「……何があったのか、説明してもらえますか? エリザベートさん……」
マシュがエリザベートの帰還を知らされたのは、緊急対策室として陣取った会議室に、追加の資料を運び入れている最中だった。
本来の転移先は、紀元前の共和制ローマであったという。
神代とまでは行かずとも、歴史の海を遡れば、地平線すら見えぬ、遠い彼方。
積み重ねた歴史書も、専門スタッフからの見識も、遭難中の少年の足取りを探す鍵とはならず、途方に暮れた矢先。
現状、唯一にして最大の手掛かりが、帰ってきたのだ。
特異点に随伴したサーヴァントの証言以上に、有益な情報もないだろう。
「………………」
にも、関わらず。
エリザベートは呆然と固まったまま、何かを話すようなことはなかった。
口を閉ざしている、ということはなく、時折何かを思い出したかのように、はく、と口を動かして。
けれども、喉が声を紡ぐ前に、恐れをなしたように俯いてしまう。
「……霊子転移の直後から、お二人の反応がロストしてしまったんです。
それ以降の情報は、極めて断片的で……映像も、音声も……
現段階で判明しているのは、先輩が負傷したこと、令呪を使ったこと、
それから、エリザベートさんが、その……狂化状態にあった、ということだけで……」
びくり、と、小さな肩が震える。
みるみる、顔からも血の気が失われていく。
スタッフの一人が気を利かせて用意した紅茶を、縋るように両手で握る。
何かに怯えているようなエリザベートの様子に、咎めているような心地がして、それ以上に急かすような真似をするのは躊躇われた。
彼女の霊気の異常が回復したことは検査済みだ。
負傷も、意識の混濁も、記憶の欠落も見られない。
彼女は、憶えている。何かしらの情報は、持っているはずなのに。
それでも口を閉ざされてしまっては、そこから情報を引き出す術を、マシュは知らなかった。
とはいえ、このままではマスターは、窮地に取り残されたままだ。
焦燥が、背中を這う。
「……先輩は、無事なのでしょうか」
解き明かさなければ、という使命感ではなく。
そうあって欲しい、と祈るための言葉だった。
はく、と、ひと際大きく息を呑む音。
「…………わからない、わ」
「エリザベートさん?」
「わからない、わからない、わからな、…………ぁ、」
飲み込むまいと留めていた感情が、小公女の身体に、冷たく広がっていく。
自分は、何をした。
「……だってアタシ、思いっきり、な、殴って……、さ、三度も…………!」
肺が、ひゅっ、と、不完全な息を零して縮む。
カップに添えた指が軋むほど、握りしめる。
肌が白くなるほどに力を込めているのに、あの肉を打った感触が、消えてくれない。
「がっ、我慢、して……アタシ、我慢した、の……!!
でっ、も、痛くて、痛くて、辛くて……
『そうしなきゃ』、って、『そうすべきだ』、って、ずっと締め付けられるっ、から、」
「エリ……、エリザベートさん、おちつい、」
「子イヌに、そんなこと、しちゃ、死んじゃうっ……って、アタシ、我慢した、のに……!
け、けど、だんだん……、『あれ、なんで我慢、してるのかしら』、って
それで、きっ気付いたら、…………あ、あぁあ……すごく、すごくて、だって、……!!」
――――キモチ、よかったから。
その恍惚を、吐き捨てる。
おぞましい怪物について語るように、背中が嫌悪と恐怖で震え出した。
快楽が訪れたのは、槍が彼を打った瞬間だけだった。
その一瞬の悦を、自分はよく知っている。
あの嗜虐は、エリザベート・バートリーの行き着く末路のひとつ。
だからこそ、マスターにだけは矛先を向けてはいけないと、わかっていたはずなのに。
浅ましく、求めた。幾度も、幾度も、卑しく槍を振るって、
挙句、何処とも知れぬ歴史の時空に、彼を置き去りに――――
「……ああ、マシュ!!! ごめん、ごめんなさい! アタシ、あぁ、どうしよう……!!!!!」
そこからは、叫び声だ。
マスターを嬲る感触が、霊基にすらこびりついた心地がして。
快楽の残り滓を、肉ごと削りとるように。
何度も、何度も、紅茶の容器を掻きむしりながら、同じ言葉で懺悔する。
責めてほしい。
詰り、討たれてもいい。
その方が、罪がこそげ落ちてくれる。
普段の天真爛漫な振る舞いから、想像もつかぬほどの慟哭を、
「…………大丈夫です」
マシュは、いっそ酷薄なほどに、正面から叩き伏せた。
「先輩は、きっと大丈夫です」
「…………なに、言ってるの、マシュ」
サーヴァントだ。
それも、近接戦闘に長けた三騎士の、本気の一撃を。
マシュならば、よく知っているはずだ。
盾越しに、幾度も受け止めてきたのだから。
生身の人間が、その威力に対して、どれほど脆いのかも。
「大丈夫なワケ、ない、でしょ……? アタシ、本気で殴ったのに、」
「いいえ」
好感の持てる少年だった。
主従を抜きにしても、きっと友人になれると思うほどに。
だから、それを自分の手で傷つけてしまったことが、こんなに痛い。
そして、マシュにとっては、それ以上に、無二の存在であったはずだ。
何故、それを責める言葉を吐こうとしないのだろう。
絶望に、悲嘆に、涙を流そうとしないのだろう。
壊れてしまった、のだろうか。
「……先輩のバイタルは、この情報室からでも、随時観測が出来るようになっています」
「は、」
「先ほど、技術員の方にお願いしましたので」
指が、触れる。
カップを支えていた両手を、その上から包むように。
けれど、震えている。
「規定域です、エリザベートさん。正常値からは、確かに、その、大きく下回っていますが……
今すぐに命を落としてしまうような、或いは歩くことも出来ないような、大きな怪我は、していません」
そう、なのだろうか。
確かに、力任せに殴りつけるだけではあったから……
いや、仮に本当に、その通りなのだとしても。
彼の窮地も。
自分が彼を傷つけたという事実も。
何一つ、解決などしていない。
それなのに、
「大丈夫」
マシュの目は、しっかりと正面からエリザベートを覗き込んだ。
そこには怒りも、悲しみも、エリザベートを責め苛むための感情など、何ひとつ宿っていない。
わずかに濡れているのは、失ってしまうことへの恐怖だろう。
「大丈夫、ですから」
優しさとは、弱さを知るから生まれるものだ。
だとしたら、この施設では、彼女が最もそれに長けている。
想像に怯えて座り込んでしまうことを、臆病だと断じる行為はしない。
僅かな希望に目を閉じて、力なく祈り続けることだってそうだ。
けれども、『生きる』という行為は、前を向いて歩き続けることではないか。
他ならぬ彼の教えだからこそ、今、彼女はそれを懸命に、守ろうとしているのではないか。
「……だから、だからお願いします。
先輩の窮地を救うために、エリザベートさんの協力が必要です。
どんな些細なことでもいいんです、何があったか、教えてください」
ならば、自分がしたことは、何だ。
「それで、……先輩が帰ってきたら、ちゃんと謝りましょう。私も、傍にいますから」
「…………約束よ?」
「……はい!」
最終更新:2018年12月29日 18:09