ひぐましのなく頃に
ビュウウ、と強めの風が吹く。
枯れ草が空を舞う中、一人佇む男。
深めに被った野球帽と、白を基調としたユニフォームの胸には、誇り高きチームの名前が記されている。
私は、いや我々は、画面の前の君でさえも、この男を知っている。
打席に立てば敬遠ですら内野安打、守備に回ればホームランをレフトフライにする。
そんな不可能を可能にする男を、誰が初めにそう呼んだのかは知らない。
だが、男は人々からこう呼ばれて親しまれていた。
野球の神様、"
イチロー"と。
背中に輝く二桁の51は、彼の象徴として語り続けられている。
そんな彼は今、ある種の危機的状況に立たされている。
そう、今彼の目の前には。
木製バットを担いだ、一匹のヒグマが居るのだから。
ごくり、と唾を飲む。
どう考えても、まともにやり合えば勝てるわけがない。
霊長類最強と呼ばれたサオリ=ヨシダが、霊長類最速と呼ばれたボルト=ウサインの早さを手にして駆け寄ってくるようなものだ。
バットを振り抜いた瞬間にはランニングホームランを決めているイチローでも、振り切れるかどうかは怪しい。
では、戦うか?
木製バットを担ぎ、黄色い毛皮と赤い服が特徴的なヒグ――――
「アイエエエエ!? ポー=サン、ナンデ!? ナンデ!?」
気づかなくて良い事実に気づいてしまったニュービーヘッズ、しめやかに爆発四散!!
とまあ、目の前にヒグマがいる。
見てくれからは想像できないが、バットをしっかりと"道具"として認識している。
本来人を殴るものではないが、ヒグマの腕力であんな物を振り抜かれたらひとたまりもないだろう。
こちらに打てる有効打なんてゼロに等しいこの状況では、戦うという選択肢は、ない。
そんな絶望的な状況だというのに。
誰しもが生きることを諦めるような、そんな状況だというのに。
イチローは、野球の神様は、そんな状況を前にして。
笑っていた。
スッ、と手を前に差し出す。
握っているのは、加藤良三とサインが記された野球のボール。
イチローが大好きで、そして何よりも自身のある"野球"のボールだ。
数にして11球ほど、本来は12球だったのだが、遊び半分で投げてしまったボールがどこかへ行ってしまったのだ。
そのボールを掲げたまま、イチローはヒグマに告げる。
「野球をしよう」
動物に向かって、野球をしようと告げる。
何を酔狂なことを言っているのだろう、動物は人間の言葉を理解できるはずもないのに、とお思いだろう。
だが、ヒグマは違う。
ヒグマは賢く、人間の癖、行動、性格を見抜き、言葉を断片ずつ理解することが出来る。
木製バットという道具を使いこなせているのも、ヒグマという"個"が非常に優れているからだ。
故に、このヒグマは"野球"を理解できる。
イチローはそこまで見抜いた上で、勝負を持ちかけたのだ。
戦っても死ぬ、逃げても死ぬ、だったら最後に好きなことがしたい。
好きなことが出来るのならば、それはきっと幸せなことだから。
だから、ヒグマに野球勝負を持ちかけた。
「6球打てば君の勝ち、打てなければ僕の勝ち、いいね?」
ルールを告げ、ヒグマに同意を求める。
単純明快、11球以内に過半数の6球を打てばヒグマの勝ち。
過半数を打てなければイチローの勝ちだ。
勝ち負け、がこの際どう響くのかはあまり問題ではないのかも知れないが、それでもイチローは"そこ"をハッキリさせておきたかった。
打てば勝ち、打てなければ負け、これなら簡単だ。
そう、まるでこれは――――
「アイエエエエ!? ポー=サンのホムーランダビー!? ナンデ!?」
気づかなくて良い事実にまたもや気づいてしまったニュービーヘッズ、しめやかに爆発四散!!
【ニワカ=ニュービー(支給品) 爆発四散】
場を仕切り直すように、ビュウウと風が吹く。
ほぼ直線上に対峙する一人の人間と、熊。
キャッチャーはいない、ボールを投げ返してもらう必要なんてないし、そもそも全力の彼のピッチングを受け止められる人間がこの場にいるとは思えない。
ボールを無くしてしまうのは惜しいが、この対決に捧げるのならば問題はない。
きっと、ボール達も本望だろう、野球で使われて野球の中で朽ちていくのだから。
都合良く少しだけ盛られた土の上で、足腰の動きを確認する。
ピッチャーとしてマウンドに立つのは何時以来だろうか。
そんな懐かしいことを思い出し、ふと笑う。
そして、片手にボールを持ち、帽子を深くかぶり直す。
目線の先は、バッターボックスに構える"ヒグマ"。
「プレイボォーーーーーーーーーールッ!!」
どこからともなく鳴り響いた声が、試合開始の合図だった。
たらり、と汗が一筋流れる。
ピッチャーの緊張感、というのを味わうのは久々のことだが、これはこれでいいものだ。
敵の得点に直結する最大のポジションは、何を隠そう"ここ"なのだから。
だが、今回は野球であり野球ではない。
守ってくれる仲間も、背負わされる責任もない。
打たれれば負け、打たれなければ勝ち、それだけのシンプルな結果が待っているだけなのだから。
相手に打たせないだけなら、11球全てボール玉を投げればいい。
だが、それではフェアではない。
正々堂々勝負してこそ、野球というスポーツは楽しいのだ。
故に、イチローは自身にルールを上乗せした。
ボールをホームラン、つまりヒットとして扱うというハンデだ。
これにより、「ストライクゾーンに収まる球」か「バットを振らせるボール球」の二種しかほぼ投げれないことになる。
敬遠は、ない。
フゥ、と息を吐き出し、ボールを強く握りしめる。
片足をあげ、ゆっくりと振りかぶって一球目。
背中を一度見せてから、大鎌のように腕を振り抜く。
風を切る、音。
光速にも達さんとするほどの速さの球が、バットを構えるヒグマの横を通り抜けていく。
反応すら置き去り、ボールは亜空へと飲み込まれていった。
「ワンストライク、だね」
至って落ち着いた顔で、イチローは言う。
それに答えるように、ヒグマも帽子をかぶり直す。
深呼吸を一つ、いつもより大きく落としてから投球のフォームに移る。
そして背中を見せ、大鎌のように腕を振り抜く。
先ほどと同じ姿勢から放たれる全く同じ球。
光速にも達するその球は、ヒグマの横を突き抜け――――
カキィン!
まるで金属バットのような小気味のいい音が響く。
目にも留まらぬ速度で空へと舞い上がっていった野球のボールは、あっというまに両者の視界に映らない場所へと飛んでいった。
文句なしの、場外ホームラン。
その軌道を見て、イチローは。
"笑った"のだ。
「そうこなくては」という事だろうか。
休む間もなく三球目を構える。
今度は先ほどと構えを変え、低姿勢から地面を舐めるように腕を振り抜く。
いわゆるアンダースローよりも低く、どちらかというとソフトボールの投げ片に近い構えで放たれたボールは、そのままストライクゾーンを大きく離れて直進する。
このまま見逃せばボール、ヒグマのホームラン扱いだ。
そうだと、思っていた。
けれど、現実には違う。
ヒグマの直前で急激に上昇し、スレスレのストライクゾーンに滑り込んでいく。
完全に油断していた、ヒグマの中には"昇る"野球の球という記憶はなかった。
見事な"魔球"であった。
球審が居るわけではないが、両者が共に今の球はストライクだと認めていく。
ゲームは続く。
四球目、再び超アンダースローからボールを放っていく。
だが、違うのは球の筋だ。
今度は初めに急激に上り、ストライクゾーンを大きく外れていった。
このまま突き進めば、ストライクゾーンに入るわけがない。
だが、先ほどの球の事を考えると、このピッチャーは常識が通用する相手ではない。
野球ではあり得ない"昇る"ボールを放っているのだから、ここから急激に下がると言うことも考えられる。
打つか、打たざるか、コンマ数秒の間に強いられる選択。
そこでヒグマはボールではなく、イチローの目をしっかりと見つめ、その時を待った。
鳴り響いたのは、小気味のいい衝突音。
ヒグマの予想通り下降してきたボールに、見事ミートさせ、再び空にアーチを放っていった。
「そう、野球は野球でも、常識に捕らわれていてはいけない」
五球目を手に持ったまま、イチローは語る。
「誰も出来ないことをするには、そこを飛び越えなくちゃダメなんだ」
その言葉は誰に投げかけたものか、それはわからない。
ヒグマが理解しているかどうかなんて、分からない。
けれど、彼は語る。
「さ、行くよ」
そして放たれる五球目。
スタンダードな構えから、スタンダードに投げられるボール。
初球のようにまっすぐ延びていたが、違ったのは球の"速度"だ。
遅い、あくびがでるほど遅い。
どうやって宙に浮いているか疑問が浮かぶほどに、遅い。
これではいつまでたっても、ストライクゾーンにたどり着くわけがない。
そう思って、一瞬気を抜いた瞬間だった。
超常的な加速を以て、ヒグマの横を突き抜ける。
咄嗟に反応することはできたが、バットを振り抜く体の動作が間に合わない。
文句なしのストライク。
「まだまだ行くよ」
イチローは手を休めず、六球目を構えた。
それからは、一進一退の攻防だった。
六球目、サイドスローから横に流れるように放たれたボールは、ヒグマが見逃すことに成功。
七球目、同じモーションから吸い寄せられるように弧を描き戻ってきたボールがストライクゾーンに入り、見逃し。
八球目、渦を巻くように前へ進むボールの芯を一瞬で見抜き、ヒグマがホームランを放つ。
九球目、思い出したかのように初球と同じ球を投げ、深読みしすぎたヒグマが見逃しに終わる。
十球目、同じ球を投げる。今度は見逃さずホームラン。
そしてラスト、十一球目。
イチローは驚くべき行動に出る。
「ど真ん中、ストレート」
投球予告だ。
無論、ブラフの可能性も大いにある。
だが、済んだイチローの目からはそれを感じない。
信じるか、信じざるべきか。
答えは、一つの構えによって代えられる。
バットを持った手をグルリと回し、その手元に片手を添える。
他の誰でもない、イチローの構えだ。
ニヤリと笑う。
ここからは、正々堂々の男の勝負。
ああ、スタジアムの歓声が聞こえる。
それだけではない、聞こえるはずのない実況の音声まで聞こえるのだ。
イチローは躊躇うことなく、その感覚に身を預けた。
「さあ、シアトルマリナーズ対クリスタルベアラーズ、最後の局面を迎えました。
ピッチャーはイチロー、バッターはヒグマ、フルカウント満塁です。
ファウルすら許されない緊迫感に包まれております。
この状況で、イチローはどんな球を投げるのか。
さあ、歴史的一球、振りかぶって――――」
シュッ。
通り抜ける、音。
その音の前では、全てが、何もかもが。
置き去りに、された。
決着はついた。
6ー5でイチローの勝ちだった。
最後の最後、渾身のストレートをヒグマは打つことが出来なかった。
いや、正確には打ち負けたと言うべきか。
ヒグマのバットは確かにボールを捕らえていた。
だが、十球という短い間に磨耗しきったバットでは、イチローの渾身の球を「打ち返す」事が出来なかったのだ。
ヒグマが鳴く。
空に向かって、遠く遠く鳴く。
それは、好敵手の死を悼むように。
ボールはヒグマのバットをへし折り、遙か彼方へと消え去っていった。
ボールは光速、振り抜かれたバットも光速、ならば――――
――――吹き飛んだバットの破片も光速と言うこと。
ボールを投げきった後の無防備な体では、さすがのイチローでも反応できない。
見えない凶器と化したバットの破片は、イチローの首筋をえぐり取って行ったのだ。
静脈からおびただしい血が流れ、誰の目にも死ぬと分かっている。
けれどイチローは、そんな死を直面してもなお。
「笑っていた」のだ。
それは、野球で死ねたからか。
それとも、悔いのない試合を繰り広げたからか。
答えはない。
しばらくして、イチローの死体に寄り添ったヒグマが手先を器用に動かし、イチローのユニフォームを脱がしていく。
そして、一礼。
それから、ゆっくりと袖を通していく。
袖口が少し裂けてしまったが、それはそれで問題ない。
というより、これを着るのはある種の通過儀礼であって、この行為自体に意味はない。
大事なのは、心。
サムライJAPANを二度も束ね、栄冠を齎した男。
その心を、その意志を絶やさぬ事が、大事なのだから。
最後に、帽子を拝借して深く被り直し、ヒグマは駆ける。
スポーツマンシップを、その胸に抱いて。
――――ヒグマイッチ、ここに誕生。
【イチロー@コピペ 死亡】
【ヒグマイッチ@妄想オリキャラロワ】
状態:疲労、強い意思
装備:イチローのユニフォーム、帽子
道具:なし
基本思考:????
※黄色い毛皮と赤いチョッキが特徴的な熊ですが、某D社のハチミツ大好きなバッティングジャンキーとは
一切関係ありません、そもそも奴はアメリカクロクマです。黄色い毛皮の癖にクロクマってどういうことだよ、クソックソッ!!
※スポーツマンシップと侍JAPANの心意気を引き継ぎました
最終更新:2014年10月05日 17:23