日中であるというのに何処か薄暗いその家屋の中には、数時間前に飛び散ったばかりであろうと思われる生々しい血痕が幾つも床や壁、そして家具にまで付着していた。
室内に充満した血の匂いと外から運ばれてくる潮風が最悪な割合で混ざり合い、その不快指数はよもや瘴気の渦の中にいるのではないかと思うくらいにも感じられ、思わずカタリナは顔を顰める。
かくして、海上都市バンガードの街を一夜にして恐怖のどん底に叩き落とした「新婚夫婦殺人事件」の現場を目の当たりにしたカタリナは、本件の調査の仕事を市から易々と引き受けたハリードに対し脳内で己の知る限りの呪詛を送りつけつつ、しかしそこは生真面目に現場検証を行っていた。
(・・・しかし、これは・・・)
一通り部屋の中を慎重に観察したカタリナはどこか思い悩むように腕を組み、右手を顎に軽く触れさせながら思考する。
モニカの専属護衛兼侍女になる以前、まだ彼女がロアーヌ騎士団候補生に所属していた時代。当時のカタリナは候補生としての鍛錬に励むとともに、訓練生に課せられた市街地の警護巡回等も積極的に行なっていた。
彼女が騎士団候補生に所属していた頃は、奇しくも世界中が死蝕による混乱の真っ只中であった。史上最悪の天災にて失われた多くの命に心あるすべての者が嘆き、そしてアビスの瘴気の増加による妖魔の活性化に慄き、それらに乗じて人々の荒んだ心は治安の悪化という形で具現し、世界に蔓延っていたのだ。
その中では歴史上でも類を見ないほどいち早く治安回復に努めた当時のロアーヌ侯フランツの元でさえ、城下町での傷害事件は当時、ままあることであった。そしてそれら事件の対処には、警護巡回を行なっていた騎士団候補生も人手不足を理由によく駆り出されたものだったのだ。
その時に自分が対応した幾つもの事件の記憶を通して、彼女は今回の事件を見つめていた。
(なにかが、引っかかるのよね。今回の犯人の目的は、通常考えられるものとは違うように感じる・・・)
殺害されたのは、この家に住んでいた男女の夫婦だそうだ。
犯行現場は二箇所。家のすぐ外と、そして今彼女がいる寝室。夫婦の何方かが用を足したかなにかの瞬間に外で襲われたと見られる血痕があり、恐ろしいことにそこで襲われた被害者をわざわざ寝室まで引き摺っていき、そのままもう一人にも手を掛けたと見られる状況だった。
犯行時間は深夜と見られ、特に現場の寝具周辺はかなり損壊が激しい状態だった。しかしそれ以外の箇所には特段荒らされた形跡がなく、化粧台や棚の類はまるで新しい一日の準備が始まるのを今か今かと待ち望んでいるようにも見えるほど、普段と変わりのない様相なのである。つまりは、金品の強盗が目的の犯行ではないであろう、という事が窺えるのだ。
カタリナは、現場周囲の血痕へと視線を移した。
(・・・寝具周辺には、壁にまで派手に飛び散った血痕。そして、重量のある鋭利な刃物か何かで切り裂かれ砕けたと思われる寝具・・・。犯行に使われた凶器は、短剣とかそんな類のものではない。これは斧や戟、或いはもっと直接的な、そう、まるで大型の獣の爪のような・・・)
彼女がその被害状況から予測を立てたその何れの凶器も、何しろ全く強盗に向くようなものではない。
大抵の場合で強盗の使う凶器の定石は、短剣かそれに準ずる大きさの刃物だ。特に市街地での犯行となると、周囲の建物や障害物に太刀筋を阻害されない大きさであるということは、かなり重要である。彼女自身も、狭い空間では得意の大剣ではなくロングソードか、小回りのきくレイピアを用いた戦闘を心掛けている。
対して重量のある武器はどうしても攻撃の初動で振りかぶる必要性があり、その威力と引き換えに素早さや隠密性を損ねる。軌道も大きく、何かにぶつかればその威力を大きく落とすことにもなる。それらの対価として、純粋な攻撃力に特化しているのだ。
人間相手に犯行時間を短くしたい、そして極力隠密にしたいという行動には、全く以ってそぐわないわけである。
(強盗目的の線は、恐らくない。となると、殺すこと自体が目的だった・・・か。しかもこの凶器のチョイスは、かなり明確な殺意。その夫婦のどちらか、若しくは両方が、誰かに恨まれていた・・・色恋沙汰の私怨とかかしら・・・?)
自分には縁のなさそうな犯行理由だな、等と思考が脇道に逸れつつもカタリナが事件のあらましについて想像を巡らせていると、いつの間にかその家屋の入り口に立つ人影があった。
カタリナがその気配に直ぐに気づいて振り向くと、そこに居たのはこの調査を引き受けた張本人であり、そして肝心の現場をカタリナに任せて周辺の聞き込みを担当していた無責任の化身トルネードこと、ハリードであった。
「・・・何か手掛かりはあったの?」
あからさまに不機嫌を匂わせる声色でカタリナが声をかけるが、数々の修羅場を潜り抜けてきたであろうハリードは、流石のどこ吹く風といった様子で応える。
「いや、今のところは特にないな。ここの夫婦は仲が良い事で評判でもあったようだが、特段それを恨む奴がいたという話も聞かない。そして似たような事件も直近にはなし。一応ギルドにも問い合わせてみたが、付近で強盗や野盗が出ているような情報もないな」
ハリードが持ち帰ってきた情報は、残念ながら即座の解決につながるようなものではないようだ。
カタリナは今の内容を元に、無言でもう少し推論を進めることにする。
(強盗でもなく、どうやら個人的な恨みの線もなし・・・。となれば、『殺人行為そのもの』が目的の可能性が高いか・・・)
カタリナは改めて破壊された寝具をじっくりと見入るようにしゃがみ込み、その砕かれた断面を指先でなぞる。
相当な殺意を持っていたのか、いくつもの断裂が刻まれた大小の木片がそこら中に散らばっている。
しかし周囲を見渡せば、何度確認しようとも他の何処にも荒らされた形跡はない。
(・・・得物の選択は兎も角、犯行時間は極めて短時間。この威力で振り下ろされたら、即死だったでしょうね・・・)
稀にある様な、所謂快楽殺人の可能性もあまり無いように彼女には感じられた。何故なら、この現場の様相を見る限りでは殺人行為そのものを楽しむにはあまりに呆気なく、そして彼女が感じるように凶器の選択は兎も角として、的確に最短で命を奪うための行動を行なっているようにしか思えないからだ。
(・・・仮に無差別に殺人そのものを目的とするなら、なお厄介ね。次の犯行場所を特定するのがかなり困難になるわ。殺せれば何処でも、誰でもいいって事だものね・・・。逆に付け入るなら、そこか・・・)
ハリードがカタリナと同じく顔を顰めながら部屋の中を確認している横で、組んだ腕を小気味好く指でリズミカルに叩きながら今後の方策を考えていたカタリナは、一通り考えを煮詰めると、家屋の外へと出た。
「うん・・・試してみるかしらね」
「お、なにをするつもりなんだ?」
カタリナに続いて出てきたハリードが彼女の呟きに反応すると、カタリナは腰に手を当てて姿勢を崩しながら肩を竦めた。
「次は、私達を殺しに来てもらうのよ」
事件現場を出た足でそのまま調査の結果による推論を市長へと伝えたカタリナ達は、その夜、普通の宿では無く街離れの独立したコテージに泊まることとした。
その上で南北にある街の出入り口には数人の衛兵を配備させ、日中に市民へ向けて夜間の戸締り厳重化も通達してもらい、街の中の警備を厳重にする。
そして市街地には夜警巡回も行ってもらい、しかしその巡回経路には彼女らの泊まるコテージは含まれてはいないのだった。
「確かにこの状況で狙うのなら、このコテージが一番狙いやすいですね」
皆で一つの部屋で寝ることが普段と違い楽しいようで、ミューズはどこか上機嫌な様子でベッドに腰掛けながらそう言った。
「まあ、昨日の今日で来るとは限らないですから、あまり期待もできないのですけれどね。というか、もう来ないならそれに越したことも無いのですが」
カタリナもミューズの隣のベッドに腰掛けながら、談笑している。そして彼女らの間には、フラワースカーフを脱いでくつろいだ様子のフェアリーがふわふわと浮かびながら、二人の会話に耳を傾けていた。
そして部屋を申し訳程度に二分する布製のパーテーションの向こうでは、ハリードとシャールが彼女らの会話をあえて聞かない様にと振舞いつつも、何やらどこか居心地悪げにしていた。
「・・・なぁ、一杯やるか?」
不意にハリードが、腕を組んでベッドの上に坐禅を組みながら隣のベッドのシャールに声をかける。すると銀の手を乾いた布で丁寧に磨いていたシャールは、数秒ほど考える仕草を見せた。
「・・・いや、やめておこう」
普段ならば即答しそうなものだが、どうやら居心地が悪いのは彼もそうらしく、珍しく躊躇しての回答だ。
「そうか・・・。しかし、あのジジイは何処に行ってんだろうなぁ」
シャールに断りを入れられ少々残念そうにしたハリードだったが、ふと思い出したようにシャールのさらに隣にある、主のいないベッドを見つめながらそう呟いた。
そこに本来いるはずなのは、モウゼスでの騒動の直後、このバンガードへ再び戻ることを強引に提案して推し進めた張本人である、ハーマンだ。
無事に古代魔術書の解読をウンディーネに依頼出来たが矢張り時間がかかるとの事で、その間は構わないだろうと一行はハーマンの提案に添ってバンガードへと戻ってきていた。
だがバンガードへと着いた途端、ハーマンは「用事がある」とだけ言い残し集団行動を離れ、それから既に三日ほど合流していないのだ。
その間にこの様な事件が起き、戦慄するバンガード市内でハリードが調査依頼を引き受けてきた、という流れなのであった。
「さあな。まあ、彼が昔船乗りだったというのならばこのバンガードは聖地だ。恐らく昔馴染みでもいるのだろうさ」
シャールはそこまで興味がない様子で、そうとだけ答えた。
彼の言う聖地の由来は、この街が持つ伝説によるものだ。
三百年の昔にバンガードと名付けられたこの都市は、かつて聖王とその仲間によって造られた、『対魔海侯用の決戦兵器』であったのだという。
世界中の海を支配する魔海侯に対し七度船を作り七度挑むも悉く敗れた聖王は、七度目の遠征によって勇士チャールズ=フルブライトの戦死というあまりに大きな犠牲を払った後、偉大なる玄武術師ヴァッサールの助言によって島を沈まぬ船とする事にした。
冒険の末に聖王は神器オリハルコーンを得、玄武術師の協力を得てついに島を動かすことに成功。その島をバンガードと名付け、魔海侯の住まう海底宮へと突入し、遂に魔海侯をアビスへと追い返すことに成功したのだ。
これが、聖王記に語り継がれる「魔海侯フォルネウス討伐の編」である。
それ故にこのバンガードは古今東西に於ける『世界最大の船』であるとされ、また広大なる西太洋と内海を結ぶ重要な流通拠点であることも手伝い、世界中の船乗りからは聖地として崇められているというわけなのだ。
だがこの伝説から三百年が経った今、陸続きでルーブ地方とガーター半島を結ぶバンガードが元は「島」であり、その上「動く要塞」であるなどと言う突飛な伝説を信じるものは、現地住民の中でさえ殆ど居なかった。
「ったく、昔馴染みに会うために俺たちまでここに連れてきたってか。御大層な身分だぜ。そんじゃあこっちも精々、稼がせてもらわないとな」
ハリードは投げやりな様子でそういうと、両手を頭の後ろに回してベッドに寝転がった。
するとそのタイミングで、パーテーションの向こうから声が掛かる。
「そろそろ寝ましょう。其方も明かりを消して頂戴」
「あぁ、わかった」
カタリナの声にシャールが応え、程なくして蝋燭の火が吹き消される。
僅かな星明かりもコテージの中へは差し込んで来ず、室内はすっかり暗闇だ。
その中にあって夜目が利くハリードは、矢張り眠れぬ様子で頭の後ろに両手を回したまま、ぼんやりと暗がりに浮かぶ屋根の梁を見つめていた。
(昔馴染みに会いに・・・ねぇ。どうにも、あれがそんなタマだとは思えねぇな。あいつは間違いなく、もっと何か明確な目的があってこのバンガードに来ている。モウゼスでの魔術師との話しぶりも、元からそうするつもりだったとしか思えないしな。あのイルカの像・・・オリハルコーンといったか。あれはそもそも、あの爺さんが俺らを連れていった洞窟にあった代物だ。あれが今回の行動の鍵なのは間違い無い様だが・・・)
モウゼスでウンディーネに何らかの協力を取り付けたハーマンの行動がどのような意味を持つのか、ハリードはしばらく考えた。
だが、彼の目から見てもあの老人の魂胆は全く底が知れない。というかむしろ、今だにハリードは疑問に思う時があるのだ。あの老人は本当に見たままの老人なのだろうか、と。
なにしろその根拠は、ハーマンのあの眼だ。
戦場に生き様々な人の生き死にを見て来たハリードは、その瞳にその人物の生命力・・・言い換えれば「生きる意思」のようなものが映し出されるということを本能で理解していた。
キラキラした瞳の子供と、霞んだ瞳の老人。今にも息絶えんとする人の虚ろな眼光や、どの様な傷を負おうとも戦場から生きて帰る猛者の爛々たる瞳。生きているのにその意味を見出していないかのうような愚民の霞んだ瞳に、例え貧しくとも希望を抱く民の眩い瞳。
それらの瞳を識るハリードからすれば、あのハーマンという男の瞳は、まるで老人のそれではないのだ。その生命力が凝縮されたかの様な瞳には、ともすれば自分と同じ様な匂いすら感じる。
それは何かを失い、それを取り戻すために生き続ける者の匂いだ。
(あの爺さん、あの洞窟で「自分の左足はまだある」といっていた。そしてそれを回収するために恐らく必要だ、といっていたのが、あのイルカ像だ。オリハルコーンには、玄武の力を増幅する力があるらしい。そのためにウンディーネと協力関係を結び、そして次に向かったのがこのバンガード・・・。嘗て聖王三傑のヴァッサールが作り上げたという伝説の残るこの都市で、一体何をしようっていうんだかな・・・)
そうして考えを巡らせていたハリードは、やがて不意にゆっくりと起き上がった。なんのことはない、用を足したくなっただけだ。周囲に迷惑をかけぬ様なるべく音を立てず気配を消しながら、コテージの外へと出ようとする。
だが、扉の手前で少々傷んでいたらしい床板を踏みつけてしまい、ギシリと木材の軋む音がする。
瞬間、準備していたかの様に朱鳥の炎で部屋中が照らされ、武器を構えたカタリナとシャールとフェアリー、そして詠唱に入らんとするミューズにハリードは囲まれた。
「・・・あー、すまん。トイレ」
「トイレなら寝る前に行ってよ、もう!」
両手を上げながら戯けて言ってみせるハリードにカタリナが呆れた顔で武器を仕舞いながら悪態を吐き、再び明かりを消してそれぞれのベッドに戻ろうとする。
だが全員がベッドに戻った直後、コテージの外からまるで突き刺す様な殺気が流れ込んでくるのをその場の全員が感じた。
そして静まり返った中では異様に大きく響く水が滴る様な足音が、徐々に徐々にコテージへと近づいてくるのだ。
それがいよいよ扉を開け中に入って来たと思われた瞬間、再びカタリナたちはシャールの明かりを合図に侵入者を武装して取り囲んだ。
「あまいわね!・・・って、こいつら・・・!?」
そこに居たのは、人ではなかった。
全身に帯びた水気。両腕の先に生えた巨大で鋭利な爪。全身を守るように生え揃った鱗。そして元は魚類と思われる、醜悪な顔。その様な姿の魔物が、三体その場にいた。
カタリナは、この魔物と同じようなものを以前にも見たことがあった。
それは嘗て彼女がピドナからグレートアーチに向かった際に船の上で遭遇した、フェアリーを襲おうとしていた魔物だ。だが、明らかにその時に出会ったものよりも目の前の魔物は凶悪さが増しているように見える。
カタリナがその様な感想を抱くが、目の前の魔物はその様なことには無論全く構うことなく、それぞれが最も近い人物に襲い掛かった。
だがそれぞれの魔物が振り下ろした爪はハリードの曲刀、シャールの銀の手、そしてカタリナのロングソードに阻まれた。
「外に押し出すぞ!」
シャールの合図でカタリナとハリードが二匹を押し返すと、シャールは炎の障壁を展開しコテージの扉面ごと三匹の魔物を外へと吹き飛ばした。
見た目通り熱属性は苦手なのか魔物が苦しんでいるところに、半壊したコテージから飛び出したハリードとカタリナ、フェアリーが一気に魔物へと距離を詰める。
三者がそれぞれ勢いをつけて手持ちの得物を振り下ろすが、思いの外素早い魔物は後方に飛び退ることで三人の攻撃を回避する。
だがその直後、魔物たちにとっては全く予期せぬことが起こった。
突如として魔物の後方から吹き荒れた強烈な突風に、魔物はまるで巻き戻されるかの様にカタリナたちの前へと吹き飛ばされる。それを好機と見た三人が得物を振るうと、三匹の魔物はそれが致命傷となり思いの外呆気なく絶命した。
「・・・ハーマン!」
魔物を切り捨てたカタリナが見つめるその先には、術式展開を行った直後と思われるハーマンが佇んでいた。
だがハーマンはカタリナの声に反応するでもなく、そのまま彼女らに近づいて来たかのと思うとその数歩手前で足を止めた。
そして目の前で絶命した魔物を見下ろし、何故か壮絶な笑みを浮かべる。
「・・・ハーマン、一体どうしたというの。此奴らのことを、なにか知っているの?」
ハーマンのその様子を訝しんだカタリナがそういうと、ハーマンはお馴染みの仕草で煙草を取り出し火を付け、深々と煙を吸い込む。そして深呼吸の後の様にゆっくりと煙を細く長く中空へと吐き出した後、漸く口を開いた。
「あぁ、此奴らのことは・・・よく知っているぜ。此奴らは・・・フォルネウスの兵隊だ」
「フォルネウスの・・・兵隊・・・?」
唐突に出て来たその単語を、カタリナは繰り返す。フォルネウスとは即ち、四魔貴族の一柱、魔海侯フォルネウスのことだろうか。いや、此の期に及んでそれ以外を意味することなどあるはずもなかろうとは思うが、しかしあまりに突拍子も無いものだから、俄かには信じられないといった様子で彼女は言葉にしたのだ。
「そう、フォルネウス兵だ。殺人事件だのと街中じゃあ騒がれていたようだが、こりゃ威力偵察だろうな。どうやら奴ら、ついに動き出したらしい」
「動き出したって・・・一体・・・。貴方は、何を知っているの・・・?」
ハーマンの訳知り顔の様子にカタリナが首をかしげると、ハーマンは勿体振る様に煙草を燻らせながら、フォルネウス兵の死骸を踏みつける。
「此奴らはな、このバンガードを攻めるつもりなのさ」
「なんですって・・・!?」
事も無げに言い放つハーマンに、その場の一同は一様に驚きを隠せずにいた。
その反応が何処か可笑しく感じるのか、ハーマンはけらけらと笑いながら踏み付けていた死骸を蹴り飛ばす。
「お前たちはこれっぽっちも信じていやしねぇだろうがな、このバンガードってのは、伝説の通り船なのさ。それも唯一、魔海侯フォルネウスに対抗することができる史上最強の軍船だ。だから此奴らがこのバンガードを攻めるのは、当たり前なんだよ。こいつさえぶっ壊しちまえば、自分らに対抗出来る船はないんだからな」
突如としてハーマンが言い放ったその内容は、言葉だけならば余りに現実離れしている様にしか聞こえない。だが、それを事実たらしめていると思わせる証拠が、彼の足元に転がっている魔物の死骸だ。
魔物は間違いなく、海から現れた。その形状、様相、そしてカタリナが過去に見た同種の魔物の状態から考えても、それは間違いないだろう。そして海に生きる魔物がこうして陸地にまで徘徊することなど、今まで前例を聞いたことがない。全く彼らの生活圏から外れる行動なのだ。つまりそれは何らかの目的があって行われた事であるのは間違いない。
「此奴らは尖兵だろうな。此奴をぶっ殺したからには、いずれは帰ってこない此奴らを訝しんでもっと大量のフォルネウス兵が来るぞ。この街は、このままにしておけば一月も待たずに魔物に蹂躙されて終わりってわけだ」
「・・・内容の割に、随分とあんたは冷静だな。つまりあんたはこれが分かっていてここに来た、というわけだ。一体、これからここで何をしようっつーんだ?」
彼がモウゼスからここへとまっすぐ向かって来た事を訝しんでいたハリードが問いかけると、しかしハーマンはハリードではなくカタリナの方を見ながらニヤリと笑った。
「・・・なぁロアーヌの騎士様よ、アンタはどうする。今なら別に、この街を見捨てて去る事も出来るぞ」
ハーマンにそう問いかけられたカタリナは、手にしていたロングソードを血振りして仕舞うと、腰に手を当ててため息をついた。
「分かりきったことを聞かないで頂戴。それにどうせ貴方が最初に四魔貴族の話を私に振った時に見据えていたのは、これなのでしょう?」
「けっ、面白くねぇ女だ」
カタリナがハーマンとグレートアーチで初めて会った時のことを思い出しながら応えると、存外ハーマンは言葉と裏腹に何やら満足したような表情で煙草を踏み潰した。
「粗方の調べはついている。明日、ここのキャプテンのところに行くぞ」
「キャプテン・・・あぁ、市長のことね」
フォルネウス討伐の伝説に準えてここバンガードの市長は、自らのことを伝統的にキャプテンと呼称するのだそうだ。カタリナはあまり気にしていなかったが、ハーマンは意外とそういうところは律儀に呼ぶのだなと意外に思いながら、壁が崩れたコテージへと歩いていくハーマンをカタリナは視線で追った。
戦闘により半壊したおかげで野宿の様な有様となってしまったが、まぁ星空を見上げながらベッドで眠るというのも案外乙なものかもしれないな等と思いながらカタリナもベッドへと向かっていった。
「フォルネウス兵に襲われた?! 何て事だ、どうやって街を守ったらいいんだ・・・!」
昨夜の事件のあらましを伝えると、バンガードの市長もといキャプテンはすっかり頭を抱え込む様にしながら唸り始めてしまった。彼にとってこの報告は、単なる殺人事件などとは比べ物にならないほどに衝撃的な展開であることだろう。彼はこのバンガードが過去に巨大な船であったことを信じて疑わない希少な住民の一人であるが、だからこそフォルネウス兵が襲ってくるという話をすんなり信じ、そして嘆いたのだ。
それに対し、カタリナは項垂れるキャプテンに視線を合わせる様にしゃがみ込みながら、彼の瞳を見つめて言った。
「キャプテン・・・動かしましょう、バンガードを。聖王様はフォルネウスと戦うためにバンガードを作ったのよ」
カタリナも今は、このバンガードが船であるということを不思議と疑うことはなかった。ハリードもどうやら同じ様子であるし、フェアリーは既にこの街の様々な生命から情報を得ているようだ。ミューズとシャールは、二人もまた聖王遺物に関わったものとして特に疑う様子もなく佇んでいる。ハーマンはそんな彼らを一番後方から、黙って見つめていた。
それら一同に会した面々を前に、キャプテンは先程までの絶望に塗り固められた表情から若干生気を取り戻したように瞳に僅かな光を取り戻した。
「うむ・・・出来るだろうか・・・君は、勿論協力してくれるよね?」
キャプテンが半ば縋り付く様にカタリナにそう問いかけると、カタリナは即座に肯定と答えようとした。だが、そこで彼女とキャプテンの前に空かさず割り込んだのは、無論のことハリードであった。
「おっとキャプテン。手伝うのは勿論吝かじゃあないんだが、こいつは昨日の殺人事件の調査とは完全に別口だぜ。それは、勿論分かってくれているよな?」
「む・・・そうだな。では、事件の調査料と合わせて、三千出そう」
急に現実に引き戻されたキャプテンは、しかしハリードのそれも当然の要求だと理解し答えた。そしてその様子を見ていたカタリナは、このキャプテンの即答の反応にハリードが大層邪悪な笑みを浮かべたのを、見逃さなかった。
「おいおいキャプテン、これはそんじょそこらの調査や討伐とは段違いの仕事だ。もう一声ないと、割に合わないぜ・・・?」
その瞬間、キャプテンの表情が固まる。そして彼が小さく「足元を見おって・・・」と呟いたのを聞いてカタリナが我が事の様に恥ずかしく思い顔に手を当てたのと同時に、キャプテンはハリードに対して五千オーラムを提示してきた。
その提示額に、ハリードは満足げに頷く。
「それくらいでいいだろう。で、何をすればいいんだ?」
後半は、後ろを振り返ってハーマンに対して聞いたものだ。
その言葉を受けてハーマンは、煙草に火をつけながらいつの間にか手にしていた古い文献を開いた。
「まず、バンガードの内部へ入らなきゃならねぇ。おいキャプテン、この代々の市長の住まいである『船長室』は、その名の通り過去の艦長室の名残ってぇ伝説なんだよな?」
「あ、あぁ・・・そうだ」
キャプテンがハーマンの言葉を肯定すると、ハーマンは何やら周囲を観察する様にゆっくりと部屋の中を歩き回りながら、手にした杖で何かを調べる様にコツコツと床を突いて回った。
その様子をカタリナ達が不思議に思いながら見ていると、ハーマンはその視線に応える様に口を開く。
「この街はな、実際観察すればするほど、馬鹿でかい船の上に作られた様な形状をした街なのさ。東西に延びた横長の地形を全て囲う様にある外壁跡と、そこからこの『船長室』に至るまでに丘陵上に盛り上がった地形。まるでここだけ、船みてぇな形なんだよな。んでな、大型軍船ってのは大抵操舵室・・・まぁ艦橋っつーのがあるんだが、船の長がいる場所と艦橋ってのは、大抵の場合、直通通路があるはずなんだよ・・・」
カツン、とそれまでの音とは違う音が、室内に響く。それは丁度キャプテンが居るあたりの床一面だ。
ハーマンは無言でキャプテンに退く様に視線で訴える。そしてキャプテンがそれを感じ取ってそのまま退くと、彼は躊躇なく腰に備え付けたバイキングアクスをその床に叩きつけた。
「・・・ほらな」
派手な衝撃音とともに板張りの床が砕け散ったその下には、なんと急角度で下へと向かう階段が現れたのであった。
最終更新:2019年08月22日 15:14