最初に教わったのは、音と旋律の違いだった。
世界は、旋律で満ちている。
けれども世界は、その多くを忘れてしまったのだ――――
そう告げながら、あの方は■■を私に託した。
私は、その旋律を追い求めようと思った。
■■を手に、世界のすべてを、音の連なりで再現してみせようと。
夕日が海に溶けて、夜がビロウドのように広がる瞬間の旋律を。
放たれた矢が風を断ち、獲物の命を貫いた瞬間の旋律を。
つがいの鳥が、愛を紡いで、夫婦の契りを交わした、その瞬間の旋律を。
生み出せないものなど、なかった。
楽譜は、世界が知っている。私は、それを読み解いて、伝えてやるだけでいい。
ただ、心から誇ることは出来なかった。
それを才と呼ぶものは多くいたけれど、私自身が生み出したものでは、なかったのだから。
だから、君を一目見た時も。
他の戦士がするように、自慢話で気を惹いたりは出来なかった。
せめて喜ぶ顔を見ようとして、私が知るすべての美しく清らかな旋律を、並べて奏でてみせたのだ。
『……素敵。綺麗な音楽ね。それじゃあ、次は……あなたの声を聴かせてくださる?』
困った。困り果てた。
なにせ、それは一度も弾いたことがない。
自分の声の音など、とうの昔に忘れていて、たまの余興に酒場で歌う程度なのだから。
――――それだけは奏でられない、他の曲なら幾らでも。
私がそう詫びると、
『まあ。木々の枯れ枝の掠れるような、くすぐったい声』
なんて、くすくすと笑っていたのを、憶えている。
ああ、美しき、オークの森の■■■■■■■■よ、
もう、君の声を思い出せない。
じわり、と視界が滲んだので、指で擦ると、濡れていた。
(ああ、俺、泣いてるんだ)
不思議と、恥ずかしいとは思わなかった。
音楽に疎い自分でも、理解できる。
その演奏を描画に例えるなら、すべての音符と休符が、絵の具の一筆で、輪郭で、色彩で、あるいは素地で。
ひとつとして、意味のない音はなく。
アーチャーはそれを、素人の自分にも伝わるように、丁寧に弾いてみせている。
時に、ファンファーレのように高らかに。
時に、バラッドのように艶やかに。
たった数本の弦で、オーケーストラに負けないほど、重厚な世界を表現していて。
あるひとつの音を弾くと、唐突にその指が止まる。
余韻がゆっくりと溶けていって、ようやく自分は、そこで曲が終わったのだと気づいた。
はっとして立ち上がり、力の限り手を叩く。
「ブラーヴォ、ブラーヴォ!!」
「…………センキュウ」
背後から歓声が聞こえるような気さえする。
一曲にして、数分。
けれども、一日中音楽を浴びていたような、贅沢な疲労感があった。
「センキュウ、セーンキュウ!!」
「あー、すごかった……、…………ごめん、俺、感想下手で」
「いい、いい。言葉だけが感想じゃあねーからな」
涙を切るようにして、強く目を閉じる。
開くと、世界が色付いたような心地さえした。
「そりゃあ、俺の演奏は最高なわけだが。
お前ほど、よく音を聴くやつもなかなかいねェってなもんだ。
ついノっちまったわ。
カルデアってのは、余程いい演奏家に恵まれてんだな」
確かに、芸術的な逸話を持つ英霊は多い。
審美眼、だなんて烏滸がましいけれど。
芸術を味わう心構えのようなものは、知らず培われていたのかもしれない。
自分には、過ぎたる経験だ。
無事に帰ったら、ちゃんとみんなにお礼を言おう。
「……で、どうだ。歩けるか」
「大丈夫」
「条件反射で応えんな。ちゃんと身体に聞いて、確かめろ」
窘めるような物言いではあったけれど、アーチャーの言う通りだ。
ゆっくりと屈伸。
打たれた箇所を伸ばし、捻る。引きつるような痛み、熱はないか。
「……ウン、大丈夫。ありがとう、アーチャー」
言うと、彼は驚いたように固まった。
それから、所在なさげに舌打ちをひとつ。
アーチャーの弓は―――近代楽器だけど、そうではなくて―――正しく、英霊の兵装なのだろう。
天上の音色を奏でる、というだけではない。
聞き惚れるうちに、いつの間にか痛みを忘れてしまう。それは、催眠や治癒の魔術の類だ。
「さすがに触ると、ちょっと痛いけど……腫れも引いてるし、これくらいなら」
「……手間じゃねェからな、ぶり返したら何時でも言えや。遠慮すんじゃねーぞ」
なんで、ちょっと不機嫌っぽく言うのだろう。
「――――それで。冥界に行きたい、だっけ」
彼の問いに、気付かされたことがひとつある。
霊子転移先は、紀元前のローマという話だった。
遡るほどに定点的な精密性が落ちるとはいえ、神代というほどの過去でもない。
当然、街灯なんて気の利いたものもなければ、礼装の視界補助機能も、カルデアの供給がなければ使い物にならない。
明かりなんて、月と星くらいなものだ。
何故、遠目からだというのに、エリザベートの後ろ姿に気付くことが出来たのか。
「行きたい、じゃねェ。ここはもう、その入り口だ」
冥界は、必ずしも光の届かない闇の世界じゃない。
見渡せば、その独特の宵闇に、よくよく見覚えがあった。
最終更新:2018年12月07日 02:12