「ひっさしぶりじゃん。ウチとのトレードほったらかして、二週間も行方くらましてくれちゃってさぁー?」

 相変わらず地べたにへたり込んだ状態のラブを見下ろしながら、キャンディは彼女なりに最大限嫌味っ気たっぷりな表情でそう言った。とはいえその幼い表情からは嫌味というよりは多少生意気程度の印象しか与えられない様にも思われるが、それでも今のラブには効果的だったようだ。 
 怯えの色が顔に浮かんだラブに気をよくしたのか、キャンディはそのまま畳み掛けるように、脇に抱えていた一枚だけの書面と分厚いファイルを其々彼の目の前に投げ落とした。ラブはそれを虚ろな視線で追い、うっすらと唇を動かす。

「これは・・・」
「紙っぺらの方には、あんたらの現在の総資産が書いてあるよ。ま、超マイナスだけどね。んで束の方には今回の騒動で縁切りを決めた、あんたんとこの元提携企業リストとそれによる減資産額、各港からの返品要請の武具とか交易品とか貯蔵塩量、及びその返金額ね。あとは各国の規定に応じた取引禁止品目を扱ったことによる罰金。取引が行われた数だけあるから、これがアホみたいに膨大な数字になってるかな。ありがたく思ってよね、態々ウチが全部調べて計算してあげたんだから」

 キャンディの言葉を聞いて、依然として呆然とした様子のラブが一枚の紙を手に取る。そこには、確かに自社の名前。そして総資産には、こう記されていた。

【−500000000 aurum 】

「マイナス・・・五億オーラム、だと・・・?」
「そうだよ。マイナス五億。細かい数字はそっちのまとめたやつ見てくれればいいけど、結果はそれ。ま、これから各国憲兵がどんないちゃもんつけてくるのかは知らないけどね。でも現状の数字と規則に則った罰金の差し引きは、その数字」

 キャンディの言葉を聞き終わる前に、ラブはまるで目覚めた瞬間遅刻を悟ったかの如くに大慌ての様子で用意された資料に齧りつくようにしながら、その内容を食い入るように確認する。
 マイナス。
 マイナス。
 マイナス。
 その資料に記された数字は、そのどれもが資産減算の嵐だった。そしてそれらは全てキャンディの言う通りの項目で構成されており、彼が見る限りでもその資料には、絶望的な程に疑いの余地がない。
 有り得ない。これは、全く有り得ないことだ。ラブは無意識のうちに、有り得ないと繰り返し呟いていた。
 何故こうなってしまったのか。彼は殆ど機能していないであろう思考能力で、この自体の責任がどこにあるのかを考えた。
 そして、一つの答えにたどり着く。

「・・・そうだ、親父が悪いんだ・・・。こんな、化け物になっちまってこんな騒ぎを起こして・・・」
「・・・あーさっきのあれ、モンテロ氏だったのか。成る程ね、確かにその方がやり易いか」

 ラブの呟きに応えたのは、キャンディの後ろからひょいと顔をのぞかせた男だった。まだ年若い様相で、手には先ほどまで魔物と戦っていた名残からかロングソードを持っている。

「おっと、こりゃ失礼。お初だったな、ドン•ドフォーレ。俺はポールってんだ。一応、カタリナ・カンパニーの営業部長を任されている。ちーっと野暮用があったんで登場がトレードの最終局面になっちまったが、まぁよろしくな」
「トレード・・・?」

 ラブがポールの言葉に対してそれだけ答えると、ポールはにんまりと笑みを浮かべながらロングソードを腰の剣帯に仕舞いつつ頷いた。

「そうさ、トレードだよ。俺はそれを終結させるために、ここにきたのさ。って事で悪いがキャンディ、管理員連れてきてもらっていいか?」
「おっけ。あ、あとでご飯おごる約束、忘れないでよね!経費切るの無しだからね!」
「お、おう、もちろんさ。俺も男だ、二言はない。パーっと祝賀会して、たらふく食わしてやるよ。シーホークのフィッシュボールと豆スープは絶品だからな」

 呆気にとられているラブの目の前で、ポールとキャンディは明るい様子で話を進めていく。
 そして程なくしてキャンディがその場に集まっていた群衆の中からトレード管理員の手を引きながら引っ張り出してくると、ポールはラブに向き直って言葉を続けた。

「さて、キャンディが纏めてくれたその資料には一通り目を通してくれたと思うが、御社の現時点の資産はマイナス五億オーラムだ。因みにこれは、今現在のトレードにてそちらが拠出している三億オーラムを加味していない。これはトレードルールに於いて、トレード拠出金はトレード終了まで出資者であろうと動かすことはできないという部分に拠る」

 そうだ、そういえば自分は彼らとトレードをしていたのだった。ポールの言葉を受けながら、ラブはぼんやりとその事実を思い出していった。

「もう数日もすれば、各国の軍団がお前さんの捕縛令状と罰金の回収のために来るだろう。つまり会社存続の為には、少なくともお前さんはお縄になる前のこの数日の間に五億オーラムを用意しなければならないわけだが・・・」

 最早ドフォーレに、そんな拠出金はない。そんなことはこの目の前の男も、最初から分かっているはずだ。ラブは即座にそう思った。ドフォーレ商会の現在の主軸事業は、間違いなく塩なのである。これが消えれば他の事業の利益分で五億などという数字を賄うことが不可能なのは、部外者でも分かりそうなものだろう。
 ポールはまるでそんなラブの思考を読んでいるかのように、口の端を釣り上げて笑って見せた。

「さて・・・ここでお前さんに、我らの本取引における最大のステークホルダーを紹介しておこう。さぁ、こちらへどうぞ」

 ポールがそういって彼らの後方にいた中の一人に声をかけると、二人の人影がラブの前に姿を表した。
 一人は、とても美しく淡い海色の髪の美女だった。マクシムスガードの金髪の女に勝るとも劣らない、この世の美を集めたような輝く容姿。それはまるで神の手によって作り出された完璧な美術品のような女性だと、ラブは場違いに考えた。そしてその女性の後ろに控えるようにして立っているもう一人は、屈強という言葉をそのまま体現したかのような目つきの鋭い白髪短髪の浅黒い肌をした男だ。その全身は簡素な格好だが何故か右腕だけが二の腕あたりまで美しく神々しい手甲で覆われており、その圧倒的な存在感だけで生半可な賊などは怯んでしまうことだろう。そんな二人の居並ぶ様は、宛ら美しき女王とそれを守護する騎士の如く。
 無論それは、ラブだけが感じた印象ではない。その場に集まり動向を見つめていた民衆全てが、同じように感じ入りながら二人を見つめていた。

「お初にお目にかかります。私は、ミューズ=クラウディア=クラウディウスと申します」

 ミューズの美しい声色で耳に入ってきたクラウディウスという名に、ラブは当然ながら、聞き覚えがあった。それこそは神王教団のメッサーナ王国での台頭のために没落したピドナの名門貴族にして、嘗て経済界に君臨した大商会の名だ。無論のことラブにとっては、商会としてのクラウディウスの方が印象には強く残っていた。あの規模の商会が没落するのは、世界経済に於いてはとても大きな事件だったからだ。

「察していると思うが、こちらはかつてあった大商会、クラウディウス商会のご令嬢だ。元々旧クラウディウス系の企業は弊社に数多く合流しているが、本日は彼女が一門を代表して個人的にカタリナ・カンパニーへ出資してくださるということで、わざわざ弊社の社運を賭けたこのトレード会場へとお招きしている」
「はい、そういうわけなのです。それでは早速ですがポール様、どうぞこちらを」

 そういってミューズは、ポールへと一枚の書状を手渡した。ポールは態とらしくその書状を広げて中の文を確認すると、へたり込んでいるラブに合わせてしゃがみ込んだ。その座り込み方が所謂盗賊座りと揶揄される座り方だったので、シャールが微妙に眉間にしわを寄せている。

「さて、たった今クラウディウス家から融資を受けた。なんとその額、二億オーラムだ。流石はあのクラウディウス一族。一中小企業じゃ逆立ちしても集まらない資金だ。さてラブさんよ。この二億だが・・・意味は、わかるな?」
「・・・それを、このトレードに拠出するというのか」

 幾分か冷静さを取り戻した様子のラブの言葉に、ポールはご名答とばかりにニヤリと笑って見せた。

「・・・一体何のためだ。最早、ドフォーレ商会は死に体。仮に残っても、もう企業としての価値はない。お前達がそのような金を使ってまで買収する意味など、何もないだろう」

 ラブはこの場の急展開を眺める中で、何故かとても頭の中がすっきりしたような感覚にあった。そのお陰か先程までの混乱が嘘のように今は冷静さを取り戻し、そしていつまでも尻餅をつくようにへたり込んでいるのも具合が悪いと思い胡座を描くように座り直しながらポールにそう問うた。 
 つまるところ何のつもりかは知らないが、ポールはたった今融資を受けたばかりの二億をトレードに拠出するつもりのようだ。そうすると、トレードの場にはドフォーレの三億とカタリナカンパニーの二億、計五億オーラムが並ぶこととなる。
 そして今回のトレードを仕掛けたのは、カタリナカンパニーだ。ここで仮にドフォーレがトレードの敗退を宣言すれば買い手・・・つまりカタリナカンパニーの勝利となり、受け手であるドフォーレには買い手側拠出金の全額が振り込まれることになる。つまりドフォーレには、自らの拠出した金額と合わせて五億が振り込まれるということだ。それがあれば、今現在直面している総資産のマイナスを消すことは出来る。そうなれば、取り敢えずドフォーレ商会が潰れるということは、なくなるのだ。
 しかし、果たしてそのようなことを彼らがする意味はなんなのか。それがラブには、全く分からなかった。

「あれ、お宅聞いてなかったのかい、うちの従業員達が何て言ったか。なぁ?」

 ポールはラブの言葉にそう応え、又しても後ろの人影に声をかけた。
 それに応えて現れたのは、二人の美しい女性だった。服装こそあの時と違えど、ラブにとっては忘れもしない、それこそはこれらの出来事の予兆にあたる『宣戦布告』を行なった、マクシムスガードと思われる二人であった。

「ご無沙汰しておりますわ、ラブ=ドフォーレ様」

 そういってモニカが恭しく着衣の裾を摘み上げてお辞儀をする。対照的にエレンは、興味薄げに見下ろすのみだ。

「彼女らは、ちゃんと言っただろ。お宅らの『宝物庫』の中身を全部買い取る、ってな。俺はまぁ、ちょいとそれに用があってね。そりゃ勿論お宅らが潰れてから回収してもいいんだが、そっちの方がこっちにとっても色々と面倒だしな。なら買い取る方が合理的ってわけだ」

 ポールの言葉に、しかしラブは最早どうでもいいという風にふんと一息だけついた。
 確かにドフォーレの港の隠し倉庫に置いてあるものは、世界各地から様々な非合法手段を用いて集めてきた貴重品ばかりだ。だがそれだけに、これらは即座に金に変えることができない。中長期的な資金繰りの一環として、または神王教団等の他方勢力との協力の一環として行なっていたことだが、これも最早、今の彼にとってはどうでもいいことだった。
 文字通り、今の彼はそれらに価値を見出していなかったのだ。
 しかしそれは諦めともどこか違う、彼自身にも理解の及ばない不思議な感覚だった。何故自分は、あのような目的のもとに動いていたのか。それが今になって、何故か全く理解できないでいた。

「・・・好きにしてくれ。もう俺には、何も残されてはいない」
「そうさせてもらうよ。ってことでほれ、キャンディ」

 ポールはそこで改めて、管理員の横に立っていたキャンディを呼び寄せた。

「締めだ。よろしく頼むぜ」
「・・・なーんか癪に触るけど、まぁいいよ。お膳立てに乗ったげる」

 どこか腑に落ちない様子のキャンディだが、しかして本件の止めを担うことには悪い気はしない。気を取り直してふふんと鼻を鳴らすと、改めて管理員へと歩み寄り、会心の笑顔で以って無言で手を伸ばした。
 そんなキャンディににこりと笑顔で応えながら管理員が懐から取り出した書面を受け取ると、キャンディはそのままラブの前にどかりと座り込んだ。そして彼女はラブにその書面を突き出す。

「言ったっしょ。ウチは、このトレードに勝つって。有言実行、しにきたよ」

 太陽の光を反射するように爛々と目を輝かせながらそう言うキャンディに対し、ラブは思わず自嘲気味にふっと笑った。
 そう、彼は確かにこの少女を初見で見下し、舐めてかかった。あの時点で自分がもっと様々なことを考え慎重に事を運ぼうとしていれば、ひょっとしたら今とは違う結末があったかもしれない。
 だが、自分は選択を誤った。そして言葉通り、この少女に負けたのだ。
 しかし不思議と、悔しいという気持ちは彼の中に湧いてこなかった。
 寧ろ全てが終わった事でいっそ清々しさすら覚えつつ、しかしそれでは目の前の少女も納得行かなかろうと思い、ここは敢えて憎まれ口を叩いてやることにする。

「・・・まさかテメェみたいなガキに、このドフォーレが負けるなんてな。くそむかつくぜ」
「言ってろ豚野郎」

 お互いが口汚く罵り合いながら皮肉交じりに笑ったかと思うと、ラブはキャンディから書面を受け取り、管理員が差し出してきたペンでさらさらと署名を施した。そしてその書面を、ペンごとぶっきらぼうに管理人に突き出す。

「ほらよ・・・ドフォーレ商会は現時点にてカタリナカンパニーの買収提案と提供資金を受け入れる事とし、本トレード終了を要請する」
「・・・確かに、確認致しました。それでは、これにて本トレードの終結と致します。双方の拠出金はルールブックに則り即座にドフォーレ商会へと入金を行います。また、本件は買収規模が非常に大きいため、速やかに業務統合の手続きにお進みください」

 管理員がそう宣言したその瞬間に、キャンディは堪らず飛び上がった。

「いぃぃぃよっしゃああああ!!」
「っち、いちいちイラつくガキだぜ・・・」

 ラブはキャンディの様子に悪態を吐きながら、しかしやはり何処か晴れ晴れとした面持ちで空を仰いだ。







ドフォーレ事変エピローグ side A

ヤーマス商業ギルド中央会館、トレード管理員の業務日誌より抜粋

『某月某日。投書にてトレード申請あり。なんと、ピドナの企業によるドフォーレ商会を相手取る旨のトレード申請だ。これはヤーマス商業ギルド発足以来最大の珍事と言える。申請企業名は、カタリナカンパニー。メッサーナジャーナルの経済欄では最近よく名前を見る企業だが、これは流石に無謀としか言いようがない。担当するのが自分かと思うと、今から気が重い。ドンは機嫌を損ねると厄介なんだ』

『某月某日、トレードが開始された。が、なんとカタリナカンパニーの代表として会館に訪れたのは、年端も行かぬ少女だった。それこそ、私の息子と変わらんような年頃だ。その後ドンドフォーレも会議室に訪れ、開始宣言後に即座に三億オーラムの拠出。怯える少女のことを見て居られなかったが、なんとその後に売り言葉に買い言葉なのか、少女はドンドフォーレに必ず勝つなどと喧嘩を売ってしまった。その後に色々と資料請求をしてきたが、最早結果は見えているだろう。せめてあの少女があまり過酷な目に遭わないように願うばかりだ』

『某月某日。今日は朝から慌ただしかった。年に一度の麻薬取締ショーかと思ったら、今回は規模が段違いだ。ドフォーレさんも普段よりピリピリしていたように感じる。こちらも許可証等々の発行で港と往復しっぱなしで大忙しだった。昨日から寄宿しているキャンディという少女はうちの取引帳票を勝手に漁っているようだったが、構っている暇もない。問題を起こさなければいいのだが』

『某月某日。とんでもないことが起こった。ヤーマス塩鉱に麻薬精製工場が併設されていたなんて、これは商都ヤーマス始まって以来の大事件だ。ドフォーレさんは体調不良だとかで全く会えないし、麻薬捜査官は慌ただしく一部が引き上げていくし、これから一体どうなることか。こうなると開催中のトレードも、雲行きが怪しくなってきた。キャンディさんは二週間待ってくれと言っていたが、こんな状況では最早トレードどころではないのではなかろうか。しかし職務上放棄するわけにもいかない。とにかく今は状況を見極めるしかない』

『某月某日。麻薬精製工場発見から一週間が経ったが、特に大きな動きはあれからない。ドフォーレさんは相変わらず出てこないし、捜査官も何やら手詰まりの様子だ。今しばらくはこの状況が続くのだろうか。私もすることがないので、今日もキャンディさんと帳簿の整理をしていた。あの子はとても利発的だ。それに妙な人懐っこさがあるので、すっかりこのヤーマスの中央会館内でも人気者になった。彼女の提案でこれまで雑多な管理だった帳簿の整理もとても進んでいるし、とても助かっている。トレードの結果が彼女にとって有益なものになるよう、職務柄肩入れが厳禁なのはわかっているが、願わずにはいられない』

『某月某日。来訪者があった。カタリナカンパニーの営業部長ポールと名乗る男だ。キャンディさんと会った途端にポールという男は何故か驚くしキャンディさんは何やらとても怒った様子で詰め寄っていたが、すぐに二人で部屋に閉じこもって色々と打ち合わせをしていた。その後同じくカタリナカンパニーの従業員を名乗る三名が来訪した。男性一人は緑っぽかった以外にあまり印象にないが女性二人は非常に美しく、館内の皆が見惚れていた。眼福とはああいうものをいうのだろう。その後はキャンディさんだけがまたこの場に残り、初日の時のように何やらずっと計算を繰り返しているようだった。途中様子を見に行った時の彼女の表情は、初日に比べてどこか安心したようだった。やはりあの年頃で一人でここにいるのは負担もあったのだろう。彼女が年相応の子供であるということに、もっと意識を向けなければならなかった。管理員以前に、一人の親として私も反省せねばならない』

『某月某日。またしても大事件だった。このヤーマスの街中に二度も魔物が暴れるなど、まるで聖王様以前の時代のような大事件だ。しかもこの日は、更に歴史的な瞬間でもあった。あのドフォーレが、トレードで敗北したのだ。まさか本当にキャンディさんの勝利で終わるとは、この仕事をやって二十年になるが私も全く予測できなかった。しかし、本当に喜ばしい限りだ。彼女の元でなら、ドフォーレはきっと良き企業として再生するものと信じられる。また驚くべきことに、あの名門クラウディウス商会のご令嬢と名乗る女性にもお目にかかることができた。クラウディウスは私の知る限り最もコンプライアンスに優れた企業だったが、清廉という言葉を表したような美しさのご令嬢を見ると、それは当然だったのだと確信する。これを機にクラウディウスも再興すると言うのなら、それは経済界にとっては大いに歓迎するべき事だろう。兎に角、今夜はこれから祝賀会だ。トレードが終わったからこそ、私も是非とも一言お祝いの言葉を述べに駆けつけなければならない』

『某月某日。珍しくメッサーナ王国軍から早々に正式な事件のあらましが公表された。なんとあの事件の魔物の正体は、ドフォーレ商会会長のモンテロ氏に化けていたということだったのだ。ラブ氏もその魔物に操られていたとのことだそうなので、全く驚くべきことだった。そういえば今年の初めのほうにロアーヌで魔物が手引きした事件があったと記憶しているが、このヤーマスにもこのような事件が起こるとは、予想だにしなかった。ドフォーレは取引禁止の罰金こそ免れなかったが余罪は魔物の策略ということで不問になり、ラブ氏も一度は捕縛されたが直ぐに釈放され、カタリナカンパニーの元で一から出直しとなるようだ。因みに今回の事件で魔物退治に姿を見せていたあの怪傑ロビンは、今回のドフォーレ騒ぎを最初から見抜いていたということでこれまでの罪状が全て消えたとのこと。まぁほとんどドフォーレが憲兵に圧力をかけて罪人に仕立て上げていたようなものなので、これも納得の結果といえる。街の平和を守る怪傑ロビンと、キャンディさんのいるカタリナカンパニーがいれば、きっとこの自由の街ヤーマスは今後益々の発展をしていくことだろう』





ドフォーレ事変エピローグ side B


「いやいやいや、まだあたし全っ然今回の内容分かってないんだけど!」

 一連の騒動から漸く街が落ち着きを取り戻してきたその夜、ヤーマスではすっかり定番となったシーホークにてエレンが手にしたジョッキの中身を豪快に飲み干したのち、唐突にそう叫んだ。 
 その言葉に反応して同席していたモニカとユリアンが彼女に視線を向けると、エレンはジョッキのお代わりを通りかかったライムに求めながら彼らに話を振る。

「なんかすっごい万々歳のハッピーエンドっぽい流れだけどさ、ぶっちゃけあたし全然話についてこれてないの。ユリアンとモニカは!?」

 そうエレンに問われ、ユリアンとモニカは其々顔を見合わせた。

「あーまぁ・・・俺も正直よく分かってないけど、元々商売の話されてもあんまりわかんないからなー。モニカは?」
「わたくしは一応ポール様から大凡の話はお伺いしましたので、大枠の理解はしているつもりですが・・・」
「えー、じゃあモニカ教えてよー」

 ボイルソーセージを三本同時にナイフに刺しながらのエレンの願いに、モニカは快く承諾をした。酒が回って機嫌が良くなったのか必要以上にエレンは感謝の意を述べ、更にはお礼と称してモニカにソーセージを一本あーんさせてから、態とらしく真顔になった。

「じゃあじゃあ、あたしそもそも疑問だったんだけどさ。今回のトレードって、ぶっちゃけ勝つ意味あったの?」
「うわ、ほんと根本だなそれ。でも俺も、それ実は思ったなー」

 エレンの最初の問いに、ユリアンも同意を示す。
 彼ら二人の言い分はつまり、こうだ。結局麻薬工場の暴露でドフォーレは壊滅するように仕向けたのだから、態々カンパニーからトレードを仕掛けた挙句に二億オーラムを払ってまで勝つ必要はあったのだろうか、ということであった。
 それに対し、モニカは北方特有のしっかり冷えた辛口の白ワインを頂きながら応じる。

「それはですね、いくつか理由はあったようですわ。中でも一番大きな理由は、わたくしとエレン様で」
「エーレーン!」
「あ・・・すみません。わたくしとエレン・・・で拝見したドフォーレ商会の倉庫にあるものが欲しかったそうですわ」

 途中で注意され、どこか気恥ずかしそうにしながら言い直すモニカに、エレンはやってきたジョッキを受け取りながらにんまりと微笑んで返す。つまるところ、自分は呼び捨てするのに様付けで呼ばれるのが納得いかなかったらしいエレンが、ヤーマス塩鉱の道中でお互い呼び捨てを強引に宣言したのだった。
 その様子を一際微笑ましく眺めていたユリアンは、しかしモニカの言った内容には疑問符を浮かべた。

「そんなに価値があるものだったか・・・。二億オーラムなんて、途方もなさすぎて全く想像が付かないけどな」
「そうですわね。なんでも、聖王遺物に匹敵する程の禁呪が記された魔道書があの中には含まれていたそうですわ。ただ実物の解読をミューズ様に試みてもらったものの、殆ど分からなかったとか。確かにそんなものならば、お金で買えるのならば出す価値はあるのかもしれませんわね。解読については聖王家かモウゼスの魔術ギルドに持ち込む予定らしいですわ」
「なるほどねー」

 あそこがそんなにすごいところだったなんて、と腕を組んで思い出す仕草をしながらエレンが唸ると、モニカも同じく思い出しながら微笑んだ。

「他には勿論、ドフォーレ商会がこれまで築いていたルーブ地方での基盤をそのまま利用できるのは非常に強い、とも言っておりましたわ。塩鉱は統制を失った魔物の巣窟に戻ってしまったので商業利用は断念せざるを得ませんが、それでも海運事業等は流通の上で非常に有利に働きます。それに・・・破産した場合にドフォーレの下請け企業の多くが一気に露頭に迷うことになるのを防ぐ側面もあったのではと、わたくしは思っております」
「あー、確かにそういうのはトムとかすんごい考えそう。道理でお金を惜しまないわけだ。今のが一番納得したかも。でも、ポールとかドヤ顔で『お、俺は魔術書が欲しかっただけだー』とか無駄にカッコつけそう」

 モニカの考察にエレンが頻りに頷きながらジョッキを傾けつつ微妙にポールをディスると、言いそう言いそうとその場の一同に笑いが起きる。そして一頻り笑った後、今度はユリアンが控えめに手を挙げて周囲に聞こえないように多少声を潜めながら口を開いた。

「モニカ、俺からも一つ聞いていいかな。ドフォーレの狙いって、結局なんだったんだろう。あいつらは塩に麻薬を混ぜて流通させていたけど、あれってそもそも麻薬としての価値はないってポールは言っていたし・・・」
「それはロビン様も仰っておりましたが、わたくしはむしろ今回の首謀者がラブ氏ではなく魔物の化けたモンテロ=ドフォーレだったと考えれば得心が行くと思っておりますわ」
「・・・つまり、どゆこと?」

 ユリアンの疑問もまた、至極当然だった。抑も今回の事件を暴く最大のきっかけは、ロビンとユリアン、ポールの三人による塩に擬態した麻薬の秘密裏の摘発に端を発する。
 だが彼らが発見したその『麻薬』は、塩と混ぜており麻薬としては売り物にならない状態だった。これでは、あとで分けることも不可能に近い。だが麻薬としての成分はしっかり含まれているので、人体には有毒だ。少量なれど長期間の服用が続けば、いずれ人類に甚大な被害を齎らしたことは間違いない。
 何故ドフォーレは、稼ぎにもならないのにそのような危険物を流通させていたのか。
 それについてモニカは、この行為の首謀者がラブではなくモンテロであると読んだのだ。

「ポール様も同じ見解でしたが、恐らく本物のモンテロ氏は、死蝕からそう時間が経たぬうちにあの魔物によって殺害されていたものと思われます。そしてモンテロ氏に扮した魔物が長きに渡りドフォーレ商会を支配してきたのならば、その目的は企業の成長などではなく人類に仇為すため・・・そう考えるのが自然ではないでしょうか」
「そうか・・・そういえば捕まってすぐに釈放されたラブ=ドフォーレも『何故こんなことをしたのか、自分でもよくわからない』って言っていたらしい。洗脳みたいなものを受けていたってことなのかな」

 モニカの言葉に、ユリアンもまた頻りに頷きながら答えた。
 そんな二人の言葉を聞きながらジョッキをあおっていたエレンは、一気にその中身を飲み干してから口を開く。

「・・・っぷはぁ、なーるほどねー。じゃあ今回あたし達、ある意味世界を救ったようなもんじゃんね?」
「おお、確かに!」

 今になって気がついたようにユリアンが感嘆の声と共に同意すると、でしょでしょと言いながら気を良くしたエレンはホールのライムに向かって空のジョッキを振った。

「じゃあ世界救済祝いに皆んなでもう一杯!ライムおねがーい!」
「はい喜んでー」

 エレンの快活な声にいつもの調子で応えたライムだったが、普段はあまり明るい雰囲気を出さない彼の表情も今日ばかりはどこか晴れ晴れとして誇らしげであった。







ドフォーレ事変エピローグ side C


「なーんて平和に終わってたまるかっての。今日こそは全部教えてよね」
「おいおい・・・早めに寝たほうがいいんじゃないか?」
「はぐらかさない!」

 飲み屋通りの喧騒から離れたヤーマスの宿の一室では、水と果汁で薄めたワインをちびちび啜りながらキャンディがポールに絡んでいた。対するポールはエレンに付き合って流石に連日飲みすぎたのか、ウィスキーを炭酸で割ったものをゆっくりと飲みながらキャンディの様子に肩を竦めて見せた。

「結局さ、ポールは一体いつからドフォーレの正体に気づいていたの?」

 背もたれのある簡素な椅子に逆から座り、背もたれ部分に腕と頭を乗せながらキャンディが矢継ぎ早に続ける。どうやら質問に答えてくれるまで徹底的に居座る様相であるキャンディに、ポールは早々に抵抗など無駄であろうと悟り小さくため息をついてから口を開いた。

「まぁ・・・感づいたのは俺も最近だよ。それこそ、制圧後の神王教団ピドナ支部を漁っている時だ。そこでまず、教団とドフォーレの麻薬を含めた黒い繋がりを示す幾つかの証拠を見つけた。その後に捕縛した教団員に余罪についての尋問をした際、その中に偶然にも過去のガーター塩田襲撃の実行犯がいてな。結局そいつ自身は襲撃の目的も何も知らなかったんだが、俺はどうもそれが気になって、ちと調べようと思ったのさ。因みにモニカ達に頼んだ小芝居も、この時思いついた。あとはまぁ、お前さんが辿ったルートとそう変わりはないと思うぜ」
「でも、ウチは塩と麻薬がごっちゃって部分は読めなかった。ポールはなんでそこまで・・・?」

 ポールがつまみ用に用意していたドライフルーツを断りもなくひょいとつまみながらキャンディが聞くと、ポールはにやりと笑いながら、勘だ、と一言だけ応える。
 それにキャンディがさも胡散臭いものを見るように無言の半眼で応じると、ポールは毎度の如く肩を竦めながら自分もドライフルーツを口に放り込んだ。

「んーまぁ、まず魔物が絡むって時点で首謀者が人間ではない可能性の方が高いとは睨んでいたんだ。なにせ俺はロアーヌ宮廷の一件を、この肌で感じていたしな。こりゃもう経験の差だろう。あとは塩の単価がこれまでの水準からしたらあまりに安価で且つ数年全く動かさない事から、塩流通の主目的が金稼ぎではないんじゃって事も薄っすら思ってはいた。この辺は、普段の値段変動を見続けていなきゃ気付き難いわな。んでまあ、そこから魔物が裏にいるのと過去から麻薬の出所が不明であることを合わせつつ収集した資料を元に、奴らが塩と麻薬を混合しているっつー仮説を立てた。ただピドナでドフォーレの扱う塩を調べた時には反応があんまりにも薄くて確信が持てなかったが、ヤーマスで運良くロビンの協力を得て配合の濃いブツも押さえて確信も持てたし、その内容も内容だったからのんびりやるわけにも行かねーしで、今回一気にやったってわけだな」

 ポールの言葉を一つ一つ噛み砕くように耳を傾けて聞いていたキャンディは、どうやら色々と腑に落ちたように一人頷いた。

「・・・そっか、そこまで確信あったから、メッサーナ王国軍が情報統制して事態をちゃっちゃと締める方向に走ることも分かってたってわけね」
「ご名答。しっかしまぁ、そこまで察するか。お前ホント頭いいのな」

 キャンディが指摘したのは、今回のトレードが形式通りに終わり、そしてラブ=ドフォーレも逮捕後、即座に釈放された部分に関してだった。
 そりゃこんなの世間に公表できないもんね、とキャンディは続けた。
 なにしろ今回の件はドフォーレの塩が流通していた都市国家全て、それこそ冗談抜きに世界中を巻き込んだ事件である。しかもドフォーレの塩が流通していた数年来、常に麻薬が少量混入していたという状態だ。こんなことを世間にそのまま公表すれば、これまでドフォーレの塩を買って使っていた国や人々に大きな混乱と不安を招くことになる。焦燥、そして恐怖はアビスの瘴気を活発化させる元凶でもある。
 それになにより、これらを全く防ぐことのできなかったことが世間に知れ渡れば、各国の軍団の権威は失われ、信頼も地に落ちることとなる。そればかりは、メッサーナ王国としては何物にも優先して絶対に避けなければならないことだった。

「まぁ、ラブ氏もどうせ釈放に関しては監視付き且つ他言無用が条件ってとこだろう。兎に角メッサーナ王国軍としては本件を世間に深く探られては非常に具合が悪い。だからこそ、魔物が暴れました。ドフォーレは操られてました。でも正義の味方が倒してくれましたで一件落着!・・・としたかったわけだな。まぁ実際ラブ氏の事件直後の様子を見る限り、意識操作らしきものはあったようだしな」
「でも詰まる所、メッサーナ王国軍にとっては丁度いいカモフラージュ代わりにウチらやロビンさんも利用された、ってわけよね。なーんかそう考えると、イマイチ釈然としなくない?」

 キャンディが不機嫌そうにぷくりと頬を膨らませると、ポールは苦笑してみせる。

「なぁに、この展開のほうが寧ろ俺らにとってこそ都合はいいんだ。今頃、王国軍は苦虫を噛み潰してるだろうさ」
「ひょっとしてそれ・・・ミューズ様のこと?」
「・・・お前は本当に十四歳か? 一体、何処まで読んでるんだ?」

 そういってポールは、彼にしては珍しく本当に驚いたように目を丸くしながら声を上げた。
 対するキャンディはそんなポールの言葉に欠伸で応え、グラスの中身を一口啜ってから口を開く。 

「そりゃ誰だって唐突だなって思うでしょ、あそこでミューズ様が来るなんて。まぁ、今ので大体想像はついたけどさ」
「ま、そうだな。単に金を無心するために呼んだわけじゃあないさ。当然これは、トーマスの旦那も咬んでるしな」

 ポールがそう言うと、キャンディはドライフルーツを掻き分けて皿の底に溜まっていたナッツをつまみ上げ、指で弾いて口に放り込みながら曖昧な返事を返した。

「で、どう言うことなの?」
「これが実は今回の一番の狙いでな・・・ずばり、対ルートヴィッヒ体制の確立、だ」

 ポール、そしてトーマスの狙いはそこだった。
 抑も現在のピドナに渦巻く経済界を中心とした様々な問題はルートヴィッヒ軍団長率いる現体制が齎したものであり、それは軍を通さぬ鉄や鋼等に課される特定品目追徴課税等の施行を以て今後より一層加速していく状態であった。この様な横暴が罷り通りこのまま中央集権が続けば、最早誰にもこの流れを止めることができなくなってしまうという所まで事態は来てしまっていた。 

「・・・つまり、クラウディウス復興でもってルートヴィッヒの一党体制を崩すってことか」
「そう言うことだ」

 現在でも既に、ルートヴィッヒ政権に異を唱えるような派閥は宮廷内には存在していない。そしてルートヴィッヒの情報統制や世論対策は実に見事なものだった。無論商業ギルドに組するものからは反感の声も聞こえてはいたものの、大手企業に対して補填策を用意することで抑え込みが成された。だからこそ付け入る隙もなく手をこまねいていたと言うのが、以前までの話だったと言うわけなのだ。

「って事は、切っ掛けは上半期決算発表会だったわけね」

 その絶対的な均衡が崩れたのは、カタリナカンパニーがピドナにて催した上半期決算発表会であった。
 ここで起こった襲撃事件を機に、ある意味ではルートヴィッヒ政権の象徴とも言われていた神王教団ピドナ支部が魔物の巣窟であったという衝撃的な結末で以って瓦解。これにより五年前に神王教団をピドナへと招き入れたルートヴィッヒの責任を追求する声は、流石の彼の情報統制でも完全とはいかなかったのだった。それ程、あの事件はメッサーナの民にとって衝撃的な事件だった。

「現政権に対する不満が大きくなった直後に、かつてピドナで善政を敷いたクラウディウス家の息女による悪徳ドフォーレの退治劇、か・・・。そりゃあの美貌でそんなことされちゃ、世界中にファンも出来ちゃうよねぇ」

 ルートヴィッヒ上陸以前に故アルバート王の遺志を継いで政治を主導していた故クレメンス=クラウディウスは、アルバート王のそれに習い、神王教団のピドナにおける布教活動を認めていなかった。
 当時はそれを横暴として批判する声も少なからず存在していたが、ピドナでの事件を機に改めてクレメンスの判断は正しかったのだと主張する声は、着実に市井の間で広まっていた。

「・・・そっか、だからこのタイミングか。文句言ったらこの事件を根掘り葉掘り突かれるから、黙らざるを得ないってわけね」
「ご明察。ま、因みにこれの筋書きの基本は、俺じゃなくてトーマスの旦那だよ。ほんとあの人は、商売やらせとくには勿体無いと思うよ」

 頭の中の疑問にやっと合点がいった様子で納得顔のキャンディに、ポールはこれで酒をゆっくり飲めるか等と内心胸を撫で下ろしながら言った。
 当然の事ながら常々情報統制を行う中で、ルートヴィッヒ政権は市井の不満を把握していた。同時に、カタリナカンパニーが事件以前からクラウディウス家と関わっている事も当然認識していた。事の有る無しに関わらず、政権を揺るがす要因と成り得るものは先に抑えておくのが常道。だからこそカタリナカンパニーが初めて公に顔を出した上半期決算発表会には、ルートヴィッヒの片腕である副団長マルセロが出席するという、ある意味であからさまな牽制も行なったのである。
 それだけ現政権としては市井の不満の受け皿を作ることは絶対に回避せねばならなかったという事であるし、現状最もそれに成り得る存在こそがクレメンスの秘蔵っ子ミューズであることも明白だったからだ。
 だがそんな彼らの思惑を大きく外れ、事件は起こった。
 先ずは前述の決算発表会襲撃事件に端を発する、神王教団ピドナ支部瓦解事件。
 ある意味でルートヴィッヒ政権の象徴であり、また市井の不満の意図的な受け皿の役割をすら果たしていた神王教団があのような結果で消滅したことは、ルートヴィッヒにとっては非常に大きな痛手であった。
 この事件の火消しには未だ政権が躍起になっているが、しかし教団という受け皿に騙されていたことも含め、民衆の不満は嘗てないほどに膨れ上がっていた。
 そして、今回改めて世界を、軍の信頼を揺るがしかねない大きな事件が起こってしまった。
 それが、このドフォーレの事変である。
 しかもその表向きの収束をクラウディウスが演出するという、ルートヴィッヒにしてみれば考えうる限り最悪の形で、事件は決着した。
 いや、正確に言えば最悪の形というのは語弊がある。
 彼らにとって何より最悪なのは、微量の麻薬が塩に擬態し数年もの間市民に流出し続けていたという事実に王国軍が一切気付いていなかったという無能を世界に晒す事だった。
 これ以上軍の失態が広まれば、最早ミューズ等という受け皿など無くとも民衆の反乱は目に見えている。それこそ今回の件はピドナだけの話ではない。世界中を巻き込む規模の話なのだ。
 実の所、五年前に突如として台頭したルートヴィッヒを内心快く思っていない各都市の軍団関係者も少なからずいる。だからこそ神王教団に続きこの事件がまたしても軍の不手際であると判断されれば、ここぞとばかりに一斉に近衛軍団の責を問うであろう事も明白だった。
 軍としては、己の不手際を問われる事こそ最悪。だからこそ今回正攻法にて表面上の事件解決を齎したクラウディウスに対し、下手に突っ込みを入れるわけにはいかないのだ。
 『騒ぎを収束させたヒーロー』に物申せば、民衆は当然軍を批判するだろう。そして、なぜ批判するのか、と事件の内情を探り始めるだろう。
 それで事件の真相に触れるものが増えれば、それこそもう収集がつかなくなる。
 だから今回のこの機会であればこそ、ミューズは現政権に邪魔をされる事なく表舞台に立つことが出来たのだ。

「・・・しかも、ラブには相応の条件で今回の件を口止めしてんだろうけどウチらはそういうわけにはいかない。ルートヴィッヒは今回口出しをできない上に、依然としてかなり大きなハンディを背負ったままだ」

 そう言ってポールは非常に意地の悪そうな笑みを浮かべた。
 キャンディはそのあまりにはまり役のような悪役面に軽く引きながらも、グラスを傾けながら続きを催促する。

「麻薬工場におけるドフォーレ、麻薬、そして塩の関係性を表す資料は、全て此方で回収し、持ちきれない分は燃やしてある。軍にはドフォーレと麻薬との関連性に関する参考資料こそ提供したが、塩との混合を示唆する資料は渡していないのさ」
「うっわ、考え方が完全に悪役のそれじゃん」

 ポールの言葉にキャンディが半ば呆れ顔でそう言うと、まるでそれが褒め言葉であるかのように上機嫌な様子でポールは笑ってみせた。

「ま、このカードは次の大きな行動を起こす時の切り札だな。暫くの間は、このカードを切ろうと切るまいと、彼らは疑心暗鬼から強気の行動を起こせなくなる。気を付けたいのは、業を煮やしての暗殺関連だな。クレメンス様やフランツ侯の様な事は絶対に避けなきゃならない。これまで以上に、護衛を確りつけなきゃだな」
「・・・本当に怖いのは魔物より人、なんて使い古されたオチはやめて欲しいもんだね」

 キャンディはそう言いながらチビチビとグラスの中身を啜る様に飲んだ。

「ま、何にせよ今回はこれで万々歳さ」
「なーにが万々歳よ。抑もミューズ様とあんな話になってるなら、最初から言ってくれればウチが態々あんなに焦らずに済んだのに。勝つために自社資金もギリギリまで積み立てる算段だったんだからね。皆んなにいっぱいお願いの書面だしちゃったし」

 キャンディがまたしても膨れると、ポールはそれにも笑って応えた。

「はっはっは、すまんすまん。しかしキャンディのそれのおかげで、すっからかんのドフォーレの事業再生に調達した資金を回す余裕ができたんだ。正直再生には年単位で時間が掛かると踏んでいたが、これなら直ぐにでもドフォーレの持っている地盤やインフラを使えそうだ。今期の決算も総資産爆上げだぞ。感謝しているよ」

 ポールに感謝の言葉をかけられてまんざらでもない様子のキャンディは、ふふんと鼻を鳴らし、壁に掛けられた時計に目を向けた。見ればすっかり、そろそろいい時間だ。
 キャンディは残り少なかったグラスの中身を一気に飲み干すと、小さく欠伸を一つして、椅子から立ち上がった。

「ま、大体わかったよ。ウチも今日は寝る」
「あぁ、また明日な。お疲れさん」

 存外素直に部屋を出て行ったキャンディを見送ったポールは、自分もグラスを一気に傾けて中身を飲み干し、そして一息つきながらふと窓の外を眺める。
 見上げれば夜空には、煌々と輝く月が雲の合間から顔を覗かせている。北方で見る月は、ピドナから見上げるそれよりも輪郭がはっきりしているように見えるのだ。しんと冷えた空気が、そうさせるのだろうか。そう思ってふと窓を開けてみると、予想外に肌寒い空気が流れ込んできてすぐに閉じてしまった。

「・・・寒くなってきたな。今頃キドラントは、冬籠りの支度かな」

 窓の外の景色に向かってそう呟いたポールは、テーブルの上の洋燈の火を吹き消し、自分も早々に布団に潜り込んだ。
 まだまだやるべきことは山積みだが、今日ばかりはゆっくり寝てもいいだろう。そう自分に言い聞かせ、間も無く微睡みの中へと落ちて行った。







最終更新:2018年06月14日 12:08