ヘット・アハターハウス。
キャスターに案内されて向かった家は薄暗い裏路地にあった。
豪邸と呼んでは言いすぎだが、庶民の邸宅にしてはかなり上等。赤煉瓦の塀が特徴的な二階建ての建築だ。
「これ、家の中を虱潰しに漁られたらまずいんじゃないのか」
「そこは抜かりないよ。あたしの宝具で覆ってあるから、当分の間は認識すら出来ないはず。
あなたたちが普通に認識出来てるのは、あなたたちもあたしの宝具の効果を受けてるからだね」
キャスターの宝具はずいぶんと便利な代物らしい。
最初、僕らが彼女の姿をそれこそ認識すら出来なかったことから察するに、アサシンの気配遮断みたいな状態を作り出す宝具なんだろうか。
などと考えながらアハターハウスの中へ通されて、初めに僕の耳を叩いたのは罵声だった。
「ユダヤの娘め、またノコノコと帰ってきたのか!」
「お前らのせいで……お前らのせいでこんなことになってるのに! 善人面しやがって!」
おいおい、助けられといてなんて言い草だこいつら。
そう思ったが、この時代に一体何が行われていたのかを思い出すと胸糞悪いが彼らの言動は理解出来る。
ナチスドイツの悪行の代表。ユダヤ人の弾圧、収容、虐殺。
国をあげて行われた迫害は国民へユダヤに対するヒステリックな感情を植え付けた。
つまりこいつらはこう考えているわけだ。
自分たちが虐殺の標的になっているのは、ひとえにユダヤ人のとばっちりなのだと。
ユダヤ人という虐げられるべき存在があるからこそ、狂った【総統】はしっちゃかめっちゃかな虐殺を行うようになったのだと。
とりあえず理解は出来た。納得は出来そうにないが、今はぐっと我慢する。アハターハウスの中に揉め事を生むわけにはいかない。
「ごめんね騒がしくて。こっちだよ」
あはは、と力なく笑ってキャスターは僕らを先導し、応接間へと案内してくれる。
サンソンもナーサリーも「痛ましいものを見た」というような顔をしていた。
僕は促された通りソファに腰掛けて、溜息をついてから彼女に聞いてみる。
「いいのか、言わせといて。反論する権利くらいはあると思うぞ」
「あたしだって本当は言い返したいし、一人一回蹴っ飛ばしてやりたいよ!
……でも今はダメ。もし今アハターハウスから飛び出したりされたら、あたしには守り切れる自信がないから」
ご立腹! という風に鼻を鳴らしてから、キャスターは困ったような顔をする。
怒るのではなく今は堪える。正しい判断だ。今この状況で波風を立てればこの隠れ家は容易く崩壊する。
キャスターの宝具もそこまで万能ではないのだろう。
全員にバラバラになられたら、すべてを救うことは出来ない。だから今は我慢する、というわけだ。
利口で強い子だと思った。僕がもし同じ立場だったとして、果たして彼女と同じ考えが出来るかどうか。
「あんな連中どうなってもいい」と思わないかどうか、ちょっと自信がない。
キャスターは「それにね」と続ける。
「あの虐殺が本当はあたしたちを標的にしてるってのは、多分正しいと思うんだよ。
あたしたちは国が認めた【そういうことをしてもいい人たち】だったから――むかつくけど、あの人たちだけを責めることは出来ない。
あくまで憎むべきは国。怒りをぶつけるべきは狂った【総統】ってね」
「……嫌な時代だ。ひとつの国が全部、熱病に呑まれてしまっているのか」
吐き捨てるのは、陰惨なフランス革命を経験したサンソンだ。
独裁の末に狂ってしまったこのドイツに思うところがあるのだろう。
マクシミリアン・ロベスピエールは次々と人に罪状を突き付けてはギロチンへ送っていった。
革命に踊らされた国民はそれを賛美し、致命的にボタンをかけ違えていった。まさに、熱病に冒されたように。
ひとつの国が丸ごと病む。そういうことが、この人類史では往々にして起こり得るのだ。
「あの人たち、とても哀しい目をしていたわ。
何か大事なものを忘れてしまった、哀しい目よ」
「うん、あの人たちもある意味では被害者なんだよ。
だからあんまり引きずらないようにしてるんだ、あたし。自分がされて嫌なことは人にするな、ってよく言うでしょ?」
罪を憎んで人を憎まずとはちょっと違うけど、立派なやつだ。もちろんこれは皮肉じゃない。
「さて、暗い話は一旦やめにして……まあ明るい話なんてないんだけど、お待ちかねの説明タイムと行こうかな。何が聞きたい?」
ぱんと手を叩いて話題を切り替えるキャスター。
僕らとしても、こういうどうにもならないタイプの暗い話をいつまでもしていると気が滅入ってくる。
今はどうにか出来る方の暗い話を聞いて、あれこれ考えなければ。
……それはそうと、僕が最初に質問することはアハターハウスに入る前から決まっていた。
「まずは君のことを聞かせてくれ」
「わっ、見かけによらず大胆だねあなた」
「喧嘩売ってんのか。そうじゃなくて、君の宝具の話とか……話せるなら真名のこととかだよ。戦力は把握しておきたい」
とはいえ後半についてはもうほぼ見当がついている。
ナチスと因縁のある少女で、ユダヤ人で、【後ろの家】。
おまけに宝具は人や家を敵から隠すものと来た。
これだけ条件が出揃えば小学生でも推理出来る。
……何せこいつは、僕の予想が正しければ相当有名な本の著者だ。
本、というとちょっと語弊があるかもしれない。正確には――ある【日記】の著者。
「冗談冗談。えっとね、あたしはアンネっていいます」
――ナチスドイツはユダヤ人を徹底的に迫害し、政策としてその絶滅を掲げた。
それに老若男女の区別はなかった。
虐殺、虐殺、虐殺、虐殺。
あの時代のドイツで収容と死はほぼ同じ意味だった。
だから国に生存を許されないユダヤ人は、生きるためにしばしば身を隠して難を逃れようとしたという。
【日記】は、その隠れ家の中である少女が記したものだ。
少女が【後ろの家】と名付けた家で、収容の手が伸びるまでの二年以上に渡り綴られた生の記録。
戦争が終わり、ナチスの残虐な行いのすべてが明るみに出た時。
【日記】もまた、一冊の本となって世に送り出された。
題名は――そう。
【アンネの日記】、だ。
「アンネ・フランク。……ええと、その。例の【日記】書いた人です。はい」
真名判明
アハターハウスのキャスター 真名 アンネ・フランク
「やっぱり本にまつわる英霊だったのだわ! わたしとおんなじね、アンネ!」
嬉しそうにリアクションするナーサリー・ライムとは裏腹に、アンネは微かに頬を染めていた。
赤面するポイントか? これ。
僕の視線に気付いたのか、キャスター改めアンネはびしっと僕を指差して言う。
「あのね。自分の空想とか妄想をそこそこ織り込んで、あんなこととかこんなこともしっかり記した日記だよ?
それを世界中に詳らかに公開されるわ、英霊の基本知識に登録されるわ……乙女としてはいろいろと複雑なわけです」
「ああ、なるほど……」
思えばそうだな、十代中盤といえば何かと多感な時期だ。
それに、あの【日記】にはアンネ自身の願望や妄想も多分に含まれていたと聞いたことがある。
やはり当事者としては恥ずかしい部分も多いのだろう。無理もないことだと思った。
「まあ、そりゃ感謝もしてるけどね。
あの【日記】があたしたちみたいな思いをする人のいない優しい世界を作るための足がかりになるなら、それは素直に嬉しいし。
……一番まずいとこは、ちゃんと削ってくれたみたいだし……」
「まずいとこ?」
「まずいとこはまずいとこなの!」
ふしゃーっ、と猫のように語気を荒げるアンネをどうどうと宥める。
しかし、ナーサリーがアンネの宝具を見破られたのはどういうわけなのだろう。
【本の英霊】と【本を記した英霊】で性質が近いというのは分かるが、そんな理由でサーヴァントの宝具を見破れるものなのか。
気にはなったが、問おうとする前にアンネ自ら宝具について話し始めた。
この特異点では大勢の生命線になる大事な宝具だ。
聞き逃さないようにしないとな、と気を引き締めて耳を傾ける。
「あたしの宝具名はそのまんま『未だ暗き希望の家』。
二年もナチス相手に隠れ続けたっていうあたしの逸話がそのまま宝具になったみたい」
アンネの説明を要約すると、以下のようになる。
アンネが拠点と定めた土地そのものに極めて強力な気配遮断を付与する。
拠点以外の土地に同じ効果を適用することは出来ないが、アンネが友好的な相手には同じように気配遮断を付与出来る。ただし魔力の消費が大きいため、乱用は出来ない。
此処まで聞いた僕は、「やっぱりメチャクチャ便利な宝具だな」と思わず漏らした。
するとアンネはふるふると首を振る。何か裏があるようだ。
「ところがそうもいかないの。あたしってさ、結局は見つかっちゃったでしょ」
「……なるほど。効果が消えるんだね?」
流石にサンソンは頭の回転が速い。
僕がだからどうしたんだ、とか首を傾げている間にさっさと答えを導き出してしまった。
「そゆこと」とアンネ。うん、遅れて僕にも理解出来てきたぞ。
【後ろの家】は二年間ナチスを欺いた。しかし、それ以上は保たなかった。
カルデアにいる織田信長から、似たような宝具について聞いたことがある。
時間経過につれて効果が変わり、最後には何の役にも立たなくなってしまう――そんな宝具を持つ英霊がいると。
アンネの場合、効果は変わらない。強くもならなければ弱くもならない。
しかしある日突然、消える。
ナチスの兵隊が彼女たちの質素な日々を突然破壊したように、忽然と消える。
「タイムリミットは一週間。それを過ぎたら、あたしの宝具はもう何の効果も発揮できなくなっちゃう。人相手に使ったら十分間だね」
「……ちなみに今って、何日目?」
「三日目。だから、あと四日以内に【総統】をどうにかしなきゃいけないんだ」
もしそれが出来なかったら。
アンネはその【最悪】について一切触れなかった。
考えたくないからではない。
あってはならないし、そうするつもりがないから口に出さなかった。そんな風に、僕は感じた。
「あと、そこの……えと、ナーサリーちゃんだったよね。
あなたみたいにあたしと近い性質を持ってたり、友好的だったり。後は助けを求めてる人とかには、例外的に姿が見えることがあるんだ。
ナーサリーちゃんの場合、本繋がりで性質が近い上に友好的と二要素揃ってたんだと思う。
【影の大隊】とか、とにかく【総統】絡みのロクデナシじゃあ、まず同じことは起こせないから安心していいよ」
なるほど、"受け入れる"ためにあえて用意された脆さなのか。
アハターハウスでの生活を崩壊させた要因が何者かの密告であることを踏まえると何とも皮肉だったが、それを本人の前で言うのは非常識ってもんだろう。
時間制限付きではあるが、アンネの【隠す】宝具は僕らにとっても非常にありがたい。
助けた民間人を安全に匿えるし、僕らが体を休める砦にもなってくれるのだ。
大体一定期間で消滅するのがデメリットというのは、裏を返せば"それまでは安全"ということでもある。
ただでさえ気が滅入りそうな特異点なんだ。悲観的に考えるだけ損ってもの。ものは捉えようだよ。
「あたしの宝具は……うん、これだけ。
次はにっくき【総統】どもの話をするから、よ~く集中して聞いておいてね。言うまでもないとは思うけど」
「ん、ああ」
一瞬不自然な間が空いたのが気になったが、それよりも今は【総統】たちの話の方が何倍も大事だ。
【影の大隊】とかいうヤバげな兵を使って虐殺を繰り返す今回の元凶。
ユダヤ人だけでなく同胞であるはずのアーリア人すら殺戮するそのやり方はまさに狂気的だ。
【総統】は狂っている。これに異論を唱える者はもはや一人もいないだろう。
「正しい歴史なら、【総統】……アドルフ・ヒトラーは4月の末に拳銃自殺する。
それを皮切りに風前の灯だったドイツは一気に敗戦まで転がり落ちて、ナチスドイツは解体。此処までは大丈夫?」
「大丈夫。常識だな、此処までは」
「でも、今日の日付は5月4日。【総統】は死んでいない。見境のないホロコースト令を下し続けてる。
……あたしが召喚されるまでにも結構な人数が殺されたみたい。
あの人たちがあたしに向ける怒りには、「なんでもっと早く現れなかったんだ」ってのもあると思う。だから尚更怒れないんだよね」
くどいようだが、今の【総統】に見境というものは存在しない。
落日を越えた独裁者は狂気のままに民を貪り、絶滅政策を決行し続けている。
物言わぬ影の兵士を解き放って、自分の帝国を地獄に変えている。
「とはいえ、あたしが知ってる限り【総統】の姿を見た人間はいない。
だからもしかするとヒトラーじゃない誰かが指導者の座を奪い取って、成り代わってるのかも」
「で、そいつが手足として使ってるのが……」
「そう、さっきの【影の大隊】だね。でもナチスに与してるのはあいつらだけじゃない。
一回だけ、普通のサーヴァントが影を統率してるのを見たことがある。妙な格好をした、鉤爪の男だった」
……正直そう来るとは思っていた。
異常の弱い特異点とはいえ、人理に一石を投じられるような奴だ。
それが出来損ないのシャドウサーヴァントを揃えて悦に浸って、それで終わりなわけがない。
アンネの言う【鉤爪の男】だけでは、恐らくないだろう。
多分、もっと多く。【総統】は私兵としてサーヴァントを抱えている。
「【総統】が何をしたいのかは分からない。でも」
「……悪いことを企んでるのは、間違いないわね」
「そう。だから止めなきゃいけない。それが、この時代に召喚されたあたしの使命だと思ってる」
特異点が生まれたということはこの地に聖杯があるということ。
聖杯はあらゆる不条理を叶える万能の願望器だ。
断じて、狂った独裁者の手に委ねていいものではない。
そんな言語道断の事態が現在進行系で起きている。
……何をしでかす気なのか考えただけで気が滅入るな。くそ、大人しく寝てろよお山の大将が。
「ところで、カルデア……僕らの本拠地みたいなところと全然通信が繋がらないんだけど、これもやっぱり」
「分からないけど、多分【総統】側のジャミングか何かだと思う」
なるほど。
自分たちの企みが脆いことはあちらも自覚してるってわけか。
きっちりハンディキャップを被せてくる辺り実にちゃっかりしていて腹が立つ。
「【総統】の居場所とかは割れてるのか」
「それは割れてる。ご丁寧に総統官邸でふんぞり返ってくれてるみたい」
「慎重なのか不用心なのか分からないな。そこは場所を変えろよ」
「まあ官邸の周りには結界やら罠やらいろいろ張り巡らされてて、近寄れたもんじゃないけどね。
警備員代わりの影も配備されてて、そいつらも虐殺役より数段強い。
あたしの宝具は結界とかそういう小細工には弱いから、現状突入はちょっと厳しい感じ」
「アサシンのエミヤも連れてくるべきだったか」
何でか分からないが、あの人はこういう要塞を崩すには適任な気がする。
それはさておき、アンネの言う通り、今の僕らにはまだ官邸を攻略することは出来なそうだ。
幸いタイムリミットまではまだ時間がある。根気強く攻略法を模索していくしかないな。
「後は……そうだ。虐殺役の影たちは、なんでか夜には彷徨かないんだよね」
「そりゃありがたいな。夜はきちんと休めるってことか。官邸の周りの奴らも同じ?」
「虐殺役の、って言ったでしょ。そこまでおいしい話はないよ」
「ちぇっ」
……さて。
これでひとしきり、現時点で分かっている情報は聞くことが出来た。
後はいつも通り、実戦の中で手がかりを集めていくしかなさそうだ。
といっても官邸に近付くことが出来ない以上、手がかりのアテは【影の大隊】か一般人の証言次第ってことになりそうだが。
「あたしはこれからも虐殺の邪魔をしながら情報を集めてくつもりだけど、立香さんたちはどうする?」
「僕らも同じかな。アンネみたいに隠れることは出来ないが、こっちはあの影共をケンカで倒せる。
仮に【鉤爪の男】やそれ以外のサーヴァントが出てきた時も、うまく行けば戦いを通じて何か引き出せるかもしれない」
アンネだけでは出来ないことを僕らはやれる。
僕らだけでは出来ないことをアンネはやれる。
協力関係としてはなかなか理想的なはずだ。
幸い【総統】のやり方は単純。戦う手段さえあれば対処はしやすい。
後は官邸に突入する算段さえ立てば、この特異点は簡単に崩せるだろう。
「分かった。じゃあ、頼りにさせてもらうね」
アンネはくすっと、少女らしい顔で笑った。
「あ……そういえば、特異点になったからかな。
街の中にいろいろと普段見かけないようなものが落ちてたから、救助のついでに探してみてもいいかもね」
「……変な赤い骨みたいなの見たりした?」
「あったあった。確かゴミ捨て場の辺りだったかな?」
「でかした!!」
最終更新:2018年05月23日 04:27