前節で見たように、現代若者の職業生活に関しては社会的な問題の影響が大きい。それにもかかわらず、当事者の心理的な問題に帰着させられることが多い。「フリーター」や、とりわけ「ニート」に関して、後藤和智が挙げているように、若者の意識の変容を批判する言説をしばしば見かける(本田由紀ほか 2006)。その多くの場合は怪しげな感情論に終始しており、就業問題を若者の意識にのみ還元するのは正しくないだろう。とはいえそこで言われていることは全くのでたらめというわけでもない。
まず「働かざるもの食うべからず」という命題を根拠とした批判がある。これは物に乏しいときの実際的な帰結に過ぎず、規範ではないと考えられる。だからこの命題は、働かなくても食べられるなら、働かない人を批判する根拠とはなり得ない。批判すべきことは、同じように働かない人であっても、親の所得で食べられる人もいれば食べられない人もいるという格差であろう。近代国家においては生存権が認められており、「働かざるもの食うべからず」ということはない。
このことを認めたとしても、働くことができるのに働かないのはいけないという批判は残る。「(働けるにもかかわらず)働かざるもの食うべからず」というわけである。実際に福祉国家の社会保障の前提も、何らかの理由で働くことができない場合には保障を認めるという形になっている。全く無条件に保障が認められるならわざわざ働こうとする人は少なくなって、制度そのものが立ち行かなくなるという事態は十分に考えられる。しかし、先に見たように、現代の若者の相当程度は働くことができないのである。ところが、現代では雇用の自由化や技術の発展のためなどにより、働くことができないことを証明することが困難となっているのである。
また、食べることとは独立して、人間はともかく働くべきであるという批判も存在する。小杉や橘木が指摘するように、とりわけ男性は、主として正規雇用の賃金労働という形態で一定の年齢になったら外で働かなくては一人前ではないとする規範のために、「フリーター」や「ニート」になると周囲からの理解が得られがたく、より悲惨な状況である(小杉編 2002: 170; 橘木 2004: 49)。とはいえこの規範は現在揺れ動いている[*11]。
若者の意識に関しては従来の経済学にはおさまらない。若者の意識の問題だからただがんばれという根性論は論外としても、「フリーター」や「ニート」になる若者は高望みしているという説明にはうなずける部分もある。立岩真也は、現在の若者の就業問題は制度に原因があるとしたうえで、若者に向かって次のように言う。「仕事を分けてくれ、それがいやなら金を、というのはもっともな要求です。金を分けろ、それがいやなら仕事を、でもよいのです。そして、所得と就労、両方いっしょでもよいし、その方がよいはずです。とにかく問題を人の心の問題と見ないことです。気持ちを入れ替え、訓練すればなんとかなるなんて話を信じないことです。繰り返しますが、そんなはずないんです。」(立岩 [2005] 2006: 166)。また熊沢も若者が労働組合を通して経営陣に労働条件の改善を主張すべきだとしている(熊沢 2006: 212)。これらは正論だろう。しかし若者たちがこうした主張をしづらいのは、知識の欠如とともに、がんばれば成功する可能性があるという、「強い主体」の想定があるためである。
[*11]
しかしここでは、「
はじめに」でも断ったように、ジェンダー論にはあまり踏み込まない。
最終更新:2007年05月02日 18:45