ほろほろと薄蒼く
わが背に疾り来たるけものあり
おののきてふり返れば
ただ一輪の秋桜(コスモス)の背に揺れて
風の吹く

ほそほそと蒼白く
わが骨を嚙み居たるけものあり
息をひそめて耳を澄ませば
ただ心臓の鼓動ひとつありて
血のざわめく

 るういい
とぼくの獣(ペット)が哭く
 いいるう
とぼくの結び目が鳴く
 るういい
 いいるう
ひとが愛(かな)しと
くろぐろとひしりあげる
 あなたが欲しいよう
 あなたが欲しいよう

なおけものあり
ぎちぎちと骨軋ませて
わが肉に偲び哭きたるけものあり

 いいるう
 るういい
 この鎖を解いてよう
 この鎖を解いてよう

しみじみと蒼黒く
わが心を疾り逝くけものあり


(岩村賢治詩集『蒼黒いけもの』より『蒼黒いけもの』)


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


 昭和十六年八月八日に。
 私はお姉ちゃんと、初めて出会ったんだ。

 通りかかる人もない舞鶴工廠の下で。
 夢を口に詰め込んで笑っていた、それがお姉ちゃん――、『島風』。

 島風は誰より、脚の速い女の子。
 普通の艦の、たぶん3倍くらい。

 時々は25倍。聖誕祭(クリスマス)には100倍。

 舞鶴に帰港していた天龍先輩たちと聞くお姉ちゃんの走りは、やっぱりそのくらい速く感じられた。
 島風は日本一だった。
 だから妹の私も追いつきたかった。

「お姉ちゃん、私ももうすぐ進水なんだよ!! 他の子より凄いんだから、きっと島風お姉ちゃんより早く走れるよ!!」
「ヨカッタねー!! 丙ちゃんおめでとう」
「バーカ、日本一の島風を丙の字が超せるわけねーだろ」
「天龍うるさいー!!」

 私は。丙型駆逐艦、第125号艦は。ずっとずっと、頑張った。

 7つの色の7つの海を走り、油の虹を跳ねて駆けた。

 縋りつける人もない過負荷全力公試で。
 一年あとの私は、お姉ちゃんを追い越した。

 その時には、お姉ちゃんはそこにいなかった。
 天龍先輩も、そこにはいなかった。

 だからその報告は、第十一水雷戦隊に移った龍田先輩に電話で掛けた。


「今日の過負荷公試でお姉ちゃんの記録抜いたよ!! 私が日本一だよ。お姉ちゃんと同じ日本一だよ。
 そっちにいる天龍にもいってやってよ。私だって日本一になれるんだって!!」
「うん……。そうね……」


 龍田先輩は、震えた小さな声で、そう答えるだけだった。


 ――島風お姉ちゃんたちは今、どこにいるの?
 口に出しかけたその問いの答えは、わかりきっていた。

 長い長い時が流れても、島風は。
 あれから誰にも抜かれず、ずっと日本一なのだから。

 だから私は、頬を熱く濡らしながら宣言した。


「――スピードなら誰にも負けません。速きこと、島風の如し、です」


 夢を口に詰め込んで、笑っていく、それが私――、『島風』。


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


 百貨店の屋上には、血腥く焦げた風が吹いていた。
 南側に聳え立つ巨体・戦艦ヒ級の威容の下には、脚を折られたウィルソン・フィリップス上院議員が呻いている。
 非常用はしごがあったはずの北東の隅に、気絶した佐天涙子を抱える黒い竜・アニラがいる。
 またその北寄りの中央部、爆砕された建屋の前には、艦娘の天龍。
 そして彼女に抱えられていた一隻の、沈んだはずの駆逐艦。

「丙の字……、なのか?」

 天龍は目の前の少女を、呆然と昔の愛称で呼んだ。
 血まみれのままふらりと立ち上がった少女は、虚ろな目のまま、微笑んでいた。

「私は。丙型一二五は。島風お姉ちゃんと同じ名前を拝領しました」

 大日本帝国海軍唯一の丙型駆逐艦『島風』。
 彼女と天龍が前世で知り合っていた時間は、実際のところ、一年にも満たなかった。


「知ってた……? 天龍、私は、島風お姉ちゃんと同じ、日本一なんだよ……?」


 そして実のところ、天龍が島風の『日本一』を耳にできたのは、彼女たちが艦娘として生まれ変わって以降のことだった。
 天龍は、金髪を揺らして微笑むその少女の口調に、息を飲む。

「島風……、お前、記憶が……」
「今度は、天龍にも、お姉ちゃんにも、ちゃんと報告するから……」

 頭と言わず胴といわず、全身に無数の機銃の弾痕が穿たれている島風の肉体は、轟沈から復帰してなお大破状態だった。
 艦橋まで貫き出血を続けさせているその傷は、彼女の思考を、大きく過去のものに逆行させているようだった。


「ア、島風サン! 良かったァ、元に戻っタんデすネ! やっパり大和ハ間違っテまセンでしタ!」
「……し、島風……、くん……!?」


 立ち上がった島風のその様子に、前方でウィルソン・フィリップス上院議員を捕食しようとしていた戦艦ヒ級の動きが一瞬止まった。
 華やいだ声を上げた彼女はそれでも、すぐにウィルソンの右腕を、腕部の後顎で咥え上げ圧し折ってしまう。

「ぐ、あ、あ……!?」
「でもチョッと待っテ下さイね。オ話はこちらの提督サンも直しテあゲテからにしまス」
「もう、寂しいことなんて、あるはずないんだから……」

 天龍が、そしてその後方で佐天涙子を抱えたままのアニラが緊迫する中、島風はふらふらとした足取りで前に歩き出す。
 そしてその姿は、唐突に視界から消失した。


「『強化型艦本式缶・脚部限定』」
「うァ――!?」
「ぐぅ……!?」


 腕の骨を噛み砕かれていたウィルソンの体が、屋上の床に投げ出される。
 島風の踵が、戦艦ヒ級の腕へ抉るように突き込まれている。
 超高速の跳び蹴りが、そのヒグマの顎を砕き、開かせていた。


「――まッ、マダ、悪いヤツに乗っ取ラレテいるんですカッ!?」
「舞鶴、レイテ、呉の碑よ……」
「ぐ、ハァあ――!?」

 狼狽する戦艦ヒ級の様子を全く意に介すことなく、島風はその腕にとりついたまま、至近距離から槍のような蹴りの連打を見舞う。
 肩を抉り、胸を突き、腕を貫くその連撃に戦艦ヒ級は呻き、体を捻りながら島風を床に叩き落とした。
 島風はそのままごろごろと屋上を転げ、口角から血を流しながらまた立ち上がる。


「島風は……、誰にも抜かれないから……」
「あぁァアぁあアアあぁ――!!」
「し、島風!?」


 立ち上がった島風に向け、戦艦ヒ級は両腕部を逆手に返して構えていた。
 ウィルソンに切断されていた前顎の代わりに、両腕の無事な副砲と機銃が島風に狙いをつける。
 叫んだ天龍の声を掻き消すようにしてそこから嵐のような副砲と機銃の掃射が放たれる。

「……上井艦長に帰命し奉る」

 建屋の瓦礫の裏へ飛び込むようにして隠れた天龍の近くにまで、銃弾は襲いかかった。
 着弾する砲撃と銃撃の雨は屋上の床面を微塵に砕いて跳ね上げ、店の建物をも揺らす。
 しかしその豪雨の中を、島風はひらひらと風に揺蕩うようにしてステップを踏んでいた。
 天龍はその光景に瞠目する。

 ――狭い湾内にて、投下された幾多の爆雷を躱し、投射された全ての雷撃を避け続けたというオルモックの疾風。

 その音に聞く姿こそが、今の島風であった。


「駄目だよ……。私たちはもう、寂しくなんてないはずなんだから……」


 弾丸の雨を掻い潜り進みながら、島風は全身を血塗らせたまま微笑んでいた。
 その異様な姿に、むしろ怯んだのは戦艦ヒ級だった。

「イ、イヤ、来ないデ――!!」
「い、いけるのか、島風――!」

 天龍は拳を握る。
 戦艦ヒ級の振り抜いた腕さえも、島風は屈んで躱す。
 そうして止まることなく進んだ彼女の伸ばす手が、戦艦ヒ級に触れようとした、その時だった。


「おぐぁ!?」
「あ――」


 島風は、足元に倒れていたウィルソンの脇腹を強かに踏み抜いていた。
 そして同時に、予期せぬ足元の感触にバランスを崩した島風はそのまま前のめりに倒れる。
 戦艦ヒ級の腕が、容赦なく彼女たちを纏めて叩き飛ばした。


「こ、コンナ所で大和は沈みマせん! 次は直撃サセマス!!」
「――島風!? おい、どうして……!!」
「海、ゆかば……。水漬く屍……?」
「う、う、島風くん……!? わ、わしが、見えて、おらんかったのか……!?」


 天龍が叫び、ウィルソンは呻いた。
 しかし、西側のフェンスに叩き付けられた島風は、依然として朦朧とした表情のまま、彼らの声が聞こえてないかのように、何の反応もせず再び立ち上がるばかりだ。
 天龍の背筋に、冷や汗が流れた。
 島風はただ、曖昧に笑っていた。


「まさか、お前。マジで、何も……」 
「ねぇ……、みんな、もう、怨む必要なんて、ないんだよ……?」


 天龍は悟った。
 島風の視線はもはや、戦艦ヒ級の姿に、合っていなかった。
 島風の血塗れの双眸は、千切れかけた耳朶は。もはや何一つ、外界を見ても聞いてもいなかった。
 既に、轟沈から復帰した当初から、島風の肉体は死に体だった。

 ――彼女はただ、肌に触れる風を感じているだけだった。

 前方に蠢く怨嗟の風を祓うべく、彼女は笑っているだけだった。
 空間を切り裂く風の間に、彼女は舞い踊るだけだった。

 それ以外の何一つ。
 ウィルソンや天龍という肉塊の正体はおろか、アニラや佐天に至ってはその存在すら、恐らく彼女は認識していなかった。
 彼女は。艦娘に生まれ変わったばかりの丙型駆逐艦『島風』は。
 ただ自身の晴れがましい報告で、沈んでいった自身の先達の魂を、慰めようとしているだけだった。


 島風の踊った靴跡には、真っ赤な血の華が咲いている。
 未だその傷口から止め処なく溢れている血液は、程なく彼女の体から命を奪うだろう。
 一歩ごとに咲く花が示す未来は、『決死』の覚悟ではなく、『必死』の絶望に違いなかった。


「そ、んな……」


 ――投げナイフは? 効くはずがない。
 ――『紅葉』は? 俺の旧式缶じゃどう考えても火力が足りない。
 ――ウィルソンは? 元から片手片脚なのに、残った手足も折られてるんだぞ!?
 ――涙子は? 爆発に巻き込まれて気絶した負傷者をどうして前線に上げられる!!

 島風がこんな状態になってしまっている以上、この場のどこにも、深海棲艦となってしまった大和に対処できる可能性が存在しない――。
 呆然とする天龍の脳裏には、一瞬にしてそんな思考が渦巻いた。

 その時、カツッ、と天龍の背後に爪の音が立つ。


「――皇!?」
「フルルルルル……」


 倒壊した建屋の裏に、黒い竜が、気絶した女子中学生を携えて密やかに移動してきていた。

「そうだよ、皇、お前ならもしかしたら――」

 皇魁――、“辰”の独覚兵アニラは、切羽詰まった声を上げる天龍の前に、気絶した佐天涙子の体を横たえた。
 そして彼は、右手の指を真っ直ぐに伸ばし、一度だけ彼女たちに向けて敬礼する。

 彼はそのまま、勢いをつけて後方に宙返りした。


 アニラは北側のフェンスを背面で飛び越して、真っ逆さまに百貨店の外へと、落ちていった。


「――は……?」


 取り残された軽巡洋艦は、目の前で自衛官が見せた行動を理解できず、硬直した。


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


 ――そうだよ。皇にはあの機動力があるんだ。
 氷に張り付いて登った、便利な身体機能もある。
 あいつだけなら、この絶望的な屋上の環境から、抜け出せるんだ。

 エレベーターが壊れ、はしごが落ち、深海棲艦に蹂躙されるのを待つしかないこの場から、あいつだけは、生き延びられる……。

 ハハ、当然だよな。
 そんな戦場から転進するなら、たとえ一隻だけでも生き残れる道を選ぶ。
 誰も有効な攻撃をできない相手に対して挑みかかり、犬死してしまうことほど無駄なことはない。

 当然の行動だ。誰だってそうする。
 俺がそんな立場なのだったら、きっと俺だってそうしてしまうのかも知れない。
 でも何故か、俺の目からは、涙が溢れてきていた。


「――見捨てるの、か……」


 僚艦を見捨てて、自分だけ生き残る。
 そんな選択を、目の前で見せつけられてしまったこと。
 そのことがどうしようもなく、悲しかった。
 自分が轟沈を待つしかないことは、むしろどうでもいい。
 ただ、同志だと思っていた皇魁准尉という人物が。自分の仲間が、そんな選択をしてしまわなくてはならなかったことが、あまりに悲しかった。


「――違うぞ、天龍くん!!」
「……ッ!?」


 涙の奥を、声が揺すった。
 振り向けばウィルソンが、南西のフェンスのもとから、息を整えながら叫んでいた。


「アニラくんは、聞いたのだ……!! この島風くんが、内に燃やしているそのブレイブを!!」
「……『脚部限定』」
「~~ッ!! 猪口才デすねッ……!!」


 見れば、弾痕でボロボロになった屋上の南側では、島風が縦横に大和へ突進攻撃を仕掛け、彼女をたじろがせている。
 しかし、ウィルソンを放して島風の迎撃に集中できるようになってしまった大和は、そのヒグマのような体を俊敏に動かして突進を躱してしまう。
 千日手。ではない。
 出血が続いている島風の肉体には、すぐにでも限界が来てしまう。
 入渠と修理をしなければまた轟沈してしまう体に鞭打つ島風の攻撃は、せいぜいあと数分の時間稼ぎにしかならない。

 だが、なぜ――?

 なぜ、『脚部限定』だ?
 あの島風がなぜ、強化型艦本式缶のエネルギーを全身に回さない?

 そりゃ、ヒグマ製だからか知らないが、島風の速力は脚部限定でも俺には捉えられないほど速い。
 その突進速度から繰り出される蹴りの威力も尋常じゃない。
 何も見えてはいないのに風の動きだけで、かなり正確に大和の胴体を狙っている。
 だが、その速度では、ギリギリとは言え大和に対処されてしまっている。
 掠ることはできても、命中させられない。

 あの速さだけを追い求めていたような島風が、なぜ、わざわざ速度を抑えるような真似を――。


「天龍くん!! キミにも聞こえるだろう!! 彼女の震えるハートが!!
 見えるはずだ!! あのヒートするブレイブが!!」
「……! そう、か……!!」


 ウィルソンの声で気付く、たなびく島風の金髪、スカート。
 その隙間に、確かに燃え盛る光が、その背中にはあった。
 ボイラーが、燃えている。
 その強化型本式缶が、全力のエネルギーを充溢させている。

 ――末脚を溜めている。と言えばいいのか。

 島風は、その最後の最後。大和の動きが鈍った瞬間に、全力の突進を当てる心づもりでいる。
 大和も、その島風の思考には、思い至っていたようだった。
 そのヒグマのようになった巨大な四肢により一層の力を込めて、あいつは唸った。


「ぜ、絶対ニ、凌ぎキリます――!! 悪モノなんカニ、やらレハしませン!!」


 だが、その瞬間だった。
 俺の頭上を、耳障りな高音が走り抜けた。

 ――キュイイィィィィィィィィィ――……!!

 東西のフェンスの上を滑走するようにして、何かが百貨店屋上の3メートル上を、北から南へほぼ一直線に、高速で駆け抜ける。


「ガァ――!?」


 見上げた視界に通り抜けたのは――。
 陽に煌めく、細い、糸。
 その3メートルというフェンスの高さに存在していた唯一の物体は、深海棲艦になって巨大化した大和の、首だった。
 何十本もの細い釣り糸の束が、大和の首元を刈り取るように後方へ引き倒す。

 ウィルソンが『獣電ブレイブフィニッシュ』という斬撃で切り落としていた南側フェンスの段差に、綺麗に落とし込まれるようにして、大和の体は仰向けに縛りつけられていた。


「ラヒィイイイイイィィィィィル!!」
「――す、皇ぃ!!」


 俺は思わず、瓦礫の陰から立ち上がっていた。
 南の端の階下から聞こえる透き通った響き。
 それは俺と同じ、龍の声。
 それは間違いなく、あの皇魁准尉の猛りだった。


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


 さよ千鳥 あはぢ島風 たゆむより とわたり消ゆる すまの一こゑ


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


 アニラは、百貨店の北側を落下した後、壁に張り付いて再びフロア内に駆け戻っていた。
 そして店内のモノクマが完全に立ち去っていることを確認しながら、上層階に残存していた物資を漁った。

 彼は島風がその身に、最後の一撃のためのエネルギーを溜めていることを、そのボイラーとタービンの音から聞き取っていた。
 ヒグマ提督が参加者の掃討を任せていたというステロイドパッチールを、一発で撃沈したらしい攻撃――。
 それは現状で唯一、戦艦ヒ級という敵性存在の装甲を貫き得るだろう攻撃だ。

 アニラの攻撃手段である鉤爪は、普通のヒグマに対しても決定打にはなり難い。
 更に脱皮途中で強度が落ちている状態で、相手が普通のヒグマならざる装甲と機能を持っているとなればなおさらだ。
 そのため彼が採った行動とは、佐天涙子を天龍に任せ、戦艦ヒ級の動きを僅かな間でも止めるための、奇襲を行なうというものだった。

 彼が確保したのは、伸縮性に優れ容易に切断されず、さらに屋上全周を回って余る超遠投用ナイロンテグス。
 そしてそこに工作用の高耐久潤滑剤。

 6階南側の窓を起点としてテグスを張り、密かに屋上下部外周の壁面を走行しながらその4分の3を張り渡す。
 そして戦艦ヒ級たちの意識が逸れている間に、北側のフェンス上部に渡したテグスを東西に張り詰めさせ、彼はそのラインを、ギロチンのように一気に南へ駆け抜けさせたのだった。

 体型のハンデをものともせず、むしろ常人より遥かに上手くツールを使いこなす――。
 冷徹な遂行能力、驚異的な機動力を全て内包したその要素こそ。
 独覚兵としてのアニラが畏怖された、最大の原因だった。


「ぐ、ケ、傾斜、復元……ッ、しなイト……!?」
「フルルルルルルルルルルルルルル……!!」


 胸から首筋にかけて絡みつくテグスを引き千切ろうと、戦艦ヒ級はフェンスに縛りつけられたまま必死にもがいていた。
 アニラは階下の壁面に、壮絶な力で引かれてゆくテグスを牙に噛みながら渾身のファンデルワールス力で張り付き耐える。
 柔軟性に富み、潤滑剤までつけたテグスは、それでも戦艦ヒ級の強靭な牙と力に一本一本引き千切られてゆく。
 ウィルソンが、天龍が、叫んだ。

「アニラくんのブレイブが、届いた――!!」
「――た、頼むッ!! 島風ぇえぇ――!!」
「……ああ、みんな、聞いて……。私は……」

 倒れたウィルソン・フィリップスの前で、島風がクラウチングスタートのように屈み込む。
 ウィルソンは見た。

 Z旗(ムーラダーラ)。
 強化型艦本式缶(スワディスターナ)。
 第二煙突(マニプーラ)。
 艦本式タービン(アナハタ)。
 第一煙突(ヴィシュッダ)。
 前檣(アジナー)。
 艦橋(サハスラーラ)。

 彼女に湧くボイラーの炎が、そのタービンに大輪の華を転輪させるのを。
 竜骨を駆け上がるエネルギーは、十分の十点五の、過負荷全力。


「ク、あ――」


 強い風が過ぎた。
 その靴跡に、いくつもの赤い華が舞い散った。
 轟音を立てて、戦艦ヒ級のいた屋上の床が、崩落した。


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


 大日本帝国海軍は、軍艦に載せる燃焼缶を、とても大切に扱っていた。
 このため機関出力でいう『全力』とは、その設計出力の、95%だった。
 だから日本の軍艦、日本の艦娘たちは、その『全力』を出してなお、余力を持っていた。
 そのため行うことのできた『過負荷全力』は、『全力』の105%を意味する。

 これで設計出力を出し切ったということだろうか?
 答えは、否。

 95%の105%は、99.75%だ。
 『過負荷全力』であってなお、艦娘たちの出す速度は、自身の最大最高の、極限の速度ではない。
 なぜなら、そんな極限の速度など、出す必要がないからだ。
 そんな無理を機関にかけずとも、最速は最速だからだ。

 そんなことをせずとも、彼女の速度に、追いつけるものなどない。


 ――そんな、九割九分七厘五毛の全力。


 『速さ』の極限に至らず、二厘五毛の揺らぎをその走りに残し、次元の歪みを呼び、空間の狭間を乱す。
 量子の運動確率にしてそのわずか2.5パーミルのエンタングルメントが、極大の速度に伴って大きな『攻撃』を現実空間に巻き起こす。
 あらゆるものをすり抜けながら破砕する高速粒子の奔流。
 空間を引き千切るような突風が、崩落した床の下へ落ちる戦艦ヒ級の胴体を、爆裂させていた。

 屋上の南端を西から東へ、その過負荷全力を以って駆け抜けた島風は、そうして荒い息を天へ吐きながら、満足げに笑っていた。

 長い長い時が流れても、島風は。
 あれから誰にも抜かれず、ずっと日本一なのだから。


「――スピードなら、誰にも負けません……。速きこと、島風の、如し……、です……」


 そう微笑んで、彼女は流れ落ちる真っ赤な血潮の中に、ゆっくりと前のめりになって倒れた。


「し、島風ぇええぇ――!!」

 天龍はエレベーター建屋だった瓦礫の元から飛び出し、倒れた島風の元に急いで駆け寄っていた。
 南東の端、戦艦ヒ級が登って来て壊されていた一角に落ちそうになっている彼女を、守るように抱え上げる。

「おい! 島風、島風!! わかるか!? しっかりしろ!!」
「――……あは、天龍、だ」
「……!? お前、俺の声、聞こえてるのか……?」
「……こんな、あったかい腕……、天龍先輩しか、ない、よね……」

 島風は虚ろな目で微笑み、その血まみれの手で天龍の頬に触れる。
 やはりもう目も耳も機能していない島風の手を取り、天龍はその掌に向けて唇で語り掛けた。

「もう、大丈夫だからな……。お前がやってくれたんだ。すぐに傷を塞いで、修理してやるから……」
「あは、いいよ……。私は誰も、怨んだりなんて、しないから……。装備も、天龍が、使って……?」
「違う……!! 違う!! お前を沈ませるもんか!! すぐに、助けるから……!!」
「ねぇ、聞いて、天龍……。私、丙型一二五は……。お姉ちゃん、抜いたんだよ……? 本当だよ?」

 島風は目を閉じて、弱弱しくなってゆく息の下でそう言った。
 天龍は零れる涙を、止めることができなかった。
 それでも精一杯、天龍は彼女を力づけるべく、渾身の笑顔を作った。


「ああ……、お前は日本一の、『島風』だ……ッ!!」

 確かにそう触れた一声に、少女はにっこりと微笑んだ。


「……やった♪ お姉ちゃんと一緒なら……。寂しく、ないもの……」


 そう息を吐いた島風の体をそっと床に横たえ、天龍は焦ったように立ち上がる。
 辺りを見回しながら、彼女は建屋の瓦礫の方に再び走り出そうとする。

「すぐ助けるからな……! 救急箱無事か……?」
「て、天龍くん――!!」

 しかしその時、天龍に向けて、恐怖におののいたような、ウィルソン・フィリップスの声が届いた。
 天龍は振り向き、自分の眼を疑った。
 島風の突進に前後して崩落した部分の床から、血塗れの何かが、蠢きながらせり出してくる。


「ア、ギ、イ、ィ、ィ、ィ、ル……!!」
「が、グ、あ、ァ、ア、ぁ、ァ……!!」


 6階フロアから持ち上がってきた肉体は、アニラの尾でその喉を絞められながら、そのアニラの脚や首に方々の顎で噛みついている、戦艦ヒ級だった。


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


「な、あ……!?」

 天龍は絶句した。
 目の前で再び屋上に上がってくる巨体は、先程確かに、島風の『九割九分七厘五毛の全力』を受けて爆散していたはずだった。

 そう。
 確かに、彼女――戦艦ヒ級の正面に据えられた主砲ヒグマなどは跡形もなく千切れ飛び、肉体の3分の1ほどを失った彼女は夥しい出血に塗れている。
 しかし、彼女は死んでいなかった。沈んでいなかった。
 安らかな眠りには、就かなかった。

 屋上の南部は、島風の突進の余波を受けて崩れたのではない。
 機銃と副砲に穿たれ脆弱になっていたその場所は、さらに戦艦ヒ級自身が、アニラに捕縛されながらもがくことで、島風の攻撃が発生する寸前に崩し落とされていた。
 これにより6階フロアに沈み込んだ彼女は、まともに受ければ完全に体が爆発四散していただろう島風の攻撃を、胴体前方3分の1ほどが消し飛ばされる程度の被害に押さえることができたのである。
 そして、突如捕縛対象の重心が崩れ対応の遅れた窓の外のアニラへ、戦艦ヒ級は弛んだテグスの隙から、一気に食らいついていたのだった。


「オ、終、い、デス――!!」
「ァヒィィル……!?」


 アニラの黒い両脚が、鳥に啄まれるコオロギの体のように、根元からもぎ取られた。
 屋上に完全に登り切った戦艦ヒ級は、アニラの首筋に噛みつく後ろ手の顎を揮い、彼を噛み千切りながら振り払おうとする。
 咽喉に噛みついてくる戦艦ヒ級の顎の力に、アニラは両腕を使ってようやく拮抗した。
 牙をこじ開け、屋上に飛び降りたアニラは、着地しようとしてバランスを崩し、その床に数メートル転げた。


「絶対に……、悪イやつナンかに負ケマせん……!! ミンナも、提督モ、絶対ニ直しマス……!!」
「……げはァ――!?」
「――皇ッ!? ウィルソンッ!?」


 天龍は、目の前の惨状に震えた。
 戦艦ヒ級は、もいだアニラの脚を喰らいながら、倒れているウィルソン・フィリップスの背中へもう片腕で食らいついた。
 宙へ抱え上げられた彼は胴体から真っ二つに砕き折られる。彼の中からは赤黒い腸が溢れ、下半身と泣き別れになったその胸から上は、腕も折られたまま力なく床に零れ落ちた。
 その肉を捕食するにつれ、傷ついていた戦艦ヒ級からは再び組織が盛り上がり、その損傷を修復して行ってしまう。

 天龍は跪き、震えながら島風の体を抱きしめた。
 さらなる餌を求めて動き始める戦艦ヒ級を見据え、彼女は一度だけ、強く瞬きをする。
 そして眼を光らせて、勢いよく刀を抜き放った。


「おい! 大和!! こっちを向け!!」
「……ああ、天龍サンですネ? あなたは進ンデ、直りタイと思ってるンデスか?」

 地にもがくウィルソンやアニラから戦艦ヒ級の注意を逸らすべく、彼女は精一杯気丈な声を張る。

「……天津風や島風が構ってやっても、まだお前は眠れねぇみたいだから……。あとは俺が、相手してやるしか、ねぇだろ……?」
「マァ、素晴らシイ! 大和もウレシイです!!」

 左手に投げナイフを、右手に日本刀型の固定兵装を携え、天龍は島風の身を守るようにその前に立ち、真っ直ぐに戦艦ヒ級を見詰めた。
 即座に彼女には、再生した副砲の顎が構えられる。
 戦艦ヒ級はそのまま容赦なく、たっぷりの親切心と喜びを込めて、天龍へ砲弾と機銃弾の雨を見舞っていた。


「『強化型艦本式』――!!」


 連打を打つ雨の隙に、天龍はその息を吹く。

 カキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキ……――!!

 その雨音が弾いたのは、金属同士がぶつかり合う、高く澄んだ音。
 降り注ぐ弾丸の豪雨の中、狙い撃たれる天龍の前には、何か光のようなものが絶え間なく閃いている。
 機銃と副砲の弾薬を撃ち尽くした戦艦ヒ級は、きょとんとしていた。


「エ――?」


 ――カイィ……ン。
 天龍は最後に撃たれた機銃の弾に、そんな音をたてて光を閃かせた。
 百貨店の外、明後日の方向へ銃弾を跳ね飛ばしたのは、振り抜かれた天龍の日本刀だ。
 彼女は逆手に掴んだ二刀を握り締め、ゆっくりと構え直しながら呟いた。


「――『暴れ天龍』」


 天龍は凄まじい高速で自身の腕を振り続け、降りしきる弾丸をその刀でことごとく弾いていた。
 戦艦ヒ級は呆然と呟く。

「……そんな、それじゃ、天龍サンを直セナいじゃナイでスカ」
「付き合ってやるよ大和……。憑かれてるお前が、ぐっすり眠れるように、なるまで……」

 天龍は、涙を零しながら、彼女へ笑顔を見せた。
 戦艦ヒ級は、ぱっと表情を明るくして、彼女へ無邪気に笑いかけた。


「わ、本当でスカ!? 大和と遊んで下サルんですカ?」
「ああ……。俺で良ければ、いくらでも遊んでやるから……」


 天龍は、完全な戦闘の構えを取って震えながら、嗚咽を漏らす。

 瓦礫の先で気を失ったままの少女が。
 脚をもがれ、這いつくばる黒い竜が。
 引き千切られた芋虫のように、苦悶に呻く勇者が。
 自分の背後で、その艦橋の灯を静かに落とした駆逐艦が。
 彼女という旗艦の周りに、残骸のように転がっている。

 ――だからもう、誰も、殺さないでくれ……ッ!!

 震えて俯いた彼女の艤装には、託された『日本一』の燃焼缶が、明々と燃えていた。


【島風@艦隊これくしょん 死亡】


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


 ――大正九年        初代『島風』、過負荷全力公試にて四〇・七ノットを記録。日本艦として初めて四〇ノットを超過。
 ――昭和十六年八月八日   丙型一二五号艦、舞鶴工廠にて起工。
 ――昭和十七年五月二十三日 天龍、舞鶴へ帰港。入渠整備。
 ――昭和十七年六月二十三日 天龍・龍田、トラック泊地へ。
 ――昭和十七年七月十八日  丙型一二五号艦進水、二代目『島風』となる。

 ――昭和十七年十二月十八日 天龍戦没
 ――昭和十八年一月十二日  初代『島風』戦没

 ――昭和十八年四月七日   二代目『島風』、過負荷全力公試にて四〇・九ノットを記録。

 以降、現在に至るまで、日本製駆逐艦としてこの記録は、破られていない。


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 私の中で私は、私の中の学園都市に帰っていた。
 私の中の商店街を、私が独り歩いていたら。
 私の中の駅前の、私の中のキオスクの影で。
 とんでもない不吉なものが、私をじっと狙っていた。

「また……、こんな夢……」

 私は、夢だとわかりきった路地を歩きながら、溜息を吐く。

 それは三日月。暗い目つきの月だ。
 ほんとにいやな目つきの。
 私の後をついてきて、私の中の路地から路地を隅々まで埋め尽くす月。

 ああ、いやな気分だ。
 ほら、月が憑いてしまった。
 暴れてももう遅い。
 世界が歪む。
 ぐにゃぐにゃと三日月のように歪む。

 あの時見た光景だ。

 通行人も。
 信号機も。
 アスファルト道路もタンポポも。
 みんな捻じれ狂って歪み尽す。
 サイケデリックでシュールレアリスムでキュビズムでダダイズムで、どうも筆舌に尽くしがたい。
 というかそもそも見たくもない。


「どうせ私が死刑なのは確定してるのよ……。殺人なんて、死んでも償えない罪なんだから……。
 だからもう……、こんな場所で責め続けて時間を潰すのなんて、無意味……」


 こんな詩人の言葉を読んだことがある。
 ……二人の囚人が鉄格子の窓から外を眺めた。
 ……一人は泥を見た。一人は星を見た。
 ――さあ、私の見るのは、どっちだ?


 こんな歪み尽した世界で。自分の中に広がった夢で。私は目を閉じて歩いた。
 それでも私は、進むべき方向だけはわかった。
 一度通ってきた道だったから。

 暫くして目を開けた時、そこは夜の森だった。
 あの時のまま、炎まで歪んで燃えている森。
 私が初めて、人を殺してしまった森。
 木の一本一本、炎の一片一片、土の一塊一塊まで歪んでいる森だ。

 私はそんな世界を見るのをやめて、空を見上げてみる。

 空には三日月がある。
 これもまた例に漏れず、やはりぐにゃぐにゃと歪んだ三日月だ。
 月ではなく泳いでいる尺取り虫である可能性も高い。そんないやな月だ。

 でも私はあの時とは違う。
 そのひび割れのような月の浮かぶ黒い背景に、しっかりと星の瞬きがあることを見る。
 私の夢の天井を通して見る星は、微かな点だけれど、確かに輝いている。
 歪みようのない0次元の座標群が、確かな星座を描いて私に道を示してくれる。


「あやあやあや、かの此岸に居れば良かったものを、また彼岸に来てしもうたな」


 天体観測をしていた私に、正面から声がかかる。
 視線を下ろして見たその人物は、歪んでいなかった。

 人の形だ。人の顔だ。子供だ。でも顔は大人だ。
 体格は子供なのに、顔だけは中年の男の顔。学園都市に来る前に、見た事がある姿だ。
 そう。
 また会ったね。観音様。


「……私は、人殺しですから。死のうと思いました」
「異なことを言う。その言葉一つすら歪んでおることに気付かぬと申すか」
「やっぱりいちいち腹立つなぁ、あんた」
「なれば死を望みながら、何故鶏は道路を渡ったか――?」


 観音様は、張り付いたような微笑のまま、私にそう問いかけてくる。
 私は自分を許せなくて。死んで詫びようとまで思っているのに。
 それなのになぜこの夢を、この場所へ、また辿ってきてしまったのか。
 そう訊いている言葉だ。


「……答えは簡単よ」


 どんなに罪を背負っていても、償えなくても。
 身動きの取れないままでも、ただひたすらに、私は進もうとした。

 歪んだ月を引っ提げて。地の底の怨嗟の爪を引き摺りながら。
 ほそほそと蒼白く、私の骨に齧りつくけものを従えて。

 ただ初春に。
 みんなに、会いたかったから。

 みんなを助けて、助けながら死ねればいい。
 それできっと、ようやく私の罪は帳消しだ。
 自分一人、こんな夢の中で責め苦にあってても、きっとそれはただの逃げだから。
 私は何があっても、こんな夢から帰る。

 腰抜けのチキンは。
 鶏は。
 そうして道路を、渡る。


「……向こう側に行くため」


 私は宣言する。

 初春に。
 皇さんに。
 天龍さんに。
 天津風さんに。
 島風さんに。
 ウィルソンさんに。
 北岡さんに。
 もう一人のサテンさんに。

 私はもう一度、会いたい――!!


「この夢から帰るために、あんたを殺さなきゃならないなら、私は何度でも、殺してやる――!!」
「あな恐ろしや。げにまこと哀れで罰当たりな娘であることよ」
「――うるさい」


 この夢から戻る出口は、ここにしかないのだ。
 この観音様が、パワーアニマルだか夢の番人だか知らない。
 私は帰らなきゃいけない。謝るにしても、償うにしても、みんな目覚めなきゃできっこない。

 みんなを助けて死ぬ。
 それが私に残された希望の星。

 私が歪んでるのか世界が歪んでるのか、そんなどうでもいい疑問なんかブラジルの裏に投げ捨てる。
 駅前のホームが詰まってるなら、人身事故の電車を蹴り飛ばし、新幹線を持ち上げて走ってやる。

 私がこうしている間にも、みんなはこの向こう岸で、とてつもないバケモノに襲われていたはずなんだ。
 眠れない。
 眠ってなんかいられるか。

 私は観音様の首根っこを掴み上げた。
 観音様はそれでも、私を嘲るような薄笑いの表情のままだった。
 腕に力を込める。
 嘲り顔をピクリとも動かさず、観音様は痛い痛いと泣いた。

 力が湧いてくる。とてつもない力だ。
 観音様は一瞬で砂になって崩れ、死んで、吹き飛ばされた。


「私は、星を見る」


 私の中の天井を通して見上げた空に浮かぶ星は。
 私の瞳のレンズに静かに降りていた。


【観音様@歪み観音 死亡】


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 天龍下れば しぶきに濡れる 持たせやりたや 持たせやりたや ひのき笠


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 見よ。
 少女の空にブレイブは尽きず。
 勇敢なる意志は連鎖の如く、地上に輝く星々たる我らの間を繋いで燃える。

 この孤島にも吹き抜けた風なる者の、御魂を受け継ぎし天のドラゴン。
 その名を背負う彼女のブレイブたるや、なんと心優しきことか。
 悪獣の如き存在に身を堕とせし朋友にあたりて、歯を噛み落涙せしも折れぬその心根。


「……『桧陣笠』ッ!!」
「あはハっ、天龍サンその耳の艤装、外れタンですネ♪ 面白イ♪」


 彼女はただ守るためだけに、その側頭の耳型の機を右手甲に合わせ、高速に回旋せしめるやバックラーの如く成している。
 これ以上何者も傷つけぬよう、そのブレイブを盾と成す。
 鉄槌の如く襲い来る獣の双腕を、彼女はそうして、弾く。弾く。弾く。
 息を荒げながら、その多大なる馬力の差を、ただそのブレイブで。ああ、また弾く。

「ふっ……、くっ……!! い、いい加減、疲れてへばったり、しねえのか、よっ……!!」
「いいえ! スッゴク楽しいデス!! 天龍サンのコト、食べちゃイタいクラい!!」

 だがその前に居る友は、その盾では決して抑えきれぬ。
 その友の愛は、友の恋は、友の心は、彼女の想いでは受け止めきれぬ――。


 ああ、如何にしたか。ウィルソン・フィリップス。
 臆したかウィルソン・フィリップス。
 意識を手放すにはまだ早い。

 息を整えよ。
 血液を再分配せよ。
 かような少女たちが奮起している前に、自分ばかりがもがくのみで良いと思っているのか。
 まだ腕が折られ、胴体が両断され、そのはらわたを喰われただけではないか――!!


 見よ!
 我が地の先にダイナソー居たり。
 辰の神将。我が刃と同じ澄み渡るブレイブを燃やす者。
 その瞳の炎、我が意と既に一つなると心得たり。


 見るべし!
 我なる空にイーグル現る。
 蒼穹の使者。我が心に眠る『守護動物(パワーアニマル)』の一角。
 我が坦懐の決意、その飛翔を届かせること、今より叶う也――。


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


 諏訪の湖(うみ) 天龍となる 釜口の 水しづかなり 絹のごとくに


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 島風から受け取った、ヒグマ製の強化型艦本式缶が燃やすエネルギーは莫大なものだった。
 むしろ俺の艤装には強力過ぎるくらいの身に余る力。

 その火力を肉体の高速反応に回す『暴れ天龍』一回だけで、俺の両腕はほとんど感覚がないくらい痺れていた。
 両耳の艤装を高速回転・独立機動させて簡易防壁にする『桧陣笠』。
 そこに添える腕は、今にも反動と撃力に弾き飛ばされそうだ。

 少しでも、何か微かでも活路を見出せるだけの時間を稼いでやる。
 少しでも、大和の思いを、受け止めてやる。そう思っていたのに――。
 俺の体はもう、限界だった。


「コ、オ、オォォォォォォォォォォォォ……――!!」
「ウィルソン――!?」
「え――?」


 だがその時、俺に攻撃を繰り返す大和の背後で、急に山吹色の光が立ち昇った。
 ウィルソンの声。
 それが辺り一帯に響き渡るような、澄んだ波濤のように広がった。

 俺が眼を見開き、大和が振り返ったその先で、ウィルソンは、跳んだ。


「我が心の鷲(イーグル)よ――、月を、奪うな――!!」


 倒れたままの姿勢。
 腕も折られ、下半身も食い千切られた状態で、そこから奴は、肩だけで跳躍をした。

「あ……、直サナきゃ――」
「――!?」

 同時に大和の意識は、目の前で気を引いていた俺の方から、ウィルソンの方に逆戻りしていた。
 俺に襲い掛かっていた副砲つきの大和の腕が、宙を跳ぶウィルソンの方に向かう。
 しまった――。
 そう思った瞬間、大和の足元から、黒い風が吹いた。


「フルルル――!!」
「あ、ツっ――!?」


 今まで死んだように動かなかった黒い竜――皇が、腕だけで跳ね上がり、その鞭のような尾を強かに大和の眼に叩きつける。
 その一瞬の隙に、ウィルソンは転がるようにして、建屋の瓦礫のもとに横たわる涙子のもとに着地していた。


「――佐天くんッ!! 継いでくれ!! わしのブレイブをッ!!」


 千切れた内臓を吹き零しながらもウィルソンは、叫びと共に涙子の手を取る。
 ウィルソンの意志が、作戦が、その時俺にも理解できた。

『……何にも意味のない嘘を喋り続けて……。そんなに楽しい?』
『私だけじゃないわ。初春が協力してくれたからできたの』

 出会ってから僅かの間に幾度も垣間見た異能が、思い返される。
 奴は涙子に。
 この中で唯一、大和に対抗できるかも知れない能力を持った僚艦へ、全物資を託そうとしているんだ――!


「『深仙脈疾走(ディーパスオーバードライブ)』――!!」


 建屋から、眩いほどの金色の光が立ち昇った。
 涙子の体が、内側から沸騰するかのように跳ね上がった。

「うウぅ――、サセません!!」

 その間に、大和は皇の尾を振り払い、怒りを顕わにして猛る。
 振り被って噛みついてくる大和の両腕を、皇は腕だけの高速第五匍匐で躱し、ウィルソンと涙子がかたまっている建屋へと走り出した。

 大和が、両腕の副砲を構える。
 まずい。
 動けないでいる涙子たちは、狙い撃ちだ――!!


「『諏訪の』――!!」


 俺は咄嗟に、自分の刀を一気に白熱させた。
 身に余る力だと、甘えているわけにいかない。
 この強化型艦本式缶の出力で、この技がどれほどの威力になるのか想像がつかない。
 下手すると自分の方が爆散するかもしれない。

 それでも俺は白熱した刀を、横を向いた大和の腕に深々と突き刺した。
 肉を焼き切られた痛みで、大和の意識がわずかに逸れる。

「グ、天龍サン――!?」

 だが問題は次だ。頼む。上手く行ってくれ。
 俺は旗艦なんだ。
 旗艦が、僚艦の筋さえ通せなかったら、お終いだろうがよ――!!


「『水絹』ッ!!」


 刀身に開いたいくつもの孔。俺の攻撃は、そこから放たれる。
 燃焼缶の高温高圧水蒸気を、突き込んだ刀身から一気に放出させる。
 静かな釜口から、煮え立つような天龍川の流れへと変遷する、『強化型艦本式・諏訪の水絹』。
 威力を調整しきれなかったその一撃は、反動で俺の体さえ吹き飛ばすほどの大爆発を起こした。


「ぐあ――!?」
「キゃア――!?」


 東側のフェンスに叩き付けられながらも、俺はその水蒸気爆発が確かに大和の右腕とその砲を消し飛ばすのを見た。
 しかし大和の左腕は。
 爆発に揺らされながらも、その副砲を、撃ち出してしまっていた。


「全盛期のわしの……、最も輝いていた生命エネルギーの全て……、佐天くんに、捧げた、ぞ……」


 瓦礫から放たれていた金色の光は、その時、輝きを静めていた。


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


 初春が、泣いている気がした。

 涙が一粒、私の頬にこぼれ落ちてきたんだ。


 眼を開けると、私は屋上の床に横たえられていた。
 顔の上には、初春の泣き顔じゃなくて、あの人の姿があった。

 こんな私よりも、よっぽど人間らしいあの人。
 夢の中からでも、ずっと会いたかったあの人。
 仏を殺してでも、自分を殺し続けてでも、進みたかった帰路にいる人。

 ――私はあなたに、言わなきゃいけないことが、あるんだ……。

 そう、逆光になっている彼のシルエットに、私が手を伸ばした時だった。
 またポタリと、涙が一粒、私の目の中にこぼれ落ちた。
 あの人の顔から。
 皇さんの顔から。

 ――あれ? 皇さんでも、泣くこと、あるの?

 何か、悲しいことが。嬉しいことが、あったの――?
 そう微笑んで触れた彼の顔は、ぬるりとして、生暖かかった。


「……え?」


 皇さんの体はほどなく、力尽きたようにして、私の隣に倒れた。
 私は見た。
 見てしまった。

 皇さんの、その黒々とした鱗のあった背中が、その右半分をごっそりと抉られていることを。
 皮が破れ、肉が千切れ、骨が砕け、肺が弾け、血が湧き出ているその姿を。
 彼はその両脚さえも、腰の付け根から千切られてしまっている。

 私の顔に落ちていた涙は、涙ではなかった。
 砕け飛んだ皇さんの右頭蓋から零れ落ちた、血と脳漿だった。
 私の体は一面、皇さんの血で、真っ赤だった。

 たった一発。
 たった一発なのに。

 彼は私を守って。
 私の代わりに、その命を砲弾にえぐり飛ばされたんだ。

「あ、あ……」

 ふと、右手が握り締められていることに気付く。
 その手を取っていたのは、ウィルソンさんだった。
 髪も肌も真っ白になって、しわしわの老人のようになってしまっている、ウィルソンさん。

 彼の、私の手と一緒に短剣を握り込んでいる手は、骨が砕けているようにぶらぶらで。
 彼の下半身は、内臓ごとごっそりと、なくなってしまっていた。


「――う、お、お……、『紅葉の錦』ィ!!」
「邪魔、しナイで下さイ、天龍サン!!」
「桧陣……がッハァ――!?」


 前を見れば、天龍さんが叫んでいた。
 あのヒグマのような、船のようなバケモノに向けて、ふらつきながら刀から炎を飛ばす。
 でもそれはもはや、牽制にもならなかった。
 よろめく彼女の脚は、そのバケモノの前脚を避けることなどできなかった。
 盾のように翳した装備ごと、ハエのように軽々と叩き払われ、天龍さんは私たちのすぐ傍まで撥ね飛ばされた。
 瓦礫の上に、血塗れの姿で、天龍さんは転げた。

 その血は。
 この屋上一面に点々と散乱している血液の花は。
 視線の先でぼろきれのように横たわっている、島風さんのものに、違いなかった。

「あ、ああ、あああ……」

 そしてここには、あの人がいない。
 北岡さんがいない。爆発して死んでしまった。
 そしてここには、あの人がいない。
 天津風さんがいない。フェンスが、そこかしこで折れている。転落。したのだろう。

 そしてここには、あの人がいない。
 私が一番会いたかった、あの人。
 淡い絵の中の緑色のような、あの人が。


「サア、第一、第二副砲……、斉射、始メ!」


 とどめを刺すように、そのバケモノは私たちへ、その砲口を向けていた。


「うああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ――!!」


 叫んでいた。
 尾骶骨の奥底から、噴火のように声が溢れた。
 背骨を焼き切るような灼熱が、私の体から溢れ、波紋のように広がるのを、私は感じた。

 ……殺したな?


 お前は初春を、殺したな――!!


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


 天龍は死を覚悟した。
 響き渡った砲音は、戦艦しか装備できないような大口径の重い音。
 自分たちの体を容易く引き裂き爆沈せしめる音。

 だがしかし。
 その死の衝撃は、いつまで経ってもやってはこなかった。
 代わりに風に乗って、天龍の頬には、体には、サラサラとした砂が降りかかってくる。

 天龍は、瓦礫から身を起こした。


「涙、子……?」
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あぁぁああ、るぅううううううう――」


 そこには、佐天涙子が立っていた。
 声を震わせる彼女の衣服と体は、血で真っ赤だった。
 しかしその血の赤は、次第に消えてゆく。
 砂のようにパラパラと崩れて、吹き散らされてゆく。


「――アレ? 直リマせンデした。口径が小さかったノデシょうか。主砲ヲ戻さナキゃ……」
「――殺、す」


 戦艦ヒ級は、副砲の弾丸が直撃したにも関わらず砕けなかった一帯の様子に首を傾げた。
 そうして、すぐ傍に倒れている島風の肉体に彼女が喰らいつこうとした、その時だった。
 左腕の顎が、砂になって崩れ落ちていた。

「え?」
「殺す」

 彼女がそれに気づいた時、そこには、突風のように接近していた、佐天涙子の手が翳されていた。
 戦艦ヒ級はその少女の視線に目を合わせ、ぞくりと悪寒を感じた。

 佐天涙子の目の奥に彼女は、どす黒い漆黒の炎が渦巻いているのを、見た。


「い、いやぁあぁぁああぁあぁ――!?」
「涙子!?」


 生理的な恐怖を感じて、戦艦ヒ級は佐天涙子の体を、前脚で跳ね飛ばした。
 天龍が叫ぶ先で少女の体は、フェンスを越えて百貨店の外に転落する。

「殺してやる」

 落ちながら佐天涙子は、それだけ呟いた。


 背中から、ぞろぞろと数知れぬ大量の月が這い登る。
 青く白く黒く波打って歪み切った月の回転が、佐天涙子の脊柱を駆け上がり腕へと広がる。
 掌の一面に、満面の笑みで広がる星座の群れがくるくると回る。
 その群れは牙だ。
 億兆京那由他阿僧祇の細かな牙が、佐天涙子の掌には波紋のように広がった。

 左腕を振った。
 その腕が、百貨店の壁面に、喰らいついた。

 佐天は知っていた。この牙がなんであるのか。
 この回り続ける細かな月と星が生み出す現象の正体を、彼女は既に、自分だけの現実に見ていた。


「『分子間(ファンデルワールス)』……」


 右手を振った。
 包帯を通り抜けて、その牙は壁を噛んだ。
 佐天の落下が止まった。
 力を込めるにつれて、右手を包んでいた包帯は急速に固くなり、ポロポロと砂岩のようになって崩れてゆく。


「……『力(フォース)』!!」


 脚を壁に寄せた。佐天は、走り始めた。
 手を壁に噛みつかせ、脚で壁を蹴り、走る。

 靴が邪魔だった。
 佐天の履く革靴では、垂直の壁など捉えることは出来ない。
 力を込めたら、革靴は一瞬で砂になって、吹き飛んだ。
 脚にも月の牙が笑った。

 極限まで接近する分子間に発生する微細なエネルギーを、莫大な表面積に、莫大な回帰回数に還元させて噛みつくその走法は、アニラのものだった。


「な、ンデ!?」


 直上でその一部始終を見ていた戦艦ヒ級は、混乱した。
 一連の現象は、彼女の理解を完全に逸していた。

「ひぃいぃ――!?」

 彼女は恐怖のままに、左腕部に残る副砲を向ける。
 佐天涙子は、百貨店の壁を俊敏な四足走行で駆け上がり、風を捉えて大きく上空に跳躍していた。
 空中。狙いをつけられた砲撃を、躱しようのない位置だ。


「涙子、危ねぇ!!」
「せ、斉射ァ――!!」


 天龍の叫びと同時に、戦艦ヒ級は砲撃する。
 しかしその砲弾に向け、佐天は自身の目の前で両腕を打ち払っていた。
 砲弾はその動作に触れたか触れないかの位置で、突如砂のように粉微塵となって吹き散らされた。


「『疲労(ファティーグ)』――、『破壊(フェイラァ)』」
「な……、そ、んな……」


 戦艦ヒ級は、目の前に降り立った少女の姿を、震えながら見つめることしかできなかった。
 佐天涙子の両手両脚には、何か、微かな青い光が、わだかまっているように見えた。


「な、んだ……、ありゃ……」

 天龍はその禍々しい異彩を放つ光を見つめ、呆然と呟いた。
 ウィルソンが彼女に向けて流し込んでいたあの鮮やかな山吹色の光を、そのままネガポジ反転させたような、昏い色であった。

「あ、の、波紋、は……?」
「ウィルソン……!? お前、まだ息が……!?」

 背後から聞こえた微かな呟きに、天龍は振り返り、跪く。
 半身を失い、年古った老人のように生気を失ったウィルソン・フィリップスは、それでもまだ、呼吸を続けていた。


「生命ではなく……、むしろ殺意に、佐天くんは呑まれたというのか……。
 あの『蒼黒色の(ダークリヴィッド)』……『波紋疾走(オーバードライブ)』は……」
「涙子の……殺意……?」
「危険だ……、あれでは、自分の身をも……、殺してしまう……」


 彼らが見つめる先、佐天涙子の足元には、砂塵が舞っていた。
 恐懼に後ずさる戦艦ヒ級を追い詰めるように彼女が踏む一歩一歩。
 その歩みごとに、屋上の床が剥がれ、砂になって吹き飛ぶのだ。

 回る月は、沸き起こる星座は、周囲のあらゆる物質から、エネルギーを奪い、そしてそれを増幅して叩き返している。
 ミリ秒、ナノ秒の間にも数え切れぬ回帰回数で行われるその暴力的な月の振戦は、物体の結合を絶ち斬り、その水分をことごとく蒸発させ、火薬の爆発よりも早くその反応を終着させ、砂に変える。
 長い黒髪を舞わせる吹き荒ぶ風に合わせ、佐天の怒りを具現させたかのように、その蒼黒い光が及ぶ範囲はどんどんと拡大してゆく。
 それは次第に佐天自身の肌をも、チリチリと痛ませ、崩し剥がしているようだった。


「ヒ、い、いや……、いやぁあぁぁああぁあぁ――っ!!」


 戦艦ヒ級は、佐天涙子の姿を振り払うように、その腕を横薙ぎに揮っていた。
 しかしそこに、佐天はむしろタックルをかますかのように自分からぶつかった。
 まるでレスリングのような、あまりにも激しい組み付きだった。

 佐天が両腕に力を込めた瞬間、ヒ級に残っていた左腕が、根元から砂になって消し飛ぶ。
 戦艦ヒ級は、悲鳴をあげた。


「嫌ッ……! やだっ!! こんなのっ……!! 死にたくない……!!」
「殺したんでしょ」
「沈みたくない……!! 私は、だって、みんなを、直してあげてたのに……!!」
「お前はみんなを、殺したんでしょ……!!」
「嫌あぁ……っ!! 助けて、提督……!! 助けて、助けてぇ……!!」
「人殺しは、死ななきゃいけないのよ――!!」


 戦艦ヒ級は、残るヒグマの四肢で、屋上を逃げようとした。
 佐天はその前に回り込み、彼女のど真ん中を殴りつけた。
 戦艦大和の趣を残す少女像の下部、ヒグマのような胴体から、内臓とも機械ともつかぬ赤黒い物体が掴みだされ、次の瞬間には砂となる。

「ひぎゃあああぁあぁあぁあぁぁ――!?」

 蒼黒い光を纏って連打される拳の砂嵐に、ヒ級は苦痛に叫び身を捩った。
 身を削られながら、逃げ場のない屋上中央へどんどんと押しやられる。
 彼女と天龍の、目と目が、合った。


「たす、けて――」
「死んで、裁かれなきゃ……」


 大和は、涙を流していた。
 佐天は、嗚咽を漏らしていた。
 天龍には佐天が、自分自身を裁いているようにしか、見えなかった。


「もう私は、みんなに会えないんだもの――!!」
「もうやめろ――、涙子ぉおォ――!!」


 裁判員が、瓦礫の壇上から、被告人に向けてそう叫んだ。
 被告人は殴りかかっていた手を止めて、その声にハッと、顔を上げた。

 弁護士がその時粛々と、議場に意見書を提出していた。
 裁判官であり、検察でもある被告人は、その全文を、しっかりと目に焼き付けることとなった。


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


「ア、が――」

 その意見書は、弾丸でできていた。
 ミサイルや砲弾、エネルギー弾やレーザー光線まであった。
 百貨店の西側から提出された意見書の束は、その6階フロア中央部から屋上までごっそりと建物を抉り取り、戦艦ヒ級の体側面に何十発もの弾丸を叩き付けた。

 そしてそれらは戦艦ヒ級の体ごと屋上東側のフェンスを吹き飛ばし、その傷だらけの巨体を、下の氷上へと突き落としていた。


「え……――」


 佐天涙子は、戦艦ヒ級を殴っていた体勢のまま固まっていた。
 彼女の爪先スレスレの位置で、屋上は抉り飛ばされている。

 天龍と佐天は、同時に建物の西を見た。
 こんな攻撃をできる人物など彼女たちには、ただ一人しか思い浮かべられなかった。

 破れたフェンスへ、ふらふらと二人は歩み寄る。
 そこから見下ろした地上の遥か遠くの街並みには。
 一頭の緑色のバッファローが立っているように見えた。

「あ、ああ……」

 コメ粒よりも小さなその姿は、そしてフッと光になって立ち消え、あとはもう、何もわからなくなってしまう。
 佐天涙子は、フェンスにしがみついたまま、床へと崩れ落ちた。


「き、北岡、さん……、だっ……た」
「あいつ……、消し飛ばされたん、じゃ……」


 腕が千切れ、致命傷を負ったまま、北岡秀一という弁護士は、今の今まで、このどう考えても最終攻撃と思しき切り札を使うタイミングを、ずっと計っていたのだろう。

 どうしてそんな致命傷を受けたまま、瞬間移動のようにして彼が遠くに移動できたのか、彼女たちにはわかなかった。
 だがなぜ彼が行動したタイミングが今だったのかだけは、二人にはわかった。
 その最終弁論の主張は、裁判官の思考を覆すには、十分すぎるものだった。


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


「……以上の諸事情をご考慮のうえ、被告人佐天涙子に対しては――。
 殺人罪について無罪であるということを強く主張します……」

 街並みの中で俺は、気が抜けてバイクの上に倒れ込みながら、そう呟いた。
 マグナバイザーのトリガーを握っていた手を放し、弁護人を依頼されていた俺は、取り敢えず判決の結果を見てやろうと、今一度双眼鏡を取って百貨店の方を眺めてみる。
 レンズの先は、ぼやけていて、良く見えなかった。

「ああ……、クソ、今日は天気が悪いなぁ。もう日が蔭ってきた……。
 まぁ、いいや見なくても……。俺の狙いで、あの二人巻き込むわけないし……」

 俺は双眼鏡を投げ出し、代わりに右手で、もうほとんど中身の残っていない、破裂したコーラのボトルを掴んだ。
 その真っ黒な液体を飲み干すと、爪痕で抉れ返ったペットボトルは、真っ白になっていた。
 そのボトルを見つめていたら、自然とうっすら、口角が上がった。


「……あのなぁ涙子ちゃん。飾利ちゃん。ガキはなぁ、そんなこといちいち気にしなくていいんだよ……。
 どうせ正当防衛か緊急避難なんだし……、なんのために少年法があると思ってんだ……。
 お前たちの健やかな成長と未来を守るために、俺ら大人が制定してやってんだよ……。
 大人に仕事の責任があるように、ガキはそう生きてくのが責任なんだから……」

 やっぱり所詮JCだからな。涙子ちゃんたちはそんなことにも気づかないバカだ。

「殺しなんてそんな汚れ仕事は……、俺みたいな大人が引き受けりゃいいの。俺たちのせいにしちまえばいいの。
 ……だから今回の件で涙子ちゃんが起訴される理由はゼロ。さっさとこの島から釈放されとけって」


 俺にもそんなバカな時分があったっけ? もうわかんねぇなぁ。
 いつから俺は大人になったっけ? ヒーローなんてアホの所業だって気付いた時くらいかねぇ。

 その時から俺は、これ以上成長しようのない、不老になってて。
 その時から俺は、対価なしじゃ体を張れない、不死になってたのかねぇ。


「あっは、でも、仕事でタダ働きとか、有り得ないもんなぁ……。
 謝礼、もらえるかなぁ……。受け取りにいくのも億劫だよなぁ……」


 左腕が千切れて体重は軽くなってるはずなのに、やたら体が重いんだ。
 こんなの質量保存の法則に反してる。
 ウィルソンさんから弁護料もらうはずなのに。これじゃあ取りにいけないよ。

 目の前の、緑色の鉄人は、聳えているばかりでうんともすんとも言わない。
 俺が弁論の意見書として提出したファイナルベント・『エンドオブワールド』を撃ってくれたマグナギガ。
 このマグナギガにも、働きの謝礼として、餌の一つでもやらなきゃいけない。
 ミラーモンスターの契約規則として、そんな餌が用意できなきゃ、俺が喰われることになっちまうから。

「……だるくて餌、やれそうにねぇや……。喰うか? 俺を……」

 冗談めかして言ってみた。
 マグナギガの緑色は、そのまま物も言わず、光の粒子になってすっと消滅した。


「あれ……?」


 俺の体は、バイクの支えを失って地面に倒れていた。
 ミラーモンスターは、10分以上現実世界に連続して出現していると、光になって死んでしまう。
 でもまぁ、有り得ないよな。タダ働きした上にそのまま文句も言わず死ぬとか。どこの聖人ヒーローだよと。

「仕事ってのは……。感謝するなら金をくれ……、って世界だからなぁ……」

 なおのこと、モンスターが情にほだされるとか、マスターを尊重するとか、ないから。奴らはほんとビジネスライクだから。
 街のそこらじゅうに水たまりはあるんだ。きっと一足先にミラーワールドに帰ったんだろう。
 にしても、ライドシューターぐらい残しておいてくれても良いじゃないか。意地悪いな。


 それにしても北海道だからか、本当に陽の沈みが早い。
 もう周りは真っ暗だ。どんどん寒くなってきやがったし。
 マジで眠い。
 こういう時は、金なんかより、手っ取り早く温まる毛布とかで良いから、謝礼が欲しいな。

 まぁすぐに、向こうから謝礼にくるさ。
 ガキどもが泣き笑いでさ、感謝の言葉を述べながら、心づくしのつまんねぇ品持ってきたりするの。
 普段は仕事の対価にそんなの御免こうむるんだけどさ。
 未来あるガキの青臭い感謝なんて、こっちの気が咎めるだけだから。


「まぁでも……、たまにはこんな謝礼も、アリかな……」


 なんか、そう言ったらちょっと、温まったような気がする。
 顔に、温もりが降り注いでくる。
 ゴローちゃんと一緒に、テラスで日光浴してるみたいな。
 楽しくて、ちょっと幸せな感じ。

 ……ああそうか。
 ヒーローってのはそんな仕事をしたい、大人のことだったのかもしれない、な。


【北岡秀一@仮面ライダー龍騎 失血死】


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


「北岡は……、お前が、大和にトドメを刺さないように。人殺しをしなくていいように、ずっと考えてくれてた……ってことだよな……」
「そ、んな、私は……、最後まで北岡さんに……」

 百貨店の屋上で、北岡がいたのだろう西の街を見下ろしながら、天龍と佐天は震えていた。
 佐天の脳裏に浮かんだのは、事あるごとに反発し、北岡へ辛辣な言葉と仕打ちを繰り返してきた自分の所業だった。
 そんな、ひどい感情ばかりをぶつけていたというのに、相手は最期まで自分のことを慮ってくれていた――。

 北岡秀一の語っていた、『大人』と『ガキ』という単語が、佐天の心に、重くのしかかった。


「最後ってんなら――、来い、涙子!! 来ないとまた後悔するぞ!!」
「え――」


 天龍は西側フェンスから、急いで踵を返した。
 ただならぬ様子の手招きに従い、佐天は抉れた床を風に乗って飛び越え、北の方に散らばる瓦礫の方へ向かう。


「ウィルソン……! おいウィルソン……! せめて涙子に、何か言ってやってくれ……!!」
「え、ウィル、ソン……、さん……?」
「フフ……、わしよりも、話すべき者が、いるんじゃないかね――?」


 佐天の眼からは、死んでいるようにしか見えなかったウィルソン・フィリップスが、その時微かに口を開いていた。
 跪く二人の少女に、彼が折れた腕で指し示したのは、ほとんど右半身を抉られた、アニラだった。

「皇が――!?」
「この、傷で――!?」

 両者は驚愕した。
 だがその瞬間確かに、破壊されなかったアニラの左眼が、微かに瞬きをした。
 脳を半分抉られながら、体からほとんどの血液と臓器を奪われながら、独覚という彼の存在は、未だ微かにその命を此岸に繋いでいた。

 彼は、佐天涙子が目の前にいることを見て取ったのか。
 笛のような、本当に細い声で、囁いた。


「佐天女史の痛みを……、推し量れなかったこと……。不用意に関わりすぎてしまったこと……。深く、謝罪いたします……」
「そんな――、違う……ッ! 皇さんに謝らなきゃいけないのは、私で……!!」
「……自分は佐天女史を、『独覚』にしてしまいました……」
「本当にバケモノだったのも私……!! 皇さんは、悪くなんてない……!!」

 佐天は声を震わせ、アニラの体を抱き上げる。
 ぬるつく血の感触も、刺々しい鱗の感触も、全く気に掛からなかった。
 自分の体にその棘が刺さるほどに佐天は、アニラを抱きしめた。
 その命が、これ以上体から流れ出ないようにと、きつく抱いた。

「――やはり、痛く、ない……」
「でも、謝るより先に言わなきゃいけないことがあって。本当は、私は……!!」

 溜息のように、アニラは語った。
 佐天は叫んだ。目を見開き、嗚咽のように叫んだ。
 しかしもう、アニラの眼は、佐天のことを見てはいなかった。


「終わる時くらいは……、痛みを、思い出せる……、かと……」
「こんなバケモノの私を救ってくれてずっと見放さず一緒にいてくれたあなたのことが……!!」


 溶けるように消えてゆくその笛の音の最後に間に合わせたくて。
 佐天は本当に早口で、肺が痛くなるくらい声を絞って、叫んでいた。


「本当に、大……」


 そして佐天の告白は、途中で止まる。
 口づけをするようなそんな距離で。
 自分にすら聞こえないくらいの小声で呟いていたあの距離で。
 叫んでいた自分の声が、その微かな笛の音を吹き飛ばしていたことに、佐天は気づいてしまった。

 もう、乾いてしまった彼の瞳は、鏡のように彼女の姿を映すことはなかった。
 黒い竜は、もう死神のように、彼女を眠らせてくれることは、なかった。
 わずかなその時間は、青い砂漠の風のようにすれ違い、消えてしまっていた。


「……ゆめ虚心坦懐であれ、佐天くん。キミのブレイブは、もっともっと輝けるのだから……。
 その『蒼黒色の波紋疾走』に呑まれることなく、わしらの代わりに……、どうか最後まで、生きてくれ……」


 アニラの体が軽くなってしまった後、ウィルソンは遅くなってゆく呼吸の下で、ゆっくりと言葉を紡いだ。
 天龍が彼の方に振り返るのにも、それと同じくらい、長い時間が必要だった。
 佐天は、彼の言葉を、背中で受けることしかできなかった。


「雨降る朝に、風の夜更けに、わしらはいつも祈っていよう。
 キミたちに眠るパワーアニマルが、常にブレイブを導くよう――」
「ウィルソン……、皇……、ありがとな……」
「あ、あ……」


 天龍の涙がその髭に零れ、上院議員の勇者ウィルソン・フィリップスは、微かにその顔を微笑ませて、逝った。
 佐天涙子から零れた嗚咽は、干からびて、ひび割れていた。


アニラ(皇魁)@荒野に獣慟哭す 死亡】
【ウィルソン・フィリップス上院議員@ジョジョの奇妙な冒険 死亡】


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


 ――いやだ。いやだ。
 こんな現実に帰るために、夢から戻ったんじゃない。


「あ、あ、あ、あ、あ――」
「おい――、涙子!?」


 誰も救えなくて、私だけ死ねなくて。
 そんな世界なんてあるか。


「待て、涙子……!! どこへ……!?」
「島風さん……、そうだよ……、波紋で、治療すれば、まだ、間に合うかも……」


 ウィルソンさんは言った。波紋疾走だと。
 その通りだ。私には波紋があったんだ。
 力も満ち溢れている。月も回っている。星も広がっている。

 ほら、呼吸をしさえすれば私の両腕には山吹色の光が灯る。

 屋上の岸を飛び越えて。
 赤い華の中の島風さんに。
 ほら、傷はあるけど、内側から盛り上がって銃弾が全部なくなっている。
 今からだって遅くない。
 島風さんは、帰ってくる……。


「……無理だよ」
「ほら……、こうやって……、『山吹色の第四波動』を流して……」
「……無理なんだって。涙子。島風は俺がさっき、看取った……」
「あ、波紋の量が足りないね。全部地面に流れちゃうなんて、あは、は、は……」
「無理なんだよ涙子――!! もう、この部隊は、俺と涙子以外、全滅しちまった――!!」


 後ろから、天龍さんに腕を掴まれた。
 天龍さんの熱い涙が、私の髪に、零れた。
 ああ――、そっ、か。

 みんな私の、気づくのが遅かったから。
 私が、あのバケモノと戦おうとしている間に、その命の灯を、消してしまった。
 みんな私が、殺意を抱いていたから――。


「うああああああああああああああああああああああああああ――!!」
「――っ痛ぅッ!?」


 そう悟った瞬間、私の手の山吹色は、正反対の青に変わった。
 私の骨を舐めて溶かすような、蒼黒い、邪悪な、けだものの色に。
 天龍さんが手を離して跳び退っていた。
 振り返れば、彼女の手の表面は一瞬で、酸でも浴びたように真っ白く爛れて、砂のように崩れていた。

 私の全身は、蒼黒い空気に包まれた。
 屋上は一面、どんどんと砂になって剥がれていく。


 ――ああ、誰か私に眠りを。安らかな眠りを。
 眠れぬ限り、世界は、きっと廃墟になる。

 たとえ宇宙を滅ぼす力を手にしても、私はあなたに届かない。
 想いは届かない。

 私の中の天井を通して見た星は。
 私の瞳のレンズに降りてきた星座は。
 世にも恐ろしい、殺戮の暗号だった。


 ――百億光年はるか彼方で、銀河を焼き滅ぼした蒼い業火。


 そう。
 月の光は。星の光は。みんな元から同じものだった。
 見たものを狂わせる、歪んだ光。
 私はきっとまた同じ、いや、あの時よりももっと取り返しのつかない、過ちを犯した。

 私は、泥を見なきゃいけなかった。
 地道で、ちっぽけで、優しい事柄の積み重ねを。微かな命の粒子を。
 這いつくばるようにして拾い上げて、掬い上げなくてはならなかったのに。


「――わ、私が……ッ、敵を殺す道じゃなくて、みんなを生かそうとする道を見ていたら……!!」

 ――この波紋の色も、違っていたのだろうに。


 涙が出ない。
 私の涙は最後の一滴まで、干乾びて崩れ落ちてしまった。

 大きく開いたままの私の目に星座は焦げ付いて。
 瞳の黒いガラスが、静かに、ひび割れる――。

「あ」

 私の立っていた屋上の床が、砂になって崩れた。
 私はそのまま下に、抵抗することも無く落ちていった。

 ――ああ、でもこれで皇さんのところに。
 初春と同じところに行けるなら、それも、いいかな……。


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


「バッカヤロォ――!!」


 天龍の伸ばした手が、佐天涙子の腕を掴んだ。
 瞬間、熱した鉄に触れたような激痛が彼女を襲う。

「ぐ、お、お――!!」
「て、天龍、さ――!?」

 しかしその痛みを意に介さず、天龍は一気に強化型艦本式缶を湧かし、屋上へ佐天涙子を引き上げていた。
 そして引き上げるや否や、彼女はその右腕の激痛に、床の上をのたうちまわった。


「あっがあぁ――!! 痛ってぇえぇえぇえぇ……!!」
「ご、ごめんなさい、天龍さんを巻き込もうなんて――」
「よしお前は落ち着けぇぇぇ!! 深呼吸しろ!! その波紋を抑えろ!!」
「はぁ……っ、はぁ……っ……」

 天龍が押さえる右腕は真っ白になり、砂像になってしまったかのようにその表面がポロポロと崩れ始めてしまっていた。
 その姿を見つめながら、呼吸を意識し始めた佐天涙子の纏う光は、次第に山吹色のものに変わっていった。
 山吹色の光で、崩れかけた天龍の腕に触れると、そこには徐々に徐々に血流が戻り、わずかずつ肌の色が返っていく。

 天龍は、転落から引き上げられて落ち着きを取り戻した佐天へ、諭すように語りかけ始めた。


「あのな……、あの時、お前がウィルソンや皇の遺志を受けて目覚め、大和に攻撃をしてくれなければ、俺たちは本当に全員、死んじまってたんだ。
 北岡だってきっと、狙いをつけ切れなかった。お前は、救ってくれたんだ。少なくとも、俺の命を。
 みんなを生かすのなんて、どだい無理だった。お前はそれで、良かったんだ……」
「そ、う……、なのかな……」


 佐天の声は、震えていた。山吹色の光は、ウィルソン・フィリップスの力を受け継いでいてなお、消え入りそうに弱々しかった。
 天龍は唇を噛む。
 佐天涙子の姿は、かつての天龍自身と重なって見えた。
 徒労と解っていながら、既に死んでしまった者へ処置をしようとしてしまう姿も。
 先立ってしまった仲間への思いを断ち切れず、激昂してしまう姿も。

『天龍、パッチール、初春さん。この部隊は必ずしも全艦が「脱出」という目的地に行くわけじゃないと思うわ。
 ……だからどんな風が吹こうが、あなたたち自身で考え、見極め……、その風を「いい風」にしてね。
 そうすればきっと。部隊としてもきっと。皆の望む地へ、辿り着けるはずだから』
『……だからね。割り切って、天龍。ただで沈むつもりはないけど、私が轟沈しても、あなたには「関係ない」わ。
 旗艦なんだから、あなたが救うべき者は、ちゃんと見極めて、ね?』

 だが、今の天龍は、旗艦だった。
 風の中の声に応えるように、天龍は震える僚艦を、強く抱きしめていた。


「……信じろ。俺はこの部隊の旗艦なんだ。俺を信じろ。辛いことは、苦しいことは、全部俺の、責任にしちまっていいから!!」


 掻き抱いた女学生の体は、今にも折れてしまいそうに華奢だった。
 こんな少女が、こんな血塗れの戦場に出され、身に余る巨大な力を得てしまった心情たるや、如何ばかりか。
 もともとが血塗れの戦場を遍歴した巡洋艦で、少女の体になってしまったからこそ力が身に余ってしまっただけの天龍とは、その心への損傷は比べ物にならないはずだった。

 抱かれるがまま、返事をする魂すら抜けてしまったような佐天を、励ますように天龍は言葉を継ぐ。


「それに……、全滅とは言ったが、まだそれは確定しちゃいない。特に、お前の朋友の初春飾利は、殺されたんじゃなく、連れ去られた」

 初春というその名前に、佐天はハッと顔を上げる。

「初春が……!? 生きてるの……!?」
「ああ、たぶん。お前の言ってた、江ノ島って女の操る機械が連れ去った。ただで殺すつもりじゃないに違いねぇ」
「わかった……!! 行く……!! 必ず……、助ける……!!」


 佐天は熱に浮かされるように、天龍の胸からふらふらと歩き出し始める。
 そしてその眼は、砂交じりの風が吹く屋上の光景を見回し、止まる。


「――、でも、その前に……。みんなを埋めてあげたい……。金剛さんみたいに、眠れるように」
「……そうだな、連れて行こう。弔える場所まで」
「そうしないと……、もう私は、人間じゃなくなってしまうような、気がするから」


 振り向いた佐天は、天龍に向けてその右手を差し出した。
 モノクマに指を折られ、包帯が巻かれていた手。
 掴んだ天龍の腕を噛み、砂に変えかけてしまったその手。
 ウィルソンの波紋で治癒したはずのその手の指を見て、天龍は瞠目した。

 ――佐天の人差し指と中指は、鉤爪のように曲がり、魚か爬虫類のような鱗に、覆われていた。


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


 私は天龍さんに後押しされるように、百貨店を降りていた。
 皇さんの、ウィルソンさんの、島風さんの遺体を、それぞれ死体袋のように、デイパックに詰めて。
 崩れた屋上から、皇さんのように『分子間力(ファンデルワールスフォース)』を使って、フロアの階段へ道を辿った。

 百貨店の周りの氷には、一切の死体も、生きている人間も、いなかった。
 東側には、あの、怪物となった大和さんが落ちたらしい、大きな血飛沫の花が咲いている。
 その致死量の血は、斜面を滑って氷の丘の下へ流れている。
 きっと大和さんの遺体も、そうして隣のエリアの街の方へ、流れて行ったのだろう。

 そして西側には、東のものよりは小さな血溜まりがある。
 天龍さんが言うには、そこが、天津風さんが転落し、初春が連れ去られた位置なのだという。
 もっと言えば、私が気絶して吹き飛ばされたフェンスの位置も、この真上だったろう。


「血の……、臭い……」


 私は天を仰ぎ、大きく息を吸い込んだ。
 初春はケガをしているのに違いない。

 血を。
 血の臭いを。
 今まさに血が流れている位置の臭いを、嗅ぐ。

 吸い込む息の中に、ぎらぎらと星座が舞う。
 鼻腔の中に月が回る。
 私ならできる。私ならその位置を特定できる。
 そう、私だけの現実は、確信した。

「おい……、そんな、犬じゃねぇんだから、こんなのの臭い嗅ぎ当てるなんざ……」
「私は、ここに来る前でも、噂やお金の臭いには、鼻が利いたのよ……」

 御坂さんと一緒に、路地裏でマネーカードを嗅いでいた時のように。
 頭の中に地図が広がる。

 そしてその地図は真っ赤に塗り潰される。
 ここから北の方に、まるで墨汁をぶちまけた書初めのように、大量の血が流れている状態が、私の脳裏には描き出されていた。

「北一面……すごい血の臭いが広がってる。それもここから北東に、すごく強い……」
「マジで、わかるのか……?」
「……きっとこれが、皇さんのくれた、罰、だから……」

 包帯の下で変形し、鱗を生じていた指を、私はじっと見下ろした。
 これは私が、心だけじゃなく、体まで本当のバケモノになるための、そんなキッカケの能力に、違いなかった。


「お前そういや……、金剛の肉を……皇が喰ったとか言ってたか? 今思えば、様子がおかしかったのはそのせいか……」


 その呟きを聞いて、隣で天龍さんが、思い当ったように溜息を吐いた。
 聞かれていた。
 皇さんに償わなきゃいけなくて。ついにできなかった、そんな酷い、バケモノの言葉を。

 でも続く天龍さんの言葉は、そんな後悔を掻き消すくらい、衝撃的だった。

「そんなの……、ガダルカナルじゃ、そう珍しくも無かった話だ」

 驚く私の肩を叩きながら、天龍さんは低い声で淡々といった。
 私とそう変わらない年恰好の彼女が、偉大な、矍鑠たる祖母のように、見えた。

「ここは戦場なんだ。もはや気にするほどのことでもねぇ。金剛がそのくらいで怨むわけねぇよ。
 むしろ『お肉は食べてもイイけどサー、脳を食べ忘れたら、NO~なんだからネ♪』くらいの冗談をかます余裕はあったと、俺は思う」
「ふ、へ……」

 天龍さんは真顔でそんなことを言う。
 笑って良いのか悪いのか反応に困った。
 私の気を楽にしてくれようとしているんだろうけど。不謹慎じゃないのか。
 いや、私が言えた立場じゃないんだけど。


「涙子、知ってるか……? 仏教の独覚ってのは、自分一人だけのために悟りを開いた、『誰も救わない仏』のことを言うんだ。
 皇は、独覚の兵なんかじゃない。お前が皇と同じ存在になったところで、お前はバケモノなんかじゃない。人間だよ」


 誰も救わない仏――。
 天龍さんが最後にそういった言葉が、頭の中に渦巻いた。

 人の形。人の顔。子供。
 でも顔は大人。
 体格は子供なのに、顔だけは中年の男の顔。
 学園都市に来る前に、見た事がある姿――。


「北東だな……? よし、すぐに行こう、涙子。飾利……、いや、他のやつらも、助けられるだけ、助けだそう」


 私は天龍さんの後について、氷の上を裸足のまま、のろのろと歩き始めた。
 受け取った荷物が。
 皇さんとウィルソンさんを詰めた、両肩のデイパックが、私にはとても重かった。


『ウィルスは、些細なきっかけに過ぎません。脳の中に、体の中に、心の中に、「独覚兵」という存在は誰の奥底にも眠っているものだと思われます。
 それは自分自身の本質でありながら、最も自分自身とは遠いものであります。
 佐天女史は、それを呼び覚ましてなお、自分自身である自信がありますでしょうか』
『カンノン……。仏教における女神の一人だな。それで、佐天くんは、彼女に対してどうしたのかね?』


 あの人たちの声が聞こえて、私は気づいてしまう。
 仰ぎ見た空は青く晴れていて、まだ月も、星も、出ていなかった。

 あの嘲り顔の仏。
 自分自身すら救わない、歪んだ仏。
 私が自分の夢の中だけで見たその仏が、自分の無意識の正体だったとするなら。


「……本当の『独覚』だったのは、最初っから、私だったんだわ……」


 ――『月』は、ウイグルの山地の北方を過ぎて寒々としている。


【C-4 氷結した街/午後】


【佐天涙子@とある科学の超電磁砲】
状態:深仙脈疾走受領、アニラの脳漿を目に受けている、右手示指・中指が変形し激しい鱗屑が生じている、衣服がボロボロ
装備:raveとBraveのガブリカリバー
道具:百貨店のデイパック(『行動方針メモ』、基本支給品、発煙筒×1本、携帯食糧、ペットボトル飲料(500ml)×3本、缶詰・僅かな生鮮食品、簡易工具セット、メモ帳、ボールペン)、アニラのデイパック(アニラの遺体)、カツラのデイパック(ウィルソンの遺体)
[思考・状況]
基本思考:対ヒグマ、会場から脱出する
0:初春……、初春……、初春……。
1:人を殺してしまった罪、自分の歪みを償うためにも、生きて初春を守り、人々を助けたい。のに……。
2:もらい物の能力じゃなくて、きちんと自分自身の能力として『第四波動』を身に着ける。
3:その一環として自分の能力の名前を考える。
4:『蒼黒色の波紋疾走(ダークリヴィッドオーバードライブ)』……。
5:本当の独覚だったのは、私……?
6:ごめんなさい皇さん、ごめんなさいウィルソンさん、ごめんなさい北岡さん……。ごめんなさい……。
[備考]
※第四波動とかアルターとか取得しました。
※左天のガントレットをアルターとして再々構成する技術が掴めていないため、自分に吸収できる熱量上限が低下しています。
※異空間にエカテリーナ2世号改の上半身と左天@NEEDLESSが放置されています。
※初春と協力することで、本家・左天なみの第四波動を撃つことができるようになりました。
※熱量を収束させることで、僅かな熱でも炎を起こせるようになりました。
※波紋が練れるようになってしまいました。
※あらゆる素材を一瞬で疲労破壊させるコツを、覚えてしまいました。
※アニラのファンデルワールス力による走法を、模倣できるようになりました。
※“辰”の独覚兵アニラの脳漿などが体内に入り、独覚ウイルスに感染しました。
※殺意を帯びた波紋は非常に高い周波数を有し、蒼黒く発光しながらあらゆる物体の結合を破壊してしまいます。
※ヒグマードの血文字の刻まれたガブリカリバーに、なにかアーカードの特性が加わったのかは、後続の方にお任せします。


【天龍@艦隊これくしょん】
状態:小破、キラキラ
装備:日本刀型固定兵装、投擲ボウイナイフ『クッカバラ』、61cm四連装魚雷、島風の強化型艦本式缶、13号対空電探
道具:基本支給品×2、ポイントアップ、ピーピーリカバー、マスターボール(サーファーヒグマ入り)@ポケットモンスターSPECIAL、サーフボード、島風のデイパック(島風の遺体)
基本思考:殺し合いを止め、命あるもの全てを救う。
0:涙子の嗅ぎ当てた方向に向かう。
1:……でもそんな大量の血が流れてるなら、絶対に飾利、だけじゃねえよな……。
2:迅速に那珂や龍田、他の艦娘と合流し人を集める。
3:金剛、後は任せてくれ。俺が、旗艦になる。
4:ごめんな……銀……、島風、大和、天津風、北岡……。
[備考]
※艦娘なので地上だとさすがに機動力は落ちてるかも
※ヒグマードは死んだと思っています
※ヒグマ製ではないため、ヒグマ製強化型艦本式缶の性能を使いこなしきれてはいません。


    ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀


 鼻腔の中に、愛が回る。
 あの方の臭いが、確かに届く。


「あ……、提、督……」


 街の向こうに、氷の向こうに、提督が走っていった、臭いが残っている。
 それに気づいた彼女は、ずるずると千切れかけた体を引き摺って、地面を這い、その道の向こうへ、歩んでゆく。


「直ったんですね……。元に、戻ったんですね……! ヤッパリ、大和は……、間違って、ません、でした……」


 もう、目の前は真っ暗になって、良く見えない。
 足元も、何の地面を踏んでいるのか、良く解らない。
 どれだけ体が、提督からもらった体が残っているのかも、良く解らない。


「今……、大和が、行きます、カラ……」


 それでも戦艦ヒ級は、身を起こし、進んだ。
 血塗れの残骸になりかけても、愛しいあの方のもとへ。
 傷だらけの大和を引き摺って、そうして彼女は、切々とひしりあげる。


 ――恋する人は、あともう少しだけ、眠れない。


【C-4 氷結した街/午後】


【戦艦ヒ級改flagship@深海棲艦】
状態:瀕死、大破、出血多量、燃料漏れ、内臓大量損失、装備大規模損失、精神錯乱
装備:全損
道具:なし
[思考・状況]
基本思考:ヒグマ提督を捜し出し、安全を確保する
0:提督……、提督……、提督……。
1:良かった……、提督、直ったんですね……。
2:ヒグマ提督が悪いヤツに頭を乗っ取られているなら、それを奪還してみせる。
3:あの男の人は、イイヒトだった。大和の友達です。
4:私を助けてくれたメロン熊さんはイイヒト。大和の友達です。
5:皆さんが悪いヤツに頭を乗っ取られているなら、正気に戻してあげなくちゃですね!
[備考]
※資材不足で造りかけのまま放置されていた大和の肉体をベースに造られました
※ヒグマ提督の味方をするつもりですが他の艦むすとコミュニケーションを取れるかどうかは不明です
※地上へ進出しました
※金剛の死体を捕食したことでヒグマ30~40匹分のHIGUMA細胞を摂取しました
※その影響でflagship→改flagshipに進化しました
※『九割九分七厘五毛の全力』、『蒼黒色の波紋疾走』、『エンドオブワールド』その他諸々を受けて装備は全壊し、機関部は抉られ、致命傷を負いました。

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最終更新:2015年08月03日 19:29