暗く狭い空間に沈殿して漂う埃と微かな黴臭さが多少鼻に付くが、それを除けば思いの外そこは想像よりも不快だとは感じない空間であった。
 その意外な様子にカタリナは随分と拍子抜けした様子だったが、それは無論、他の面子も同様の様子であった。唯一仏頂面がそのまま皺になって固まったかのようなハーマンだけが、その表情からは何も読み取ることが出来ないと言うところか。
 彼女達は今、学術都市モウゼスを南北に分ける川の中央にある小島に赴いていた。
 より正確に言えば、その小島の片隅に存在する古井戸、通称「死者の井戸」の中にいた。

「死者の井戸、とは大きく言ったもんだな。その辺の街道よりも余程、ここの方が平和なもんじゃないか。ここに一体何があるっていうんだ」

 一応は警戒を続けるカタリナのすぐ後ろで、反面すっかり警戒を解いてしまった様子のハリードが辺りを見回しながら呑気に呟く。
 今より六百年の昔、世界を一瞬にして恐怖に貶めた魔王が突如として消息を絶って以降に、四魔貴族が魔王に代わって世界を支配していた時代。
 この古井戸は、実にその時代から存在し続けているのだと現地の人間は口を揃えて言う。
 そして三百年にも及んだ四魔貴族支配の時代の最中、この井戸にはこの地に於いて何らかの原因で死に至った者が、碌な葬いもされずに投げ入れられていたというのだ。
 また、飢餓、疾病、怪我、老化によって生活能力を無くした者等も、死者と同様に投げ入れられたのだという。
 その慣習たるや、実に四魔貴族が支配する三百年もの間続いたというのだから、何とも悍ましい話だ。

「・・・しかし、妙ね」

 シャールが灯した朱鳥の小さな焔を頼りに井戸の中を進んでいたカタリナが、場所を考え小振りのレイピアを構えながら呟く。
 井戸とは言いながらも、既に長い間使われている様子のなかった地上部分から潜った先は、なんと大の大人が数人で通れるほどの広さを持った地下空洞へとつながっていたのだ。
 彼女の感じる妙と言う名の違和感はつまり、この死者の井戸と呼ばれる地下空間そのものの状態を示していた。
 確かに伝承の通り、この井戸には其処彼処に多くの人骨らしきものが目立つ。だが、その殆どは数百年の時を経て既に大部分が腐食し、崩れ、地面や壁と半同化している。なのでおよそ見渡す限り、生々しいものはない。
 何より妙なのは、それらがこの状態である、という部分なのであった。
 この井戸の様に太陽や月の光が届かない暗く湿った場所は、アビスの者が好む条件を満たした空間。つまり、非常に瘴気が溜まりやすい環境だといえるのだ。本来ならばそんな場所に御誂え向きに死体など放り込もうものなら、それが瘴気と混ざり妖魔となって現界してもおかしくはない筈。寧ろ、そうなってくれと企んででもいない限り、そんなことは普通の感性を持った人間はしないはずなのだ。
 だがこの「死者の井戸」には先程ハリードも言うように、その様な妖魔がいる様子など一切無いのであった。それどころか、通常であれば滞留する筈の瘴気さえ感じない。
 現地民はこの事象を把握していたからこそ、この死者の井戸へと死者を放り込み続けたのだろう。流石に何の理由もなくそんな事をすれば井戸から這い上がった妖魔によってあたり一帯が侵略される事など、分かりきった事だからだ。
 だからこのモウゼスには、ある意味でこの「死者の井戸」を神聖視する趣さえあった。

「こりゃあ、本当に何かあるのかも知れねーな。お宝っつーのは、大抵こんなとこにぽろっと有るもんなんだ」

 同じ違和感を覚えていたらしいハーマンがそう呟くと、一行は慎重に進んでいく。


 この死者の井戸へと足を踏み入れる以前、まず始めにカタリナ達はウンディーネとの話し合いに臨んだ。
 食堂での騒動のすぐ後に魔術ギルド本部にある彼女の自室に案内されたが、通された部屋は彼女の外見の非常に整った印象とは打って変わって、様々な本が机や床などに無造作に積まれており、かなり雑多な印象を受けた。
 また食堂では距離があったが、こうして部屋に赴いて改めて彼女を見てみると、化粧で隠してはいるものの目の下にくっきりと隈が出来ており、ここ暫くは寝不足の様子が見て取れる。
 どうやら部屋の様子と相まって、何かの研究に連日連夜没頭しているという様子が伺えた。
 そんな感想を一同が抱いているところに、ウンディーネは開口一番でこう言ったのだった。

「それにしても素晴らしい腕前。その腕を見込んでお願いがあります」

 先程自分の弟子が盛大に失礼かました事など既に忘れたのか、その突然のお願いの申し出には流石のカタリナも面食らったものだった。
 しかもそのお願いというのも内容がまた物騒で『モウゼス南部の施設で対立している朱鳥術師ボルカノ勢力を、ボルカノ本人を含め可能な限り人的被害を最低限に抑えた上で一定期間無力化してきて欲しい』と言うものだった。
 傷つけずに無力化となると施設破壊か威力恫喝、はたまた何らかの工作辺りを所望の様だが、何にせよ腕っ節を見込んでの力ずくというのが何とも物騒な話であった。
 そして全く以てカタリナにとっては都合の悪いことに、その場には「仕事は前金主義」の辣腕傭兵ハリードその人が居たわけなのである。
 当然ハリードが目を輝かせながら脊髄反射的に、それは幾らの仕事か、と尋ねる。
 ウンディーネも流石にギルドの長というべきか。先程の詫びも兼ねて、と即座に前金で二千オーラムを提示してきた。更には要望通りの仕事であれば成功報酬も別で用意すると言う事だった。
 最早その話の流れに、他の人間が口を挟む余地など残されては居なかった。二つ返事で「仕事」を引き受け前金をほくほく顔で受け取るハリードに対して心から呆れ返るカタリナだったが、兎に角本来の訪問の目的である古代魔術書の解読依頼もせねばなるまいと、すっかり出遅れ気味に本題を提示する。
 ウンディーネも其処は魔術学者として興味を持ったのか、慎重な手つきで魔術書を捲ってから調査そのものは快諾するものの、「今の研究が終わるまでは手を付けられない」との事で結局のところは持ち帰りとなってしまったのだった。
 ここまででカタリナは相当に呆れ返っていたものだが、しかしここからが嘗て猛将と称えられた傭兵ハリードの本領発揮だった。
 彼は魔術ギルドを出るや否や、文句の一つでも言ってやろうと詰め寄るカタリナを軽く片手で制しながら顔を近づけ、小声でこう呟いたのだ。

「俺は、男連中を連れて南に調査に行く。お前達は北に残って、この街とウンディーネに関する情報を集めろ」

 こう宣ったハリードに対して、カタリナは彼女のこれまでの人生で最高の出来栄えだと確信できる程の仏頂面で応えたものだが、しかし一方でこの守銭奴トルネードの行動には納得するべき部分もあった。
 結局この騒動が終わらなければ本来の目的である魔術書の調査は終わりそうにもないという事がまず最初にあり、次にこの騒動以前に、カタリナ達はこの街のことを知らな過ぎるのも事実だった。確かにウンディーネもあの様子では、間違いなく此方に対して何か伏せていることがあるようだ。となれば、ここは仕事に乗る流れで街中での動きやすさを確保しつつ状況を見極めるのが先決、ということなのだ。
 この後男連中を見送った女三人組は、ミューズの機転により不機嫌顔の治らないカタリナを鎮めるべくモウゼスで最も有名なワイン畑を訪問してガーター半島固有品種の葡萄を用いたスパイシーな印象を受けるワインを堪能し、それから北側での調査へと繰り出したのだった。
 そして順調に術師も含めた老若男女へと聞き込みを進めていると、どうやら思いの外、天才魔術師ウンディーネはこの街全体に歓迎されているわけではないらしいという状況が見え隠れてしていることが分かってきた。
 一部を抜粋すると、曰く
『ウンディーネとボルカノは確かにこの街の出身だが、ここ十年近くは二人とも街を出ていた。それが最近になって戻ってきて、街を二分して争っているんだ。おかげで町の者は大迷惑だよ』
『ウンディーネは優男の術士ばかりまわりに集めてるのよ。でも私が小さな時から既に魔術師としては有名だったから、本当は見かけよりずっと年らしいけど』
 と言った具合であるのだ。

「迷惑を被っている人、結構いるようですね・・・。年齢云々は、ちょっとジェラシー混じっている感じでしたけど・・・」

 フェアリーがフラワースカーフの下で羽を震わせながらそんな感想を述べると、カタリナとミューズは全くの同意だと言わんばかりにうんうんと頷く。
 一通り街中での聞き込みを終えモウゼス北の中央広場に戻ってきた三人は、ベンチに座りながら集めた情報の精査を行っていた。
 聞き込みの結果としては、魔術ギルドに属さない住民からは騒動の種といった見方をされている傾向が強いようだ。特段、幼少暮らしていた頃からその美貌の割にあまり他者に対して愛想が良い方ではなかったらしく、それも相俟って女性からの意見は概ね辛辣な様子。
 ただそうした一般評価の反面、北部にいる多くの術師からは間違いなくウンディーネは天才である、との意見でほぼ一致していた。まだ少女の時分からその才覚を表し始めたというウンディーネは、魔術師ギルドの間では神童として有名だったそうだ。
 そして更には、魔術師ウンディーネの現在の研究内容に関する話を聞くこともできた。
 曰く『ウンディーネ様は術士同士の連係を重んじている』との意見に、殆どが集約される。
 これに関しては、ミューズが納得顔でこくりと頷いたものだった。

「私達を襲ってきたあの三人の術師ですが、個々の能力は大したことがなくとも、陣を組んで天地術式を混合詠唱する事で大きくその威力を上昇させていました。威力だけならば、恐らくメッサーナの宮廷魔術師にも並ぶかと。正直、驚きました・・・。先に詠唱を潰せなかったら、苦戦を強いられた筈です」
「それは凄いですね・・・一人前の術師一人の育成には十数年を要するといいますけれど、それを練度の低い魔術師が別の形で補うことが出来るなんて、下手したらグランクロワものの偉業だわ。あのウンディーネという魔術師は、本当に天才なのね」

 ミューズの言葉に、カタリナは大層驚いた様子で感想を述べる。しかし、驚くなというのが無理な話なのも確かだった。
 魔術師という存在は非常に強力だが、その育成には長い月日と費用、そして才覚の有無という運すら要する。カタリナの周りにはシャールやミューズ、トーマスなど高度な水準で術を扱う者達が多いので印象は薄れがちだが、実戦に耐えうる域までの術師というものは実はそう多くはない。
 嘗てメッサーナ王国には正規の大規模な魔術師団が存在していたという歴史もあるにはあるが、大きな戦乱もなかった聖王暦の年月の中で、莫大な維持費ばかりのかかる魔術師団という存在は自然と無くなっていったのだという。
 また小規模ながら六百年前に四魔貴族侵攻を退けたという伝説を持つナジュ王国には天の術を扱う魔術師団があったが、これは十年前のハマール湖の戦い後に神王教団によって解散させられている。
 このような歴史の変遷により、今となっては各国に数える程度の宮廷魔術師がいるばかり、というのが現代の魔術師事情というわけなのだ。

「でも結局、何でウンディーネさん達が南北で争っているのかの原因は分かりませんでした」

 フェアリーがベンチに座って足をぷらぷらと動かしながらそう言うと、カタリナとミューズはそれに応えるようにううんと唸ってみせた。

「北ではこれ以上聞き込むと流石にウンディーネに訝しまれそうだし・・・ハリード達はどうしているのかしら」
「じゃあ、ちょっと聞いてみますね」

 カタリナが地面に列を作る蟻を眺めながら行き詰まり気味にそう言うと、フェアリーがなんでもないというようにそう反応して、そっと目を瞑る。
 その様子を見て何事かと小首を傾げるミューズに、カタリナはフェアリーの念話能力について簡単に説明をした。

「え、妖精さんてみんなそんなすごい力を持っているんですか・・・?」
「どうなのかしら。妖精にもいくつも種族があるみたいだから全部かは分からないけれど、普段妖精同士は念話で意思疎通しているそうよ。因みに、人間以外の他種族も大丈夫みたい」

 フェアリー自身から教えてもらったことをそのまま教えて上げると、ミューズは心底驚いた様子でフェアリーへと目を向けた。するとその視線に気がついたのか、フェアリーはミューズに振り向いて、にこりと笑みを作る。

「今、シャールさんと話しています。まだ聞き込みの最中だとのことで、夜にまた連絡が欲しいそうです」
「まぁ、シャールもフェアリーさんのその力を知っていたの?」
「あ・・・いえ、知らなかったですよ。銀の手の所在を手掛かりに思念波を飛ばしたので、シャールさんに繋がっただけです。最初はとっても驚かれていました」

 そりゃあ誰でもいきなり声が頭の中に響いたら驚くわよね、とカタリナは自身の経験を振り返りながら考えた。しかし自分の時はとんでもない頭痛に襲われたものだがシャールは大丈夫だったのだろうか等といった心配が脳裏に過ったところで、ふと興味本位で思いついたことを聞いてみることにした。

「そういえばフェアリーのその念話は、聖王遺物を狙って飛ばしているのよね。それなら、まだ見つかっていない聖王遺物の場所も分かったりするの?」

 もしそれが分かるのであれば今後の探索や対四魔貴族への対策が非常に楽になるのではないか、という安直な考えでそう聞いて見たものの、やはりと言うべきかフェアリーは少し困ったように眉を寄せながら微笑んだのだった。

「残念ながら、それは難しいです。私が感知できるのは、精々活性化された状態の聖王遺物くらいですね。例えば銀の手はシャールさんと共にあるので常に活性化していますし、聖剣マスカレイドも現在はカタリナさんを主人と定めているのか、今は非常によく感じ取れます。ですが、今はそれ以外の聖王遺物の場所もよくわかりません。妖精の弓は以前ポールさんが持っていた時は活性化していたのですが、今は全く・・・」

 ちなみに月下美人も妖精族が精霊銀で鍛え上げた刀なので感じ取ることができる、と補足を交えつつ、フェアリーは普段カタリナがよくやるように胸の下で軽く腕を組んで空を仰いだ。

「そうそう簡単に攻略は進まない、ということですね」
「全くその通りのようね」
「そのようですねぇ・・・」

 カタリナとミューズも同じく腕を組んで答えながら、ベンチの背もたれに体重を預ける。そうして夕方まで時間を持て余すように、ぼんやりと並んで空を見上げたのだった。


 その後、夜になっても一向に戻ってこない男衆に対してフェアリーが再度念話を飛ばすと、果たして向こうからは全くとんでもない提案が飛んで来たのであった。
 ウンディーネとの会談を終えた後に直ぐ南モウゼスへと向かったハリード達は、迷わず真っ直ぐ術師ボルカノに会いに行った。
 そして突然の訪問にも関わらず快く迎え入れてくれたボルカノ氏を前にして、こう言ったのだという。
『北でウンディーネが凄腕の刺客を雇った。このままではお前は潰される。このトルネードを雇う気はないか』と。
 その言葉に何故か非常に衝撃を受け、直ぐには信じきれない様子のボルカノ。だが、出鱈目を言うなと挑んできた彼の弟子をまるで赤子の手を捻るように瞬時に制圧し、ハリードはその実力と共に己の正当性を十二分に示してみせた。
 これにより、ボルカノは悩んだ末にハリード等の提言を受け入れ、ウンディーネの刺客に対抗する用心棒の仕事を依頼する運びとなった。所属こそ違えど、ギルドに身を置く者の間でトルネードの武勇を知らぬ者はまずいない。それはボルカノも例外ではなかったのだ。
 この時、ボルカノからウンディーネと同額の前金を受け取った時のハリードの邪悪な笑みは暫く忘れられないだろうとのシャールの苦悶の言葉には、流石のカタリナ達一同も同情を隠せなかった。
 またこの時シャールがボルカノに対して抱いた印象としては、若くして実力や実績に恵まれたことによる多少の傲慢さが端々に垣間見えるものの、大枠としては好青年と言って良いものだったという。
 しかし、どうにも何か他の人間とは違う違和感を感じてしまいそれを後からハリードとハーマンに其々聞いてみたところ、ハリードは「腐臭がする」という失礼極まりない感想を述べ、ハーマンはシャールと同じような感想を抱いたがやはりよく分からない、との答えだったそうだ。
 そうしてボルカノの元を去った男衆は次にカタリナ等と同じく、南でボルカノとモウゼスについての情報を集めて回った。
 そしてその中で一つ、とても興味深い話を聞くことができたのだと言う。
 それこそが、『二人は中央の小島に存在する井戸の中にある何かを巡って対立しているらしい』という情報だった。
 その井戸こそが、死者の井戸だ。
 そしてこの情報に当りをつけたハリードの提案によって、夜の闇に乗じ此方が先んじて井戸の中に何があるのか確かめてやろう、ということになったのである。
 あとは街全体が寝静まるのを待ち、南北から小島へと向かった。小島に向かう道には南北其々が見張りを立てていたが、その見張りに対しては仕事のためと称することで難なく通り抜けることが可能だった。
 そうして今現在、彼女らは晴れて死者の井戸の中にいるという訳なのだ。

「・・・待って、なんか・・・違和感があるわ」

 何事もないままに内部を進んでいた一行だったが、先頭を進んでいたカタリナが突然立ち止まり、自らの左手を見つめながらそう言った。その視線の先には、朱鳥の火を反射して仄かに輝きを帯びている王家の指輪がある。

「このまま道なりではない気がする。何かこの辺りに無いかしら」
「んなら、ちょっと探ってみるか」

 カタリナの言葉に直ぐに反応したハリードは、鞘ごと腰の曲刀を取り出すと、辺りの壁を軽く叩き始めた。
 それに習い、各々も自らの得物の柄などを用いて床や壁を探っていく。すると間も無く、ハーマンが左側の壁面の向こうに空間があるようだと気付いた。
 そのまま躊躇することなく腰につけていたバイキングアクスを勢いよく壁に叩きつけると、予測通り壁は簡単に崩れて奥へと続く道が現れたのだった。

「わぁ、なんか宝探しって感じですね」

 その光景に何やら機嫌を良くした様子でミューズがそう言ったのを合図に、一行は互いに視線を交わすと迷わずその道を奥へと進んでいくことにした。
 その道もこれまでと同じく不気味な程の静けさに包まれており、間も無くカタリナ達は何事もなく道の最奥へと辿り着いた。

「・・・これは・・・」
「・・・即身仏、ってやつか」

 カタリナとハリードがそう言いながら見つめる先には、既に事切れてから長い年月が経っていると思われる一体の亡骸があった。
 古くはあるもののしっかりと原形をとどめている高貴な衣服を身に纏い、地面に腰掛けた姿勢のまま崩れることなく、その亡骸は堂々たる佇まいをしている。その様は、さぞ高名な僧侶であったのではないかと思わせるものだ。

「あ、カタリナさん見てください。この人の後ろ・・・」

 何かに気がついた様子のフェアリーがカタリナの袖を引きながら指差した先には、簡素な石造りの台の上に祀られるようにして置かれた何かがあった。
 それを認識した瞬間、カタリナは全身に走る悪寒で『それ』がなんであるのかを察する。
 彼女自身の経験で知らずとも、王家の指輪がその存在の何たるかを伝えてくるのだ。

「これは・・・恐らく、魔王遺物よ・・・。神王の塔にあった魔王の斧と、同じ感覚があるわ」
「魔王遺物・・・こんなところにあるなんて、驚いたな。つまりあの魔術師達が欲しがっていたものは、こいつというわけか」

 即身仏の脇を通ってその盾を覗き込み、ハリードが顎に手を当てながらそういった。その盾は石台の上に寝かされていたのだが、全くその身に埃などを被っている様子がない。まるで新品そのものと言っていい状態なのだ。その異様な違和感はやがて得も言われぬ恐怖のようなものとなって、その場の全員が息を飲んだ。

「・・・魔王の盾には、術法に対する効果の増減作用があるみたい。恐らく、それを狙って魔術師二人が争っているというわけね。それに、この井戸にアビスの気配がないことも、これの存在で大凡は説明がつくわ」

 カタリナがまるで指輪の記憶をなぞるように眉間に皺を寄せながらそういうと、他の五人は一体どういうことなのかと首を傾げる。それに対しカタリナは引き続き記憶を辿るようにしながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
 己に向けられる、凡ゆる事象の無効化。
 魔王の盾の最も特異な能力は、間違いなくこの能力であると言える。
 凡ゆる事象とは言葉通りであり、物理現象や精神支配に至るまで文字通りに全てを無効化することができるという、とんでもない能力を秘めているのだ。

「恐らくこの僧侶は何らかの事情で魔王の盾を手に入れ、封印を考えたのでしょう。そして封印の地に、ここを選んだ。この洞窟全体に浄化を施した後、この特性を利用して魔王の盾を設置以後、魔王の盾に影響を及ぼさんとする全ての空間変化を『無効化』しようとしたのね。だからこの空間には、アビスの瘴気もないのだわ」

 そう言いながらカタリナは、石の台の上に置かれた魔王の盾を持ち上げる。
 その途端、彼女らの背後にあった即身仏が音もなく崩れ去り、井戸の中を支配していた異様なまでの静寂が消え去った。
 大凡六百年の歳月を経て、魔王の盾の封印がここに解かれたのだ。
 そして盾は、カタリナの手の中で禍々しい気を一瞬だけ発したかと思うと、直ぐに収束し無反応となる。彼女の身につけている幾つもの聖王遺物が、魔王の盾の瘴気を相殺したのだ。
 これで、この盾が何か悍ましいものを呼び寄せるということはなくなったはずだ。

「・・・しかし魔王遺物となると、そのまま魔術師風情に渡すわけにもいかないな。どうするんだ?」

 ハリードが崩れ去った即身仏に対して略式の祈りを捧げてからカタリナに振り返ってそういうと、カタリナも同じく略式の祈りを捧げた後、腕を組んで唸った。

「ううん、そうねぇ・・・。とりあえず争いの種にもなるから此方で回収はしておくべきだろうけれど、あとはあの二人になんて説明するか、よねぇ」
「そうだな。南のボルカノはまだ若いから理解も示してくれそうな感じだったが、ウンディーネって魔術師の方はどうだろうな。結構ヒステリックな類だと思うぜ、あれは」

 ハリードがそのように相槌を返すとカタリナは耳にかかった髪を梳き流しながら、他人事みたいに呑気に言ってくれるんじゃないわよと小言を言い放つ。そして、兎に角先ずはここを出ようと提案した。

「ここで考えても仕方ないわ。一旦宿に戻って考えましょう」

 それには皆が同意し、一行は来た道を戻っていく。
 何しろそこまで広くない死者の井戸内の洞窟であるからして直ぐに入り口となる井戸の淵まで戻ることができたのだが、しかしそこでカタリナたちはどうも井戸の上の方、つまり地上が騒がしい様子であるということに気がついた。

「・・・ちょっとハリード。これ、ひょっとしてバレてるのではないかしら」
「・・・かもな」

 松明らしき明かりがちらつく井戸の縁を見上げながらカタリナがそういうと、ハリードはここでも他人事のように肩を竦めながら応えてみせた。
 その返答は予想通りカタリナを非常に苛つかせるものだったが、今になってそのような瑣末なことを気にしていても仕方がない。他の面々に視線を送っても『諦めろ』と言わんばかりの表情しかないので、カタリナは兎に角話だけでもしてみようかと思い直し、大人しく井戸を登ることにした。





「よくもだましてくれたな!」

 カタリナが井戸を登りきるや否や、先ず飛んで来たのは若い男の声と思われる罵声だった。
 それを発して来たのは、赤い髪が特徴的な青年。年の頃は精々カタリナと同じ程度だろうか、正に才気溢れる魔術師と言った表現が似合いそうな青年だ。恐らくこの青年こそが、玄武術師ウンディーネと対立している朱鳥術師ボルカノその人なのであろう。

「その盾を渡しなさい!」

 続いてすかさず飛んで来た、女性のものと思われるもう一つの罵声。こちらはカタリナにも聞き覚えのある声であったので見ずとも分かったが、視線をそちらに向ければ案の定、そこにいたのはウンディーネだった。明かりに照らされたその表情からは、冷静さを欠いてはいないものの目元の隈と相まって非常に鬼気迫るものを感じる。
 どうやら見る限りではこの場にいるのはその二人だけのようだ。井戸の底からは松明の明かりかと思われたものは、朱鳥術によって作られたと思われる炎だった。
 そしてその炎がウンディーネの言葉に反応して揺らめいたかと思うと、炎の詠唱者であろうと思われるボルカノがウンディーネへと向き直った。

「何を言う!俺に渡せ!」

 どうやら、この二人組は一枚岩ではないようだ。まあ今自分が持っている物を争っていた二人であればそれも仕方ないか等と思いながら、カタリナは今が好機とばかりに井戸から上がってくる他の面子を手伝っていた。
 しかしボルカノに向かって暫くは罵詈雑言の応酬を行なっていたウンディーネだったが、そこは年長者らしく、はっと我に返って話を仕切り直しにかかる。

「そんなことを言ってる場合じゃないでしょう。まずは協力してこいつから盾を奪うのよ」
「わかった!!」
「・・・おいおいそこは素直かよ」

 丁度この押し問答をしているところに出て来たハリードは、ウンディーネの提案に対し存外素直に応と答えるボルカノを目にして思わず突っ込んだ。
 しかし実のところ、状況は全く以って楽観視してなどいられない。何しろ、相手は世界屈指の玄武術師と朱鳥術師なのだ。術のいろはを知り尽くした強力な魔術師は、寧ろ知能の低い巨人等など比べ物にならないくらいカタリナにとっては厄介な相手だといえる。
 更にいうと、どうやら目の前の二人は意志の統一こそなされていない様子であるものの、互いの特性と連携をかなりの域で心得ているようだった。
 ウンディーネが片腕で何かを伝える仕草をすると、ボルカノが慣れた様子で後ろに下がり詠唱態勢をとる。そしてウンディーネはそれを確認することもなく自身の魔術行使における適正距離を取ろうと動き、ボルカノが適時それに合わせていく。
 連携を心得ている熟練魔術師二人が相手とあれば、これは最早人間にとっては竜種を相手にするような困難さとさえなるだろう。
 だがカタリナはその危険性が分かっていて尚、まるで二人を悪戯に挑発するかのように武器を手に取る様子もなく二人の前へと進み出て見せた。

「奪うなんて、随分と物騒ね。この盾を何に使うつもりかは知らないけれど、街の皆は貴女達の争いに巻き込まれて迷惑しているわ。そんな争いの種になるようなものは、このカタリナが預かり受けることにしました」

 その言葉にウンディーネは両の瞳の内に憎悪の炎を宿しながらも、あくまで冷静に、ゆっくりと両手を前に突き出した。

「それは貴女の命の為にもお勧めしないわ、ロアーヌの騎士さん。これが最後の忠告よ。その盾を、こちらに渡しなさい」

 言葉とともに、ウンディーネの周囲に驚異的なまでの魔力の収束が起こる。それに合わせボルカノも魔力放出を始めると、その身の回りには高温の炎が揺らめき回り、まるでその姿は炎の魔人を彷彿とさせるようなものとなっていった。
 その姿を目にしてカタリナは、しかし全く余裕の表情で腰に手を当て、左足に重心をかけて微笑んでみせる。

「・・・渡さない、と言ったら?」

 カタリナのその言葉に、ウンディーネは先程までの怒りが嘘のように、妖艶に微笑む。だがその笑みこそが彼女の本気を表していることは、誰の目にも明らかだ。ハリードが曲刀を構えつつ後ろからあまり挑発するなと助言を施すが、それでもカタリナは相変わらずの態度を貫いた。
 その様子を瞳に映しながら、ウンディーネはその形の良い唇を開く。

「それは・・・このウンディーネの研究に於いて欲して止まなかった、念願の代物なの。その入手を邪魔しようと言うのならば・・・そう、故事に則るまでよ」
「故事、ねぇ。それならば・・・そうね、御誂え向きの前置きが必要ね?」

 カタリナが相手の言葉を汲み取ってそう言いながら微笑むと、ウンディーネもまた妖艶な笑みで応える。

「・・・ねんがんの まおうのたてをてにいれたぞ」

 そう呟いてカタリナがにやりとしてみせると、ウンディーネは口の端を釣り上げ、嗜虐性に溢れる顔を露呈しながら応えた。

「メ几
 木又してでも うばいとる・・・っ」








最終更新:2018年10月25日 10:19