体を矢のように吹き飛ばしはしたものの、絶命させるには至っていない。
向かいの一軒家にぶつかった彼女は「あいたたたぁ~」と呟き、睡魔に抗えていない幼児の如くゆっくりと起き上がる。
そして頬をぷくっと膨らませると「もぉ! なんで今日もこんなことするのぉ!? 酷いよぉ~!」と燕青を非難した。
「マスター、聞いたか? あいつ〝また〟っつったぞ」
「ああ。っていうか最初に〝昨日ぶり〟って言ってたし、どう考えても記憶が引き継がれてるやつだな、これ。
マシュ、ダ・ヴィンチちゃん……その上で、ヘラクレスのあれとは違う方法で復活してたとしたら、どう見る?」
乙女に対し〝家一つぶち壊しといて何を……〟と呆れ返った立香は、知恵を借りるために再び通信を開く。
『記憶を引き継いでいるんですよね? ならば再召喚を行い、あらかじめデータ化させた記憶をインストールさせた、とか……?』
『なるほど。敵はホムンクルスを量産出来る上に、彼らには近代的な銃火器を装備させる様な奴だ。
魔術のみに固執せず、科学的なアプローチでもって〝補強〟を重ねている可能性はないとも言い切れない。
それこそ、サーヴァントの現界を電力で補助しているカルデアのようにね。だが、無意味だ。何せ旨みがない』
マシュが立てた仮説を、ダ・ヴィンチは即座に否定した。
『あのバーサーカーは、敗北はおろか死亡までしている。つまりは敵に一歩先を行かれたサーヴァントであるということだ。
そんなものを使い回すなど、愚策の極みだよ。例えば今再びあのアーチャー、アドニスを再召喚したとして……どうなる?』
『……宝具のメカニズムを知られている以上、あの時のように先輩達を出し抜くことはほぼ不可能でしょうね』
『そういうことだ。記憶をインストールさせたところで、不利な状況から脱することなど不可能だ。悪手も悪手だよ。
と、前置きが長くなったが……つまるところ彼女は我々の理解の範疇外にある。憎たらしいが、現段階では下手に口を出せない』
「サンキュー、二人とも。じゃあとりあえず今は……〝別の方法で〟倒した場合どうなるのかも探ってみるわ」
『別の? ああ……なるほどね。危険ではあるが、挑む価値はある』
全てを察したらしいダ・ヴィンチに、立香は「だろ?」と言ってニタリと笑った。
そしてバーサーカーが呑気に背中をさすっている間に、彼は三騎のサーヴァントに「集合ー」と呼びかける。
「ちょいと危険な賭けをしようぜ」
立香は、集まってくれた彼らへと静かに語りかけた。
「マスター役のホムンクルス達が死んだ場合だとどうなるのか確かめたい。燕青か小次郎、どっちでもいい。あいつらを狙えるか?」
この言葉に対し、小次郎は「マスター〝役〟とは?」と問いかけた。反射的に立香は「あっ」と漏らす。
思い返せば、まだ彼には敵のサーヴァントと行動を共にするマスター達の特徴を、何一つ説明していない。
そんな相手に敵マスターの殺害を任せてしまえば、方々から戦下手だと断じられても文句は言えないだろう。
というわけで立香は「じゃあ後で説明するから、悪いけども燕青が行ってくれ」と注文を切り替えた。
燕青は静かに頷くと、切れ長の瞳でバーサーカーを見つめる。今すぐにも相手をしてやる……とでも言わんばかりだ。
フェイクなのだが。
「その間は、ケツァ姉と小次郎でバーサーカーを釘付けにしててくれ。キツい役目だけど、頼んだ」
「ええ。なるべく合わせられるよう善処するわ。頑張りましょうね、小次郎」
「心得た。しかし麗しくも激しい〝お天道様〟と共に戦えるとは、面白いこともあるものよ」
大剣での暴力への対処を意識してか、奇しくもケツァル・コアトルはマカナと盾を騎士のように構え、しっかりと地を踏みしめた。
一方の小次郎はただ前を向き、ただ立っている。だが隙は無い。当然だ。この剣豪は、無形の究極へと辿り着いているのだから。
「じゃあマスター、また後でな」
そして単独行動を命じられた燕青は、この世界そのものに溶け込むかのように姿を消した。
否、消えたのは姿だけではない。気配もだ。声をかけられてすぐであったというのに、もう気配を察知出来なくなっている。
アサシンクラスの気配遮断スキルと、燕青の持つ諜報スキルの融合が成しえたのであろう業に、立香は「ひえー」と舌を巻いた。
仰天したのはバーサーカーも同じようで、目を丸くして「あれ? 逃げちゃった?」などと呑気に呟いている。
おどけるように心中で「半分正解~」と呟いた立香は、即座に「……始めるぞ」と戦闘モードに移行した。
どれほど遠くに至ったのであろうか。
雲一つ無い晴天の下にて、天巧星燕青は屋根から屋根へと跳躍を繰り返しつつ、視界の端から端までを厳重に見回していた。
身体に刻まれた作り物の龍の目には頼れない。故に目を皿にする。
そして自身は気配を隠しながら、一方的に相手の気配を探り続ける。
危険な任務だ。これを長々と続けるというのは、常人には少しばかり荷が重いだろう。
だが暗殺者にカテゴライズされたこの燕青という男は、いかなる経緯があろうとも確固たる英霊である。
故にやってのけられる。やってのけられるのだ。
「……といっても、さすがにこれは大胆が過ぎるかねぇ?」
だが、絶好のひなたぼっこ日和と言っても過言ではない天候状態で、気配遮断の類のみに頼りきって堂々と行動するのはあまりにも愚かだ。
やはり、他ならぬ自分自身が死の瞬間を確認したはずのバーサーカーが再び現れたことで、大なり小なり心が揺さぶられているのだろう。
「……女々しいねぇ」
立香こそ〝お前が言うんならそうなんだろ〟とは言ってくれたものの、やはりかつての〝話を聞かない主〟の姿が頭をよぎってしまう。
もしもこれで任務を全う出来ず、ケツァル・コアトルと佐々木小次郎……そしてマスターを危機に追い込んでしまえば、次はないかもしれない。
過去の出来事が背後から迫り来る中、燕青は焦りを覚えていた。
「っとぉ」
だが急いては事をし損じる。汚名をそそがねばと思うあまりに大胆な行動を続けるのは危険極まりない。
というわけで燕青は空から地へとステージを移すと、すぐさま何の気配のない一軒家へと侵入した。
そして〝あるもの〟を探す。だが見つからない。仕方がないので今度は隣の家に侵入し、探した。
だが、やはり無い。アウトドアが趣味の奴はいないのか……胸中でそんな言葉を吐き捨てた燕青は、続けてはす向かいの家に入った。
先の二軒のように、我が物顔で他人の自宅を物色する。すると遂に、お目当てのものが見つかった。
双眼鏡である。
「さすがに、あったか」
自ら危険地帯に残った一人と二騎を気にかけるあまり、行動が大胆に過ぎた。
そう猛省した燕青は〝文明の利器のお力を借りるとするか〟と、この便利な道具を頼りにしようと考えたのである。
「さて……ブツは手に入ったが……」
そして見事に目当ての品を入手したわけだが、ここで燕青はこの状況を振り返り、ただただ訝しんだ。
狂える乙女との一度目の邂逅、その時のマスター役のホムンクルス達は巻き添えを回避するためか、遠く離れた場所にいた。
ただ、今と比べれば遥かに見通しの良い場所――バーサーカーが暴れたためでもあるが――で出会ったためか、彼らは視認出来る位置にいた。
だが今は違う。燕青自身の主観ではあるが、自分はかなりの距離を移動した。にも関わらず……腹立たしいことに未だ彼らは見つからない。
おかしい。あまりにもおかしすぎる。あの少年兵達は、何をそんなに怖れているのだろうか?
「……怖れている?」
ここまで考えた燕青は、双眼鏡の機構を確かめるために適当に動かしていた指を止めた。
そしてマスター役の少年少女が今何を考えているのか……それを察し、くつくつと笑みを浮かべる。
「そうかそうかぁ。そりゃ、そうだろうなぁ」
前回と今回の状況を比べれば一目瞭然だ。
一度目の出会いでは、マスター役の二人はバーサーカーの背後に控えていた。
それは自身が担当するサーヴァントが、読んで字の如く一直線に相手――即ち燕青達だ――へと向かうだろうと予測出来ていたからだ。
だが二度目は……今回は違う。現在のバーサーカーは、見晴らしがよくない入り組んだ場所で〝ソロ活動〟を満喫している。
恐らくはこれもマスター役が大まかな指示を出した結果なのだろうが、これは実によろしくない。
そう、これは本当に良くない。一度目のように〝最初から見通しの良い場所で戦わせる〟ならば、ある程度の動きは想像出来ただろう。
しかし彼女のソロ活動が行われているあの場所には、家々をはじめとした様々な障害物が鎮座しているばかりか、道自体も入り組んでいる。
そうなればもはや、さしものマスター達も〝バーサーカーがどういう進路を取るのか〟が解らなくなるのは必至。
最初の出会いの時以上に巻き添えを怖れ、遙か彼方にまで離脱しているだろう。
「だが……困るんだよなぁ、そんなことされると」
そうなると、そもそも彼らはこの住宅地にはいないのかもしれない。
それどころか、最初からバーサーカーへの支援を諦め、大統領官邸に潜んでいる可能性すらある。
後者の可能性が的中していれば最悪だが、それでもマスターの提案した賭けに乗った以上は、やれるだけのことをやるしかない。
ならばとすぐさま家を出た燕青は、あのホムンクルス共をじっくりと恐ろしい目に遭わせてやろう……と、双眼鏡を両眼に当てた。
すると、その瞬間である。
「なっ!?」
梁山泊の英雄すら両肩を跳ねさせる……そんな領域にまで足を突っ込んだ爆音が、燕青の耳朶を叩いた。
鼓膜が破れるのではないかと本気で思った。それほどの轟き具合である。
急いで屋根の上へと跳躍した燕青は、音が産まれた方角へと双眼鏡を向ける。
「あのアマ……ッ!」
見れば、燕青の帰りを待っている立香達がいるであろう場所が、粉々に吹き飛ばされていた。
デイジーカッターでも落としたのかよ。相変わらず、ふざけたことを平気でやりやがる……!
燕青は、他人から〝奥歯が破砕するのでは〟と心配されそうな程に歯を噛みしめた。
どうすればいい? 戻るべきか、進むべきか。思わず考え込んだ結果、一寸の間が訪れる。
果たして彼は後者を選んだ。自分は主に信頼され、大事なお役目を託されたのだ。
ならば戻ることなど出来ない。今出来ることは、今すべきことはたった一つ。
任務の遂行……ただそれだけである!
「待ってろよ!」
再び大地を踏んだ燕青は、即座に移動を再開した。
時には慎重にクリアリングを行いながら、時には大胆に疾走しながら、早く賭けを挑めるようにと汗水を垂らす。
シャワーを浴びた直後だというのに、などとは決して言うまい。
流れる汗など幾度でも拭える。だが立香達に流れる紅色の血が搾り取られてしまえば、全てはおしゃかだ。
そしてまさに今、彼らはその鮮血を辺りに飛び散らせる羽目になってしまってもおかしくない場所で、この無頼漢の帰りを待っている!
ならば己がどれだけ乾ききろうとも、ホムンクルス達の……大統領率いる全ての者達に横槍を入れてみせる!
「……よしきたぁ!」
そんな固い決意が功を奏したのだろう。遂に燕青は、双眼鏡越しに白い肌の双子を見つけた。
彼らが潜伏先に選んでいたのは、住宅地から遠く離れた場所にある高級そうな――分譲の類であろう――マンションの一室だ。
少年の方が、窓からはみ出さないように設置された望遠鏡越しに、バーサーカーが暴れている場所を眺めている。
いいご身分だ。心中でそう吐き捨てた燕青は、マンションの出窓などといった出っ張りを足場とし、目当ての部屋へと突貫していった。
その姿たるや、腕も使わずそのまま壁面を駆けているかのようだ。一見すると奇妙な絵面である。
「よぉ、坊主。飯食ったか?」
故に、相手は最期まで気付けなかったらしい。
「まずはお前からだ」
握り締めた拳で、ただただシンプルに突きを放つ。
するとまるで衝突事故を起こした大型車両や電車のように、望遠鏡が先端部から奥に向かって勢いよく潰されていった。
やがて少年の顔面に達したその拳は、見目麗しい少年の美顔を一撃で破砕する。
感慨は無い。ふけっている暇など無い。急いでもう一人を始末する必要があるからだ。
任務達成まで後少し。慢心はしない。焦燥感がないと言えば嘘にはなるが、それも抑えつけてみせる。
とにかく今は少女を殺す! その一心で、燕青は構えを取り直した。
「バーサーカー。令呪をもって命じます」
そう。構えを、取り直す。
中国拳法を極めているが故に、ごく自然に取ったこの行為。
それが、ほんの少しの時間を与えてしまった。
誰に? 無論、ホムンクルスの少女の方に。
「〝ここに来てください〟」
「……あん?」
そして相手が紡いだ言葉によって、一瞬だけではあるが燕青の頭が真っ白になった。
令呪、それは聖杯戦争や聖杯大戦において、サーヴァントに対し機能する強力な枷である。
絶対的な強制力を持つ、実体の無い首輪のようなもの。それこそが令呪。
英霊へと昇華されたことにより、当然ながら燕青の頭にはその知識が叩き込まれている。
だが、叩き込まれたのは知識のみ。
カルデア式の召喚術がそうさせたのか、それともマスターである藤丸立香が〝魔術師としては最底辺〟であったが故か。
自身のマスターに刻まれている令呪は、通常の聖杯戦争で使用されるそれと比べものにならないほどに品質が劣っている。
強い強制力など存在しない。望まぬ戦闘や自害や姦淫などを命ずることも叶わない。
出来ることといえば――これだけでも充分過ぎるまでに有益ではあるのだが――サーヴァントの力をブーストさせる程度。
そして同時に、さながら裏技を思わせる〝別の用途〟のために用いることも不可能なのだ。
知識はあれど経験は無し。このたった一つの事実が、またも少女に時間を与えた。
貴重かつ有益な時間を、またも燕青はプレゼントしてしまったのだ。
「ええ~? いいところだったのにぃ」
燕青の目と鼻の先で、信じられない事象が発生する。
女神と剣豪と主が必死の思いであの場へと釘付けにしていたであろう乙女が……少女から発された簡素な命令一つで眼前へと現れたのだ。
「って、意地悪な入墨さんだぁ! なんでぇ!? もぉう、逃げないでよぉ!」
バーサーカーが大剣を大上段に構えたのを見て、燕青は〝即座に後退せよ〟と己の身体に命令したが、無情にも後れを取る。
直後、敵の得物が振り下ろされた際に発される衝撃と轟音で、彼が発した「待……っ」という中途半端な呟きは容易くかき消された。
もう、何度目になるだろうか。
「燕青よ。どうしたというのだ、その大荷物は」
毛並みの美しい馬に乗った御仁を前に、一番の従者たる〝俺〟は今、静かに跪いている。
何度目になるのか、と疑問を浮かべたものの……苦痛を覚えているというわけではない。
相手は、本当に〝何もなかった〟この俺をここまで育て上げてくれた恩人だ。
苦痛だなどと、何故思おうか。そんな不敬な発想など、今まで一度も浮かびはしなかった。
「他の者達から〝所用で旦那様がしばし砦を離れる〟と聞いたものですから、急ぎ支度を終えた次第です」
「答えになっておらん。私は〝その荷物をかついで何をするつもりだ〟と訊いているのだ。答えよ、燕青。我が一番の従者よ」
「梁山泊を離れれば、謂わば国家の敵である我々への当たりがきつい場所に行き着くこともございましょう。ならば、すべきことはただ一つ」
「護衛や雑事の一切を引き受けるために同行する……と、そう言いたいのだな?」
「はい。お許しになるならば、どこまででも、いつまででも」
開いた左手に右の拳を当て、俺は〝旦那様〟からの問いに答える。
そして許しを得るまで己が顔は上げず、高貴なる御仁……〝玉麒麟〟と謳われた自慢の主からの返答を待つ。
当然ながら自慢の髪は地に着くが、そんなことはどうでもよかった。
「燕青よ、面をあげい」
「はっ」
姿勢を崩さぬまま顔を上げた俺は、猛々しき主のご尊顔をじっと見つめた。
まるで周囲の生物という生物が死に絶えたのかと錯覚するほどの静寂が、俺達を包み込む。
そんな中で〝一言一句聞き逃すまい〟と構えていると、遂に旦那様の唇が動いた。
「残念だが、それはならぬ。この旅路への随伴は決して許さん」
「……旦、那様?」
放たれたのは、あまりにも無情な返答だった。
何故だ? 何故このお方は、こんなことを仰るのだ?
たまに出る例の悪癖が、ここに来て発作のように表に出たとでもいうのだろうか?
端的に言って、理解が追いつかない。
「何故です……?」
「わざわざ言う程のことではない。お前ならば既に察していよう」
「おそれながら、旦那様。私は理解出来ておらぬが故に、このように問わせていただいているのです……!」
立ち上がって旦那様の両肩を掴みたい衝動に駆られるが、それこそ〝ならぬ〟と俺はこらえた。
こらえたが、言葉の震えだけは止められない。心の臓が貫かれたような衝撃に、心がついて行けていない何よりの証左だ。
ふと気付けば、開いていたはずの左手が右の拳を力強く握り締めていた。無意識とは恐ろしいものである。
いや、そんなことなどどうでもいい。
「旦那様の旅路には、想像を絶する七難八苦が待ち構えていることでしょう。私はそのように直感いたしました。
ならば、ただただ呆けて見送るなど、何故出来ましょうか!? お願いいたします、旦那様! ご同行の許可を……!」
「まかりならぬと告げたはずだ! 何故ならばこの旅路は……お前の思うようなものではないからだ」
「おそれながら……意味が解りかねます!」
「ならばすぐに察するであろう。ともかく、此度の遠出は独りで行う。さらばだ、燕青!」
「お待ちください! お話はまだ……旦那様! 後生です! 旦那様……旦那様ぁっ!」
遂に姿勢を崩し、右手を伸ばした俺に目もくれず……旦那様は御自らが操る早馬で遥か彼方へと駆けていった。
旦那様が纏う衣の端にも触れられぬまま空を切った手が憎らしい。
「何が……何がいけないというのですか……っ!」
じんわりと視界が滲みゆく中、俺は虚しく右手を伸ばし続けた。
「……なるほど。そういう、ことかよ」
そして不意に燕青は、自嘲するように笑みを浮かべた。
続いて、つい先刻に何が起きたのかをすぐさま思い出す。
彼はバーサーカーの躊躇無き一撃こそ紙一重で躱していたものの、大剣から発された衝撃波は防げずに終わった。
お邪魔していた部屋とその下の全てが、まるで握りつぶされた豆腐の如くぐちゃぐちゃに崩壊する。
そんな災害じみた事故に巻き込まれてしまった燕青は、最下層のロビーに全身を叩きつけられた……というわけである。
背中から落ちたのか、姿勢は仰向けだ。そして細く締まった右腕は、上へ上へと伸ばされている。
「〝ついて逝くな〟って……わけか……」
気絶するのももう三度目だ。だがあんな夢を見たのは初めてだった。
否、夢などという生やさしいものではない。あれは、あるともしれぬ〝向こう側〟へと片足を突っ込んでいたために見た景色であろう。
その小さな世界で、かつての主はこう言ったのだ。
お前にはまだ梁山泊に残る義務があるのだと。
「入墨さ~ん! 今度は昨日と真逆だね~。あなたが、わたしに見下ろされてる。えへへ、変な感じぃ」
崩壊の影響で視界に入った晴天を見上げていると、憎きバーサーカーが話しかけてきた。
あらゆる残骸で埋め尽くされたフロアに立っている彼女は、倒れ伏したままの燕青へと近付いてくる。
破砕された物体があまりにも多すぎるせいか、随分と歩きづらそうだ。事実、進む速さは亀のようにのろい。
そんな乙女の後ろには、マスター役の少女が控えている。バーサーカーの攻撃に巻き込まれてしまったのか、左腕がまるごと消失していた。
着ている服もぼろぼろで、腹部や太股の辺りが露出している。それでもなお、令呪を宿している右手を守ったのは兵士としての意地か。
ならばこちらもただ一人の侠客として意地を見せるのみ。燕青は激しい衝撃による身体の痺れを無視し、なるだけ早く起き上がろうとする。
だがここで彼は、自身が思っていた以上に絶望的な状況下に置かれていることに気付くこととなる。
「……嘘、だろ」
見れば、左の脇腹から細長い鉄棒が飛び出していた。
高い木の草を食べるキリンのように、天へ天へと伸びている。
恐らく崩落に巻き込まれた結果、誰の介入も無しに刺し穿たれたのだろう。
その現実に気付かされた瞬間、再び意識が途切れかけた。
だが心中で「死ぬぞ!」と叫び、遠のきつつあったそれを強引に引っ張り込む。
「う、ぐ……っ!」
そして〝二人の主〟から賜った命に従うため、
「ぐお……お、おぉ……おおあぁああぁあぁぁぁっ!」
己を地に縛り付けていた楔を両手で握り込み、膂力のみで無理矢理引き抜いた。
傷口から――まるで思い切り蛇口を捻ったかのように――血液が噴き出すのも無視し、燕青は咆吼を上げながら立ち上がる。
「我は天罡星三十六星、その末席に座す者!」
「うわぁ、すごぉい。立てるんだぁ!?」
「侮り、嗤えば、臓腑が腐るぞ! しかと頭に叩き込め!」
そして啖呵を切り、真っ赤に塗られた鉄の棒をバーサーカーへと投擲すると、瓦礫だらけの床をすぐさま蹴った。
槍にも似た無骨な物体と燕青が、ほぼ同時に乙女へと接近する。
まずは大剣の一振りによって切断された棒が、回転しながら中空へとはね飛ばされた。
二本に増えたそれらは比較的無事であった天井へと刺さり、氷柱のようにぶら下がる。
いよいよ次は燕青の番だ。再び大剣が向かってくる。相手は神速の突きでもって一気に仕留める腹づもりだろう。
だが、
「言ったはずだ! アンタは黒旋風未満の大馬鹿者だと!」
燕青は跳躍し、その一撃を回避すると……左手をバーサーカーの頭部へと添えた。
そしてうっかり潰してしまわない程度に力を込めると、その反動を駆使して身体を槍のように直進させた。
その先に立っているのは、片腕を失い疲弊しているホムンクルスの少女だ!
未だ止まらぬ鮮血が、テールライトのように軌跡を描く!
「己の主が何を求めているのか……そんなもの、簡単に理解出来る状況であったのにな」
果たして必死の思いで突きだした右腕は、少女の胸を容赦も遠慮もなく貫いた。
その勢いのまま掴んだ彼女の心臓を体外へと引き抜き、まだビクビクと蠢くそれを力強く握りつぶす。
すると青い目を開ききったまま絶命したらしい少女の手の甲から、五画分の令呪が消失した。
これにてマスター殺しはようやく完了……任務達成である。
「えぇ~!? そういうことだったのぉ!? ずるぅい!」
だが、金色の塵と化していくバーサーカーの気力は未だに有り余っていた。
マスターが死を迎えたことで、既に左腕は金の粒子となって消え去っているというのに、彼女は燕青のもとへと一直線に向かってきたのだ。
彼女が右手に握るは、もはやお馴染みとなったえげつない大剣。さすが、狂戦士のクラスは伊達ではない。
一方の燕青はあまりにも血を流しすぎたためか、立っているのがやっとといった状態だ。今度こそ、完全な回避は不可能だろう。
「アンタのとこのセイバーに、教えてやったことがある……」
だが、彼は愉悦を覚えたかのように口角を上げる。
「撃其首則尾至、撃其尾則首至、撃其中則首尾倶至……常山に住む蛇には隙がない。
何故ならば、首を撃てば尾が迫り、尾を撃てば首が迫り、胴を撃てば首と尾が同時に迫り来るからだ」
「何それぇ! よくわかんなぁい!」
「で、だ……実はな……」
大剣を構え、いよいよ最期の力でもって燕青を斬り捨てようかという状態のバーサーカー。
そんな彼女の後ろへと視線を移し、燕青は言葉を続けた。
「ケツァル・コアトルとは、曰く〝羽毛持つ蛇〟を意味する名前らしい」
その直後、突如としてバーサーカーは動きを止めた。否……強制的に止められてしまった。
彼女の右腕が、背後から現れた何者かの左脇によって後方に抑えつけられ、同時に左足が覚えのある〝褐色の左足〟に引っかけられたためだ。
挙句の果てには引き締まった長い腕によって首を抱え込まれてしまうというおまけつき。抵抗しようにも、左腕が消失していてはもはや不可能だ。
そう……プロレスに縁が無い者でも名前だけなら知っているであろう有名な大技、コブラツイストが見事に決まったのである!
「安心して、バーサーカー! 死因になるようなティラブソンではないわ! あとほんのちょっと力を加えない限りは……ねっ!」
「い……っ、あっ! 痛い! 痛い痛い痛い! 痛いよぉ! やめて! やめてぇ!」
「ふむ、状況からして主殿の賭けは命中。更にこの狂戦士の状態を見るに、マスター殺しも一つの選択肢となるわけだ。ご苦労だった、浪子殿」
「おい! 燕青! 大丈夫か!? いや、全然大丈夫じゃないな! よし、治療するから寝転がれ! すぐやるから! 早く! ほら!」
立香の指示に従った燕青は、再び仰向けの姿勢になった。
そしてカルデア制服の力による治療を受けながら、消えゆくバーサーカーを見守り続ける。
「悔しいよぉ……うぅ……次は絶対勝つからぁ……っ!」
やがて彼女は、蛇の名を冠する技によって自由を奪われたまま、涙目でこの場から姿を消した。
最後の最後まで技を決めっぱなしだったせいで、ケツァル・コアトルはたたらを踏んですっ転ぶ。
幸い、大事には至らなかった。
「おいマスター……次は勝つ、だとよ……」
「ああ、聞こえてる。本人を殺ってもマスターを殺ってもそう言えるってことは……」
『どういったカラクリであれ……また記憶を保持したまま現界するというわけだ』
「だな。ダ・ヴィンチちゃん、そんな反則を平気でやれる英雄とか有名人を見つけたら、マジですぐに連絡よろしく!」
『承知している。だから今は燕青の治療に集中してやってくれ!』
『燕青さん! どうか気をしっかり持ってくださいね!』
マシュからの励ましに、燕青は「よしきたぁ……」と冗談めかして笑う。
心配しなくとも、まだ自分はサーヴァントとして生き続けるつもりだ。
少なくとも、こんな中途半端なところで、今は亡き〝旦那様〟の隣へと駆け寄るつもりなど微塵もない。
燕青は、死の淵に見た風景の中で空を切った自身の右手を、強く強く握り締めるのであった。
最終更新:2018年06月27日 20:32