オランダ船、陸奥南部に漂着 1643年(H1643a)

1643年、オランダ人、マルテン・ゲルリツェン・フリース、第 2 回太平洋探検隊の司令官としてカストリクム Castrikum 号に乗船,僚船ブレスケン号を伴い日本の東岸を北航して,サハリン (樺太) 東岸のテルペニエ (知床) 岬の北,北緯 48°54"に到達した。この間,択捉 (えとろふ) 島とウルップ (得撫) 島を発見して,それぞれをスターテン・ラントとコンパニース・ラントと命名し,サハリンと千島のアイヌとも接触

寛永20年6月13日(1643/7/28)、南部山田港(岩手県下閉伊郡山田町)に入る。乗組員のタタール人が「モスコヴィア」国出身のものであると告げる。

1643/8/16、北海道の厚岸(あつけし) で船を修理した(~9/1)が,そのさい松前藩の蝦夷交易船上乗役小山五郎兵衛の船体調べを受けている。(ここまで、木崎良平「漂流民とロシア」)

「外交志稿」では以下のとおり
寛永20(1643)年5月、オランダ船1隻10人、陸奥南部に漂着す。砲術医術に通ずる者5人あり。之を江戸に送り、其術を伝習し後、其国に還らしむ。北海烏舶記に曰く、1643年オランダ商舶咬[口留]吧より出帆し悪風に遇い室韋(しい)東北部カムチャツカに漂泊し、因って野作(えぞ)余東北の諸島を歴て7月曷桀什(かつけし)海(案ずるに即ち今釧路州厚岸郡)に碇泊す。松前藩吏、状を具して其藩に報ず。蘭船南に向て去り、松前の東洋を経て南部山田浦に抵り小船に駕し岸に上り水を取る。南部藩人を遣わし之を捕え江戸に送ると即ち此事(寛永20年5月オランダ船)なり

参考文献

最終更新:2008年04月11日 06:25