ありとあらゆる命が眠りについたであろうという夜更けだった。
きゅらきゅら、と静かな軋む音が聞こえる。車いすの音だった。
車いすに乗っていたのは青年だった。癖の強い茶髪、分厚いレンズの黒縁眼鏡、黒いタートルネックの長袖の上に白衣を纏っている。
その青年の膝上には花束が置かれていた。花弁は基部が筒状で先は大きく六弁に分かれている花だ。移り香が強く残りそうなほど、強い芳香が漂っている。
やがて青年の車いすは海へ出た。ただただ暗く静かな海には、ぽっかりと三日月が浮かんでいる。それは誰かがほくそ笑む口の形によく似ていた。
その誰かを思い出して、青年は車いすから伸びてきたアームで花束を海に浮かべた。白い花束は波に漂って揺れる。
その時だった。ざり、と砂を踏む音がして、青年は少なからず驚く。こんな時間に誰だろうか。自分はこんな時間だからこそ、ここに花を手向けに来たというのに。

ショウメイさん?」
「……希鳥くん?」

そこにいたのは白銀の髪に黒曜石の瞳を持つ青年……希鳥だった。海風に白銀の髪をそよがせ、その細く弱弱しい腕には、車いすの青年……ショウメイが海に手向けたのと同じ花束を抱えている。

「どうしたんだい、こんな、時間に」
「……こんな時間じゃないと、誰かに見つかるかもしれないから」
「……まさか、キミも、彼に、花を、手向けに、来たのかい?」
「俺も、俺以外にあの人に花を手向ける人がいるなんて思いませんでした」

肯定のかわりにそう答え、希鳥は眉尻を下げてはにかんだ。

「本当は、この島の、どこかに、供えた、方が、いいのだけれど」
「でもそれじゃあすぐ彼に花を手向けたんだって解っちゃいますからねぇ」
「それは、良く、思われないだろう」
「ですね。少し見当違いな場所だけど、あの人なら許してくれると思います」
「というか、気にしない、だけだと、思うよ」

全く同じことを考えていたらしい二人。一通り会話を交わした後、希鳥は自らの手で花束を海にそっと浮かべた。先ほどショウメイが浮かべた花束の後を追うように、彼の花束も揺らめいて動いている。
そして海を眺めて佇む二人からは強くあの花の芳香が残っていたが、既にその匂いを嗅ぎ慣れてしまった二人はそんなこと全く気付かなかった。

「ショウメイさん、あの人と仲良かったですもんね」
「ボクらが、仲良く、やれていたのは、キミの、思うような、友情とかでは、ないよ。互いに、ただの、気紛れだった」

ショウメイは喋るのが遅い。体が弱い弊害だ。ゆっくり喋らないと単純に疲れるし、過呼吸になることだって珍しくない。
それに、今言ったことは本当だ。

「だから、ボクが、彼が、死んだ、ことに、対する、怨みを、晴らす、とか、そんなこと、ないから、考えなくて、いいからね」

自分には感情がない、とショウメイは思っている。単純にそういった感情のすべてが形成させる期間を長らく奪われていたから、謂わば自分の心は未だ未発達状態なのだと思ってる。その期間が奪われていたということにすら、何の思いも抱くことはない。
したがってショウメイは件のあの人に特に何の思い入れもなかった。彼の騒動から訃報に至るまでを聞いたときだって別にいつも通りだったのだから、きっとそういうことなのだろう。
そう思いながら隣にいる希鳥を見上げると、彼は悲しそうな表情でショウメイを見ていた。こういうヒトがお人よしというのだ、ということは既に学習済みだ。

「キミは、優しいね。けれど、オオアマだ」
「……よく、言われます」
「まぁ、それが、キミの、いいところ、なんだろう。直せとは、言わないよ」
「ありがとうございます」
「……ところで、ボクが、花を、手向けに、来たのは、死者には、こうするものだと、子供たちから、教わったからだ。気紛れでは、あったけど、一応、彼とは、他者と、比べて、親しいと、呼べる、間柄だったとは、思うし。だから、花を、手向けて、みようかなって」

けれど、とショウメイは希鳥を見上げたまま、言葉を続けた。

「キミは、違う。ボクは、あちら側の、ヒトだけど、キミは、向こう側の、ヒトだ」

あちら側、と言うのは単純に、あの人側ということだ。つまり、向こう側とは、あの人と敵対する立場のことだった。
なのにどうして、彼は花を手向けに来たのだろう?
その意図を察して、希鳥は彼から目線を外して、また海を眺めた。沈黙が訪れる。何を言えばいいか、考えているのだろう。ショウメイはそう思った。
やがて、暗い海から目を逸らさぬまま、希鳥は喋りだした。

「……助けてもらったこともありました。確かに、友情とまではいかなかったかもしれないけど、交流は出来てたし」
「それは、彼にとって、気紛れでしか、ないよ」
「むぅ、それはそうかもしれませんけど……だから、その、ショックだったんです。みんなの間で、そういうことが起こってしまった事が」

成程、つまり彼にとっては、あの人も仲間の中に組み込まれていたのだ。だから、花を手向けに来た。
暗い暗い海に、白い花束が二つ、漂っているのが見えるが、それらは既に遠い。
それに、と彼は言葉を続ける。

「大切な人を思う気持ちは、本物だったと思うから」
「……キミは」
「他に方法があったんじゃないかって、後悔があって」
「まさか」

今にも嗚咽が入り混じりそうな声と言葉に、ショウメイは驚きを隠せない。
まさか。

「彼すら、救いたかったのか」

ざざぁん、と漣が一際大きくなったような気がした。希鳥は答えない。ただ、何かを堪える様に海を見つめるだけ。
なんということだ。あれだけのことをした相手に、まだそんな風に想えるものなのだろうか。

「キミは、もしかしたら、彼よりも、ずっと……」

ヒト離れしているのではないか、と言おうと思ったが、頭を振って、やめた。なんでもない、と言葉を零して、ショウメイもまた海を眺める。
先述したように、彼には本来この年齢であればあるべき様々な感情が育っていない。
けれど最初の頃より、いろいろ育ってきたものはある。
……実のところ、ショウメイは彼の最期を聞いたとき、残念だとか無念とか悲しいとかは感じなかったが、思った事がある。

(彼にもそんな人間臭いところがあったのだな)

なんというか、なさけなく、あっけないという人間らしさ。
正直、彼はどちらかというと自分と同じタイプだと思っていたのだ。ヒトとしての失陥。それは同時にヒトならざるものとしての要素。
無いわけではなかったと思うが、それはショウメイの思う失陥とは大きく違っていたようだ。

(いや、ヒトたりえていたから、彼は、最期に負けたのかも)

或いは最初から、失陥では無かったのかもしれない。
ちょっとヒトと違っていただけで、彼は最初からヒトだった。
だから、負けた。ヒトに。
きっとそういうことだったのだろう、とショウメイは一人結論づけて脳内会議は終了した。海を目の前に佇む二人の間に、会話は今や一切なかった。
漂っていた白い花束は二つとも、もう見えない。波にのまれて海の底に沈んだのだろうか。
暗くて冷たい、海の底。彼も今、そんな場所にいるのだろうか。
……二つの花束は、届くのだろうか。

「そういえば、どうして、死者に、手向けるのは、山梔子の花、なんだろうね」
「そうとも限りませんよ。手向けちゃいけない花ってのはあるらしいですけど、山梔子が一般的なのはローイアだけなんですって」

へぇ、とショウメイは素直に関心を示す。
その様子をみた希鳥はその場にかがんで、砂浜に文字を書きだした。
―……口無し。

「なるほど、クチナシね」
「死人に口無し、って言うでしょう? ローイアでは、死者は残された人たちのことを気にせず安心して眠ってくれって意味を込めているらしいです」
「口を、出すなって、ことかな?」
「そうかもしれませんし、あなたに口を出させるような心配事は起こしませんっていう意味もあるかも」
「面白いね」

するり、と出たその言葉に、ショウメイ自身が驚いた。
面白い、自分は今、そういった。面白い、と感じた?これが、面白いということ?
そうか、そうなんだ。一人心の内で納得する。事情を含めてそれらを全く知らない希鳥は、それでも彼の言葉に素直に微笑んだ。










最終更新:2012年10月11日 01:46