「あ、いつっ……」
『先輩、大丈夫ですか? ……すみません、同行できれば手当も……』
「フォーウ……」
「へーき、へーき。マシュにはバックアップしてもらってるしね」
まるで自分が怪我をしたかのように悲痛な顔をする後輩へ手を振って、立香は息を吐いた。
幸いにして、手ひどく殴られたとはいえ戦闘服を着用していたから、身体は痛まない。
むき出しの頭に受けた一撃は効いたが、皮膚が裂けただけだろう。深刻なものではない。
『頭部への打撲は軽傷に思えて、後々に悪影響を及ぼす可能性が絶大です。
先輩、軽率な判断や行動は控え、どうか早急に治療を受けてください』
「うん、わかってるよ。だから今アーチャーに案内してもらってるんだし」
どこまでも続く鋼鉄の町並みをアーチャーに先導され、一人と一匹は歩き続ける。
通りは相変わらず整然と行進する人々が行き交い、弾丸のような車が定期的に走り抜ける。
それはまるで巨大な生き物の体内、流れ行く血液と血管を思わせるほどに無機的だ。
すぐ傍を傷ついた少女と、異様な鉄人が歩いていても気にも留めないのだから。
(それに――……)
立香はちらりと空を見上げた。
ビルの谷底を塞ぐ、四角く区切られた暗黒。夜空ではなく、星ではない。
気が滅入るといったら無いのは、これだ。
特異点をめぐる先々で空にあった光帯とはまた違う、押し潰されるような閉塞感。
そう、まさに自分たちは蓋をされてしまったのだ――そう思わせるものだ。
「なんで空が無いんだろう……?」
「そりゃ……って、なんだ嬢ちゃん、知らねえのか?」
先を行くアーチャーが、意外そうな様子で声をあげた。
のしのしと足を進めていた彼が答えてくれるのは、これが初めての事。
不思議そうな顔をしている立香へ、アーチャーは指先で天を指し示した。
「あれだ。鋼鉄の殻(シェル)だよ。それがすっぽりと被さっちまってるんだ」
「殻……街全体に?」
「あー、まあ、街中つったらそうだな」
「?」
「街ってのは、もう、この星って意味だぜ?」
「えっ」
意味がわからない。
きょとんとした様子で立ち止まった立香に代わり、通信画面にダ・ヴィンチちゃんがぬっと顔を出した。
『ちょっと待ってくれたまえ、アーチャー。つまり……ダイソン球が完成しているのかい!?』
「うおッ!? なんだ、顔も写るのかよ。ダイソ……なんだって?」
『惑星全体を殻が覆っているのか、という事だ!』
「……難しい単語を使うんじゃねぇよ、舐めんな。ったく、そうさ。その通りだよ。
このクソッタレ殻(シェル)もクソッタレ都市(シティ)も、この星を全部塞いじまってんだ」
『……なんということだ。もはや文明の第一段階を突破しているじゃあないか……!』
もちろん立香は何のことやらわからない。
? ? と頭の周りに疑問符を浮かべている姿を見かねて、マシュが『先輩』とフォローする。
『ダイソン球というのは宇宙物理学者フリーマン・ダイソン氏が提唱した概念です』
「宇宙物理学……!」と立香は目を見開いた。「すごい! なんかすごそう!」
『はい、正確にはこれは恒星に対して行われるものですが、巨大な外殻で太陽を覆ってしまうのです』
「……? それに何の意味が?」
『つまり太陽のエネルギーを全て内殻で吸収し、活用できるようになるシステムなのです』
おお! 立香はわかったようなわからないような調子で感心した。やはりなにかすごい!
『そして文明の段階というのは、カルダシェフという天文学者が提唱したスケールでね』
興奮が一段落ついたのか、今度はダ・ヴィンチちゃんが重々しくも軽い調子で言葉を繋ぐ。
『彼の言う文明スケールというのは、三段階に分けられているんだ。
一つの惑星、一つの恒星系、一つの銀河系。各々全てのエネルギーを活用できるかどうか。
つまりダイソン殻を地球上に構築できるという事は、第一段階を突破している証拠なのだよ』
「ちなみに、えっと、2017年は第一段階?」
『……の足元にも及ばないね』
「ひぇー……」
すごい。なにがすごいって、想像もできないのがすごい。
それは彼も同じなのか、アーチャーも「何言ってんだこいつ」と言いたげな顔をしている。
……顔? うん、顔だ。バケツヘルメットだけど、それがなんだ。
顔の無いアヴェンジャーの上の人とだって藤丸立香はコミュが取れるのだ。
絆の力と書いてコミュ力で人理を救った自負をなめないで頂きたい!
「何だか知らねえが……おら、ついたぜ。たぶん先生もいっだろ」
「おおー……。……おお?」
案内されたのは、この鋼鉄の都市に似つかわしくない見すぼらしい建物だった。
というか木造だった。
それは小さく狭苦しい中華風の建物で、「宝芝林」と看板が掲げられていた。
「おい、邪魔するぜ。……おう、嬢ちゃんも入れ、入れ」
「あ、う、うん。お邪魔しまーす」
アーチャーが身を屈めて戸口をくぐるのに続くと、立香はまず「うわっ」となった。
ぷんと鼻に突き刺さるのは、異様な臭い――カルデアでは馴染みのないものだ。
カルデアにはキャスターも多いから、それが薬の臭いだという事はすぐにわかった。
その上で、うん、これは……覚えがある。
「漢方だ、これ」
そういえば、カルデアでは中華系のキャスターはいなかったなぁ。
薬棚というのだろうか。
古く年月を経た木の箪笥には、ぎっちりと生薬が詰め込まれているのがわかる。
他にもあちらこちらと吊るされているのは、立香にも朝鮮人参だと見て取れた。
(なんだか懐かしい――……)
「……」
「うわっ」
そして薄暗がりでガリガリとスケッチブックに鉛筆を走らせる、背の低い青年に目を見開いた。
有り体にいって驚いた。びっくりした。ジャガーが上から降ってきた時くらいにびびった。
「……なんだ」
「い、いや、なんでも」
バクバクという心臓の高鳴りに胸を押さえながら、立香はふるふると首を横に振った。
青年――黒髪を神経質に七三分けにした彼は、暗いどんよりした瞳で此方を睨んでいる。
かと思いきや、すぐにスケッチブックへと目を落とし、また黙々とデッサンを再開した。
立香がひょいと覗き込んでみると、それはどうやら建物の絵であるらしい。
此処まで来る間には見た覚えがない――というより、全て同じような高層ビルだったのだが。
「ええと、あなたがアーチャーの言ってた『先生』?」
「厭味か貴様!!」
次の瞬間、青年がくわっと目を見開いて立ち上がり、立香は「ひゃあっ」と本日二度目の尻もちをついた。
「何たることだ! 先生!? 教師!? 私をあのような愚昧と一緒にしないでもらいたい!
だいたい――この私が試験で落ちるだと!? ふざけるなよ! 畜生め!
人物画が描けない――いや描かなかっただけだ! 見るが良い、この風景画を!
私の才能を知らしめるにはそれだけで十分、否、否否否否! まだ足りん!
そうだ、建物の絵が良い! 建築画だ! 素晴らしい建物を作り上げよう!
君は見たか、あの街路に広がる無機質で直線的、芸術性の欠片もないビルディングを!
まったく嘆かわしい! あのようなベルリンが認められるか! 認められはしない!
良いかね、だいいちベルリンの街というものは――……」
お、おう? 凄まじい剣幕に立香が目を白黒させていると、その肩をアーチャーが軽く叩いた。
「ほっとけ、嬢ちゃん。アドルフはああなっちまったらしばらく止まらねえ」
「アドルフさんか。……なんか、凄い人だね」
「好きなことを好きなようにやってんだ。悪いやっちゃねえが、迷惑なやつではあるな」
座ってろ。そう言われて立香は、気持ちアドルフから距離を取るように椅子へ座った。
思えばこの特異点へ来てから僅かな時間だけど、どっと疲れるよことばかりだ。
ほう、と息が漏れてしまうのも致し方ない事だろう。
「ねえ、マシュ。あたしでもわかるんだけど、1927年ドイツのベルリンでアドルフって……」
『はい、先輩。ですが観測する限り、その場にいるサーヴァントは二人。
そしてどうやらアドルフ氏は反応からして、サーヴァントではないかと思われます』
「つまりこの時代に生きてた、本物のアドルフさんってことか……」
立香はずきずきと鈍く痛む頭を押さえながら、その青年を見た。
どんよりとしている瞳は、しかし異様にギラギラと輝いて、スケッチブックへ向けられている。
あの目つきを立香は良く知っている。
アンデルセンやシェイクスピアが、締切間際のときにしていた目つきだ。
辛くて、苦しくて、だけれども楽しくて仕方がない――……。
こうして見る限り、彼はただ、心底絵を描くのが好きなだけの若者にしか思えなかった。
「それで、もうひとりのサーヴァントって?」
「私だよ」
ふわりと、低い声が――しかし音も無く滑り込んだ。
それはまるで山の翁のように、声という結果があって、その後に音が続いたようだった。
立香が瞬きをしながら見た先には、一人の精悍な顔つきの男が立っている。
禿頭――いや、違う、わずかに残した黒髪を長く編んで垂らしている。弁髪だ。
手には黒傘、腰には酒が入っていると思わしき瓢箪を下げ、男は飄々と奥の間から姿を現した。
「アドルフ。好きにして良いとは言ったが、静かにしたまえ。ここは仮にも病院だ。
そしてケリー。君は紳士的だが些か以上に乱暴だ。怪我人相手にその態度はあるまい」
「あぁ、悪ぃな、先生。俺ァ、女のエスコートなんざしたことねぇもんでよ」
アーチャーはげらげらと悪びれもせず笑い、どこか不貞腐れた風に言い返す。
先生と呼ばれた男はやれやれと首を左右に振ると身を屈め、立香の顔を覗き込んだ。
「どれ、見せてみなさい。ああ、ふむ。警官どもは無礼な真似をする。
額の傷は大したものではないが、傷が残ってはいけないな。手当をしよう。
それよりもむしろ魔力の乱れが気になる。点穴を突いておくべきか……」
(うわ、声、渋い……ッ!)
顔の近さはともかくも、その低い声は良い意味で耳によろしくない。
立香がびくりと身を強張らせたのをどう受け取ったのか、先生は軽やかに笑った。
「ああ、これは失礼。私は黄飛鴻――ウォン・フェイフォン。
君に馴染み深い言い方をすれば槍の英霊……サーヴァント、ランサーだ。
とはいえこの時代、私の命が尽きてからまだ五年も経っていないのだがね」
「あ、すみません。えっと、藤丸立香です。それで、こっちが――……」
『通信越しに失礼いたします。マシュ・キリエライトと申します。
ウォン・フェイフォン! ご活躍はライブラリの資料映像でかねがね……!
酔拳に洪家拳、素晴らしいクンフーだと思います!』
「ええと、マシュ、知ってるの?」
『はい、諸説ありますが史上で最も映像化された人物だとされている御方です!
武林――中国武術界では李書文さんと並ぶ存在で、特にあの伝説的な――』
「はははははっ。なんと、カルデアでも私の名は知られているのか。気恥ずかしいものだな」
軽やかに飄々と笑うランサー、ウォン・フェイフォンの表情に厭味は無い。
マシュが『師父と呼んでもよろしいですか?』と問うと「良いとも」と応じる。
と、そこで「カルデアァ?」とアーチャーが奇妙な声を上げた。
「なんでぇ、そりゃ」
「君、そんな事も知らずに彼女たちをここに連れてきたのかね」
「あー……なんか、そんなこと言ってたような……」
うん、やっぱりこの人、良い人だけど口が悪くて適当だ。
立香が評価を改める一方、ランサーは手早く膏薬を彼女の額に貼ってくれている。
傷口に染みて一瞬びくりと身が震えるが、すぐにすうっと痛みが引いて安らかになる。
「ありがとうございます。えっと……師父!」
「立香くん、その服を肌蹴て背中を出してくれたまえ。気の流れを整える施術を行おう。
それと……マシュくん、事情を説明してはくれないか。私も再確認しておきたいのでね」
『あ、はい、師父! それにアーチャーさん。僭越ながら、説明させて頂きます。私達は――』
「はぁん、人理の修復……ねぇ」
一通り話が終わると、アーチャーは気のないような声でそう言った。
立香はごそごそと戦闘服を着直し、きちっとファスナーを上まで止めながら頷く。
ランサーが気を利かせて幕を引いてくれたとはいえ、やっぱり肌を晒すのは気恥ずかしい。
『先輩、身体の具合はどうですか?』
「うん、すっごい楽になった。息吸ったり吐いたりが自然にできるよ!」
身体が軽い! もう何も怖くない!
ひょいっと椅子から立ち上がった姿を見て、ランサーも満足げに頷いた。
「功夫ではないようだが、良き師に恵まれているらしい。調息の基礎が出来ているようだ。
その『自然にできる』呼吸を意識すれば、このエレクトロポリスでも普通に動けるだろう」
「はい、ありがとうございます、師父!」
立香が勢い良く頭を下げると、それにあわせてぴょこりと赤毛が揺れ動く。
そしてひょこりと頭を起こして、彼女は二人へ上目遣いへ視線を向けた。
「それで。どうだろ、アーチャー、ランサー。手伝ってくれると嬉しいんだけど……」
「悪ぃが、パスだ」
「残念だが私も、この病院を離れるわけにはいかなくてね」
「うぇっ!?」
この特異点に来てから、市民に続いて二回目の拒絶。
だが藤丸立香はくじけない。サーヴァントたちは一筋縄ではいかないものだ。
オジマンディアスやギルガメッシュにだって門前払いを食らった事がある。なんてことはない。
「あ、じゃあ、せめて情報だけでも教えてもらえないかな。
具体的に言うとあの空の殻とか、街の人達の様子とか、色々なんかおかしいし。
それに、ほら! さっきの殺されてた女の人のこともあるよ。放っておけない!」
「めげねえのな、お前。あー……つってもなぁ、なんて言やぁ良いか……」
「ふむ、それではケリー。彼女を連れて中断していた日課を済ませて来たらどうだ?」
「あぁ?」
ランサーの言葉に、アーチャーは酷くドスの効いた声で聞き返した。
しかし柳に風。ランサーはにこやかに笑って、ひらりと手を振る。
「実際に見て回った方が良いだろう。百聞は一見に如かずだ」
「つっても、実際もう見たろうが。頭に痛いの食らってよ。
またぞろ街をうろついて、今度はお巡りにフィリーされても知らねえぞ」
「殴られて折れる彼女ではないし、そうならないよう守るのが君だろう」
「……しかたねぇな。『M』も放ったらかしにできねえし……」
ぶつくさと不平不満を漏らしながらアーチャーは立ち上がった。
ガンベルトに銃を納め、コートを翻して戸口へ向かう。
慌てて椅子から立った立香へ、彼は振り返って手招きをしながら言った。
「ついて来な。見せてやるよ、ベルリン……じゃねえや、エレクトロポリスをな」
「うん、ありがとう、アーチャー!」
立香はにこりと微笑み、戦闘服に包まれた腕で力こぶをつくる仕草をして見せる。
「だいじょーぶ、こう見えてもあたしちょっとは強いから! ガンド撃てるし!」
「どうだかな」
アーチャーは『先輩のガンドはすごいんですよ!』というマシュの力説を聞き流し、先へ進む。
立香は慌ててぱたぱたと後を追いかけつつ、去り際に振り返って、ランサーへぺこりと頭を下げた。
「手当て、ありがとうございました!」
「ああ、気にしないでくれたまえ。私の仕事だ。
アーチャーと一回りしたら戻ってくると良い。お茶を淹れてあげよう。
手伝いはできないが、此処を拠点にしてくれる分には構わないからね」
「はい、行ってきます、師父!」
「フォーウ!」
そうして鋼鉄の射手と一人と一匹が去ってしまえば、「宝芝林」には再び静けさが舞い戻る。
響くのはアドルフが一心不乱にスケッチブックに走らせる鉛筆の音だけ――いや。
ふと顔を上げたアドルフが、棚に置かれた古臭いラジオのスイッチを捻った。
空電音の耳障りな雑音が続いた後、流れ出すのはある古典的な名曲。
――……ペール・ギュント「山の魔王の宮殿にて」。
最終更新:2017年05月15日 16:27