プロローグ(Ⅰ) 遠坂邸にて
───1936年 日本 冬木市
冬木の街には霊地がいくつか存在する。
魔術的には重要なものであるためそれらを管理、怪異の発生や神秘の漏洩を監視するように魔術協会から委託された霊地管理者がいる。
その姓を遠坂といい、この地で行われる聖杯戦争を取り仕切る御三家の一角である。御三家はいくつかの優待があり、此度開催される第三次聖杯戦争においても優先的参加権を持つ。
此度の聖杯戦争……第三次聖杯戦争に参加する遠坂の魔術師もその権利によって参加者となり、儀式のために自宅に籠って瞑想をしていた。
◆
聖杯戦争は通常の魔術儀式と訳が違う。
当初は単なる魔術戦であったのが一転、聖杯に細工して英霊を召喚可能とし、使い魔……サーヴァントとして殺し合わせて英霊七騎の魂を回収し、その莫大な魔力をもって根源へ至る孔を開けようというもの。
無論、この事実を知るのは御三家に連なる者と一部の関係者のみ。他の四騎を召喚させる外来のマスターには「あらゆる願いが叶う万能の願望機が手に入る」とお題目を立てて招きよせていた。
外部のマスターは英霊を召喚する役割を終えたら死んでもらう。だが第二次聖杯戦争のことを考えれば一般市民への被害も考えねばなるまい。
冬木は英霊同士の戦いで三度目の大損壊を被るだろう。無論、手は打ってある。
既に妻と子は冬木から避難させていて仮に私が命を落としても次の世代が私の魔術刻印を受け継げるように魔術協会には根を回してある。
聖杯戦争によって生じる被害の補修と神秘漏洩を防ぐために設立したガス会社をはじめ、各関係機関への根回しも完了した。
他にも色々と手は打ってあり、準備は万端。後は英霊を召喚するのみ。
ボーン、ボーンと大時計が鳴る。針は午前二時を指していた。魔術師はソファから腰を上げて地下の魔術工房へと向かう。まだ鳴る時計の音は静寂の闇に溶けていく。誰もいない居間から出て、絨毯の敷かれた廊下を歩き、地下へと下る。
魔術工房へ下りると部屋の中央には召喚のための召喚陣が刻まれていた。
魔術師の魔力を帯びて燐光の如く陣が光り出し、魔術師はこの日のために用意した触媒を置く。
召喚の儀が開始される。一節目の呪文を唱える。
「告げ、──────」
だが唱え終える前に何かが魔術師の胸を貫通して闇に消えた。光の通った場所────魔術師の胸には野球の球ほどの穴が開いていた。
「ガ、ハッ……フッ」
何が起きたのか理解した瞬間、血液が傷から噴き出て部屋の床を濡らす。更に食道を逆流し、魔術師は呼吸すら満足にできなくなった。
激痛と呼吸不全の苦しみから蹲り、己の背後を見るとそこにいるのは死神の如く黒いフードをすっぽりと被った亡霊である。魔術師は事態の悪さを理解し、そして一縷の望みもないことを受け入れた。
だがそれでも遠坂の魔術師としての意地が魔術師の意識を覚醒させていた。
苦悶、苦痛。それ以上に魔術師の脳内を埋めるのは疑問だった。
何が起きたのか。襲撃に備えての結界や警報が一切起動せず、物音すらなかった。噂に聞くアサシンのサーヴァントならば理解もできる。だが、今、目の前にいるサーヴァントのクラスはキャスターだ。
陣地に籠って迎え撃つのが能のキャスターが相手の本陣に単騎で現れるのも常識外れであるが、それ以前にどうやって入ってきたのかがやはり分からない。
たとえ空間転移をしたことにしても遠坂邸は何重もの結界に覆われている。
それに一つもかからず、音も出さないというのはやはり不可能だ。最初からここにでもいない限り
毎日つけている防護の符を今日に限って付け忘れていたことを魔術師は呪う。その時、虚空より声が木霊した。
『そちらは終わったかい、キャスター?』
「ああ、終わった。そちらはどうだねマスター」
『こちらも監督役の言峰璃正神父とエーデルフェルトの姉妹を片付けた。サーヴァントもね』
「ではいよいよか……」
『本当に来るのかね? その人理継続保障機関カルデアの、人類最後のマスターとやらは』
「来るとも。ここに、この特異点化した冬木に。さもなくば世界は燃え尽きるからな」
キャスターの言った内容に遠坂の魔術師はようやく事態の異常性と深刻さを理解した。
この者達は万能の願望器を……聖杯を目当てに来たのではない。カルデアというのが何かは知らないが人理の意味は知っている。
人理、燃え尽きる、特異点、人類最後のマスターと次々とキャスター達の会話から部品が組みあがり最悪の未来を形成する。
(やらせるわけにはいかん……この、遠坂が管理する冬木で……そのような無法は断じて許さん……!)
せめて、あと30秒……いや、10秒でいい。
魔術刻印よ。我が肉体を死なせないでくれ。
略式でもサーヴァントさえ喚ぶことができればあのキャスターと戦える。
あのキャスターの情報を少しでもカルデアの……人類最後のマスターに伝えねば……!
蹲っていた魔術師は這う。
どんな時でも余裕をもって優雅たれ────遠坂家に代々伝わる家訓を守ってきた貴き血統は今では惨めに、されど誇り高く地面を這う。
這って召喚サークルへ令呪が刻まれた手を伸ばし────
「いいや、駄目だ」
即座に引き剥がされた。勢いよく工房の入り口へと叩きつけられ、傷口が夥しい血が流れ出た。
死の闇黒へと落ちるその刹那──遠坂の魔術師はキャスターの顔を見た。
(知っている)
その顔を見たことがある
(確か、こいつは────)
思い出すより早く、キャスターの光弾が遠坂の魔術師を消し飛ばした。
◆
この日を境に冬木の聖杯は停止。キャスター以外のサーヴァント達は座に帰還。
マスター達は令呪が刻まれたまま第二次世界大戦を迎える。
そして十年の時を経て、聖杯が再起動。サーヴァント達が再召喚される。
遂に始まる第三次聖杯戦争。
だが既に、悪意は冬木市の隅々まで根を下ろしていた。
最終更新:2017年05月14日 10:11