オットー・イェーガー


オットー・イェーガー」

白銀の如き銀髪をしたユグドラシル帝国海軍に所属する青年将校。
名将として知られるフリードリヒ・イェーガー海軍大将の養子であり、彼に負けず劣らぬ軍才を持つ。
自然と人の上に立つカリスマ性を持った偉丈夫であり、
彼と相対した人間は例え敵であっても無自覚のうちに自ずと彼のことを敬称で呼んでいたという。

このように英雄たる資質を持っていた彼だが、その身にはユグドラシル11世ヒルデブラント帝の血を継いでおり、
後に第12代皇帝として君臨するオットー・エル・ユグドラシルこそ、後の彼の姿である。


帝暦232年、ヒルデブランド帝の治世に皇帝の息子としてユグドラシル首都ファンタズムに誕生する。
誕生してすぐに実の母親から引き離され、自身の出生について何一つ知らぬまま、
フリードリヒ公の子として育てられることとなった。

フリードリヒ公から実の息子のように育てられたオットーは、やがて父と同じ軍人の道を志すようになる。

その意思を尊重した父により教育を受けていたオットーはカーメイオン士官学校に入学後、
すぐにその頭角を現し様々な科目で多彩な才能を発揮する。
中でも彼が得意としたのは用兵学の模擬戦闘訓練で、
100戦して100勝した彼の成績は今も破られておらず、半ば伝説となっている。
一方で作戦考案の科目ではあまり高い評価を受けていなかったが、
その理由はいわゆる「教科書通り」の解答に囚われない型破りな発想を好んでいたためで、
講師の受けがよくなかったためである。


この当時のユグドラシル軍内部はヒルデブランド帝の治世のもとで
機能不全に陥った帝国議会に対する対応について、大きく二つに分かれていた。

すなわち、ジェイク・ヴァ―レッド陸軍大将を中心とした軍部による議会掌握を唱える革新左派グループと、
フリードリヒ・イェーガー海軍大将を代表にあくまで軍部は軍部として政治へは中立を保つべしとする保守派グループの二つである。

この二つのグループは、海軍と陸軍という二つの組織の対立という形も含み、
帝国軍全体の派閥対立として軋轢を強め、さらにはそれら軍組織を構成する貴族家間の抗争ともなっていった。
(後世の歴史家の多くは、こういった水面下での対立こそがヒルデブランドの乱の原因であり、
 皇帝の後継者問題はあくまできっかけに過ぎないと指摘している)

こういった派閥対立の雰囲気は軍学校の士官候補生達にも流れ込み、
特にカーメイオン海軍学校とローネラズマ陸軍学校の対立は若者ならではの苛烈さにより過激化を見せていた。
そのような情勢下で、聡明な人格と優秀な才、そして保守グループの先鋒である
イェーガー将軍の息子という肩書を持つオットーがカーメイオンの士官候補生達の中心人物となるのは自然の成り行きであった。
(この頃オットーを支持していた同期の士官候補生達の中には、後の軍部改革において中心的な役割を果たし、
 その後の多くの戦争においても伝説的な活躍をする者が多く出たため、
 彼らを総称してその入学時期から『250年の英雄達』と呼ぶこともある)


オットーが士官学校を卒業して2年後の帝歴256年、ヒルデブランド帝の崩御と共に、
それまでの数年来に渡る緊張状態は一気に弾け各貴族家は全面的な武力衝突へ突入しようとしていた。
この混乱の中、海軍の統合作戦本部にて参謀の任に着いていたオットーは、
帝国全土を巻き込む内乱を懸念していた父より自分の出生を打ち明けられ、
自身の立場を戦いを収めるために利用すべく動き出していた。

この「ヒルデブランドの乱」を短期で平定したオットーは、名実ともにユグドラシル12世と目されるようになり、
また彼も疲弊した帝国を立て直すべく若き君主として立つことを決意したのであった。


……その後に待ち受ける、多くの苦難を、若き英雄はまだ知らない。

最終更新:2014年09月18日 15:40
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