命の狭間に

―――――其処は人の世が示す”概念”など、存在せぬ場所だった。
名前も、身体も、時間も、世の風景も、異なる意思を持ち息づくことすらも許されぬ――そんな世界。

すべては我が母たる善神の示すままに。

――――地の者を神のお示しへ導く為に生まれた”僕”という存在は、その生涯を世界樹の上、
即ち天で全うする筈だった。
今となってはそれも、「本来の天使族ならば」と付け加えねばならないのだけれど。

――嗚呼、これではまるで僕が贋作のような物言いになってしまうが、安心して聞いてほしい。
僕も彼らと何ら変わりのない、天使の一員だった。
唯、少し道を間違えてはいるようだけれど。
不思議と後悔はしていないのだ。

――僕らに《飽きる》だなんて贅沢な感情は与えられていなかった。
地に堕ちる直前まで、僕は果てしなく広がる青空をゆりかごとして頼り、地に住む彼らへ、
我が主の言葉を届けていたのだ。
そう、どうしてかうっかり雲の下へ足を着ける時まで。

強い衝撃と共に堕ちた先は薄暗い、緑の地底。
鈍く痛む身体をゆっくりと起こしてあたりを見回した”それ”は、
漸く地に生きる個体の存在に気が付いた。
地に広がる金の糸。柔く、すらりと伸びた手足。見えぬ己の顔。
如何にして僕は、個体としての身を手に入れたらしかった。

――はて、そうこう思考を巡らす間に、見知らぬ老人が此方に向かって片手を
差し出している。…どうやら彼は、僕が慌てふためいている隙に此方の存在を認識していた様だった。
―――「エルクリア

人の声を直に聴いたのはこの瞬間が初めてだった。
彼は確かに、しゃがれた声で「僕」をそう呼んだ。
彼が、僕に個体としての名前を与えてくれたんだ。
…其れが、どんなに”嬉しかった”ことか。当時の僕には気持ちを表すべく知識が足りなかったけれど、
今思うにきっとそうなのだ。
名を呼び、人の身の温かさを教えてくれた彼との時間は、数える暇も無い程にあっという間で。
ふと、気が付いた時には彼の姿は視界には映らなかった。

神はきっと、地に堕ちた私に罰をお与えになったのだろう。
悲しみ慈しむ時間など当然与えられはせず、命の生き死には私の眼前で目まぐるしく繰り返されていく。
……それは彼らに出逢う時も、後の遠い未来までも。

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最終更新:2018年08月21日 14:52