1794年 陸奥若宮丸アリューシャン諸島に漂着
1727年、吉郎次、牡鹿郡小竹浜(石巻市小竹浜)で生まれる。
1744年、津太夫、陸奥国宮城郡浦戸村寒風沢(宮城県塩竈市浦戸寒風沢)で生まれる。姓は土井、善五郎(左五郎)倅。宗旨禅宗。菩提寺寒風沢松林寺。
宝暦11(1761)年、儀兵衛、陸奥国桃生郡深谷室浜(宮城県桃生郡鳴瀬町室浜)で生まれる。姓は奥田、源三郎倅。儀平とも。宗旨禅宗。
1762年、左平(太兵衛とも)、陸奥国宮城郡浦戸村寒風沢出身。長九郎倅。宗旨禅宗。菩提寺寒風沢松林寺。
1764/04/08、ニコライ・ベトロヴィチ・レザノフ、ペテルブルグの貧しい士族の家庭に生まれる。
1770、太十郎(太十、太平とも)、陸奥国桃生郡深谷室浜で生まれる。姓は奥田、太十郎倅。宗旨禅宗。
1770、イヴァン・フョドロヴィチ・クルーゼンシュテルン|Ivan Fyodorovich Kruzenshtern、生年。
1778、レザノフ、砲兵学校を卒業、近衛連隊に配属。
1782、レザノフ、退役、地方裁判所の陪審判事をする。
1787、レザノフ、ペテルブルグ裁判所で勤務。その後、海軍省次官チェルヌィシェフ伯爵の秘書官を勤める。
1791、レザノフ、デルジャーヴィンの後ろ盾で官房長に就任。
寛政5年11月27日(1793/12/29)、若宮丸、石巻港を出帆。陸奥国牡鹿郡石巻(宮城県石巻市)の米沢屋平之丞持船、800石積24反帆。積荷は仙台藩御用米1332俵と、御用木雑小間木400本。目的地は江戸。乗組員16名。東名浦(宮城県桃生郡鳴瀬町東名)に寄港して風待ち。
- 津太夫、若宮丸水主。陸奥国宮城郡浦戸村寒風沢(宮城県塩竈市浦戸寒風沢)出身。出帆時49歳。姓は土井、善五郎(左五郎)倅。宗旨禅宗。菩提寺寒風沢松林寺。
- 儀兵衛、若宮丸水主。儀平とも。陸奥国桃生郡深谷室浜(宮城県桃生郡鳴瀬町室浜)出身。32歳。姓は奥田。源三郎倅。宗旨禅宗。
- 左平、若宮丸水主。太兵衛とも。寒風沢出身。出帆時31歳。長九郎倅。宗旨禅宗、菩提寺寒風沢松林寺。
- 太十郎、若宮丸水主。太十、太平とも。出帆時23歳。姓は奥田、太十郎倅。宗旨禅宗。
- 平兵衛、若宮丸船頭。石巻出身。船主の米沢屋平之丞の子ともいう。
- 市五郎、若宮丸水主。石巻出身。
- 吉郎次、若宮丸船親父。出帆時66歳。
- 左太夫、若宮丸楫取。佐太夫とも。寒風沢出身。姓は土井、平右衛門の父。
- 清蔵、若宮丸水主。石巻出身。
- 銀三郎、若宮丸水主。石巻出身。長九郎倅。
- 善六、若宮丸水主。善六郎とも。石巻出身。
- 辰蔵、若宮丸水主。宅蔵とも。宮城郡石浜(塩竈市浦戸石浜)出身。
- 民之助、若宮丸水主。寒風沢出身。姓は土井、栄吉倅。
- 八三郎、若宮丸水主。初三郎とも。石巻出身。
- 巳之助、若宮丸炊。石巻出身。
- 茂次郎、若宮丸水主。茂次平、茂平次、文字平、茂治郎とも。小竹浜出身。
寛政5年11月29日(1793/12/31)、若宮丸、東名浦を出帆。
寛政5年11月30日(1794/01/01)、広野(福島県双葉郡広野町)沖に仮泊。
寛政5年12月1日(1794/01/02)、乗組員16人を乗せて、仙台沖で漂流する。
寛政5年12月2日(1794/01/03)、この日の夜から、激しい北風あるいは南西の風により楫を折られ太平洋を北東に流された。
1794年、レザノフ、ロシア領アメリカ住民をロシア正教に改宗させる目的でオホーツクに派遣されたロシア正教布教団を送り届ける途中、イルクーツクに滞在、シェリホフと出会う。
寛政6年1月6, 7日(1794/02/05, 06)、若宮丸、再び海が荒れ残った米の半分を捨てる。
寛政6年1月11日(1794/02/10)、風波がトモを打ち破り、上棚もさけるという惨状を呈したので、米200俵を残し残りの積荷を捨てる。
寛政6年3月1日(1794/03/31)、表の方に下げた綱2本と、イカリ2頭、5尺板などが波にさらわれた。
寛政6年3月3日(1794/04/02)、カキがらのついた丸木が1本流れよったので、陸が近づいたと喜ぶ。
寛政6年5月9日1794/06/06)、北東のほうに雪の積もった高山を見つける。
寛政6年5月10日(1794/06/07)、アリューシャン列島アンドレヤノフスキー諸島の一島に漂着(16名)。数日後、人の住む島を求めて小船で北に向かう。
寛政6年6月4日(1794/06/30)、人がいるところを見つけ、上陸。
寛政6年6月5日(1794/07/01)、小船で住民のいる島に到達し住民に助けられる。
寛政6年6月8日(1794/07/04)、平兵衛、アリューシャン列島アンドレヤノフスキー諸島の一島で死亡。
寛政6年6月12日(1794/07/08)、ロシア人数名が津太夫らのいる島に来島。
寛政6年6月13日(1794/07/09)、ロシア人とウナラスカ島に渡る(15名)。ウナラスカ島はイルクーツクに本社を持つシェレホフ・ゴリコフ商会の根拠地の島。この島で越冬。
1795年1月、レザノフ、シェリホフの娘アンナと結婚。
1795/04/14、エウストラト・イヴァノヴィチ・デラロフ(シェレホフ・ゴリコフ商会の支配人)、津太夫らとウナラスカ島を出帆。
1795/05/08、サンパメウ島に着く。
1795/05/10ごろ、サンパメウ島出発。アミセイツカ島に着く。
1795/05/12ごろ、アミセイツカ島出発。
1795/07/09、オホーツクに着船(15名) 3班に分けられる。
- 1班:儀兵衛、善六、辰蔵
- 2班:佐平、銀三郎、左太夫、太十郎、茂次郎
- 3班:津太夫、民之助、清蔵、八三郎、市五郎、巳之助、吉郎次
1795/07、ヴァシリー・コレニオビチ・ズヴェズドチョトフ(日本史料ではワシレイ・コレニオブ・ズエズン・ケレトフセ)、40名のウルップ島植民団を率いてオホーツクを出発。若宮丸漂流民の1人がこの一団に故国への手紙を託する。
1795/08/29、第1班、オホーツク発。
1796/02/04、第1班、イルクーツク着。
寛政8(1796)年、ズヴェズドチョトフ、若宮丸漂流民の手紙を厚岸の乙名(長老)イトコイの手を経て、厚岸詰松前藩役人に届けるが、受け取り拒否され、手紙はズヴェズドチョトフの手に戻る。
1796/02/10、エゴル・イバノヴィチ・トゥゴロコフ、若宮丸1班の3名を住まわせる。
1796/3月、善六、辰蔵、イルクーツクで受洗。ロシア名は、善六:ピョートル・ステファノヴィチ・キセリョフ、辰蔵:アンドレイ・アレクサンドロヴィチ・コンドラトフ。受洗しなかった儀兵衛は、神昌丸庄蔵(
H1783a)と同居する。
1796/05、第2班、オホーツク発。
1796/07/14、第3班、オホーツク発。市五郎、途中、病気のためヤクーツクに残留。
1796/08、善六、庄蔵に代わり日本語学校教師補となり、神昌丸(
H1783a)新蔵を補助する。
1796/08/06、エカテリナ2世、ロシア参議院の答申に基づき、東部シベリア総督イヴァン・ヴァシェリエヴィチ・セリフォントフに対し、若宮丸漂流民を日本に送還して通商関係を拓くよう命令を下す。
1796/11/02、市五郎、ヤクーツクで死亡。
1796/11、第2班:イルクーツク着。
1796/11/17、エカテリナ2世、没。
1797/01、第3班、イルクーツク着。
1797年初め、民之助・八三郎、善六に勧められイルクーツクで受洗。ロシア名は、民之助:イヴァン・メイトロヴィチ・キセリョフ(故郷での戒名心月浄照信士)、八三郎:セミョン・ゲレゴロヴィチ・キセリョフ。
寛政10(1798)年、近藤重蔵、厚岸で若宮丸漂流民の手紙の件を耳にする。
1799/03/11、吉郎次、イルクーツクで死亡。享年73歳。同地墓石には阿部屋吉郎祐作と彫られた。
1799/09/27、レザノフ、露米会社の総支配人に就任。役員会をイルクーツクからペテルブルグに移すとともに、皇帝はじめ政府高官を大株主に迎えて、国家保護のもと強力な活動に入る。
1802/01/26(享和元年12月23日)、若宮丸漂流民の手紙が、蝦夷地御用掛の手から幕府当局に届けられる。
1802/1月、クルーゼンシュテルン(海軍大尉)、海軍大臣ニコライ・セミョノヴィチ・モルドヴィノフに対して、バルト海から北太平洋地域に必要な物資を輸送し、帰路広東で毛皮を売りさばき、東南アジアで賞品を買い入れて帰港するという意見書を提出する。
1803/08/10、レザノフ、アレクサンドル1世から露米会社による世界周航船派遣の許可を得る。
1803/04/28、アレクサンドル・メルケリとペテルブルグに向けイルクーツク発(13名)。
1803/04/30、左太夫・清蔵、ペテルブルグへの旅中で発病落伍。イルクーツクへ送り返される。故郷での戒名廓心浄空信士。
1803/05、銀三郎、ペテルブルグへの旅中ベリマで発病落伍。
1803/06/15ごろ、ペテルブルグに到着(10名)。
1803/07/04、アレクサンドル1世に謁見。善六・辰蔵・茂次郎・民之助・八三郎・巳之助の6名はロシア残留を希望する。
1803/07、巳之助、茂次郎、ペテルブルグで受洗。ロシア名は巳之助:ミハイル・ジェラロフ?、茂次郎:ザハル・ブルダコフ?
1803/08/03、津太夫・左平・儀兵衛・太十郎の4名、レザノフとバルト海のクロンシュタット港をナデジダ号で出航。艦長、クルーゼンシュテルン。僚艦ネヴァ号。残留希望の善六も通訳としてナデジダ号に乗り組む。
1804/06、ハワイのオアフ島に到着。
1804/07/15、ペテロパウロフスクに到着。善六、レザノフに下船を命じられる
1804/08/30、出航準備が整う。カムチャツカ大隊のフョードロフ大尉とコシェレフ中尉(カムチャツカ長官コシェレフの弟)の同行を決める。
1804/09/01、レザノフ、艦に乗り込む。
1804/09/02、パヴェル・コシェレフの来訪を受ける。
1804/09/07、抜錨。無風となりアワチャ湾を出られず。
1804/09/08、ペテロパウロフスクを出航(アワチャ湾から外洋に出る)。
1804/10/04、N45°46´ 経度203°52'
1804/09/27、N40°46' 経度209°
1804/09/28、N32°5' 経度226°16' 日本の海岸が見える(大隈半島沖)
1804/10/01、時化に遭う。
1804/10/02、N31°17' 経度227°6'
1804/10/03、N31°42' 経度227°21' 大隈半島と桜島を見る。
1804/10/04、N31°42.63' 経度227°19'
1804/10/05、N31°9.31' 経度229°13' 種子島を通過。
1804/10/06、N31°48’ 経度229°39'
1804/10/07、N32°21.45' 経度230°28' 五島列島を通過。九州に近づく。
1804、善六(在ペテロパウロフスク)、慶祥丸漂流民と会う。継右衛門文内と岩松を止宿させる。
1804/10/09、長崎港伊王崎に到着。行方覚左衛門、菊沢左兵衛、ナデジダ号に乗船。ラングスドルフ(博物学者)、ナデジダ号に同乗。通訳をする。ヘンドリック・ドゥーフ|Hendrik Doeff、ムスケチール、ナデジダ号に乗船。
1804/10/11(文化元年9月8日)、レザノフ、国書を提出。
1804/10/13(文化元年9月10日)、石橋助左衛門、レザノフの国書を翻訳する。
1804/11/03(文化元年10月2日)、ロシア国書の写しとその訳文を幕府が受け取る。
文化元年11月(1804)、大学頭・林述斎と奥儒者・柴野栗山が、ロシア使節への対応策を幕府に上申。
文化元年12月(1804)、幕府、ロシア人の参府、国書の受け取りはもちろん、通交通商のことは許しがたいとし、これをロシア側が承知しない限り漂流民を受け取らないという方針を固め、目付遠山金四郎景晋を宣諭使として長崎に派遣することとする。
1805/01/17(文化元年12月17日)、太十郎、口中に刃物を突っ込み自殺を図る。
1805/02/10(文化2年1月11日)、ロシア人が長崎で小さな紙気球をこしらえ飛ばし人家の屋根に落ちる。
1805/03/30(文化2年2月30日)、遠山金四郎景晋、長崎着。
1805/04/05(文化2年3月6日)、遠山金四郎景晋、レザノフと会見。
1805/04/06(文化2年3月7日)、遠山金四郎景晋、レザノフと会見。「教諭書」を示す。(鎖国の原則をはじめて明確にした)
1805/04/08(文化2年3月9日)、レザノフ、長崎奉行所に別れの挨拶に訪れ、日本側から漂流民の受け取りの申し出を受ける。
1805/04/09(文化2年3月10日)、増田藤四郎・上川伝右衛門・菊沢左兵衛、若宮丸漂流民4名を受け取る。
1805/04/18(文化2年3月19日)、レザノフ、長崎を去る。
1805/04/28(文化2年3月29日)、若宮丸漂流民の供述書「漂流次第口書」できる。
文化2年4月(1805)、若宮丸漂流民の供述書「ロシア国事情口書」できる。
1805/06/05(文化2年5月8日)、遠山金四郎景晋、長崎から帰府。
1805/06/06、レザノフ、ペテロパウロフスクに帰着。
1805/06/17(文化2年5月20日)、石川忠房・中川五郎次、若宮丸漂流民についての評議を命じられる。
1805/06/26、レザノフ、マリア・マグダリナ号でアメリカ植民地視察に向かい、ペテロパウロフスクを出発。
1805/07/02(文化2年6月6日)、石川忠房・中川五郎次、若宮丸漂流民の領主引渡しを答申。
1805/07/04、クルーゼンシュテルン、樺太探検のためペテロパウロフスクを出航。
1805/08/29、クルーゼンシュテルン、樺太探検から帰る。
文化2年閏8月(1805)、若宮丸漂流民4名が返還されたことが仙台藩に通知される。
1805/12/10(文化2年10月20日)、仙台藩武頭平井林太夫、仙台藩徒目付窪田栄助、若宮丸漂流民4名を長崎で受け取る。
1806/02/06(文化2年12月18日)、江戸に到着。
1806/02/08(文化2年12月20日)、大崎の藩邸で取調べを受ける。
1806/02/13(文化2年12月25日)、大槻玄沢の審問を受ける(~文化3年2月中旬)。
文化3年2月下旬(1806)、江戸出発、仙台藩に帰る。津太夫は、この後消息不明。
1806/05/18(文化3年4月1日)、太十郎、病没。戒名本田寿良信士。享年63歳。
1806/10/14(文化3年9月3日)、儀兵衛、死亡。戒名長流来見信士。享年45歳。
文化4年初夏(1807)、大槻玄沢、「環海異聞」を著す。
文化9年10月(1812)、善六、イルクーツクで歓喜丸(
H1810a)久蔵を泊める。
1813/02、善六、歓喜丸漂流民(
H1810a)とイルクーツクを出発。
1813/08/23、ピョートル・イヴァノヴィチ・リコルド、ゴロウニンの開放交渉のためジャナ号でオホーツクを出帆。善六と歓喜丸漂流民(
H1810a)久蔵が通訳として同行。
1813/10/01(文化10年9月8日)、エドモ(室蘭)入港。
1813/10/09(文化10年9月16日)、善六箱館入港。
1813/10/22(文化10年9月29日)、ゴロウニン開放され、箱館を去る。
1814/09/12(文化11年7月29日)、津太夫、郷里(陸奥国宮城郡浦戸村)で死亡ともいう。
1815年、石巻の善六。ゴロウニン開放時の通訳の功として日本語学校正教師に任命される。
1816/08/07、イルクーツク日本語学校、経費不足のために閉鎖。
文化13(1816)年ごろ、善六、死亡。
1829/05/14(文政12年4月12日)、左平、死亡。戒名観林了念信士。享年67歳。
1844/04/11、クルーゼンシュテルン、日本への通商使節の派遣を提案するが、認可されず。
1846年、イヴァン・フョドロヴィチ・クルーゼンシュテルン、没。
参考文献
最終更新:2008年04月12日 20:39