ビルの裏口に面して停止した車のドアが開くと同時、目前の裏口から男が姿を現した。
肩の少し下まで伸びる髪を後ろで束ね、スーツを着こなしたその男こそ、世界的企業である八咫重工のCEO、黒潮一人である。
CEOでありながら時に現場にすら出向く黒潮は、今日も複数の企業との会談をこなしていた。
黒潮が乗り込むとすぐ車は発進した。数分後、高速道路に乗った車は夕日を正面に受けさらに速度を上げる。
「お疲れ様です社長。次は甲羅製鉄ですね」
「私は社長ではないがな。18時半から甲羅製鉄で親元のイタリア企業と電話会談だ。向こうは昼前だな」
「はい。現在の高速道路の状況ですと、18時20分ごろの到着に……社長!」
運転手が叫んだ瞬間、異常は起きた。
振り返った運転手が黒潮に手を伸ばした、その四肢がちぎれ飛んだ。血が噴き出ることもなく、車内に落ちたはずの死体はどこかへと溶けて消えた。
間違いなく忍者の技である。
「……これで3人、か」
黒潮は落ち着き払って周囲を見渡している。彼もまた忍者。それも六代流派に名を連ねる斜歯忍軍、その頭領なのだ。
運転手が消え去ってもオートパイロットで運転を続ける車内には他に人影は見えない。しかし黒潮を狙う暗殺者が潜んでいることは確かだった。
「やられたな。前2回は都市部での喧噪に紛れての襲撃だった。しかし奴の本領はむしろ閉所……そこに私を誘い込むために2度同じ手で襲撃したのか」
今死んだのはただの運転手ではない。護衛能力に優れ、敵の攻撃を防ぐことに特化した斜歯の忍者だった。
それが敵の攻撃に反応できず、一撃で四肢を切断された。暗殺者は未だ姿を見せない。
「ここで車を脱出する自信はある。しかしこれが八咫重工の社用車であることは調べればわかる……。加えて、会談は中止せざるを得ない。
私の表の顔を利用して、逃げを封じる算段だな。移動する車内でまず運転手を狙ったのは、ここで仕留めるという敵の意思表示か」
取るべき行動は決まった。
車が目的地に到着するまでに、この車内で暗殺者との決着を付ける。
● ● ●
・・
暗殺者は、物影から目標の様子をうかがっていた。
彼──あるいは彼女──忍び寄る影は、その正体の一切を知られていない。暗殺目標を確実に仕留め、その死体をどこかへ消し去る。
忍び寄る影に狙われながらも数日生き延びた者の数少ない証言から、夕方に突然姿を現し、忽然と姿を消すことだけがわかっていた。
それもそのはずだった。影に潜み影を渡り影そのものとなる力を持つこの暗殺者にとっては、目標の影がそのまま殺害手段となり、死体は影に呑まれる。
だから暗殺者は、黒潮一人の暗殺場所に夕方の車を選んだ。
前2回では周囲の護衛がしっかりと影を固めており、護衛が死ぬとすぐ離脱されてしまった。しかしその際に周囲の物品の影に潜み、目標を見失わずに攻撃を続けられている。
今や目標は、影を最も生み出す夕日を避けられず、その影は車内全体に広がっている。周囲360度全てが目標を殺す凶器だ。後は隙を見計らって影を刃に変え、目標を貫くのみ。
「さて……勝負と行こうか」
黒潮が呟くと同時、彼の座る椅子の背が音もなく倒れ、赤く発光した。
煙の音が車内に響く。高温に熱せられた椅子が床を焼いているのだ。
さらに運転席、助手席と倒れ、同様に床を焼いていく。床全面が凶器と化した社内で──暗殺者は天井の影からその刃を振るう。
死角からの攻撃は、しかし黒潮が手にした苦無に弾かれた。
「やはり上から来たな。閉所でなければできない芸当だ。死んだ川下の目線も上だった」
「────」
車が山道に差し掛かり、夕日が陰る。代わりに、熱され発光した床が天井に強く影を映していた。
ずるり、と天井の影から暗殺者が這い出る。重力を無視して上に伸びる長髪と、余裕のないタイトな黒服に覆われた全身黒ずくめの女。それが忍び寄る影の正体だ。
「御命──頂戴──」
手にした黒絃を放つ。黒潮は飛び上がり、暗殺者と同様に天井に着地してかわした。
黒絃は床に当たるかに見えたが、そのまま呑み込まれるように消える。直後、車が大きく振動した。
急な減速と、止まらない上下振動。
「この女、タイヤを……! 車を狙ったか!」
「ここ──見晴らしがいいわ──」
山間から夕日が差す。車がその後ろに大きく影を作った。
女が再び黒絃を取り出すと、パンクを起こした車がさらに急減速し、停止した。
しかし車の振動は止まらず、その車体が沈んでいく。確かに高速道路を走っていたのに。
「これは……! やむを得ん!」
爆発。その天井が粉々になるよりも早く、爆発させた当の黒潮は車を飛び出した。一歩遅れて車体が完全に道路の中へと沈み、車があった痕跡すらなくなってしまう。
黒潮はガードレールを超え、10メートル上の空中。夕日がその影を崖下に大きく映し出した。
ここまで無表情だった忍び寄る影が、口元だけを動かし笑みを浮かべた。
忍び寄る影は、影を操る。それは影に潜み影を渡り影そのものとなる。
しかしそれだけではなく、彼女が狙った目標をも、影そのものとしてしまうのだ。
今や黒潮一人は、崖下に這いつくばる大きな木偶。その影を手にした黒絃の影で切り裂けば、本人の体がいかに堅牢でも両断される。
『詰み』を作り上げた彼女は、黒潮を追って空中へ飛び出す。そして黒潮のいる上ではなく、下の影に向けて黒絃を放った。
……その直前。
「──!」
忍び寄る影の視界が闇に覆われる。いや、闇ではない。ただ夕日が差さなくなったのだ。
黒絃の影が地面を裂くが、手応えはない。上を見上げると、そこには──。
「敵から注意を外すとは、暗殺者らしくないな」
いったいいつの間に出現したのか、巨大なカーペットが浮いていた。黒潮の声は、おそらくその上から響いている。
「空飛ぶ絨毯……聞いたことがあるかな? 童話に出てくる夢物語だが……斜歯は夢物語を実現するのが好きでね」
「──気付かれていたの」
「狙いが無ければ、わざわざ影を出てこないだろう。これで私の影は、絨毯の上にしか存在しない」
忍び寄る影の顔が初めて焦りに歪む。今、この位置はまずい。
黒潮を追って空中へと飛び出した彼女は、夕日から隠れている。そして横のガードレールや山肌からは離れすぎた。
下にも横にも、彼女の影は存在しない。
「影は物体の面にできるものだ。貴様が影に潜めるとして……貴様に触れられる影はないだろう?」
暗殺者は、逃げ場を失っていた。
しかし、それでは足りない。姿を現せない黒潮では攻撃手段が乏しく、地面に落ちさえすれば彼女は衝撃なく影に潜むことができる。
「さて……私にこの場で奴を殺せるか?」
黒潮は懐から携帯電話を取り出す。すでに珍しくなったガラパゴス携帯はもちろん単なる携帯電話ではなく、斜歯の技術が詰め込まれた特別製だ。
ボタンが押されると、携帯は瞬く間に変形し、巨大なレンズとなった。
一方忍び寄る影も急いで物体に接触しようと空中を蹴った。例え影がなくとも、忍者である以上空中機動はできる。
影が映る距離まで横合いのガードレールに近づき、気づく。映っているのは影ではなく、自分自身の姿だ。
「鏡──!?」
「私の持つ121の兵器の中では、これが貴様に最も有効だろうな」
瞬間、レンズから膨大なエネルギーを持つ光線が発射された。
周囲に、そして地面にもいつの間にか設置されていた鏡全てに光線が反射する。
それは地形を球面鏡とした燃焼兵器だった。集まった光は瞬く間に影を焼く。
「──!!」
影はたまらず再び空中へ飛び出した。少しでも光から逃れようと、頭上の絨毯へと空中を駆ける。
絨毯に影が映り、手が届こうかというとき、絨毯に穴が開いた。目標、黒潮一人が得物を構えている。
黒潮の身体に、暗殺者自身の影が映る。
「──御命頂戴!」
ここしかない。暗殺者は最後の手段を取った
自身の影そのものを操って引き裂くことで、影が映ったものすらも同様に引き裂く影絵座の禁術。
影が引き裂かれる以上、その本体である自分もただでは済まない。光に焼かれた今この技を放てば恐らく生き残れはしないだろう。
しかし、暗殺者にとっては目標をいかなる手段を用いても消すことが全てだった。
影が崩れる。影が映った黒潮の体もまた、引き裂かれていく。
崩れ落ちる黒潮の体の先に……暗殺者は、もう1人の黒潮一人を見た。
「やはりあったな、奥の手が。分身を生み出していて正解だったよ。この分身は、貴様と違って消えても私に影響がないからな」」
黒潮が刃を振るい、暗殺者、忍び寄る影は四散した。
● ● ●
黒潮は崖下で周囲を見渡す。斜歯忍軍の部下たちがそこに集まっていた。
彼らは忍び寄る影に対応するため、この場所で鏡を設置し待機していたのだ。
「ご苦労だった。予定ポイントよりは早かったが、よく対応してくれた」
「Dr.斜歯から連絡があったのです。きっと襲撃が早まると」
「ドクターが? ふむ、それは……」
黒潮の持つ携帯が鳴る。1コールで取ると、耳障りな機械音声が流れた。指矩班の首魁、Dr.斜歯だ。
『お疲れ様だヨ、頭領』
「ドクター、貴様川下を使い捨てにしたな」
『どうせ忍び寄る影相手には生き残れないとも。おかげでいいデータが取れたヨ』
「全く、囮をやる私の身にもなってほしいものだ。車の隠蔽工作をしなくていいのは助かったが」
黒潮は空を見上げる。夕日が山に消え、空は急速に暗くなっていった。
「代わりの車は用意できるか?」
『赤子でもできるお使いだネ。すでに下忍どもにやらせているよ』
「ならば甲羅製鉄の500m手前で合流だ。私はそこまで足で行く」
『了解だヨ頭領』
通話を切り、携帯を懐にしまう。
面倒ごとはひとつ解決したが、ここからは表世界の面倒ごと、本番の会談だった。
そして、もうひとつ。
「天上天下の法か……。やはりこの暗殺者も、聞きつけて雇われたか」
それは物事を瞬時に分析し、その脅威と対処法を詳らかにする目を持つ。
それは無数の道具を使いこなし、相対した者の弱点を的確に突くことができる。
それは数多の人心を掌握し、人すらも自身の巨大な手足とする。
世界の表裏全てに根を張り先頭を走る統一者。全能を汎用とする万能である。
斜歯忍軍。"最高経営責任者(CEO)"。
国士無双、黒潮一人。
最終更新:2021年04月25日 15:42