考えねばならない事が無数にある。
そんな状況でも焦る事なく頭を回せるのは強者の特権だ。
結局の所聖杯戦争とは殺し合いであり武力の比べ合いである。
頼みにする戦力が脆弱ならその分焦燥にリソースを食われてしまうのは避けられない。
その点、
オルフェ・ラム・タオと言う葬者には全くそちらの心配は要らなかった。
彼が保有する戦力は全ての葬者を引っ包めても指折りの猛獣だ。
少女程の矮躯でモビルスーツ並かそれ以上の力を発揮出来る正真正銘の怪物。
現状、オルフェの脳裏に彼女が膝を屈する未来は過ぎった試しすらない。
黒き騎士王。
反転せし理想の王。
一言――暴力の化身。
彼女の力に対する信用はオルフェの中で、件の"竜"達の台頭を知った今でも絶対だった。
あれは戦術兵器のような物だ。
適切に運用し、適切な局面に投げ込み続けるだけで自然と己の敵はその頭数を減らしていく。
間違いなく考えられる限り最善、そして敵からすれば最悪に近いワイルドカード。
だがだからこそ、足元を掬われない為の知略には余念を排しておく必要がある。
そう思いながらオルフェは生活の拠点としている洋邸の一室で紅茶を啜り。
予め調達しておいた資料の束に視線を落とし眦を細めた。
「宇宙への適応を見越した身体拡張、あらゆる既存疾患や障害に対する解決手段として期待される技術…GUND、か」
ベネリットグループなる企業が開発を推し進める新進の医療技術。
ベネリット自体覚えのない名であったが、この冥界では多種多様な場面でその名を見掛ける。
中でも目を引くのが『GUND技術』なる耳慣れない単語であった。
開発途上という扱いになってはいるものの鵜呑みにしていいかは怪しいだろう。
技術の真偽と如何については然程重要視する気もなかったが、現状異物感が際立って見えるのは否めない。
社会活動を笠に着て怪しく蠢く手合いが一枚噛んでいる可能性は高いとオルフェは睨んでいた。
だが厄介なのは今のオルフェには何の後ろ盾も無い事。
ファウンデーション公国宰相という元の身分を一部でも引き継げていれば大手を振って例の企業を漁る事も出来たろうが、単なる野良犬の一匹と化して久しい今ではそれも難しい。
“私の疑いが正しければ既にベネリットは諜報と暗謀の巣窟と化している筈。
単身でアプローチするのは、やはり今の私では難しいか…ままならんな”
資金力ならばそれなりの物を持っている自信はある。
だが狡知に長けた狐というのはいつの世も独りではない物だ。
アコードであるオルフェにとって心理の駆け引きは意味を成さない。
然し立場の無い今では猪口才な権力と数の多さが立派な障害になる。
それこそ、冗談でもなく騎士王の投下による殲滅が選択肢の上位に上がってくる程度には厄介だった。
何たる体たらく。
何たる落魄れぶりだと辟易を抱かずには居られない。
今も変わらずこの手に全てが在ったなら、事はすぐにでも完了しただろうに。
“疑いがあるという程度の段階で戦力投下に出るのはリスクが勝る。現状ではあちらがボロを出すまで静観せざるを得ないな”
この歯痒さは未だに慣れない物がある。
小さく嘆息しつつオルフェは資料から視線を外した。
すると視界に入って来たのは黒い影。
騎士王が彼方の方を見つめ佇んでいる。
黄昏れているのか、らしくもない――
そう思った所で怜悧な声が朝の静寂を揺らした。
「揺れているな」
「…何?」
「竜共が突いた藪からまんまと蛇が飛び出して来たか?
いや、それとも…この局面まで生き残る連中だ。
小兵なりに直感したか、死が近付いてきた感覚を」
空気が逆鱗を撫でるが如く。
冥奥にて息を奏でるもう一匹の竜は、死界に轟く戦禍の波を感じ取っていた。
既に戦は佳境に入っている。
怪物三種の乱痴気騒ぎはその事を告げる鐘の音だった。
そして騎士の王たるこれがそれを見逃す筈もない。
昂るように、猛るように、騎士王は静かに口角を緩める。
巷に雨の降る如く、世界中の死が蠢き始めた。
であれば当然。
これぞ狩り時、機は満ちた。
「出るぞマスター。王の威光と言う物を示す時だ」
「近いのか?」
「少なくとも空振りには終わるまい。虎にしろ、蛇にしろ…鼠にしろ。この剣の錆に出来る何れかには当たるだろう」
「…解った。その勘を信じよう」
斯くして騎士王は出陣する。
隣に立つのはもう一人の王。
遠未来の或る星にて立ち、そして敗れた哀れな人間。
凡てを失い、然しそれでも尚天を見上げる被造物。
冥界に嵐が吹くのなら。
彼らはそれをも飲み込み猛る津波となる。
騎士の名はアルトリア・ペンドラゴン。
堕落せし理想の王、そして遍く運命を断首する聖剣の卑王。
冥府への導き手に仕える、死で死を戮する――黒騎士(ブラックナイト)である。
◆ ◆ ◆
「春だねぇ」
「そうれふね」
四月にもなると暖かい日も増えてくる。
朝晩は肌寒さが残るが、日が照り始めてからは肌に汗が滲む事も多い。
かと言って気温は高すぎず、所謂過ごしやすい陽気という奴だ。
アイスキャンデーの季節にはまだ早いが、釈迦とその葬者
プラナはソーダ味のキャンデーを咥えながらその陽気の中を歩いていた。
若々しい華やかさと熟成された男らしさを併せ持った顔立ち。
その上自分の正体を隠そうとする事もない堂々たる歩みと振る舞い。
そんなだから釈迦は町でも相応に名の知れた有名人と化しつつあった。
道を歩けば老人は手を合わせるし、子供は親しげに話し掛けて来る。
まさしく宗教じみた光景だが、誰もそれを疑問とは思わない。
有名人だからと言って写真を撮るでもなく、日常の一風景として愛し有難がる。
宗教と聞いて思い浮かべる怪しさや胡散臭さは何処にもない、安らぎに溢れた一シーンだ。
「…それにしても、いつまでもこんな事をしていていいのでしょうか」
「んー? なんで?」
「私はあなたと共に歩むと決めた身です。勿論不満等ある訳ではありませんが…
こうして姿を晒し続けていては必然、良からぬ者に見付かってしまう可能性もあるのでは?」
「だからって隠れ潜んでコソコソってのは陰気臭ぇだろ。やっぱり新しい土地に来たらまずは旅しないとね」
プラナの懸念は尤もである。
実際、見る者が見ればすぐに英霊連れの葬者だと解ってしまうに違いない。
只釈迦はさしたる問題と捉えた風でもなく堂々足を進めるのみだ。
そして困った事に、その無責任とも言える言葉に自然と説得力が宿っているのがこの男の罪な所。
偉そうな説法は垂れないし荘厳な奇跡を魅せて人心を掴む訳でもない。
自然体。彼はそれ一つを武器に揺らぐ事のない正道を歩んでいる。
この死に満ちた虚ろの町に蓮の花を咲かし、菩提樹の爽香をそよ風に乗せ漂わせている。
神話では有り得ない。
人だから成し得る光景。
人の英雄。
人の救世主。
狂おしい程の我儘男。
故に釈迦。
「そういう物なんでしょうか」
「そういう物なのさ。だから楽しいし、実にもなるんだ」
王の座を蹴って蓮座に座ったシャカ族の王子は舞台が何処になろうと変わらない。
時々おかしくなる癖のあったあの"先生"とさえかけ離れた奔放は時にプラナの常識を破壊する。
宇宙を背景にした猫みたいな顔になった事もこの一月で数知れず。
それでも何故だか辟易しない。
不思議と気分は常に落ち着いて、深緑の森の中でブランコを漕いでいるような心地に包まれているから実に不思議だった。
シッテムの箱のOSに過ぎない自分にそんな経験などある訳もないにも関わらず、である。
世界が広がる。
新しく知るまでもなく満ちていた筈の知識が、白黒のデータでしかなかったそれが色鮮やかに染め上げられていくのを自分でも感じる。
この果てに待つ到達点が彼の言う所の"悟り"なのだろうか。
だとしたらそれは――其処は。
一体どのような色と匂いに溢れているのだろう。
「プーちゃんも良い顔になって来たね」
「微妙。自分では余り自覚がありません。いつもと違う表情を浮かべた記憶も特には」
「別によく笑う奴が偉い訳じゃねぇ。よく泣く奴でも、キミみたいに仏頂面な奴でも良いのさ。
それでもやっぱり"良い顔"ってのは見りゃ解る。
真っ直ぐ全力で生きてる奴の顔ってのは、それがどんなツラでも良いもんだ」
「…ふむふむ。一応メモに残しておきます」
「プーちゃんって真面目過ぎて一周回って変な所あるよな」
「心外。これは私なりに悟りの道程に向き合った結果であって…」
牧歌的。
まさにそんな光景だったが。
不意にその足が止まる。
彼ら二人が全く同時に"それ"を視認したからだった。
「…へえ」
黒い女が立っていた。
頭髪は色素の薄い金色。
肌も白磁と呼んでいい白さで黒点の一つも見受けられない。
唯一纏っている当代風の服装には黒色が見て取れたが、無論そういう話をしているのではない。
逆にこれ程美しく、儚ささえ感じさせる外見要素を押さえているにも関わらず。
その女は吸い込まれそうなまでの黒を湛えていた。
墨のように黒々とした闇の色彩を釈迦は美しき立ち姿に見た。
確かに美しい。
だがそれ以上に、恐ろしい。
肌がピリ付いて陽気を吹き飛ばす寒気が骨まで届く。
釈迦は口からアイスの棒を抜き、口内のソーダ味を飲み込んで笑みを浮かべた。
「相当出来んね、キミ」
「意外に俗だな、救世主」
プラナはその隣で身を固くする。
釈迦をして仏頂面と称する彼女の表情は、今明確な強張りを見せていた。
純然な生命であるかどうかなんて関係はない。
僅かでも思考する能力があれば。
感情に類する機能を持つならば。
この女を前にして危機を感じ取れない筈はないと、少女は理屈抜きにそう理解する。
それ程までに圧倒的な存在感。
呼吸の一つ、仕草の一つ。
痩身で為せる全ての行動で他者を蹂躙する肉食の獣。
それが、プラナの観測した騎士の姿。在り様。
――反転せし騎士王が、静かに悟りの道を阻んでいた。
◆ ◆ ◆
オルフェ・ラム・タオの心にあるのは呆れだった。
アコードの力に頼るまでもなく獲物と解る堂々たる歩み。
だがそれは、どうやら自分達のように敵を炙り出す為でさえない。
あらゆる理屈に合わず、一言で言うなら愚かとしか言い様がなかった。
“此処まで"なっていない"連中でも、この段階まで生き残って来られたのか”
旅をする。
日常を生きる。
悟りを目指す。
理解不能の指針(イメージ)が白髪の少女を通じて自分の脳内へ流れ込んで来る。
一顧だにする価値もない思想だった。
故にオルフェは早々に思考を打ち切る。
意味がない、と判断したからだ。
少女の思考を聴くのを止め、視線を騎士の背中へと移す。
「此処は人が多い。やるならもう少し開けた所でだ」
「豪胆だな。この私を前に怯みもしないか」
「いーや? そうでもないよ。ちょっと楽しみなのは否定しないけど」
「…良いだろう。私としても久々に愉快な戦になりそうだ」
いや。
正確にはその向こうに佇む、額に黒子のある男を見ていた。
オルフェの時代に彼の逸話は残されていない。
だがこの冥界で生きていれば、嫌でも彼の遺した痕跡にぶつかった。
即ち仏教。
誰もが日常的に、深く思いを馳せる事もなく仏の教義に親しんでいる。
それがこの現代日本で、故にオルフェも必然として彼の者の名に行き当たっていた。
即ち仏陀。
その開祖。
王になる道を示されながら、それに背を向けた愚かな男。
ゴータマ・シッダールタ――そして一度彼の名を知ってしまえば、最早誰に言われるまでもなく目の前の男の真名に気付く事が出来た。
そう。
騎士に示されるのを待たずして、オルフェ・ラム・タオも釈迦を釈迦と認識したのだ。
“………なんだ、あの男は?”
オルフェは仏の教えに共感しない。
その教えと主張は無責任だ。
大らかと言えば聞こえはいいが実情は尤もらしい事を言って煙に巻き、責任を投げ捨てているだけだと解釈した。
絵空に挑む気概もなく、悟り等という抽象的な自己完結で悦に浸る呆けた宗教。
それは正しい導きではない。
認め難く不完全で、見るに堪えず醜悪だ。
そう思っていたし今もその認識は変わらない。
だと言うのに。
一目見た瞬間、脳ではなく魂で理解させられた。
嗚呼、まさしくあれこそが釈迦であるのだと。
“何故笑う。この黒騎士を前にして、尚”
此処までの戦いにおいて。
騎士王の異霊たる彼女に恐れを成さなかった者は一人も居なかった。
事実彼の隣に立つ白髪の娘の緊張は力に頼らずとも見て取れる。
だがあの男は真実、全く脅えや萎縮の感情を抱いていない。
単なるペテン師の腹芸では黒王の魂にさえ響かす威圧を誤魔化す等不可能だ。
セイバーの強さはオルフェが誰より知っている。
モビルスーツに搭乗し、命を懸けた闘争に臨んだ経験の有る己でさえ思う。
この女の強さは異常だと。
とてもではないがこの武力に正面切って抗える者が存在するとは思えない程に、彼女は強い。
ではあの笑みは、揺るがぬ佇まいは何か。
よもや本当に黒き騎士王を相手取り、勝利出来る等と信じているのか――。
優れたる新人類(アコード)は心に精通する。
意思を伝え、操り、それらの大前提として読み取るのだ。
それは決して人間相手に限った話ではない。
かつて人間であった存在にも当然の理屈として適用出来る。
故にオルフェは此処で、この不可解に得体を与える事を試みた。
意識を覚者へと集中させる。
単なる虚仮威しならば嗤ってやろうと、持ち前の傲慢さを存分に発揮して。
…或いは本能の部分から湧き上がる畏れの感情をそれで掻き消すように。
オルフェ・ラム・タオは、目覚めた者の感情を受信し、そして――
――次の瞬間、彼は蓮の花が咲き誇る見果てぬ大地に立っていた。
川のせせらぎ、水鳥の囀り。
ひらひらと舞い飛ぶ蝶々、木の実を齧る栗鼠。
空は塩湖を思わせる透き通った青を一面に湛え。
吹く風はあらゆる汚濁を浄化する清らかで満ちている。
この広大の中に一人残されているのに微塵の孤独もない。
踏みしめた大地から伝わる草木と土の感触さえもが優しい。
空から照らす日光は暖かいのに暑くない。
遠い彼方の方にまでこの優しさが果てしなく、余す所なく広がっているのが直感で理解出来る。
視力の領分を超えた認識能力は比喩でなく千里にまで届き。
自己という一が矮小な一粒に過ぎず、然し無限の価値を有している事を知らせる。
一が全と調和を果たし世界が個人と完全に融和している。
脳内に雪崩込む情報の全てに悪意がない。
只管に優しく、只管に満たされた世界。
一面の充実と一面の潔白。
苦患はなく、呵責もない。
そんな情報が失墜した王の脳へ清流として流れ入る。
そしてそれが、永劫に完結しない。
終わらないのだ。
この楽土(イメージ)には果てがない。
無限と称するに相応しい景色が脳のニューロンを浸水させて且つ決して溺死させない。
忘我の境地とはまさにこの事であった。
我を忘れ、煩悩から解き放たれ、永久に世界へ親しむ歩みの極致。
これでさえ片鱗でしかない到達の景色を、オルフェ・ラム・タオは見て。聴いて。触れて…
「見るな」
「…ッ!」
繋がってしまった無限を黒の一閃が断ち切った。
途端に意識が現実へと帰還する。
最早あの楽土と自然は何処にもなく。
凡てを満たす充足も感じられない。
目前に広がるのは見知った苦患の都市。
同時にオルフェが覚えたのは吐き気にも似た絶大なまでの悪感だった。
「それは王(おまえ)には必要のない夢想だ。
目を凝らさず、耳を貸すな。只敵として処断しろ」
これは駄目だ。
此奴は駄目だ。
生かすな、存在する事実を赦すなと全神経が告げている。
あの光景は屈辱だった。
耐え難いまでに意義を踏み荒らす体験だった。
何が許し難いか。
騎士の声がイメージの受信を断ち切るまで、己は一度も憤懣を抱けなかった事実だ。
あの瞬間、確かに己は満たされていた。
凡てが在る境地という物を幸福として享受してしまっていた。
それが駄目なのだ。
それだけは認められないのだ。
今すぐにでも救世主の首を削いで頭蓋を踏み砕かなければならぬとオルフェに強くそう認識させるのだ。
「…セイバー。あの男を必ず討て」
「貴様に言われるまでもない」
「理解している。その上で、命じている」
「……」
デスティニープラン。
遺伝子を至上とし、人類を管理する事で救済するという思想。
その時代、既に社会は行き詰まっていた。
終わらぬ戦争、尽きない流血。
それを終わらせる運命が必要だった。
その為にオルフェが、彼らが生み出された。
だから彼は一度の挫折で腐る事なく歩み続けているのだ。
人類未踏の平和を成し遂げ生まれた意味を果たすその為に。
その為に、今も戦い続けている。
だが、いやだからこそ。
オルフェ・ラム・タオは釈迦の存在を容認出来ない。
「殺せ。私の、王としての言葉だ」
「先刻まで呆けていた要石が大きく出たな。だが」
無限より抜けて。
楽土から醒めて。
嫌悪が去来するよりも早く、オルフェは思ってしまった。
理解してしまったのだ。
形はどうあれ世界を救いに導く為に戦う者。
その使命に誇り以上の心血を注いで向かい合う者。
そんな彼だから解った。
解らされてしまった、あの瞬間。
思って、しまった。
――この男ならば或いは本当に、世界を――
「良かろう。貴様の訴えを聞いてやる」
…こうして戦いがまた一つ幕を開ける。
葬者の行く末を賭けた英霊と英霊の神域闘争(ラグナロク)。
蹂躙するは今は遥か円卓の"騎士王"アルトリア・ペンドラゴン。
悟り守るは人類史上最強のドラ息子、釈迦。
終末の番人が吹くギャラルホルンの音はなくとも。
この冥界では――世界でなく己の存亡の為に、最強どもが殺し合う。
◆ ◆ ◆
場所を変えた。
釈迦の提案を呑んだのは只の善意ではない。
反転したアルトリアは名君ならぬ暴君。
誇りは解する、風情も解する。
だが則るとは限らない。
その彼女が態々則ってやった理由は一つ。
町中で何も顧みず打ち合えば横槍が入る可能性を否定出来ない。
そんなリスクを抱えた上で相手取るには、この覚者は聊か以上に重たい相手だと踏んだ。
気位高き暴君がそう判断した事実の重さ。
それがオルフェには解る。
だが同時に釈迦もまた、目前に立つ美しき騎士の姿を見てこう思っていた。
“ヤベーな。此奴オレより強くねぇか?”
釈迦は人類と神々の最終闘争に列席した男だ。
それも優位に立つ筈の神側から招聘を受けた。
最終的に彼自ら人類側に鞍替えこそしたものの、神さえ彼を欲したのだ。
そして彼は最終闘争の果て、悪の凝集体たる魔王を討ち果たしている。
つまり人類史の中でも有数の強者。
人類最強を豪語しても物言いが付かない程の猛者なのである。
その彼が、謙遜抜きにこう思った。
即ちそれは、この騎士王があの最終闘争を基準に考えた場合でも変わらず怪物を名乗れるだけの使い手という事を意味しており…
「もう注文は無いな。あっても聞かんが」
「良いよ、あんがとな合わせてくれて」
「そうか」
アルトリアの靴底が砂を踏む。
地を撫でるように動き、細身の体躯が揺らめく。
静寂は刹那。
やはりそれを最初に破ったのは暴虐の騎士王だった。
「では始めるとしよう。退屈だけはさせるなよ、蓮座の主」
刹那の後。
須臾にして騎士が颶風と化す。
釈迦の懐に入るまで一秒と掛からない。
振るわれる聖剣はその実一撃にして霊核まで断ち切る凶剣。
逆袈裟に放たれた剣閃は初撃でありながら既に釈迦の命脈へ迫っている。
が、金属音と共に聖剣の行方は阻まれた。
釈迦が抜き放った棍状の神器。
神秘でこそ妖精が鍛えた聖剣に敵わねど、神の名に偽りない強度を持つそれが暴虐の一刀を空振りに終わらせたのだ。
「…がっつくねぇ。よく食べる女の子は見てて愉快だけど」
「おまえのように粗食ではなくてな。敵であれ、飯であれ、余さず喰らう質だ」
神器の銘は『六道棍』。
その名の通り六道を体現する釈迦の業物。
棍の形が組み変わる。
棍から大斧(ハルバード)へと。
壱之道・天道如意輪観音『十二天斧(ローカパーラ)』。
聖剣と打ち合うに適した形への変化を了すると同時、次は釈迦が仕掛ける。
「オレも実は結構食うよ。特に甘い駄菓子にゃ目がなくてね」
「…!」
騎士王の眦が動く。
速い。
だがそれ以上に動きの精緻さが異常だった。
的確に穿たれるウィークポイント。
咄嗟に受け止める事には成功したがたたらを踏むのは避けられない。
其処にすぐさま振るわれる連撃。
単なる宗教家の枠には決して収まらない武芸の冴え。
唯我独尊の在り方を示すような釈迦の仕掛けは掴み所のない気性とは裏腹に酷く鋭い。
返しに移りたくても単純な詰将棋のように迷いなく打たれる次の手がそれを封じて来る。
騎士王アルトリア、この冥界に於いて初めての苦戦であった。
少なくとも力任せに踏み躙って平らげられる手合いではない。
予想通りに唯我独尊は唯我最強――アルトリアの口角が吊り上がる。
よって、此処でギアが上がる。
赤黒の魔力を纏わせて切り上げた。
力任せに釈迦の連撃を崩しに掛かったのだ。
そしてその判断は功を奏する。
流麗ですらあった釈迦の手が僅かだが途切れた。
この一瞬を騎士王は見逃さず好機に変える。
得物ごと粉砕する勢いでの一閃を大上段から振り落とした。
王の処断の象徴、ギロチンを思わす斬撃に釈迦の肌を汗が伝う。
止めるだけで代償に骨が軋む程の一撃。
私が上でおまえは下だと突き付けるような一振りに、釈迦は地を蹴って後方へ逃れるのを余儀なくされた。
「ッ痛て…馬鹿力過ぎだろッ」
「そう思うなら、それは貴様が弱いのだ」
一度でも主導権を渡せば忽ち抑えが利かなくなる。
騎士王の剣技は極限まで洗練された実戦由来の物だ。
即ち、その太刀筋には一切の遊びがない。
その上で霊基反転による凶暴化と純粋な基本性能の向上。
これが手伝って現在のアルトリアは正しく超人と呼ぶのに相応しき領域にある。
禍々しい魔力光に煌く剣筋は神器さえ軋ませる破壊の極み。
されど、それでも尚釈迦は巧かった。
捌けているのである。
アルトリアの刃を受け止めながらも致命傷を避けて凌ぎ続ける様はまさに神業。
騎士王の剣技は基本に忠実な剛の剣だ。
故に読み易くはあるのだが、かと言ってそれをこの実戦で体現できる者が一体どれだけいると言うのか。
凡そ尋常ならざる領域にある技量。
だがそれも長くは続かない。
技を食い潰す圧倒的な力が戦線を押し上げ続け、聖剣の連撃は速度を更に増す。
一呼吸で振るわれる斬撃が二撃三撃と増え始める。
これに合わせてセンスに任せた応戦という前提が崩れ始め、シーソーゲームの体が崩壊していく。
「チッ…!」
釈迦の舌打ち。
アルトリアは既に釈迦の土俵を凌駕している。
無理繰りに食い下がる事は出来ても、この暴君を相手に腰を据えて戦う事がどれ程危険かは釈迦とて重々理解している。
リスク承知で攻めに転じるか。
決断と共に六道棍が、アルトリアの暴政に倣うようにその姿を変えた。
次は金棒だ。地獄の鬼が振るうそれが如く、刺々しく無骨な極太のフォルムが顕現する。
弐之道・畜生道馬頭観音『正覚涅槃棒(ニルヴァーナ)』。
これだけの速さでの形態変化に成るとは釈迦自身予想外だったが、六道棍の利点とは相手・状況に応じて最適な形を取り応戦出来る点にある。
そして実際、正覚涅槃棒への変形は押し切られ掛けていた戦線に一石を投じる結果を生み出した。
「器用だな。然し聊か見窄らしいぞ、救世主の名が泣いている」
脇腹を捉える筈だった剣先を金棒の棘で弾く。
其処から懐に飛び込んでの剛撃一閃、アルトリアの顎を狙って振るわれる涅槃棒。
アルトリアはこれを半身後ろに下げる事で回避。
同時に、振り終えた釈迦の首を刎ねるべく真横に剣を振るった。
だが。
「ッ…!?」
次に驚愕するのはアルトリアの方だった。
剣を振るうと同時、喉笛に衝撃を受けたのだ。
釈迦の肘鉄が神速で振るわれる一太刀を掻い潜り自身に触れた。
そう認識した時、既に釈迦の姿は断頭台と化した聖剣の軌道内には居ない。
より身を低くし、アルトリアの懐の中というごく狭い空間の中で生存圏を確立していた。
「そういうキミは随分せっかちだね。折角遊ぶんだ、もっと対話(オハナシ)してこうぜ?」
「戯言を…!」
その上で正覚涅槃棒を曲芸のように激しく振るう。
元々肉薄からの接近戦を想定された形態である涅槃棒に釈迦の技量が加わる事で、金棒という無骨無粋な得物から繰り出されるとは思えない速度と質が実現される。
針の穴に糸を通すような鋭さ。
そしてアルトリアのお株を奪うようなパワフルな剛撃。
これが外す余地のない超至近の間合いから放たれ続けるのだ。
だがアルトリアとて唯ではやられない。
釈迦が振るう得物が武器としての性能は兎も角、その形状故に小回りに劣る事は見て解る。
技巧の高さである程度は誤魔化せているが、ならば力に任せた理不尽で押し潰すまで。
「手緩いぞ、覚者!」
逆鱗の魔力放出。
肉体そのものを起点に魔力を猛らせる無体が技の出番を強制的に終わらせる。
有り余る程の魔力に物を言わせたパワーファイトの極致。
近距離で炸裂した騎士王の魔力が釈迦を強引に跳ね飛ばした。
足を地に杭の如く突き立ててどうにか踏み止まったようだが、王の処断に変わりはない。
不遜にも王へ一撃加えた罪状への判決は死以外になく。
放出の勢いを色濃く残した斬閃が救世主を両断せんとする。
…いや、正確には"した"。
「どっちがだよ、じゃじゃ馬」
「ご、ッ――…!?」
釈迦の選択は回避。
動作は最小限に身を傾けるだけに止めつつ、騎士王の裂帛を完全な無傷で凌ぎ切る。
考えられる限り最も完璧な形での回避。
あろうことかそれとほぼ全く同時に、涅槃棒を迅雷の如く突き出した。
騎士甲冑の胸元に直撃した仏罰の一撃がアルトリアに唾液を吐き出させる。
それだけには終わらない。
次いで彼女へ降り注いだのは、涅槃の静寂とは全く相反した打擲の嵐だった。
釈迦が攻める。
攻め続ける。
それは極地にて吹く風。
煩悩を罰する嵐に他ならぬ。
目視すら難しい速度で降り注ぐ打撃、その中に一発たりとて生易しい物はない。
そして何より恐ろしいのが、百を優に超えるだろう数任せの連撃、その全てが有り得ない程の冴えを宿している事だ。
己が想定していた"流れ"を徹底的に始動の段階で潰して来る。
こと戦闘という事柄に於ける一つの理想論。
されども誰もがすぐに不可能と気付き諦める極論の戦闘論理。
無論アルトリアでさえ例外ではない。
それを釈迦は成し遂げている。
もしも敵手が誉れも高き騎士王でさえ無かったなら、何一つ面白味等なく戦端は終結していた事だろう。
「…成程。これが釈迦(きさま)か」
黒王の口から苦笑が漏れる。
漸く彼我の役者の違いを理解したのか。
自分が挑んだモノの大きさを理解し、抗うのを諦める境地に至ったのか。
否だ。これは断じて辟易を意味する貌ではない。
喩えるならばそれは、獲物のねぐらを見付けた獅子のような。
諦めや屈服とは真反対の、目前の事象を食い殺すと決めた肉食の笑み。
その証拠に釈迦の眉間に皺が寄る。
恐らく、戦いを観戦している二人の葬者には騎士王の劣勢としか見えないこの状況で。
菩提樹の悟りに至り救世主の冠を戴きながら、自らの自業自得でそれを剥奪された"人間"だけが――これから始まる悪夢を予見していた。
「――良い目を、持っているな?」
ゾ、と。
釈迦の背筋に悪寒が走る。
アルトリアの不敵な言葉に気圧されたのではない。
釈迦の視界に映る、今この瞬間には存在しない"アルトリア・ペンドラゴン"。
正確に言うならば今から五秒先の未来に於ける彼女と、目が合ったからだ。
“…おい。マジで言ってんの……!?”
…釈迦の武芸は圧倒的なセンスと経験に裏打ちされた天衣無縫の其れである。
だがそれだけではない。
彼はその培って来た物に加えてもう一つカードを隠し持っている。
正覚阿頼耶識。
技術の延長線上に存在する"予測"ではなく、正真正銘の未来視能力。
それが釈迦の超人を通り越して超常的なまでの詰めを支えるトリックだった。
この世に於いてあらゆる存在は、肉体ではなく意思に縛られている。
だから本人は咄嗟に行動しているつもりでも、その実それよりも先にまず意思が動いているのだ。
釈迦はこれを"ゆらぎ"と表現する。
肉体よりも意思が先に動き。
そして意思の動きは、魂の"ゆらぎ"へ繋がる。
釈迦が見ているのはこれだ。
この"ゆらぎ"を、極致へ至った覚者は情報として視認する事が出来る。
肉体が動く段階に至る前に相手の行動を把握出来るのだから、まさしくそれは未来視と呼ぶに相応しい芸当だ。
たとえ誉れも高き騎士の王だろうが魂を不動のままに肉体を動かす事は敵わない。
故に釈迦は彼女に対し、いつも通りに圧倒的な優位を抱えるに至っていた。
未来視で全ての選択肢を先んじて潰しながら確実に削り切る無体なまでの正面突破。
――そう、今この瞬間までは。
もとい、五秒先の未来までは。
手品の種は暴かれた。
突き付ける宣告と共に騎士王の動きが激変する。
より荒々しく、より力任せ。
一見すると精彩を欠いてさえ見えるが、彼女は只の力自慢ではない。
その身に宿す力は平時と変わらず、いや平時と比べて尚上を行く災害そのもの。
その次元にもなれば只雑に振り翳すだけでも脅威となる。
それどころか釈迦のように理屈ありきで戦う者にとっては定石に嵌っている状態よりも格段に厄介だ。
「ッ、く…! ぐ、ゥ……!?」
"ゆらぎ"の段階で未来と目が合う。
一体どれ程鋭敏な感覚を以って戦いに没頭していればこうなるのか。
この最高の意趣返しが可能なのか。
釈迦をして解らない。
故に驚嘆する。
最終闘争にて戦ったあの魔王さえ決してこれ程ではなかった。
瞬間に殺到する剣戟。
威力を落とす事なく然し速度のギアが桁外れに上がっている。
アルトリアの感覚はあくまで直感の域を出ない。
予知の制度では正覚阿頼耶識に数歩及ばず、よって釈迦と同じ芸当を演じる事は不可能。
だがそれでも極限の技巧と力さえあれば――意趣返しの猿真似なら出来る。
「どうした。笑みが引き攣っているぞ」
笑みの種別が逆転する。
釈迦は戦慄を蓄えて。
騎士王は嘲笑を湛える。
まさに暴嵐そのものの剣雨を凌げる時点でも十二分に破格だったが、これは明らかに彼の対処出来るキャパシティを超えていた。
旅路の中で鍛え抜かれた肉体から血風が噴き出す。
一つ一つは小さくとも積み重なれば立派な不覚になる。
偉大なる仏陀の体から鮮血が散る光景はそれだけで酷く悲劇的な絵だった。
一つの神話、信仰の凌辱。
黒き王の剣は蓮の楽土さえ意のままに穢し虐殺する。
「語るに落ちるか? ゴータマ・シッダールタ」
「…言ってくれるね。顔に見合わず意外と毒舌じゃんか。ギャップ萌えって奴?」
正覚阿頼耶識はあくまで未来を垣間見るだけの力。
それにどう対処するかは釈迦の選択と力量次第でしかない。
未来が解っていても、それが彼の範疇を超える光景であれば為す術はないのだ。
その弱点をアルトリアは痛烈なまでに指摘していた。
基礎の攻撃力が破格過ぎて、どう来るか解っていても見えた未来へ切り込めない。
メスを入れる余地がない――故に取れる選択は最早一つだった。
正覚涅槃棒を渾身の力で足元に叩き付け、衝撃を利用して至近の間合いから離脱する。
釈迦は武芸者だが戦士ではない。
よってつまらない拘りに縛られる事もない。
自ら仕掛けた勝負から逃げようが生きていればいい。
それを屈辱と思わない思考の柔軟さもまた、彼という英霊の強さを支える一つなのだったが…然し。
「逃がさん」
アルトリアは即座に猛追する。
悪竜の咆哮宛らに唸りをあげる凶剣。
一振りで大地を抉り空を裂く騎士王の斬撃が逃げる釈迦を追い立てる。
体勢を立て直す暇など与えない、戦場は常に強者の都合で回る物だ。
数から質へ。
仕切り直しに合わせて剣の真我(いろ)が切り換わる。
だが其処に絶対的な破壊が伴う事だけは不変だった。
猪口才な神器ごと叩き割る勢いで振るわれる一閃に、釈迦は本気で己の神器が砕け散る光景を幻視する。
未来が見える筈の彼にそんなイメージを抱かせる程に、アルトリア・ペンドラゴンは強い。
「はッ――!」
釈迦が歯を見せる。
その間も遍く人々を救うべき彼の両手は、目にも留まらぬ速さで動き続けていた。
人外の速度と威力で猛追して来るアルトリアの剣戟を釈迦は最小限の動きで捌き続けていく。
手を焼いているとはいえ阿頼耶識の未来視は健在だ。
其処に彼自身の技巧が合わされば、如何に相手が円卓の騎士王と言えども易々と突破する事は叶わない。
「捨てたもんじゃねぇなぁ人類史! オレも色んな奴等を見て来たが、まぁだこんな強ぇ奴が隠れてやがったか!」
「己の無知を知ったか? それしきの知見で悟った等と豪語するとは、井の中の蛙も甚だしいな」
「堅苦しく考えんなよ。悟りってのはもっと柔軟でウィットなもんなのさ――知らない事、新しい事、見た事ねぇかっけえ奴。
キミみたいなのと偶然出会って鼻明かされんのも人生の楽しみの一つだろ。つまらなくする為に悟り開くバカが何処に居る?」
アルトリアは改めて驚いていた。
この冥界を侮っていた訳ではない。
例の怪物三種に限らず、此処には聖杯戦争に呼び込むという発想自体がズレている、そういう類の存在が居る。
それは彼女も既に感じていた事であったし、よもやこれまでのような横綱相撲のみで勝ち抜けると楽観視する程彼女は莫迦ではなかった。
だがそれでも…生き物としての基礎値で明らかに己と差があるにも関わらずこうまで食い下がれる輩と早晩出会すとは思っていなかったのだ。
これが釈迦。
これが蓮座の主。
神をも恐れぬ大胆不敵な振る舞いも、ひとえに何が起ころうと彼には何も問題無いからというだけだった事を理解する。
「肩の力抜いてこうぜ…、なんて言葉は今のキミには無用かな? 王様よ」
「――ほう。参考までに聞いておこうか、何処で気付いた?」
「釈迦(オレ)の居るタイプの人類史で此処まで仕上がった剣士なんて知れてるでしょ。
まさか女の子だとは思わなかったけどね。おまけに死ぬ程グレた猛獣娘と化してると来た、誰が予想出来んだよそんなの」
騎士王アーサー・ペンドラゴン。
目前の黒く染まった暴君が"それ"とは全く冗談じみている。
だが彼女の振るうその剣の苛烈がその信じ難い事実を真実であると語っていた。
道理で強い訳だと、釈迦は思う。
強さだけで言っても最終闘争で戦った"魔王"に匹敵、いや確実に凌駕。
技の面では完全に上を行っているという人界神界引っ括めて尚際立つ出鱈目ぶりも、真名がそれだと思えば納得が行く。
「一体何があってそんな事になっちゃったのさ、騎士王の異霊(オルタ)ちゃん」
「貴様に語る義理はないな。この臓腑でも抉って聞き出して見るといい」
よくぞ見抜いた。
では死ね、と。
騎士王の魔力が再び迸る。
いや、荒れ狂うと形容すべきだろう。
実際に浴びずとも余波だけで骨肉を苛む禍々しい魔力。
それに騎士王の武芸が乗って振るわれるというのだからまさしく悪夢だった。
一振り毎に釈迦を衝撃で後退させる。
其処に間髪入れず絶速の追撃が来る。
単純、明快、故に最強。
子供でも解る荒唐無稽な無体極まりない強さが此処にある。
騎士王の剣が釈迦の首筋を斬り裂いた。
然し斬られた彼でなく斬った彼女の眉が動く。
浅い、と手応えで理解したからだ。
釈迦は最早未来視で抗える領域を超えつつある暴君の剣に対し、然し何処までも冷静だった。
一寸でも見極めを誤れば致命傷という賭けへ堂々挑み、当たり前のように勝つ。
脈の手前を通り過ぎた剣閃が次撃に変わる前に涅槃棒の一撃でアルトリアの側頭部を打った。
“…! 硬ぇ! おいおい、岩で出来てんのかよコイツの肌は!?”
アルトリアはたたらさえ踏まずに耐える。
耐えてみせた上で即座に反撃して来るのだ。
その横顔からは一筋の血が垂れていたが、逆に言えばそれまで。
僅か刹那でも対処が遅れれば斬滅されている所を凌ぐ彼も彼だが、依然として戦いの主導権を握っているのはアルトリアだった。
“薄々解っちゃいたけどちょっち厳しいな。さて――どうしたもんかね”
冷や汗が流れるのを感じながらも、舌先を覗かせて笑う釈迦。
戦況は誰がどう見ても一方的だというのに怖じず臆さない。
第六天の魔王さえ下した救世主に立ち込める暗雲。
振り上げられた剣に、この長く手数の多い鬩ぎ合いを断ち切る為の力が横溢する。
反転した聖剣から燃え上がる赫黒。
大仰な予備動作等なく。
同時に、微塵の容赦もない。
王を前にして悟りを説く不遜者を糾するべく振り下ろされる一撃。
聖剣にありながら理想を謳わず、何処までも暴性のみを宿した光が鉄槌となり。
涅槃さえ消し去り蓮座に亀裂を刻むべく、煌々と振るわれた。
「塵と帰せ――『卑王鉄槌(ヴォーティガーン)』」
炸裂する光。
黒き王は蓮を枯らし根までも絶やす。
釈迦の面影が赫と黒の中に消えていく。
轟く衝撃が、確かに真昼の東京を揺らした。
◆ ◆ ◆
息吐く暇も忘れる攻防だった。
オルフェ・ラム・タオはこの時、自分の理解の浅さを思い知っていた。
聖杯戦争に対しても。
そして己が呼び寄せた黒き暴君の強さに対しても。
「…これ程か」
これ程か。
これ程までに強いのか、あの騎士は。
オルフェの聖杯戦争は此処まで全くの順風満帆だった。
騎士王に苦戦等なく、それどころか僅かに持ち堪えられた敵さえ存在しない。
戦いと呼んではお世辞が過ぎる。
まさに蹂躙と、虐殺と呼ぶべき一方的な戦いだけをオルフェは見せられて来た。
そんな彼らの前に現れた、初めての強敵。
騎士王の威厳に屈さず、真っ向から殴り合える稀有な英雄。
オルフェでさえ一時は苦々しく唇を噛んだ。
だが結論から言えば、その焦燥は彼の黒騎士に対する侮辱でしかなかったのだと思い知る。
興の乗った騎士王はまさに無敵の存在だった。
剣を振るえば大地が逆巻き、地を蹴れば風さえ追い越す疾風になる。
轟く魔力は迅雷の如く、振るう剣閃は雲間を裂く陽光の如く。
釈迦の存在感すら食い尽くして君臨する姿は悪食と傲慢の極み。
自分は今まで、彼女の強さの半分も知らなかったのだと。
そう理解するに十分な光景であった。
最早幕は下りたも同然だ。
聖剣は悟りを凌駕する。
暴君は救世主の心臓さえ一呑みにするだろう。
“そうだ――それでいい”
喰らってしまえ。
存在の一片も残さず凌辱してしまえ。
あんなモノがこの世に存在した事実を消し去るのだ。
オルフェは心の中でらしくもなくそう祈っていた。
怨嗟にも似た祈りを、自らの剣たるあの黒王に捧げていた。
あれの末路を見届ければこの痛みは消えるだろう。
心を苛む火傷のような疼きも失せていくに違いない。
存在の否定、歩んで来た道筋の否定、そしてあの結末の否定。
ひいては今此処に居る自分自身の――否定。
オルフェにとってあの体験はそういう物で。
自分が自分である為に、決して看過の出来ない侮辱(イフ)だった。
殺せ。
喰らえ。
踏み躙れ。
熱暴走を起こす感情に比例して視野は殺し合う二人に向け狭窄する。
そんなオルフェの耳に届く、小さな声が一つあった。
「…もし。セイバーのマスター」
「――――」
眉根を寄せて声の主を見やる。
忌まわしき釈迦の葬者たる、白髪の少女だった。
見るからに脅威には見えない。
機微に乏しい表情。
小さな背丈は特殊な力など無くとも、素手の一つで簡単に手折れてしまいそうだ。
よもや命乞いか。
こう見えて従僕の不甲斐なさに慌てふためいてでもいるのか。
口元に皮肉げな笑みを浮かべて「何か」と聞き返すオルフェ。
そんな彼の目を見据えて少女は言った。
予想の何れとも異なる、言葉であった。
「後学の為に聞かせていただきたいのですが…あなたは先刻、あの人の中に何を見ていたのでしょうか」
「…、なに?」
「私の思考機能に対する干渉を確認しました。
私に備えられたセキュリティシステムを掻い潜って感応出来る、極めて高度な力とお見受けします」
「……驚いたな。気付いていたのか?」
「詳しく話せば長くなりますが、私は見掛け通りの人間ではありません。
幾つかのイレギュラー事象の上に現界を維持出来ているだけに過ぎない、とても希薄かつ無機的な存在です」
セキュリティシステム。
無機的存在。
以上の単語だけで少女の正体はある程度予想が付いた。
要するにAI、人工知能に人の形を与えたような存在なのだと推察する。
であればアコードによる精神感応を感知出来たとしても不思議ではない。
率直に、盲点だった。
どうやらこの冥界は相当に節操のない呼び方をしていたらしい。
だが同時に、オルフェは鼻で笑わずには居られなかった。
「0と1で出来た紛い物が悟りを目指すと豪語しているのか。それは君のような存在にとって、バグと呼ばれるべき暴走ではないのかな」
「否定は出来ません。…そして、やはり伝わってしまっているのですね」
少女が言う。
オルフェは答えない。
だがその沈黙が肯定を伝えていた。
「であれば答えては戴けませんか。あなたが"彼"に干渉を行った事には察しが付いています」
「君が被造物として不出来な事は解ったが、これは酷いな。自分の置かれた状況も解らない程性能が低いのか?」
答える義理も意味もないと、オルフェは辛辣に突き付ける。
敵の問いにいちいち答えてやる義理がないというのは大前提。
そしてその上で、意味もない。
騎士王と釈迦の戦いが直に決着するのは誰の目から見ても明らかだった。
言うまでもなく、騎士王の勝利という順当な形で。
性能が違う。
年季が違う。
葬者という魔力炉の出来さえ天と地。
最初こそ予期せぬ奮戦に面食らいはしたが、あの光景を見ればそれが単なる誤差に過ぎない事はすぐ解る。
格の差は既に示されている。
結末も同じだ。
そしてサーヴァントを失えば、彼女の旅路とやらもすぐさま終わる事になる。
だからこそこの問答にはそもそもからして意味がない。
それさえ解らない程不出来であるなら哀れだとオルフェは笑うが。
それに対して少女は小首を傾げた。
煽っているのではなく、本当に理解出来ていないという風な仕草だった。
「質問。発言の意味が解りかねます」
「なら教えてやる。君は直に死ぬ。私が殺す」
「ふむ。ですが、私の英霊が黙っていないかと思います」
「それを、私のセイバーが殺す。完膚無きまでに消し去る。
だから君がこの期に及んで自発的に何かを考える必要はないし、目指す必要もない。
私が君と言葉を交わす意味も勿論ない。君の中に生まれたバグは敗北によって修復され、そして君ごと消えるんだ」
「…あぁ、成程。理解が遅れました。そして回答します。その心配は無用です」
少女は言う。
勝利を告げる王に。
「交戦はまだ終わっていません。よって、私達が個人的に語らう時間は保証されているかと」
「本気で言っているなら最早言葉もないな。狂っているだけでなく、現実まで理解出来ないとは」
「…答えては戴けないのでしょうか。彼の境地を目指すに当たり、きっと貴重な見解になると思ったのですが……」
苛立ちが脳裏に火花を一つ散らす。
取るに足らない弱者、虚構の生命。
切り捨てるには容易く、然し向けられた純粋な眼差しが奇妙に気分を荒立てる。
それは彼女があの救世主の葬者であるからなのか。
理由さえ知りたくはなかった。
どんな理由だったとしても、それがこの苛立ちを慰める事はないとの確信があったからだ。
「地獄だったさ」
根負けにも見える応答。
示してやる回答は実に率直。
少女の眉が初めて動く。
露悪的な解だと自覚はあったが嘘は言っていない。
あの光景はまさに地獄だ。
認める訳になど行かない、正真正銘の地獄絵図。
「私はあの景色を決して認めない。
あれが悟りの果て、一つの救いだなんて馬鹿げている。
あんな物、あんなモノは…只の堕落の果てでしかない」
無限に広がる極楽浄土。
全てが穏やかに凪いだ世界。
悟りの果てを謳う、堕落した地獄。
認められぬ、存在する事自体が悍ましい。
オルフェは絶世の貌に皺を寄せて憎悪を体現する。
いや、していた。
意識したつもりもないのに、その心を隠す鍍金はいつしか剥げ落ちていたのだ。
あれは地獄であったとそう認めなければ。
只でさえ敗北というバグに冒されているこの脳が本当に壊れてしまいそうだった。
救世主は認めない。
悟りなど存在しない。
そう伝えるオルフェに少女は少し黙り、それから言った。
「では、あなたは」
「…まだ何かあるのか?」
「あなたは、如何なる救いを追っているのでしょう」
目は口ほどに物を言う、という諺があるが。
まさに今のオルフェはそれだった。
最悪の嫌悪を乗せて自分が見た物を地獄と断ずるその声音。
其処に込められた熱が彼の願いの形を無自覚に表してしまう。
無機の少女はそれを感じ取って次の問いを掛けるだけ。
オルフェだけが不快を募らせる羽目になる。
何しろこの少女はオルフェの悪意に動じた風でもなく、本当に只の一意見として収めていた。
見識を聞かせろと言ったのだから何が返って来ても反論はないし、宣言通り貴重な見識の一つとして貯蔵する。
被造物故のある種愚直な純粋さは今のオルフェ・ラム・タオとは正反対で。
それが自覚出来てしまうからこそ、バグに冒されたアコードは何時までも苛立ちを殺せない。
「私は――」
口を開く。
問いなど黙殺してしまえばいい。
だと言うのに答えてしまうのは、この愚直に沈黙を返す事は自らの傷を押し広げる行為に思えてならなかったからだ。
断じて負けて等居ない。
あれは救い等ではない。
救いを謳って堕落に耽溺させるだけの腐敗した思想だ。
それを世に伝えた怠惰な落伍者の戯言そのものの世界だ。
そう断じながらオルフェは声を発するべく声帯を震わせた。
少女――プラナはそれを、只敬虔に見つめている。
これは王と開祖の決着を間近に控えながら交わされた、葬者達の小さな対話だった。
◆ ◆ ◆
卑王鉄槌(ヴォーティガーン)。
宝具に非ずしてその域に踏み入る、暴君の振り翳す破壊の一刀。
如何な英霊でも直撃すれば物理的に圧し折られる事請け合いのそれを前に。
釈迦はこれぞ好機と六道棍を変形させながら前に踏み込んだ。
騎士王の目が見開かれる。
今度こそ感嘆ではなく驚愕だ。
それ程までに有り得ない選択。
博打にしても分が悪すぎる断崖への飛翔。
仏は博打を打たない。
この瞬間、此奴は確かに自分だけの勝機を見据えている――
その事実に騎士王は瞠目した。
彼女は猛者の中の猛者、騎士の中の騎士、そして捕食者の中の捕食者であるが。
それでも彼女の目に確かな未来は映らない。
釈迦だけが今、これから起こる事を知っていた。
「血迷ったか、救世主――!」
「――悪いね、今は狂戦士(バーサーカー)だ!」
変形する六道。
姿を顕す次なる道は四番目。
修羅道の艱難を耐え凌ぐ大楯だった。
――四之道・修羅道十一面観音『七難即滅の楯(アヒムサー)』。
未来を見通す阿頼耶識を超えて押し寄せる攻撃に対し、本来この楯は起動する。
然し先の猛攻で一方的に追い詰められている時、釈迦はこれを使わなかった。
今やその神器に戦乙女の姿と加護はなく。
釈迦の意思だけが六道を渡り歩かせる。
大楯が正面から、騎士王の暴虐を受け止めた。
同時に響く震撼。
釈迦とアルトリアを中心に周囲の地面が衝撃で抉れ、隕石の着弾でも起こったかのようなクレーターが広がっていく。
「づぅぅぅぅぅッ、るァァァァァァ!!」
押し返すなど無理難題。
だから釈迦は逸らす事を選択した。
楯で受け止めた格好のまま、両腕が悲鳴を上げるのも無視して傾ける。
未だ衰えず轟き続ける卑王の鉄槌を強引に逸らして即死を覆す型破りの極み。
規格外の楯があって初めて成し得る無理難題。
至近距離から自分の魔力を跳ね返される形になったアルトリアが此処で漸く後退した。
刹那、六道棍が再び変形する。
零福、第六天魔王波旬との決闘でさえこうまで早く機構を使い分けはしなかったが、それは即ちこの騎士王があれらより格上の敵だと言う事。
再び壱之道・十二天斧。
切り込んだ一撃は遂に騎士の痩躯を捉える。
騎士の双眼が見開かれた。
其処に宿る感情は間違いなく驚愕。
見据えた未来の通りの光景に釈迦が破顔する。
それと同時に短く、そして永遠のように長いこの戦いを締め括るに相応しい――此処までで最大の衝撃が更にもう一段地面を凹ませた。
◆ ◆ ◆
「私は、私の意義を全うする。それだけだ」
吐いた言葉は対話の放棄と同義だった。
いや、そもそもそんな物は必要すらなかったのだ。
こんな白痴めいた娘と言葉を交わす事には意味がない。
あの救世主の僭称者に師事しているような娘に語って聞かせる程、オルフェは自分の志を低く見積もったつもりはなかった。
問いに応じてしまった事からして間違い。
そう気付くと、熱の上った頭が急速に冷えていくのを感じる。
そうだ――これでいい。
屠り葬るべき敵に意味を求める事は無意味で、等しく無価値だ。
戦闘に、蹂躙に血が通っている必要はない。
重要なのは過程ではなく結果。
勝利して勝ち取った戦利品以外、この世界で有意な事物等ありはしないのだから。
「…そうですか……」
少女の声は心做しか残念そうに聞こえた。
だがもう一度言う、知った事ではない。
敵に知見を求める発想からして馬鹿げている。
求道者を気取りたいのならば一生この黄泉路で迷っていればいいのだ。
尤もその旅路は遂げられる事は愚か、最早先へ続く事すらないが。
確信を以ってオルフェがそう呟くのと――彼の目前で白い少女が攫われるのは全く同時の事だった。
「オッケー退くぞプーちゃん! 悪っり、ありゃ今倒すには重たすぎるわ!」
無粋極まりない乱入の主は言うまでもなく蓮座の主。
だがその姿は当初出会った時と比べて格段に血腥い。
あちこちに切り傷が走り、未だ塞がらず血を流している。
彼の発言を聞く限りでも、戦況が如何なる物であったかは明らかだった。
思わず口角が歪む。
やはり張りぼて、単なる鍍金か。
然し無論、逃がすつもりはない。
いや…己のセイバーが逃がす筈もない。
「――尻尾を巻いて逃げ出すか救世主。見窄らしい物だな、宛ら鼠のようだ」
「何とでも言っとけ。結局喧嘩ってのはさ、最後に勝った奴が一番偉いんだよ」
「そうか。だがおまえは、その"最後"とやらに辿り着く事さえない」
殺せ。
オルフェの意思に呼応するように黒い軌跡が走る。
逃しはせぬと騎士王の殺意が冷淡に告げていた。
正しき騎士王ならば逃げる背中に切っ先を向ける真似に抵抗も覚えるかもしれない。
されど今此処に居るのは正しからぬ、狂おしく歪め染められた卑王。
その黒き魔力は全ての敵を駆逐するまで決して止まらない。
だからこそこれは、これが、最高の凌辱になる。
オルフェ・ラム・タオの観た屈辱を否定する刃になる。
その認識は決して間違ってはいなかったが。
陥穽があるとすればそれは、敵も決して孤軍ではなかった事。
「非礼を詫びます」
少女のか細い声。
それと同時にその手にずっと握られていた傘の露先が、オルフェの方を向いた。
そして響き渡る破裂音。
同時に傘…そう擬態していたショットガンの弾丸が爆ぜる。
英霊と死霊が跋扈するこの冥界で神秘も持たない重火器が果たせる役割はたかが知れている。
現にばら撒かれた鉛玉は騎士王に剣の一閃で一掃される。
だがプラナにしてみればそれでも一向に構わなかった。
重要なのはこの凡そ完璧に等しい騎士王が一瞬でも意識を背けねばならない状況。
それさえ用立てられるなら、自分の師(サーヴァント)は必ず目的を果たせるという信頼だった。
何故なら彼は人界の救済者にして救世主。
その両目は未来を見通し、結末を先に知る事が出来る。
「オルタちゃん、勝負は預けた――また会おうぜ! そん時は改めて語り合おう!」
「逃がすと思うか」
「逃げんだよ!」
事実。
追うアルトリアも内心で舌を打っていた。
直接矛を交えたからこそ解る事だが、認め難い話、この男には何か底の知れない物があった。
純粋な実力の高さや技の巧拙には留まらない厄介さ。
出力では圧倒的に優れている筈が、気付けば喉元に刃を突き付けられている。
まるで英雄譚のご都合主義でも目にしているような不快感。
これが釈迦だと言われてしまえば返す言葉のない、彼にしか許されない定義不能の強さがあった。
それを踏まえて騎士王はこの瞬間にはもう確信してしまっていた。
――恐らくこれ以上はどうあがいても追い付けない。
あの白い娘に銃を撃たせた瞬間がそれを決定付けたのだ、と。
“逃げ足の速い奴だ。追ったとして、追い付ける保証はない”
“……”
“その上で問うが、追うか?”
“……いや、いい。私も頭が冷えた。この序盤から無駄に労力を使うのも無意味だ”
王の進言を受けたオルフェは一転冷静だった。
この騎士が"追い付ける保証はない"と言うのだ、其処には暗に此処が手の引き時だというニュアンスが含まれている。
その事を感じ取った若き王は垣間見せた激情を撤回して手を引いた。
仕損じた形にはなるが、こればかりは初手から予想外の大物を引き当ててしまった事を不運と思う他あるまい。
それに自分の体たらくにも問題があった。
よもやあれしきの事で心を乱され、剰え茫然自失と立ち尽くす無様を晒すなど我ながら言語道断だ。
心を乱す必要はない。
聖杯を手に入れる為の作業など単調であるに越した事はないのだ。
良い薬になったとでも思って己を慰める他ないだろうと、オルフェはそう判断する。
「その傷は」
「最後に一撃貰った。あの様子では他にも手札を隠しているな」
「深くはないな?」
「霊核には達していない。掠り傷と呼ぶには不格好だが似たような物だ」
命令通りに追跡を中断したアルトリア。
その鎧の胸元には大きな亀裂が刻まれていた。
血が滲み出ている辺り、肉まで斬撃は届いているようだ。
釈迦の大斧に引き裂かれた傷。
それは彼らにとって今しがたの戦いがこれまでのような易しい物ではなかった事実を端的に物語っている。
無敵に等しい武を持ち、振るうアルトリア・ペンドラゴンでさえもが初戦で傷を負うのだ。
聖杯戦争は次のステージに突入した。
最早今までのような無味乾燥とした、単純単調な戦況は期待出来ない。
オルフェにそう実感させるには、敵を取り逃がした上に傷まで負わされたこの事実は十分な大きさを秘めていた。
「愚問だと信じるが」
「何だ」
「よもや、無様に項垂れては居るまいな?」
「舐めるな」
アルトリアの問いに即答を返す。
「アコードの力を逆手に取られるのは確かに予想の外だった。紛れもない手抜かりだ、それは認める。
だが解ってしまえばどうという事もない。次は私もあなたも不覚を取らず、救世主の首級を奪い取る。それまでの事だ」
「ならば良い。女のように女々しく腐る姿だけは見せるなよ」
「舐めるな、と言った筈だ」
あれは偶々起こった事故のような物だ。
主人は人ではなく、従僕の精神構造は異常だった。
逆にそうした例を早く知れた事は長期的に見ればプラスでさえあるだろう。
少なくともオルフェ・ラム・タオはもう二度と同じ轍を踏まない。
感応を張るリスクも承知して物を考え、手を打つ。
暴虐の化身たる騎士王を送り込み、事を成す。
抜かりは二度となく、そして変わらず自分の王城は盤石だ。
そう断ずるオルフェに、アルトリアはそれ以上何も言わなかった。
何も言わず武装を解き当代風の装いへ戻る。
只それでも、その胸元にある傷は健在だった。
その流血を…これまで一度も見る事のなかった騎士王の血を見ると、オルフェはどうしてもあの屈辱を思い出してしまう。
想起される。
あの――あり得ざる未来が。
“紛い物め。次は決して逃さない”
オルフェ・ラム・タオは断言する。
釈迦など、奴等など、自分にとっては単なる逃げ足の早い鼠でしかなかったと。
信じているからこそ彼は揺るがない。
騎士王の異霊を呼び寄せたアコードの王は未だ健在。
彼らは依然変わらずその脅威で冥界を脅かし続ける。
だがオルフェという男が幾ら優秀でも、其処には一つ見逃せない欠陥がある。
彼が心を持たない完全なる被造物であったならば…本当に一切の嘘偽りなく、次の一歩を踏み出す事が出来ただろう。
然し現実は違う。
彼には心が在る。
そういう余白を、その完全性の中に抱えてしまっている。
故にどう取り繕おうと、あの瞬間に垣間見た景色は彼の脳に消えぬ炎として焼き付いていた。
無限に広がる争いなき地平。
完全なる充足は悟りの中に。
隔離も管理も必要とせず。
誰もが、そうまさしく全ての生き物が平等に自由を噛み締め世界と調和する穢れなき浄土。
彼の…彼らの。
生まれたその意味も意義も否定する――一つの"結果"。
オルフェ・ラム・タオはそれを認められない。
一笑に付し、釈迦の首を取る事で完全に否定する心算だ。
それでも。
仮にその処断を果たし終えたとしても。
最早あの瞬間に見た結果(イメージ)は、傷として彼の存在そのものへ焼き付いた。
忌まわしき未来は今後常に彼へ付き纏う。
どれ程の勝利を重ねようと。
いつか敗北に土を舐めようと。
あの蓮の大地がその心から完全に消える日は来ない。
王は歩み続ける。
そして王は、生きている。
完成された新たな人類だろうと、其処に心が在る限り逃れる事の出来ない痛み。
疼き続ける傷がまた一つ――オルフェの気高き魂を穢した。
目を背け続ける。
直視して、痛みに打ち克つ。
その選択は王の意思に委ねられている。
何処までも気高く、そして脆く弱い…王の意思に。
【新宿区/一日目・午前】
【オルフェ・ラム・タオ@機動戦士ガンダムSEED FREEDOM】
[運命力]通常
[状態]健康、釈迦及び彼の中に見たイメージに対する激しい不快感(小康状態)
[令呪]残り三画
[装備]
[道具]
[所持金]潤沢
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯を入手し本懐を遂げる
1.…ままならんな。
2.バーサーカー(釈迦)とその葬者は次に会えば必ず殺す。………………紛い物が。
[備考]
【セイバー(
アルトリア・ペンドラゴン〔オルタ〕)@Fate/Grand Order】
[状態]疲労(小)、胸元に斬傷
[装備]『約束された勝利の剣』
[道具]
[所持金]
[思考・状況]
基本行動方針:蹂躙と勝利を。
1.…さて。
2.バーサーカー(釈迦)は面倒な相手だった。次は逃さん
[備考]
◆ ◆ ◆
「大丈夫なのですか、バーサーカー」
「あぁ、まあ深手は何とか避け続けてたからな。
あっちにブチ込んでやった傷と比べればトントンだ。とはいえ結構疲れたよ、腕が千切れそうだ」
晴れて騎士王からの撤退を果たしたプラナと釈迦。
プラナの心配に、釈迦は笑顔を見せて答える。
だがその体には幾つもの生傷が覗いており見た目は惨憺としている。
彼らが出会してしまった主従が、紛れもない外れ籤であったのは認めざるを得ない事実だった。
釈迦の武芸と未来視。
更には神器の機能を用いた変則的な戦闘スタイル。
それでありったけ翻弄して尚攻め切れず、最後は尻尾を巻いて逃げ出すしかなかった。
“あのまま続けてたら…どうなってたかねぇ。勝ったとして、オレも無事じゃ済まなかったろうな”
戦いを振り返って改めて結論付ける。
あの黒騎士は、間違いなく戦士として一つの完成形に達していた。
力と技、そしてそれらを支える体の全てを兼ね備えたマスターピース。
正直な話、あれを見た今では聖杯戦争の過酷さを見誤っていたと言う他なかった。
人類最高の闘士の一人として釈迦は断ずる。
あの領域のサーヴァントが複数存在するのなら。
あの黒騎士がもしこの世界の"最強"ではないと言うのなら。
「…もしかするとラグナロク以上かぁ。やだやだ、とんだ厄ネタに首突っ込んじまったな……」
――この冥奥聖杯戦争の規模(スケール)は、あの人神最終闘争を優に上回ると。
心底億劫そうな顔で、然し釈迦はそれを認めた。
結論付けるにはまだ早いが、その可能性を念頭に置いて進んだ方が良いだろう。
人類史を逆さに引っ繰り返して行われたあの潰し合い。
人類の存亡を懸けた神々との殺し合い。
あれさえ凌駕する規模の戦となると、最後には一体どんな事になるのか流石の釈迦も見当が付かない。
鬼が出るか蛇が出るか。
それとも――それ以上の何かが顔を出すか。
阿頼耶識の未来視は世界の行く末まで見通せる程高度な物ではない。
よってこの冥界の行く先は、釈迦をしても予測の利かない未知として未だ暗雲の内に覆い隠されているのが現状だった。
「悪かったな。オレももう少し格好良いところ見せたかったんだけど」
「いえ。こうして生き延びられただけでも十分です。それに」
「それに?」
「少しですが実りのある対話が出来ました。…欲を言えばもう少し言葉を交わしてみたかったですが」
「ああ。あの金髪の兄ちゃんか」
プラナは釈迦の言葉に腕の中で小さく頷く。
結局名前も聞けず仕舞いだったが、相手の心境とは裏腹にプラナは彼へ強い興味を抱かされた。
人の心を覗き見る能力。
意義を果たすという事に懸けた劫火のような熱量。
似て非なる存在ではあれど、プラナと彼、オルフェはある一点に於いて共通している。
造られた存在である事。
使命を帯びて生み出された導く者(コーディネイター)である事。
その事はあの短く、そして不完全な対話の中で薄々だが感じ取る事が出来た。
「良い男だったね」
「…良い男? 見た目の話でしょうか」
「違ぇよ。形は違うがプーちゃんと同じさ。自分が置かれた運命の中で藻掻き、足掻いてる。
彼もまた思春期の中に居る。それを収穫出来るかどうかは自分次第だけど、オレは好ましく思ったよ」
「私と、同じ…」
そう聞くとますます惜しくなる。
あの状況で我儘を言う事は出来なかったが、欲を言えばもう少しだけ彼と言葉を交わしてみたかった。
或いはこう思う事自体、以前の自分とは違った思考なのだろう。
未だ目指した到達点には掠れもしていない自信があるが、無駄にはなっていないと信じたい。
そんな事を考えながらプラナは思いを馳せた。
釈迦の言う通り彼もまた藻掻いているというのなら。
あの完璧を体現したような男が溺れる運命とは、一体如何な形をしているのだろう。
「…難しい物ですね、生きるという事は」
独り言のようにそう呟く。
この冥界にはどんな運命が、そして物語が生きているのだろう。
星は地上という名の空を眺める。
導く者は導かれる者へ。
その足で世界を歩き、見つめ、対話し続ける。
小さな星は今も夢の中。
仮初の体で仮初の土を踏む。
…ふと、心の中に誰かの背中が思い浮かんだ。
優しい人だった。
自分の事なんて何も顧みず、誰かの為に駆け回り続けた人だった。
今はもう居ない人だった。
星が空を見上げる。
其処には誰も居ない。
けれど居ると今だけは非科学的にそう信じた。
口が動いて呼んだ誰かの名前は、彼女以外の誰にも聞こえなかった。
それで、良いのだった。
【中野区/一日目・午前】
【プラナ@ブルーアーカイブ】
[運命力]通常
[状態]健康
[令呪]残り三画
[装備]傘型ショットガン
[道具]
[所持金]無理をしなければ生活に支障がない程度
[思考・状況]
基本行動方針:旅をする
1.…あなたもこんな気持ちだったのでしょうか?
2.セイバーのマスター(オルフェ)に対する関心
[備考]
【バーサーカー(釈迦)@終末のワルキューレ】
[状態]疲労(中)、全身に切り傷
[装備]『六道棍』
[道具]
[所持金]なし
[思考・状況]
基本行動方針:ゆるりとやっていく。旅は楽しくなくちゃね。
1.もうちょい逃げたら休憩かな…追って来てはないみたいだけど。
2.オルタちゃん(アルトリア)強すぎ! あんなのがまだゴロゴロ居るとかマジ? …マジっぽいんだよなー。
[備考]
最終更新:2024年07月21日 20:39