がやがやと騒がしい雑踏の中を、流れるような足取りで歩む者がいる。
その身のこなしは凡そ常人のものでなく、その足取りはまるで何者かから逃げるかのようであった。
鞍馬神流上忍頭。その名を、兎の稲葉といった。

跳ねるような歩法は衝撃のベクトルを操り、同じだけ敵に跳ね返す。
敵が強ければ強い程、彼の攻撃は威力を増す。
この力により、彼は数多の強者を屠ってきた。
兎の歩法と研鑽された体力をもって、彼は最強の一角に上り詰めた。
しかし今や彼は全身に傷を負い、這う這うの体で逃げ回っていた。

異変は3週間前。赤々とした夕陽の中で、その人影は現れた。
正しく影と形容するが相応しい黒ずくめの人物は、稲葉に一撃を与えてすぐに消え去った。
鮮やかな手並みに舌を巻いたが、それだけだ。侮るつもりはないが、大した手傷ではなかった。
しかしそれが立て続けに来たとあっては話が別だ。
稲葉がどれ程逃げようと、それはいつの間にか背後に迫っていた。
何処に行こうと、それは稲葉を追い続けた。
―――当然だ。

走り続けていた稲葉は足を止め、振り返る。あるのは、夕陽に浮かび上がった己の影のみ。
当然だ。
自分の影から逃げられるものなど、いる筈がないのだから。
稲葉は自分の影に向けて刃を向ける。その刃を避けるように、影から糸のような影が離れていく。
自分を追い、責め立て続けた影が。

糸のような影が束ねられ、人影として実体を結ぶ。
その人影は、正しく影と形容するが相応しい黒ずくめの女であった。
女―――影は静かに佇み、手元の黒絃を弄ぶ。
影絵座の獲物、影を操るその黒絃によって、己の影に潜んでいたのだろう。
しかし、彼はその正体を見た。傷はあれども持ち前の丈夫さが、未だ彼の命を繋いでいた。
差し向けられた黒絃は早くとも、避けられぬ速度ではない。
迫る糸を剣で受け、彼は黒絃を絡めとる。

刹那。糸の影が、彼の影を貫通する。
何もない筈の肩口から血が溢れ、兎の稲葉は糸が切れた人形のように倒れ伏した。
そうして後に残るは、実体なき漆黒の影のみであった。

それは影から影に渡り歩き、感知不可能の隠密行動を実行する。
それは他人の影に潜み、防衛困難な波状攻撃を繰り返す。
それは影すら切断し、防御不能の身体破壊を成し遂げる。
影となり影を操り影を斬る、誰もが知る無名の暗殺者である。

影絵座。“追跡者(ストーカー)”。
忍び寄る影。
最終更新:2021年04月24日 13:59