黒化(ニグレド)


 佐天涙子は逸っていた。
 黒木智子の大切な人を奪ってしまったのが、あの赤黒いヒグマ――自分の注意不足と力不足のために仕留め損ねてしまったモノ――だったということを知ってしまったから。
 責任感があった。
 嫌悪感があった。
 とにかく動き出さねば気が済まなかった。
 そうして踵を返し屋台バスの前方へ突き進もうとした彼女の裾を掴んだのは、当の黒木智子だった。


「やめろよ、やめてくれ……」
「いいえ、駄目だわ。だったらなおのこと、ここで全ての因縁に終止符を打たなきゃ……!」

 クリストファー・ロビンの遺体を抱えたままの智子は、眼に涙を浮かべながら震える。
 佐天が絞り出す言葉にも、ひたすら首を横に振るのみだ。


「ア、アーカードに、敵うわけない……! 逃げ、逃げなきゃ……!!」
「どこへも逃げ出す場所なんてないわよ! 自分自身の心の中くらいしか!!」


 智子の肩を掴んで、佐天もまた泣きそうな表情で訴えた。

 この島はせいぜい数十平方キロメートルしかない閉鎖空間だ。
 そんなところで右往左往したところで、脱出の糸口が見つかるまで逃げ切れるなどとは、佐天には到底思えなかった。
 実際、ヒグマードに出会った佐天、天龍、智子の3グループがここで出くわす程なのだ。
 逃げるよりも、迎え撃つべき――。
 佐天はそう考えていた。


「ちょっとその話は待ちだ。……今日は千客万来だね」


 そんな両者の険しい見つめ合いに、グリズリーマザーの言葉が割って入った。
 屋台バスの窓越しに、こちらへ森の中から近づいてくる、二人の人影がいた。


「ほぉら、やっぱり月の娘がいた! とってもデリシャスメルだ!」
「ああ、グリズリーマザーさん!? ヤスミンさん!? 私です、シロクマです!」


 その人影――、少女たちの正体を認識して、バスの中のヒグマたちは驚愕した。

「シ、シロクマさんかい!?」
「シロクマさん!?」


 グリズリーマザーとヤスミンが身を乗り出した先で、手を振りながら駆け寄ってくるのは、穴持たず46シロクマ――司波深雪と、百合城銀子であった。


    ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼


「良かった……、こんなところでまともな帝国の要職と合流できるなんて……!
 ありがとうございます、百合城さん……」
「なに、礼には及ばない、がうがう」

 バスの中に連れられながら、司波深雪はようやく安堵したように息を吐き、同行者に感謝を述べた。
 高校の制服を血塗れにしている彼女の姿に、車内の一同は驚くばかりだ。


「ちょっと、ミズクマさんまでいるじゃないか!」
「どうしてそんなお姿でここに? こちらの方は?」
「境界線の番熊、ヒトリカブトの百合城銀子。深雪のお兄さんに喚ばれた、助っ人だと思ってくれ」
「『彼の者』に襲われまして……。お兄様……、いえ、シバさんの喚びだした彼女に、救っていただいたのです」

 まず司波深雪は、全身を赤黒く染めている血が自分のものではなくヒグマの返り血だと説明して周囲を安心させる。
 矢継ぎ早に要職のヒグマたちから浴びせられる質問へ銀子と共に返答し情報交換しつつ、彼女は話について行けていない車内の同乗者にも、掻い摘んで身の上を明かしていた。


「……STUDYの一員で、HIGUMA細胞を移植する手術を受けてヒグマ帝国の指導者クラスにもなっていた……?」


 天龍や佐天は、呆けた表情で目を瞬かせた。
 ちょっと何を言っているかわからない経歴ではある。

「はい。佐天涙子さんと天龍さんですよね。
 参加者の皆さんは、実験に巻き込んでしまって申し訳ありません。当惑とお怒りはごもっともです。
 ですが今は私も、黒幕を打倒したいだけのただの人間です。そこを曲げて協力していただけませんか?」

 司波深雪は車内の人間を見回し、丁寧な口調で頭を下げた。
 謝罪の意思が感じられない実に慇懃なその文言からは、悪意のないほどに染みついた自然な高慢さが匂い立ってくるようだったが、この状況ではそれくらい些末なことだ。
 それは黒木智子が値踏みするような視線を送る奥で、戦刃むくろが脂汗を流し、扶桑が頭を抱えていることからも容易に窺える。
 本来彼女は、こんな地上に出てくることなどないはずの、要人中の要人なのだ。

 ヤスミンが恐る恐る、当然想定して然るべき地下の状況を、問うてしまっていた。


「襲われた、ということは、他の指導者の方は……!?」
「……シバさん、キングさん、ツルシインさんは、殺されてしまいました。
 艦これ勢を繰っていた、『彼の者』……、黒幕である江ノ島盾子に!!」


 司波深雪は歯を食いしばり、そう吐き捨てる。
 座席を強く叩いた彼女の拳に、奥で戦刃むくろがビクリと身を竦ませる。

 その様子に、司波深雪はゆっくりと立ち上がっていた。

「……あなた、部外者ですよね」
「え、わ、私……?」

 露骨に目の泳ぐむくろに歩み寄りながら、深雪は怨みを込めた口調で彼女を詰問する。


「私にはわかってるんですよ、伊達に主催とヒグマ帝国指導者の一角を担っていたわけではありません。
 そこの戦艦は、艦これ勢のヒグマが作ったもの。そしてあなたはまず間違いなく……、江ノ島盾子の手の者!!」
「くっ!?」


 当然、彼女はSTUDYの一員として、呼び寄せた全ての参加者を把握していた。
 彼女の記憶にない人間・艦娘は、それすなわち、黒幕か艦これ勢によって送り込まれてきた者だと考えられる。
 もちろん、百合城銀子のようにそれ以外の由来で紛れ込んだ例外という可能性もなくはない。
 そのため、深雪はあえて激しく指摘することでカマを掛けたのだ。

 そして彼女は勝ち誇ったかのように声高に宣言する。


「動揺しましたね! それが何よりの証拠!
 皆さん、この女は、私たち島の者たちを皆殺しにしようとしている敵です!!」

 むくろを指さして喧伝する司波深雪は、血みどろの姿のまま眦を怒りに裂いて彼女に掴みかからんとしていた。


「あなたたちのせいで、お兄様は……!!」
「やめて!」

 その瞬間、彼女たちの間に佐天涙子が立ちはだかる。

「やめないと、ただじゃ済まないわ」
「はぁ? 何を言ってるんですか?」


 理解不能な彼女の行動に、司波深雪は苛立った口調で首を傾げた。

 江ノ島盾子は、STUDYもヒグマ帝国も参加者も誰彼構わず破滅に追い込もうとしている人物だ。
 その仲間なのだから、参加者の立場からしても排除して然るべきであることは少し考えればわかるはずだ。
 思わず深雪は、目の前の太平楽な少女の脳味噌が茹だっているのではないかと疑ってしまう。

「この女は、紛れもない敵なんですよ。
 そこを退いてください。ただで済まなくなるのはその女です。
 江ノ島盾子に、私はお兄様を殺されたんです……!」
「戦刃さんがあの女のお姉さんだってことは知ってるわ。それでも、今は関係ない」
「涙子さんそれ言わないで……!!」
「あなただって、私や初春をさらった一味でしょ。棚上げにしてあげるから、今はそれどころでない状況を協力して切り抜けるべきよ」
「チッ……、話になりません。退いて下さい。痛い目を見ますよ」

 むくろが狼狽え、深雪が舌打ちする前で、佐天涙子はゆっくりと腰を沈め、下段にその手を降ろして身構える。


「……あなたがその格好をしてる限り、私は一瞬であなたを無力化できるわ」


 何かの武術の構えには見えない。
 むくろの目からしても、深雪の目からしても、それはただのド素人が格好をつけているようにしか見えなかった。
 深雪は真剣にそんな見得を切っている少女の眼差しに失笑する。


「フッ、ハッタリのつもりですか? 私は知ってるんですよ佐天涙子さん。あなたが無能力者だということはね」

 STUDYの事前調査では、佐天涙子は学園都市のレベル0。
 ジャーニーの『ディフュージョンゴースト』で操られた駆動鎧に金属バットだけで挑みかかる腕力と度胸があったり、一晩で大型汎用作業機械の操作法を完璧にマスターして斑目と小佐古の擬似メルトダウナーを撃墜するほどの習熟力とセンスがあったりはするが、所詮それだけの一般人だ。
 魔法演算領域を破壊されたとはいえ、九重八雲のもとで長年忍術を修行していた自分にとっては赤子同然――。
 一捻りだ、と司波深雪は考えていた。

 しかし佐天の表情は変わらない。


「……仮にここにいるのが昨日の私だったとしても、結果は同じよ」


 佐天がそう呟いた刹那、ものも言わぬままに、司波深雪の両手が宙に走っていた。
 人遁・一節切――。
 両側の頸動脈を遮断し一瞬で相手の意識を刈り取るその忍術を、深雪は目の前の少女に掛けようとする。

 しかしその瞬間、既に佐天涙子の体は司波深雪の視界から消失していた。
 凄まじい低さに身を屈めたのだと深雪が気づいたときには、もう遅かった。

 脚の間を、涼やかな風が通り過ぎる。
 次の瞬間には、下から巻き上がった薄緑色に視界が埋め尽くされる。
 同時に、両腕が凄まじい勢いで上に跳ね上げられ、全方向から強く締め付けられる。
 それは彼女の、スカートの生地だった。

「ひへぁ――!?」

 胸元から首筋までが外気に晒される冷感。
 何も見えなくなり上半身が束縛された深雪は、バランスを崩して屋台バスの通路にもんどり打って倒れる。

「むごふぉぉ!? な、何!? 何が――!?」

 胸から腰元以下まで、白磁のような肌とフリルのついた華やかな下着を露わにして、司波深雪はもがく。
 だが彼女の首から上と両腕は、めくり返された自分の制服によって完全に覆い尽くされていた。

 彼女の纏っていた制服のスカートは、一般的な高校のものとはかけ離れた、細目のワンピースである。
 しかしその特異なデザインが、この場では完全に仇となった。
 佐天のスカートめくりにおける繊細にして獰猛な指使いにかかれば、一つなぎとなっているその上半身部分までをも容赦なく衆目に晒すことは、あまりにも容易だった。


「随分と甘く見てくれたわね……!
 悪いけど、どんなロングスカートだろうとタイトスカートだろうと、それがスカートである限り、私は必ずめくってみせるわ!」


 巾着包みからたおやかな肢体だけを晒して蠢いている深雪の前に、佐天は仁王立ちとなってそう宣言する。
 今まで一度たりとも失敗したことのない、佐天の神速のスカートめくりの構えを、司波深雪は見切ることができなかったのだ。
 直前の言葉通り、一瞬にして無力化されてしまった司波深雪の様子に、周囲の一同は大きくどよめいた。

「うわぁ……、なんか勃起モン通り越して外宇宙の生命体みてぇな見苦しさ……」

 引き締まった艶やかな女体と色っぽい下着が目の前にあっても、頭から上が裏返しの服に包まれて呻いているその状態は、黒木智子に気味悪さしか抱かせない。
 反対に百合城銀子は、そんなおでんの鍋で煮られすぎた餅巾着のごとき様相を呈している司波深雪に、目を輝かせて飛びついていた。

「素晴らしい! さすが月の娘だ! 一瞬で深雪を、蜜の溢れるひとかどのユリに仕立て上げるとは!」
「むぐぅぅ!? 百合城さん!? 百合城さんが押えてるんですか!? なんで!? 止めてくださいぃ!!」
「キミ自ら透明な嵐を作ろうとするとはまだまだ浅はかだなぁ深雪~。
 あぁ~、これはとてもいい眺めだ、じゅるり……」

 見苦しい餅巾着にすりつく百合の姿にさらなる忌避感を抱く智子の隣で、戦刃むくろだけは一人、慄然とした畏怖に固唾を呑む。

「確かに……、戦場でのスカートの着用は、専用の運用メソッドを用意していなければ、ただの弱点にしかならない……。
 涙子さんの技術は、その隙を決して逃さない。まるで熟練のスナイパー……!」
「そうですよね……、艦娘ももっと被覆性の高いズボンを穿いた方がいいんではないかと、中破する度にそこはかとなく思ってました」
「ここに誰も男がいなくて良かったな……」


 扶桑と天龍が目を見交わし、この重要人物らしい餅巾着をどうするか相談しようとしていたその時だった。


「みなさん!? こんなところで揃って、一体どうしたんですか!?」


 バスの外から、また突如そんな声がかかる。
 その声に振り向いた一同の目に、森から走り寄ってくる一人の影が映る。
 佐天は目を見開いた。


「う、うい、はる……?」


 彼女の目に映ったのは、車内へ息巻いて駆け込んでくる、初春飾利の姿だった。


    ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼


 さあ夕闇よ、インディオに見せたように。
 影の王妃の声、運べ、人に――。


    ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲


「ぶ、無事だったの!?」
「は、はい……! 私はなんとか……。私もみなさんを探してたんですよ!
 でも良かった、無事みたいですね……。本当に良かった……」

 開け放たれていたバスのタラップから乗り込んできた初春飾利の姿に、佐天涙子は駆け寄る。
 手を取って息巻く佐天の様子に初春は一瞬面食らうが、すぐにその表情は安堵に緩む。
 ヤスミンやグリズリーマザーに会釈し、泣き笑いのように目元をこするその姿に、天龍も喜びの声を上げた。


「おい、本当に飾利なのか!? マジか、良かった!」
「よぉし、このまま脱ぎ脱ぎしようか深雪。制服は洗濯してあげるからね」
「何ですか何ですか、もう……!!」

 めくられた制服をそのまま脱がされ下着姿となってしまった深雪も、羞恥に憤りながらその来訪者に気づき、目を丸くする。
 しかしその人物に最も驚いていたのは、江ノ島盾子を妹に持つ戦刃むくろだ。

 本当に佐天涙子の言うように、妹が拉致を行っていたのだとしたら、その徹底ぶりも生半可なものではないはずだ。
 そこを抜け出してこれるほどの何かが、初春飾利にはあったのだろうか。
 にわかには信じられなかった。


「さらわれてたって、聞いたんだけれど……、逃げてきたの? 盾子ちゃんの手から……!?」
「ははは、まさかぁ」


 むくろの問いに、初春は屈託なく笑う。
 その瞬間だった。

 ぼこん。と。
 そんな音をたてて、佐天涙子の喉仏が気管に押し込まれた。

「か――、ふ――……!?」

 彼女の両脚から力が抜け、床に倒れ込む。
 驚愕に目を見開いた佐天は、呼吸ができぬまま口をぱくぱくと動かして床に悶える。
 見上げた親友の姿は、ぞっとするほどの笑顔を浮かべていた。


「うぷぷけけけけ……! カワイイ初春ちゃんだと思ったぁ――!?」

 そんな初春飾利の顔がばりばりと破られ、下から、あの女が姿を現す。


「ざぁぁぁぁんねぇぇぇぇん♪ 江ノ島盾子ちゃんでぇぇぇぇす!!」


 悶絶するような凄惨な笑みを高らかに叫び上げたそのピンク色の髪の女は、ただ驚きにひるんだ周囲の者たちへ、無造作に手刀を振るっていた。
 その両腕の一撃で何の抵抗もできぬままに、グリズリーマザー、ヤスミン、天龍、司波深雪、百合城銀子の首が飛ぶ。

「え……、ぐ……」

 その光景を見上げていた佐天涙子の血走った目から、血の涙が流れた。
 しかしもう、彼女の体は悶えることもできなかった。
 気道を塞がれ呼吸のできなくなった彼女は、そのまま壮絶な怒りと絶望を表情に刻んだまま、息絶えていった。


「本当に良かったぜぇ、こんなところで雁首揃えちゃって、絶望的に狩りやすいったらありゃしない!」
「え、江ノ島さん……!?」
「ジュ、盾子ちゃん!? ま、まさか、もう『人間化したヒグマ』に意識をダウンロードできたの!?」

 江ノ島一派であるはずの扶桑とむくろですら、その一瞬の殺戮劇には、驚愕しか抱けなかった。


「まぁ、STUDYとヒグマ帝国がヒグマのバリエーション自体はふんだんに作ってくれてたからね。
 私様のやったことと言えば素材選びくらいで、あとはただ絶望的に退屈な作業をこなしてただけだよん♪」

 その少女、江ノ島盾子は、初春飾利の生皮のオーバーボディを被っていた。
 機械に封じられたアルターエゴに過ぎなかった彼女は、生前の自分の姿をしたHIGUMAの肉体を形作り、そこに意識を上書きさせたのだ。

 戦刃むくろの見立てでは、その作業にはもう少し時間がかかるはずだった。
 予想外に速く進行していた彼女の計画に、むくろは固唾を呑む。


「それじゃあ、もう『人類総江ノ島化計画・改』は、最終段階に入るのね……?」
「そ♪ あとはここにいるみんなに絶望を味わわせてあげるだけ……」

 姉であるむくろですらゾッとするような笑顔で、江ノ島は笑う。


「てなわけで、その銃でその子やっちゃってよ、お姉ちゃん。
 今までの短くも楽しい旅行に蛍の光を流す感じで」

 そして彼女が指さしたのは、むくろの隣で理解の追いつかぬ恐怖に身を竦ませて震えている、黒木智子だった。
 手元の銃と智子を交互に見て、むくろは狼狽える。


「え……!? そ、それは……」
「……どうしたの? なんでできないのかな? あん?
 本当に使えないね、この3Zは」

 妹からの突然の要求に当惑しているむくろへ、江ノ島は低い声で語りかけながら近づいてくる。

 黒木智子は、ただ怯えた表情で、むくろのことを見つめている。
 その青ざめた顔に刻まれているのは、絶望だ。
 それは智子の瞳に映っているむくろ自身の顔にも見えるようで。
 智子も、むくろも、何も言葉を口にすることができなかった。

 確かに二人が出会ってからの時間は短かった。それでも、智子はむくろの内面の美しさを認め、褒めてくれた、友だった。
 少なくとも、むくろにとっては紛れもなく。
 『絶対に守ってあげる』とまで誓った、友だった。

 今目の前で倒れている、人々の死骸が、見慣れた戦場の惨状とは違って見える。

 怨嗟を血涙に浮かべて息絶えている佐天涙子も――。
 そう。
 間違いなく、むくろの心の中に一瞬で踏み込んできた、友だった。


「……ったくこのグズが」


 硬直したむくろの前で、しびれを切らした江ノ島盾子が大きく腕を振りかぶる。
 そこへ割り込んできたのは、扶桑だった。


「やめて下さい、江ノ島さん! 実のお姉さんなんでしょう!?」
「うるせぇな鉄クズが」

 しかしその瞬間、江ノ島の腕は扶桑に向けて振り下ろされていた。
 江ノ島の爪はいとも容易く扶桑の体に食い込み、そのまま彼女の肉体をバターのようにスライスしてしまう。
 扶桑は断末魔さえあげることもできず、驚愕の表情を二つ割りにして命なき肉塊と化した。

「解体されとけ」
「ふ、扶桑……!」


 情け容赦のない妹の殺戮を目の当たりにし続けても、むくろは動くことができなかった。

 役立たずは排除される。当然の理だ。
 盾子ちゃんの命令に従わなかったのだから。
 盾子ちゃんの命令には、絶対に従わなくてはならない――。
 そう頭で冷静に考えていても、むくろの奥底では、違う感情がふつふつと沸き立とうとしていた。
 その二つの思考の狭間にあって、むくろはやはり、動けないのだ。

 そんな彼女の手を、江ノ島盾子が掴む。
 そのままむくろの手ごと握った拳銃を、盾子は黒木智子のこめかみに突きつけていた。


「さて、これでいいだろ? これであとは引き金を引く・だ・け♪」
「ひ、ひいっ……」


 智子の喉からひきつった声があがる。
 盾子の指に力が籠もる。
 むくろの指ごと、拳銃のトリガーが、引かれようとする。


「――や、やめてっ!!」


 その瞬間むくろの感情は、口から爆発のように溢れた。
 咄嗟に彼女は身をよじり、目を固く瞑り、実の妹の手を振り払う。
 そんなことをすれば妹に殺される――。
 そんな結果はわかりきっていたのに。
 むくろは思わず、そう動かずにはいられなかった。


 目を瞑り震えるむくろの上から、声がかかる。
 それは妹の失望か、怒号か――。


「……ありがとうございます。黒幕の“江ノ島盾子”は、このような計画を立てているのですね」


 恐怖に震えていたむくろの耳に届いたのは、そのどちらでもなかった。
 それは掠れている、虚ろな、男の声だ。

 肩に手が置かれる。
 柔らかな毛並みと肉球の感触――。


「……あなたが、深層心理から殺害を拒んで下さり良かったです。
 むやみな殺生を重ねずに済みました。ありがとうございます、戦刃むくろさん」
「あ、あ――」


 むくろが目を開けたとき、そこにいたのは、実の妹の姿ではなかった。
 全身が真っ黒な墨でできているかのような、痩せ細ったヒグマ――。
 それはヒグマ帝国指導者、医療班の長、穴持たず47シーナーであった。

 むくろは、一瞬前とは異なる恐怖で、全身から血の気が引いてゆくのがわかった。
 手に持った拳銃は、自分の心臓に向けて構えられていた。


    ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼


「また初診から攻めたもんだねぇ、シーナー先生は。地下ん時といい勘弁して欲しいよ」
「……グリズリーマザーさんこそ。マスターがいらっしゃっていたならそうと言って下されば良かったものを」
「すまないね、あん時の先生は殺気立ってたから咄嗟にね」

 シーナーは生き埋めになった地下から脱出し、佐倉杏子たちを倒した後、浅倉威の精に見せていた幻覚からグリズリーマザー一行の存在を察知し、彼女たちの行方を追っていた。
 そこで彼は幻覚を纏いながら、見つけたこのバスへと乗り込んできたという次第だった。
 もう既に、幻覚を見続けていたむくろ以外には、簡単な自己紹介まで終わっている。

 探していた親友だと思っていた者に思いもかけぬ肩透かしを食らわされた佐天涙子は、表情をわずかに落胆で曇らせている。


「本当に、初春が来たのかと思った……」
「接触と同時に、人間の方々には幻覚を見ていただきました。迅速な初期対応のためですのであしからず。
 その間ヤスミンから、あなた方と協力している旨は聴取しておきました。
 戦刃さんだけには、すみませんが追加で問診したいことがありましたので。少々侵襲的な診察になりましたがご容赦ください」

 そんな本物の銃を使った寸劇の真横にいた黒木智子は、振り切れた緊張から未だ茫然自失の体だったが。
 誰よりも、視聴触嗅覚の全てを幻覚に飲まれていた戦刃むくろは、自分の漏らしてしまった情報の大きさに、恐怖で震え続けることしかできなかった。

 シーナーが行なっていたのは、謂わば高度に発展した決して破られることのないカマかけだ。
 むくろ自身の思い描いた幻覚の『黒幕』に、むくろ自身が想定する行動をとらせ、情報を引き出せるだけ引き出す。
 その上でむくろが他者へ殺意を持っているのならば、その殺意で最後にはむくろ自身が始末されるという完璧な寸法だ。

 このバスの一同全員に、むくろの語った内容は全て知れ渡ってしまった。
 それも参加者、ヒグマ、元主催という、この島のほとんどあらゆる立場のかなり中心にいるだろう人物たちにだ。
 江ノ島盾子の計画にどれだけ狂いが生じるものかわかったものではない。
 よっぽどあの幻覚の中で自害していた方がマシだったとまで思うが、佐天涙子やシーナーや司波深雪に囲まれた状態では、今更不審な動きなどできようはずもない。
 一体妹はどうなってしまうのか、自分はどうなってしまうのか――。
 そればかりがむくろの頭を埋めていた。


「シーナー先生がトリアージに参加してくださるならばとても助かります。
 それにしても先生、どうしてここにいらっしゃっているのですか?」
「生き埋めになったと聞きましたが、無事だったんですね!?」

 ヤスミンと、下着にタオルを羽織っただけの姿の司波深雪がシーナーに問うている。

「……ええ、ですが灰色熊さんがその命を以て、私とヤイコさんを地上へ送り出して下さったのです」
「……!? は、灰色熊、が……?」
「はい……。力及ばず申し訳ありません。ですが、彼の同胞を想う気持ち、私はしかと受け取りました」

 彼の話に、ヒグマ帝国の関係者は少なからず衝撃を受ける。
 艦これ勢を操る黒幕の力がますます強くなっていることを伺わせるその情報は、帝国の者のみならず、佐天や天龍の緊張感をも強め、そして戦刃むくろの肩身をもますます狭めていた。


「……私もシロクマさんを助けようとして、島の南から一気に北上してきたのです。
 ですがもうここにいらっしゃるということは、モノクマさんの手は逃れられたのですね?
 キングさんやシバさん、ツルシインや龍田さんはどこにいますか?」
「そ、れは……」


 夫が亡くなったという知らせに苦々しく目を閉じたグリズリーマザーをヤスミンがさすっている間、シーナーは司波深雪の方に話を振った。
 その問いかけに、深雪は口ごもるしかなかった。

 シーナーと向かい合ったまま、しばらく深雪は沈黙を続けていたが、その後唐突に彼女は喉を引きつらせて身を引く。


「――ひぃっ!?」

 司波深雪の目には、何かおどろおどろしい幻覚が見えているらしかった。
 そしてそれはどうやら、彼女自身の良心の呵責から、出てきているもののようだった。


「ごめんなさい! ごめんなさい! そもそも私が捕まらなければ!
 あんな調子に乗らなければ! こんな、こんなことには……!!」


 深雪は下着姿のままバスの床に額をすり付け、土下座する。
 シーナーは立ち尽くしたまま、ぶるぶると震えていた。
 彼らの様子に、深雪の幻覚を共有していない車内は一様に当惑した視線を送っている。
 そしてシーナーが、ぽつりと呟く。


「――キングさんも、ツルシインも、死んだ……!?」


 司波深雪はこの車内に、あの喫茶店の跡地に死んだ、兄やヒグマたちの姿を幻視していた。
 彼らの恨めしい声が、幻聴として彼女の耳を揺らした。
 もちろん、彼らが本当に司波深雪を恨んでいるかなどわからない。
 ただそれは、彼女が意識の深くでそう考えてしまう程、自分の行為を後悔していることに他ならなかった。
 そしてその後悔のあらましを、シーナーは詳細に知ってしまっていた。

「あ、あ……」

 すすり泣く深雪の声にシーナーの呻きが重なる。


「何をやっているんだ、何をやっているんだ司波達也ァァァ!!
 これだから人間は! これだからぁぁぁ――!!」


 頭を抱えた彼は、常とは全く異なる荒い口調で慟哭した。
 そして周囲からの驚愕の視線に気づいて、憤った呼吸を落ち着かせながら、重苦しく首を垂れるのだった。

「失礼、取り乱しました……」

 彼の消え入りそうな呟きに、返答できる者はいなかった。
 ただグリズリーマザーが、同じように無力感にまみれた呟きを、空中に投げるだけだ。


「あっちでもこっちでも、死んだ奴ばっかりかい……。
 まったく、イヤな戦いだよ。これは……」


 沈鬱な空気が、車内を埋めていた。


「……こんな状態じゃ、話になるまい。
 食材があるなら、何か作ろう。うん」


 そんな時ふと、司波深雪の制服をシンクで濯ぎ終わった百合城銀子が、その手を打ち合わせて提案する。
 指を立てて得意げに笑う銀子に向け、ようやく幻覚から解放された深雪が、顔を上げてじっとりとした視線を向ける。

「ゆ、百合城さん、今はそんな場合じゃ……」
「乗った。そうしようか」
「え!?」

 その会話で、佐天涙子が膝を叩き、立ち上がっていた。


「百貨店から、いろいろ持ち出してきたんで。たぶんみんな食べられるくらいはあるわ」
「そうだな、腹が減っては戦はできぬ。だ。切羽詰まった戦場だからこそ、食えるときに食っとこう。
 見たところ、扶桑、お前ら何も食ってないだろ」
「あ、はい……。確かにその通りです……」

 天龍も扶桑も、戦闘時だからこその食事と休息の大切さは、重々承知している。
 こんな鬱屈した空気に飲まれてしまう時は、なおさらだ。

 皇魁を、ウィルソン・フィリップスを、島風を、北岡秀一を喪った。
 司波達也を、キングを、ツルシインを喪った。
 クリストファー・ロビンを、言峰綺礼を喪った。
 灰色熊を、喪った。

 そんな喪われていった者への悲しみを包む料理を、百合城銀子は知っていた。


「がうとろな、ハチミツ粥がいい。きっとみんな食べやすい」
「……いいね、がうとろ」


 そんな弔いごはんのメニューを聞いて、佐天涙子は微笑む。


「……でしたら、これを使ってください。私の友の思いが詰まった、蜜です。
 その思いが『みんな』に届くのならば。きっと、この場で使いきるのが、ふさわしい」
「なるほど、本物のスキでできた星の色のミツだ。これは素晴らしい。
 ありがとう。きっと、この子のスキは、約束のキスに届く」

 ヤスミンがその会話を聞いて、ふと寂しそうな表情と共に、ミツの入った壷を百合城銀子に手渡していた。
 その様子だけで、シーナーと司波深雪がハッと息を呑む。

「そう、だったのですか……」
「ハニーさん、まで……」
「はい」

 喪った者の思いを抱えていない者は、この場に誰一人としていなかった。
 ヤスミンは医療者として、同悲を示すような微笑みで語った。


「ですが彼女の思いは、ロビンさんに掬い上げられました。
 そしてここで、きっと本当に救い上げられるのでしょう」


    ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼


 ~ハニーさんのハチミツ粥~

【材料(10人分)】
米                 5合
水                 20カップ(4リットル)
牛乳                5カップ(1リットル)
塩                 小さじ10杯
とりささみの缶詰(生の肉でも可)  2缶程度(むね肉なら2~3枚)
穴持たず82の蜜(ハチミツでも可) 大さじ10杯
生姜                適量
ごま油               適量

【作り方】
1:
「お米はざっとたなごころで研いで。お鍋にあけて水に浸しておくわ」
「入れる肉には、百貨店から持ってきた鶏缶を使おう。本当なら生の鶏肉か、海軍なら大和煮缶でも使ってるところだったが。
 ダシが出るなら何でもいいから、まあ有る具材でやろう」
「肉と一緒に刻んだ生姜と塩、ハチミツも加えておく。がうがう」
「ここでミルクも入れるところが本格的なのよねぇ。コクが出るから。誰のレシピ?」
「私のトモダチのだ」

2:
「あとは蓋をしめて弱火だけど……。ここだとどれぐらいかかります、グリズリーマザーさん?」
「普通の鍋なら1時間くらいかかるんだけどね。圧力鍋だから、沸いてから10分くらいでいいだろうよ。
 そしたら火を消して。圧が抜けたら、かき回して完成さ」
「最後にごま油を回し掛ければ、一気に香りが花開いてデリシャスメルだ」

【トピック】
「ミルクを使った粥は、イスラム世界ではよく食べていました。ロシアやアフリカをはじめ各国に類似のレシピは存在します。意外と国際色に溢れた料理ですね。
 みりんや酒の代わりに蜜を使い、ハラルにも気を遣っていただいたところもありがたいです」
「あとクマは普通、ネギを食べられない。るるが一度紅羽にネギ入りで作ったことがあるが、あれは紅羽用に取り分けたものだ。
 好みもあるし、薬味は個人個人で後のせするのがいいだろう」
「二硫化アリルですね。摂取するとヘモグロビンが壊れますので、犬などにもネギは危険です。
 まぁ、中毒量には個体差がありますので、多少は平気でしょうが。
 あ、ちなみに生姜は食べても平気です。ショウガだけに」
「シーナー先生……」


    ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼


「こうしてると思い出すよ、大戦時の俺の烹炊所のことをさ……」
「へぇ、天龍さんとこじゃ、ご飯はどう作ってたの?」
「ボイラーの蒸気で大釜の湯を沸かして飯を炊いておかず作ってさ……。
 てか、風呂によくて週二回しか入れなかったから、主計科の奴らはだいたい飯炊く前にはこっそりその湯に浸かってたりしてた」
「は!?」
「だから、俺たちはそんな連中のダシ汁で炊いた飯を食ってた感じだ」
「ん、んん……。それも、男の人の、よね……?」
「ああ……、艦娘じゃなくて、むさい野郎どもの、な」
「キミたちのような美しい少女の残り湯で炊くならば良い香りもつくだろうに」
「そういう問題かなぁ……、うーん……」

 天龍が、遠い目をしながら鍋をかき回していた。
 非常に食事が不味くなりそうな思い出話だったが、それとは裏腹に、佐天や天龍や銀子が作った粥はとても美味しそうだった。


「で、ヒグマから逃げてきたんですか? ヤスミンさんやグリズリーマザーさんともあろう方が?
 また江ノ島盾子の作ったバケモノですか? 本当にあの女は余計なことを……!」
「違う……! 違うから!! 知ってたら私も扶桑も対処できてるわ!」
「智子さんはその正体を看破していたようですが、情報が行き渡らず……」
「智子、俺たちに教えてくれないか? あの赤黒い血みてぇなヒグマの詳しい能力を」

 そんな粥を口にしながら、車内は奇妙な四者会談の様相を呈していた。
 参加者、ヒグマ帝国、STUDY、黒幕という各勢力の代表格が食事をしながら一同に会する機会など、おそらく空前にして絶後のことであろう。

 先ほどからほとんど話についていけなかった黒木智子は、そんな異様とも言える壮大な会合の最中で話を振られたことに困惑した。
 うつむいた彼女は、自分にも配られたハチミツ粥に目を落とす。


 白くトロンとして百合の花弁のような質感すら漂っているなめらかな粥に、回し掛けられた黄金色の油は、さながらめしべから溢れる蜜のようだ。
 温かなごま油の香りが椀の中から匂い立ってくるようで、悲しみに沈んでいたはずの心にも食欲を掻き立ててくる。
 一見して中華風の見た目と香りだが、その中に確かに含まれるミルクとミツの柔らかな風味が、この粥の国籍を全世界に広げている。
 人種も宗教も、生物種すら越えて等しく食せる幸せが、この椀には盛られていた。

 一匙すくって口に運び、彼女は深く呼吸する。


「迎え撃つ気か……。本当に逃げる気が無いんだな……、もう」


 静かに答えた言葉には、張りが戻っていた。
 掠れていた喉に染み渡るような優しさとまろやかさが、ミルクとミツに絡まっておなかに収まる。
 それでも、この粥は力強かった。
 優しさの中にあって決して折れない生姜の力強い香りが、確かな塩気と共に一本筋を通して智子の身を引き締めさせる。
 魂さえ溢れ出させるかのような芳醇なその香り。
 ここでのミルクとミツは、甘っちょろいスイーツを形作るような軽薄さを持っていない。
 ただ鶏のダシと共にその鋭さを深め、強めるための下支えに他ならない。

 力なき正義は無力であり、正義なき力は暴力である。
 しかして、仁者は必ず勇あり。
 知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。
 甘みと鹽み、優しさと苛烈さを兼ね備え、凛として咲く百合の花として供するこの一品に、智子の心は確かに後押しされていた。


「そうだよ……、うん、こいつがいれば、確かに……!」

 黒木智子は、目の前に座して粥を食らう仙人のごとき痩せたヒグマを、まっすぐに見つめていた。
 わずかながらも令呪によって魔術回路が開き、この島における聖杯戦争のマスターとなった黒木智子には、今、その正体がはっきりとわかった。


【クラス名】アサシン 【真名】シーナー 【マスター】■■■
【性別】男性 【属性】秩序・中庸
【パラメーター】
筋力:C 耐久:D 敏捷:C 魔力:A+ 幸運:E 宝具:EX
【保持スキル】
気配遮断:EX 人体理解:A+ 気配感知:C 医術:A 外科手術:B 怪力:C
【宝具】
『治癒の書(キターブ・アッシファー)』
ランク:EX 種別:対人宝具 レンジ:知覚できる限り 最大捕捉:知覚できる限り


「やっぱり……、サーヴァントだったんだな、お前……。
 47番目だったからもじって、とか、よく言うよ……」
「……あの時の屋台では、あなた方に正体を明かすつもりはありませんでしたからね、黒木智子さん。
 あえて真実と虚偽を混ぜさせていただきました」

 そのヒグマ『シーナー』は、この島にて勃発した聖杯戦争において召喚された英霊――、サーヴァントに他ならなかった。

 初対面の時にシーナーの正体がわからなかったのは、その時彼が『治癒の書(キターブ・アッシファー)』を展開していたために違いない。
 全感覚を欺瞞しうる幻覚の宝具なのだ。ランスロットの宝具『己が栄光の為でなく(フォー・サムワンズ・グローリー)』のような正体秘匿効果があるのはある意味当然だろう。

 それにしても驚異的なまでに宝具とスキルとクラスの噛み合ったアサシンだ。
 普通の聖杯戦争でそれなりのマスターが召喚したならば、何者にも知覚されないまま開始直後に全ての敵を暗殺して優勝が確定するだろうチート性すら感じさせる。
 彼の宝具の能力は、既に智子も体験している。
 彼ならば確かに、アーカードの五感を封殺し、互角以上の戦いをできるだろう。
 そこへ佐天涙子や天龍、百合城銀子といった追加人員の力を合わせれば、アーカードに立ち向かうというのもまんざら非現実的な話でもないように思えた。


「デミサーヴァントみたいなもんか……、本当の『イブン・シーナー』が、ヒグマの肉体を依代に……?
 それじゃあマスターは一体……」
「それ以上、推測でものを言うのはやめていただきたいですね」

 シーナーの能力とその正体に思いを巡らせていた智子の呟きは、彼の鋭い語気で差し止められた。
 彼の真名は既に、彼自身が初対面の時に示唆している。
 それが余りにも衝撃的な場面で語られたがために、よもや本当に彼の真名だとは思い至れなかっただけだ。
 彼が知られたくなかったのは、彼がヒグマである経緯か、それともそのマスターの正体か――。
 いずれにしても、それを差し止められたところで智子の興味は止まらなかった。


「……っていうか、アサシンのサーヴァントならなんで私のキャスターと親しくなってるんだよ」
「グリズリーマザーさんもサーヴァントであることは存じております。ですがもはや、我々の目的は聖杯戦争どころではなくなっているので」
「サーヴァントが聖杯戦争『どころ』とか言い始めたぞおい……」
「現時点でもう、聖杯戦争でのヒグマの勝利は確定しております。あえて戦うまでもないでしょう」

 既に、この島の聖杯戦争において現時点で生き残っているサーヴァントはシーナーとグリズリーマザーしかいないのだ。
 この期に及んでは、勝敗などじゃんけんで決めてもいい程度の違いしかない。
 それよりも彼らにとっては、ヒグマ帝国をまとめ、この島の全てを絶望に落とそうとしている江ノ島盾子らの目論見を止めることが先決だった。


「アタシの願いは、マスターみたいな『子供たちに、無事に育って欲しい』だけさ。母親ならみんなそうだろうけどね。
 結局物理攻撃しかないアタシがシーナーさんに勝てるわけないし、そりゃあ喜んで協力するさね」
「物理しかないキャスターと、治療に秀でたアサシンなぁ……」

 グリズリーマザーは、ライダー顔負けの機動工房と、回数制限こそあれ致命傷から完全復活できる再召喚術式、そしてかすり傷だけで相手を即死させる呪いという、十分すぎるほどに強力な宝具を有したサーヴァントだ。
 それでも、決定打となる宝具が直接攻撃を起点にせざるを得ない以上、幻覚を操るシーナーにはそもそも当てることが望めない。
 相性最悪だ。
 そもそもシーナーに対して相性勝ちできるような相手が思い浮かばない。

 しかしそこで、彼女はハタと気付く。
 智子が勉強した限りで、そもそもイブン・シーナーに暗殺に纏わるエピソードなどはない。


「というか医学典範はどうしたんだよ!? 世界史で有名な医者で哲学者だろ!?」
「『医学典範(カヌン・マジリス・アッヌワーブ・アッタビーア)』はありません。今の私はキャスターではありませんから」
「てかなんでアサシンクラスなんだよ!?」
「私は間違いなく暗殺者(アサシン)ですよ。
 謬説自身による謬説の論破……。私は『治癒の書(キターブ・アッシファー)』の中で、数多の誤った理論を、その誤り自身が招く矛盾で破綻させ、殺してきました。
 その理論は、自らの望む状態に治療された結果、ひっそりと歴史の闇に死んでいったのです」


 捲し立てる智子につられて、シーナーも粥を食しながら、訥々と語り始めていた。


「人間は、間違った理論を考えてしまうものです。
 どんなに努力しても、それこそ死なない限り、あらゆる迷いを絶った『空中人間』にでもならない限り、誤り続ける生き物です。
 ですがヒグマならばきっと、進化の先に、そんな誤謬のない生命になりうると私は思っています。
 だからこそシロクマさん、あなたがお兄さんをヒグマとして生かした、あの行為も私は認めていたのですよ。
 私は『人間にも、誤り無く生きて欲しい』。だから完璧なヒグマによる国家を建て、人間を管理するのです」
「はい……」

 シーナーに隣で語られながら、深雪は指先を椀で暖めつつ、自分がいかに今まで誤り続けていたか思い返し、唇を噛んだ。
 彼の思想に対し、扶桑がおかゆの匙を咥えたまま、おそるおそる尋ねる。


「艦これ勢に関してはどういう……」
「人間の持ち込んだ要素ですからね、あれも。まだ思考が成熟しきる前のヒグマたちにそれが感染し、爆発的に広まってしまったのです。
 いわばパンデミック。病気と同じです。度を超した症状を呈しているなら全員治療せねばなりません」

 椀から粥を啜っていた天龍が、その返答で眉を顰める。

「それは、俺たち艦娘も殺すってことか?」
「まさか。あなた方はあなた方で、謂わば一つの芸術品です。
 いけないのはそんなあなた方に異常性欲を抱いたり、反社会的行動を起こす患者たちの方です。
 我々ヒグマが人間を統制下に置いた暁には、そうしたモラルについても勉学の場を設け、教導していく方針ですよ」
「もうお前らヒグマが上でいいよ……」


 ヒグマながら聖人君主を思わせるシーナーの言葉に、智子は空を仰いで嘆息した。
 元々が歴史上の偉大な哲学者であり医者だったのだと思うと、もはや自分の如き喪女がいくら雑念で反駁したところで相手にもならないのだろうと思えてしまう。
 どうせ人間など、自国の総理大臣が誰になろうが、ニュースやメディアが適当に褒めちぎって騒ぎ立てていればホイホイついて行くような生物なのだ。
 日本の大臣がヒグマで、ヒグマが大臣だったとしても、何が悪いことがあるのだ。
 何にも悪いことはない。


「本当もう、そういうのどうでもいいから、帰してくれ……」
「ああ、その思想の是非はノーコメントだ。もう俺たち一個人にどうにかできる次元の話じゃない。
 国家うんぬんは、とりあえず江ノ島盾子をどうにかしてから日本国と国同士で外交してくれ」
「無論そのつもりです」

 ロビンの遺骸の上に涙を零す智子の言葉を受けて、天龍とシーナーは互いに頷きを交わす。
 一同がそうして視線を向けるのは、やはり最終的に戦刃むくろの方になる。

 片腕だけの彼女は、文字通り肩身の狭い思いをしながら、半ばヤケクソ気味にハチミツ粥の椀を呷り、熱さに思わず噎せた後、沈んだ声で呟いてゆく。


「……いくら盾子ちゃんのことを聞かれても、今の私には何もわからないわ……。
 誘惑できる手駒を増やそうと駆け回りはしたけど、結局ことごとく失敗したし……。
 ヒグマに襲われるし、こうして鹵獲されるし、盾子ちゃんから連絡はなくなるし……。
 もう……、こんな役立たずのお姉ちゃんは、用済みなのかも……」
「戦刃さん……。あんな妹のこと、大事にしすぎじゃない……?
 それよりもっと自分を大事にしようよ……」
「だって盾子ちゃんは、私の妹なんだもの……!」


 最後には半泣きになってしまった彼女を見かねて、佐天涙子が彼女の隣に腰かけて背中をさする。
 左腕を千切られている彼女が食べづらそうにしていた粥の椀を手に取り、泣きべそをかいている彼女へ、そうしてひと匙すくって差し出した。

「ほら、戦刃さん、あーんして」
「もう……、なんで、なんでそんなに優しいの……!?」

 むくろはそんな佐天に向けて、今まで溜りに溜まっていたむしゃくしゃを一気に涙と共に溢れさせていた。
 嬉しさと悔しさとやるせなさと、妹と佐天の両方に対する申し訳なさが綯い交ぜになって、もう何が何だかわからない。
 むくろはただ大泣きしながら、差し出されたハチミツ粥を頬張り、その染み渡るような美味しさにさらに感涙を零すことしかできなかった。


「おいひいよぉ……。うちの部隊で糧食作ってよぉ……」
「大変だったんだね、戦刃さんも……」

 そんなむくろと佐天のやり取りに、百合城銀子が実に満足げな笑みを浮かべて入り込んでくる。

「ふふ、月の娘なのだから優しいに決まっている。
 よければ深雪の制服も乾かしてやってくれないか?」
「ええ、いいけど……。百合城さんだっけ? 私のこと知ってるの?」
「私の大好きな人と似た匂いをしているんでね。だいたいわかる」
「あ、そう? あなたも鼻が利く系の女子なんだ」

 大胆に顔を寄せて首筋の匂いを嗅いでくる、クマのようなドレスを着た少女に、佐天は嫌悪感を抱くでもなく屈託なく笑う。
 不思議な人だなとは思うが、佐天はアニラを始めとして今日一日だけで不思議なものには散々出会ってきたのだ。今さら驚くほどのことでもない。

 そうして銀子の洗濯した司波深雪の制服を受け取ると、彼女は凍結乾燥(フリーズドライ)の要領で即座に乾かし差し出した。
 一瞬にしてふかふかになった制服を受け取り、深雪は一瞬呆然として目を瞬かせる。

「……本当に乾いてる。あなた、無能力者だったんじゃないんですか?」
「だったけど何? 私がこの半日で進歩してちゃ悪い?」
「いえ……」

 言葉を濁してもそもそと下着の上に制服を纏い直す司波深雪の心情は、面白くない。
 自分より明らかに劣っていたはずの者にやりこめられた感があったり、自分たちの明かな敵と遅い昼食を食べながら話し合いに興じなければならなかったりするこの状況が、彼女にとっては不満でならないのだ。
 しかし彼女が着替えながらくすぶっている間にも、話は深雪の心をよそに進んでいく。


「いいですか。あなたのお悩みにはあくまで医者と患者として接しますが。
 ――初めから決めつけて、諦めるのには、早いですよ」
「そう……、なの……?」

 その時はまさに、江ノ島盾子との板挟みになって泣き崩れてしまった戦刃むくろに、ヒグマ帝国指導者であるシーナーが助言をするという、金輪際お目にかかれないような話が展開されていた。


「この世のものは、『不可能なもの』、『可能なもの』、『必然的なもの』に三分できます。
 存在は本質の偶有であり、原因から流出して生成される結果には、その過程で可能な多くの容態が考えられます。
 『可能なもの』を結果に引き寄せるのは、他者たる、あなたの行ない次第なのです」
「私の行ない次第……」
「わかる。クマは全てのアルケーでありテロスであり、テロスの変革はユリだからな。
 その証拠に、この小さな車内に溢れる広大なユリの園はどうだ! 全身でユリの変革を堪能できるぞ、がうがう!」
「――ひゃぁぁ!? なんで私に飛びついてくるんですか!? やめっ、やめなさい!!」

 敵愾心を剥き出しにしてむくろを睨んでいた深雪に、そうして唐突に百合城銀子が飛びついてくる。
 誰が敵で味方なのかさっぱりわからない四者会談をぼんやりと見つめながら、黒木智子は脱線し続けている話の中に、本題を呟いた。


「……あのヒグマは、アーカードだ」


 その呟きに、おちゃらけていた百合城銀子や、洟をすすっていた戦刃むくろも、彼女の言葉に耳を欹てる。


「きゅ、吸血鬼アーカードが、拘束制御術式を解いて、ヒグマの姿になっていた。
 あ、あの赤いヒグマの正体は、そ、それだった……!」
「なんだ、参加者の吸血鬼ですか。それがヒグマのように変形していただけというわけですね?」

 しかしその瞬間、百合城銀子の束縛を逃れた司波深雪が、待ってましたと言わんばかりに得意げな表情を浮かべて、どもりがちな智子のセリフに割り込んでいた。

 稀有な美少女で、その場にいるだけで注目を集めずにはいられない天性のアイドル、というよりもスター。
 全国から九校が集まる魔法スポーツ対抗戦の会場で、男性人気で一番だった先輩と女性人気で一番だった先輩を抜き、それ以上の熱心なファンを男女共に獲得するカリスマ。
 生身の人間ではなく、オーバーテクノロジーによって青少年の願望が具現化した立体映像だと言われても信じられるほどの造形。

 そんな彼女、司波深雪は、世界的なトップモデルが裸足で逃げ出す美貌と鈴を振るように可憐な声を以て、暴力的なまでに美しい涼やかな口調で、黒木智子の発言を鼻で笑い飛ばしていた。


「フッ、恐れ過ぎなんですよ!
 STUDYはちゃんと喚んだ参加者を把握しています。アーカードなんて大したことありません。
 折角のところご苦労様ですが、私にかかれば杞憂ですよ、黒木智子さん?」
「そ、そう……、なの……、か……? そうか……」


 美貌と共にぶちまけられた司波深雪の自信に、智子は途端に、自分の心配が間違っているかのような錯覚に陥り、途端に意気消沈して口ごもってしまう。
 目の前で得意げに決めポーズを取りながら、血糊でゴワゴワになった長髪を払っている少女は、さながら一度血の池に沈んだとはいえ凛として咲く白百合。
 対する自分は、底なし沼の汚泥にも劣る下賤な喪女。
 これで自信を折るなというのは、智子にとって無理難題に過ぎた。

 そんな深雪の口振りにそこはかとない不安と嫌悪感を抱いた佐天涙子は、前々から思っていた疑問を横から問わざるにはいられなかった。

「『なんか7が三つ並んでる名前の外人』とかいう参加者がいたんだけど、あれは把握してるうちに入るわけ……?」
「ああ……、あのダークブレイドとかいう人は、ちょっとそのスジのヤバい組織から招待しちゃったもので……。有冨さんが呼び方を配慮したんだと思います」
「その時点でちょっと適当すぎない……?」


 確かに把握はしているのかも知れないが、『ちょっとそのスジのヤバい組織から招待しちゃった』という段階で、相当先の見通しが甘いのではないか。
 そもそもSTUDYの有冨春樹は、ちょっと計画がポシャったくらいで学園都市ごと衛星兵器でぶち壊そうとする無駄に壮大で危険かつ穴だらけの小心者だった。
 これで不安を抱くなという方が無理だ。

 それでもこの場の人員を見渡したヤスミンが、的確に分析を述べてそこをフォローする。


「確かに、シーナー先生もいらっしゃいますから、だいぶ勝てる見込みは高くなった気がします」
「いえ、私はすぐに『彼の者』を追撃しに向かいます。今までのお話で、大分彼女の狙いと居場所が掴めましたから」
「え!?」

 シーナーの返答に、彼の参戦をアテにしていた深雪は凄まじい驚愕を見せた。
 彼女の心情も知らぬまま、シーナーは狼狽える深雪へ冷静に計画を説明してゆく。


「江ノ島盾子は、我々が向かった工房からどこかへ機材を運び去り、新たな工房でその『人類総江ノ島化計画・改』を推し進めているのでしょう。
 我々の攻撃と前後してシロクマさんたちが彼女の本隊と思しき軍勢に襲われていたならば、当然その新工房は近くにある……。
 そこで即座に工房として転用できる施設となれば、艦これ勢に占拠されている地底湖畔の工廠くらいしか考えられません」
「あ……、ああ、なるほど! そこなら、私が脱出してくる際に爆破してます!
 どれだけ被害を与えられたかまでは確認してませんが……」
「ならばなおさら、現在、彼女も対応に追われているでしょう。この機に、仕留めます」

 確かに、江ノ島盾子さえどうにかしてしまえば、アーカードなど無視してこの島からトンズラを決め込むことも可能になる。
 司波深雪はシーナーが抜けた場合の戦力を今一度計算し直すが、とりあえずこの場には、ヒグマが2頭、自称境界線の番熊が1頭、艦娘が2人、人間が4人はいる。
 アーカードがいくら吸血鬼だとはいえ、多少銃の扱いに長け、力が強く、死に辛いだけの生物だ
。恐らく余裕であろう――。
 と、そこまで考え、司波深雪はシーナーの計画に賛同していた。


「よろしいですね?」

 最終的にシーナーは、江ノ島盾子の姉である戦刃むくろの方へと話を振る。
 むくろは俯いた顔から怨めし気な上目遣いでシーナーを睨むが、結局ため息と共に諦め混じりに首を振った。


「……私がここで命を懸けても、あなたは止められない。
 ……断れる選択肢なんて、どうせ無いんでしょ?」
「ええ、まあその通りなのですが……。先ほども言ったように、全てはあなたの行ない次第です」


 万に一つの可能性にかけて、妹を殺しに行く自分を止めてみるか――?
 シーナーの言葉はそう言っているようにも聞こえた。
 しかし、こんな状況下でシーナーに攻撃することは、自分の無駄死に以外の何物でもないことは明らかだ。
 それはもう、『可能なもの』ではなく、『必然的なもの』にしか思えなかった。

 それとも、妹のためにもここで出会った友のためにもなる、新たな可能性を見つけてみろとでも言うのだろうか――?


「行ってみればいい……。
 盾子ちゃんの望む『絶望』が一体何なのか……、もう、私にもわからないから……」
「わかりました。DNR(蘇生処置不実施)の同意は彼女自身を追いつめて採らせていただきましょう」

 妹とシーナーとの出会いによって何が生じるのか。
 絶望も希望も何もわからない未来を、むくろはそうして見送ることに決めた。
 椀に残ったハチミツ粥を綺麗に浚って立ち上がったシーナーに、同じく椀の最後を呷って、天龍が声をかけた。


「そうだ、医者なんだよなあんた。行く前にこいつの指、診てやってくれねぇかな」
「佐天涙子さんですか? ええ、構いませんよ」
「え、私?」

 唐突に話を振られた佐天が、驚いて自分を指さす。
 その右手の人差し指と中指は、変形していくつもの鱗状のものが生じていた。


    ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼


「……これは『鱗屑』ですね。背景に疾患があるわけでもないようですし、大雑把に言って肌荒れの一種だと思って差し支えないでしょう。
 アトピーの既往があったりしませんか?」
「……は?」

 そうして、天龍に紹介されるがままにシーナーの診察を受けていた佐天に告げられたのは、あまりにも予想外の病名だった。
 今日一日の出来事の問診から、丁寧な指の視診、神経学的診察などを経て言われるにしては、拍子抜けに過ぎた。


「肌荒れ、なの……?」
「ええ。異形再生というのもよくある現象の一つではありますが、急激に無理な治癒が為されれば、そこに歪みが発生するのも当然です。
 深いケガが後々ケロイドや肉芽のような跡になってしまった経験はあるでしょう?
 骨が折られていたというのなら……、不十分な固定で多少歪んだまま治ってしまったかも知れませんね。
 可動域は問題ないようですが見た目が気になるならば、日本本土に戻った後に整形外科を受診されるのが良いかと」
「……やっぱりか、涙子。お前、ちょっと思い詰め過ぎてたからさ。良かったよどうもなくて」

 当惑する佐天とは裏腹に、天龍は安堵した表情で微笑みかける。
 自身に咎と十字架を負わせて、這いずるように進んできた佐天の様子は、隣で見ていた天龍からすれば、いつか重圧に押し潰されてしまうのではないかと心配で気が気ではなかった。


「見た目の問題、だけ? あの、独覚ウイルスとかいうのに感染したんじゃないんですか、私は!?」
「仮に本当に独覚ウイルスに感染していたとしても、肉体の細胞がすっかり新陳代謝されるのには1ヶ月程度はかかります。
 何らかの影響でそれが加速していたとしても、可能性としては高くないですね」

 佐天が混乱しながら問うても、シーナーは冷静な医学的知見を述べてゆくのみだ。

「でも、でも、私は、初めてヒトを殺してしまったあの時から、モノが歪んで見えたりして……」
「視野検査はしましたが……、それは変形視症かも知れません。
 ものの形が実物と違って見える、大きく延びたり小さくひしゃげたり、まっすぐなはずのものが歪んで見える……。
 『不思議の国のアリス症候群』とも呼ばれる病態の症状でしょう」


 あの時、初めて佐天に『第四波動』という能力が開花した後の謎の現象。
 夢や幻のような、謎の歪んだ空間に迷い込んであらゆるものに歪みを感じていた、佐天の能力の根幹に巣食っているあの感覚をも、シーナーは医学的に説明してしまおうとしている。


「右の後頭葉から頭頂葉にかけては、視覚情報から空間認識をする領域があります。
 ここに脳梗塞が起こったりすると、見えているものが掴めなかったり、ものの形が歪んで見えてしまったりする症状が起こります。
 消耗の激しい戦いを幾度も繰り返して来られたのでしょう?
 聞いた限りでは、佐天涙子さんの症状は例えば、脱水によって脳の一時的な血流低下が起きたための現象だとも考えられます」

 佐天は呆然とした。
 それは天龍の思っていたような、重荷を取り去る救いでは無かった。
 まるで、自分の原動力を根こそぎ盗み取られ、無限に続く落とし穴へ蹴り落とされたかのような感覚だった。

 佐天は震えた。
 怒りや憎しみや後悔や、歪んで捻じ曲がった心の有り様は、確かに苦しく、辛いものだった。
 しかしそれを自分の責任として、罪として受け止めてきたからこそ、佐天はここまで進めてきたのだとも言える。


「私の見たものが……、経験したものが……、たったそれだけの生理現象だっていうの……!?
 殺意とか、心の歪みとか、関係なく……!?」
「精神も神経も、元は一つですよ。人間は見たいものを見るだけの生物です。
 たとい『空中人間』になったとしても揺らぐことのない自己認識と、それに見合うだけの魂の力がなければ、世に溢れる幻覚と錯覚の混迷から逃れることなどできません。
 私の宝具とて、結局は同じことです」

 最後には、シーナーは車内の全員にそう語り掛けていた。

「私は『治癒の書』を以て、人々を望む状態へと治療しているのですよ。
 彼らが望むものを見せ、望むものを与え、永遠の安息を提供しているにすぎません。
 それがただ、結果的に安楽死となっているのみです。
 ゆめゆめ、誤った情報や思い込みに惑わされないようにして下さい」


 絶句してしまった佐天を慰めるかのように彼女の肩を叩き、シーナーは上から笑いかけた。

「ご安心ください。完璧な穴持たず……ヒグマとは違い、人間はそうして誤り続ける生き物です。
 そうしたあなた方を導くのも、私どもの役割です」
「……完璧な生物なんて、いるのかな?」

 だがそんな彼に、佐天は下からねめ上げるように、低い声で呟きを返す。
 半分席から立ち上がりつつ繋げた言葉は、半ば喧嘩腰だった。

 過去の失敗や過ちは、決して無視していいものではなかった。

 その誤りを正して、罪を糺すことこそが、佐天の力であり、信念だった。


「ヒグマだって、私には完璧に見えなかった。
 でもどんなに間違えても、私は足掻こうと思ったし。艦これ勢とかいうヒグマにも、そうして足掻いている奴はたぶんいる。
 ねぇ、その姿勢こそが、歪みのない正しいものじゃないの? どうなんですかね、先生」
「なるほど……、面白い考えですね」


 一瞬、虚ろだったそのヒグマの瞳に、濁りが走った。


「……でしたらその考えは、ご自分で証明してみてください。私の説を謬説だとして論破するその証明、あるならば是非とも拝見したい。
 くれぐれも自分自身に嘘はつかないことです。自己矛盾こそが、歪みと破綻の根元です。
 私の宝具など無くとも、矛盾の果てに、人は死んでゆくものですから」
「どういう、こと……?」

 シーナーは至って静かな口調だったが、その中には、突き放すような嫌悪感が匂い立っていた。
 首を傾げる佐天の前で、シーナーは立ち上がる。


「人でいるのも、獣になるのも、結局はあなたの意思次第だということですよ。
 他人に言うのも結構ですが、あなたこそもっと『自分を大事に』されては?
 ヤスミン、グリズリーマザーさん。あとはよろしくお願いします。首尾よく行けば放送設備もどうにかなると思いますので、連絡はそれで」


 佐天を置き去りにして去ろうとするシーナーに、後ろからヤスミンが鋭く声を投げていた。

「シーナー先生。先生ならば、もっと好く効く処方ができるはずです。
 なぜ、お出ししてあげないのですか」

 ヤスミンの指摘に、シーナーは立ち止まる。
 このままでは、患者である佐天涙子は納得もできないまま、捨て去られるに等しい。
 医療者として、患者をそんな状態で帰すことは、あってはならない。
 シーナーもそれは、重々承知していた。


「ご自身の説に反論されたからですか? 先生らしくありません」
「……そう、ですね」

 彼が呟いたその直後、そのヒグマの姿は、空中で幻のように消えてしまう。
 代わりにその場に立っていたのは、セーラー服を纏った、一人の小柄な少女だった。
 その姿に、佐天は息を呑む。
 少女は佐天に歩み寄り、佐天の見覚え通りの愛くるしい仕草で、彼女に語り掛けていた。


「佐天さん。私はずっと、佐天さんを待ってますから。
 絶対に、助けに来てくださいね……!」
「初、春……!」


 患者の望むものを見せる――。
 小難しい話を聞かせるのではなく、ダイレクトに患者の感覚へ届かせるメッセージ。
 それが、シーナーが『治癒の書』で行う精神治療だった。

 抱きしめた初春飾利の姿は、佐天の記憶にある彼女そのものだった。
 彼女の体温、柔らかな髪の肌触り、華やかな匂い、可憐な声。

 これがあの真っ黒で痩せたヒグマの演じているものだとは、とても思えない。
 そんなことを忘れさせてしまうほど、そのビジョンは何もかもが、佐天の追い求めた初春そのものだった。


「私……、迎えに行く……。何があったって……、折れたりしない」
「……それでこそ、佐天さんです。あんまり、思い詰めないで下さい。
 佐天さんがどんなになったって、私は、佐天さんの親友ですから!」
「うん……、うん……」

 同じように自分の心の有り様を忠告されても、自分の友からかけられる言葉は、全く印象が違って聞こえる。
 初春のうなじの匂いを嗅いでいるだけで、心が洗われ、疲れが癒されてゆくようだった。

 スカートをめくりたい。
 早く初春のスカートをめくって、彼女のパンツを拝みたい。
 そんな気持ちさえふつふつと湧き上がってくる。

 きっと望む通りのパンツが、望む通りのめくれ方で見えるだろう。
 それでも、佐天の指先はすんでのところで押し留まる。

 いくら幸せな幻覚で治療されていても、ここにその現実はない。
 歪んだ観音と対峙していたあの幻の世界と変わらない。
 佐天涙子の日常は、必ず、自分がしっかと足をつけて立つ、この現実において取り戻さねばならないものだった。

 初春の姿をしたシーナーは、抱き合った最後に佐天の両手を握り、強く握手した。


「おかゆ、ご馳走様でした。美味しかったですよ。佐天さん」
「うん……。ありがとう……」


 その少女はみどりの黒髪を揺らし、佐天の心に沁みる、柔らかな微笑みを送っていた。
 それは佐天が、細く歪んだ三日月の自分で包み込み、守りたい笑顔だ。
 風になれ。砂になれ。炎になれ。氷になれ。みどりのために。
 その笑顔を守るためなら、私はきっと、なんだってできる――。

 それは力の根源が何であれ確信できる、確かな決意だ。
 佐天はシーナーの治療を受けて、明確にそう再認識した。
 『治癒の書』は、原動力を失いかけた佐天の心に新たな火をつける、確かな特効薬となった。

 バスのタラップを駆け降り、森の中に消えてゆく少女の後ろ姿を見送って、佐天は静かに呟く。

「ありがとう……、シーナーさん。あなたこそ、自分を大事にしてよね……」

 あくまで医療者としての真摯な姿勢を崩さなかったその仙人の如きヒグマに、佐天は患者として、深く感謝せざるを得なかった。


「良かったな……、涙子……」
「……あれすごいな。頼めばあのまま好きな子とベッドインまでできるのかな、がうがう?」
「そこまで先生が付き合ってくれるか……。でもお兄様となら……、しまった、ダメもとでも頼んでおくべきでした……」
「も、もしかして苗木くんとも……?」
「やめましょうむくろさん……」

 外野がざわついていたが、晴れ晴れとした心境の佐天には届かない。


【E-2とF-2の境 枯れた森 夕方】


【穴持たず47(シーナー)】
状態:ダメージ(大)、疲労(中)
装備:『固有結界:治癒の書(キターブ・アッシファー)』
道具:相田マナのラブリーコミューン
[思考・状況]
基本思考:ヒグマ帝国と同胞の安寧のため、危険分子を監視・排除する。
0:ヒグマに仇なす者は、殺滅します
1:今のうちに、江ノ島盾子を仕留めます……!
2:莫迦な人間の指導者に成り代わり、やはり人間は我々が管理してやる必要がありますね!!
3:モノクマさん……あなたは、殺滅します。
4:懸案が多すぎる……。
5:デビルさんは、我々の目的を知ったとしても賛同して下さいますでしょうか……。
6:相田マナさん……、私なりの『愛』で良ければ、あなたの思いに応えましょう。
7:佐倉杏子さん……、惜しい若者でした……。もしも出会い方が違えば……。
8:おかゆ、美味しかったですよ。佐天涙子さん。
[備考]
※『治癒の書(キターブ・アッシファー)』とは、シーナーが体内に展開する固有結界。シーナーが五感を用いて認識した対象の、対応する五感を支配する。
※シーナーの五感の認識外に対象が出た場合、支配は解除される。しかし対象の五感全てを同時に支配した場合、対象は『空中人間』となりその魂をこの結界に捕食される。
※『空中人間』となった魂は結界の中で暫くは、シーナーの描いた幻を認識しつつ思考するが、次第にこの結界に消化されて、結界を維持するための魔力と化す。
※例えばシーナーが見た者は、シーナーの任意の幻視を目の当たりにすることになり、シーナーが触れた者は、位置覚や痛覚をも操られてしまうことになる。
※普段シーナーはこの能力を、隠密行動およびヒグマの治療・手術の際の麻酔として使用しています。
※英霊『イブン・シーナー』がヒグマの肉体を依代にアサシンのクラスとして召喚されたデミサーヴァントです。


    ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼


 ロマンチックな演出をもたらしていたシーナーの幻覚に、ミーハーな女子共が浮足立っていたが、そのころグリズリーマザーやヤスミンはしきりに鼻をひくつかせていた。

「……シーナーさんの幻覚に盛り上がるのはいいけど。なんか、血の臭いが濃くなって来てないかい?」
「……私も同感です」
「がう、そのようだ。これがその例の吸血鬼の臭いか?」
「……ふぅ。ごめん、初春の匂いを堪能してたから今から嗅ぐわ」


 その鬼気迫る言葉に、百合城銀子や佐天涙子も即座に平常心に戻って臭いを嗅ぎ始める。
 ついに逃亡が叶わなくなったことを悟り、黒木智子が喉を引き攣らせた。

「ひぃぃぃぃ……!?」
「来たか……! 早速、武装を確認して戦闘準備をしよう、涙子、扶桑!」
「大丈夫ですよ、まず落ち着きましょう」

 そんな車内の様子に旗艦として即座に号令をかけようとした天龍の動きを、司波深雪が差し止めた。
 その自信に裏打ちされた美貌に、車内の注目が集まる。


「STUDYの調べでは、吸血鬼アーカードは、大学教授である初代ヘルシング卿を初めとするただの一般人4人に倒され捕獲されていました。
 その程度の能力しか持たぬ相手。多少姿形を変えていたところで、恐れることなどないでしょう」
「――!?」


 だが、その頓珍漢な深雪の発言に、黒木智子は眼を剥いた。
 余りに絶望的だった彼女のアーカードへの認識に、しばらく智子は口をぱくぱくと無意味に開閉させる。
 言葉がようやく形を成したのは、数秒経ってからだった。

「バ、バ、馬鹿かよ……!?」
「は? 馬鹿とはなんですか。私はあなたなど足元にも及ばぬほど学業の成績が高いんですよ?」
「――情報が古すぎんだよこの低能クソビッチ!! なんか私の知らねぇ弱点でもあんのかと思ったじゃねぇか!!
 期待させるだけさせやがって、このドカス! 死ね! 氏ねじゃなくて死ねドキュソが!!」

 そのやりとりに、今まで司波深雪の自信をなんとなく信用していた車内の一同は、一斉に頭を抱えた。
 心の奥底にあった嫌な予感が的中してしまった。そんな感覚だった。
 狼狽える深雪に対する視線は、冷淡だ。

「なんで!? なんで私がそんな謂われもない罵倒を受けるんですか!?」
「あのさぁ、あんたさ。今言ったのって、『STUDYはただの無能力者である佐天涙子たちに一度破産まで追い込まれました』って言ってるのと同じだからね?」
「……『ゆめゆめ、誤った情報や思い込みに惑わされないようにして下さい』か、あの医者の言った通りだな」


 司波深雪は、彼女が今言った通りの論法で、自分たちの組織が無能であると公言できてしまう。
 それを否定して自分たちが有能だというのならば、同じように先程の発言は否定され、アーカードの危険性を軽んじられる根拠は、どこにもなくなる。
 アーカードを捕獲したという『一般人』は、恐らく学園都市でいうレベル5あたりの人物なのだろう。そうとしか考えられなかった。

 そもそも、クリストファー・ロビンという超人的な投手や、言峰綺礼という稀代の拳法家にして魔術師の神父がなす術もなく殺されてしまったという情報を会談で聞いておきながら、シーナーの幻覚がアテにされていたとはいえよくも楽観的な判断を下せたものだと呆れるしかない。
 完全に参加者サイドである佐天や天龍は、前々から感じていた主催組織のいい加減さを再認識せざるを得なかった。


「急げ! 急いで行け! あいつをやり過ごせるどこかまで!」

 迫り来る闇にひれ伏しそうな勢いで運転席の方へ身を乗り出し、智子は叫んだ。


「マスター、もう逃げるのはよそう」

 しかしその言葉を背に受けて、グリズリーマザーは首を横に振る。


「涙子ちゃんだっけ? あんたの言うとおりだ。どこにも逃げ出す場所なんてない。
 だったら足掻くしかないさね……!」

 グリズリーマザーは、ハチミツ粥を呑み干して、強くハンドルを握る。
 夫の死の知らせが、彼女を発憤させていた。
 英霊でもない彼が命を張って守ろうとしたこの国とそこで暮らす子供たちの生活を、彼女が護らずにいられるわけなど、なかった。

「私にもやらせて」

 その声にむくろが立ち上がり、扶桑や天龍、佐天を見回して声をかける。
 何が妹のためになるのか思い悩んでいた彼女にしても、この場ですべきことだけは、わかりきっていた。


「少なくとも……盾子ちゃんの計画としても、あのヒグマはいるべきではないはず。
 指揮系統の作成、戦闘物資の配分、敵殲滅のための作戦を早急にたてましょう」
「は、はい……! わ、私の主砲、今度こそ使わせてください! ヤスミンさん、お願いします!」
「分かりました……。返却しましょう。恐らくこれが最大の武装でしょうしね」
「了解だ。とりあえず智子、知ってたらみんなに、有効な対策を教えてくれ」
「あ、ああ……! とにかく、ここ動けるようにしないと……、クソ強いんだ、力も、速さも……!」
「わかった! すぐ氷取るわ!」
「がうがう~……、クマの臭いが近づいて来るぞぉ……。東からだ。かなり大きいな……」


 ただ独り司波深雪だけが狼狽えているさなかで、屋台バスの車内で人々は方々で動き始める。
 リアウィンドウ越しに目を眇めていた百合城銀子や、バックミラーを凝視していたグリズリーマザーの瞳に、森の奥から蠢きつつ近づいてくる赤が映る。

「来るよ。ひとつ弔い合戦と行こうか。――旦那ばっかりに良いカッコさせてらんないからね」
「俺たちも外の氷砕くぞ! 燃料あるよな扶桑!?」
「はい! 今行きます!」


 そうして佐天や天龍、扶桑が車外に駆け降りた時、天高くから、雷鳴のように響く巨大な声が彼女たちの上に降り注いでいた。

『お待たせした! ご丁寧にもこんな近くのVIP席にご参列いただいたままとは恐悦至極だ人間(ヒューマン)!!』
「な、なんですか、あれは!?」
『ご期待にお応えして、この私も、全身全霊の全力全開を以てお相手いたそう!!』


 深雪を始めとしたその場の全員が、その声の正体にひるんだ。
 森の空に聳え立つそれは、さながら赤色の塔だ。
 それは血液でできた巨大な真紅の龍のような姿をとり、ちっぽけな屋台バスを1キロメートルほど先から見下ろしている。
 その龍は、これだけ離れていてもはっきりと見える巨大さで、見下ろされるほどに高く、声を届かせるほどの威圧感を有しているのだ。


「も、もう『二式解放』とかいう状態に入ってやがる……!
 『拘束制御術式(クロムウェル)』の第3~1号まで全開放だ……!」

 がちがちと歯を鳴らして、黒木智子は怯えた。
 アーカードはもう既に本気の臨戦態勢で、既に彼女たちを射程に捉えている。

 そして彼女の耳には、さらに恐怖を催させる朗々とした詠唱が響いてくる。


『私は――、黄金ならざる卑金属』
「ひぃいぃぃ――!」


 その響きは、この呪文の意味を察している智子以外にも、得体の知れない恐怖を抱かせた。
 何だかわからないが、止めなくてはならない。
 そうしなければ、更なる絶望が、襲い掛かってくる――。
 何故か本能的に、彼女たちはそう感じた。


「あいつを止めろぉぉ!! ダメだ! あれをさせちゃダメだぁぁ!!」


 だがそんな智子の叫びに、応えられる者はいなかった。


『黒化(ニグレド)無く白化(アルベド)無く、ヘルメスの鳥を去りたれば。
 数多の水銀呑みし日々を嗤いて、堕ちし赤化(ルベド)を題さん――』


 既にHIGUMAを取り込んだ彼を縛る拘束は、ない。
 最早彼が自分の全力を出すのに必要なのは、ただその状態を、定義することだけだった。

 彼の存在が辿り着いたその場所。
 その境地が、名付けられる。


『「死の河」』


 赤黒い龍が、弾けた。
 そうして上空遥かから滝のように降り注いだ赤は、森に落ちて溢れ出す。

 森の奥から怒濤のように押し寄せてくる、死者の波、亡者の河。
 辛うじて立っていた森の木立を薙ぎ倒し、呑み込み迫り来る赤い軍勢。
 それは今まで吸血鬼アーカードが吸収してきた三百数十万あまりの全ての生命が、再びこの世に召還されてきた姿であった。


「――うそ、うそ……!! こんなの事前調査で把握してない!!」


 司波深雪が絶叫した。
 バスの中を、声にならない悲鳴が埋める。
 夕闇に轟音をたてて迫り来るその波濤を前にしてしかし、佐天涙子は強く言い放つ。


「まだ落胆なんて不要(ニードレス)よ!!」


 ――ああ、夜が来る。底なしに来る。


【F―2 『死の河』 夕方】


【ヒグマード(ヒグマ6・穴持たず9・穴持たず71~80)】
状態:『死の河』
装備:跡部様の抱擁の名残
道具:手榴弾を打ち返したという手応え
0:私も全力でお前たちの振る舞いに応じよう! 人間!!
1:また戦おうじゃあないか! 化け物たちよ!
2:求めているのは、保護などではない。
3:沢山殺されて、素晴らしい日だな今日は。
4:天龍たち、ウィルソン上院議員たち、先の人間や化物たちを追う。
5:満たされん。
[備考]
※アーカードに融合されました。
 アーカードは基本ヒグマに主導権を譲っていますが、アーカードの意思が加わっている以上、本能を超えて人を殺すためだけに殺せる化け物です。
 他、どの程度までアーカードの特性が加わったのか、武器を扱えるかはお任せします。
※アーカードの支給品は津波で流されたか、ギガランチャーで爆発四散しました。
※再生しながら、北部の森一帯にいた外来ヒグマたちを融合しつくしました。
※『死の河』となり、彼が今までに吸収していた三百数十万あまりの命が一気に解放されました。これからこの『死の河』は津波のように周囲を襲い行くでしょう。


【穴持たず46(シロクマさん)@魔法科高校の劣等生】
状態:ヒグマ化、魔法演算領域破壊、疲労(小)、全身打撲、ヒグマの血がついている、溢れ出す魂
装備:ミズクマの娘×1体
道具:なし
[思考・状況]
基本思考:兄を復活させる
0:諦めない。
1:佐天涙子もアーカードも、事前調査と違いすぎるんですけど!!
2:江ノ島盾子には屈しない。
3:私はヒグマたちに対して、どう接すれば良かったのでしょうか……。
4:残念ですが、私はまだ、あなたが思うほど一人ぼっちではないようです。有り難いことに……。
5:私はイソマさんに、何と答えれば、良かったのでしょうか……。
6:何なんですか低能クソビッチって!?
[備考]
※ヒグマ帝国で喫茶店を経営していました
※突然変異と思われたシロクマさんの正体はヒグマ化した司波深雪でした
※オーバーボディは筋力強化機能と魔法無効化コーティングが施された特注品でしたが、剥がれ落ちました。
※「不明領域」で司馬達也を殺しかけた気がしますが、あれは兄である司波達也の
 絶対的な実力を信頼した上で行われた激しい愛情表現の一種です
※シロクマの手によって、しろくまカフェを襲撃していた約50体の艦これ勢が殺害されました。
※モノクマは本当に魔法演算領域を破壊する技術を有していました。


【百合城銀子@ユリ熊嵐】
状態:溢れ出す魂
装備:自分の身体
道具:自分の身体
[思考・状況]
基本思考:女の子を食べる
0:さて、次に食べられそうな女の子は誰かな?
1:さすがは月の娘。こんな嵐の中でも曇りなきデリシャスメルだ。
2:ピンチの女の子を助け、食べる
3:数々の女の子と信頼関係を築き、食べる
4:ゆくゆくはユリの園を築き、女の子を食べる
5:『私はあらゆる透明な人間の敵として存在する』
6:深雪は堪能させてもらったよ。本格的に食べるのはまたの機会にな。
[備考]
※シバに異世界から召還されていた人物です。
※ベアマックスはベイマックスの偽物のようなロボットでシバさんが趣味で造っていました
※ベアマックスはオーバーボディでした。
※性格・設定などはコミック版メインにアニメ版が混ざった程度のようですが、クロスゲート・パラダイム・システムに召還されたキャラクターであるため、大きく原作世界からぶれる・ぶれている可能性があります。


【佐天涙子@とある科学の超電磁砲】
状態:深仙脈疾走受領、アニラの脳漿を目に受けている、右手示指・中指が変形し激しい鱗屑が生じている、衣服がボロボロ、溢れ出す魂
装備:raveとBraveのガブリカリバー
道具:百貨店のデイパック(『行動方針メモ』、基本支給品、発煙筒×1本、携帯食糧、ペットボトル飲料(500ml)×3本、缶詰・僅かな生鮮食品、簡易工具セット、メモ帳、ボールペン)、アニラのデイパック(アニラの遺体)、カツラのデイパック(ウィルソンの遺体)
[思考・状況]
基本思考:対ヒグマ、会場から脱出する
0:逃げ惑いはしない! まだ落胆など無用よ!!
1:初春を守る。そのためには、なんだってできる――!!
2:もらい物の能力じゃなくて、きちんと自分自身の能力として『第四波動』を身に着ける。
3:その一環として自分の能力の名前を考える。
4:『下着御手(スカートアッパー)』……。
5:本当の独覚だったのは、私……?
6:ごめんなさい皇さん、ごめんなさいウィルソンさん、ごめんなさい北岡さん、ごめんなさい黒木さん……。ごめんなさい……。
7:思い詰めるなって? ありがたいけど、思い詰めるのが私の力よ。
[備考]
※第四波動とかアルターとか取得しました。
※左天のガントレットをアルターとして再々構成する技術が掴めていないため、自分に吸収できる熱量上限が低下しています。
※異空間にエカテリーナ2世号改の上半身と左天@NEEDLESSが放置されています。
※初春と協力することで、本家・左天なみの第四波動を撃つことができるようになりました。
※熱量を収束させることで、僅かな熱でも炎を起こせるようになりました。
※波紋が練れるようになってしまいました。
※あらゆる素材を一瞬で疲労破壊させるコツを、覚えてしまいました。
※アニラのファンデルワールス力による走法を、模倣できるようになりました。
※“辰”の独覚兵アニラの脳漿などが体内に入り、独覚ウイルスに感染しました。
※殺意を帯びた波紋は非常に高い周波数を有し、蒼黒く発光しながらあらゆる物体の結合を破壊してしまいます。
※高速で熱量の発散方向を変えることで、現状でも本家なみの広範囲冷却を可能としました。
※ヒグマードの血文字の刻まれたガブリカリバーに、なにかアーカードの特性が加わったのかは、後続の方にお任せします。


【天龍@艦隊これくしょん】
状態:小破、キラキラ、左眼から頬にかけて焼けた切創、溢れ出す魂
装備:日本刀型固定兵装、投擲ボウイナイフ『クッカバラ』、61cm四連装魚雷、島風の強化型艦本式缶、13号対空電探
道具:基本支給品×2、ポイントアップ、ピーピーリカバー、マスターボール(サーファーヒグマ入り)@ポケットモンスターSPECIAL、サーフボード、島風のデイパック(島風の遺体)
基本思考:殺し合いを止め、命あるもの全てを救う。
0:全力で涙子をサポートする……! 旗艦として、必ず敵艦隊を掃討して見せる!
1:扶桑、お前たちも難儀してたみてぇだな……。
2:迅速に那珂や龍田、他の艦娘と合流し人を集める。
3:金剛、後は任せてくれ。俺が、旗艦になる。
4:ごめんな……銀……、島風、大和、天津風、北岡……。
5:あのヒグマたちには、一体、何があったんだ……。
[備考]
※艦娘なので地上だとさすがに機動力は落ちてるかも
※ヒグマードは死んだと思っています
※ヒグマ製ではないため、ヒグマ製強化型艦本式缶の性能を使いこなしきれてはいません。


【黒木智子@私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!】
状態:血塗れ、ネクタイで上げたポニーテール、膝に擦り傷、溢れ出す魂
装備:令呪(残り2画/ウェイバー、綺礼から委託)、製材工場のツナギ
道具:基本支給品、制服の上着、パンツとスカート(タオルに挟んである)、グリズリーマザーのカード@遊戯王、レインボーロックス・オリジナルサウンドトラック@マイリトルポニー、ロビンのデイパック(手榴弾×1、砲丸、野球ボール×1、石ころ×69@モンスターハンター、基本支給品×2、ベア・クロー@キン肉マン )、ロビンの遺体
[思考・状況]
基本思考:モテないし、生きる
0:ロビン……、お前を、私はどうすればいい……?
1:グリズリーマザーと共に戦い、モテない私から成長する。
2:グリズリーマザー、ヤスミンに同行。
3:アーカードは……、あんな攻撃じゃ、死なない……。
4:ダメだこの低能クソビッチ……。顔だけ良くて頭と股はユルユルじゃねぇか。
5:即堕ちナチュラルボーンくっ殺とか……、本当にいるんだなそういう残念な奴……。
6:お前もだいぶ精神にキてないか? 素敵なパンツマイスターさんよ……。
※魔術回路が開きました。
※グリズリーマザーのマスターです。


【穴持たず696】
状態:左腕切断(処置済み)、波紋注入、溢れ出す魂
装備:コルトM1911拳銃(残弾3/8)
道具:超小型通信機
基本思考:盾子ちゃんの為に動く。
0:この死者の津波は、一体……!?
1:こんな苗木くんみたいに強くて優しい涙子さんと仲間になれたなんて……。
2:智子さんは、すごく良い友達なんだから……! 絶対に守ってあげる……!
3:言峰さんとロビンくんの殉職は、無駄にしてはいけない……!
4:良かった……。扶桑は奮起してくれた!
5:盾子ちゃん、大丈夫かな……。
6:盾子ちゃん……。もしかして私は、盾子ちゃんを裏切ったりした方が盾子ちゃんの為になる?
※戦刃むくろ@ダンガンロンパを模した穴持たずです。あくまで模倣であり、本人ではありません。
※超高校級の軍人としての能力を全て持っています。


【扶桑改(ヒグマ帝国医療班式)@艦隊これくしょん】
状態:ところどころに包帯巻き、キラキラ、溢れ出す魂
装備:鉄フライパン、35.6cm連装砲
道具:なし
基本思考:『絶望』。
0:天龍さん、一体何があなたを、こんなに強くさせたんですか?
1:この、電信を返して下さった方は……?
2:ああ、何か……、絶望から浮上してくるのって、気持ちいいですね……!
3:他の艦むすと出会ったら絶望させる。
4:絶望したら、引き上げてあげる。


【グリズリーマザー@遊戯王】
状態:溢れ出す魂
装備:『灰熊飯店』
道具:『活締めする母の爪』、『閼伽を募る我が死』
[思考・状況]
基本思考:旦那(灰色熊)や田所さんとの生活と、マスター(黒木智子)の事を守る
0:どこへも逃げ出す場所はないさ。イッツ・ア・ニュー・スタイル・ウォーってね。
1:マスター! アタシはあんたを守り抜いてみせるよ!
2:灰色熊……、アンタの分も、アタシが戦ってやるさ。見ときな!
3:とりあえずは地上に残ってる人やヒグマを探すことになるかしら。
4:むくろちゃんも扶桑ちゃんも難儀だねぇ……。
5:実の姉を捨て駒にするとか、黒幕の子はどんだけ性格が歪んでるんだい……?
[備考]
※黒木智子の召喚により現界したキャスタークラスのサーヴァントです。
※宝具『灰熊飯店(グリズリー・ファンディエン)』
 ランク:B 種別:結界宝具 レンジ:4~20 最大捕捉:200人
 グリズリーマザーの作成した魔術工房でもある、小型バスとして設えられた屋台。調理環境と最低限の食材を整えている。
 移動力もあり、“テラス”としてその店の領域を外部に拡大することもできる。
 料理に魔術効果を付加することや、調理時に発生する香気などで拠点防衛・士気上昇を行なうことが可能。
※宝具『活締めする母の爪(キリング・フレッシュ・フレッシュリィ)』
 ランク:B 種別:対人宝具 レンジ:1~2 最大捕捉:1~2人
 爪による攻撃が対象に傷を与えた場合、与えた損傷の大きさに関わらず、対象を即死させる呪い。
 対象はグリズリーマザーが認識できるものであれば、生物に限らず、機械や概念にまで拡大される。
※宝具『閼伽を募る我が死(アクア・リクルート)』
 ランク:B+ 種別:対人宝具 レンジ:- 最大捕捉:1人
 自身が攻撃を受けて死亡した場合、マスターが令呪一画を消費することで、自身を即座に再召喚できる。
 または、自身が攻撃を受けて死亡した場合、マスターが令呪一画を消費することで、Bランク以下の水属性のサーヴァント1体を即座に召喚できる。


【穴持たず84(ヤスミン)@ヒグマ帝国】
状態:溢れ出す魂
装備:ヒグマ体毛包帯(10m×8巻)
道具:乾燥ミズゴケ、サージカルテープ、カラーテープ、ヒグマのカットグット縫合糸、ヒグマッキー(穴持たずドリーマー・残り1/3)、基本支給品×3(浅倉威、夢原のぞみ呉キリカ
[思考・状況]
基本思考:ヒグマ帝国と同胞の安寧のため傷病者を治療し、危険分子がいれば排除する。
0:全員を生還させる手立てを考えなければ……。
1:帝国の臣民を煽動する『盾子』なる者の正体を突き止めなければ……。
2:エビデンスに基づいた戦略を立てなければ……。
3:シーナーさん、帝国の皆さん、どうかご無事で……。
4:ヒグマも人間も、無能な者は無能なのですし、有能な者は有能なのです。信賞必罰。
※『自分の骨格を変形させる能力』を持ち、人間の女性とほとんど同じ体型となっています。

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最終更新:2016年10月09日 22:42