第二節:妄信

 それから一晩を、わたしは道鏡さんのお寺で過ごした。
 もちろん渡されたエロ本には手を付けない。
 そうしていると道鏡さんはエロ本を手に取り、憚りもなく読みふけり始めたから呆れたものだった。
 破戒僧此処に極まれり、だなあ。

「……ふあ」

 欲を言うならもう少し手入れしたところで寝泊まりしたかったけれど仕方ない。
 畳の上で雑魚寝していたわたしは目覚めると、伸びをする。
 結局昨日は話を聴くだけで終わってしまったけど、今日からは何かしら調査が始まるはずだ。
 そう思っていると、道鏡さんがひょこっと顔を出した。

「おう、起きたんか。顔洗って準備しとけや」
「ん……おはようございます。御札の回収に行くんですか?」
「ちゃうわ、そんなしち面倒臭いことしてたら日暮れるで。
 今日はなあ、アレや。昨日言ってたやろ、アレ」
「そんな惚けたお爺ちゃんみたいなこと言われても」

 呆れているわたしに、しかし道鏡さんはとんでもないことを宣う。

「そうや、そうや。例の《黒い仏》を信仰しとる新興宗教があるって話したやろ?」
「ああ、そういえば」
「これからそこに潜入する」
「話早すぎないですか?」

 思わず突っ込みを入れてしまったわたしに、道鏡さんは渋い顔をする。

「アホ、本当は昨日の内に済ませたかったんやぞ。
 なのにどっかの誰かさんがなかなか飛んで来ないもんやから、しゃあなしに先延ばしにしてたんや」
「そんなこと言われても」

 めちゃくちゃだ、呼びつけたのはそっちの都合なのに。
 そう思っているわたしの心を見透かしたのか、咳払いをひとつして「とにかく」と話を強引に進めに掛かる道鏡さん。
 新興宗教への潜入。……とはいえ。一口に潜入と言っても、二通りのやり方があるわけで。

「入信希望者っちゅう建前で、どんだけ病み腐っとるか見極めるって寸法やな」
「なるほど。あくまでも穏便に、ってことですね」
「まあな。藪をつついて蛇を出すっちゅう諺もある。マジモン相手の時は慎重に、これがヤバい案件に関わる時の基本やからな」

 どうも、考えなしに無茶苦茶するタイプではないらしい。
 わたしはそれを少し意外に思った。
 怪僧の二つ名と、これまでの破天荒が過ぎる言動から、彼のことを制御不能の暴走機関車と思っていた節が正直あるからだ。
 そんなわたしに、道鏡さんは不服そうな顔をする。

「誰が暴走機関車や。あのな、わしほど頭使って立ち回る坊主そうは居らんぞ」
「うわっ、心読めるんですか」
「顔に出とるわダァホ。お前、賭け事向いとらんぞ」

 と、まあ、そんな他愛ないやり取りはさておきだ。
 新興宗教への潜入と来ると、流石に少し身構えてしまう。
 わたしも他の日本人の例に漏れず、あまりその手の宗教へのイメージは良くない。
 別に差別するわけではないけれど、どうしても偏見を持ってしまうというか、警戒してしまうというか……。

「《生々逆仏教》。
 《黒い仏》の札が出回り出した頃やから、今からちょうど三ヶ月前くらいか。
 その頃にいきなり出現して、どんどん勢力を拡大しとる宗教や。
 ついこの間、どこぞの落ち目な宗教を丸ごと喰って教団施設を乗っ取ったらしい。せやから、今のアジトはそこってことやな」
「せいせい、ぎゃくぶつ……? なんか、覚えにくそうな名前ですね」
「生の観念の逆転。そんでもって、逆さの仏に教えを請う。信仰を委ねる。意味合いとしちゃそんなとこやろ」

 安直過ぎるけどな、と道鏡さんは吐き捨てる。
 素人のわたしにはよく分からないが、正直、胡散臭いのは否めない。
 まして信仰対象はあの顔のない黒菩薩だ。
 やっぱり、あの御札には……いや、あの《黒い仏》には何か禍々しい力があるのだろうと思わずにはいられなかった。

「後で詳しく説明するが、今回わしとお前は親子の設定やからな。
 病気で妻を亡くした可哀想な夫のわしが、娘連れて新たな仏教に帰依する。
 そういうお涙頂戴の感動ストーリー携えて行くわけや。頭お花畑のアッパラパー共にはちょうどいい手土産やろ」
「なんか、気が滅入りそうな設定ですね……」
「が、もちろん適当な理由つけて途中抜けする。
 あくまで今回は"探り"がメインやし、そもそも《黒い仏》の動画を配信しとる奴が生々逆仏教と絡んでるのかもさっぱりやから」

 とりあえず、話は分かった。
 うまく出来る自信は正直ないけど、多分この人に任せていれば大丈夫だろう。
 この人は逸話通りの破戒僧で、はっきり言って女の子が一対一で対面しているのは不健全な相手だ。
 でも、この人は口が巧い。頭もいい。そう簡単には、この人を欺くことは出来ないはずだ。

「ほな、そっちの準備済んだら出るで。
 ドキドキワクワクの、新興宗教見学ツアーの始まりや」


  ▼  ▼  ▼


「これはこれは。遠路遥々よくぞおいでくださいました、えぇと……」
「藤丸です。藤丸鷺摩(さぎま)。こっちは、娘の立香」

 そうしてわたしたちは、件の宗教に赴いていた。
 施設の外観は、なんというか……絵に描いたような"新興宗教の本堂"という感じだ。
 白と青の色調で組み上げられた、潔癖かってくらいに左右対称のお堂。
 事前に話は通っていたらしく、わたしたちは赴くなりあっさりと中に通して貰えた。

「私は教祖の厘業(りんごう)と申します。信者の皆さんからは"僧正"と呼ばれておりますが、呼び方はご自由に」
「ははあ、僧正ですか。それは大層ですな。さぞかし多くのご霊験を賜って来たのでしょう」
「そう大したものではございませんよ。私はただ、■■■様のご啓示を受けただけでございます」

 この人、すごいナチュラルに人の苗字名乗ったな、とか。
 よそ行きの時にはエセ関西弁が鳴りを潜めるんだ、とか。
 言いたいことはいろいろあったけど、正直全部ぶっ飛んでしまった。

 だって、だ。
 今目の前でにこやかに笑っている、恐らくは"それっぽい"格好をしているのだろうこの厘業という教祖。
 その見た目は……わたしの目からは、あのジル・ド・レェ伯に見えているのだから。

「(最近、こういうパターンも増えてきたなあ)」

 さすがに、いきなりあのギョロギョロ目玉で出てこられると面食らっちゃうけど。
 そんなことを考えつつ、なるべく驚きを気取られないようにわたしは道鏡さんの傍らで営業スマイルをする。
 ……よりにもよってジル・ド・レェの見た目で出てきたのは、それだけわたしがこの宗教に不信感を抱いているからなのだろうか。

「して、今日は入信前のご見学とのことでしたな。
 とはいえ、我が《生々逆仏教》では出家は自由制です。
 心の中に■■■様への信心さえ備えていれば、特別な収斂は必要ない……というのが教義です故」
「ええ、存じております。ただほら、私は腐っても坊主ですのでね。
 どうせなら、《生々逆仏教》の中でも功徳を積みたいのです。なので、施設の中を拝見しておきたいんですよ」
「ははあ、なるほどなるほど!」

 さすがに交渉が巧いなと思いつつ、わたしは成り行きを黙って見つめる。
 口数が少ないのは、人見知りだとか母親を亡くした心の傷が残っているからだとかでどうとでも言い訳出来るだろうし。

「分かりました。では、こちらへ。
 どうぞ好きなだけ、ゆっくり観て行ってください」
「ありがとうございます、厘業僧正」

 それからすぐに見学の許可は下り、わたしたちは中へ歩みを進め始めた。
 教祖の厘業が案内してくれるのかと思ったけれど、あくまで中は"自由に"見て回っていいらしい。


「……あれ。意外と中は普通ですね」

 はてさて、一体どんな禍々しい光景が出てくるのやら。
 そう身構えていたわたしだったが、結果は見事な空回りに終わった。
 中は宗教団体の本山としては実にありふれた、拍子抜けするほど普通な様子であったからだ。

 というか、一箇所一箇所だけ切り出して見たならどこにでもある教会にしか見えない。
 それが繋がって大きな施設になっているから少し違和感はあるけれど、それもあくまで"少し"だ。
 すれ違う信者たちも顔色がよくて、病的なものは窺えない。
 それどころかむしろ、彼らの精神衛生はかなりうまくいってるんじゃないかなと思うくらいで……。

「道鏡さん、もしかしてここってそんなに」
「しっ、黙っとけ。気取られたらどうすんねん」
「……はあい」

 唇を尖らせながら、すっかり潜入モードの道鏡さんに付いて行くわたし。
 そんなわたしに呆れたような顔をしつつ……けれど道鏡さんは一言だけ、誰にともなく呟いた。

「問題は《御神体》や。信仰対象の《黒い仏》の神体が此処にあるのかどうか」

 その如何によっては───……。
 その先の言葉は、残念ながら聞き取れなかった。


  ▼  ▼  ▼


「……っ」

 一通り見て回って、わたしたちはとうとう本命の《御神体》の前に立っていた。
 それを見た瞬間、わたしはあまりのおぞましさに背筋をぞくりと震わせてしまう。
 教団施設の奥、丸く開けた大広間の中心。
 流石に逆さにはなっていなかったが、そこにはあの《黒い仏》が鎮座していた。

 座禅を組んで両手に錫杖を持った、黒い仏様。
 顔の部分は刳り抜かれてこそいないものの、そこだけ何も彫刻がされておらず、のっぺらぼうのようになっている。
 あまりにも冒涜的なその姿に、わたしがすっかり気圧されていると。

「……よし、もうええ。帰るぞ、立香」
「へ? もっと調べないんですか?」
「わしが"ええ"って言うたら、もうええんじゃ。後で説明したるから、今は余計な詮索すんな」
「………」

 ……せっかく《御神体》を見れたのに。
 なんだってこの人は、こう不機嫌そうなんだろう?
 釈然としないものを感じながらも、"そっち"はド素人のわたしにはどうすることも出来ない。
 そのまま道鏡さんの後に付いて行く形で、わたしは《生々逆仏教》を後にすることになった。


  ▼  ▼  ▼


「あの御神体には何の力もあらへん。
 なあにが僧正じゃ、身の程弁えろっちゅうねん」

 お寺に帰るなり、道鏡さんは肩を竦めてそう言った。
 缶ビールを開けながら畳に胡座を掻いている様は、本当にただのおじさんにしか見えない。
 生臭坊主め……と思いつつも、その発言は気になる。

「それってどういうことですか。あんなに禍々しい感じがしてたのに」
「それはアレやろ、お前があの手の悪意ありきで造られたもんに慣れてへんだけや。
 あんなもん、観光地で売ってる何百円かの安物と何ら変わらへんぞ」

 そんな馬鹿な。
 そうは思うけれど、こういう風に言われるとわたしとしては黙るしかなくなる。
 言われてみれば確かに、あの《黒い仏》はそもそも見た目のインパクトがすごい。
 だからあの、人間三人分はあろうかという大きな御神体を見て……思わず気圧されてしまったというのも、なくはない……のかもしれなかった。

「思い出してみい。あの《御神体》と、巷に出回っとる札に描かれた《黒い仏》には、一個ごっつい違いがあったはずやで」
「違い……? そんなこといきなり言われても……」

 どうして頭のいい人はこう、いきなり説明を投げてくるんだろう。
 ワトソン役を欲しがる辺り、ホームズに似たところがあるのかもしれない。
 などと考えながらわたしは記憶の中の《御神体》と《黒い仏》とを比較してみて───

「あ……」

 そこで、違いに気が付いた。
 というか、わたし自身あの《御神体》を見た瞬間に気付いていた。
 ただその巨体と威容に気圧されて、"なんてことのない差異"と切り捨ててしまってたんだ。
 そう、その違いとは。

「あの《御神体》は……逆さじゃなかった」
「正解。百点満点、飴ちゃん付きや」

 そう言って道鏡さんはにやりと浅黒く笑った。
 そうだ。あの《御神体》は、逆さまじゃなかった。
 逆さの仏像を造るのが技術的に難しいからと考えられなくもないけれど、《黒い仏》を正位置にしてしまったなら……あのおぞましい仏像は、自分の持つ意味を失ってしまう。
 ご利益も呪いも、宿るわけがないんだ。

「経文の反転、救うものの反対。
 そういう意味が籠もっとる黒菩薩をあの向きで造った時点で、あれに《御神体》としての値打ちは欠片もあらへん訳や」
「なるほど……じゃあ、あの《生々逆仏教》は」
「おう。宗教って意味なら間違っとらんけど、《黒い仏》の核心からは遠いみたいやな。
 あの厘業っちゅう胡散臭いおっさんが、例の動画配信の投稿者とも思えんかったし」

 確かに教祖は胡散臭かったけど、あの人は動画の仮面の男とは違うタイプに見えた。
 だから多分彼も、元は《黒い仏》の動画を見た一市民だったのだろう。
 そして魅入られてしまい、《黒い仏》の魔力をより広い範囲に伝播させる教団を作るに至った……といったところだろうか。

 と。そこでわたしはふと、ある疑問を抱いた。

「そういえば……あの動画を投稿した人、なんて名前なんですか?」
「ん? ああ。石動戯作、言うみたいやぞ。十中八九偽名やろうけどな」

 石動、戯作。
 ……うーん、やはりというべきか聞き覚えのない名前だ。
 とはいえ、この人は確実に今回の事件の根底に限りなく近いところに居るはず。
 なんとかして首根っこを押さえないと、本当に取り返しの付かないことになってしまうかも知れない。

「ま、何はともあれや。
 今日はご苦労やったな。こっからはまたしばらく地道な調べ物の時間や。この寺、Wi-Fiも通っとるからな」
「はあ。前から思ってましたけど、道鏡さんはなんでそんなに現代に適応してるんですか?」
「アホ、こんな便利な世の中で最先端技術に頼らんとか考えられへんわ。
 特に、あー、あれや。すまーとふぉん、ってやつはええな。わしの時代にあれがありゃ、もっと楽しく可笑しく生きられたわ」

 そう言って道鏡さんは、自分のスマートフォンを取り出してみせる。
 ……2012年当時だとバリバリの最新機種だ。待ち受けが思いっきりグラビア女優の写真なのは、まあ置いといて。

「って、Wi-Fi通ってないじゃないですか。圏外になってますよ」
「あ? そんなわけないやろ───って、本当や。圏外になっとる」

 驚いて目を丸くしている道鏡さんを、わたしは鼻で笑う。

「普通、Wi-Fi使えなくても自動的に公共回線に繋ぎ変えてくれるんですけどね。このお寺、電波悪いんですか?」
「……いや、ちゃうな。これは、あれや。ちゃうぞ、立香」
「そんなムキにならなくても」

 必死に否定する道鏡さんがおかしくて、わたしはまたくすりと笑った。
 だけど道鏡さんはあくまでも険しい顔をして、何か考えるような素振りを見せる。
 はてさて、どんな言い訳が飛び出してくるんだろうか。
 そんなことを考えているわたしに───道鏡さんは。

「これは」

 言いかけたところで。
 本堂の電気が、ぷつんと切れた。

「──────障り(・・)や」


  ▼  ▼  ▼


「え……っ!?」

 次の瞬間、わたしが感じたのは。
 恐ろしいまでの、寒気だった。
 電気が消えた途端、世界まで変わったような気がする。
 自分の肩を抱きながら、辛うじて月明かりだけを頼りに道鏡さんの隣へ移動することは出来た。

「チッ、あのイカレ教祖……ただの盲信者ってわけじゃあなかったんか!」

 なにが、と聞こうとするわたしをよそに、道鏡さんは忌まわしそうに吐き捨てた。
 その言葉の意味に思いを馳せていると、部屋の中でかさかさと物音がすることに気が付く。
 何か、生き物が蠢いているような音。
 "蠢いている"という表現で合っている。
 かさかさ、かさかさ。ゴキブリや蚯蚓、はたまた蛆虫がとんでもない数這い回っているような、生理的嫌悪感を掻き立てる音だった。

「ど、どうなってるんですか、これ……! 障り、って……」
「どうもこうもない! あンの糞教祖がどうやって教団でかくしてたか分かったわ!」

 苛立ったように舌打ちをしながら、道鏡さんは懐から取り出した塩をわたしたちの周りを囲うように撒き散らす。
 綺麗な円形に纏まった塩の結界は、出来の悪いホラー映画に出てきそうなチープさだ。
 でも道鏡さんにふざけている様子は欠片も見えない。
 そのらしくない姿が、わたしに強い危機感を与えてくれた。
 今……わたしは恐ろしいことに巻き込まれかけていると。そう、自覚させてくれた。

「端から、入信しないなんて選択肢はないんや。
 手当り次第に《黒い仏》の障りを送り付けて、それで信者を増やしとるわけやな」
「……じゃあまさか、この"障り"にやられてしまったら」
「ああ、そういうことや。 
 英霊のわしは知らんが、お前のような人間は一発で黒菩薩の信者(端末)に堕ちてまう」

 チッ、と舌打ちをしながら道鏡さんが次に取り出したのは、僧侶らしく数枚の御札だった。
 あの《黒い仏》のそれとは違う、由緒正しそうな代物。
 それを塩の結界の東西南北四方に一枚ずつ貼り、準備完了だとばかりに結界から一歩足を踏み出す。

「ちょっ、円から出ていいんですか!?」
「ふたり揃ってその中に居ったって、結局なんも前進せえへんやろ。
 第一、それはお前が障られんようにする結界やからな」

 そうしている間にも、"障り"の主は明かりの墜ちた本堂にその姿を現していた。
 かさかさ、かさかさ。
 まるで鼓膜の手前で無数の毒虫が蠢いているような音を立てながら、暗闇からぬっと現れたのは……黒い人影。

 もとい───人の形を象った、無数の不快害虫。
 あまりの気持ち悪さに、わたしは「ひっ」と声を漏らしてしまう。
 蝿、蛆、百足、蜘蛛、ゴキブリ、ヤスデ、カマドウマ、毛虫、蠍、死出虫、蛭。
 ざっと見ただけでもそれだけの種類が確認出来る、一目でまともではないと分かるグロテスクなシルエット。

「……厄苦切一度空皆蘊五見照……」

 そして───
 放送の終了したブラウン管テレビのノイズを思わせる耳障りな声。
 でもそれを目に、耳にしても、道鏡さんは一歩も退くことなく。

「わしには、必要ない」

 数珠の通った手をパキポキと、ヤンキー宛らに鳴らしながら……件の《人影》と相対するのだった。


「……厄苦切一度空皆蘊五見照……」

 何か、文章を逆さに読んでいるような。
 そんな歪な声をあげながら、それはただゆらゆらと歩いてくるだけだ。
 けれどそれだけなのに、どうしようもないくらいの不安が込み上げてくる。

「ようもわしの城ォ土足で踏み荒らしてくれたな、糞化け物が」

 言うなり、道鏡さんはさっき使ったのと同じ札を勢いよくばら撒いた。
 よく物語の中の僧侶や陰陽師がするような丁寧で格好いい動きではない。
 まるで成金がお金をばら撒くみたいな、乱暴で無作法な動き。

 それがまるで意志を持ったみたいに、《障り》の人影の周りに揺蕩っていく。

「はん、僧正の肩書きが泣いとるで。
 わしのことを、ほんまにただの冴えない幸薄坊主とでも思うとったんか」

 瞬間、影は目に見えて苦しみ始めた。
 悶えるように身体を震わせ、キィキィと、虫の鳴き声によく似た声をあげている。
 次第に人型も崩れ始め、ただの虫の群れにしか見えなくなってくる。
 もちろん相変わらず見てくれは気持ち悪いままだったけど……そうなる頃には、わたしはあれを怖いとは感じなくなってきていた。

「魔羅だけでのし上がった言うてもな、結局張りぼてはバレるんや。
 わしは天皇を騙くらかした男やぞ。このチャチな時代の物差しで測って貰っちゃ困るで」

 ───後から聞いた話だが。
 《障り》に限らず《怪異》と呼ばれる存在を弱体化する一番手っ取り早い手段は、"型"に嵌めることなのだという。

 例えば昔の人は、家の中を歩き回る見えないものを指して"家鳴り"と呼んだ。
 家鳴りという元は存在しない無害な妖怪を定義して、偽物の安心を手に入れたのだ。
 道鏡さんに言わせれば、そういう迷信の型に嵌められて消えた妖怪やら悪霊やらは結構な数居る、らしい。
 現代ではありふれている、怖くておどろおどろしい妖怪のキャラクター化。
 あれも、抑止としてはなかなかどうして有効な手段ということだった。

 話を戻そう。
 要するにこの時、わたしは"安心"したのだ。
 道鏡さんの札に囲まれ、目に見えて苦しんでいる影を見て。

「分かったらさっさと去ねやカス! わしの寺は巨乳、別嬪、あと金持ち以外お参り禁止じゃ! 死ね!!」 

 それは多分、道鏡さん風に言うなら。
 "道鏡さんより弱い"という型に嵌められたことになったのだろう。
 だから御札の効果は余計強まって、《障り》はもはやその役割を果たせないまでに希薄な存在になってしまった。

 道鏡さんは形の崩れたそれを、滞空した札ごと回し蹴りで豪快に蹴り払った。
 すると虫の群れは文字通り四散して、じりじりと焼けるような音を立てながら空気中に溶けていった。
 ……ぱちんと音を立てて電気が戻る。慌ててその辺に投げ出されていた道鏡さんのスマホを拾ってみると、電波もきっちり回復していた。ばりばりの高速Wi-Fiが飛んでいる。

「ったく、なんだってあんなキショいもんの相手せにゃならんのや。
 おう立香、わしは仕事があるから風呂沸かしてこい! 浴室に塩撒くのも忘れるんやないぞ!」
「えぇ~……? めんどくさいんですけど。お風呂なんて一日くらい外してもいいですよ、わたしアレに触ってないですし」
「わしはめっちゃ触っとるんや! お気に入りの靴下で蹴っ飛ばしてもうたわ!!」
「格好つけてダイナミックな除霊するからでしょ……」

 はあ。
 ため息をつきつつも、とりあえず言う通りにすることにした。
 というか、仕事があると言われるとわたしとしても弱い。
 なんてったってわたしはあいも変わらずこの手のことに関してはズブの素人だ。
 わたしがカルデアに帰れるかどうかは、比喩でもなんでもなくこの人の頑張りにかかっている。

「ところで、仕事って言いましたけど。今度は何するんですか」
「ン、仕事って言うかその準備やな。服とか、それに仕込む護符とか。とにかくちょっ早で準備せんとあかんからな」
「うえ、また潜入ですか? ……けどそれにしたって、そんなに急がなくてもいいような」
「何寝ぼけたこと言うとるねん。風呂上がったら、速攻で出かけるんやぞ」

 ……、……。
 …………はい?
 わたしが顔を引き攣らせながら目をぱちくりさせていると、道鏡さんはこめかみに青筋を浮かべながら、言った。

「このわしに舐めた真似し腐りやがって、あの生臭坊主。
 今すぐお礼参りや、今夜中や! 横っ面ぶん殴って、あのきっしょいギョロ目飛び出させたる……!」

 本物もギョロ目だったんだ……とか、そういうのは置いといて。
 これからまた災難があることを理解したわたしは、今日はなるべく長くお風呂に浸かっていようと決めるのだった。

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最終更新:2019年09月10日 21:47