1693年 安龍福ら、鬱陵島で米子大谷家の船頭等に拉致される

元禄6年3月17日(1693/04/11)、大谷家の船が鬱陵島へ上陸すると、再び大勢の朝鮮人がアワビを採る姿に遭遇した。話を聞こうと思ったが言葉が通じず、別の浦へ船を回すとそこにも10人ほどの朝鮮人がいた。なかに日本語を話す者がおり、もう一人の朝鮮人とともに船に乗せ、事情を聞きだした。男の話によると、「自分の名前はアヒチャンでもう一人はトラヘ」とのこと。「官命によってアワビ採りに出たが、昨年、この島に漂着したものがたくさんのアワビやコンブを持ち帰ったことから、鬱陵島へやってきた」と来島の経緯を語った。大谷家の船頭たちは2人をそのまま米子へ連れ帰る。
元禄6年4月20日(1693/05/13)、隠岐島福浦へ到着。隠岐島在番の松江藩役人によって2人への尋問が行われた。朝鮮側の記録では安龍福は「朝鮮人が自分の領土に入っただけなのに、なぜ、拉致したのか」と抗議したという。
元禄6年4月27日(1693/05/20)、隠岐をたった一行はこの日、米子へ帰着。大谷家からの報告を受けた鳥取藩は、両名をひとまず米子の大谷家にとどめおく
元禄6年4月30日(1693/05/23)、鳥取藩が幕府へ報告
元禄6年5月26日(1693/06/18)、幕府から「今後、鬱陵島(当時は竹島)に渡海しないように厳しく申し渡した上、長崎に送還するように」という指示が伝えられた。
元禄6年6月30日(1693/08/20)、安龍福ら一行は途中、鳥取城下に滞在した後、この日には長崎に送り届けられた。

元禄6年11月2日(1693/12/09)、朝鮮政府に対する抗議文を携えた対馬藩の使臣・多田與左衛門が釜山へ渡る。書状は次のとおり 「貴域瀕海の漁民たちは、近年、日本国の竹島(現:鬱陵島)に至り、密かに漁採をなしている・・・・・貴国は速やかに各地に政令を発し、漁民たちの渡海を禁ずべきである」 朝鮮側副書「幣邦の海禁至って厳にして、外洋に出ることを得ず。幣境の鬱陵島といえども遼遠の故を以て、往来を許さず」「今ここに漁船敢えて貴界の竹島に入り、領送を煩わす」「今まさに犯人等をして律に依って罪を科す」 多田與左衛門は「幣境の鬱陵島」の削除を求めたが認められず。
元禄7年2月(1694/3月ごろ)、多田與左衛門、朝鮮の副書を藩へ持ち帰る
元禄7年閏5月(1694/7月ごろ)、多田與左衛門、再び釜山へ赴く。朝鮮政府は政権が変わり、「幣境の鬱陵島」削除を拒絶し、代わって日本の領土侵犯を厳しく非難した復書を渡す。「鬱陵島と竹島は同じ島で2つの名がある・・・・・貴国の人も皆知っている。にもかかわらず対馬藩からの書信では、逆に「竹島」を日本の領土とし、わが国の漁船の往来を禁止しようとしている。しかも日本の漁民が鬱陵島に侵入し、わが国の漁民を拘執した過ちについては論及していない」 多田與左衛門は再び文言の削除を迫ったが、朝廷の書契を拒否するのは「無礼なり」と一喝され、復書を受け取る。たが、国本からの指示を受け、「疑問四箇条」からなる質問状を送って復書の内容をただした。だが、朝鮮政府の姿勢は変わらず、多田與左衛門は日本側が80年間実効支配してきたことを盾に領有権を主張する書状を送りつけて帰国。

参考文献

最終更新:2008年04月12日 16:48