しんしんと雪の降り積もる雪原は踏みしめられた足跡を即座に白く上塗りしていき、重苦しく灰色に染め上げられた空からは今が日中だとは思えぬほどに、ちっとも光が漏れてこない。
 ロアーヌ北方の関所を抜けてから数日。
 本行軍演習の折り返し地点となるポドールイへと向け、ロアーヌ騎士団はその日の予定を突然の降雪によって大幅に遅らされてしまったものの、着々と行軍していた。
 今登っている峠を越えれば間も無く街が見えるはずなので其処まではこのまま突っ切ってしまおうという指揮官の判断の元に、彼らはこの悪天候の中で速度を緩める事なく前進する。通常の歩行よりも雪が体力を余計に奪うため非常に過酷な行程だが、そのような事態でも脱落する者もなければ弱音を吐く者すらも居ない。それは、彼らが一人の例外もなく強靭に鍛え上げられた屈強なる騎士であることを示していた。
 本行軍演習の現在の指揮官はパットンという男で、間も無く世代交代を迎えるロアーヌ騎士団の新世代の中の気鋭の一人だ。因みに本行軍演習に参加している騎士達はほぼ全てが新世代組で構成されており、パットンも勿論その同期である。今回は幾つかのルートを交代して幾人かが指揮をとりながら進める形をとっており、中間地点たるポドールイまでが彼のターンだというわけだ。
 ところで如何せんこのパットンという男は好戦的な性格で突撃陣形を好み、その行軍も荒々しさが垣間見える。
 それはこの降雪の中の強行軍にも十二分に現れており、これにはあとで文句をつてやろうなどと皆が一様に考えているなどという事は、この雪の中の行軍の正当性を確信して止まないパットンには想像もつかぬ事であった。
 一行はポドールイに到着後予め用意された場所にて宿を取り、翌日には領主である伯爵の元に挨拶に訪れてから現地で演習を行い、その完了を以てロアーヌへと帰還する予定だ。
 やがて一行は長く険しかった峠を登りきり、そこから眼下に仄かに明かりの灯る街を見下ろす。
 気がつけば辺りに降る雪は穏やかな表情へと移ろい、見上げれば立ち込めていた暗雲も疎らになっている。
 辺りには宵闇が訪れ、それまで無言であった騎士達の間にも俄かに安堵の表情が垣間見えた。

「・・・あーつっかれた!おいパットン!無茶苦茶だぞお前!」

 雪除けの帽子を取りさってバタバタとはたきながら早速文句を飛ばしたのは、タウラスだ。
 血気盛んな世代の中では一番の慎重派であり、突撃思考のパットンとは真逆の防御に重点を置いた陣形や戦術を好む。因みにこの両者は全く意見が合わないことから、何かにつけ突飛な提案をするパットンに最初に突っかかるのが常にこのタウラスなので、パットンは彼のことを自分と同じく好戦的な性格だと捉えている。

「何をいう。この行軍のお陰で夜中を待たずにポドールイにたどり着けたんだろうが」
「アホか。ここは元々夜中にもならないし昼間にもならないだろ」
「アホとはなんだ、アホとは!」
「おーおーアホをアホと言って何が悪いんだ!?」

 次第に子供の喧嘩の様を呈し始めるそれは最早恒例行事のようなもので、誰もそんな二人の言い争いに口を挟もうとは思わない。
 そんな二人の口喧嘩を慣れた様子で聞き流しながら、本演習に参加する紅一点であるカタリナはタウラスと同じく雪除けの帽子をとりさった。そうする事で帽子の中で窮屈そうにしていた長い銀髪を漸く外気に解放してやりつつ、彼女はもう一度ゆっくりと空を見上げる。
 そこには、タウラスの言うように昼間でもなければ夜中と言うほどまで暗すぎるわけでもない、俗に『宵闇』と言われる空がある。このポドールイと言う街の周辺は、どうした訳か一年を通して常にこの状態を維持している。ここには昼が訪れることもなければ、真夜中が訪れることもない。まるでここだけ時が止まっているかのように、ずっとこの宵闇が横たわっているのだという。
 まるで眠りを誘う揺り籠のように穏やかに身を包むその宵闇に、カタリナは不思議と安心感を覚える。それが人ならざるものと隣り合わせの感覚であることを知っているはずの彼女だったが、それでもこの宵闇は、あまりに優しい。

「・・・大体一年ぶり、か・・・」

 煌々と輝く宙空の月を見上げ、小さく呟く。するとまるでその声に歓喜するように降り注ぐ雪の結晶が一陣の風によってふわりと舞い上がり、ポドールイの街の明かりへと吸い込まれていった。





 ギギギ・・・と具合の悪そうな不快な音を立てながら開いた扉の中に積もった埃の厚みや内装の古めかしさから、この場所は長らく使われていなかった事が伺える。入り口近くの一部だけが物置として利用されている様だが、それ以外の空間の大部分は伽藍堂だ。
 ここはすぐ横に建つ宿の納屋を増改築して作られた、大所帯宿泊用の別棟だという。
 死蝕以前はこうした行軍演習も頻繁に行われており毎年お世話になっていたらしいのだが、死蝕以後は情勢や予算の関係上行われていなかったためここも使われる事がなく、長いこと放置されていたらしい。
 二人の口喧嘩もそこそこに無事街にたどり着いた一行は宿の主人に挨拶を済ませたあと、まず本日世話になるここの掃除を全員で始めた。大の大人が十数人も集まっていたので何ら滞る事なく、掃除は一時間程度ですんなりと終わらせた。あとは明日にこの地を治める伯爵への謁見を行うまでは自由時間となるので、若き騎士達は本演習の束の間の休息を求めて街へと繰り出す算段をしていた。

「カタリナ。久しぶりに一杯付き合えよ」

 行軍用の装備を解いて軽くなった肩を回しながらそう声をかけてきたのは、コリンズだった。
 彼はカタリナと年齢的にも近く、騎士団候補生時代から数えて十年来の付き合いになる。
 このコリンズという青年は疾風の如き速攻戦術を尊び、フラッグ戦の様な演習では右に出るものがない程の実力を誇っている。並びに同期の中でも飛び抜けて統率力があり、周囲にも気の利く兄貴分だ。だが、多少うっかり屋なのが玉に瑕といったところか。
 因みに彼は過去に三度ほどカタリナに思いの丈の告白をし、三度とも振られている。それでも一切めげる様子のないところがまた、彼の長所でもあるのだろう。

「あ、うん。行くけど・・・少し街を見回ってから合流してもいいかしら」
「おう。じゃあここの宿の隣んところで飲んでるぜ。おーい、いこーぜブラッドレー」

 コリンズはカタリナの返答に軽快に頷いたかと思うと、奥で荷物の整理をしていた青年に声をかけた。
 呼ばれて振り向いたブラッドレーは返事をする代わりに軽く手を上げ、寝床の準備を終えてからこちらに歩いてくる。
 コリンズと幼馴染であるというこのブラッドレーという青年は、本演習の筆頭指揮官を任されている。すべての面で優秀な成績を収める彼は昔から器用貧乏と呼ばれてきたが、それを自らの持ち味として凡ゆる戦術や陣形指揮に通じ、また同世代の若き騎士達の特性をよく把握して臨機応変な作戦立案と采配の妙を発揮してきた。それらを最大限に活かして癖の強い今の世代の騎士団をよく纏め、本行軍演習に於いてもよく率いている。

「お前がいつ潰れても大丈夫にしておいたぞ」

 後方の寝床を親指で指しながらブラッドレーがにやりと笑って言うと、コリンズも思わず口の端を吊り上げる。

「はっ、そいつは有難いな。何なら二人分用意しておいてもいいんだぜ。お前とカタリナをそこに転がしてやる」
「馬鹿言え、カタリナは別室だ」
「わーってるよ。相変わらず冗談が通じねぇなぁ」

 以前であればカタリナも同じくこの場所で皆と共に雑魚寝であっただろうし彼女自身は全くそれで問題ないと考えていたが、今回彼女だけ宿の一室を拝借する事になったのは他の面子の総意であるらしい。
 その理由をカタリナが聞こうとするまでもなくブラッドレーが面と向かって彼女に「寝ているお前は目の毒だからな」と言い放ったものだから、これには有無を言わさず従わざるを得なかった。
 二人が軽口を叩きながら出て行くのを見送ったカタリナは、自身も行軍用装備をその場に纏めて宿泊施設をあとにした。




 この町に舞い降りる雪と、それに余すこと無くその身を預ける純白の街並みは、とても幻想的で、只々美しい。
 町を包む宵闇を見上げれば、薄らと広がる雲の合間から顔を覗かせる、煌々と輝く大きな月。月齢は満月を過ぎ、これから下弦に向かわんとする所か。
 今年もまた、この地で舞踏会は開かれたのだろうか。そんな事を、カタリナは考える。
 このポドールイでは年に一度、領主たるレオニード伯爵がその居城にて催す絢爛なる舞踏会がある。その舞踏会にて伯爵の目に留まった女性は伯爵の甘美なる吸血行為によって夜の眷属へと生まれ変わり、永遠の命と美しさを得る。
 そう、このポドールイの地を治めるレオニード伯爵とは、世に言う吸血鬼であるのだ。
 それ故このポドールイという地は夜の王たる彼の領地として在るべく常に宵闇を纏い、その居城は現世と常世の狭間に存在しているとも言われている。
 カタリナは周囲に視線を巡らせながら、ゆっくりとした足取りで商店街を抜けていった。
 降り積もる純白と宵闇で此処は一見どこも同じ風景に見えてしまうものだから、時折立ち止まって一年前の己の記憶の在り処を手探りしては、またゆっくりと歩き出す。
 人通りの疎らな中央広場を抜け、まるで童話の中の世界のようにクラシカルな作りの宿屋通りに入る。しかし宿屋通りと言っても、今は開店休業のような状態で何処も空室だらけだ。
 この宿屋通りが最も賑わうのは年に一度、舞踏会の開かれる直前。それ以外の期間は宿を閉めてしまっているところも多い。
 静かな宿屋通りを抜けて行った先には、ぽつぽつと民家が立ち並ぶ地区がある。
 絶え間なく降り積もる雪を踏みしめながら向かった先には、一軒の家。その庭先には、老人と大きな一頭の犬、そして数頭の子犬がそれらの周りを駆け回りながら戯れていた。

「おや・・・」
「・・・お久しぶりです」

 カタリナの気配に気がついて顔を上げた老人が気がついたのに合わせ、彼女は軽くお辞儀をした。
 飼い主の動きに合わせて来訪者に気がついた子犬が、直ぐ様好奇心をむき出しにして彼女の足元に駆け寄る。

「子犬が、生まれたんですね」
「あぁ」

 すり寄ってくる子犬たちをしゃがみ込んで撫でながら、ふと昨年の事を思い出す。
 昨年の舞踏会にこのポドールイを訪れた彼女は、この老人に宿を提供してもらったのだ。
 その時は子犬はおらず、確か大型犬が二頭だったと記憶している。
 その時にいたはずのもう一頭が見当たらないので老人に聞いてみると、彼は表情を変えずに言った。

「死んだよ」
「・・・そうでしたか」

 老人の当然の事のような物言いに多少面食らいながらも、カタリナは首を垂れる。
 宵闇の国の住民は、死に関する観念もまた自分たちとは別なのだろうか。ふと、そんな事を考えながらじゃれ付く子犬を撫でた。
 そのまま一言二言だけ交わし、カタリナはその場を立ち去った。名残惜しそうに彼女を見つめながら尻尾を振る子犬を背にして宿屋通りまで戻ったカタリナは、中央広場を今度は入口方面に折れていく。
 居並ぶ服飾店も今はすっかり閑古鳥が鳴いているようで、窓から店内を覗いても店員も見当たらない。降り注ぐ雪以外には何の動きもないその光景を見ていると、まるでここも時間が止まってしまったかのように感じる。
 そんなことを思いながら歩いて行った先には、やはり一年前と何も変わらぬ様子でひっそりと宝飾類を飾り並べた店の軒先が見えて来た。

「いらっしゃいませ。あら・・・貴女は確か、目利きのお嬢さんね」
「・・・覚えて下さっていたのですか。どうも、お久しぶりです」

 以前と全く変わらぬ様子の店主である老淑女に、カタリナは会釈を返す。
 こちらもまた、一年前に立ち寄った場所であった。
 ここの宝飾類は品揃えが見事であったことを覚えていたので、また立ち寄りたいと彼女は考えていたのだ。ロアーヌで待つモニカへの手土産には、此処以上の場所が思いつかない。

「ふふ、中央通りを抜けてこんな町の外れまで足を延ばすお客様はそんなに多くないですもの。その上貴女ほどの選別眼をもった人なら、当然覚えているわ」
「・・・光栄です」

 以前とは違ったデザインも散見される宝飾台をゆっくりと眺めながら、一年前に購入したものは送り主にも非常に好評であったことを店主に伝える。すると店主は上品に笑みを浮かべ、今年入荷したという新作を踏まえて幾つかの商品を並べながらそれぞれの特徴を語っていった。
 どれも素晴らしい細工のものばかりであったが、矢張り原石の持ち味を良く表しているシンプルなものに目がいく。

「では・・・これとこれ、あと、こちらも頂けますか?」
「まぁ・・・相変わらず良い目でいらっしゃるわね。今回は、男性へのプレゼントかしら?」

 今回彼女が選んだのは三つの装飾品だ。確かに三つ目は男性が身につけても可笑しくないシンプルなものだが、流石にこの店主は聡い。
 カタリナは何となく気恥ずかしさを感じて笑みを浮かべながら会釈で誤魔化し、以前と同じく相場に比べて安価な代金を支払い店を後にした。
 携帯していた鞄に購入品を仕舞い、ゆっくりとした足取りで町の中央通りへと歩いて行く。
 道中ふと空を見上げれば、街を包む宵闇が視界に揺らめいた。
 ふんわりと舞い降りてくる小さな雪の結晶を見つめ、自らの目前に降り注ぐそれを手のひらで受け止めようとする。

 その時、世界が唐突に揺れた。

(・・・何!?)

 驚きの表情を浮かべながら、慌てて姿勢を保とうとする。体勢が安定し辛い雪道で姿勢を低くしながら体の均衡を保つようにしている間、時間にすれば数秒程だろうか。視界が細かく縦横に揺れた。

(地震か・・・珍しいな・・・)

 揺れが漸く治まってきた頃合いを確認し、カタリナはゆっくりと姿勢を戻した。
 周囲を見渡すと、積雪地域に良くあるとんがり屋根に積もっていた雪が道端に落ちており、近くの店の軒先に吊るされた看板はまだ揺れている。
 街の様子を観察しつつ余震があるかも知れないと多少警戒をしながら中央通りまで歩いたカタリナは、そこで何やら前方が騒がしいことに気がつき、視線を送る。
 それは、彼女らが世話になる予定だった宿舎の方向だった。






「・・・さーて、どうするかー」

 抱えていた荷物を勢いよく地面に下ろして一息つき、コリンズは後方に向き直った。
 そこには、先の地震によって倒壊を起こした宿舎の木片が折り重なっていた。これらは倒壊直後にロアーヌ騎士団によって周辺家屋や通行の邪魔にならぬように集められたものだった。
 地震が治まってからここまでの作業は小一時間ほど。自分たちの荷物と隣接する宿が置いていた荷物も可能な限りは引き出したところで、宿の人間が用意してくれたホットワインで体を温めながら騎士達は一箇所に集まった。

「改めて、今日の寝床はどうしたものか」

 ブラッドレーがそう言うと、騎士団の面々は方々で唸った。
 残念ながら皆が生粋のロアーヌ民であり、この辺りの土地勘も知り合いもないので、そのあたりは頼れない。
 中央広場からは「宿屋通り」と言われる一画が存在しているが、この時期は運営しておらず、所有者はその大半が出稼ぎに出ているのか利用交渉も抑もできない。

「流石に、ここで野営は厳しいな。凍えてしまう。かと言って、この人数で泊まれる場所なんてなぁ・・・」

 タウラスがホットワインを口に含んで、そう言った。それは変わりようのない事実で、皆が一様に項垂れる。

「カマクラでも作るか!あったかいらしいぞ」
「・・・お前のその楽観も、今は指摘する気にならんなぁ」
「なんだと!?」

 パットンの思いつきにタウラスが疲れた表情で反応すると、それにパットンが突っかかる。しかし寒さ故かそれも長続きはせず、直ぐまた方策を求めて唸り始めた。
 そこで皆と同じくホットワインを飲みながら荷物の上に座って唸っていたカタリナは、唐突に、その場の空気が変わったことを感じ取った。
 自分たちを包み込む宵闇が、その『濃度』を増したように感じられたのだ。
 そしてそれと同時、その場に珍客が現れたことを察知して思わず身震いをしながら立ち上がった。

「・・・おや、これはこれはカタリナ様。お久しゅう御座います」

 カタリナが振り返った先には、態とらしく(まるで、さも人間であるかのように)寒気除けの暖かそうなコートを羽織った老年の紳士が立っていた。
 カタリナは全身に感じる強烈な違和感をものの数秒でなんとか押さえ込み、平然とした風に直立して老紳士に向かい合った。

「・・・ご無沙汰しております。して、レオニード城の執事である貴方が、何故此方へ?」

 カタリナとその老紳士を交互に見ている他のロアーヌ騎士の皆の前で、会話が続く。

「先に、地震がありましたので。伯爵様が城下町の様子を気にかけておられましたものですから」
「・・・そうですか。隅々まで確認したわけではありませんが、目に見えた被害はここだけの模様です」

 道の端に積み上げられた瓦礫に一瞬だけ視線を向けながら地震後ここまでの状況を軽く説明するカタリナに、老執事は薄く頷いた。

「左様でしたか。それは我らポドールイの民を手助けして頂き、誠に有難う御座います」

 そう言って深々とお辞儀をする老執事に会釈を返したカタリナに、すくりと上半身を起き上がらせた老執事は優雅に腕を伸ばした後に、考え込むようにそっと自らの顎に指を当てた。そのあまりに自然で不自然な光景にカタリナが以前と変わらず違和感を感じていると、老執事はカタリナを、そしてその他のロアーヌ騎士達を見つめて言った。

「して、その話からすると・・・我らを助けてくださった英雄が今宵安らかに休める場所を確保できていないものとお見受け致します。それでしたら、如何でしょう。我らが城へいらしては。伯爵様も歓迎されることでしょう」

 老執事のその申し出に、思わずカタリナはぎょっとする。あの城に、泊まるというのか。そんな事をして自分たちは、果たして正気のまま戻ってくることができるのだろうか。
 背後で他の皆がこの老執事の申し出を有難がっているのを余所にカタリナだけが一人戦慄気味にそのような事を考えていると、まるで老執事はそんな彼女の思考を理解しているかのように自然な笑みを浮かべて見せた。

「ご心配なく。無事に舞踏会を終え、我が城と我が同胞は安らいでおります。あの城が少々騒がしくなるのは、年に一度、舞踏会の時のみ。今は、心身ともに安らかにお休み頂けましょう」

 そう言って不気味な微笑みを絶やさぬ老執事に、カタリナは数度の瞬きの後、折れるように小さく頷いた。

「・・・申し出、有り難く思います。是非、お言葉に甘えさせて頂いて宜しいでしょうか」
「ええ。それでは早速、御案内いたしましょう。ロアーヌと此処では気温が違いますからな、冷えすぎても体に毒でしょうからな」

 カタリナの言葉に満足そうに頷いた老執事か踵を返しゆっくりと歩き出すと、ロアーヌ騎士団の面々は荷物を持ち上げてその後に続いた。







「編成はどうする?」
「予定通り五人編成を三部隊でいこう。内訳は・・・」

 城の一室を借りてブラッドレーを中心に円陣を組みながら軍議が開かれる中、胸の下で腕を組みつつ直立姿勢でそれに耳を傾ける振りをしながらカタリナはなぜこのような事になってしまったのか、とばかり己に問うていた。
 事の始まりは、地震。そう、地震であった。
 その地震のおかげで元々の宿泊予定だった城下町の宿舎が崩れ、執事の厚意もあり恐れ多くもレオニード城に宿を求める事になったのだ。
 そして本遠征の折り返し地点であるこのポドールイでは、元来戦闘演習用の洞窟があり、そこで少人数編成部隊運用の演習をしてからロアーヌへと帰還する予定であった。その内容としては古来伝統的な五人編成を一括りとした部隊編成でその洞窟を攻略し、最深部まで行って戻ってくる、というものだ。
 この洞窟周辺も無論、領地管理は伯爵たるレオニードが行なっている。なので伝統的に遠征軍はレオニードに謁見してからその洞窟へと向かうのだ。
 しかし、ここで第二の誤算が発生した。
 先の地震により、この演習用洞窟までもが内部崩落を起こしたというのだ。その事実は、一夜の宿の御礼とともに演習実施の報告を行いにブラッドレーがレオニードに謁見した際に発覚した。
 レオニードはその席で崩落の事実をブラッドレーに伝え、そして彼が押し黙り今後の動きについて考えているところにある一つの提案をしたのであった。

「しかし、この城の地下ってのはそんな物々しい場所なのか?」

 コリンズは、そういいながらカタリナへと視線を向けた。それに倣ってその場の全員から視線を受けたカタリナは、言葉に詰まる。
 レオニードが提案してきた内容というのは、なんとこのレオニード城の地下空間を演習に利用してはどうか、というものだった。
 曰く『しばらく使っていない間に、どうも地狼か何かが住み着いている気配があってね。城のものではなかなか手が出せず困っていたところでもある。どうだろう、謝礼も出すのでここはひとつ、演習代わりに地狼討伐を引き受けてはくれないかな?』だそうだ。

「え、まぁ・・・ちょっと、物騒・・・かしら」

 実際のところはちょっとどころではないのだが、確かに一年前に彼女が訪れた時よりは、城内に漂っていた甘く優しく強制的に包み込んでくるような感覚は薄い。これならば以前のような危険は少ないかもしれない。
 それにレオニードは、少なくとも今の時点の彼女の私見では無益な殺生を好むタイプではない。ロアーヌとの関係値もあるわけであるし、そう滅多な提案はして来ないだろう。そう踏んだカタリナは、でも大丈夫よ、と周囲に微笑んで見せた。
 それをみて頷き返したブラッドレーが話を続ける。

「伯爵様からお預かりした見取り図によれば、地下部分も大きく分けて三つに分かれているようだ。地下水脈、焉道、地下墓地・・・だな。伯爵様は地下水脈あたりの地狼を駆除してくれればいいと仰っていたが、一晩の寝床の恩もある。三部隊でそれぞれ範囲を分けて、行けるところまで駆除を行いながら進んでいこうと思う」
「それならうちの部隊は当然地下墓地だな。最終地っぽいし」

 パットンがそう言うと、珍しくタウラスも即座に同意した。

「そうだな。ブラッドレーにコリンズ、それにお前と俺とあとはカタリナとなれば、この部隊が群を抜いて練度が高い。担当については異論はないな」
「だろ? ならあとは陣形どうする?」
「あー・・・俺、一度あれやってみたいんだよな。インペリアルクロス」
「うわでた。ほんとアバ伝好きだなーお前。しかしまぁあの陣形は今でこそ軍事採用されてないが、確かにバランス良さそうだな!」
「だと思うんだ。俺のパリイはあの陣形でこそ真価を発揮すると思うんだよ!」

 こうなると存外仲が良いタウラスとパットンは、なにやら共通の話題で盛り上がっているようだ。
 カタリナはそんな二人や他部隊への指示に動いているブラッドレーらを横目に、改めて地図に目を落とした。

(・・・礼拝堂からの入り口ではなくなっているわね。まぁあそこ通ったら拷問器具がある地下牢だから、流石に見せたくはない、か。しかし本当に大丈夫なのかしら・・・今更だけど心配になってきたわ・・・)

 カタリナのそんな心配をよそに演習会議は滞りなく進み、間も無く演習開始の運びとなった。






 先ほどから絶え間なく鼻をつく異臭は、一体何のものなのか。それは至る所に散見される腐った水と、血と、屍肉と。はたまた、それに群がる齧歯類の糞尿のものか。何れにせよ、それは魑魅魍魎の如き姿の妖魔を相手に此処まで進軍して来た若きロアーヌの精鋭たちをより一層に疲弊させるには十分なものだ。
 一言で言えば、情勢は最悪であった。
 先行部隊及び追従部隊は初期の地下水脈すら攻略できずに、おめおめと逃げ帰ってきた。
 しかしカタリナ達にも、それを責めることは出来なかった。なにしろ、そこにいたのは件の地狼だけではなかったのだ。闇に紛れて強襲をかけて来る巨大な蝙蝠や遥か昔の地層からアビスの瘴気に中てられて動き出した骸骨、同じく瘴気に狂った水霊等、訓練生上がりの若手が相手をするには荷が勝ちすぎていた。
 そこで急遽ブラッドレーは自部隊を先頭に配置。後続二部隊を行軍補助、補給地点確保に回し、全部隊一丸となっての攻略に作戦の変更をした。
 現状はこの作戦変更が功を奏し、結果ロアーヌ騎士団は地下墓地までの進軍を成功させるに至った。
 腐った土を盛ってそこに松明を突き刺し、その場の全員がやっとの思いで腰を下ろす。彼らの先に口を開けている空間は、今いる場所よりも更に深く暗い闇を抱いている。瘴気も一段と濃さを増しており、この先はこれまでの比ではない攻略難度を誇るであろうことが容易に伺えた。

「各自装備の点検を終えたら行くぞ。長期滞在は瘴気にやられそうだ。また、現存する前衛の傷薬が消費された時点で本演習を終了とする。備なしに進むには、ここは危険すぎる」

 ブラッドレーの指示に全員が浅く頷き、手早く損傷の確認を行う。
 演習用に用意した傷薬はその大多数が既に消費されており、城主レオニードから餞別に頂戴した高級傷薬も前線部隊各員に既に配布済みとなっていた。あとは補給線確保部隊が多少残すのみとなっている。
 因みに、特に敵の第一撃を受け止めるタウラスはその消費速度が最も高く、彼だけ少々消毒液臭い。
 短い休息を終えて迅速に準備を整えた部隊一行は、地下墓地へと足を踏み入れる。

「・・・やべぇな、これ」

 深淵の如き空間へと立ち入り数歩進んだコリンズが、堪らずそう呟く。
 その言葉に全力で同意する様に、他の四人も唾を飲み込んだ。
 重く、只管に重く黒く濁った瘴気。それが暗い通路内に満ち満ちている。
 全員がその瘴気をかき分ける様にして一歩ずつ進むが、今まで感じたことのない様などす黒い瘴気に、全身が『これ以上進んではならない』と危険信号を発しているのがわかる。

(幼い頃に見た死蝕とは違うけれど・・・これはもっと暗い・・・絶望。そう、誰かの絶望が形取られた様な・・・そんな瘴気)

 隊列の中央に位置しながら歩みを進めていたカタリナは、この深淵をそのように感じ取っていた。
 地下墓地とは、名の通りならば誰かの墓地であろうか。その誰かの死に絶望した者の意識が、この空間に満ちているのかもしれない。それは、ひょっとしたらこのポドールイの伯爵家に連なる何者かであろうか。
 しかし、伯爵家は遥か昔からレオニードその人が当主として座している。そうなれば、一体ここにある絶望とは、誰の、何のものなのであろうか。
 周囲の警戒は怠らずにそのようなことを考えながら、それでも果敢に隊は進んで行く。
 そして永遠にも思える暗い道のその先に、唐突に明かりのないどす黒くて広い空間が現れた。
 間違いない。この空間に、地下墓地の主がいる。そう五人は感じ取った。
 そういえば、ここまでの出鱈目な瘴気の渦の最中、何故か唯の一度も妖魔と遭遇することはなかった。それはきっと、ここの空間の主が静寂を好むからなのだろう。そうでもなければ、こんな馬鹿げた濃度の瘴気の中で何も起きないことの理由が全く以て説明できないのだ。
 だが、ここまで無作法にも戦装束で侵攻して来た余所者に、主がいつまでも座して待っているはずも無い。

「・・・くるわよ!」

 漆黒の闇の中に浮かび上がったのは、身の丈が人の倍はありそうな、骨のみに朽ちたガーゴイルの体。其れが、凸陣を成して三体。そして、その上には朽ちかけた宵闇の外套を纏った髑髏姿の異形の化け物が此方を見下ろしていた。
 そのあまりに異様な姿に騎士達が度肝を抜かれていたその刹那、異形の化け物はその巨体から全く想像できないほど素早く突進を繰り出して来た。

「うがっ!!?」

 分厚い金属を打ち砕くような凄まじい衝突音と共に、最前列にいたタウラスが全身鎧を纏ったまま構えた盾ごと軽々と後方へ吹き飛ばされる。
 それにカタリナが気づいたのはタウラスが自分の横を吹き飛んで行く様を横目に見ての事だったが、しかし負傷したであろう彼の元へと駆け寄る余裕など全く無かった。
 既に異形の化け物は、第二波を繰り出そうと彼女に狙いを定めていたからだ。

(・・・回避・・・出来ない・・・!)

 タウラスに比べカタリナは軽装であるが、今まさに繰り出されんとする異形の一撃はこの暗闇の中でも余りに素早く正確で、彼女の素早さを以てしても回避できる未来が全く想像できなかった。

「・・・ッ、マスカレイド!!」

 突撃してくる巨大なる異形に対し、カタリナは軽く後方に飛ぶように地を蹴り、手にしたマスカレイドを振り抜いた。
 直後、先ほどのタウラスと同じようにカタリナが後方に吹き飛ぶ。だが顕現した紅い刀身が重い一撃を受け止め、そして予め後方に飛んだ事で衝撃そのものはほぼ受け流すことに辛くも成功していた。
 空中でなんとか姿勢を持ち直し飛ばされた先の壁に両足をついたカタリナは、間髪を入れず横に飛ぶ。
 そこに一瞬遅れて異形の巨大な拳が大きな破砕音と共に打ち込まれ、壁面が砕け飛ぶ。

「うおおおおお!!」

 その隙を突き、コリンズ、パットン、ブラッドレーが陣を成す三体のガーゴイルの足に其々斬りかかる。
 そして狙い通り三体のガーゴイルの足を切り飛ばすと、そのまま崩れるように凸陣は解かれた。
 するとガーゴイルの上に乗っていた髑髏の異形が崩れるガーゴイルを足蹴にしながら後方に跳び退り、その何も映し出さない空虚なる眼底をガーゴイルを斬りつけた騎士達へと向けた。
 そして次の瞬間、髑髏が突き出した左の手から、何かが噴き出し始める。
 それが何なのかを騎士らが確認する前に、突如として強烈な目眩に彼らは襲われた。

「・・・ツ、これを吸い込むな!」

 ブラッドレーがその場の全員に知らせるように叫ぶ。だがそうして口を開いた拍子に彼が最も吸い込み、猛烈に咳き込んで間も無くその場に倒れこんでしまう。
 慌てて口元を押さえながらコリンズとパットンが倒れている二人を庇うように布陣するが、しかし片腕で口元を押さえていても呼吸をしている以上は徐々に吸い込んで行くのか、二人もそう間を置かずに膝から崩れ落ちてしまった。

(・・・くっ・・・私も少し吸い込んだか・・・。まずい・・・この状況、どうすれば・・・)

 彼らとは離れた場所に着地していたカタリナは、髑髏の繰り出した謎の攻撃を直接は浴びずに済んでいた。だが、軽い目眩を覚えたことから、多少の損害はあるようだった。そしてその損害の有無に関わらず、状況はあまりに絶望的だ。既に仲間の騎士は四人が倒れ、次には自分に向かって今の攻撃が放たれるのも時間の問題。なんとかしてあの攻撃を回避する方法はないものか。刹那の間に考えを巡らせる。
 だが今の彼女が持ちうる手札に、そんな方法は何も思い浮かばなかった。そもそも倒れた騎士達が何をされたのかすら、不明なのだ。

(・・・恐らくは毒、のようなもの。吸い込むな、とブラッドレーが叫んでいた・・・。気体か、粉末に近いようなものか。いずれにせよ、私にはそれを防護する装備はない・・・。しかも時間が経てば経つほど毒が回っていく感覚がある・・・だとしたら、先手必勝しか・・・!)

 大剣マスカレイドの柄を両手で握りしめ、軽い目眩を振り払うようにして軽く頭を振り、いざ突撃せんとしてカタリナは身を低く構えた。
 だが、彼女が飛び出すより一瞬早く、彼女と髑髏の間に宵闇の外套を纏った人物が颯爽と舞い降りた。

「助太刀しよう」
「・・・は、伯爵様!?」

 緋色の髪を靡かせながら突如として現れたのは、なんと城主レオニードだった。
 カタリナが驚きの声をあげると、レオニードは彼女に対して下がるよう指示を出し剣帯からレイピアを抜き放つ。

「あれは、死人ゴケだ。生身の人間が肺に吸い込むか肌に大量に付着すると、そこから全身が毒され次第に正気を失い、やがて死に至る」

 洒落にもならないその言葉に、しかし冗談のような雰囲気は微塵もない。カタリナは突撃体勢を解き、言われるままに後ろに下がった。
 それとは対照的に一歩前へと進んだレオニードは、突き出したレイピアで威嚇するようにしながら髑髏に対峙する。
 髑髏は何故かそれ以上死人ゴケとやらを吐き出すことはなく、レオニードも髑髏を睨むばかりで動かない。そうした膠着状態が、しばしの間続いた。

(何かの力の応酬が、彼らの間にあるみたい・・・。悍ましいほどの瘴気が彼らの間で、なにか目的をなして蠢いているような、そんな感覚・・・)

 カタリナはマスカレイドの大剣化を解き、堪らず地に膝をつきながらそのように感じた。このとてつもない量の瘴気に当てられたのか、または先の死人ゴケというもののせいなのか、体がうまく言うことを訊かなくなってきている。両者は未だ動かないが、この状態が長く続けば自分は元より、先に倒れた四人がより危険に思われた。
 そして彼女がそのような事に思いを巡らせた刹那、場の膠着を破ったのは、対峙する両者ではなかった。

『グォォォオオオオオオッ!!!』

 コリンズらに足を切り飛ばされたはずのガーゴイルの骸骨三体がここにきて足の再生を果たし、側面からレオニードに襲いかかってきたのだ。
 だが、それに対してレオニードは姿勢を崩さず一歩も動くこともなく、そのガーゴイルを一瞥しただけだった。
 それで、ガーゴイルは止まった。
 それは、後ろでその光景を見ているカタリナですら思わず背筋が凍るほどの、圧倒的な支配。王たる彼の一瞥だけでガーゴイル達はその力を理解し、畏れ、戦意を喪失してしまった。
 彼の視線が動いた事で揺らいだ瘴気に触れただけで、カタリナは途轍もない悪寒を感じた。それが真正面から繰り出されたのだとしたら、果たして正気を保つことなど出来るものなのだろうか。
 ガーゴイルが止まったことに大した興味も抱かず視線を異形の髑髏に戻したレオニードは、次には何故かレイピアを下ろしながら口を開いた。

「・・・やはり、私の不死者に対する支配も貴方には通じぬか。ここは長引くのが本意ではない。この場は退かせよう。それでよいかな?」

 レオニードがまるで異形の髑髏に話しかけるようにそう言うと、髑髏はしばし動かずにいたものの、次の瞬間には闇の中にするりと姿を消していった。それと同時に、ガーゴイルたちも一瞬にして崩れ、塵となった。
 その様子を見届けたレオニードは抜き身のレイピアを鞘に仕舞い、渦巻く瘴気の中で場違いなほど優雅にカタリナへと振り返る。

「よく此処まで来たものだ。君も彼らも、やはり人間においては非常に優秀なのだな」

 レオニードはまるで世間話でもしているかのように、そう言った。だが、カタリナが確認できたのはそこまでだった。彼女の意識は既に毒に侵され、朦朧としていたのだ。
 そしてこちらに近づいて来るレオニードの姿をぼんやりと映し出したのが、彼女がみたそこでの最後の光景だった。限界を迎えた彼女の体は全身が一斉に崩れ落ち、それと共に世界は暗転していった。






 身体が、燃えている。
 いや、燃えているのは自分ではなかった。自分ではない誰かが燃えているのを、自分は見ているのだ。
 燃える何者かの周囲には人があつまり、その燃える身体をずっと見続けていた。自分は、さらに離れた場所からそれを見ている。
 それは、とても悲しい光景であった。何故あれは燃えているのか。何故周りの人間はそれを見ているだけなのか。何故自分もまた、それを見ているだけなのか。
 悲しい。この世の全てが、ただただひたすらに悲しい。
 憎い。この世の全てが、ただただひたすらに憎い。
 だが、もういい。何もなかった事にしょう。全部、喰らうとしよう。

 そこで、ぷっつりと光は途切れた。

「目が覚めたようだね・・・何を、泣いているのだ?」

 うっすらと目を開ければ、目に映ったのは、天蓋。左に顔を向ければ、窓のない部屋に閉鎖感を感じさせぬように絵画や置物があり、次に右へと向けば、そこには小さなテーブルの上にワイングラスが乗っており、そのすぐ横には、緋色の艶やかな長髪を靡かせたレオニードが随分と寛いだ様子で椅子に腰掛け、こちらを見下ろしていた。
 そして、ひんやりと目尻を伝う感覚に、そこで初めて自分が涙を流していることにも気がついた。

「・・・ここは」
「君は以前にも来たことがあるはずだ。城の地下にある、私の私室だよ」

 もう一度、部屋を見渡す。言われてみれば、確かに見覚えがある調度品の数々だった。一年前には横目に眺めた天蓋付きベッドの寝心地はこういうものだったのか等と場違いに思い耽り、そしてレオニードへと向き直った。

「・・・他の騎士達は、どうなりましたでしょうか」
「案ずるな。全員無事だ。今は我が城の者達が治癒をしているよ。しかし生きた人間の世話をするのが久しいようだから、四苦八苦しているようだがね」

 真顔でレオニードがそう応える。これはポドーリアンジョークの類だろうか。しかしジョークにしては随分とタチが悪いなと感じたが、そこは追求せずに素直に礼を述べ、ゆっくりと上半身を起こそうとした。そこで初めて自分が一糸まとわぬ姿であることに気がつき、努めて冷静を装いつつ胸元を隠すように寝具で覆いながら起き上がった。

「・・・あの、伯爵様、恐れ入ります」
「ふむ、なんだね」

 体に特に異変がないことを心中で確認しつつ、レオニードに話しかける。彼は優雅にワインを傾けながら、気安く返事を返してくれた。あまりにこの状況を当たり前のように振舞っているが、駄目だ。この空気に、易々と流されてはいけない。

「何故、私はここにいるのでしょうか・・・?」

 他の騎士達と共に寝かされているのならばいざ知らず、なぜ彼女だけが一人、城主レオニードの私室で寝ているのか。しかも、全裸である。それは当然に感じるべき、大いなる違和感であった。
 特に体に違和感を感じてはいないが、よもや自分は既に吸血鬼にさせられてしまったのか。そんな不安も過るが、さもそれを見透かすようにレオニードは薄っすらと笑みを浮かべながら膝の上で手を組んでみせた。

「城の者が君をここまで運び、治癒を施した。君がどうやら、この城の深淵に縁があると感じたようだ。因みに、私は意識の無い者に手をかける様な無粋者ではないから、安心してよい」
「・・・そうでしたか、重ね重ね、有難う御座います」

 どうにも自分がここにいる理由になっているのか彼女にはいまいち分かりかねる返答であったが、聞き直しても同じ様な答えしか返ってこなさそうでもあったので、彼女はそのまま飲み込むことにした。取り敢えず吸血鬼にはなっていないらしいので、それで良しとすることにしたのだ。
 そして、次にはレオニードが差し出して来たハンカチをみて、そういえば自分は涙を流していたのだということを思い出した。浅くお辞儀をしながらそれを受け取り、目尻を拭う。もう既に涙は止まり彼女の感情を揺さぶるものはなかったが、彼女は起き上がる寸前まで見ていた夢のことを、目の前の人物に話そうと思った。

「夢を、見ました。誰かが・・・燃えている夢でした。私は、それを見ているだけでした」

 妙に、生々しい夢だった。鮮明に燃え揺れる炎の揺らめきを覚えている。その熱さを、肌が感じたことも。そして燃える何者かの周りにいた人々の、狂気が入り混じった声を。そして、その光景がどれほど悲しいもので、どれほど憎いものだったか。己の内に渦巻いた絶望が、如何に大きなものだったのか。
 レオニードは、カタリナのその話を静かに聞いているだけだった。そしてカタリナが夢に見た光景を話し終えると、テーブルに用意してあった真水をカタリナに勧め、自分はワインを一口、口に含む。

「・・・恐らくは地下で出会った『あれ』の瘴気に当てられて、そんな幻覚を見たのだろう」
「幻覚・・・ですか」
「そう、幻覚だよ。恐らくそれは、『あれ』の記憶だ」

 ひとりでにワインのデカンタが浮かび上がり、レオニードの手元のグラスに中身を注いでいく。そんな非現実的な光景を、ここならば当然こんなこともあるだろうと特に気にもとめずに横目に見ながら、カタリナはレオニードの言葉の続きを待った。

「『あれ』は、私の父だよ」

 そう短く言い切ったレオニードの言葉に、カタリナは何故だか妙に得心した。あのような異形の存在を親だと告げられたら普通ならば飛び上がるほど驚き、そして恐れ慄くといういものだろう。しかし彼女には、全くそのような気は起きなかった。それは、夢の中で感じた、あれの心象に触れたからだろうか。
 その様子に何処か満足気にも見える表情で頷いてみせたレオニードは、ワイングラスを片手に言葉を続ける。

 彼の父親は、彼と同じく夜の眷属であった。
 彼らの眷属は平時の姿形が人に近く、しかし人では非る者。彼ら夜の眷属は人の歴史の裏側に潜む様にして、常に人と共に存在し続けていた。
 彼らは不老不死の肉体を持ち、数年に一度、時折思い出した様に腹を空かせて人を喰らう。そして喰らえばまた闇に潜み、夜に世界を揺蕩う。そうして、永劫の時間を蠢き続ける者達。それが夜の眷属だった。
 彼らは基本的に繁殖をすることがない。己が朽ちる前に子孫を残し種を生き繋ぐという行動原理が、不老不死たる彼らには存在していないからだ。
 故に彼らには新たな個体が産まれることはなく、その数は常に一定。その眷属は、世に数体しか存在しない者だった。
 ある時、一つの個体が人里に降り立った。『食事』をする為だった。彼らは食事の際、人間社会で云うところの『旅人』を装い、人間の集まりの中に潜み、そして選定した獲物を闇に乗じて狩る。
 だが彼−この個体の姿形はまるっきり人間の青年だったので、彼、とする−が潜んだ村は、流行病の疫病に侵され、村全体が殆ど死に体となっていた。
 彼は、空腹だった。だが、このような状況では食事どころではない。疫病に冒された人間達はどれもがとても不味そうで、これでは食えたものではないと感じた。かといって今から雪深いその村を去り別の人間の集まる場所へと向かうのも、とても骨の折れる話だった。
 そこで、彼はふと考えた。
 彼らは悠久の時を生きるが故に、蓄える知識量も経験も、人間の比ではない。つまり彼は、今目の前の人間達が訳も分からず苦しんでいる疫病の治癒に関しての知識も、持ち合わせていた。
 だから彼は、他所に移動する面倒よりもこの病に倒れた人間を治し、そして食そうと、そう考えたのだ。
 熱帯や亜熱帯の地方と違って寒冷地には、通常の疫病は殆ど流行らない。菌類が媒介となる生物を通じて感染し辛いからだ。そもそも疫病を細菌が齎す物だということも人間は知らないようだが、彼は知っていた。だからこうして寒冷地で流行する病気は殆ど種類がなく、一つの解決方法さえ知っていれば何の事は無い代物だった。
 彼はそれこそ瞬く間に村の人間らを全て治してしまった。
 村の人間は、彼を神の御使いと讃えた。人々は彼を囲い、祝い、祭り上げた。
 彼は特段それに気をよくしたわけでもなかったが、しかしこの状況は非常に便利なのではないか、とは感じた。
 この状況を利用できるものかと思い彼は試しに、人間の中から一人を選び差し出すように、要求をしてみた。人間は、若い女の肉が最も柔らかく食べやすい。だから、若い女の贄を要求した。
 するとどうだ。その集団のなかの年頃の娘達は、我先にと名乗り出て来たのであった。これは彼にとって、とても興味深いことだった。これならば自分がここに居続ける限り、食事が非常に楽になるのではないか。そう考えた。
 そして彼は、その地に城を築くことにした。そして城に招かれた若き娘は、外に出ることは叶わないが、永遠の幸福を約束される。そのように村人に伝えた。
 彼がそうした動きをし始めると、彼の眷属も興味を持ち、その地に集まった。城が築かれ、そこには夜の眷属が住まい、毎年若い娘を一人差し出すことによってその地の繁栄を約束するようになった。
 村は城下町となり、そこはやがて、ポドールイという国となった。
 城に召し上げられる娘達は、毎年喜んでその身を捧げた。永遠という地獄をよくもまぁ求めるものだ、と、城の主人となった彼は思ったものだった。
 そしてある年、一人の娘が城に召し上げられた。
 その娘は、今までの娘と違い、彼に対して怯えた。私は永遠など欲しくは無いのです。そう、彼に告げたのだった。彼は今までと違う反応を示したその娘に小さな関心を抱き、直ぐには喰らわず娘を観察することにした。
 永遠を拒否した娘は、甲斐甲斐しく彼の身の回りの世話をした。人間以外を食したことのない彼が少女の作る料理を初めて口にした時など、今まで食べたどの人間よりも豊かな味だと感じた。だが、それで飢えは凌げなかった。そして、用意されたワインを飲んだ。まるで血の色のようなその飲み物は、しかし血などとはまったく違う果実味溢れる味わいで、彼は血が無いときに血の代わりに飲むのならばこれしかないと確信したほどだ。だが、これでも飢えは凌げなかった。
 娘は、永遠を恐れつつも、一方で彼を慕った。彼は自分を慕う娘を食すことを、いつの間にか考えなくなった。
 そして彼は娘と、子を成した。夜の眷属と人間の混血が誕生したのだ。玉のような赤子を産んだ娘はとても喜び、彼もそんな娘と赤子を見て己の行為と思想の変化を興味深く思った。
 だが彼は、食事をしなくなってから己の中の何かが時折酷く疼くようになっているのを感じていた。
 日に日に窶れ時折正気を失ったように暴れるようになった彼に対し、娘は自分を喰らって欲しいと申し出た。しかし彼は、それを拒否した。だが、頭で拒否ししようとも黒い衝動が、娘の華奢な体をいつ引き裂いてしまうか、彼には分からなかった。
 だから、彼は娘を城の外に逃がす事にした。そして同じ眷属のものに対し、自分が正気を失ったら滅してほしいと願い出た。彼の眷属は彼が何故そのような決断に至ったのか理解できなかったが、承諾した。
 そのまま彼は滅ぶつもりだったのだ。それで自分は娘を、人を喰らわずに済む。そう考えた。
 だが、彼よりも先に娘は死んだ。
 永遠なる幸を約束された城から歴史上ただ一人舞い戻った娘を、民は平穏を乱す凶兆と捉えたのだ。
 魔女として捕らえられた娘は、火刑に処された。
 娘が燃える最中に騒ぎを聞きつけ城下町へと駆けつけた彼は、そこで生まれて初めて涙というものを流した。涙とともに叫び、怒り狂い、異形へと変貌した。そしてその場の人間を片っ端から喰い千切る中、彼の言葉を聞き届けた他の眷属により、願い通りに滅ぼされた。
 だが彼の断末魔の怨念は彼の朽ちた肉体を真なる不死者へと変貌させ、その地にその魂を留まらせた。彼の眷属は、そうして不死者となった彼を、城の地下深くに封印した。彼らを以てしても、もはや彼を滅することは叶わなかったのだ。


「ふふ、退屈な話をしてしまったかな?」
「・・・いえ、お聞きできてよかったです。私の中に流れ込んできた感情の一端の正体が、分かりました」

 カタリナがそういって頭をさげると、レオニードは微かに笑みを浮かべながらワイングラスを傾けた。

「私は、いずれ父を滅する。だがこの数百年は、力を付けども付けども、あれを滅することは叶わない。聖なる力が効くのかとも考えたが、どうやらそういうわけでも無いようでね。かの聖杯を以てしても、あの存在を消し去ることは出来なかった」

 空になったワイングラスをテーブルに置き、レオニードはグラスを通じてその先をぼんやりと眺めるように視線を軽く落とした。

「だから、最近は考えを変えてみたのだ。力では滅せられぬのならば、他のなにかで父の怨念を解くことは出来ないものか、とね」
「・・・それでは、舞踏会はそのために・・・?」

 カタリナが思わずそう呟くと、レオニードは首を傾けるようにしてカタリナに視線を送り、彼女をして思わずどきりとするほど妖艶な笑みを浮かべて見せた。

「まぁ、あれは実益も兼ねているがね。我が眷属は今や人を喰らうことはないが、血を欲する故、そのためでもある。そしていつか父が母を見出したように、私が我が眷属に大いなる変化を齎すことで・・・何かがわかるかもしれない、と」

 レオニードが言わんとすることは、カタリナには全ては分からない。だが怨念というものが強い思念のことを指すのであれば、その元となった事象に対する何らかの解決方法を提示してやることでしか解放されることがないのは、理屈が解る気がする。そう思うと、今目の前にいる存在は確かに人間とは全く異なる生命であるものの、その魂の本質は同じところにあるのではないか。そのようにも、感じられてくる。

「そういえば、私は母の顔を覚えておらぬのだが・・・ここの執事長をしている者が君のことを、どことなく母に似ていると言っていたな。まぁ彼らに人間の顔の見分けがつくとは思わないから、大いに気のせいだと思うがね」

 レオニードのその言葉に、カタリナは思わず二、三度瞬きをしてみせた。ひょっとして自分をここに連れてきたのは、その執事長ではないだろうか。
 そんなことをカタリナが考えていると、レオニードはゆっくりと椅子から立ち上がった。

「さて、それでは私は失礼するとしよう。着替えはそこのクローゼットに入っているはずだ。準備が出来たら、上に来るといい」

 一方的にそれだけいい、レオニードはさっさと部屋を後にしてしまった。
 そうして一人部屋に残されたカタリナは、レオニードが去っていった扉をしばし眺めた後、徐に両手を広げて上半身をベッドに投げ出した。ぼすん、という音と共に柔らかな素材のベッドが彼女の全身を受け止めてくれ、その極上の寝心地は最高級の寝具のそれに間違いないと確信する。何も身につけていない状態でこのような行為、はしたないことこの上ない所業だと我ながら感じる。が、誰もいないから見られることもないというか、そもそもこの近くには生きた人間がいないのだから構うものか等と妙に開き直ったものだった。
 目が覚めた直後にも確認したが、体には特に違和感を感じない。疲労もなければ、あの異形から受けた「死人ゴケ」とかいうものの後遺症らしきものもなにもない。状態は、至って正常そのものだ。
 あの異形の化け物・・・レオニードの父は、あれほどの絶望とともに一体何年あの場所にいるのだろう。
 ふと、当面の心配事がなくなった頭でそんなことを考える。
 レオニードが生まれた直後だとしたら、通説では魔王とすら面識があるという噂を信ずるならば六百年は経っていることになる。そのような長い時間絶望に浸り続けた魂とは、果たして浄化するなどということが可能なものなのだろうか。
 あまりに途方もなく想像のつかないその内容に、カタリナはすぐさま考えることをやめた。彼女が考えたところで、この事態はなにも進展しない。それにここは常しえの宵闇が支配する、時を刻むことを忘れた街だ。時間という概念がそのまま通用するものとも思えない。
 ひょっとしたらこの宵闇は、そんな意味も持っているのだろうか。彼女がこの宵闇を優しいと感じたのは、これ自体が悲劇の二人の鎮魂を願ったものだからなのだろうか。
 そんなふうに次々と無責任に浮かんで来る想像を振り切るように、カタリナは勢い良く起き上がり、そのままベッドから立ち上がった。そして、部屋の壁に設えられた大きなクローゼットに視線を向ける。

「・・・準備って、なにかしら」







 その夜(といっても宵闇に覆われたポドールイには夜も何もないのだが)レオニード城では、城の地下の地狼を退治してくれたロアーヌ騎士たちに対して感謝の意を込めた、小さな宴が催された。
 年に一度の舞踏会には及ばぬ規模だが、城の執事や給仕たちは総出でポドールイ伝統の持て成しをし、大いにロアーヌ騎士たちを歓迎した。騎士達もその時ばかりは戦装束を脱ぎ、スーツに身を包んでその宴を楽しんだ。

 宴の最中には、特別に目立つ存在が二つ。
 一人は城主レオニードで、彼は黒を基調とした燕尾服に、宵闇の外套を羽織ったいつものスタイルだ。
 そしてもう一人は、妖しくも美しい真紅のドレスに身を包んだカタリナだった。彼女の纏う真紅のドレスは、まるで揺らめく炎のようだった。
 それはポドールイの古い風習に則ったもので、この地では寒気が強くなる前に長い冬を無事過ごせることを願い、祭りが催される。そこでは毎年、その年に染められた中で一番深くて赤い色のドレスに身を包んだ地元の娘が、炎を前に踊るのだ。それは、過去に非情の死を遂げた一人の娘に対する鎮魂のためなのだというが、その娘が一体何者なのかは地元の人々でさえ、もう誰も知るものはいない。
 そしてその赤いドレスの娘のダンスの相手役は、これも村に古くから伝わる宵闇の外套を纏った男性が務めるのが習わしだ。これも何故そのような格好で、これが誰を表しているのか、誰も知るものはいない。

 まるで古い童話の中の世界のように二人が手を取り合い優雅に踊る様を騎士達は囲い、ある者は囃し立て、ある者は大いに嘆いた。

 そうしてポドールイの宵闇は、いつ果てるとも分からず続いていく。



最終更新:2017年09月30日 00:43