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避2-678

 白く、しなやかな指がペンダントのチェーンにかかる。
 絹糸のように細い輪の連なり。ほんの一瞬の抵抗の後、弾けるように宙に舞う。

 手を真っ直ぐに伸ばす。千切れた鎖の先で輝きを放つ、幸せの素を高く掲げる。
 贈ってくれた人の目に、しっかりと映るように。

 向かい合う少女は、信じられないといった面持ちでその動きを見守る。
 心は凍りつき、感情は形を成さない。思考だけが状況を正確に、そして無慈悲に、記憶に刻み込んでいく。


(やめて、お願い、やめてぇ――――!!)


 届かない。どんなに叫んでも、今のせつなの声は決して届くことは無い。
 これは、夢の中なのだから。
 せつなと、そして、きっとラブにも刻まれた過ちの記憶なのだから。

 チェーンをつかむ指から力が抜け、それはゆっくりと落下していく。まるで、スローモーションのように。
 固いコンクリートの床に叩き付けられ、軽くバウンドする。


 ズキン――――ズキン――――ズキン
 ズキン――――ズキン――――ズキン――――ズキン
 ズキン――――ズキン――――ズキン――――ズキン――――ズキン


 痛い、痛い、痛い。心が――――砕け散りそうになる。
 まるで自分の魂が、その緑色のアクセサリーに封じ込められてでもいるかのように。

 踵で踏み付けて力を込める。形を変えるはずのない硬い樹脂が、ほんの一瞬だけ歪む。
 軋みを上げることもなく、割れる音を大きく響かせることもなく。
 悲しいほどにあっけなく、四散した。







翼をもがれた鳥(第十七話)――――幸せの素に導かれて――――』







「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」


 激しい運動ですら、滅多に乱すことの無いせつなの呼吸が荒れる。
 額に滲む大量の汗は、寝苦しいほどに熱い気温のせいだけではないだろう。


「ある。――――ちゃんと、ここに……」

 ベッドの宮棚に大切に置かれた、緑色のアクセサリーを手にする。
 もう、欠片とは呼べないだろう。
 砕けた破片の中から見つかった四つ葉の一枚。それを削って、磨き上げて、ハート型に仕上げたのだ。

 このままでは、あまりにも悲しかったから。
 後悔以外の――――意味を与えたかったから。







 トン、トン、トン

 パジャマを着替えて、静かに階段を降りる。
 まだ起きるには早い時間かと思ったが、あゆみは既に家事に取りかかっていた。
 居間の隣、和室と呼ばれる畳で敷き詰められた部屋。そこで先の尖った器具で作業をしていた。

 邪魔をしてはいけないと思い、その場で待つことにした。
 しばらく後、作業が一段落したのか、あゆみは廊下でたたずむせつなに気が付いて振り返る。


「おはよう、せっちゃん。どうしたの? こちらにいらっしゃい」
「おはよう、あゆみおばさま。邪魔しちゃってごめんなさい」


 なんとか丁寧語を崩そうと、懸命に努力しているせつなの挨拶が可愛らしかった。あゆみはせつなを招き
 寄せる。
 アイロンかけはほとんど終わっていたのだが、せつなの様子から、興味がありそうに見えたからだ。
 不思議そうな顔で見つめるせつなに、やってみたら? とあゆみが持ちかける。
 少し恥ずかしそうにはにかんで、せつなは頷いた。

 霧を吹き、細かい部分から順に、直線的に動かしていく。
 右手でアイロンの先を浮かして動かしながら、左手で器用に生地を引っ張っていく。
 見る見るうちに美しく仕上がっていく。
 あゆみは驚きに目を見開いた。
 確かにアドバイスはした。素直に頷きもした。しかし、せつなの手はそれを始めから熟知しているかのよ
 うに動く。
 その動きは、あゆみと比べても遜色のないものだった。


「すごく上手ね、せっちゃん。やったことあったのね」
「いいえ、これが初めてです」

「えっ? でも、教えていないことまで……」
「さっきまで、おばさまのアイロンかけを見ていたから」


 そのとんでもない言葉に、あゆみは一瞬、驚愕して身を引いてしまう。
 改めて、まじまじとせつなを見つめる。その表情には、自信も、誇らしさもうかがえなかった。
 それどころか、困ったような、不安そうな様子すら感じられた。あゆみの反応に、何か失敗してしまった
 のではないかと心配しているのだろう。
 ふと、あゆみはラブの言葉を思い出す。

 とてもつらい所で生きてきた子だからって。失敗したり、言うことを聞かなかったりしたら、それだけで
 命が奪われてしまう。
 そんな世界で、ずっと暮らしてきた子だからって。
 極限まで研ぎ澄ませた集中力。ずっと、この子はそんな風に張り詰めて生きてきたのだろう。

 愛しくなって、あゆみはせつなをそっと抱き寄せた。
 情緒が不安定なところもあるだろうけど、仕方がないの、わかってあげて。
 ラブはそう言っていた。
 情緒不安定はどちらかと思う。せっちゃんに変に思われないかしら? そう心配しつつも、抱き寄せる腕
 を離す気にはならなかった。
 この子に一番足りないのは、この温かさだって気がしていたから。


「おばさま?」
「ああ、ごめんなさい。嫌だった?」

「ううん――――」
「そうだ、何か用事があったんじゃないの?」


 せつなは小さく頷いて、ポケットから緑色の塊を取り出した。
 大切そうに、両手に乗せてあゆみに見せる。


「大事なものなんです。壊してしまって……。もし、使わないチェーンか何かあったら」
「直したいのね?」

「はい。始めは四つ葉の形をしていたんです」
「ええ、ラブから聞いているわ。あの頃ね――――」


 ねえねえ、おかあさん、幸せの素って何だと思う?
 商店街の福引の一等賞がそれなんだって。だから、どうしてもゲットするんだって。
 キラキラと瞳を輝かせてラブはそう言っていた。
 貯めていたお小遣いも全て使ってしまった。カオルちゃんのドーナツを食べるお金すら残っていない。
 よく、そうボヤいていたものだった。
 それでも諦めきれなくて、進んでお使いをかってでた。
 買い物に出かけるたびに足を弾ませて、帰ってくるたびに肩を落として――――

 ある日、素敵なお友達と知り合うことができたって、ラブはそう言っていた。
 その子はドーナツを食べるのが初めてなのに、惜しみなく半分こしてくれたって。
 ジュースも買えなくてお水で喉に通したけど、これまで食べたどんなドーナツよりも美味しかったって。

 その後、やっと幸せの素を手に入れることができたって。そして、それをその子にあげてしまったって。
 ごめんなさいって、ラブはあゆみに謝った。
 あゆみは、良かったわねって、そう言って微笑んだ。


「だって、そうでしょ? もっと欲しいものが、見つかったってことなんですもの」
「はい……」


 せつなは、それを両手に握りしめて瞳を潤ませる。
 あの日から、あゆみはその子のことが、ずっと気になっていたって。だから、こうして家族になれて凄く
 嬉しいって。


「そうそう、チェーンだったわね。待っててね」
「おばさま! それは――――」


 清楚な光沢を放つ白銀のチェーン。その先に付いているのは、ハートをあしらったプラチナの細工物。
 その中央に丸くて大きなルビーが収まっていた。
 それは、樹脂で成型されたものなんかじゃない。本物の――――宝石だった。

「待ってください! それは、駄目です!」
「いいのよ。せっちゃん、赤が好きなんでしょう? だから、あげようと思っていたところなの」


 専門知識の無いせつなにも、それが相当に高価なものだということくらいはわかる。
 普段、宝石を身に付けないあゆみの持ち物であることを考えれば、大切な思い出の品だということも想像
 がつく。
 せつなの制止も聞かず、あゆみはそれをチェーンから外し、代わりに幸せの欠片を取り付ける。


「器用でしょう? これでも職人の娘なのよ」
「私、そんなつもりじゃ――――」

「いいの。ただし、ルビーは部屋にしまっておくこと。中学生が身に付けるものじゃないわ」
「中学生?」

「そうよ、もう手続きは済ませましたからね。せっちゃんはラブと同じ中学二年生よ」


 できた! きっと、よく似合うわ。あゆみは、せつなに抱きつくような格好でペンダントをかけた。
 そして、せつなの手を開いてルビーを握らせた。
 情熱の赤い宝石。勝利の石とも呼ばれ、あらゆる危険や災難から持ち主の身を守り、困難に打ち克ち、勝
 利へと導くという。


「きっと、せっちゃんのことを守ってくれるわ」
「ありがとう――――」


 そこから先は言葉にならず、せつなは、今度は自分からあゆみに身を預けた。
 飛び込むほどの勇気は出せず、触れるか触れないかの距離で全身を震わせて泣いた。
 あゆみは優しくせつなの背中を撫でる。そして、心を込めて囁いた。


「幸せになりなさい。せっちゃん」







 小さくて可愛らしいハート型のペンダント。せつなは、そっと首に戻して追憶を終える。
 幸せになりなさい――――あの時かけられたあゆみの言葉に、結局せつなは返事をすることができなかっ
 た。

 今なら、胸を張って答えられるだろうか?
 はい――――と。

 無理だと思う。
 それでも、せつなはこれから幸せをつかみに行く。
 例え、一時のものであっても構わない。与えられるのではなく、自分から幸せを手に入れに行く。


(それをどうか――――許してください)


 せつなはペンダントを握りしめて、静かに祈りを捧げた。

 コンコン

 部屋がノックされる。音の響きでラブだとすぐにわかる。
 せつなは、急いでペンダントを服の中にしまって戸を開けた。


「せつな! ブッキーがせつなに会いたいって」
「ええ、わかった。私が迎えに出るわ」

「そっか。じゃあ、あたしはお茶を淹れてくるね」


 祈里からせつなに会いに来る。それがラブには大きな驚きだった。
 まだ、美希や祈里はせつなと馴染んでいるとは言い難い。ラブとしても気の使うところだった。
 まして、祈里は控えめな性格で、自分から行動を起こすことは少ない。それだけに意外で、そしてありが
 たかった。

 せつなが玄関まで迎えに出ると、祈里は嬉しそうに微笑んだ。
 手には大きな包みを抱えている。せつなは自分の部屋に祈里を案内した。


「いらっしゃい、ブッキー」
「お邪魔します。わぁ~、せつなちゃんのお部屋かわいい!」

「ありがとう。とても気に入ってるのよ」


 せつなは本当に嬉しそうに微笑んだ。もともと、自分のことを誉められて喜ぶような子ではない。
 だけど、この部屋は別だった。この家と、この家族は特別だった。


「今日は、せつなちゃんにプレゼントを持ってきたの」
「ありがとう。何かしら?」

「これは――――赤い、ダンス服? 私の……」
「せつなちゃんの、クローバー加入のお祝いよ。気に入ってもらえるといいけど」

「ありがとう――――さっそく着てみていいかしら?」
「うん、じゃあ、わたしは外に出てるね」

「それは悪いわ。ブッキーになら、見られても平気だから」
「うん、じゃあ着つけを手伝っちゃう」


 下着姿になったせつなを見て、祈里は息を呑む。
 透き通るような白い肌の下に秘められた、強靭なる筋肉。鍛え上げられたスレンダーな肢体なら、美希で
 知っている。見たことがある。
 だけど、またそれとは違う。魅せる力ではなく、秘める力。生き抜くことに特化した、戦うための肉体。
 例えるならば、豹のようなしなやかさ。研ぎ澄まされた、刃物のような美しさ。一見女性らしい丸みを帯
 びながらも、その奥に弾けるようなバネを感じさせた。


「せつなちゃん……すごい……綺麗」
「もう、恥ずかしいからジロジロ見ないで」

「ごめん、じゃあ、寸法の微調整もしちゃうね」
「ええ、お願い」


 祈里は、メジャーと針と糸を引っ張り出して仕上げにかかった。
 大まかな寸法はラブと同じと聞いていたが、念のため調整が効くように仕上げを残しておいたのだ。

「お待たせ、ブッキー、せつな。って――――何やってるの~~~!!」
「あっ、ラブ! これは」
「ちっ、違うの、ラブちゃん。脱がせてるわけじゃなくて!」


 かろうじて、淹れたお茶をひっくり返さずにすんだラブに事情を話す。
 フンフンと聞いていたラブだったが、納得がいくと、とたんに目を輝かせた。


「せつなって超キレイ~、あたしとはお風呂も入ってくれないんだよ」
「一緒に入ろうとしてたんだ……」
「ちょっと! もう、何の話よ。いいから服を返して!」


 すっかりせつなの下着姿の鑑賞会になったことに、口を尖らせて抗議する。
 身体を丸めてうずくまったせつなに、祈里は仕上げの済んだダンス服を手渡した。


「どう――――かしら?」
「せつなちゃん、よく似合ってる!」
「うんうん、これでせつなもクローバーだね!」

「ありがとう、ブッキー」
「えっ、今、せつなブッキーって……。それに、ブッキーもせつなちゃんて……」

「うん、この間からなの」


 祈里が嬉しそうに事情を話す。せつなも恥ずかしそうに頷いた。
 よほどダンス服が嬉しいのか、せつなは姿見を眺めながら何度もクルクルとまわる。

 そして、ラブの携帯に着信が入る。


「もしもし、美希たん? えっ、せつなに? うん、代わるね」
「もしもし、ええ、今はブッキーと私の部屋よ。うん、わかった。一緒に練習しましょう」


 今度は、美希からせつな宛ての電話だった。親しげに話す様子に、ラブは目をパチクリさせる。
 明日は、せつなにとって初めてのダンスレッスンだ。事前に、基礎だけでも予習しておこうとの美希から
 の誘いだった。







 四つ葉町公園の、いつものダンス練習ステージに四人は集まった。
 ピンク、ブルー、イエロー、そしてレッド。一際目立つ真っ赤なダンスウェアが、クローバーを華やかに
 彩る。
 眩しい日差し、爽やかな風が心地良い。夏特有の命溢れる草木の薫り、生気漲る澄んだ空気が肺の中を満
 たしていく。
 せつなは目を閉じ、それらを全身で感じ取る。
 そして、一言、感慨深くつぶやいた。


「本当に、ここに立つことができたのね」
「ほんとうにって?」

「ラビリンスのイースだった頃、一度だけここで、みんなと一緒に踊る夢を見たの」
「わたしたちと?」

「ええ、ラブも美希もブッキーも。そして、ミユキさんに指導してもらっていた」


 静かに、淡々と、感情を込めずにせつなは語る。
 それでも、時々声が震えてしまうのは隠すことができなかった。きっと、それは歓喜の震えなんだろう。
 ほんと、図々しいわよね。そう、自嘲気味に笑って締めくくった。

 みんなも、もう分かっていた。せつなは、ずっと前からみんなの知るせつなであったことを。
 そして、もう一つ。一見物静かなせつなの胸の奥には、真っ赤に燃えたぎる情熱の炎があることを。


「さあ、明日までに基本を一つでもマスターして、ミユキさんを驚かせちゃおう!」
「始めはゆっくりでいいからね、せつなちゃん」
「頑張ろうね! せつな」

「ええ、ありがとう。大丈夫よ」


 自信を漲らせてせつなが答える。他の何を失敗しても、これだけはモノにしてみせる。
 それが、この場にせつなを立たせてくれた、ラブと美希と祈里と、そしてミユキの気持ちに応えることに
 なるのだから。

 スタンドポジションからアティチュード、そしてアラベスク。コントラクションからリリース。
 スポンジが水を吸収するかのように、せつなは次々に身に付けていく。
 その動作の正確さは、最も美しいと言われる美希すら凌駕した。


「凄いよ、せつな。もうあたしより上手なんじゃ?」
「ラブ……。さすがにそれは問題があると思うわよ」
「あはは、でも、油断したらほんとうに置いていかれちゃいそう」

「ありがとう。ここまでは夢の通りね」

「そうだ! せつなのクローバー加入のお祝いに、ドーナツパーティーしようよ!」
「賛成!」
「いいね、やろうやろう!」


 ラブの提案と、美希と祈里の賛成にせつなは目を丸くして驚いた。
 ほんとうに、まるっきり同じ。もしかして、これも夢なんじゃないかとほっぺをつねってみた。
 生々しい痛みと現実感。それが、涙が出るほどに嬉しかった。頬の痛みのせいにして、そっと目じりを拭
 った。

 そして、行きましょう! とせつなからラブの腕を引いて走り出した。
 何もかも同じ展開なんて癪に障るから。それなら、自分から変えてやろうと思った。うんと、楽しんでや
 ろうと思った。

 それに、最後は違う。絶対に違う。
 これは夢ではないのだから。決して、覚めることはないのだから。

 せつなは走る。
 胸に輝くペンダントは、四つ葉ではないけれど。
 もう――――儚く砕けることはない。今も、そしてこれから先も、せつなの幸せを明るく照らしてくれるのだから。



最終更新:2011年04月17日 08:22