アットウィキロゴ

アリス・イン・ザ・アビインフェルノ・ジゴク -不死戯の国のアリス-  ◆EAUCq9p8Q.



◇◇◇

  いつの間に夜になったのか。
  先程給食を食べ終わったばかりのはずだというのに、気づけばあたりはすっかり薄暗くなってしまっていた。
  今まで何をしていたのかの記憶がすっぽりと抜け落ちている。
  時計を確認しようとして、そこがようやく屋外だと気づいた。
  再び記憶に齟齬が生まれる。確かに、先程まで教室に居たはずだった。
  納得の行く答えを探してあたりを見回すと、木々のざわめきの中で赤い瞳の初老の男性と目があった。
  人間の目はあんなに綺麗に紅く光るのだと、少年は生まれて初めて知った。

「うん、上出来」

  姿の見えないもう一人の声が聞こえる。回りを見回してみても姿は見えない。
  目の前の男性ではない。性別もそうだが、年齢もそうだ。
  もっと若い、大人というにはまだ若すぎる、あるいは少女という呼び名がよく合う年代の女性の声だった。
  声は近くで聞こえたはずなのに、二度、三度と周囲を見回してもその声の主の姿は見えない。
  だが、ある瞬間。
  一人の少女が少年の視界に飛び込んできた。
  いや、『少年が彼女を認知できるようになった』といったほうが正しいかもしれない。
  彼女がどこかからやってきた記憶はない。思い返してみれば、風景の一部に溶け込むように居た気がする。

「これに見覚えは?」

  女性が掲げているのは雑貨屋で売っているような小さなホワイトボードだ。『アサシンのお姉さんへ』と書いてある。ハートマークまで添えて。
  数秒前から今までの記憶も不明瞭なのだ。見覚えなんてあるはずない。
  黙って首を振ると、女性は少しだけホワイトボードを見たあとで、少年の方に視線を向けた。
  上から下まで、品定めするように視線を動かし、もう一つ尋ねた。

「名前は?」
「へ?」
「名前。あんたは誰?」
「あ、お、俺……権田原ジェノサイド太郎って言います」

  用意された引き金は、NPCの小学生。
  それは奇しくも、ゼツメツの名を持つ少年だった。




  「まずは追いかけっこ」と少女……遊園地のキャスター・アリスは言った。
  彼女の言葉と同時に兵隊が小梅とジェノサイドの周囲を囲んだ。手に幾つもの武器を持ち、追いつかれればその場で殺されてしまう死の追いかけっこだ。
  最初はその兵隊たちや空を飛び交う拷問器具や遊具による攻撃を物ともせず迫りくる脅威を跳ね除けていた小梅のサーヴァント・ジェノサイドも、途中でカクンと糸が切れたように立ち止まり。
  その瞬間を見逃さず、アリスは笑いながらその数を増し、すぐに小梅とジェノサイドを捕まえてしまった。

「どうしたの、お兄ちゃん?」

  捕らえたアリスが声をかけるが、ジェノサイドからの返事はない。
  ただ、地の底から響くような声で呻くだけだった。
  急に動かなくなったジェノサイドを訝しげに思ったようで、アリスは周囲に控えさせていたトランプ兵たちに指示を下した。
  指示を受けたトランプ兵たちは、一人、また一人とジェノサイドに近づき、手に持つ槍や手斧でジェノサイドの体に傷を付けていく。
  生きている人間のものとはまるで違う、どろりと濁った体液が何人ものトランプ兵の持つ武器を汚していく。
  それでもジェノサイドは身じろぎ一つしない。
  まるで本当に死んでしまったようだ。
  小梅も、彼が呻き声を漏らしていなければきっと死んでしまったのだと思ったに違いない。

  しばらくの無反応にアリスは少しだけつまらなさそうに口をとがらせ、そして不意にぱっと笑顔を浮かべて、両手を胸の前でぽんと打った。

「これじゃああんまりにもつまんないわ!」
「だったらどうするの?」
「もう終わり? オトモダチにしちゃう?」
「それはもっとつまらないじゃない。何か無いかしら」
「だったら、別の遊びをしましょう!」

  アリスの影から踊るように現れたアリスたちが口々にそう言うと、分身したアリスたちが五人がかりでジェノサイドの巨体を抱えて、そのまま走り出し。
  後に残された無数のアリスたちのスカートから、壁板や一枚鏡が一枚また一枚と飛び出しその後を追う。
  そして、ジェノサイドの放り捨てられた場所に、棺桶のように四枚の壁が立ち。壁の周りにまた壁が立ち。
  次第にそれは迷路の形を作り、どんどんどんどんその規模を増していき。
  アリスが手を打つと、その牢獄の外観は、遊園地そっくりなアリスの陣地によく似合うホラーハウスへと姿を変えた。

「……ねえ、シラサカコウメちゃんは死神様って知ってる?」

  「ワタシのことよ」と説明するアリス。先程命を狙ってきたとは思えないとても誇らしげで可愛らしい笑顔は、見ているだけで背筋が凍りつくようだった。
  笑顔が歪む。比喩ではなく、物理的にだ。
  気づけば白坂小梅とアリスの間には分厚いガラスが横たわっていた。
  アリスと小梅の間だけではない。小梅が見渡す限り、視界すべてがガラスに包まれている。
  まるでスノードームの内側に飾られたみたいだ。なんて思っていられたのもつかの間。

「これはね、『みんな』から教えてもらったの。マジョガリって言うのよ。とってもとっても素敵じゃない?」

  アリスが笑顔で手を打つと、ガラスの中に水が注がれ始めた。
  声にならない短い悲鳴が思わず口から飛び出す。
  飛び退った勢いでガツンと頭を打ち、ガラスの狭さを思い知る。ガラスに背を預ければ腕をぎりぎり伸ばせる程度の広さしかない。
  見上げた先はスノードームのような球ではない、少しだけ、小梅の腕がかろうじて通りそうなくらいの穴が開いている。
  外側から見れば丁度、砂時計のような形、なのだろうか。
  そんな中に注がれていく水。
  放っておけば、数分で小梅の体は頭のてっぺんまで水没してしまうことだろう。

  靴の底から足の裏へ。
  足の裏から足首へ。
  足首から脛へ。
  死が白坂小梅の体を這い登る。身に着けているものに染み込み、肌にまとわりつきながら、確かな感触を持って這い登ってくる。
  ひたひたと、冷たい『死』は、子守唄を歌うように穏やかに、しかし着実に、その水かさを増していった。

「追いかけっこは終わり」
「じゃあ何をしましょうか?」
「鬼ごっこ? かくれんぼ? どれもとっても楽しそう」
「でもね、ワタシ、思いついたの! せっかく二人一組なんだから、まずは二人一緒に遊べることをしようって!」

  もし、小梅とジェノサイドに無事抜け出す道があったならば、それはジェノサイドに殿を任せて小梅が脱出し、適当なところで令呪を使ってジェノサイドを呼び戻すという戦法だけだっただろう。
  だが、アリスは知ってか知らずか、真っ先にその退路を塞いで来たのだ。

「さあ始めましょう、シラサカコウメちゃん。
 楽しい楽しいお化け屋敷ゲームの始まりよ」

  残酷な御伽噺は紡がれだした。小梅をその腹に閉じ込め、暗く、深く。




           ◆アリス・イン・ザ・アビインフェルノ・ジゴク◆




◆◆◆◆◆◆◆◆◆


  記憶が飛ぶ。
  深い眠りに落ちる寸前のような、時間だけがばっさりと切り抜かれた、そんな状態が連続している。
  ふと我に戻ってみれば、全く違う景色の中にいる。
  生前(というと、語弊があるかもしれない。ゼツメツ・ニンジャのニンジャソウルをその身に宿してから復活して英霊の座に至るまでの間の話だ)にもこういう症状があったことを、おぼろげながらに覚えている。
  だんだんと、その『欠落』同士の間隔は短くなってきている。
  『欠落』の深度とも言うべきか、『失っている時間』は比例して長くなっている、気がする。
  そして、ニューロンの腐敗によるショートによって、少し、また少しとニューロンに残っていた記憶が腐り、こぼれ落ちていく。
  まるでスポンジを絞るように、ジェノサイドの頭からは、時間とともに次々と記憶が抜け落ちていた。

  それでも、抜け落ちていないものはあった。
  絞り続けられていくニューロンの奥底で、自身がここに居る理由だけは覚えていた。
  まだやるべきことがある。
  ここに来るまでに何があったか。どうでもいい。
  ただ、この邪魔な館から早々に脱出し、小梅を連れて帰る。邪魔なものはすべて蹴散らして、だ。

  そうやって、意識を取り戻したジェノサイドの周りにはすでに人だかりが出来ていた。
  といっても、純粋な人は居ない。腐乱した死体に、トランプの兵隊に、それと―――
  ジェノサイドが襲撃者の全容を把握するよりも早く、それらはただの肉塊に、あるいは魔力の粒子に変わっていた。
  最早条件反射の域である。魔力の繋がりから側に小梅が居ないとわかっているからこその、手加減なしの見敵必殺だ。

  蹴りで扉をぶち抜く。おどろおどろしいBGMと、地を舐めるように広がるスモークがジェノサイドを招くように広がった。
  開けた視界の向こう側には、作り物としか思えないチープな洋風の墓場が広がっていた。

『さあ、お兄ちゃん。遊びましょう!』

  墓場の側に打ち捨てられた、少女をかたどった人形が喚く。

『無事にこのお屋敷から抜け出してシラサカコウメちゃんのもとにたどり着ければお兄ちゃん達の勝ち!
 お兄ちゃんがこのお屋敷から抜け出せなかったり、コウメちゃんが『魔女』になるまでに抜け出せなかったらワタシの勝ちなの! どう、とっても』

  ジェノサイドは振り上げた足で何事かを喋り続けている人形を踏み潰し、道標のように捨てられたトランプを目印に、奥へ、奥へと歩いていく。
  曲がりくねった道標を頼りに墓場を歩くジェノサイドの側で、突然草葉の陰や墓の下からゾンビが立ち上がる。
  糸で釣られたコンニャクの代わりに人の頭をすりつぶせそうなゼンマイが飛んでくる。
  曲がり角からジェットコースターが飛び出して、メリーゴーランドの馬がいななきながら迫ってきて、コーヒーカップが宙を舞い。
  ギロチンが、真鍮製の雌牛が、棘の筵が、化物みたいな自動車が、ジェノサイドの持っているものを拡大したような丸鋸が。他にも、他にも、続けて殺意が。
  子どもが寝ながら考えたような滅茶苦茶に理不尽な殺すための罠が、あちらこちらで作動し、ジェノサイドの命を狙った。

「カスどもがよォ……」

  だが、どれも、ジェノサイドの歩を止めることは出来ない。
  あるいは拳で、あるいは蹴りで、あるいはバズソーで、襲い来る脅威は一つ一つ叩き潰された。
  すぐに墓地は終わり、薄暗い通路で構成された迷路へと抜けた。
  ジェノサイドは真っすぐ進み、壁にぶち当たって立ち止まる。
  バラの生け垣のような絵が描かれていたであろう、朽ちかけの壁だ。
  トランプに従い道なりに進むなら右折しなければならないが、そんなまどろっこしいことをしている暇はない。次にいつあの『欠落』が来るかがわからないのだから。

「イヤ――――――ッ!!」

  雄叫びとともに振るわれる拳が壁を穿つ。
  壁は崩れ去り見事な道へと早変わり、ジェノサイドはまた真っ直ぐに進んだ。

「イヤ――――――ッ!!」雄叫びとともに振るわれる拳が壁を穿つ。
「イヤ――――――ッ!!」雄叫びとともに振るわれる拳が壁を穿つ。
「イヤ――――――ッ!!」雄叫びとともに振るわれる拳が壁を穿つ。

  ひたすらにそれを繰り返し、迷路をぶち壊し、ただ真っ直ぐに進んでいく。
  途中現れるオトモダチや罠の数々は、やはりジェノサイドの歩を止められなかった。
  しばらく真っ直ぐに進んでいると、ついに迷路の外壁と思わしき部分にぶち当たった。
  同じように外壁を殴れば外壁もまたもろく崩れ去り、その向こう側をさらけ出した。
  最後に出てきたのは、鏡の迷路だった。ちょうど、はぐれたはずのトランプの道標との合流点でもあった。

  眩むような光量。ホラーハウスとはまるで趣が違う。埃っぽいカソックの似合わない眩さに溢れた空間に若干嫌気がさす。
  だが、そんなもの気に留めている暇はなかった。
  鏡のうちの幾つかが何かを喋っているが、そんなことはどうでもいい。ただ、目障りな壁でしか無いので殴り、割り、先を急いだ。
  殴り、割り、進み、また殴り、割り、進み。
  突然、無視できないなにかが、ジェノサイドの靄がかったような思考に楔を打ち付けた。
  今のジェノサイドの足を止めるほどの『何か』をジェノサイドのニンジャとしての第六感が察知したのだ。

  空間を満たす『異質』が、ジェノサイドの体を取り囲んでくる。
  それは、鏡の世界にはまるでふさわしくない煙とBGMだった。
  ディストーションのかかった、地を揺さぶるような低音の響くストーナー・ロック。
  漂う煙は演出のためのスモークではない。煙草によく似た、しかし煙草とはまるで違う煙。大麻の煙。
  ストーナー・ロックに合わせて、誰かの鼻歌が聞こえる。
  その鼻歌に腐りきった脳が警鐘を鳴らすより速く、ジェノサイドはバズソーを鼻歌の方向めがけて放っていた。理解を殺意が超越したのだ。
  進路の鏡に深々とバズソーが突き刺さり、正面に鎮座していたジェノサイドの鏡像とその額に貼られていたトランプのジョーカーを鏡ごと縦に割る。

  BANG! BANG!! BANG!!!

  割れた鏡像が銃声に従い砕け散り、ジェノサイドの前に出口への道が開かれる。
  そして、鼻歌の主が、舞い落ちたトランプを踏みにじり、出口を背にして悠然と現れた。

『ジェノサイード』

  割れた鏡の向こうから歩いてくるのは、大きな男だ。揺れる山高帽はジェノサイドの腐敗を続ける脳にじくじくと痛みにも似た『何か』を知らせた。

『オウイエー……会いに来てやったぜェー、ジェーノサイードオー』

  愉快そうに笑い、男は胸の前で両手を合わせてオジギ。慇懃無礼。なんたることか、その男は、その仕草は、間違いなくニンジャであった。

『ドーモ、ジェノサイド=サン。■■■■■■です』

  情報欠落。ニューロン腐敗によって、その名はジェノサイドから失われてしまっている。

「ドーモ、■■■■■■=サン。俺はジェノサイド」

  相手の名前をなんと発音しているのかも分からない中途半端なアイサツだが、ジェノサイドの行動は明快だった。求めるものではない。ならば殺すとばかりに反射的にバズソーが宙を舞う。
  男のロングコートの内側から飛び出した鎌がバズソーを跳ね上げ、バズソーに合わせて波打った鎖が鏡を砕く。
  抜き放たれる二枚のバズソーと、鎌の代わりに抜き出された二挺のショットガンから放たれる弾丸が絡み合い、鏡の館を無残に蹂躙していく。
  きらきら舞い散る夢の欠片めいた鏡を踏みしめながら、ジェノサイドも、山高帽のバーサーカーも、怯むことなく距離を詰めていく。
  ジェノサイドが一歩、男が一歩、ジェノサイドがまた一歩、男がまた一歩。
  すぐに二人の距離は互いの武器のリーチを割る。それでも二人の歩は止まらず、ついには腐った吐息同士が混ざり合う距離まで。ニンジャとニンジャの顔が近い。

「そもそも誰だテメェはよ。勝手に出てきて絡んで来てンじゃねェぞ」
『忘れてんじゃねェぜェー……先に勝手しやがったのはお前の方だァー、そうだろォー、ジェェェノサイードォー?』

  山高帽のつばとウエスタンハットのつばが重なり合い、すぐに離れた。
  拳が拳を叩く音が、飛び散る腐肉の破片が、骨片が。鏡の館をジゴクめいた異装へと染め上げる。
  緑色の4つの瞳がホタルのように宙に尾を引きながら行き違い、センコハナビめいて強く瞬いたかと思うと、ぶつかり合う。
  殴り掛かるはネクロカラテ、迎え撃つもネクロカラテ。自身が傷つくことを度外視した、捨て身同士の殴り合いである。


◇◇◇


  小梅も最初は、自分でこの状況をなんとか出来ないかと模索した。
  令呪を使ってジェノサイドを呼び出そうかとも考えた。
  だが、いくら荒事に慣れていない小梅でも分かる。ジェノサイドを呼び出せばアリスはきっと機嫌を損ねるだろうし、彼女にかかれば水没しかけの小梅の息の根をきゅっと〆るくらいわけないだろう。
  他の方法を、と取り出した携帯端末も意味をなさない。
  水没して壊れてしまったのか、それともこの遊園地の特殊な環境の影響か、携帯の電波情報はずっと圏外を示していた。
  小梅にはこの分厚いガラスをどうにかする方法はないし、それにガラスから抜け出したとしてもアリスから逃げ出す方法はない。
  小梅に出来るのは、ジェノサイドを待つことか、偶然他のマスターかサーヴァントが乱入するのを待つことか。
  雪崎絵理にとってのジェノサイドや、小梅とジェノサイドにとってのなのはのように、だ。
  でも、そんな都合のいいことそうそう起こらない。

  水位はどんどん上がってきている。
  いい方法なんて思い浮かぶこともなく、気づけば小梅の小さな体はすでに腰元まで水没していた。
  改めて、自分の無力さを思い知らされた、それだけだった。
  がつんがつんという音が、小梅を閉じ込めているガラスの器を揺らす。
  怖がらせるためか、それとも別の意図があってか、先程から一体のゾンビがずっとガラスの器に体当たりを繰り返しているのだ。
  体をぶつけるごとに少しずつ腐った体が崩れていくのは、なんだかとても可哀想だった。

「そんなことしちゃ……駄目だよ」

  水の冷たさのせいか。あるいは自身では到底変えることの出来ない運命からの逃避か。
  それともやはり、白坂小梅という少女の性分のせいか。
  チェーンソー男やクラムベリーよりも余程理不尽で、余程逃れようのない死の渦の中心で、小梅は自身の死よりも、目の前のゾンビが傷つくことに対して気を揉んでいた。
  ガラス越しに声を掛けても、ゾンビの体当たりは止まらない。
  ガラスを一度叩く。音に反応して体を打ちつけ続けるゾンビが少しだけ動きを止めた。
  じっと見つめていると、ゾンビと目があった。ゾンビは濁った瞳で、何かを訴えかけるように小梅を見つめたあとで、また体当たりを再開した。

「見て、シラサカコウメちゃん!」

  楽しげな声の向かう先にはおとぎ話に出てくるような鏡型のモニターがあった。
  アリスの指先で、ジェノサイドが何者かと戦っている。
  それはあるいは彼女が呼び出した殺すための兵器たち。
  それはあるいは彼女に操られている人間や死体たち。
  それはあるいは彼女の呼び出したハートの兵隊たち。
  そして、どこからか出てきた、ジェノサイドと同じ空気を纏った山高帽の巨漢。
  銃器と刃物と暴力の入り乱れた、まさに怪物同士の殺し合い。
  フィクションを超えた惨い光景に声すら出ない。ただ、口元を押さえた袖の冷たさだけが唇から熱を奪っていった。

「どうしたの? 楽しくないの?」

  ガラス越しのアリスの問いは、実際よりも曇って聞こえる。

「……これが、楽しいの?」

  冷たい口先からようやく出せた問い。その問いは、紛れもなく心からの言葉だった。
  少なくとも、小梅にとって目の前に広がる光景はオトモダチや遊びより地獄と呼んだほうが相応しい。

「……こ、これが……アリスちゃんの、オトモダチ、なの?」
「そうだよ。なにかおかしい?」
「……こんなの、可哀想だよ」

  口から出てきた可哀想という言葉が、小梅自身、不思議だった。
  自分の命を狙ってきている相手、その配下。恐ろしい者たち。普通ならば避けて通るべき怪異の数々。
  でも、その言葉が口から出たあとで、まるで氷が水に溶けていくように、するすると、心の中に溶けて小梅の内側を満たしていった。
  自身の命に影を落とす恐怖心すら押しのけて、彼女の心にどっかりと腰を下ろす『それ』はなんと呼ぶべきか。
  『慈悲』と呼ぶとあまりに押し付けがましいし、『憐憫』と呼ぶと語弊がある。
  きっと未だ花開いていないとしても、『友情』と呼ぶのが相応しいものだろう。
  白坂小梅は今もまだ、彼らを『友達』として見ていたのだ。今までがそうであったように、だ。そしてきっと、これからもそうであるようにだ。
  だから、彼らがただ傷ついていくのを見ていられず、アリスに対して声を上げた。それが本当に正しいのかと。

「可哀想って、どういうこと? こんなに楽しいのに」

  アリスの口から飛び出すのは、またしても『楽しい』という言葉だ。
  温もりを奪い、声を奪い、心を奪い、そうして出来上がったものが『オトモダチ』で。
  死ぬために(既に死者であるものも含まれているのに死ぬという表現は少しおかしいかもしれないが)ジェノサイドの元へ向かわせられ。
  勝ち目のないガラスのケースに体当たりを繰り返しぼろぼろに崩れていく。
  それが『楽しいこと』だなんてこれっぽっちも思えなかったし、それが友情の形である、なんて、小梅にはどうしても信じられない。

  たくさんの『みんなだって見える友達』と。そしてたくさんの『みんなには見えない友達』と。
  小梅は今まで、いろんな友達と一緒に過ごしてきた。
  その友達のせいで不利益を被ったことだって一度や二度ではないけれど、それでも皆、大切な友達だった。
  等しく息災であってほしいと思っていたし、幸せであってほしいと思っているし、それが当然だと信じてきた。
  アリスの言うオトモダチは、小梅の知っているそれととても近く、そしてどこまでも遠い場所にあった。
  小梅は、目の前でがつんがつんと体をぶつけ続けているゾンビを見過ごすことは出来ない。
  できることなら止めてあげたいし、どうしてそんなことをするかを聞きたい。
  でも、アリスはそれをしない。それどころか、『オトモダチ』をジェノサイドに差し向け、駒のように使い捨てている。
  それは、小梅からすれば自分の身を裂くのと同じくらいに辛いことだった。

「だってそうでしょう。オトモダチって、一緒に遊ぶモノでしょう」
「……ううん。違うよ」
「……違うの?」

  へそを濡らす水の冷たさに負けずに前を向く。
  ガラスを隔てた向こう側にいるのは、世にも恐ろしい化物たちを率いる女王様。
  それでも、小梅は彼女と向き合い、会話に挑む。
  それはきっと、ゾンビの身を労ったのと同じ理由からだ。

――

  白坂小梅はそもそも食い違った性質を持つ少女であった。
  死者や幽霊を友人と呼び彼ら彼女らを含めて友人を大切にする白坂小梅と、死者や幽霊によって引き起こされる惨劇(映画の中の、だが)を楽しむ白坂小梅が混同している。
  だが、存外おかしなことではない。誰かが教えるまでもなく『現実(リアル)』と『虚構(フィクション)』は別物なのだから。
  スクリーンの向こう側の怪異と、スクリーンの手前側の怪異は彼女にとって全くの別物だ。
  この聖杯戦争でも、そんな今までと同じように、白坂小梅は無意識に自身の前に現れたサーヴァントを二つに分類している。
  スプラッタ映画的な倒すべき『怪物』と日常的に生活をともにしてきた守るべき『友人』に。究極的に突き詰めるならば『敵』と『味方』にだ。
  これを無意識に切り離すことで、『怪物』であり『友人』であるものによく似た存在……サーヴァントたちとの対応で今までロジックエラーを起こすことなく聖杯戦争に順応していた。

  ジェノサイドは『友人』だ。いつでも側に居てくれて、小梅のことを守ってくれる。他人にも見えるけれど、他人には見えない、とても不思議な友達だ。
  彼と歩く道はどこだって少し輝いて見えたし、ぶっきらぼうだけど優しいところや、何よりもまず小梅のためにと手を差し伸べてくれる。かけがえのない友人だ。
  チェーンソー男は『怪物』だ。その分類を疑うことはない。あれだけ『らしい』格好で『らしい』行動なのだから。
  だから彼女はジェノサイドがチェーンソー男を撃退することを止めなかったし、倒すべきであり、可能ならばジェノサイドのゼツメツソウルの糧にすべきかとも思ったほど。
  これがおそらく、絵理から聞いていた『火吹き男』だったとしても、初見でならば同じ判断を下したことだろう。
  森の音楽家クラムベリーは結局『怪物』寄りであると認識を改めた。
  以後、会うことがあってもジェノサイドの忠告に従い彼女を危険な『怪物』であるという警戒を怠ることはない。

  ならば、アリスや彼女のオトモダチはどうか。小梅にとってそれらは現在、純然たる『怪物』であった。
  だが、同時に彼女を『友人』と認識できるのではないかと期待する心もまた、存在していたのだ。
  小梅にとってアリスとの出会い頭のあの肩の力が抜けるようなやりとりは本物であったし、あれが油断させるための演技ではないということは肌で感じた空気で理解できた。
  また、アリス自身が友達に固執していることも、小梅が彼女を完全なる『怪物』であると断言できない一端であった。
  彼女の言うオトモダチにしても、アリスの指揮で凶行を繰り返しているだけにすぎない。
  アリスを止めることができれば、彼らもまたいつものように『友人』になれるはず。
  アリスたちは今、白坂小梅の心の中の『友人』と『怪物』の境界線に立っている。

  戦闘慣れしている参加者ならば襲撃を受けた時点でアリスを『敵』であると割り切ることができただろう。
  だが、小梅はただの中学生であり、思いやりの心を持つ少女で。なにより彼女は今まで多くの『友人』を作りすぎた。
  相手が怪物ならばなんとかして倒すしかない。小梅もそれはわかっている。
  だが相手が『友人』に分類できる側で、友達になれるのだとすれば。

  きっとそれは願いだ。他ならぬ、この聖杯戦争に挑むマスター・白坂小梅の純粋な願いだ。
  『怪物』か『友人』かの境界線に立っているならば、『友人』であって欲しいという、美しく眩しい、ガラスのような願い。
  でも、同時に微かな希望も、きっと混じっていた。
  『友人』であってくれれば、『友人』になれたならば、目の前の『怪物』が霧散してくれるという、淡く儚い、泡沫のような希望。

  だから白坂小梅は、襲われ、囲われ、命を握られてもなお手を差し伸べることを選んだ。
  襲われながらも、それでもなお、アリスの奥底にあるはずの善性を信じることを選んだ。

  いつの時代だって、きっとそう。少女は、夢見るように友を信じる。


―――


「じゃあ、コウメちゃんの言うオトモダチってなに?」

  今度はアリスからの問いかけ。同時に、水の勢いがぐんと弱まった。
  アリスは不思議そうな顔で、ガラスを覗き込んでいる。

「と、友達はね……きっと、もっと……もっと、暖かくて、優しいものだよ」
「アタタカ? ヤサシイ? なにそれ」
「……えっとね……友達には、アリスちゃん一人じゃ、なれないよね……?
 二人で居て、初めて、友達になれるの……だから、押し付けたり、強制したり、アリスちゃんのことばっかりじゃ、きっと……ううん、駄目なんだと思う……
 皆で楽しかったり、皆で嬉しかったり……それが、友達なんじゃないかな」

  どんな言葉を選べばいいかわからずに、つっかえながらも思いを口にする。
  輿水幸子も。星輝子も。諸星きらりも。ジェノサイドも。
  これまでに仲良くなってきた『みんなに見えている友達』も『みんなには見えない友達』たちも。
  言葉を交わし。笑顔を向けることが出来。一緒に色んな所に行って、色んな事をやってきて。
  すべてが、小梅の体に、優しさと、暖かさをくれた。皆皆、大切な友達だった。
  たくさんの彼らや彼女らのお陰で、小梅はここまで幸せに生きてこられた。
  素敵な関係。素敵な時間。あの暖かさを、アリスにも知ってほしかった。
  友情の形を決めつけるなんて押し付けがましい話かもしれないが、それでも小梅はアリスのことを案じていた。
  友達を求めながらも作り上げていくのは魂を握りつぶしたお人形ばかりでは、いつまでたってもアリスの本当の望みは叶わないから。
  アリスにとっても、オトモダチにとっても、それがきっと、救いになると信じて。

「それがコウメちゃんのオトモダチ?」
「……うん……わ、私は、そう思うの……変、かな?」
「ふーん」

  無力な小梅に、戦争を止める力はない。
  非力な小梅に、運命の濁流に棹を刺す力はない。
  それでも、そんな小梅に、今出来ることがあるとするなら。変えられるものがあるとするなら。
  今までがそうであったように、これからもきっとそうであるように。
  今まで小梅が出会ってきた幽霊たちと同じように、アリスと、本当の意味で友達になることくらいしか思いつかなかった。

  『怪物』に立ち向かうことは出来なくても、思いを伝えることは出来る。
  会話を通じて、仲間になることは出来る。それが例え、どんな悪魔だったとしても、きっと。
  だから小梅はせめて思いを伝える。それが、白坂小梅の精一杯の戦いだ。

「……ねえ、アリスちゃん」

  きっと、大丈夫だから。
  小梅なら、きっとアリスのいい友達になれるから。
  アリスだって、アリスのオトモダチと、きっともう一度やりなおせるから。

「もしよかったら―――」

  もしよかったら私とそんな友達になってみようよ、と。
  続けるはずだった言葉は続けられなかった。
  小梅の言葉は届いていない。すんなりとそう理解できたからだ。
  アリスは、まるで水槽の中の珍しいトカゲでも見るみたいに、変わらず不思議そうな顔でガラス越しに小梅を見つめていた。

◆◆◆◆◆◆◆


『いつもそうだよなァー、お前はよォー、ジェエエノサイード』

  問いかけと鉛玉が飛ぶ。避けても、避けても、マムシのように追ってくる。
  寄れば拳と蹴りの応酬、離れればバズソーとショットガンでの削りあい。
  実力伯仲。出口をその視界に捉えながらも、ジェノサイドは立ちはだかる敵に手を焼いていた。

『ナメてんのも調子のってんのもなァー、お前だぜェー、ジェーノサイードォー』

  ショットガンが吐き出した弾の幾つかがバズソーを跳ね飛ばし、ついでとばかりにばらまかれた弾の残りがジェノサイドの体を掠める。
  ジェノサイドは片手で器用に受け身を取り、体勢を立て直してまた跳び退りながらバズソーを投げつけた。
  何枚もの鏡が切り裂かれ、無数のジェノサイドが破壊され、無数の■■■■■■が破壊される。
  砕かれた破片もまたショットガンの銃弾で砕け散り、まるで季節外れの雪のようにきらきらと、ならず者二人の世界にぶちまけられる。

『小娘一人ロクに守れねえ奴がよォー、カッコつけて、しゃしゃり出て、何様のつもりだァー……?』

  風切り音一つ。
  ぶちまけられた破片の向こうから飛び出してきたのは鎖鎌の分銅だった。
  ■■■■■■によって放り投げられた分銅は、寸分違わずジェノサイドの左目に突き刺さる。
  腐りきった黄色い眼球と、変色した体液がこぼれ落ちる。

『寝ぼけてンならそのまま寝とけェー……きっちり殺してやるからよォー』

  両者の動きが止まり、最早ジェノサイドもここまでかと思われたその時だった。
  ジェノサイドの無事な片目がぎょろりと■■■■■■を睨みつけ、分銅と■■■■■■とを繋いでいる鎖を大きな手が握りしめる。
  眼孔から腐った体液がふたたびどぼりとこぼれ落ちた。

「黙って聞いてりゃあ付け上がりやがってよォ……」

  自身の負傷など知った事かと鎖を力強く引き、更に眼孔から体液が吹き出す。
  ゾンビーの膂力で■■■■■■の体が引き寄せられる。
  いや、引き寄せる力に合わせて大きく飛び込んで来ている。接近戦も望むところというわけだ。
  拳同士がまずぶつかり、■■■■■■の体が威力に負けて宙に浮き上がる。
  ■■■■■■の懐から抜かれたショットガンが再び銃弾をばら撒き、ジェノサイドの体に無数のただごとではない穴を穿った。
  だが、ジェノサイドもまたただでは退かない。投げたままだったバズソーを回し、波打つ鎖で■■■■■■の体を叩き落とす。
  落ちてきた■■■■■■の顔面を掴み、渾身の力を込めて■■■■■■の頭を鏡に叩きつける。

「能書き垂れてェなら鏡に向かってやりやがれ!!」

  追撃のネクロ・カラテの拳。宙に残されていた山高帽が吹き飛ぶほどの衝撃。
  周囲の鏡は粉々に砕け散ったが■■■■■■の枯れ木めいた顔面は崩れない。気色の悪い笑みを浮かべたままだ。

『ジェエエエエエエエエエエノ、サイイイイイイドオオオオオオオ!!!』
「そうだ、俺は!!」

  ジェノサイドの喉笛には鎌が刺さり、■■■■■■の顔面には戻されたバズソーが突き刺さる。
  どちらも致命傷。しかし不死のソンビー同士、戦意は未だ衰えない。
  だが、そこで唐突に決着の時は来た。

「……あァ……?」

  本当に唐突に。
  ぼろぼろと、野に放られたミイラがそうなるように■■■■■■は消えてしまった。
  何らかの罠を警戒し、ジェノサイドは身構えたままあたりを見回すが、本当にそれっきり、鏡の館の中から物音は消えてしまった。

「何だってンだよ、一体……」

  ジェノサイドのぼやくような独り言と喉の傷口から溢れる息の音が、割れた鏡の散らばる世界に反響する。

  ジェノサイドは、決して■■■■■■の撃退に成功したわけではない。
  アリスのミラーハウスは閉じ込めた人物の『姿』ではなく『心』を映し、そこから鏡像を生み出す特殊な陣地だ。
  それに従い、ジェノサイドの心を映して呼び出されたのが『魂』の片割れとも呼ぶべきその存在である■■■■■■だった。
  本来ならばその鏡像はジェノサイド自身が心と向き合い自身の心に打ち勝たねば消えるはずのない存在。
  だが、そうはならなかった。
  それはジェノサイドがジェノサイドであるがゆえの、当然のイレギュラーだった。

  ジェノサイドは戦えば戦うだけ魔力を失い、戦えば戦うだけ腐敗が進む。
  負傷をすればするだけ、バズソーを回せば回すだけ、ジェノサイドのニューロンは熱によって熟れていき、次第に腐り落ちていく。
  一つ、また一つといつかの記憶を失いながら、ジェノサイドは戦いを続ける。
  そうして、ジェノサイドのニューロンからついに■■■■■■のことすらも抜け落ちてしまったというだけだ。
  最早、聖杯戦争に至るまでの過去のことはほとんど手放してしまったと言っても過言ではない。
  必然、心のない者に、映せる鏡像はありはしない。

  結果を見れば、この程度の怪我で因縁の相手を切り抜けたジェノサイドは僥倖と言えるかもしれない。
  だが、聖杯戦争に至るまでのすべての過去を焼き尽くしてしまったという事実は最早逃れられぬゾンビーの『最期』を色濃く現していた。

  苛立ちを込めた拳が乱戦の中最後まで無事だった奇跡的鏡を叩き割る。
  ミラーハウスの出口へと続く廊下は最早枠組みを残すのみ。
  夢の残骸のようなその場所を、ジェノサイドは歩きだした。
  パニック映画のズンビーのように、ただ、出口の向こうで待つ目標……小梅を目指して。

◇◇◇

「ああ、そっかぁ」

  不穏な沈黙。小梅の口にしようとしていたなにかはすべて、アリスの瞳の深い赤に飲み込まれてしまった。
  少し見つめ合ったあと、アリスは、ようやく納得がいったという風に頷いた。

「シラサカコウメちゃんはまだ知らないものね。私のオトモダチの素敵さを」

  差し伸べようとした手は、無垢な笑顔で弾かれた。
  小梅には知る由もない話だが、アリスは立派な狂人だ。それも生半可な狂い方ではない。数世紀、幾つもの平行世界で煮詰まってきた狂気の塊だ。
  小梅がどう思っていようと、どう意見しようと、それは決してアリスの価値観に対して楔を打てるようなものではない。
  江ノ島盾子のように新しい価値観を目の前に出すだけならばまだしも、既存の価値観の否定は彼女にとって全く意味をなさない。

  アリスの狂気を知らない小梅には、当然、交渉決裂の原因は分からない。
  だが拒絶よりも強く根深い『無関心』が、壁なんて比喩では表せないほど分厚く大きな心の隔たりとして存在しているのはわかった。
  そういう友達もあるのかと理解を示すでもなく、そんなのは友達じゃないと否定されるわけでもない。それはそれ、これはこれと言わんばかりに小梅の価値観を横におかれた。
  その結末に心が追いつかず言葉に詰まり、詰まった分だけ導火線は燃えていく。

「大丈夫、アナタにもきっと分かるわ。これがとっても楽しいことなんだって。オトモダチになってくれればね!」

  声と同時にアリスが天を指す。すると注ぎ込まれる水の勢いがぐんと増した。二倍、三倍、まだ速い。
  ぐんぐんと水位は上がっていき、ついに小梅の顎を、口を濡らす高さまで来た。
  小梅が言葉を継ごうとしても、もうすべてが遅かった。
  口から飛び出す幾つもの泡は、小梅の命の欠片たち。がぼがぼ吐いて、慌てて口を閉じる。

  脳に巡る酸素が足りなくなり、体が新鮮な空気を求めてえずくように跳ね出す。
  冷たい水の中で、走馬灯のように、これまでのすべてが思い出されていく。
  思い出されるのは、素敵なことばかりではない。無念も、心残りも、山ほどあった。  
  ガラスの向こうでアリスは新たなオトモダチを歓迎するように楽しげに踊っていた。
  ゾンビが一体、再びガツンガツンとガラスの檻に体をぶつけ続けていた。
  何一つ変わらなかった……変えられなかった光景の中で、白坂小梅は沈んでいく。
  精一杯の抵抗にもついに限界が訪れて、口からなけなしの空気を吐き出してしまう。
  小梅の口から生まれた泡は、言葉になることもなく、どこかに消えてしまった。

「ゼツ!!!!」

  でも、そんな死の淵で。
  渦巻く水の中でくぐもって聞こえたその声が、小梅に希望の火を灯す。

「メツ!!!」

  ギャギャギャギャギャ。
  銀色の閃光が走り、ガラスのスノードームに突き刺さりバズソー二枚分の傷口を刻み込む。
  人一人を漬け込める程の量の水圧を受けた傷口は大きな音を立てて割れ、ガラスの破片を飛び散らせながら内側に溜めていた水をすべて吐き出した。  

「イヤ―――――――――ッ!!!!」

  聞き慣れた声と、見慣れた影。
  小梅の直ぐ側に居て指示を出していたアリスに丸太のように巨大な腕が突き刺さる。
  腕はそのままぶんと振り抜かれ、アリスは流れ星みたいな速さで空の向こうに消えていった。
  殺戮者のエントリーだ!

「動くなよ、嬢」

  割れたドームが崩れ落ちて傾くより早く、砂時計は軽々と放り捨てられた。
  一気に周囲に戻ってきた空気にげほごほと咳き込みながら、バランスを崩してその体に抱きつく。
  そっと回された腕は、大きくて、強くて、優しかった。

「あ、ありがとう……バーサーカーさん……」
「……帰るぞ。時間がねェ」

  二人の間でじわりと伝わる冷たい感触は、決して小梅に滴る水だけではない。
  小梅も途中までではあるがジェノサイドの戦闘の様子を見ていたので理解している。
  負傷が酷い。全身を覆い隠すカソックコートは至る所穴だらけで、右目は既に喪失している。
  小梅がアリスと話している間も、相当酷い目にあっていたらしい。
  こんなになってまで助けに来てくれたという事実が心の底から申し訳なくて、そして不謹慎ながら同じだけ嬉しかった。
  ジェノサイドの強い力に引かれ、走り出そうとするも、目の前に広がる光景が二人の動きを押しとどめた。
  目の前に広がるのは、人、人、人。人の壁。

「凄い凄い、あのお化け屋敷を抜けてきちゃうなんて」

  ガラスの檻を破壊して、お化け屋敷をぶち壊し、『お化け屋敷ごっこ』に勝利して、それでも、陽気な声は途切れない。
  揃って見上げた空の上には、可愛らしいブリキの馬に乗った少女が一人。
  金色の髪、血の色をした瞳。青いワンピースをはためかせ、口元には変わらず、楽しげな笑み。

「はい、じゃあご褒美」

  きっとアリスという少女は、根っこからのいじめっ子なのだ。
  相手が喜んだ瞬間に、相手の目の前から勝利をかっさらってけらけら笑うのが大好き、そんな少女なのだろう。
  小梅とジェノサイドの目の前に一瞬現れた光明は、すぐにアリスのはなった絶望の闇によって塗りつぶされた。
  『ご褒美』という言葉と一緒にアリス配下のゾンビが一体放り投げられる。

「嬢!」

  小梅の体がふわりと浮いて、ぐっと引き寄せられた。
  濡れた髪から跳ねた水滴が止まって見えるようなコマ送りの世界の中で、小梅は見た。
  自分を庇うように前に出たジェノサイド。遠くの空でブリキの馬に乗り、満面の笑みで手を振っているアリス。
  ゾンビの上半身がジェノサイドに抱きつき。

    『死なばもろとも』

  腐肉が飛び散り、祝砲代わりに血煙が上がった。

◇◇◇

  投げられた『オトモダチ』が実は人の形をした爆弾だったのか。
  それとも、『オトモダチ』を爆弾にする力を持っていたのか。
  小梅にそんなことが分かるわけがない。
  それでも、その爆発が強力無比なものだったというのは、ジェノサイド越しに体に伝わった衝撃で理解できた。
  体を起こしてジェノサイドの姿を探す。
  探すまでもなくジェノサイドは小梅の前で、まるで城塞を守る門番のように小梅と空の向こうのアリスとの間に立ちはだかっていた。
  体からは未だ、正体不明の緑色の煙が吹き上がっている。  

「さあ、皆!」

  アリスの一声に従い、足並みをそろえて大群がやってくる。
  人の壁の正体は、小梅が救いたいと願ったアリスの『オトモダチ』たち。
  ホラーハウス建設以後、大多数が姿を隠していたトランプ兵や洗脳NPCや屍鬼(ゾンビー)たちが、小梅とジェノサイドを二重三重に輪を作って取り囲んでいた。

「勝ったお兄ちゃんとシラサカコウメちゃんに盛大な拍手を!」

  トランプ兵が、やおらに戦斧を、突撃槍を、長剣を振り上げ、屍鬼に突き刺す。
  これから起こることは容易に想像がついた。嫌な予感に動かされるようにジェノサイドにすがりつく。
  ジェノサイドはくすぶり続ける体を無理やり動かすみたいにバズソーに手を伸ばした。
  幾つもの武器が、幾つものゾンビを切り捨てる。いくつものゾンビがいくつもの爆弾へと生まれ変わっていく。

「とっても楽しかったわ! 今度はオトモダチになってから、もっといっぱい遊びましょ!」

  満面の笑みに、飛び交う死体。

「……嬢、離れるなよ」

  再び引き寄せられる体。その力はとても強くて、とても頼もしくて。
  そして、そんな力でもどうしようもない『怪物』の脅威を、否応なく小梅に理解させた。


  『死なばもろとも』『死なばもろとも』『死なばもろとも』『死なばもろとも』
  『死なばもろとも』『死なばもろとも』『死なばもろとも』『死なばもろとも』
  『死なばもろとも』『死なばもろとも』『死なばもろとも』『死なばもろとも』
  『死なばもろとも』『死なばもろとも』『死なばもろとも』『死なばもろとも』
  『死なばもろとも』『死なばもろとも』『死なばもろとも』『死なばもろとも』


  爆音に次ぐ爆音。
  衝撃に次ぐ衝撃。
  屍肉と腐肉が混ざって飛び散り、周囲に酷い臭いを広げた。


◇◇◇


  その場に残ったのが消し炭だけではなかったのは、ジェノサイドの頑強さ故だろう。
  だが、頑強さだけではどうにもならないものは存在する。
  数十発にも及ぶ人間大のMAGの爆弾はその『どうにもならないもの』を武器とし、不死のズンビーの存在を蝕んだ。

「あ、ありがと……う……」

  ジェノサイドの大きな体は、小梅をすっぽり包み込んで、すべての衝撃から守ってくれた。
  爆発の余波で多少の痛みや耳鳴りはあるが、小梅はほとんど健康そのものだ。
  ジェノサイドが答えてくれることを祈りながら、感謝の言葉を口にする。
  だが、ジェノサイドは小梅を抱きかかえた姿のまま動かない。

「バーサーカー……さん?」

  そのままゆっくりと、小梅を抱いたまま後ろに倒れてしまった。
  まるで糸の切れたマリオネットだ。
  電源が落ちたように瞳の光も落ちてしまっている。

「……AAAAAAAAAARRRRRRRGH……」

  ため息のように吐き出されたその声に、さっと血の気が引く。
  丁度、アリスとの『追いかけっこ』の時に出た症状によく似ている。
  今のジェノサイドは普通ではない。直感的にそう理解した。
  だが、そんなジェノサイドに小梅が出来ることはあまりにも少なく。
  そして、小梅が何かをすることを許してくれるほど、アリスの気は長くない。

「そうそう、忘れてた。二人の勝ちなんだから二人分のご褒美が必要よね」

  『二人の勝ち』。用意される祝砲は当然二人分。
  ゆっくりと、周囲を見渡す。構えられているのは先程と同じく体を斬られたゾンビの山、これからの地獄がありありと想像できた。
  狂乱したような少女の笑い声とともに複数の死体が空を舞う。
  その速さは、小梅がジェノサイドを引っ張って逃げるのなんて、到底待ってくれない。

  絶対的と思われた水死を切り抜け、一度は見えたと思えた活路のその先に広がっていた更に絶望的な死の未来。
  最早、抗う気力すら奪われていた。
  結局、小梅は、最初から最後まで何もできなかった。
  アリスの狂気に勝つことはできなかった。アリスのオトモダチを救うこともできなかった。
  ジェノサイドに守られ続け彼を助けることも出来ず。幸子輝子との約束も守れない。

  ずぶ濡れの冷たい体と、死人特有の冷たい体。触れ合っているはずなのに熱はすっぽり抜け落ちて、まるでもう死ぬ準備が出来ているみたいだった。
  そんな生きているか死んでいるか分からない、曖昧な世界で。
  小梅は、最後に三つ、願いを口にした。
  ゆっくり、倒れたジェノサイドの体に腕を回して。
  小梅の小さな体では抱きしめ返すことすらできない、大きくて、頼もしくて、力強くて、そして、もうなにも残っていない体に向けて。
  なにも残っていない自分たちに、なにかを残すために。
  ほんのちっぽけで。とっても大切で。いつかまた叶ってほしい願いを、ひとつだけ。
  小さな声は爆音に阻まれ、二人の間だけで消えていった。



タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2017年11月01日 09:57