『レイサ。こういう事を聞くのは僕としても心苦しいんだけど』
 レイに介抱されて、少し眠って。
 それから目覚めたレイサを待っていたのはピーターの問いだった。
 聖杯戦争は明らかに次のステージを迎えようとしている。
 その折に露見した少女の弱さ。
 戦力の問題ではない。心の問題だ。
 くまはああ言ったが、それでもこればかりは彼女自身に問わねばならない事である。
『まだ――続けられるかい? きみの本音を聞かせて欲しい』
『それ、は…』
『お節介は承知さ。でもレイサ、君は余りにも優しすぎる。
 …それは間違いなく君という人間の美徳だけど、この世界で抱え続けるには重すぎる荷物だと僕は思う』
 宇沢レイサは重荷を背負っている。
 持って生まれた優しさ。
 真っ直ぐ過ぎる程の正しさ。
 ピーター・パーカー…『スパイダーマン』も確かにヒーローだ。
 正義の使徒と呼べば彼は大袈裟だと肩を竦めるだろうがそう呼んでも差し支えはない。
 だがピーターは、レイサよりも世界を知っている。
 時に世界と言う物がどれ程残酷で冷たい顔を見せるのかを知っている。
 その中で尚英雄を張り続けるからこそ彼は皆に尊敬される、誰もが認めるヒーローたる存在なのだが――
 然しその振る舞いは、万人に求めていいものでは決してないと彼自身自覚していた。
 貫く事の意味。
 奔る事の意味。
 …そして失う事の意味。
 それを知っているのなら、決して他者へ軽率に同じ道を求める事など出来やしない。
『君が"やめたい"と言っても僕は決して責めないよ。君の示した正義を受け継ぐことも誓う』
 くまは言った。
 侮らないで欲しい。
 必ず一歩を踏み出せる、と。
 ピーターだってそれを信じたい気持ちはある。
 それでも、これだけは確認しなくてはいけなかったのだ。
 彼女自身の口から聞かなければならなかった。
『レイサ、君は――今どうしたい?』
 問い掛けたピーターにレイサは唇を結んだ。
 目元は泣いた時の腫れがまだ残っていて痛々しい。
 憔悴の中、少女はゆっくりとその口を開く。
 正義で在るか。
 それとも、此処で降りるか。
『私は――』

    ◆ ◆ ◆

 優しい子だと思った。
 そう、彼女はとても優しい子。
 宇沢レイサという葬者の弱さをレイは否定しない。
 寧ろそれは、とても好ましいものだと。
 誇らしいものだとさえ疑いなく断言出来る。
 確かに――この世界に生きている全ての人々は一足早い夏の陽炎と同じだ。
 生きているようで生きていない。
 其処にいるようで、何処にも居ない。
 そんなとても不確かで、酷い事を言えば無価値な存在。
 彼らの命や心が後に何かを遺す事は決してない。
 では、造り物の命を守りたいと願うのは無駄な事なのか。
 喩え再現された人工の命であろうと、それを尊いと願う事は心の贅肉に過ぎないのか。
 そう問われたならレイは何度でもこう答える。
 "そんな事はない"と、いつだってそう断言してやれる。

 レイが生きていたのはとある星の、静かな町だった。
 『カーマ』というその町にはレイ以外の人間が居なかった。
 遠い昔の大戦。カーマと巨大な敵国の戦争は、星に生きる全ての人間を滅ぼした。
 何もかもが死に絶えた廃墟の星で奇跡的に発見された極小の受精卵。
 それが孵って生まれた少女こそが、レイだ。
 然しレイは孤独ではなかった。
 少なくともそれを感じた事は一度だってありはしない。
 何故か。
 彼女は種として孤独ではあっても、人として孤独ではなかったからだ。
 悪魔の兵器が人類という種を駆逐しても、彼らが発明したAIという機械生命体は星に残り続けていた。
 AIに育てられて大きくなり、過酷な戦いの中に身を投じていった心優しき少女――閃刀姫・レイ。
 そんな彼女にレイサの思いが理解出来ない筈もない。
 命なき者達の愛と慈しみを一身に受けて育ち彼らの為に剣を執ったレイには、その優しさがよく解った。

 レイの葬者は彼女ではない。
 だがそれでも、幸せになって欲しいと願った。
 この優しい少女が願わくば少しでも報われるように。
 冷たく寂しい戦火の世界にて花を探す小さな勇者の優しさが、いつか何かを成し遂げればいいなと。
 そう思いながら、泣きじゃくる少女を抱き締めていた。
 それが昨夜の事。
 希望のままに走り出した少女が初めて味わった挫折と喪失の夜
 鈍色の夜は明け、朝が来た。
 されど其処で待ち受けていたのは次の地獄。
 喪失の次には悪意が待つ。
 太陽の光は少女の心の全てを嘲笑うように、鬱陶しい程に燦々と文京区の町を照らしていた。

「ぁ…」
 文京区。
 賑やかな活気で溢れている筈の町は今まさに地獄へ変じていた。
 死体が其処かしこに散らばっている。
 ショーウィンドウや電柱、信号機までもが飛び散った血と臓物の破片でメイクされている。
 少しでも冷たい場所を探そうとしたのか街路樹周りの土に顔を突っ込んで死んでいる焼死体が何十体と居る。
 目を凝らせばまだ動いている人間を見つけ出す事も一応は可能だ。
 然し彼らの多くは手が欠けていたり足が欠けていたり、腹からホースのような赤黒い物体がはみ出ている。
 以上全ての情報を総括して改めて言おう。
 地獄とはまさに、今の文京区の事を指していた。
 レイでさえこれ程に惨憺たる絵図を見た覚えはない。
 悍ましい悪意が、遍く日常とささやかな幸せを食らい尽くした景色。
 今レイとその仲間達の前に広がっている光景はそれだった。
「――っ」
 レイサが青褪めた顔で唇を固く結ぶ。
 少女の許容量を超える惨状にそれでも崩折れる事だけは堪えたのだろう。
 尊い勇気は小さな強さ。
 アスファルトを裂いて咲く花のように好ましい人間の輝きへ、賞賛の一つを送る余裕も今はない。
「…た、っ。助けましょう、一人でも多く!」
「ああ、勿論だ! 僕はもう少しこの辺りを広く偵察してくる。レイサは此処でまだ助けられそうな人達の捜索を頼めるかい?」
「解りました…! ライダーさん達にはサーヴァントの対処をお願いしてもいいですか!?」
 レイの葬者であるピーターが即断する。
 レイサもそれを受けて頷き、レイと彼女自身のサーヴァントの方に目を向けた。
 サーヴァントへの対処。
 確かにこの状況を見ればそれは急務だろう。
 人命救助は勿論大切だが被害を生み続ける元凶を排除しない事には何も好転しない。
 一人でも多く助けつつ、無軌道に殺戮を撒き散らす巨悪を討つ。
 その方針に関してはレイも当然異論はない。
 だが――。
 レイは大型な、熊を思わせる容貌のライダーに目配せをした。
 ライダー…バーソロミュー・くまがその視線を受けて頷く。
 どうやら既に彼もレイと同じ事に気付いているようだった。

 散らばる死体には明らかに中高生、世間的に子供と言われる年代の骸が多かった。
 乱雑に引き裂かれかち割られた死体の中に然し少なからず混じっている"焼死体"。
 一口に焼死体と言ってもその種類は二つに区分出来るように見えた。
 単純に炎で焼かれた物と、そして恐らくは極めて高圧の…致死的な電流で骨まで焦がされた死体だ。
 引き裂かれた死体。
 炎と雷で焼かれた死体。
 これらの情報がレイとくまの脳裏に一つの可能性を浮かび上がらせる。
 そしてその最悪の予想を的中させるように、空から耳触りな哄笑が響き渡った。
「――助ける? 助けるって言ったかよ、おめぇ。そりゃ随分と面の皮の厚い事だなァ」
 声と同時にくまがレイサを庇って立つ。
 背後に突き飛ばすそのやり方は心優しい彼らしからぬものだ。
 逆に言えば彼が形振り構っていられない程に、切迫した状況が到来している証拠でもあった。
 尻餅をついて小さく呻くレイサの目が見開かれる。
 それもその筈だ。
 くまが彼女を突き飛ばしたまさに直後――"ヒーロー"を標榜する一団の前に雷が落ちた。
 空は嫌味な程に晴れ渡っている。
 故にこれはまさしく晴天の霹靂。
 但し此度の霹靂には顔があり、爪があり…そして悪意が在った。

「…やはりお前か、セイバー」
「おう? おぉう? へへ、覚えててくれたのかよぅ。
 そりゃ光栄だなァ。お優しい"ひーろー"様に覚えて貰えてるたぁよぉ、この紅煉様も冥利に尽きるってモンだぜぇ!」
 ゲラゲラと品のない嘲笑(こえ)をあげるそれは異形の妖だった。
 例えるなら虎のようにも見えるが決定的に似つかない。
 虎はこんなにも下劣な貌で笑わないし、こうも悪意に満ちた声で鳴かないだろう。
 これなるは魔獣、妖の類。
 獣の槍を握り獣そのものに変じ享楽のままに虐殺を繰り返して来た最も忌まわしき字伏の一体。
 そしてこの冥界に於ける聖杯戦争では誉れ高き剣の英霊の末席を汚す死界の猛獣。
 その名を――紅煉という。
 くまも、レイも、ピーターも…無論レイサは言うまでもなく。
 忘れる事など出来る筈もない悪魔の姿が其処にはあった。
「…どうして、ですか?」
「あぁん?」
「どうしてっ! あなたはこんな事が…こんな酷い事が出来るんですか!?」
 震える足を駆使して踏み止まり。
 レイサは紅煉を睨み付けて叫ぶように言った。
 その声がレイには悲鳴のように聞こえた。
 気持ちが解るからこそ、彼女の悲愴は強く閃刀姫の胸を打つ。
 然し今この場に限ってだけ言うならば、レイサの誠実は確実に彼女自身を蝕む毒になる。
 何故ならこの所業が紅煉という醜悪な妖の所業であると解った時点で。
 彼の魂胆と言う物は最早ある程度では済まない程明白に見え透いていたからだ。
 ほら見ろ、紅煉の顔を。
 正義の少女の声を聞いた魔獣の顔を。
 ――あの、嬉しそうな、カオを。
「やったのはテメェだろうがよ、ガキ」
「は…?」
「おいおい何だぁ? ひ、ひひっ、ひゃはははは! 何だよ、おいおい本気で言ってンのか?
 ひゃーっはっはっはっは! こりゃ傑作だぜ、なぁ熊男テメェもそう思うだろ!?
 この期に及んで、このおれのカオを見て、まだ…ぷっくくく、まだ何も解っちゃいねぇのかぁ!?」
「な、にを…言って……」
「しょうがねぇなぁ…。頭ン中まで花の咲いてるバカガキにこの俺様が懇切丁寧に教えてやるよ」
 ――駄目だ。
 この先を言わせてはならない。
 いつかは知らなければならない事だとしてもだ。
 今は、今だけは…! それを彼女に理解させてはいけない。
 それをしたら彼女の心は…この優しい心を持った女の子の心は、きっと今度こそ。
 危惧に駆られて閃刀を起動させようとするレイ。
 だがそれを制止したのはくまの大きな手だった。
 何故、という目で見るレイにくまは冷静に言う。
「近くに厄介な気配が幾つもある。恐らく奴の宝具か能力による物だろう。
 きみはピーターと一緒にそっちの対処に当たってくれ」
「ッ、でも…!」
「奴のマスターもこの騒動に一枚噛んでいるのは確実だ。
 ピーターの強さは認めるが、万一という事もある――君にしか頼めない。行ってくれ」
 英霊の座は運命のような縁を結び付ける。
 それは時に良縁であり、奇縁であり…そして悪縁でもある。
 紅煉の場合は彼らにしてみれば良縁。
 だが彼ら以外の全てにとっての悪縁だった。
 彼をこの地に招聘した葬者もまた紅煉に負けず劣らずの残虐な悪党。それでいて腕も立つ。
 そちらへの対処にレイとピーターの力を傾けたいと言うくまの判断は冷たいまでに正しかった。
 されどその正しい判断の代償に。
 少女の塞がったばかりの心の傷は、獣の爪をメスにして粗雑に残虐に切開される。
「俺はなぁ。おめぇんとこのその熊男にブッ飛ばされたのが腹に据え兼ねて敵わなかったのよ」
「…!」
「覚えてんだろ? 覚えてるよなぁ。忘れられるワケ、ねぇよなぁぁ。
 負けはしたが大勢殺してやった。お前達"ひーろー"の守るべきモンって奴を徹底的に凌辱してやった。
 楽しかったなぁ。面白かったなぁあ。なのに耳障りな綺麗事並べ立てるメスガキとそのお守りに邪魔されてよぉ、すげぇ腹立ったんだぜ?」
「…待って、下さい。じゃああなたは、…あなた達は、まさか……」
 牙を覗かせて紅煉は嗤う。
 その言葉を受けてレイサは慄く。
 ヒーローと悪、コミックの世界であれば両者の関係性はかくも一方的だが。
 今この場に於いては平時の構図が完全に逆転していた。
 青褪めて眼球を震わせる少女の姿はそもそもヒーローの名を謳う事さえ烏滸がましい程に弱々しく。
 絞り出す言葉の震えは勧善懲悪を成すべき英雄のそれとは思えない程、哀れがましい物だった。
「そんな事の為に、こんなに沢山の人達を殺したって言うんですか…?」
「おう! そうでもしなきゃよぉ。勇者様の大層な耳まで俺の気持ちって奴が届かねぇんじゃねぇかと思ったのよ」
 全てはあの日の戦いに起因している。
 紅煉を退けたその奮戦は間違いなく見事な物だ。
 彼女達のお陰で守られた命もごまんとあるだろう。
 それをヒーローと呼び、喝采する者だって少なくはない筈だ。
 だが。それでも動かぬ事実が一つ此処にある。
 あの日に宇沢レイサが、そのサーヴァントが殺戮を止めなければ。
 炎雷の妖を退ける事なく犠牲を犠牲と割り切れていれば。
 彼の機嫌を損ねるような介入などしなければ――
 少なくとも、今日此処での大虐殺が起きる事はなかったのだ。
「あ~あ。おめぇのせいでよぉ、大勢死んじまったなぁ」
「あ…ぁ、あ……」
「俺も詳しくはねぇけどよぅ。"ひーろー"ってのは他人を守るモンなんだろ?
 ぷっ、くくく…! けぇっへっへっへ!! まさか、まさかてめぇの無能で無駄に犠牲を増やす奴を指す言葉ってオチはねぇよなァ!?」
 踏ん張っていた足が折れる。
 へたり、とレイサは座り込んでいた。
 その姿は最早ヒーローと呼べるそれではなく。
 只の、絶望に直面した幼い少女のように。
 座り込んだレイサの絶望の顔を見て紅煉は嬉しそうに破顔する。
 この顔を見たくて此処に来たのだと言わんばかりの邪悪な笑顔が其処にはあった。
「――てめぇの何処が英雄だよ。偽善に酔っ払ったメスガキがよォ」
 お前のせいで大勢死んだぞ。
 お前のせいで此処に来たぞ。
 紅煉は嗤う。
 嗤いながら蹂躙する。
 話が終われば妖の体から悪意の代わりに溢れ出すのは殺意だ。
 酷く剣呑な、一切私怨と私欲を押し殺すつもりもない凶念。
「ガラでもねぇが、偽物野郎に報いって奴を与えてやるぜぇ。
 手足を一本ずつもいで目の前でしゃぶって、内臓も一個一個じっくり喰ってやる」
「…ひ」
「"ひ"? けぇっへっへっへ! おいおい、それが"ひーろー"様の出す声かよォ。
 心配すんなよォ、たぁっぷり付き合ってやるから。それに先んじて、先ずは――」
 歯の根が合わない。
 この恐怖は二度目だった。
 聖杯戦争に招かれ、最初に死を想ったあの日にも抱いた感情だ。
 自分の唱えた正義のちっぽけさと自分という存在の矮小さ。
 そして心の奥底から沸いて来る叫び出したい程の絶望。
 だが一度目のそれとは最早比べ物にならない程、レイサの心は苛まれていた。
 自分のせいで死んだ。
 自分がこんな事をしていなければ、こんなにも大勢の人が死ぬ事はなかった。
 ――何が正義だ。
 ――これの何処が正義の味方の姿だというのか。
 討つべき悪に思い知らされた欺瞞。
 存在の全てを否定される感覚は、レイサの歳で噛み締めるには余りにも重すぎる痛み。
 昨夜のピーターの言葉が脳裏にリフレインした。
 無防備な情けない姿のままで少女は重みと痛みに押し潰される。
 そんな彼女の様を嘲りながら、紅煉は炎を吐き出した。
 先の言動と矛盾しているように思えるだろう、レイサを即座に抹殺しようとするその行動は。
 されど矛盾等していない。
 彼は己が炎が届かない事を前提に、嘲るように火を噴いていた。
「…そうだよなァ。只でくれてやるワケにはいかねぇよなぁ。そりゃあよぉ」
 迸る炎とへたり込む少女。
 その間を隔てる壁があった。 
 男だった。
 その男は、巨大だった。
 7メートルに迫る体躯は紅煉のそれより格段に大きい。
 そして極めつけは、人間一人を骨まで焼き焦がす火を浴びても肌の表面が少し焦げ付いた程度で済ませる耐久力。
「よくもあん時は舐め腐った真似してくれやがったなぁ。今日こそはてめぇに、そして其処のメスガキに! 主従共々、最高の絶望って奴を教えてやるぜぇ…!」
 宿敵の登壇に紅煉が殺気を極限まで迸らせる。
 それに対して、立ちはだかった男は静かな物だった。
 まるで幽けく聳える山嶺のよう。
 荒ぶる海の中に我関せずと佇む大岩のよう。
 男は紅煉の嘲笑に付き合う事なく、同胞である閃刀の少女に向けて言う。
「行ってくれ、セイバー」
 もう一度言おう。
 彼は確かに静かだった。
 驚く程、その存在は凪いでいた。
 拍子抜けする程に。
 ともすれば恐ろしくなどないのでは、と肩を透かしてしまうように。
 それ程までに静かに、男は――
「元を辿ればおれの不始末だ。この獣は、おれが責任持って受け持つよ」
 ――バーソロミュー・くまは、怒っていた。

  ◆ ◆ ◆

「そうだなァ。俺もお前の言う通りだと思うぜ、熊野郎」
 紅煉はレイとピーターを追う事はしなかった。
 彼は傲岸不遜を絵に描いたようなケダモノだが、然し葬者である"将軍"の実力にはある種の信頼を置いている。
 あの氷炎がこんな正義崩れの偽善者達に滅ぼされると紅煉は思っていなかった。
 喩え立ち塞がる中にサーヴァントが居ようとも何とかするだろうと思っているし、それさえ出来ないなら此方から願い下げという物。
 その時は自分に首輪を付けるには値しない雑魚だったと見做すだけなので結果として何の不利益も彼には生じない。
 紅煉の頭にあるのは己の私怨を晴らす事だけ。
 げひ、げひ、と含み笑いを漏らしながら。
 炎と雷をバチバチと堪え切れず溢して穢れたる字伏は言う。
「てめぇがあの時俺をきちんと殺してりゃこうはならなかったのさ。
 けひっ、けぇっへっへっへ! 可哀想によ、震えてるじゃねぇか"ひーろー"様が。
 まぁ次はてめぇの番さ。その無駄にでけェ図体を寸刻みにしてよォ。そのバカなクソガキを地獄に落とす余興にしてやるぜェ!」
 紅煉の言葉は正論である。
 あの時きちんと殺していれば。
 この妖(バケモノ)を討っていればこの悲劇は生まれなかった。
 これは防げた悲劇だったのだ。
 その事実を噛み締めた上でくまは立つ。
 立ち上がれず、絶望と恐怖に震える葬者を庇って毅然と立ち塞がる。
 その上で言うのだ、静かに。
 妖の嘲りを一言で切り捨て、迷いなく。
「御託はもういい」
 お前の戯言に付き合うつもりはないとくまは告げていた。
「おれの首が目的なら今一度挑んで来い。それともお前は、所詮女の子を虐めて悦に浸るだけの小物なのか?」
「ハッ。おいおい、ちったぁ配慮ってもんをしてやれよデカブツ。手前の仕える主様の傷口によォ、塩塗り込む物言いだって理解してるかァ?」
 紅煉が嘲笑う。
 くまはそれ以上何も言わない。
 無言のままに目前の怨嗟を受けて立つのみ。
 あの日と同じ揺るぎない姿を前に、紅煉が地を蹴った。
 同時に轟くのは地上の雷霆。
 命を削り、魂をも喰らう轟雷が妖の昂りのままに轟き奉る。
「この前のように行くと思うんじゃねぇぞ。この俺を見縊るなよ、熊野郎ォ――!」
 刹那にして妖が猛りをぶつける。
 くまの拳と紅煉の雷が正面から激突した。
 膂力であれば勝つのはくまだ。
 その事は紅煉も知っている。
 嫌と言う程に思い知っているからこそ、彼は真っ向勝負になど頓着しなかった。
 ぐるん、と三次元的な軌道で身を大きく躍動させて翻す。
 曲芸じみた芸当の上で口内に突き刺さった霊刀を振り翳し、猛獣の牙宜しく獰猛な太刀筋でくまの巨体を斬り裂きに掛かった。
「ぐッ…!」
 くまの口から苦悶の呻きが漏れる。
 彼の体に刻まれる痛ましい傷跡。
 そして吹き出す血液が、紅煉の言葉通り先の激突とは訳が違うのだと物語っていた。
「ひゃーっはっはっはっは! トロ臭ぇ野郎だなァ。俺はわざわざ忠告してやったぜ、見縊るなってよォォ!」
 くまの剛拳を躱して蝶のように舞う紅煉。
 だがくまの武芸も侮れた物ではない。
 まさに獣の如く不規則に跳ねる紅煉の軌道を目視で追いながら的確に鉄拳を放って来る。
 並の英霊では彼の武力を前に只倒れ伏すのみだろう。
 然し今バーソロミュー・くまと相対するのは歴代最悪の字伏。
 獣の槍を手にし、勇士ではなく鬼畜に堕ちた黒き獣。
 性根の醜悪さは言うに及ばない悪徳だが、その戦闘技術と論理だけは紛れもなく歴代屈指。
 かつて苦渋を嘗めさせられた相手にさえ臆さない。
 それどころかその攻撃を読み、傾向を把握した上で悍ましい容貌とは裏腹の軽やかさで跳ね回り避ける。
 その上で口を開けば其処から迸るのは地獄の業火。
 この文京区で数多の命を奪った炎が、憎き正義を凌辱するべく吹き荒ぶ。
「頑張って守れよ、熊野郎ぉぉ」
 紅煉に言われるまでもなく、くまは守るしかない。
 そうでなければ今や立ち上がる事も出来ず打ち拉がれるレイサが死んでしまう。
 光輪を戴くキヴォトスの子は通常の人間とは一線を画して頑強だ。
 だがそれも、あくまで人間基準の暴力を相手にした場合の話。
 紅煉のような真性の怪物が振るう暴力に耐えられる程レイサは屈強ではなかったし。
 それに今の彼女は心が砕け、絶望に震えるだけの幼子も同然。
 くまがもし守り損ねる事があれば彼女のか細い命は蝋燭の火のように容易く消えてしまうだろう。
 だからくまは縛られる、要石というアキレス腱に。
 そして卑劣なる紅煉はその不自由を嬉々として突く事に毛程の躊躇いも覚えはしないのだ。
「そうじゃねぇとよぅ。てめぇの大事な"ひーろー"様が死んじまうぞォ!?」
「…!」
 右腕で炎を振り払う。
 開けた視界を埋め尽くすのは吶喊して来た紅煉。
 霊刀三振りの斬撃がくまに新たな手傷を刻む。
 以前は刻めなかった、拝めなかった宿敵の血潮に紅煉は狂喜する。
「似合わねぇなぁ! 赤い血が流れてんのかよォ、その図体で!」
「…随分と口数が多いな。器が知れるぞ、セイバー!」
「どの口が言ってやがる。何も守れねェデカブツがよォォ!」
 ゲタゲタと笑う紅煉の猛攻は加速の一途。
 それに対して守るくまは何処までも鈍重だった。
 何かを守るには後手に回らなければならない。
 弱い者の前に立って災禍を防がなければ取り零す。
 然し守ろうとすればする程、英雄を気取る者の体は傷付いていくのだ。
 バーソロミュー・くまの人生に付いて回った悲劇的な宿命。
 それが今この場に於いても尚、屈強な平和主義者を恣にしていた。
 くまの大腕が紅煉へ巨体に見合わない速度で振るわれる。
 決して大振りの一撃ではなかったが、紅煉はそのビッグマウスには似合わない徹底ぶりでそれを躱す事に専念した。
 彼は知っているからだ。
 この熊男の腕…正しくはその肉球に触れる事が自分にとって絶対的な不利益を生む事を屈辱という最も忘れ得ぬ形で憶えている。
「おぉっと。同じ轍は踏まねェぜ」
「ち…!」
「代わりに今回はてめぇが喰らえよォ。この俺の力って奴を骨の髄まで味わって絶望し腐れやァ!」
 咆哮と同時に轟いたのは炎雷だった。
 そう、炎と雷だ。
 相容れぬ二つの自然現象が悪意のままに合一する。
 炎を噴きながら雷を発散するという超越的な芸当がくまの全身を更に責め苛むのだ。
 とはいえバーソロミュー・くまは屈強なる種族の生まれ。
 歴史から抹消された忌まわしきバッカニア族の末裔はこの程度の地獄絵図なら容易く耐え抜いてしまう。
 紅煉もそれは承知の上。
 だからこそ追い打ちにはその霊刀を使う。
 獣である故に決まった型のない斬撃が、咬撃となってくまに只管流血を強いて行く。
「可哀想だなァ」
「ハァ…ハァ……何を、言ってる?」
「可哀想だって言ってンだよォ。おいメスガキ、おめぇも聞いとけや」
 戦況はあまりに一方的だった。
 先日の燦然たる撃退劇が嘘のように紅煉は跳梁の限りを尽くしている。
 だからこそその嘲笑も、先日以上によく響く。
 当然、くまの後ろで守られている彼女に対しても。
「認めるのは癪だけどなぁ、熊野郎。てめぇは強ぇよ…おれァ今までこんな頑丈な男は見た事がねぇ。
 この俺が本気で殺しに掛かって、ぜぇんぶ上手く行ってんのに何でかまだ生きてやがる。しかも五体満足でと来た。
 けどな、けどなァ。そんなてめぇも一つだけ恵まれなかった! 何だか解るか? けへっ、けぇっへっへっ…! 解ってるよなぁ……!!」
 息を切らして立つくまの前で紅煉は悦に浸る。
 かつて自分を下したいけ好かない男を一方的に嬲り殺す。
 彼のような外道にしてみればこれ程の快楽はなかった。
 高揚のままに紅煉は立てないままのヒーロー崩れを指差す。
 目指した道の重さに潰れ、今は立てもしないか弱い小娘を指して嘲笑う。
「頭も覚悟も、度胸も足りねェメスガキなんざに呼ばれちまった事だよォ。
 それさえ、それさえなければなぁ。"それ"でさえなければなぁぁ。
 お前はこうして惨たらしく無様に嬲り殺されて、恥を晒して死ぬ事もなかったのになァ……!!」
 紅煉の下劣な哄笑が響く中。
 くまの葬者は――宇沢レイサは、唇を噛んで俯くしか出来なかった。
 紅煉の所業は許せない。
 断じて許せる筈がない。それは変わらない。
 だが、彼に引き金を引かせてしまったのは他でもない自分自身なのだ。
 であればこそ、その無遠慮で悪意塗れの言葉を否定する言葉は一つたりとも思い浮かばなかった。
「てめぇの不運を恨んで地獄に行けよ。なぁに、大丈夫だぜぇ。そのメスガキもすぐ同じ所に送ってやるからよォォ。
 あっちで亡者共の恨み言でも聞きながら、一緒にお勉強でもしやがれってんだ。けへっ、けへへへへっ、ひゃーっはっはっは……!!!」
 紅煉の高笑いが地獄の一丁目と化した町に響き渡る。
 反論の言葉は何一つ絞り出せない哀れなヒーロー。
 彼女を待ち受ける結末は安穏な物ではあり得ない。
 この世に生を受けた事を悔やむ程の苦しみと、己の魂を否定される恥辱がこの先に待っている。
 執行人は遍く命を弄び喰らい尽くす穢れたる獣。紅煉。
 最大の雷を纏って吶喊する彼の雷光を前に、レイサは只目を瞑る事しか出来なかった。
 正義と希望の全てを塗り潰す邪悪の光が今轟いて。
 小さな勇気を胸に立ち上がった少女の全てを奪い、英雄譚を喜劇に貶めた。

  ◆ ◆ ◆

 レイは優しい少女だ。
 彼女はどれ程の過酷の中でさえ、常にその美点を捨てなかった。
 敵として立ちはだかる閃刀姫にさえ手を差し伸べ。
 常に和解の道を探り、誰もが笑える結末という物を探して来た。
 その彼女が今は眉間に皺を刻み、唇を固く結んで駆けていた。
“――許せない”
 レイは知っている。
 この世界を現実として生きている人達の営みを知っている。
 それを守りたいのだと言ったレイサの涙を知っている。
 今この文京区で起こっている事はその両方を否定する物だ。
 全てを踏み躙って貶める、醜悪な悪意そのものだ。
 断じて許せない。
 これ以上好き勝手になんてさせない。
 これ以上、あなた達に何も奪わせない!
 その一身で駆ける閃刀姫。
 彼女の覚悟は、群れを成す無数の怪物という地獄絵図を見ても毛程も揺るぎはしなかった。
「…数が多いね。元締めは、やはり――」
 ピーターが言う。
 彼と同時に、レイも上空を見上げた。
 するとやはり居る。
 予想通りの人物が、異形の魔人が其処に居る。
「君だよな、フレイザード!」
「ハ! 来やがったな。舞台の感想を聞かせろよ勇者(ヒーロー)ども!」
 禁呪法により産み出された人造生命。
 激情と冷徹を共に飼い慣らす、恐るべき氷炎将軍。
 フレイザード。虐殺の主は上空にて不敵に笑う!
“レイ”
“うん。解ってる”
 最早逃がすつもりはない。
 此処で必ず討つ――その気構えはピーターもレイも共通であったが。
 然し現実的な問題として、地に群れている彼方の眷属の数と質は凶悪だった。
「出し惜しみはしないよ。後先考えててどうにかなる状況じゃなさそうだしね」
 肌を刺すような殺気は悪意と等号で結べる。
 異形の単眼と、これまた異形の牙を持つ獣。
 黒き炎の量産型妖、名を黒炎。
 それが数にして十体以上も群れを成している。
 如何に兇悪とはいえ、英霊であれば一体一体は十分に各個撃破出来る次元だ。
 問題は、やはり数。
“街中に散ってるのも居るだろうけど、それでもこの数か…真っ向勝負で削ってたら、先にこっちが潰れちゃうな”
 シャークキャノンやアフターバーナーを駆使しても二十のこれらを全て撃破するのはどうにも厳しい。
 奥の手を開帳すれば話は別だが、それは本当に最後の手段だ。
 出し惜しみはしない。
 但しその上で、黒炎は流しつつ元凶であるフレイザードの討伐に全力を注ぐ。
「ごめんマスター。援護は任せてもいい?」
「勿論。君だけに任せようなんて、最初から思っちゃいないさ」
「ありがとう。――任せるから、任せて。ピーター!」
「応とも。行こう、セイバー!」
 挑むは閃刀姫と、蜘蛛のヒーロー。
 迎え撃つは氷炎の将軍と、群れ成す黒炎の軍勢。
 悪意と義憤が交差するもう一つの戦場は、疾駆するレイとそれを撃ち抜かんとする氷の濁流という形で幕を開けた。

  ◆ ◆ ◆

 レイは優しかった。
 その言葉は、確かに心の傷へ寄り添い癒してくれた。
 喪失の夜の中でレイサはこう思った。
 失った痛みは大きい。
 痛い事は、とても苦しい。
 だけど、だからこそ――足を止めてはならないと。
 足を止めずに歩み続ける事こそが正義であると。
 自分が選んだ道そのものであるとそう無理やりに自分を奮い立たせた。
 ピーターの問いへ答えた。
『私は――自分の選んだ道を、曲げたくないです』
 止血された心の傷が完全に癒えるのも待たずに。
 我武者羅にでもレイサは追い付こうとしてしまったのだ。
 自分の周りに居る沢山のヒーロー達に。
 それは、蜘蛛の力を使う勇敢な彼であり、
 それは、閃刀の力を使う優しい彼女であり。
 それは、誰より優しく強く佇む彼である。
 皆、自分よりもずっと強い。
 自分が勝っている所なんて何もないと解っていたからこそ足手纏いにだけはなりたくなかった。
 自分で背負うと決めた重荷に潰されて歩けなくなってしまうヒーローだなんて。
 そんな情けない話はないだろうと、そう思ったから。
 強がってしまった。
 だがその結果はどうだろう。
 結局、歩み出した事自体が間違いだったのだと思い知らされた。
『俺はなぁ。おめぇんとこのその熊男にブッ飛ばされたのが腹に据え兼ねて敵わなかったのよ』
 我武者羅にでも貫いた筈の正義が、新たな悲劇を招き寄せたのだ。
 至らぬ自分がヒーロー等と呼ばれて、舞い上がって。
 そうして多くの命を間接的に奪った。奪わせてしまった。
 それを突き付けられたその時、レイサは確かに自分の心が折れる音を聞いた。
 頑張って繋ぎ止めていた足腰が今は震えて使い物にならない。
 喪失だけならば耐えられた。
 でも、過失は耐えられなかった。
 その責任を受け止め切れる程、宇沢レイサは大人ではなかった。
“私は、ヒーローなんかじゃなかった。正義なんかじゃ、なかったんですね”
 そもそもの話だ。
 この世界は、ヒーローなんて求めていない。
 この世に人は二十三人だけ。
 冥界の人は葬者だけ。
 聖杯戦争という戦いに全てを懸けた者達だけ。
 それ以外の全てに手を差し伸べた所で、いずれその命は等しく泡と消える。
 一度助けて生かしたとして、それでその後は?
 いずれ滅びるこの世界で――英雄の存在意義は何処にある。
 紅煉の逆襲は恐ろしい程に効果覿面だった。
 バケモノの悪意は容赦なく少女の多感で不安定な心をへし折った。
 キヴォトスで自警団を名乗って不良達を蹴散らし治安維持に努めるのとは訳が違う。
 命を守るという事の意味を自分が如何に軽く見ていたのか、レイサは思い知らされる羽目になった。
『――てめぇの何処が英雄だよ。偽善に酔っ払ったメスガキがよォ』
 嗚呼、まさにその通りではないか。
 なんて偽善。
 なんて滑稽。
 偽物の希望を見せて安心させる事に何の意味がある。
 正義を貫く事も出来ないのに、無責任に光を見せて。
 自分の尻も拭けない未熟者の正義など、誰も幸せにしないのだと心底思い知った。
 正義の出番とあらば何処にでも駆け出した二本の足は今や震えてロクに動かない。
 自分を守って戦う海賊の彼に顔向けする事も出来ない。
 情けなく、無様で、何より惨めだった。
 今すぐ消えてしまいたいとレイサは心からそう思っていた。
 ぶち当たった現実の壁は予想していたより高く冷たく、そして…痛かった。
「…ごめんなさい……」
 轟音で鼓膜がキンと痺れている。
 目眩と吐き気がするのは三半規管が揺さぶられたからだけじゃない。
 呂律も怪しいか細い声で溢したのは謝罪の言葉だった。
 誰に? きっと全てに。
 自分が守れなかった全て。
 そして自分を守ろうとしてくれた全て。
 謝らずにはいられなかった。
 そうでもしないと心が壊れてしまいそうだったから――と考えて此処でも自分の事ばかりかと自嘲の言葉が胸を刺す。
「ごめん、なさい…!」
 宇沢レイサには友達が居なかった。
 自警団の仲間は居た。
 でも正義や使命を度外視して気安く付き合える友人は居なかった。
 自分には正義があればそれでいいのだと信じていた。
 そう自分に言い聞かせて、孤独の中で声を張り上げた。
 今なら思う。
 それの何処がヒーローの姿なのだと。
 単なる寂しい子供の強がりでしかないだろう、と。
「ごめんなさい、ごめんなさい…! う、う、ああ……!」
 堰を切ったように溢れ出す自己否定は止まらず、いつしかそれは嗚咽に変わっていた。
 ヒーローを憎む紅煉にしてみればそれはさぞや溜飲を下げる光景だったろう。
 現に彼は嗤っていた。
 下劣な笑いを牙の隙間から溢し、ヒーロー志望の少女の体たらくを嘲っていた。
「ひぃっひっひっひっひ! 傑作だなァ。酒の一献も呑みたくなってくらァ。
 自分が偉そうに垂れてた御高説がぜぇんぶ間違いだったって思い知ってよぉ。
 その挙句、これから地獄の苦しみを先取りした上で殺されるんだって自覚してよぉ。
 何もかもに絶望してピーピー泣いてる情けねぇザマってのは…けぇっへっへっへっ! あ~面白ぇ! おめぇもそう思わねぇかよ熊野郎!」
 紅煉の哄笑が響く中。
 正義を守り立つ海賊の姿は誰がどう見ても解る劣勢の中にあった。
 紅煉は只の獣ではない。
 名だたる字伏の中でも特に逸脱した強さ。
 戦闘…否、敵を殺すという事にかけての頭抜けた才覚。
 無慙無愧なる振る舞いを一過性の君臨に終わらせない力とセンス。
 如何にバーソロミュー・くまという海賊が強くとも、背中に守るべき誰かを抱えながら相手取るには手に余る相手だ。
 肉球を用いて戦うと事前に知られている事も手伝って、昨夜のそれとは打って変わって厳しい戦況が広がっていた。
「……」
 嘲り煽る紅煉に対しくまは黙して立つのみだ。
 その姿は宛ら、この世界に現界しているもう一人の彼のように寡黙。
 然し彼には自我がある。
 神の悪意に壊される前の優しい心が確かにその巨体には宿っている。
「おい、無視してんじゃねぇぞデカブツが。おめぇはもう俺を愉しませる為のデク人形なんだよ」
 興を削がれた様子の紅煉が稲光を轟かせた。
 雷単体であれば覇気使いにとっては大した障害にはならない。
 殴り伏せて凌げる程度の天変地異。
 だがそれを越えて殺到する本体の霊刀乱舞はそう容易く切り抜けられる加虐ではなかった。
 紅煉の跳梁に合わせて血風が舞う。
 この勢いの中でまだ致命傷を避け続けているのは驚嘆に値するが、それでも状況は覆る兆しを見せていない。
 増長して愉楽の限りを尽くす獣と。
 不出来な葬者を抱えて満足に動けない海賊。
 幼気な幼子にポルノ写真を見せびらかすような、何か尊いモノを穢すような悍ましい対比が此処にはあった。
「それとも今更になって思い知ったかァ? 手前が後生大事に子守りやってたガキが如何に使えねぇつまらねぇ雑魚かって事をよォ。
 なんでこんなメスガキに呼ばれちまったんだァ~! って頭抱えて萎えちまってンのかなァ…?
 けぇっへっへっへ! 殺してぇくらい嫌いだけどよぅ、其処だけは同情してやるよ! 俺だったらとても耐えられねぇぜ、そんな雑魚!」
 舌をでろりと出して喚き散らすバケモノの言葉。
 耳障り、然し誰も守れない体たらくは事実であるからその雑音さえ此処では立派な武器になる。
 紅煉は間違いなく宇沢レイサという少女の天敵だった。 
 未熟な正義を残酷な現実で蹂躙し、徹底的に無力を突き付ける八虐無道の大化生。
 幼く青い英雄譚はあらん限りの悪意によって凌辱された。
 紅煉の嘲笑を前に漸く、くまの口が開く。
 自分の葬者を侮辱された事に怒りを示すか。
 それともまんまと心を折られた葬者に苛立ちを伝えるか。
 どちらにしても見物だなァ――と紅煉は思っていた。
 そんな彼を他所に。
 そう、まさに他所に。
 くまは言った。
「心がはち切れそうか、レイサ」
「ぇ…」
 紅煉にではない。
 後ろで泣きじゃくる少女に向けてだ。
 自身の多弁を袖にされたバケモノは当然不服を示す。
 雷と炎の塊宛らに襲い掛かる紅煉の霊刀が、くまの拳と壮絶な激突を演じた。
「おい。この期に及んで手持ちのガキとお話かァ? 似合わねぇなぁ、その図体で宗教家の真似事たぁ」
 紅煉が問う。
 くまは答えないし、応えない。
 彼の言葉はあくまでレイサにだけ向けられていた。
「恐ろしいだろう。骨の髄まで震え、歯の根が合わないだろう」
「…!」
「だが覚えておけ。忘れるな。恐怖も絶望も、今感じている全てを噛み締め続けるんだ」
 心優しく穏やかなくまの姿とはギャップのある厳しい物言いだった。
 レイサは驚いて顔を上げる。
 それでも、心は未だにへし折れて膝を突いたままだ。
「それが出来なきゃきみは、"ヒーロー"になんてなれやしない」
 言い放つくまの言葉は鋭く。
 脅威の獣の前に立つ姿は只雄々しく。
 かつて誰かのヒーローだった男は、その背中で後輩へ生き様を語っていた。

  ◆ ◆ ◆

「――【X-003 カガリ】!」
 術式兵器、もとい装着型決戦兵器・極地特攻殲滅型。
 篝(カガリ)の名を持つ装甲を纏ったレイの一閃が迫る氷河を切り裂く。
 フレイザードの眉が愉快そうに動く。
 葬者の身とは思えない豪胆さだったが、まさしくその通り。
 氷炎将軍はこの冥界に於いては単なるいち葬者に過ぎない。
 彼が如何に恐るべき魔人であろうとも英霊を相手取るとなれば巨大な負担が襲う。
 フレイザード自身その事は承知している。
 だからこそ数にも質にも秀でた黒炎達を跳躍させ自身を援護する追加戦力として用立てた。
「っ…!」
 その爪牙と打ち合って改めて思う。
 強い。
 たかが一介の使い魔としては明らかに過剰な強さだ。
 だとしても臆する訳には行かない。
 レイは閃く刀の調べを的確に、実戦で鍛えた戦闘センスに基づき黒炎へ叩き込んでいく。
「はああああああああ――!」
 速く、そして疾い。
 黒炎達を的確に捌きつつその上で過度に相手をし過ぎない。
 狙うべきはフレイザードであるという初志を貫徹している。
 言葉で言う程単純ではない筈の芸当を事も無く実戦で成し遂げるは、流石に滅びの星に勇ましく立った閃刀姫と言うべきか。
 そして彼女は、往々にして孤独ではなかった。
「悪いけど邪魔はさせないよ。君たちの相手は僕だ」
 五指から蜘蛛糸を放ち、飄々と駆けるヒーローの姿がある。
 彼こそはピーター・パーカー。またの名をスパイダーマン。
「…助かるよ、ピーター!」
「お互い様さ。持ちつ持たれつ行こう!」
 蜘蛛の能力を人間に転用する事による一番の強みはその立体的な機動力だ。
 更に加えて彼自身が持つ超常的な、それこそサーヴァントにも匹敵する膂力。
 柔軟な発想を屋台骨として支える基礎性能は二桁に達する黒炎の猛攻の中でさえ決して埋もれない。
 この軍勢を相手にこうも飄々と大立ち回りが出来る等、サーヴァントでも希少であるに違いなかった。
 マスターが彼で無ければ、レイは遥かに絶望的な戦いを演じる羽目になっていただろう。
 だが時に糸を用いた文字通りの搦手で、時に徒手空拳で黒炎を捌いていくピーターの存在が彼女を孤軍たらしめない。
 カガリの剣閃を轟かしてけしかけられた黒炎の一体を手始めに唐竹割りに両断する。
 愚かしくも聡明だった先人類の遺物たる技術をその身に宿した閃刀姫の戦闘能力は虚仮に非ず。
 ましてや今用いているのは最も突破力に優れた"カガリ"。
 如何に強化個体の黒炎と言えども、一体一体ではレイの相手にならない――!
「ハ。やるじゃねぇかセイバー! 熊男だけを警戒してればいいって話じゃあなかったみてぇだな!」
 口ではこう言うが、フレイザードも最初からヒーロー陣営のもう片方の翼である彼女に対する警戒は怠っていなかった。
 黒炎の物量で押し潰すと口で言えば容易いが、恐らく現実はそう上手くは行かない。
 いざとなればこの己が直接相対して潰さなければならない、そういう話になると覚悟していた。
 だからこそ満を持して氷炎将軍はその魔力(マナ)を轟かせる。
 五指のそれぞれに浮かび上がらせるは、鉄をも溶かし魔獣をも黒炭に変える魔導の業火。
 魔術ならぬ魔法――メラゾーマと呼ばれる焔。
 それを五指にて同時に放つ絶技。
 フレイザードはその英霊顔負けの芸当を出し惜しむ事なく初撃から見舞う!
「小手調べまでに焼き消えなァ――"五指爆炎弾"!」
 フィンガー・フレア・ボムズ。
 先日の小競り合いで見せたのとは訳の違う正真正銘の本気だ。
“な…ッ”
 レイも思わず瞠目する。
 侮っていた訳ではないが、明らかに只の一介の葬者が出していい火力ではなかったからだ。
 それこそこの炎をまともに浴びればサーヴァントでも間違いなく深傷になる。
 そんなレイの焦りを読んだようにフレイザードが哄笑をあげた。
「さぁどうするよセイバー! 口先だけで無様に散るかァ!?」
「…言われるまでも、ないッ!」
 警戒のギアを引き上げる。
 と同時に、此処で討つと改めてそう決めた。
 脳裏で組み上げる閃刀――戦闘のビジョン。
 解き放つは術式兵器の真髄、閃刀術式!
「――"アフターバーナー"!!」
 迫る五つの火球に負けじと燃え上がる炎の閃刀姫。
 正しい事を成す篝の火が、強さに狂える魔人の炎へ烈しく吶喊した。

  ◆ ◆ ◆


 ――お前を愛した人間の数だけ!! お前の死は迷惑である!!!
 ええかくま、お前こそヒーローじゃ!!! ボニーの!! みんなの!!!

  ◆ ◆ ◆


 バーソロミュー・くまは立ち続けている。
 一見すると確かに戦況は紅煉の優勢だった。
 くまは堕ちた字伏にまともな手傷を与えられておらず。
 挙句レイサはこの様で、紅煉の魂胆は全てが成功し続けている。
 ヒーローを名乗り立ち上がった者に待ち受ける余りにも残酷な末路。
 一目だけ見れば確かにそう見えるだろう。
 だが紅煉は高揚と愉悦に昂りながらも、その実一つの疑問を抱き続けてもいた。
 ――しぶてェな、この野郎…。
 紅煉は戦いそのものを楽しむ質ではない。
 事実彼は最初から、くまの手足を削いでその目前でレイサを惨殺し喰らう事ばかり考えているのだ。
 全ては上手く行っている。
 レイサは膝を屈し、それを守るくまはまともに動けていない。
 万事順調。胸が空く程の計画通り。
 なのに最後の一手が詰め切れない。
 バーソロミュー・くまという男が、いつまで経っても倒れてくれない。
 既に並の英霊ならば五度は殺せているだけの火力を注ぎ込んでいるにも関わらずこの目障りな男は変わらぬ姿で立ち塞がり続けている。
「…ライダー、さん……?」
「世界とは美しい物だ。新たな出会いを迎えるのは楽しい事だ。…誰かと絆や愛を育むのは素晴らしい事だ。
 だが、同時に世界は拭えない残酷さを抱え続けてもいる。きみやおれが笑っている時も、何処かで必ず誰かが絶望に泣いているんだ」
 紅煉は悪意の怪物だ。
 殺し喰らう為に、彼は実戦で学ぶ。
 だからこそ初戦では撃退されたくまにハンディキャップありでもこれだけの奮戦を可能としている。
 その彼が今純粋に訝っていた。
 くまが沈黙を保っていた内は愉悦に任せて見る事もせずに済んだ事だ。
 然し袖にされて高揚に冷水を掛けられた今になって疑念の像が際立ち出す。
 ――なんで攻め切れねぇンだ?
 攻め切れない。
 勝てる筈なのに勝ち切れない。
 望んだ通りの流れが完成している筈なのに、その"流れ"がいつまで経っても望んだ"結果"に辿り着いてくれない。
「自分の信じる正義を貫くというのは…そんな世界の残酷に挑む事そのものだ。
 きみも解っているだろう、レイサ。今きみの前に広がるこの悲劇こそが――おれときみの生きる世界の"現実"だと」
「…っ!」
 そんな紅煉の疑念にくまは付き合わない。
 そして見向きもしていなかった。
 彼は紅煉を見据えている。
 正義の敵を只睥睨している。
 だがその実、彼の意識は常に背後の少女だけに向けられていた。
 即ち宇沢レイサ
 心優しい平和主義者を呼び寄せた、未熟な正義に生きる少女。
 今は――心は砕け、正義を見失い、震えるだけしか出来ない弱者。
「きみは今度こそ選ばなきゃいけない。今度こそ此処で、きみが決めるんだ」
 くまは優しい男だ。
 レイサが今抱えている痛みも苦しみもそれこそ痛い程に解っている。
 それでも心を鬼にして問い掛けるのだ。
 彼は優しい男だが、彼の生きる世界はそうではなかった。
 命を命とも思わない無道が横行する世界を生き抜いた海の男。
 その魂にはあらゆる形の過酷が傷として刻み込まれている。
「正義を掲げる事を諦め、この現実に迎合して生きるか」
 なればこそ、くまは敢えて厳しく立つのだ。
 先人として。
 正義という不合理を貫いて生きた――"ヒーロー"として。
「痛みと苦しみを受け止めて、それでも信じた道を貫くか」
 レイサはその言葉に息を呑んだ。
 自分の知る彼から出て来るとは思えない、厳しく強い言葉だったからという訳ではない。
 くまの示した選択肢のその重さを理解出来ない程、レイサは愚かな子供ではなかったからだ。
 正義を諦めて現実に迎合する。
 それは、自分が今まで歩んで来た道の全てを間違いだったと自ら切り捨てる事で。
 信じた道を貫く。
 それは、今感じているこの痛みをこれから幾度となく味わい続けるという事で――。
「…、痛いんです」
 レイサは気付けば口を開いていた。
「辛いんです、…怖いんです……!」
 ヒーローを名乗った者が発するにはあるまじき言葉だ。
 そんな自制心で本音を押し殺す余力は、然し今のレイサにはなかった。
 宇沢レイサは少女だ。
 彼女の謳っていた正義は、あくまでも市井の中で育まれた等身大のそれに過ぎない。
 レイサはこの世界に流れ着くまで、本物の死という物を知らなかった。
 正義の意味。喪失の意味。命の重み。守れない事の痛さ。
 ――そしてヒーローの資格。
 自警団の一員として治安を守るのと、後先のない世界で"誰か"の生き死にの為に戦うのとでは訳も意味も全て違う。
 その現実を思い知ったレイサの口から出て来た嘘偽りのない本音が、これだった。
「私の、わたしの、せいで…! たくさんの人が死んじゃって、苦しんで……!
 そんな事も覚悟しないで、できないで、薄っぺらな綺麗事ばっかり偉そうに喋ってた……!
 それが怖いんです…怖くて、情けなくて……っ、私は、もう、もう………!」
 自分のせいで、人が死んだ。
 その事を想像も出来なかった。
 ヒーローを掲げていながら、事が起こって始めてその重さを理解した。
 愚かな事だと思う。
 情けない事だと思う。
 嘲笑うバケモノに何の反論も思い付かない。
 なんて、私は――莫迦だったのだろうと。
 嘆くレイサの涙が割れたアスファルトに点々と染みを刻んでいく。
 その亀裂は、まるで今の彼女の心を表しているかのようだった。
「じゃあ、もうやめるか?」
「っ」
 くまの言葉が重たく響く。
 やめる。諦める。
 孤独の中でも、空回りしていても。
 笑われても傷付いても失敗してもずっと持ち続けてきた誇りと信念。
 正義の使徒。
 トリニティの守護者。
 ――"ヒーロー"。
 それを捨てるのかと問われた時、答えなど一つしかないにも関わらず喉の奥が詰まった。
「わかるよ。辛いよな、失うっていうのは」
 荒波のような炎雷を正面から振り払う。
 くまの戦いは宛ら相撲だった。
 その肉体一つで彼は災厄と相撲を取っている。
 当然傷付くし、誰が見ても解る程に絶望的な光景だ。
 それでも男は立ち続けている。
 揺らがず倒れずたたらさえ踏まず其処に居る。
 間断なく攻め続ける紅煉の顔に、いつの間にか焦りが浮かび始めている。
「信じた道を貫くのは痛くて苦しい。何かを失えばその度泣きたくなる。
 …おれだって最後まで慣れなかったよ。何度足を止めたくなったか解らない」
 くまが動かない。
 その両足がどうやっても動かせない。
 こんなに休みなく攻撃し続けているのに、望んだ結末がいつまで経っても手繰り寄せられない。
 この大男の手足を削いで、目の前で葬者を踊り食いにしてやるつもりだったのに。
「――てめぇ、俺を無視してべらべらと説法垂れてんじゃねぇぞォ!」
 怒髪天を衝いた紅煉の咆哮が響く。
 轟くは螺旋を描いて迫る突撃。
 くまの拳を微塵に変える筈のそれは、遊び抜きの乾坤一擲だった。
 それでも。
 くまは、紅煉を見ようとはしなかった。
「なら…ライダーさんは、どうやって……」
 レイサが鼻を啜る。
「どうやって、立ち上がって来たんですか…?」
「確認するんだ」
「かく、にん……?」
「簡単な事で、だけどとても大事な魔法さ」
 大勢が死んだ。
 大勢を、守れなかった。
 幼稚な理想は当然の現実に砕けた。
 ピーター・パーカーのように強くはなく。
 レイのように戦い続けた訳でもなく。
 くまのように悲劇へ抗った事もない。
 宇沢レイサという彼らに比べれば概ね平和と言っていい温室で正義を説いてきた少女には、この喪失劇は余りに重かった。
 足は動かない。
 心は折れている。
 見渡す限り全ての景色が自分の愚かさを示している。
 これを――くまは、彼は何度も経験して来たのか。
 この痛みに打ち克って生きて来たのか。
 だとすればそれは一体どれ程の偉業だろう。
 どれ程心が強ければ、そのように生きられるのだろう。
 気の遠くなる思いでレイサは問うた。
 それに、くまは答える。
 只の気休めと言ってしまえばそれまで。
 されど現に、神の箱庭で弄ばれ続けた男が駆使し続けて来た魔法を教える。
「レイサ。君には、何が残っている?」

「…!」
 迫る炎雷と斬撃。
 艱難辛苦が今日もくまを襲う。
 彼の生涯を象徴するような光景だった。
 幼くして奴隷に堕ち、解放されて尚その生涯に於ける安息の時間は僅かな物。
 いずれ自分が自分でさえ無くなってしまう未来を背負いながら。
 それでもバーソロミュー・くまは駆け続けた。
 絶望で終わると知って航海を続け、自我の限り戦い続けた。
 何故、それが出来たのか。
 何故彼は死の間際まで"ヒーロー"であり続けられたのか。
「おれには守るべきものがあった。そして苦しみを分かち合える友が居た。
 顔が見えなくても繋がっていると解ってるから、どんな時でも立ち続けられたんだ」
 問おう、レイサ。
 くまは言う。
 脳裏に、もう会う事も出来ない最愛の家族の顔を思い浮かべながら。
「――今、きみに残っている物は何だ」
「わ、たしには…」
 ――まず最初に浮かんだのは、黒髪の少女の顔だった。
 かつては好敵手として付け狙っていたスケバン。
 でも今は少し違う、それでもついつい気にしてしまう相手。
 自警団の仲間達。
 空回りばかりの自分にも優しく分け隔てなく接してくれるシャーレの先生。
『"私たちの"友達、だよ』
 部員でもない自分へそう言ってくれた人達。
 宇沢レイサは孤独な少女だ。
 いや、"だった"。
 何をしても空回りばかり。
 情熱だけが先行して、誰も付いて来てはくれない。
 膝を突き合わせて話せる相手なんて居ないまま一人で戦いを続けて来た。
 それでも、今は――
「…友達が、います」
 まだ堂々と言うには躊躇いがある。
 だけどこう言えるくらいには、レイサの周りには人が居た。
 居てくれるようになった。
 それは此処ではない生者の世界の事。
 宇沢レイサが正義の使徒として守らんと努めてきた賑やかでちょっぴり物騒な学園都市。
 不器用にヒーローを目指す少女の、日常。
「帰りたい世界が、あります」
 銃を取り落してしまった空っぽの手が拳を握る。
 帰りたい、その気持ちが折れた体に力を戻す。
 足が動いた。
 子鹿のように震えたままだがそれでもゆっくりと立ち上がる。
 理想の敗北を体現する惨劇の中に、未熟な正義が再び立つ。
 涙と洟水でぐちゃぐちゃの顔は格好なんて微塵も付かない。
 喪失と現実に凌辱された少女の姿は変わらず惨憺たる物。
 だが――それでも――
「…私は……っ!」
 グシャグシャにへし折れた心身に再び通された一本の芯。
 それが柱となって小さな葬者は立ち上がる。
 ヒーローではなくても、その手から多くの物を取り零してしまったとしても。
「誰かが"友達"と呼んでくれた、私のまま…! 戦って、生きていきたい……!!」
 ヒーローの必須条件。
 勇気を胸に吐き出されたその言葉は、全ての悪意に立ち向かう光の剣になる。
 地獄の底で咲く一輪の花。
 その萌芽が面白くないのは言うまでもなく穢す側の悪意だ。
「けぇっへっへっへっ! ほざいてんじゃねぇぜ、何も守れねぇ口先だけのメスガキがァ――ッ!」
 全てを踏み躙り食い尽くす。
 悪意のままに紅煉はとうとうくまへ辿り着く。
「お膳立てをありがとうよ、熊野郎ォ~ッ! てめぇのお陰でよぅ、ますますそいつを旨く食えそうだぜェ~~ッ!!」
 ゲタゲタと嘲笑いながら振るわれる炎、雷、そして霊刀。
 黒い獣は全ての光を下衆に凌辱する暴食の嵐だ。
 紅煉。光と、正義と相容れぬ獣の跳梁は止まらない。
 憎悪と享楽のままにその嵐は少女を守る平和主義者(パシフィスタ)を呑み込みに掛かって――



「…ようやく」
 その勢いが強引に止められた。
 回転する紅煉の頭が、鷲掴みにされていた。
 万象切り裂く微塵嵐が力ずくで釘付けにされる。
 起こった事態を理解するよりも先に、紅煉はそれを聞いた。
「隙を見せたな、セイバー」
 恐るべき獣。
 人を喰い、妖をも殺戮する捕食者。
 全てを血で染め上げる紅蓮の色彩。
 恐れる物など最早何もない、その彼が。
 ――底冷えする程の冷たさを以って、バーソロミュー・くまは今まで見向きもしなかった怪物の事を見下ろしていた。

  ◆ ◆ ◆


NEXT

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2024年10月14日 22:59