薄暗く、瘴気の残滓が色濃く残る空間の中に、場違いに甲高い靴音が等間隔で響き渡る。
主人を失い棲息するものの気配が立ち消えた廃墟に颯爽と現れたその女は、明らかに廃墟を歩くことを目的として作られていないであろうヒールをまるで己が尊厳であるかの如くに頑なに身に付け、その廃墟の最深部までやってきたのだった。
かくして、その最深部には先客がいた。
壁に向かってしゃがみ込んだその先客の後ろ姿はまるで建物と同化しているのかと思うほどの煤汚れっぷりで、まさかここの住人ではあるまいかと訝しむほどの様相だ。
「・・・一日早く着いているとは聞いたけど、貴方まさか昨日からずっとこの中にいたのかしら。よくもまぁ、こんな瘴気と埃まみれの所に一日中いられるわね」
片足に重心を掛けて豊かな胸部の下で腕を軽く組み、女は部屋の奥でしゃがみ込んでいる先客に遠慮なく悪態を吐く。
そしてその声に特段反応するでもなく部屋の中を調べ続ける先客に対し、女もさしてそれを気にすることもなく部屋の中をゆっくりと見渡した。
入り口からここに来るまでの間は無人であるだけで建物自体がそこまで損壊しているわけではなかったが、最深部であるこの部屋だけは、特段に損壊度合いが激しい。それだけ、ここで行われた戦闘の壮絶さが伺えるようだ。
「取り敢えず、分かっていることを教えて頂戴」
女のその問いに、先客は漸くゆっくりとした動作で立ち上がり彼女の方へと体を向けた。
「・・・今のところ分かっていることは、ここにあるものは今の科学や魔術理論では何も分からないだろう、という事です。初めまして、プロフェッサー。ランスの天文学者、ヨハンネスです。因みに、流石に一日中いたわけではありません」
ヨハンネスが直立のまま微動だにせず名乗ると、対するプロフェッサー・・・教授はヨハンネスをたっぷり十秒程上から下まで眺める。一見して学者然とした服装だが、身に纏っているのは白衣ではなく赤を基調とした服。これでは暗がりで見辛い事この上ないな、という程度の感想を抱いた後、ふんと鼻を鳴らし早々に興味を無くした様子で歩き出した。そしてそのままヨハンネスの横を通り過ぎ、部屋の最奥に座す破壊された何かの装置らしきものの前に立つ。
先刻埃まみれを嫌がるようなことをヨハンネスに言ったことなど既に忘れたのか、肩にかけていたバッグから薄手の手袋を取り出し慣れた手つきで装着しながらその場にしゃがみ込んだ。その動作で周囲の埃が舞うことも、まるで気にしている様子がない。
そして徐に装置の残骸にそっと触れ、隈なく観察を始める。
「・・・所々に刻まれているのは、古代文字ね。解読は?」
振り返るでもなく観察を続けながら教授がそう言うと、ヨハンネスも別の箇所の観察に移りながら口を開く。
「その辺りの文字は、何かの名称を示しているようです。恐らくですが、意味のある言葉のつながりではないですね」
「そう。後でそれらをまとめたものを用意して頂戴」
そのような短いやり取りを時折繰り返しながら、二人は黙々と現場検証を続けていく。
彼らの他には現場に立ち入っている人間は皆無のようで、何方かが喋らない間は不気味な静寂がその場を支配していた。しかし互いがそのような環境に馴染んでいるのか、全く動作が乱れる素振りもない。
そのまま幾許かの時が過ぎたあたりで、今度は足音も殆どない中で灯りが部屋へと近づいて来た。ロアーヌ騎士団のフォックスだった。
「二人とも、お疲れ様。食事、持ってきたわよ」
二人の背中に向かってそう声をかけると、即座に動いたのは教授だった。相変わらず甲高い靴音を響かせながら手袋を外しつつフォックスの元に歩み寄ると、何処に仕舞っていたのか折り畳み式の椅子を広げて座り、まるでこれも作業の一環であるかのように無機質な印象を抱かせる動きでフォックスの持ってきた食事に手をかける。
「外の様子はどうかしら?」
大量に盛られた大粒の果実を口に運びながら、不意に教授がフォックスに問いかける。それに対してフォックスは、左手を腰に当てながら答えた。
「特に問題ないわ。要塞内にも変わらず敵対勢力無く、周辺巡回の各部隊からも特段報告はないわね。北部上陸地点のキャンプ、及びアケとの連絡網も滞りなく機能している」
「そう。瘴気はどうかしら」
「それは依然として周辺地域に至るまで色濃く残っているわ。勿論、ここが一番濃いのだけれど・・・」
外の様子を説明するフォックスの言葉に耳を傾けながら、教授は足を組み直して果物を齧りながらどこか遠くを見るように目を細める。
するとそこに、ヨハンネスも漸く重い腰を上げて合流してきた。
「・・・ここは興味が尽きませんね。この瘴気がなければ、暫く住んでもいいと思えるのですが」
特に椅子などを用意することもなく地べたにそのまま腰を下ろし、教授と同じく身につけていた手袋を外して果物の籠に手をかける。
「しかしここの瘴気は、おそらく消えることはないのでしょうね」
「・・・そうなの?」
フォックスが首を小さく傾げながら聞くと、ヨハンネスはこちらも小さく頷いた。
「恐らくこれから三百年をかけ、ゆっくりとこの火術要塞は再生されていくのだと考えられます」
「そうね。確かにこの要塞、現時点では直近の損壊以外の物損が確認できていないわ」
ヨハンネスの言葉に、唐突に教授が被せて意見を述べる。ヨハンネスは教授の言葉にも小さく頷いた。
魔王が四魔貴族をアビスより呼び出し従えて六百年あまり。その間存在し続けているこの居城は、なんと全くの新築といってもいい状態だと彼らは言うのだ。
それは全く以て非現実的な話に思えるが、しかし不思議とフォックスは二人のその反応に妙に納得してしまっていた。この火術要塞は確かに建物全体がまるで息づいているかのように、微弱に鳴動を続けているようにフォックスには感じられていたのだ。
主人は消えたというのに、どこからか流れ込んでくる灼熱の溶岩も止まることを知らず、壁を走る不気味な朱鳥術の明かりも消える事なく、そのままだ。
それはまるで、この要塞そのものが生きており受けた傷をゆっくりと癒しながら三百年の後に訪れる主人の再臨を待っているかの如く。
三人のいるこの部屋には、この火術要塞の『核』と思われる何らかの装置の残骸がある。それが壊れてもなお、要塞は息衝いているというのだろうか。
「・・・日が落ちる頃に、呼びに来るわ。でも、その前に出て来るなら出てきて。人がここに長く居過ぎては、瘴気に侵されてしまうわ」
二人が一通り食事を終えたのを見計らい、フォックスはそう言って空になった籠を持ち上げた。
教授はフォックスに見向きもせず、ヨハンネスはぺこりと頭を下げ、其々の作業に戻っていく。
それを見届けてから出口に向かって歩き始めたフォックスは、空の籠を抱きかかえたままゆっくりと歩きながら考え事をする。
なにしろその考え事の対象は、彼女たちが今護衛を務めているあの二人についてだった。
一人は、ツヴァイクの西の森に居を構えるという『教授』と名乗る人物。一見して外見にもしっかりと気を使っている様子の美女だが、しかしその言動はどこか人間離れしている。また聞くところによれば文字通りの天才であり、現代科学の水準を大きく逸脱した存在である、との事だ。
そしてもう一人は、聖都ランスからやってきた天文学者ヨハンネス。こちらはあまり手入れしている様子もなく伸びた髪と無精髭、よれた着衣という見たまんま出不精のような外見であり、言動もどこか陰がある。だが一方でその天文知識とアビスに関する知見は世界屈指であるといい、また聖王家とも関わりがあるのだという。
彼女ら二人はこの火術要塞の調査依頼を受け、遥々北方からこの密林までやってきたのだった。
ここ火術要塞の周辺は現在ロアーヌ軍が駐屯地を隣接形成し、警戒体制を敷きながら調査を行なっている。これらの調査は、開始から既に二十日ほどが過ぎていた。だが調査の一日目で『専門知識や技術を持つものでなければ何も分からない』という結論に早くも辿り着き、二人の招致と相成ったのだった。
因みに専門調査員についてこの二人を推薦したのは、本調査隊の前身となる『アウナス討伐隊』の隊長を務めていたカタリナであった。
世界中を回った彼女が知る限りで最も本調査の進展が望めるのはこの二人であろうとの強い推薦により、現地から使者を送り二人がそれに応えてくれた形だ。
其々住んでいる国も違うというのに急な要請に応じてくれるものなのだろうかとフォックスなどは思ったものだが、カタリナの予想通りに二人は存外即決で調査を引き受けてくれたという。だがそれも、今になってみればフォックスにも分かるような気がした。なにしろあの二人は見た目こそ全く違えど、兎に角目の前の研究に没頭すると止まらないという意味では全く一緒の特性を持っているようなのだ。そしてその興味は、正に常人の及ばぬ領域にこそ強く注がれる傾向にあるらしい。そういう意味では、この火術要塞という調査対象は彼らの興味を大いに惹きつけて止まないものであることは間違いないのだろう。
「・・・それにしても、本当にここで一体何があったというのかしら」
いつの間にか要塞入り口まで戻ってきていたフォックスは、そう一人呟きながら振り返る。
其処には、主人を無くした火術要塞がひっそりと、しかし重苦しく鎮座していた。
商都ヤーマスより南方へ向かうと、ルーブ地方と静海沿岸地方を結ぶ流通の要である「海上都市バンガード」がある。三百年の昔に聖王が幾多の失敗と犠牲の上に作り上げた対魔海侯用決戦要塞であるという伝説を持つこの歴史ある都市を更に南に向かうと、これまた聖王伝説所縁の地である「学術都市モウゼス」がある。
このモウゼスには、かの聖王三傑の一人とされる偉大なる水術師ヴァッサールを創始者とする「魔術ギルド」の本拠地が存在している。それ故に世界中から有能な学者や術者がこの地へと集い、日夜研鑽を積んでいるのだった。
カタリナは今、このモウゼスを訪れていた。
「アウナスが消滅していた原因は、結局不明のまま・・・。結果自体は喜ばしいことのはずなのに、何故か嫌な予感が拭えませんね・・・」
モウゼスの宿屋の一室にて、ミューズが上品に紅茶を一口啜ってからぽつりと呟く。
ヤーマスでポール達と共にドフォーレ商会の制圧作戦を終えたミューズは、現地でピドナと連絡を取りつつ騒ぎの収束を待ってからポール達と別れて従者のシャールと共にバンガードへと南下した。
彼女らの目的は、ドフォーレの盗掘品の中から入手した「古代魔術書」の解読をモウゼスの魔術ギルドに依頼するというものだ。
この任をミューズが担う理由には、彼女がいよいよ対ルートヴィッヒ体制の旗印として立ったことによる、敵対勢力の刺客による暗殺の危険性を危惧するということも含まれている。
下手にピドナに凱旋するより、このように極少人数で秘密裏に動く方が動向を探られる危険性も格段に少なくなるだろうとのトーマスとポールの采配だった。
現に彼女がいなくとも、彼女の今回の活躍はメッサーナジャーナルを始めとした世界各地の広報紙が大々的に伝えており、その活躍に賛同する者たちは続々と各地のクラウディウス所縁の者たちと繋がりを持ち始めている。そして秘密裏にそのまとめ役を担うのがトーマスであればこそ、ミューズ自身はなにも心配をすることなく己の今するべきことに集中できるのだ。
「そうですね・・・それに、サラの行方も心配だわ・・・」
カタリナも珈琲を一口だけ唇を濡らす程度に飲み、長い睫毛を伏せがちに視線を落とした。
その隣では、フラワースカーフで羽を隠したフェアリーも同じく表情が浮かない様子で椅子に腰掛けている。
カタリナはドフォーレ事変と同時期にアウナス軍の侵攻を受けた妖精族救出の任を達した後、駐屯するエデッサ島にて合流したハリードと道案内を買って出てくれたフェアリーと共にロアーヌ騎士団を基礎としたアウナス討伐隊を編成、密林へと進軍した。
妖精族の村が消滅し密林での勢力拮抗が消えてしまった今、一刻も早くアウナスを討伐せねば密林およびその周辺地域が被る被害は甚大なものになると妖精族の長が強く警鐘を鳴らしていたのがこの進軍の理由であった。
この時、対アウナスに於ける戦闘手段としてトーマスから「妖精の弓」が届けられるという手筈であったものの、いくら待てども届くことがなかった。待機の間にも進む瘴気の加速度的な増大に危機感を募らせたカタリナは、やがて限界を察知し侵攻を開始するものの、討伐隊が火術要塞へ到達する数日前になってその状況が一変。
突如として、魔炎長アウナスの放つ禍々しい瘴気が、消滅したのだ。
その異変に最初に気付いたのは、討伐隊に同行するフェアリーだった。その異変に動揺するフェアリーを気遣いながらも難なく火術要塞へと到達した討伐隊は、そのまま不気味な沈黙に包まれた要塞内へと足を踏み入れた。
しかし要塞の中には一切の妖魔もなく、探索の末に辿り着いた最奥の間では空間一面に荒々しく刻まれた激しい戦闘を思わせる幾多の痕跡があるのみだったのだ。
カタリナはその部屋に入った時、周囲の騎士達が重苦しい瘴気に慄く中、確かにここには四魔貴族が居ないという事を確信した。実際にアビスゲートを司る間に入り魔戦士公と対峙した彼女だからこそ、その圧倒的な存在感の有無を理解することができたのだ。
この時点で討伐隊はその任を討伐から現地調査に切り替え、要塞近くに陣を張って警戒と調査に乗り出したのだった。
その後カタリナは難航が予測された調査現場への専門調査員導入の手配を進めると共に、本件を踏まえて今後の方針を定めるべくハリードやフェアリーと共にピドナへ帰還し、そこでサラの行方が分からなくなっているという事実をトーマスから聞かされたのだった。
カタリナが帰還する一月程前にカタリナカンパニーの拠点であるピドナのハンス商会事務所にはサラが書いたと思われる手紙が届いており、それによれば彼女は「どうしてもやらなければならないことが出来た」との事で独自に動いているというのであった。
しかしその詳細は手紙には何も書かれておらず、確かにその筆跡はサラのものだと思われるものの、トーマスもこの展開が読めずに首を捻っている所だったのだった。
サラの動向についてトーマスが掴んでいる手がかりは、二つだった。キャンディがピドナ北の宿場町で真夜中にサラに会ったという証言と、あとは届いた手紙の受付場所がピドナからトリオール海を挟んだ先のリブロフであるという事。
既に現地には人を派遣して聞き込み調査を始めているとの事だが、まだ具体的な成果は上がってきていないようだった。
カタリナとしてもサラのことは非常に心配だったが、とは言え彼女がそこで手をこまねいていても仕方がないのも事実。
そこで彼女の行動と同時期に進行していたドフォーレ商会買収劇後の連絡をヤーマスと取り合う際、身の安全を考慮しミューズを暫く秘匿する方針を定めたにあたってカタリナとフェアリーも護衛役としてバンガードで合流するように動いたというわけだった。
三人が浮かない顔でそうしていると、不意に部屋の戸がノックされ、そして此方の返事を待たずに開かれた。
カタリナほどの騎士ともなれば、見ずとも分かる。この様な無礼な振る舞いを行うのは、彼女の周囲では一人しかいない。
「よう、こっちはもう飯食いに行くが、どうする?」
果たして扉をあけて現れたのは、猛将トルネードことハリードであった。
彼もまたピドナで暇を持て余す事を嫌い、カタリナについてきたと言うわけだ。
女性の宿泊する部屋に断りすら入れずに入り込むその不躾な様子にカタリナは内心でとても腹立たしく思ったが、この男に対して一々そんな事で腹を立てていても仕方ないと言うこともまた、彼女はこれまでの経験からよくあ知っている。
なのでここは勤めて冷静を装い、静かに珈琲を啜ってからこう答えた。
「あとで行くから取り敢えず一旦、扉を閉めやがって下さりません?」
「なんつーか、ここの街の飯はスカしてるっつーか、兎に角量も控えめだし昔っからあんま好きじゃねーんだよな」
世界中から優秀な頭脳の集まる学術都市らしく、落ち着いた内装の食堂内でテーブルを囲う六人の男女。その中でも一際に姿勢の悪さが目立つ老齢の男が、懐から徐に煙草を取り出しつつ目の前にある平らげたばかりの皿に視線を落とした。
「あら、ハーマンここに住んでいたことでもあるの?」
澄まし顔ではあるが内心自分もうっすらと食事に対してそう考えていたカタリナは、まるで何度もここに来たかのような言い方の老人、ハーマンに向かって問うてみた。
ハーマンもまた、ピドナでの日々を退屈に感じて着いてきた一人だった。
「そりゃあな。今はこんなナリだが、一応船乗りだったもんでな。世界中の街の飯も当然、食い尽くしたさ」
そう言ってハーマンは慣れた手つきで煙草に火をつける。そしてまるでその煙草こそが食事のメインディッシュであるかのように肺いっぱいに煙を吸い込み、一瞬の溜めの後にゆっくりと長く細い煙を吐き出した。
しかしそうして吐き出された煙は、ハーマンの目の前にまるで見えない壁があってそれに当たったかのように突然に四方八方へと拡散し、やがて独特の不規則な軌道を描きながら霧散していく。
そうして漂う煙を、テーブルの向かいにいるミューズが興味深そうに目で追っている。
カタリナ等と共にバンガードで合流して以降、所構わず喫煙をするハーマンに対してミューズへの健康被害を危惧したシャールが猛抗議を行なった結果、煙がミューズへと届かないようにハーマン自らが蒼龍術で煙を操作するという対策が講じられることとなったのだった。
「んで、午後はここの魔術師を訪ねるんだったな」
同じく食事を終えて寛いでいた様子のハリードがそう切り出すと、カタリナはこくりと頷く。
「訪問する相手は、現在世界一の水術師と目される魔術師ウンディーネ。その水術の腕は他の比肩を一切許さず、ヴァッサール様の再来とまで言われているそうよ」
「概ね、間違いはないだろうな。術師の間では、私が現役だった時代から有名な方だ。以前は各地を回っていたようだが、ここ最近はこのモウゼス魔術ギルドを拠点として活動をしているらしい」
カタリナの言葉に、シャールも両腕を組みながら同意する。シャール自身も術を操る戦士としては高名な術師に会うことに対して多少の期待があるのか、普段よりも若干ながら高揚した様子が見て取れる。
とはいえ名前がウンディーネとはよく言ったものだな等と思わず感心しながら、カタリナはそんなシャールの珍しげな様子を横目に眺めた。
本来ウンディーネとは、四大元素のうち水を司る精霊の名を表す。天地六術式を拝するこの世界では水を司る精霊は玄武の名の方が通りは良いが、それでもウンディーネという水の精霊の名は古来より様々な文献に登場しており、文化人ならばその名を知らぬ者はあまりいないだろう。因みに地域によって多少の発音の違いがあり、例えばロアーヌ地方では、オンディーヌの名で知られていたりする。
そして精霊ゆえに性別という概念があるわけではないのだろうが、その姿は古来から美しい女性の姿で表されることが多く、噂によればモウゼスのウンディーネもその名に見合う妖艶な美女であるということだ。
まさかシャールに至ってそのような不純な動機で会いたいと思っているわけではなかろうなと思いつつも、身の回りに何かと美女の多いカタリナとしても果たしてウンディーネの名を冠する術師とやらがどのような女性なのかという、多少下世話な興味を少々持ち合わせてはいた。
「因みにこの街にはここ最近でもう一人、世界的に有名な術師が滞在している。名をボルカノといい、若くして既に朱鳥術における世界指折りの実力者であるとの事だ。個人的には、こちらの方にも是非会ってみたいものだが。・・・?」
シャールは続けてそういい、そしてその直後に急激に湧き上がってきた違和感を感じ取って周囲を見渡した。
するとどうした事か、彼らの周りで食事をしていた術師と思しき男たちが、明らかな敵意を持った視線を向けてきているのだった。
その剣呑な様子にカタリナとハリードが自らの獲物に手をかけるのと、三人の術師が彼女等のテーブルを囲うように立ちはだかったのは、ほぼ同時のことだった。
「お前達、何者だ。ボルカノの手先か!」
「・・・一体、何のことかしら」
男の言葉にカタリナが返すが、しかしその返答が言葉通りに受け取られたとは到底思えない様子で術師三人は臨戦態勢を整えながら腰を低くした。
「だれでもいいさ!どうせボルカノの手先だ、ウンディーネ様に手柄の報告をする序でに、新しい陣形を試してみようぜ!」
そしてもう一人の術師の男がそう叫んだかと思うと、そこが屋内であることなど全く気にする様子もなく三人は術式の展開を始めた。
その時点でカタリナとハリードは一人一人の術師の能力が大したものではないということを読みきっていたので、発動した術ごと彼らを叩き伏せるつもりで獲物を構えた。
だがそれに対して素早く反応したのは、ミューズとシャールだった。
「いけない、この術式は危ないわ!」
ミューズの身を守るように立ち位置を変えるシャールの後ろでミューズがそう言いながら、もっとも彼女から近い一人の影に向かい左腕を振り抜く。すると瞬時に形成された月影の矢がその術師の影を射抜き、その衝撃で術式の詠唱が崩れた。
その時には既に何かしらの理由があるのだと感じ取ったカタリナとハリードが一足飛びで距離を詰め、残り二人の術師を剣ではなく拳の一撃で叩き伏せる。そして詠唱を潰された後の一人も、シャールが即座に組み伏せていた。
ハーマンとフェアリーは、手元の獲物に手をかけてはいたものの動くことなくその様子を眺めていた。
「く、くそっ・・・」
瞬く間に地に伏した三人の術師を見て更に周囲の術師が色めき立ったが、しかしそこに突如として凛と冷えた空気が舞い込んだことで、彼らの動きは止まった。
「おやめなさい」
その空気の発生源と思われる食堂の入り口にカタリナ達が視線を向けると、そこには明らかに周囲の術師とは纏う気配の異なる女が立っていた。
緩くウェーブがかった背中にかかる程度の蒼色の髪に独特の形の黒い髪飾りが映えた、目鼻立ちのくっきりした顔立ち。白い肌に鮮やかに浮かび上がる朱色の唇など、施された化粧の様相からは年の頃はカタリナの一回り程度上と言ったところか。首回りに飾りのついた漆黒の外套を羽織っており、その下には細身でありながらも部分部分においては非常に女性らしい体のラインが浮かび上がった白を基調とするドレスを、自然体でありながらもどこか妖艶に着こなしている。
正にその姿は、熟した色香を持ち合わせる魔女というに相応しい。
「弟子達が失礼をしたようで。お許しください」
女はそう言って、カタリナ達に向かって静かに頭を下げた。
「私の名はウンディーネ。このモウゼスの魔術ギルドの代表をしているものよ。旅の方、改めて非礼を詫びるわ。今この街は少し物騒なことになっているので、弟子もそのせいで気が立ってしまっていて・・・」
「物騒なこと・・・?」
ウンディーネと名乗った女の登場によって周囲の術師達が完全に戦意を失っていることを確認したカタリナは、地面に押さえつけていた男を解放しながらゆっくりと立ち上がりつつ、言葉の中に気になる文言を聞き取ってそれをそのまま聞き返した。
「ええ。元々この街は南北に分かれた構造なのだけれど、お恥ずかしいことに現在魔術ギルドの南部研究所が本部である北部本館と対立してしまっていて・・・。結果として現在南北の通行は途絶、更には小競り合い程度ではあるものの、武力衝突も起こってしまっている状況なの」
そう言ってウンディーネは胸の下で軽く腕を組み、憂いを帯びた愁眉を覗かせる。
彼女の弟子だという周囲の術師にそれとなく視線を走らせてみると、弟子達もウンディーネの言葉を聞きながら遣る瀬無い様子で俯いている。少なくとも話の大筋は合っている様子だ。
「・・・そうでしたか。そういうことであれば、こちらの同行人にも大事はなかったので今回は不問とします」
そう言ってすんなりと引いたカタリナに合わせ、ハリードとシャールも術師を解放する。
その様子を確認して薄っすらと頷いたカタリナは、そのまま一歩進み出て姿勢を正した。
「初めまして、大魔術師ウンディーネ。私はロアーヌの騎士、カタリナ=ラウランと申します。私達は実の所、貴女にお会いするためにここを訪れたのです。今回の件を不問にする代わりと言ってはなんですが、少々お話をさせて頂いても宜しいでしょうか?」
最終更新:2018年09月18日 02:14