吸血姫は灰色の館で夢を見る

 私は両親をよく覚えていない。
 唯一記憶に残っているのは、母に抱きしめられた時の温かさだ。

「ミシェル、何でこうすると温かいか分かるかい?」

「それは、私たちの身体に血が流れているからなんだよ」

 優しく微笑む母の温もりに、私はいつまでもその身を埋めていた。
 それは本当に幸せな時間だった。

 しかし、その温もりは、突如として失われた。
 鮮明に残っているのは、生温い血の感触。

 それは私がまだ生まれて数年の頃。
 朝焼けとともにその男はやってきた。

 脳の奥に焼き付いているのは私を庇うように折り重なる両親の身体の重み。
 ぬるりとした血の感触。
 そして、血に濡れて鈍く輝く剣。

 その男はヴァンパイアハンターだった。
 しかしその時、幼い私に情が移ってしまったのが彼の唯一の失敗だった。

 私はヴァンパイアハンターの男に育てられた。
 彼が両親の敵だということは分かっていたが、それでも私は生きるためにその男に着いていった。
 そして彼もまた、ほんの気まぐれから拾ってしまった私を捨てられずにいた。


 それから10年ほど経った頃だっただろうか。
 男はヴァンパイアハンターとしてはピークを過ぎ、あまり仕事を引き受けなくなっていた。
 そして私はすっかりその男の家に住み、共に過ごすことに慣れてしまっていた。

 ——だからかもしれない。
 私は生まれて初めてある”衝動”を感じていた。

「——血が、欲しい」

 私は男が久方ぶりの仕事から帰ってきた時を狙って、背後から忍び寄った。
 仕事明けにいつも飲んでいる、取っておきの茶葉で淹れた紅茶を飲む男の首筋に、尖った犬歯を突き立てた。
 刹那、

 身体中に広がる甘美な感覚。
 そして、ぬるりとした感触。

 相反する2つの感覚が瞬時に身体中を駆け回り、私はむせ返って吸った血を吐き出した。
 紅茶のカップが割れる音がする。
 その音で理性を取り戻した頭が罪の意識を掻き立てる。

「なんで私…こんなこと」

 混乱と罪の意識で頭が真っ白になる。
 そして顔を上げると、そこにはあの日の剣を持った男が立っていた。

「ああ、やっぱりあの時殺しておくべきだったんだ。君はあの日からずっと変わらない姿で私を苛む。私の咎を喚き立てる。君はやっぱり……吸血鬼、忌むべき敵だ」

 そう言うと男は一直線に私に襲いかかってきた。
 その目からは理性は感じられなかった。

「嫌あああ!来ないでええ!!」

 私は理解が追いつかないままに叫んでいた。
 無意識に心臓を庇った腕が切り裂かれる。
 そして噴き出した血液は、私の殺意に従うように男の身体を引き裂いた。

 目が覚めた時、私の腕の傷はもう塞がっていて、目の前では10年間私を育ててくれた男が物言わぬ死体となって転がっていた。

 私は生まれて初めて強く実感せざるを得なかった。
 私は吸血鬼なんだ、と。


 それからどれ程の月日を独りで過ごしていただろうか。
 私は迫害と移住を繰り返しながら生きていた。

 そんな生活の中で当てもなく彷徨っていたある日、私はその青年に出会った。

「その透き通るような肌、艶やかな髪。君は正しくお姫様だな」

 町から遠く離れた場所にぽつんと佇む廃墟と化した洋館。
 しばらくそこに住み着こうと思い中に入ると、そこには既に持ち主がいた。

「そうか、君は吸血鬼なのか。ならばさしずめ”吸血姫”といったとことかな」

 彼は人間だったが、その顔は火傷で醜く爛れていた。
 私はその形相に最初恐怖を感じたが、少し話すとすぐに彼が優しい人であると悟った。
 彼はその形相から人外と思われ迫害されてきたのだという。
 私はそんな彼にシンパシーを感じてしまった。

 お互いの傷を舐め合うような日々が始まった。
 お互いの醜さを隠すように、私達は依存しあった。
 私はその温もりに埋もれて、またしても忘れてしまっていたのだ。


 どれぐらいの月日が経っただろうか。
 彼は確実に老いを迎えていた。
 その反面、私の姿はまだ少女のままであった。

「ああ、君はいつまでも美しいのに、私はどんどん醜くなってしまう」

 彼は次第に狂気に取り憑かれていった。
 私はそれを知りながらも、止めることが出来ないでいた。

 そしてある夜、
 私が買い出しから帰ってくると、そこには首を吊って死んだ彼の姿があった。

 一瞬視界が真っ赤に染まった。
 そこにはもう一片の温もりも残ってはいなかった。

 私は嫌に冷静だった。
 心のどこかでこうなることを予想していたからかもしれない。
 私は洋館の裏手に彼の遺体を埋めた。

 そして、何度も死のうとした。
 しかし私の吸血鬼としての本能と強い生命力はそれを許してはくれなかった。

 自らをナイフで刺し殺そうともした。
 しかし、自分の身体から流れる血を見た瞬間に、私はあの感触を思い出して竦み上がり、絶叫してのたうち回った。
 そして我に返った頃には刺し傷はとうに塞がっていた。

 本当はやりようはあったはずなのだ。
 さりとて本当に自らの命を絶つほどの勇気も無かった私は、せめてこのままここで孤独に死んでいこうと決心した。


 それからまた幾ばくかの月日が流れた。
 私はいつも悪夢に苛まれてきた。

「ああ、ミシェル。愛しい我が子。立派に育っておくれ」

「君を育てることは私にとっても安らぎなんだ。気にすることはないさ」

「ああ、君は今日も美しいね。いつまでも一緒にいよう」

 それは幸せだった頃の記憶。
 時間がそれを奪い去っていく前の記憶。
 決して戻れない遠い過去の記憶。

「……寂しいよ」

 もう人の温もりは捨て去ったはずなのに。
 もう二度と求めないと誓ったのに。

 それでも私は心の奥底ではまたその温もりに顔を埋めることを望んでいるのだった。


 それは今から数年前のこと。

「なんだ嬢ちゃん。こんなところで」

 その男は突然私の前に現れた。

「そうか、嬢ちゃん吸血鬼なのか。なら尚更、一緒に来ないか?俺はまだ知らな過ぎる。この世界のことも、あんたたちのことも」

「別にあんたの過去を詮索するつもりはないよ。話したくなったら話せば良い。それまで気長に待つさ」

「俺はファルシオン。あんたは?」

 その男、ファルシオン=コーネットは、私を薄暗い洋館から連れ出した。
 ファルは私の過去には殊更触れようとはしなかった。
 私もファルの素性はほとんど知らないままに旅をした。
 旅を続けるうちに、段々と彼が元は名のある家の人間であり、それを利用して各地で研究をしていることが察せられた。
 そうして続ける旅路は、不思議と心地良いものだった。

「そうだ、ギルドを作ろう」

 正直彼がそう口走った時は気が触れたのかと思った。
 言われるままに空き家になっていた工房を改装し、様々な設備を取り付けている最中、ファルは楽しそうにしていながらも、どこか思いつめたような表情をしていた。
 その後、ファルから接客のやり方などを教わり、ギルドリレイターは始動した。

 ファルはどういう訳か各地のお酒や料理に詳しく、料理も上手いので、私は今ファルから料理を教わっているところだ。
 そんな日常のふとしたところから、ファルが私と違って放浪しながら行く先々で色々な知識や技術を吸収していっていることを感じている。

 そんなある日のことだ。
 その少女が私の前に現れたのは。

「…ギルド。ギルドなんだろ、ここ」

 孤独な目をした少女だった。
 ギルドを立ち上げてから初めての新しい仲間であり、私にとっては初めての同性で仲良くなれるかもしれない相手だった。

 だから少し浮かれていた。
 120年生きてきて初めての、少なくとも見た目の上では自分とあまり変わらない女の子の友達。
 そう思って舞い上がっていた私は、またも忘れてしまっていたのだ。

「はぁ…ほんと嫌だ…なんで察せねぇの…俺は1人のが好きなんだよ」

「ずーっと独りでいるのは、寂しいです。だから、私はレイルさんと一緒にいたい。これは私の我が儘です」

 私はそのまま我が儘な子でいれば良かった。
 そうすれば私はあの子と上辺だけでも友達になれたかもしれないのに。
 私はその瞬間に思い出してしまった。
 幸せは時間が奪い去っていくということを。

「…ごめんなさい。私、レイルさんのこと何も考えないで」

 急に涙が溢れ出て止まらなかった。
 そして私は、吐露してしまった。
 今まで誰にも打ち明けたことのない寂しさを。

 ——ずっと孤独の中で生きてきた少女に向かって。

「…みんな居なくなってしまって寂しいですってか?…知るかよ、命があったらいずれ死ぬじゃん。それが嫌なら付き合わなきゃいい。俺だって遅かれ早かれ死ぬしなぁ?…てめぇの都合にわざわざあわせねぇよ…泣くほどの事かよ、そういう態度、ムカつくんだよ…」

 それが否定されるのは当然のことだった。

「でも、だからって誰にも心を許さずに独りで生きていくなんて、耐えられません」

 私の涙は彼女を思ってのものじゃない。
 ただ、何度傷付いて傷付けても人の温もりを求めてしまう自分自身への絶望の涙だったんだ。

「それはお前だろ…俺はお前じゃない。お前の考えを押し付けんなようぜえな…。俺は、物心ついた時には1人だった、そのあともずっと、1人で生きてきた。それが当たり前で、それが俺にとって一番楽だったんだよ…なんも知らねぇお前が、俺の今までを否定すんな」

 でも、それでも、
 その言葉に私は自分を抑えられなかった。

「…嘘です。独りでいるのが楽なんて嘘です。誰も傷つけたくなくて、もう傷つきたくなくて、だからもう独りでいようとしても、それでも人の温もりに触れたら、それに埋もれてしまうんです。何度も、何度も、何度も!」

 2人は同じ孤独を抱えながらも、絶望的に正反対の人生を歩んできた。
 同じ孤独を抱えているからこそ相容れないのだと、そう思った。


「おーい、ミシェルさん?レイルとは…」

「良いんです。私非道いこと言っちゃったし、レイルさんだってもう私とは話したくもないだろうし…」

「そうかい。こっちとしてはこの空気すごーく居辛いんだが」

 ファルはそんな風に嘯きながら、私にもう一度機会をくれた。
 もうこれ以上踏み込む権利はないと思っていたレイルと、もう一度話す機会を。

 ——もう一度自分の本心と向き合う機会を。

 例えまた傷つくことになったとしても、
 例えまた傷つけることになったとしても、
 それでも私は——

「……私、待ちます。レイルさんが本音を話してくれるまで。いつまででも待ちます。長生きだけが取り柄ですから。それまでに何度嘘を吐いたって構いません。だから……もし本音を話してくれたら、その時は、私のお友達になってください」

 それでも私は、人の温もりを求めずにはいられないのだ、と。

「……ははっ……ははは!あー笑える、ばっかじゃねぇの?それを俺が信じると思ってるわけ?俺はさぁ…友情だとか、愛情だとか、友達だとか、仲間だとか!そういう言葉をまったくしんじたことがねぇんだわ…だってそれって、確かな証拠がねぇんだよ、んなもん信じれっこねぇ。お前が口先だけ上手くいってるだけにしか聞こえねぇ……俺はさぁ…お前みたいに偽善的なやつがいっちばん大嫌いなんだよ…」

 そして、私が自分の本心を口にした時、彼女もまた本心をぶつけて来てくれていたのだと。

 それは、不思議な感覚だった。
 今まで私はずっと自分自身から目を背けてきた。
 自分の運命から逃げるように他人に身を任せて偽りの幸せを享受してきた。

 でも、彼女は違うのだ。
 私が本当に自分の気持ちに正直にならなければ、自分の心の内を決して見せてはくれない。

 だからこそ、彼女になら——

「お前みたいな偽善的なやつが一番大嫌い…ですか。やっと自分のこと話してくれましたね。一歩前進ですっ」

 彼女になら、打ち明けられるかもしれない。

「また聞かせてくださいね。レイルさんのこと」

 私の抱く恐怖を、
 血を深く恐れながらも求めてしまう、私の咎を。

 ——大嫌いな、私自身のことを。


 その機会は、不意に訪れた。

「お前さ、なんで俺に構うわけ?俺じゃなくていいじゃん、フィーでもファルでもいいだろ、なんで俺なの」

 急に訊かれて動揺した。

「それは……初めて、同性のお友達になれるかなって思って…」

 咄嗟にそう答えた。
 決して嘘ではない。
 でも私は、私の本心に嘘を吐いた。
 自分の心に踏み込まれることを恐れて取り繕った。
 だからレイルはぞんざいに返事をし、それで終わるはずだった。

「…本当に、それだけかよ」

 今度こそ本当に動転した。
 まるで自分の心の底からの声を聞いているようだった。

「…別になんでもいいけど…それはお前が人外で、今までろくに付き合えたようなやつがいなかったからとか…そういう他人との関係で好かれるようなことがなかったから、同じ人外なら、とか期待したんじゃねぇの?」

 それはまるで、レイルが自分の人生に私を重ねたかのようで——

「違う…違うんです」

 私は咄嗟に否定していた。

「幸せでした。私は幸せだったんです。でも、時間はそれを許してはくれないんです。私は吸血鬼だから……私に温もりをくれた人たちは、皆居なくなってしまった」

 私はただ、人の温もりが忘れられなかっただけなのだ。
 段々と喉の奥から嗚咽が込み上げてくる。

「でも、私はその温もりを忘れられなくて、独りでいるのが耐えられなくって……私、レイルさんに気遣って頂ける資格なんかないんです」

 ただ、同じ孤独を写した目をした少女に、この気持ちを受け止めて欲しかっただけなのだ。

「理由も何もない。ただ自分が楽になりたいだけなんです。でも、理由があるとしたら、レイルさんの目が昔の私に似ていたから、でしょうか」

 それはただの我が儘で、レイルのことなど何一つ考えていなかった。

「それに、前に言ってたじゃないですか、お前みたいに偽善的なやつが嫌いって。お揃いなんです」

 友達になりたいなんて、ただの偽善。
 あれほど自分の血を忌み嫌いながら、そこから逃れる事も出来ず、ただ他人に縋るだけの行為。
 それに気付いた時、私の涙腺は決壊し、涙が止めどなく溢れた。

「私も嫌いです。こんな自分のこと。いつも他人を傷つけるだけで生きている価値も意味も無いのに死ぬ勇気も無くって…こんな私、大嫌いです!」

 私は本当は、ただ自分と同じ目をした少女に糾弾されたかった。
 自分本位に他人の心の内を荒らし回って、お前なんか最低だと詰って欲しかった。

「…俺はお前じゃない。無意味に重ねて、お前がうだうだ考える理由もない」

 返ってきた答えは、またも予想外のものだった。

「俺には何も無い。この手は生きるために汚してきた、必死に駆けずり回ってふと振り返れば幾つの人の思いや屍を踏んできたか分からないほどで…生きてる理由も意思ないのにだ」

 それは彼女が抱える孤独だった。

「俺はお前が嫌いだ、俺は俺も嫌いだ、俺は世界が嫌いだ、でも何も知らないんだよ、嫌いだと言うには足りないんだ」

 彼女もまた、孤独の中で叫んでいた。

「お前は似ていると言った…そうだ、やり方が違うだけで、生き方が違うだけで、同じなんだ。他人が怖くて、心が寒くて痛くてしょうがない」

 それはまるで自分の心の声を聞いているかのようだった。

「お前は、楽になりたいと言った、俺だって楽になりたい…でもどうやったらそうなるんだ」

 それは遠い昔、ずっと独りで、寂しくて、どうしようもなかった私だった。
 私はその答えを知っていた。
 本当は最初から知っていたのだ。

「やっと…話してくれましたね。レイルさんは私なんです。孤独な目をして、何も信じられなくて、人の温もりを知らなかった私なんです」

 涙でぐちゃぐちゃの視界の先に、少女が立っている。
 それは幼い私だった。
 自分の持つ血に怯え、独りぼっちで寒さに震えている私自身だった。

 私は本当は知っている。
 その寒さを吹き飛ばす方法を。
 私の血の温度が誰かを温められるということを。

 私は目の前の怯えた目をした少女を、
 孤独に身を震わせる少女を——そっと抱きしめた。

「だから教えてあげます。こうするだけで良いんです。だって、言葉が欺瞞でも、愛情が偽善でも、世界が虚構でも……この温度はほんものだから」

 ずっと心を閉ざしてきた氷の檻が、
 抱え込んでいた罪の荊が、
 冷たい独りぼっちの世界が、

 全部その温度で溶けていくように感じた。

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最終更新:2018年08月23日 15:00