ちょっと違った未来32

ちょっと違った未来32」 ※原作IF 京介×桐乃 黒髪桐乃の過去編



「じゃあ…もういくね」
「…ああ」

 冬の朝。外には柔らかな朝日が降り注いでいた。ジョギングにいそしむ中年の男の人が今目の前を颯爽と駆け抜ける。

「…」
「…」

 彼は何も言わない。あたしも彼に対して、何も言わない。

 …もうあたし達に許された魔法の時間は終わったのだから。

 彼は8年前のあの日以来、ずっとあたしの事ばかり考えていてくれたのだという。

 共に過ごしたそれまでのあたし。別れざるを得なかったその後のあたし。

 彼の中で拡大する高坂桐乃という名の「偶像」。

 それは全く肉を帯びない、一寸の穢れもない彼の中での天使だったのだろう。

 しかしそれは違う。あたしは天使なんかじゃない。触れれば熱を持った温かい、怒りもすれば嫉妬もするどこにでもいる普通の人間なのだ。

 そしてそれは逆の事でもあり、このあたしにも同じことが言えた。

 何でも出来た、在りし日のおにいちゃん。あたしの事になると何でもしてくれた、おにいちゃん。あたしがいじめられるといつでも全力で守ってくれた、おにいちゃん。

 無敵のスーパーヒーロー。

 それが離れ離れになった後もあたしの心の中をいつまでも独占し、どこまでもおにいちゃんというその理想像は肥大化し始めた。

 再会した時の彼はいつも笑顔であたしを連れて駆け抜けていたあの頃の彼とは違い、笑顔一つ漏らさない擦り切れた男の人に成っていた。

 だけど、すっかり変わってしまったと思っていた彼と触れてゆくたびにあの頃の彼と全く同じであることに気づく。本質的には全く異ならないことに気づいたのだ。あたしの中で脈々と息づいていた「彼」はやはり今も息づいていた。

 8年という何よりも貴重な青春という名の時間を犠牲にしてまでも会わなかった、会えなかった二人の距離。そのお互いの距離が一気に濃縮するように加速して引き合う。そして心も体もお互いの何もかもを焼き尽くす。

 …再会したあたし達は自らの渦巻く情念を抑えることの出来ない、抑えようともしなかった…男と女だった。

 繰り返される彼との愛欲にまみれた逢瀬。かけがえのない、蜜月の日々。そうした中であたしも彼もある事に気づく。

 あたしも彼も所詮は人間、生身の人間なのだ。あたしは天使などではなく、彼はあたしの理想のおにいちゃん、無敵のスーパーヒーローなどでは決してなかった。

 否、気づくというのはおかしいのかも知れない。心のどこかでお互いが既に解っていたことなのだ。

 それまで実体を持っていなかったお互いの「偶像」が急速にその肉を帯びていく。

 それは今までお互いが想像していたお互いの穢れなき「正の面」だけではない。どうしようもなく弱く醜く醜悪な部分、「負の面」にも気づかされる事となる。

 理想のあたし像を作り出し、それを糧に今まで頑張ってきた彼。

 一方で、その作り出したあたしをめちゃくちゃにすることでその歪んだ嗜虐心を満たす彼。

 それは矛盾という様相を呈する。秩序なき、相反する二人の彼。それは人の世というこの穢れきった世界を生きる彼であり、8年もの歳月を経てやっとあたしが辿りつくことが出来た等身大の彼なのだ。

 そしてあたしはそんな彼が…弱く醜く醜悪な彼をどうしようもなく愛してしまった。どうしようもなく愛おしかった。

 そしてそれは目の前の彼も同じ気持ちなのだろう。

「…」
「…」

 別れることになってしまった今でもあたしは彼のことが好きだ。

頭が良くて頑張り屋で努力家で妹のためなら何でも出来て妹の幸せの為なら我が身を潔く引く決断をする彼のことが好きだ。そしていつまでも未練たらしく妹の過去を邪推し近づく男に見境なく心の中で嫉妬心を剥き出しにする彼のことが好きだ。

そんな彼のことをあたしは今でも愛している。それでも…。

「…」

 それでもこの世界が許さない。この倫理と道徳と健全な精神で縛られた…偽善という名の「常識」で塗り固められた世界が兄妹で結ばれることを絶対に許さない。

 ――体(世界)に流れる異物は排斥される。

もし、もしあたし達がこの関係を続けたとしたら…。当然あたし達は糾弾されることを免れないだろう。多くの人達は理解を示してくれないだろう。

 そしてそれは破滅を意味する。

 その来るべき破滅があたし達だけなら、まだいい。でもこの厳格かつ善良な社会的道徳を標榜する世界がそれを決して許さない。

 お父さんは?お母さんは?香織さんは?槇島の家の人達は?おにいちゃんの死んだお父さんとお母さんは?それまで出会ってきた皆は?

 ある人は心を壊し、ある人はあたし達を見て肥溜めか何か汚い物を見るかのような侮蔑の視線を投げかけることだろう。だがそれはまだ心優しい人達なのかもしれない。本当に「真面目」な人達はきっとあたし達のことを無視する。この兄妹間で愛し合う、近親相姦という事実に目をつぶる。

 …ふと、あるはずもない事を考えてしまう。

 もしこれが今から4年前の…あたしが中学3年生、彼が高校3年生だとしたら…。あたしと彼は一体どういう結論を導き出すのだろうか?今のような別れの選択をするのだろうか。

 答えはわからない。わからないが…もしかしたら、というあたしが考えうる「未来」はある。

 彼はおそらくあたしから身を引くだろう。あたしという存在の、妹の幸せの為を想い、あたしから離れていくに違いない。それは彼の中に蠢く、醜悪無比な感情に蓋をしても、だ。

 ではあたしは?あたしはどうなのだろうか?『その高坂桐乃』なら一体どうするのだろうか?彼のことが、実のおにいちゃんが好きで好きでたまらないそのあたしは一体どうするのだろうか?

「…」

 一つだけの結論、など到底わからないが、同じあたしのすることだ。もしかしたら、といういくつかの予想はつく。…それならばその内の一つの、『高坂桐乃』が選び取った未来は何て悲しいのだろうか。

 狭くまだ充分に開かれていない識見と幼い感性。ただただ愛しい兄のことを想うが故に愛の持つ本当の意味を履き違えて突き進む、修羅の道。その選び取った「愛」を守りたくても、周りがそれを許さない。世界の粛清によっていずれ磨耗していく、未来のあたし達。それは今とは違う「ちょっと違った未来」。

「…」

 幸せだ。あたし達は幸せ者なのだ。

 このまま続けば来るべき破滅を決して回避など出来なかったろう。それほどまでにお互いの存在は甘美な麻薬とも言えた。

 それがようやく終わりを告げる。近親相姦禁忌という禁断の愛へ魅せられる『夢遊病者』の見る世界からようやく「今」という未来へ歩くことが出来る。

 …ひょっとしたらこれは神様があたし達に与えられた最後のチャンスなのかもしれない。

 あたし達は罪人だ。咎人だ。共犯者だ。誘ったのはあたし。真実を知りながら想いを抑えられなかったのは彼。罪の刑量など今更、論ずべき意味もない。

 ようやくありふれた、普通の「兄妹」へ帰ることが出来たのだから。

「ふふ…」
「…」

 ありがとう神様。短い一時だったけれど、夢を見させてくれてありがとう。桐乃は幸せ者です。

「今度…」
「…?」

 あたしは彼にくるっと体を翻し、

「今度会う時は、あたしの結婚式にね」
「…」

 彼は答えない。何も言わない。あたしの目をじっと見ながら。

「どんなウエディングドレスを着よっかな~。ふふ…その時に旦那さんとなる彼を紹介するね」
「…」

 あたしを見つめる彼の瞳。そこには先ほどまであれほどあたしの『男』に嫉妬心と敵愾心を剥き出しにした彼はいない。

 股の中から彼の精液がどろりとこぼれる。それほど彼はあたしの中にその歪んだ劣情を昨日の夜から朝まで一晩中休むことなく炸裂させた。

 …まあ香織さんお勧めのピルを飲んでいるから大丈夫だろう。

「…」

 彼の目は穏やかだった。去り行くあたしの、妹の門出を一寸の迷いもなく祝福する姿。

 それぞれの旅立ち。

「桐乃」

 彼はそれまで閉じていたその口を開き、

「俺、頑張るよ」

 あたしはそんな彼を黙って見つめる。

「これからも頑張ってみる。たくさん勉強してバリバリ仕事して…」
「…」

「それから、親孝行も…しないとな」
「え」

 ごほん、と気恥ずかしそうに咳払いをする。

「親孝行だよ、親孝行。今まで親じゃないと思っていた人が実の親だったんだ。家の一つや二つ買って上げられるくらいバリバリ仕事して稼いでやる。バリアフリーもつけてあげたいしな」
「…」

「それに…」

 彼はす、っと旅立ちの朝にふさわしい爽やかな笑顔で…。

「俺には親が6人もいるんだ。死んだ父さんと母さん。こんな俺を拾ってくれた槇島の父母。そして大介お父さんと佳乃お母さん…」
「おにいちゃん…」

「こんなに…こんなに幸せなことって…あるかよ…」
「…ふふふ」

 そしてあたし達は…。

「ははははははははは」
「ふふふふふふふふふ」

 お腹の底から、笑顔で笑い出した。お互いの成長を祝い合うように。

 こうしてあたし達はまた一つ大人になっていく。こうして子供というさなぎの状態から一つ一つ殻を剥いて巣立っていく。

 子供であり続けることは難しく大人になることは簡単だ。こんな言葉が世の中にはある。決して間違いじゃない。真実だろう。でも…。

「…」

 悪いことじゃない。大人になるって。案外…悪いことじゃないよ。

「…」
「…」

 彼のアパートの下まで送ってもらう。…朝日が目に入って眩しかった。

「あたしの小説が出来たら香織さんに持って行ってもらうね」
「あのままの手書きなのか?ワードを使えば…」

「ごめんね。手書きの方がなんとなくしっくりくるの」
「…そうか」

「じゃあね、兄貴」

「え?」
「え」

 突如ふっと出たその言葉。未だかつて呼んだ事がないのに何故かいつも使っていたかのように感じる『兄貴』という呼び名。

「…」
「…」

 二人してポカーンと見つめあう。そして…。

「ふふ」
「はは」

 何故か、納得がいった気がした。理由はわからないけれど、これもあたし達の一つの形なのだと。そう、『何故か』納得した。

「じゃあ…元気で」
「…ああ。帰りは気をつけろよ」

 そんな、いつもの送り迎えのような何でもない一言で彼はあたしを送り出す。

 あたしを優しい眼差しで見つめる彼。そんな彼を見つめ返すあたし。

 そんな彼へと背中を向け、離れていく二人。

 そこへ…。

「…」

「あ、あやせ…」

「…」





~~~





「…」
「あ、あやせ…」

「…」

 彼女は、立っていた。朝の陽気をふんだんにその身に浴びながら。新たに始まる日常の太陽の祝福をその身に浴びているはずだ。しかし…。

「…」

 彼女は全身傷だらけだった。黒のニーソックスとミニスカートの間から覗く絶対領域。いつも清楚なイメージを保っていた彼女が控えめに出していた透き通るような肌。それらが今は…。

「…」

 生傷だった。それも何かの、『爪』のような何かで引っかいたように。何度も何度も引っかいたように。かさぶたが出来ても、血が生乾きで出来ない内でさえもなお容赦なく引っかいたような、生々しい傷跡。

 それらが彼女の白い太ももと首もとと、…全身に無残に赤く染まっていた。

「…」

 両手には白い包帯。あの時京介君に自らのありのままをぶつけたあの日。自らの中にある京介君への想いの丈をぶちまけたあの日。…あの時の傷であることは容易に理解出来た。

 そんな彼女が何故かくも痛々しい姿に?…そんな事決まってる。

 そうしていると、あやせは、

「ぁ…」

「…」

「お、兄さん…」

「…」

「お兄さん…」
「…」

 京介君は答えない。何も答えずただ無表情で彼女を見つめている。しかしその目元が少しだけ、一瞬だけ動いた。おそらく今の痛々しい彼女を目の前にして何らかの感情が動いているのだろう。

「お兄さんお兄さん」
「…」

「お兄さんお兄さん」
「…」

「お兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さん…」

「…」
「…」

 壊れたスピーカーのように繰り返す。いつも皆が憧れていた彼女のしっとりとした艶やかな髪はくすみ、その京介君を求める言葉を発する唇はかさかさに乾いていた。


「お兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さんお兄さん…」

「…」

「好きです好きです好きです好きです好きです好きです」
「…」

「好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きなんです」

「…」

 そう壊れた口から京介君への愛の言葉を繰り返すあやせは、京介君に近づき。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「…」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「…」

「もうしませんからもうしませんから。もうしませんからもうしませんから。お兄さんを困らせることはもうしませんから。貞淑な女でいますから。だから…だから…」

「…」

「捨てないで…捨てないで…」

「…」
「あ、あやせ…」

 冬の寒空の中、彼女は一体いつからこのアパートの下であたし達がいたあの部屋を見上げていたのだろうか。昨日の夜からかも知れない。その証拠に近づいてきた彼女のその血まみれの…かつて透き通るようだったその痛々しい肌は寒空の空気にうたれたのか、青く凍っていた。

お願いしますお願いしますお願いしますお願いします…」

「…」
「あ、あやせ…お、落ち着いて、」

 自制を促そうとするあたしの手を横切って、あやせは京介君の目の前に立ち、

「か、代わりでも…」

「…」
「え?」

「代わりでも、いい…」

「…」
「あやせ…」

「桐乃の、代わりでもいい…。代用品でもかまわない…。桐乃のことをずっと見ていて構わない。だから、だから…」

「…」
「…」

 そう言いつつ、あやせは京介君の前で頭を深深と下げた。

「お願いします…。どうか…どうかお兄さんのお傍に…。代わりでもいいんです…。お願いします…お願いします…」

「…」
「あやせ…」

「つ、都合のいい女で構わない…。便利な女で構わない…。性欲を満たすだけの女でも構わない…。い、いつでもどこでも呼び出してめちゃくちゃにしてくれても構わない…。い、いつでも呼びかけに応じますから…。だから…だから…」
「…」

「捨てないで…捨てないで…捨て、」
「あやせ」

 それまで口を開かなかった京介君があやせの両肩を掴み目を見つめる。

「…」
「ぁ…お…お兄さ…」

びくっ、とあやせの体が震えた。そして、

「今まで、ありがとう」
「…え」

 あやせを真摯な目で見つめながら、

「お前にしてもらったこと、忘れない。今までしてもらったこと、感謝している。お前といた時間は、とても楽しかった」
「お、お兄さん…」

「俺はお前に感謝している。あの時お前が俺達を止めてくれなかったら、俺と桐乃はいつまでもあのままの爛れた関係だったかもしれない」
「…」

「ありがとう。お前のおかげなんだ。あの時お前が全力で俺達のことを、文字通り身を呈して止めてくれた。だから今俺達はこうして普通の兄妹に戻れた。戻ろうとすることが出来たんだ」
「…ぁ…」

 あやせの光彩が一切合財消えた、すがる様な瞳に一抹の光が宿り、それがみるみる溢れ出す。

「で、でしたら。でしたらまた私と、」
「…だがすまない。俺は今のお前とは付き合えない」

「…え」

 京介君は申し訳なさそうに、しかし真摯な瞳でしっかりとあやせの瞳を見つめながら、

「ど、どうして…」
「…」

「どうしてなんですっっ!?」
「…」

 あやせは京介君の胸元を掴み涙ながらに彼を下から見上げる。

「桐乃と別れたっ!普通の兄妹に戻れたっ!今、今そう言ったじゃないですかっ?!なら、ならいいじゃないですかっ!?私の事、私の事をもう一度、もう一度見てくれたって!!」
「…俺はお前の思っているような男ではないよ」

 京介君は震えて泣き叫ぶあやせの目を見つめながら、

「…え…?」
「俺はお前の考えているような理想の男ではない、とそう言ったんだ」

 京介君は厳しくあやせに言い渡す。しかしその目と言葉にはあやせに対する温かみが滲んでいた。

「俺は生身の人間だ。お前が見るに耐えられない、と言った醜悪な部分がいくつも隠し持っている、生身の人間なんだ。桐乃の事を…実の妹を愛する心もそんな分かちがたい俺の一つなんだ」
「…」

「そしてお前は俺に依存している。綺麗で外面のいい『お兄さん』に依存している。私生活ではずぼらな、そんな俺に甲斐甲斐しく世話を焼く『お前』に依存している」
「…」

「俺はお前のことが好きだ。しかし今は一人の人間として好きなんだ。そんなお前のことを俺は…依存という毒が回って苦しむお前をこれ以上見ていられない」
「…」

「だから、わかってくれ。今のお前とは付き合えない。俺に愛されないことにいつも怯えているお前と…俺は付き合えない」
「…」

 あやせは京介君の胸元に顔を埋め、

「わかってくれるか?」
「…」

 あやせはぷるぷるとその震える顔をもたげ上げ…。

そして…。

「だ…」
「…」

「代用品にさえ…させてもらえないのね…」

「…」
「あやせ…」

 涙でぐしゃぐしゃにまみれた彼女は埋めていた京介君の胸元からそっと手を離し…、

「私は…桐乃の…別れた妹の代用品にさえ…させてもらえないのね…」
「あやせ」

 震え泣くあやせに向かって京介君は、

「今はわからないかもしれない。俺の言っていることが理解出来ないかもしれない。お前のそんな状態だとそれは当然なんだ。しかし…」

 ぐ、っと彼女の目を見据え、

「わかってくれよ。そんな風にまで追い込んだのは俺だ。お前がそんな風に壊れてしまうくらいにまで追い込んだのは俺なんだ。だから…」
「…」

「これが俺に出来る、唯一のことなんだ。新垣あやせという俺を慕ってくれた女の子に出来る、唯一の罪滅ぼしなんだ」
「…」

「俺はお前の人としての尊厳を傷つけたくないんだ。お前という人間を尊重したいんだよ」
「…」

「わかって、くれないか。あやせ…」
「…わからない」

 あやせは狂乱したように首を大きく振り回し、

「わからない…わからない!そんなの全然わからない!!」

「…」
「あやせ…」

「そんなの全然わからない!お兄さんの言っていることなんてわからないっ!!」
「あやせっ!」

 そう言って彼女はその身体を翻し、道路の向こうへと走ろうとする。しかし…、

「あうっ!」

 彼女の高めのブーツが走るのに適していないのか、足首をくじきその場に倒れこむ。そこへ――。

 ブブブブブブブブブブ!!!!

 猛スピードで彼女に今まさに追突せんとするトラックが――。



~~~



 私の目の前に迫るトラックの車両の正面。足首を挫いた私。

 桐乃が向こうで息を呑んでいる。

 ああ…もう何もわからない。何もわからないよ…。私の人生どこでどう間違ってしまったのだろう。

 議員である父。それを支える母。政治家という社会的ステータス。その一家の期待を一身に受けた一人娘。

 教師の私を見る目。同級生達の私を見る目。憧れと羨望と嫉妬が混じった皆の眼差し。

 圧しかかるそれらに負けず、今まで何とかこなしてきた日常。学校生活、成績、友人関係、モデルでのお仕事、大人の社会との付き合い方、議員の娘としての世間の皆様にお見せ出来るにこやかなその笑顔。そして…。

「ぁ…」

 迫り来るトラック。急ブレーキも間に合わない。

 あの日私を助けてくれて、ある筈のないと今まで思っていた一目ぼれのあの人。決められた日常を何の感慨もなくこなす役割しか与えられなかった私に、ある筈のない恋をするということを教えてくれたあの人。

 今でも間違いだと思えない…心の底から愛するあの人(お兄さん)。

 そんな好きで好きでたまらないあの人が今私の目の前に――。



 ドンッ!!



 その瞬間私の目の前は白く染まりあがる。宙に浮かび上がる身体。続いて来る、何かに身体ごと打ちつけたであろう衝撃。

「…ぅ…」

 …頭が痛い…。目を開くとこめかみと額から血が流れて伝ってくる。血が目の中に流れて視界が真っ赤染まっていく…。その真っ赤に染まった世界の中で…。

「…ぁ…」

 桐乃がよろよろと歩いていく。何か信じられないものを見ている様だ。

「…ぁ…ぁぁ…」

 声にならない声を桐乃は空気に交えて喉から出す。震える肩。震える全身。彼女のその視線のその先には――。



「…ぁ…やせ…」



 お兄さんが倒れていた。突然の私の出現により急ブレーキが間に合わなかったトラックの車輪がアスファルトに焦げ目をつける。そして地面につけられたその車輪の跡は…。


「…ぁ…やせ…は…あやせは…無事…か…?」


 一面血の海だった。『その』中心からペンキで塗りたくったかのように地面が目茶苦茶に赤く染まりあがる。


 そしてそのペンキの元となる人は倒れ臥す私の顔を見て――。


「…よ…か…た…」

「…ぁ…ぁぁぁ…」

 倒れていたのはお兄さんだった。血の海の真ん中はお兄さんだった。真っ赤なペンキを噴出させるのはお兄さんだった。

 右の脇腹から…右足の付け根から…そして彼の左腕が…お兄さんの身体から無くなっていた。

「…お…おにいちゃ…」

 よろよろとおぼつかない足取りで倒れるお兄さんの下へ向かう桐乃。そんな桐乃を優しい眼差しで見つめながら…。


「…ぃ…ままで…ぁ…りが…と…。し…しあわせ…に…な…」


 そう言って彼はその桐乃を見詰める瞳から、全ての光を失った。

 ぼやける視界。頭から流れる血で真っ赤にそまる世界。真っ赤な彼の「最期」。

 そんな彼の『最期』を見て、桐乃は、

「いやあああああああああああ!!」


 お兄さんの、血まみれの、眠る顔を抱きしめながら、


「救急車ぁぁ!!救急車ぁぁっっ!!」


 意識がなくなる私の世界。その終わりの世界で。


「誰かああああああ!!誰かああああああぁぁぁっっ!!いや、いやああああああああああぁぁぁぁっっっっっ!!!!」


 彼女の、泣き叫ぶ声が轟く姿だけが、私の見た彼のいる最後の世界だった。






続く。

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最終更新:2013年03月24日 21:52
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