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「どうぞ。入って貰って構いませんよ」

 北区滝野川、とある豪邸。
 夜更け過ぎまで本を読んでいた胡蝶しのぶは、自室の戸を叩くノックに静かに答えた。

「まだ起きているのかい。明日から早いのだろう?」
「寝付けそうになかったもので」

 促されるままに乙女の自室に入ってきたのは、表向き彼女の『彼氏』――ということになっている男。
 ぼさぼさの髪に、よれた服。
 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン。
 実際には、胡蝶しのぶに割り振られたサーヴァントであった。

「それは……ああ、『あいつら』に関する本か」
「ええ。『クトゥルフ神話』。
 今までの私とは縁のない分野でしたので、少ししっかり背景まで把握しようかと」

 少女の手元に積み上がっていたのは、翻訳された海外文学の文庫本に、ちょっと判が大きく絵の多い冊子。
 『クトゥルフ神話大百科』、『怪奇文学シリーズ』、『知られざる世界』……。
 短編小説集から挿絵付きのまとめ本まで、雑多なモノが集められている。

「20世紀のアメリカで生み出された『架空の』神話体系。
 奇妙な世界観を用いた『シェアードワールド』の小説群。
 この世界には、時に『神』などとも呼ばれた奇妙で強大な存在が多数、太古から存在していて。
 人智を超えた力を持ち、人智の及ばない論理で動いていて。
 今でも当たり前の日常の薄皮一枚下に潜んでいる。
 『踊る泡』、『クグサクサクルス』あるいは『サクサクルース』もそのうちの一柱……」

 軽く諳んじて、そしてしのぶは大きくため息をついた。

「……それって要するに、『フィクション』ってことですよね?
 作り物、小説家たちが勝手に書いたことですよね?
 根も葉もない、『作りごと』、なんですよね?
 そんなモノが本当にこの聖杯戦争に『居る』っていうんですか?」
「確かに、表向きは『そういうこと』になっているね。ただ――」

 少女の問いかけに、男は少し言葉を探すような間を空けて。

「ただ――古代より、優れた芸術家や詩人は、常人には知りえない『何か』と通じ合ってきたと言われている。
 ミューズや神々、悪魔にリャナンシー。
 あるいは、そういった名前すらつけられなかったもの。
 優れた才能が『何か』を引き寄せるのか。
 それとも、『何か』と通じ合ったから傑作を手に出来たのか。
 そういった例はたくさん知られている。
 だから……小説家が『知られざる何か』と『通じ合って』『真実に触れた』のだとしても。
 僕は、驚かないかな」
「へぇ」

 胡蝶しのぶは、そこで不意に『嘲笑った』。
 男の顔を下から見上げるようにして、両目を大きく見開いて、口元だけで笑みを浮かべる。
 深い淵のような、大きな、どこか虚ろな瞳孔がベートーベンを射すくめる。
 瞳の中に吸い込まれるような、際限なく虚空へと落ちていくような、そんな錯覚を覚える。
 なぜか、気圧される。

「それって、『御自身』の経験からの言葉ですか?」
「……ッ!」


「『トルネンブラ』」


 思わず息を呑んだ所に、不意打ちで被せられた、奇妙な響きの知られざる名前。
 男は脂汗を浮かべるだけで、身じろぎひとつ出来ない。
 代わりに、室内には冷たい風が巻き起こる。
 窓を閉じたままの夜の部屋の中に、一陣のつむじ風のような風が吹く。
 ありえない現象に髪を揺らしつつ、胡蝶しのぶの笑みは変わらない。


「実のところ、半分、あてずっぽうだったんですけどね。
 さっきこの本で『それっぽいもの』を見つけたもので、カマかけちゃいました」
「……驚いたな。
 隠しきれるとは思っていなかったけれど、こんなにも早く、名前まで」
「違和感があったのは、貴方が『私に音楽の才能がないこと』を『喜んで』いたことです。
 まだ短い付き合いですけど、本来の貴方は、それを喜ぶような性格ではありません。
 自分の能力と作品を正当に評価されることを望む、ごく真っ当な感性の持ち主です。
 なのにがあえて『才能がない』ことを『喜ぶ』というのは――
 もし『それ』があったら、何か『困ったこと』が起きかねないから」
「まいったな、脱帽だ」
「そして――今も『いる』んですよね? 貴方と一緒に?」
「……ああ」

 ベートーベンは深いため息をつく。
 観念したような表情で、ちらりと横にいる『何か』に目を向ける。
 しのぶの目には、そこには何もない空間しか見えないけれども。

「予め言っておくと、それらの本に書かれたことは、物事の一面に過ぎないだろう。
 大雑把に言って『当たらずとも遠からず』。せいぜいがそれくらいの情報のはずだ」
「でしょうね。見当はつきます」
「君の推測の通り、僕は『これ』から『踊る泡』の名前を聞いた。
 縁者ではあるけれども、同時に油断のならない、恐るべき存在であるらしい。
 彼女はすっかり怯えてしまっている」
「『彼女』……?
 女性、いえ、性別があるという記述はなかったはずですが」
「まあ色々あったのさ。僕とコイツの間にも」

 男の見つめる先の虚空に、小さな風が渦巻く。
 気を付けて観察すれば、それの本質は風ではない……超高周波の小さな音の集合体。
 指向性をもって小さなループを描き続ける、外に漏れることのない振動そのもの。
 動きに伴う微細な振動が副次的に『風』として『才能のない者』にも感じられているのだ。

 生ける異界の音楽、トルネンブラ。
 もしもそれと通じ合うほどの『才能』があったら、それはどれほどの存在感があるものなのだろう。
 どんな姿として顕現して見えるものなのだろう。
 そして、それらの同類が、この東京二十三区には神出鬼没に闊歩しているというのだ。


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「私が留守の間に来たという、泡のような存在、『クグサクサクルス』。
 この本には『同族食い』、独りで子を産んでは子を食うものとありますけど」
「それは真実の一面だろうな。
 僕が聞いた話では、そいつの本質は『宗教を捕食するもの』なのだという」
「宗教を……捕食?」
「神と、それを信仰するもの。信仰者が作り上げた文化や概念。
 それらを丸ごと『喰らって』、『初めからなかったかのようにする』存在。
 彼女たちのような存在にとっては、まさしく天敵のようなもの……であるらしい」
「なんだか凄いお話ですね」
「伝え聞いている僕も、全貌を把握できている気はしない。
 ただ、それでもいくつか言えることがある」

 ベートーベンは断言する。
 彼とて『彼女』の同類についての知識は多くはない。
 こいつも傍迷惑な悪霊みたいなものだが、それぞれ全く違う種類の厄介さを持っているのだろう。
 けれど、他ならぬ彼自身が、『英霊』であり『サーヴァント』である。

「『彼ら』の本体がいかに強大な存在だったとしても。
 聖杯戦争において、『サーヴァント』やそれに付随して呼ばれたモノとして現界したのなら。
 彼らには、『サーヴァントとしての限界』がある」
「サーヴァントとしての……限界」
「仮に『本体』は不滅だったとしても、真に不滅でいられる『サーヴァント』はそうそう居ない。
 何をするにも魔力を消費する。大掛かりなことにはそれだけ膨大な魔力を消費する。
 大抵の場合、マスターを失えば存在を維持していられない。
 つまり――」
「やり方次第で戦って倒すことも可能なはず、ということですね」

 しのぶは男の意を理解する。
 彼女たちの主従が異例なほどに『弱い』ことは脇に置くとしても。
 最初から諦めなければならないような相手ではない。

「その『踊る泡』、まさか本当に遊びに来ただけってことはないと思うんですけど。
 それでも、一方的にこちらの居場所を把握されているのは間違いありません」
「また来るって言ってたしね」
「こちらから積極的に敵対する必要はありませんが、対策を練っておくべきです。
 仮に敵に回ったとしても返り討ちにできるような、そんな策を」
「できるかね」
「それが『捕食者』だと言うのなら……倒すだけなら、実は簡単なんですよ。
 多少の分析と研究の時間は要りますが、『必殺の策』は、あります」
「言いきるね」

 しのぶの口元に、どこか酷薄な笑みが浮かぶ。


「毒を、盛るんです」


 悪戯っぽくも『毒』を帯びた口調で、彼女は語り続ける。


「食餌に見せかけて、『食べてはいけないもの』を食べさせる。
 偽装した致命の仕掛けを、相手に自発的に飲み込ませる。
 相手の内側から、殺す。
 私の一番得意な『闘い方』です」
「なるほど。
 では何を食べさせる。
 何ならば食いつく」
「そうですね……思いつくままに挙げるなら。
 一見宗教のようで宗教でないもの。
 あるいは、宗教であるかどうかすら曖昧なもの。
 神を称えるように見えて神を否定するもの。
 信仰のように見えて、信仰を否定するもの」
「あるかな、そんなもの」
「即答はできません。
 ただ、有無で言うのなら、どこかに必ずあるはずです。
 『宗教捕食者』が、差し出されれば食いついて、そして消化できずに身を滅ぼす『何か』が」


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「ただ、そういうことなら……僕も力になれるかもしれない」
「と言いますと?」
「例えば『宗教的熱狂』の『ようなもの』なら、僕は意のままに『作る』ことができる」

 男はそこで言葉を切って、深く息を吸い込む。
 やがて静かに穏やかに紡がれ始めたのは……口笛だった。

「…………ッ!」

 一音一音、明確に区切るように発せられる音は、シンプルなメロディを作り出す。
 一音ずつ丁寧に、段を登って、段を降りる。
 一音ずつ丁寧に、段を降りては、段を登る。
 あまりにも明瞭で、簡単で、単純で、たった一音の口笛でしかないのに。
 それは圧倒的なまでに豊穣で、光に溢れて、否応なしに力強い感情の波を引き起こす。

 主旋律に寄りそう数多の音がありありと想像できる。
 数多の人々が、声を合わせてこの歌を奏でる姿が脳裏に浮かぶ。
 全身が総毛立つ。
 生の喜びと、今ここにこうして居られることへの心の底からの感謝。
 一切の捻りなく、淀みなく、高らかに歌い上げる。
 宗教的熱狂。
 その通りだ。
 もしも『これ』で足りないのなら、一体何がその言葉に相応しいと言うのだろう――

「――アン・ディー・フロイデ。
 交響曲第九番、第四楽章。その中心となる旋律。
 この時代の日本では『歓喜の歌』として知られているみたいだね」
「夜中の演奏はやめて下さい、と前にも言いましたが。
 口笛も、やめて下さい。ご近所に迷惑です」
「済まないね。ただ、聞いてもらった方が早いと思ってね」

 男は頭を掻いてみせるが、その実、まったく悪びれていない。

「これは本来は合唱つきの交響曲だ。
 フルのオーケストラに加えて、合唱団がつく。
 さっきの主題に至るまでの前準備も長いし、そこからの展開も複雑だ。
 今のだってだいぶ『手加減』したんだぜ。
 僕が本気で再現したら、『こんなもの』では済まない」
「それは……私にも分かります。
 嫌でも、分からされました」
「あの『踊る泡』が出た時、これを聴かせていたなら、どうなっていたのかな。
 ひょっとしたらその場で僕も食べられて、そのまま倒せてしまっていたのかもしれない」

 ひゅごうっ。
 男の軽口に、見えざる風が一瞬だけうなりを上げる。
 しのぶもつられて溜息をつく。

「つまらない冗談はやめて下さい。
 勝手に脱落されても迷惑ですし……それに『彼女さん』、怒ってるみたいですよ」
「彼女って訳でもないんだけどなぁ」
「ただ……貴方ごと食わせるのは論外だとしても。
 『音楽』を餌にする、というのはアリかもしれませんね」

 優れた音楽によって引き起こされる感動や情動を、『信仰』と誤認させる。
 それを『宗教捕食者』に『誤嚥』させる。
 もちろんまだまだ詰めねばならない部分はある。
 具体的に何を食わせるのか。そこにどんな『毒』を仕込むのか。本当に倒しきれるのか。
 それでもこれはひとつ、有力な可能性であった。


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「ずいぶんと話し込んでしまったね。明日も早いのだろう」
「そうですね」

 夜もだいぶ更けて。
 男は椅子から立ち上がる。
 明日からは聖杯戦争の本番開始であり、また、学生にとっては連休の始まりだ。
 ここまでは学生の役割(ロール)のために、ほとんど動くことができなかった胡蝶しのぶ。
 それでも、彼女はただ無為に時を過ごしていた訳ではない。
 動けないなりにネットや級友たちから情報を集め続けて、既にある程度の目星をつけている。

 しのぶが狙うのは、この聖杯戦争の主催者を吊し上げ、最低でも『一発派手にブン殴る』ことである。
 ある意味で非常に厳しい道である。
 なまじ優勝と聖杯を目指すよりも遥かに厳しい道。
 しのぶとベートーベン、そこにトルネンブラを数に入れたとしても、三人だけで届く目標ではない。

 必要となるのは『協力者』だった。
 必ずしも全ての思惑が一致する必要はない。
 こんな酔狂な目的を掲げる主従が、他に居るとも思えない。
 けれど、自分たちだけでは届かないのなら、誰かの助けが要る。

 どうやら優勝狙いではなく、けれど聖杯戦争の関係者としか思えず、接触しようと思えばできる相手。
 そんなものはどうしたって限られてくる。
 しのぶたちの求める条件に合う存在は、現時点ではたったひとりしか居なかった。

「最近になって不自然なまでに急に人気を上げてきたアイドル、『リルル』。
 きっと彼女もマスターか、あるいはサーヴァントです」

 他の主従を釣って倒すための罠である可能性は検討した。
 しかし、それにしては行動が不自然なのだ。
 趣味なのか、何らかの宝具の発動条件なのかは知らないが、悪目立ちすることを厭わず活動している。
 明らかに、何か超常的な能力を惜しみなく使ってその地位を確立している。
 どう考えても、労力として、ただの釣りとしては割に合わない。

「気を付けていってらっしゃい。良い報告を期待して待ってるよ」
「何を言ってるんですか? 貴方も一緒に来るんですよ」
「ええっ!? 僕は戦力にならないよ?」
「そこは最初っから期待してません」

 情けない悲鳴を上げた楽聖に、しのぶはニッコリと、あまりにも明るい笑みを浮かべてみせた。
 花のような笑顔に、断るという選択肢はない、と言わんばかりの強い圧が備わっている。

「相手は『歌』で勝負している『アイドル』です――
 それがどんな交渉になるにせよ。
 『英霊の座に名を刻むほどの音楽家』からの『楽曲提供』の可能性は、立派な『交渉材料』になるはずです」



【北区・滝野川/胡蝶家の屋敷/1日目・未明】

【胡蝶しのぶ@鬼滅の刃】
[状態]:健康
[令呪]:残り三画
[装備]:専用の日輪刀(竹刀袋入り)
[道具]:応急処置セット、日輪刀で使うための毒物一式
[所持金]:潤沢
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯戦争の仕掛け人を突き止めて張り倒す。
1:夜が明けたら人気急上昇中アイドル『リルル』と接触を図り、可能なら手を組む。
2:『宗教捕食者』への対処法を練る。

[備考]
※フィクションとしての『クトゥルフ神話』の基本的な知識と資料を得ました。
※ベートーベンと共にいるトルネンブラの存在を知りました。


【ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン@史実+クトゥルフ神話】
[状態]:健康
[装備]:無し
[道具]:無し
[所持金]:無し
[思考・状況]
基本方針:マスターのために曲を作る。
1:えっ僕も行くの? えっ楽曲提供?? 聞いてないよ!?
2:『宗教捕食者』への対処法を練る。
最終更新:2022年06月19日 22:49