「The Blue Rose」:前日譚Ⅲ ~ Closed World ~
※小説とは呼べないなにかの続きの続きです。
あれから数日、我らの叫びに対する答えは還ってこない。
叫び声が響いていた楽園にも静寂が訪れ、またいつものように穏やかな一日が幕を開ける。
その背後でたった今自らに向けられた災いの火が灯ったことなど知らず、
メリアスは現世を嘆く。
ああ、この瞬間にも現世では多くの命が失われているというのに、と。
「また一つ、また一つ……命が消えていく……」
同胞に聞いてもらえぬなら、この現世に生きる誰かに声が届くだろうか。
叫び、訴え続けた。
この世界の尊さ、そして人の世の愚かさを。
だが、彼らの声は届かない。
この間にも沢山の命は灯を消して、森……否、自然そのものが失われていく。
幾つもの命が消えていく。
誰もがそれに依存しなければ生きてなんていけないというのに。
慈しむこともなければ、感謝することもない。
ただそこにあって自分達の為になることが当たり前としか思っていないのだろう。
ああ、なんて無常なんだろう。
私たちは、こんなにも苦しんでいるのに。
身も心も痛めているのに。
彼らにはこの魂の叫びすら届かない。
「なあ、教えてくれ。私たちは、どれだけ苦しめばいい…?虐げられればいい……?」
メリアスはその様子に心を痛め、女性の如く線の細い体を背後に聳える大樹に委ねた。
それは楽園の守護樹であり、象徴であり、中枢である巨大な大樹。
不可思議な彩の葉を幾重にも枝分かれした先に生やし、周囲には膨大な魔力を纏っている。
その周囲には清浄な気が満ち、近くにいるだけでも心が、体が洗われていくようだ。
大樹は楽園の核であると同時に、この精霊の憑代だ。
故に彼らは共に生き、その運命を共にする共生の関係にあった。
「………」
少し落ち着いたか?と言わんばかりの大樹に対し、メリアスの心は晴れぬままだ。
偽りの蒼穹を遮るように伸びた大きな枝を見上げ、青年は半ば諦めたような表情で自身の半身たるそれを眺める。
だが青年よりも遥かに巨大なその大樹は何も答えず、かさかさと枝を揺らし音を奏でる。
揺り篭の中の幼子に聞かせるような暖かくて優しい子守唄にも聞こえるその歌は、メリアスを深い闇の底へ導く。
ぱたんと糸のきれた人形のように倒れた青年を受け止め、我が子のように草達が抱く。
大樹の真下に敷かれた緑の絨毯の上で、メリアスの意識はひとときの夢の世界へ落ちて行った。
「ここは……?」
エメラルドの双眸で辺りを見渡す。
先ほどまで傍らに聳えていた大樹も、美しきいのちのブラックボックスもない。
辺りを支配するのは生き物が焼けた嫌な匂いに灰になった無数の木々や植物、動物達。
困惑の表情をしていたメリアスは、悲哀の表情を浮かべその場に立ち尽くす。
いきなりどこか知らない場所にやってきたのではなく、彼はこの場所がどこであるか知っていた。
それは魂に刻まれた破滅の記憶が生み出した悪夢。
メリアスがヒトであった頃にみた景色。
魂が昇華し生前から敬愛していた自然と一体となり、精霊となってからも時々こうして悪夢として恐ろしい記憶はメリアスに牙をむくのだ。
「……っ」
逃れられぬ炎への恐怖と魂にしっかりと刻み込まれた終焉の記憶。
早くこの悪夢が終わればいいのにとメリアスは蹲って祈る。
消えてくれ、この悪夢もそれを引き起こした“人間たち”も全部と。
立ちすくみ、錯乱するメリアスの耳が何かを捉えた。
「やぁーメリアスー」
荒廃した焼け跡にそぐわない間の抜けた声。
飛び起きるように声のする方角を見やるや灰が舞い上がる空をふよふよと飛びながら、何かがこちらへ向かってくるではないか。
よく眼を凝らしてみると背から奇妙な翼を生やした濃い紫の羊毛の小さな黒羊が見える。
その姿を確認するや、蹲る姿勢から立ち上がり、こちらに飛び込んできた黒羊をよいしょと抱き上げる。
「…………なんだ、ヒュプノスか。驚かせないでくれ……どうした?こんな所にまでやってきて」
「夢の力を使ってしまったので、こうして夢を回って夢を提供してくれるヒトを探してました」
「こんなものでも糧になるというのなら、勝手に持っていくがいい。もう二度と、こんなものを見なくなるくらい、な」
ヒュプノスと呼ばれた黒羊は、じっとりとした目つきの真紅の瞳を青年の目に合わせながらぱくぱくと口を動かす。
黒羊の目には、青年の精気の失せた虚ろな眼が見える。
この空間と彼の眼から、その感情を察すると黒羊は安堵したような顔を見せ、それからちょっとした笑みを見せる。
まるでふと故郷に戻ってきたような、自宅へ帰ってきたようなそんな感覚を覚えているのだろうか。
「んー、それじゃあ遠慮なくいただきます」
黒羊の羊毛がふわふわと灰にまみれた風に揺れる。
そして、羊毛の中から取り出した邪気を放つ禍々しい宝珠を小さな両手でしっかりと抱くとこの凄惨な空間が歪み、崩れていく。
すると空間自体がみるみるうちに宝珠へ吸収され、何もない真っ白な空間に作り変えられていくではないか。
空間を作り変えた後、宝珠の中で吸収された悪夢が蠢くのをその真紅の瞳で一瞥すると、悪夢を吸収した宝珠を大事に大事に羊毛の中へとしまいこむ。
そして黒羊は青年の細い腕の中から顔を出し、普段通りのじっとりとした目つきで青年を見上げた。
「相変わらずお前は趣味が悪いな。こんなものが嬉しいのか」
「だって、絶望も悲哀も僕のおとうさんとおかあさんのようなものだもの。だから、こういった夢の中にくると凄く安心する」
「だから趣味が悪いというのだ……もっと楽しい夢を喜べばいいのに」
「やだ。だって楽しいものは、僕を消す怖いものだもの」
真紅の瞳に見つめられた青年はこう言って苦笑する。
悪夢を喜ぶヒュプノスに“私の絶望を全部持って行ってくれ。そうすれば楽になれるのに”とメリアスは思う。
この悲しみと、絶望と怒りが全部なくなってしまえば、どんなに楽になれるだろうか。と。
言葉の節々から漂うヒュプノスの異常ささえも今のメリアスには気にする余裕など無かった。
「そうか……。お前にも私と同じように怖いものがあるのだな」
「そりゃあね。ところでメリアス、最近なんかあった?妙に疲れてみえるの」
この恐れ知らずの黒羊にも怖いものがあるのかと少し安堵の表情を浮かべ、柔らかな羊毛をその細い腕で撫でる。
メリアスに撫でられながら、ヒュプノスは小首を傾げながら真紅の瞳を向け続けていた。
まるで彼の心情を全部見通してしまうかのような不気味な真紅の眼だ。
「ああ、まあな。お前も知っているだろう……眼に余る人々の暴挙を」
「うん、あれは困っちゃったな。だって皆して自分の思い通りにならないからってやけっぱちになってるんだもの」
「だから、私は霊王にヒトの滅亡を唱えた」
困ったように眉尻を下げるヒュプノスに、虚ろな眼を向けるメリアスはさらりと言ってのける。
そう、人の暴挙をこれ以上放っておけない。
だから、身勝手な人々など滅んでしまえと訴えたと。
「都合のいいことに身勝手すぎるやつらは、自ら滅びを望んでいる。いいじゃないか、それを望んでいるのだから」
メリアスの言葉にびっくりとして口を開けるヒュプノスにもお構いなしに、続ける。
「ヒトを滅ぼされたら僕困っちゃうよ?だからやめて欲しいよ、お願い。霊王様もきっとそう思ってる」
「だが、あの傲慢をこのまま放っていては!奴らと共に過ごしてお前は何も思わないのか?さっき困っていると言っていただろう!!?」
おろおろするヒュプノスはこういってお願いをするも、メリアスはそれを冷たく跳ね除け声を荒げる。
「困ってるとは言ってるけど、いなくなっちゃえとは言ってないよ……」
「………ならなんだ」
「そもそも、ヒトを全部消しちゃうって怖くないの?一人じゃないんだよ、全部なんだよ?」
「彼らの存在により多くの命が消えるよりは遥かにマシだ。彼らの多くは生きることを望んでいるのだから……それに、私はこんな身勝手な連中がやらかす事に巻き込まれて二度も死にたくない」
そう告げるメリアスの眼は焦点の定まらぬ虚ろなものだ。
そんなメリアスを見ながら、ヒュプノスは昔を思い出す。
その頃からメリアスは人嫌いではあったが、自分たちが平穏に暮らせればそれでいいと願うような精霊だった。
それがヒトの滅亡を願うような精霊へ変わってしまった。
「メリアス、変わっちゃったね……うん……」
「神だってこんなものを見続けていれば変わるさ」
ヒトに絶望と失望を重ねた彼の心はその存在をも許さないほどに“人嫌い”をこじらせてしまったのだろう。
人嫌いは相変わらずだが、人の滅亡を願うほどでもなかった彼の思想をこの短期間にここまで加速させた原因はヒュプノスにも解っていた。
だが、ヒュプノスは一つの疑問を浮かべる。
―――― そこまでいうのなら、何故この空間を飛び出し実力行使を行わないのか。
一つの推測を思いついたヒュプノスはメリアスにはったりをかけることを試みる。
「……?メリアスさ、もしかしてヒトの事は嫌いだけどほんとは滅ぼしたいって思ってないでしょ」
「…………え?」
一瞬の空間の歪みを、ヒュプノスは見逃さなかった。
彼の真紅の双眸には確かにざわつきが、歪みが見えた。
対するメリアスは一瞬ぽかんと口を開けて固まり、わなわなと肩を震わせる。
「そんなことあるはずないだろう!!!」
「ほんと??ここはキミの精神の中、夢は心を映す鏡。キミはその中で嘘をつける?」
「……デタラメだ。」
「言葉ではなんとでも言えるんだよ。この夢霊ヒュプノスが君の本心を当てて見せよう」
相変わらずじっとりとした眼で見つめてくるヒュプノスから眼を逸らしながら、メリアスはぼやく。
今度はヒュプノスが追い討ちをかけるように、心の中の言葉を紡ぎぶつける。
「キミはただ哀れんで欲しいだけなの。虐げられているキミたちを救って欲しいと望んでる。こんなことやめてほしいと願っている」
眼を逸らすメリアスをしっかりとその眼に見据え、黒羊は淡々と言葉を紡いでいく。
「臆病すぎるキミは、ヒトを殺せるほど強くないし冷徹じゃない。でも調和を望む君は、調和を乱しあらゆるものを奪う者を許せなかった。だから調和を乱す者の滅亡を願った……ちがう?」
「…………お前になにが解る?」
暫くの沈黙の後、メリアスは黒羊に今までとはうって変わった弱々しい言葉をかける。
ふわふわと風に揺れる黒羊はいつも通りの顔をして、
「みんなそう言うよ。僕になにが解るんだって。でも、僕に言わせて見れば何もわかっていない、見えていないのはキミたちなんだよ。だから、僕が協力してあげようと思うの」
「いい。帰ってくれ………。お前に何を言われた所で、お前が私を手伝ったって私の絶望は変わらない。お前は絶望を知らぬのだから」
「あらそう」
メリアスにそう言われ解放されるや、黒羊はふよふよと宙に浮かび再び眉尻を下げて困った顔をする。
「それじゃあ僕またくるよ。じゃあね」
「………」
困った顔をしたままこう告げると、黒羊は真っ白な世界に穴を開けて数多の夢が散らばる回廊へ泳いでいく。
夢の回廊へ、夢の世界の声が満ちる。
絶望と悲哀、憤怒の声。
世に生きる“人々”の心の声が。
メリアスと同じ、何かに絶望して希望を持てなくなった者の声が。
その中を泳ぎながら、ヒュプノスはぽつり呟く。
「……絶望を知らないってホント、勝手なこと言ってくれるよね」
俯き、羊毛に隠れた表情は見えない。
ただ何処かいつもの調子と違う言葉を紡いだヒュプノスは独り言を続ける。
「勝手に世界を閉じて世界の外を見ることもやめて、誰かを信じる勇気も優しい悪意を疑う知性も捨てて、悲劇の主人公や革命者を気取ってるのは自分達のくせにさぁ」
声が満ちた回廊を泳ぎ、ヒュプノスは夢の世界を抜け現世へ戻って行く……“絶望に満ちた閉ざされた世界”の中へ。
しかし、彼はその中で羽ばたき続けるのだ。
絶望の先に見える未だ灯り続ける微かな光を目指して。
最終更新:2013年06月20日 16:59