高麗の使人、越に漂着 570年(H0570a)

欽明31(570)年、高句麗の使人が日本海岸の越に漂着。現地豪族の道君(みちのきみ)を天皇と思い調(みつき)を渡す。道君は漂着の事実を朝廷に報告しなかった。 道君は、石川県石川郡鶴来町あたりの地方豪族か。

欽明31(570)年4月、江渟臣裙代(えぬのおみもしろ)は、道君が高麗の使人漂着の事実を秘匿していることを天皇に奏上する。

欽明31(570)年4月、朝廷は道君に命じ山城国相楽郡に相楽館(さがらかのむろつみ)を建てて客館とした。

欽明31(570)年4月、朝廷は東漢氏直糠児(やまとのあやのうじのあたいあらこ)、葛城直難波(かずらきのあたいなにわ)を(越に?)遣わして、高句麗の使節をむかえいれた。

欽明31(570)年5月、朝廷は、膳臣傾子(かしわでのおみかたぶこ)を遣わして、高麗の使人をもてなした。このときに、道君が高麗の使人の調を横領していることが発覚。朝廷に報告された。
道君は、「天皇(大王)」を詐称していたと思われる。それほど、越とは当時の大国であったのであろう。後、越前、越中、越後と三国に分けられたのはそのためと考えれる。(櫛木謙周, 2007)

欽明31(570)年7月、高麗の使人、近江へ行く

欽明31(570)年7月、朝廷は、許勢臣猿(こせのおみさる)と吉士赤鳩(きしのあかはと)に命じ、飾り船で、琵琶湖北岸に高麗の使人の迎えに遣わした。高麗の使人はこれに乗り相楽館に向かう。 朝廷は、東漢坂上直子麻呂(やまとのあやのさかのうえのあたいこまろ)と錦部首大石(にしこりのおびとおおいし)を遣わして、守護とした。

欽明32(571)4月、欽明天皇崩御

敏達元(572)5月1日、高麗の使人、このころ未だ相楽館にとどまる

敏達元(572)5月15日、王仁爾(おうじんに)が高麗の使人の国書を読み解く

敏達元(572)6月、高麗の使人のリーダーである大使が部下のものに殺される。動機は部下のものらがだまされて道君に調を渡したことを帰国後大使に報告されると処罰を受けるため。

敏達元(572)7月、高麗の使人帰国

日本書紀に見られる漂流の記録。この記録は、高句麗との国交に関する最初の確かな記事とされている。日本に来ようとして難破し漂着したのか、破船してたまたま日本に漂着したのかが興味ある所だがその辺りは不明。このあと、573年にも高麗の使人が漂着している(H0573a)が、中国が統一を果たしつつあるころで、統一を果たせば、次は周辺国の独立が危機に陥るおそれがあり、このため、高句麗が日本へ入貢したとすれば、日本を目指して漂着したものと考えられよう。(対外関係史)
相楽の地へ留めたのは、強国高句麗への警戒であろう(対外関係史)。
ところで、2年以上日本にとどまった理由が良く分からない。船が調達できなかったのか。しかし、高麗の使人滞在中に朝廷は新羅に使者を出している。強国高句麗の初めての入貢のためか。大使が暗殺されるのは話としてできすぎの感もある。

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参考文献

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漂流
最終更新:2009年07月04日 06:50