「はぁ・・・」

 それは、ロアーヌ地方に冬の合間の安らかなひと時を齎す暖かな陽光が差し込む、実に朗らかな昼下がりのことだった。
 その日差しに似つかわしくなく随分と物憂げな溜息を吐いたロアーヌの華たるモニカの様子に、窓から庭園の様子を眺めていた侍女のカタリナは何事かと振り返る。

「どうかなされたのですか、モニカ様」

 いつもと同じ様に優しい口調でそう問われたモニカは、なにやら酷く億劫な様子で、お気に入りの椅子に多少だらしなくもたれ掛かった。
 こんな姿は彼女が最も敬愛する兄であるミカエルを始め、他の誰にも見せられないだろうな、とカタリナは密かに思っている。だが普段から侯爵の娘として相応しい教養を身に付けるべく厳しい教育を受けている彼女のことを思えばこそ、自室で、且つ周りには護衛兼侍女である自分しかいないときくらいは黙認してやりたいとも思うのであった。
 それにすっかり甘んじた様子で椅子にもたれ掛かったモニカは、たっぷりと間を置いた後に、ぽつりと呟いた。

「いいえ、そろそろわたくしが一年で一番憂鬱な季節が来るのねって、そう思っただけ」
「一年で一番、ですか・・・。あぁ・・・そう言えば来月は、もうサンヴァロンタンですね」

 そういえばもうそんな時期か、とカタリナは部屋に置かれた仕掛け時計へと目を向ける。今はまだ新たな年が始まって間もない頃合いだが、ここ数年のモニカは毎回この時期になるとこうなるものだから、カタリナにもいい加減直ぐに察しがつく様になってしまった。
 新たなる年を祝う月の翌月、冬の終わりを告げる月の始まりから十四を数えた日には毎年、サンヴァロンタンという民間を中心として催される催事がある。
 これはロアーヌに限らず世界中で行われるものだが、これは土地によって若干呼び名に違いがあった。因みにメッサーナ王国首都を始めとした多くの都市国家では「セントバレンタイン」と呼ばれることが多いようだ。

「そうよ。なんであんな催しが、この世の中には存在するのかしら。迷惑な話だとは思わない、ねぇカタリナ?」

 余程、サンヴァロンタンが嫌なのだろう。モニカはひどく憤慨した様子で毒づいた。
 彼女がここまであからさまな不快感を表に出すのは非常に珍しいことだが、確かにここ数年の彼女の心労を鑑みれば、このような反応になるのも多分に致し方ないのではないかとカタリナにも感じられた。
 各国の風土や伝承の違いなどによりこの催事における主となる内容は多少形を変えるが、世界中に共通するこの催事のテーマは、ずばり「愛」である。
 各国においては、この「愛」に因んだ様々な催しが開かれるのが、古くからの習わしなのだ。
 そしてこのロアーヌにおけるサンヴァロンタンという催事の内容は、これがまたあからさまに「男女の愛」を焦点とした催しなのである。
 その主な内容は、男性が最愛の女性へ花束やその他様々な贈り物をする、というものであった。
 それは既に結婚している夫婦に於いては夫から妻へ贈るものであったり、交際中の男性から女性へ贈るものであったり、また、しばしば男性から意中の女性への愛の告白にも用いられるのだ。
 そして、今年で齢十六を数えんとする絶賛婚期到来中のモニカの元へは、ここ数年来は其れこそ文字通り山の様な贈り物の数々が各国各領の貴族から届けられるのだ。無論それは単なる求愛であるだけでなく政略の絡んだ代物でもあるが故、彼女はその贈り物一つ一つに対しても無碍にするわけにはいかず、丁寧に対応せざるを得ないという現状なのであった。

「もう、本っ当に嫌気がさしているの。なんとかならないものかしら・・・」

 普段は侯爵の娘としての立場を重々に弁え、如何なる立ち居振舞いについても敬愛する兄の為に愚痴一つ零さないモニカである。しかしその彼女をして、このサンヴァロンタンという催しは度し難いものであるのだった。

「そうですね・・・お立場からすればある意味宿命に近いものとは言え、最近は贈り物も年々増えていく傾向にありますし・・・流石に何か手を打ちたいですね。しかし、相手に『贈るな』というわけにもまいりませんし・・・」

 腕を組み、細い顎に指先を当てながらカタリナは暫し思考する。
 そしてじっくりと考えること十数秒、カタリナは武人として潔く諦めの表情を見せた。

「何も思いつきませんね」
「せめてもう少し考えて頂戴よカタリナぁー」

 その表情ときっぱりした答えにモニカが絶望の表情を浮かべながら縋り付くように声を上げると、カタリナは腰に手を当ててもう一度うーんと唸ってみた。とは言え考える姿勢を変えたからといって、そう都合よく新たなアイディアなど浮かんでくるわけでもない。
 だがモニカは本気で今の状況に辟易しているのも確かであり、出来ることならばなんとかしてあげたいと思うのも正直なところであった。

「そうですね・・・では何ができそうなのか、一先ず情報収集をして参ります。モニカ様はその間暫し、詩作を嗜んでおられてください。今なら素敵な詩が出来るかもしれませんよ」
「そうね、今ならきっと、後世に残るような恨めしい詩が浮かびそうだわ」

 何のことはなく、丁度詩作の稽古の時間になったので、宮仕えの詩人がモニカの部屋に顔を出したところなのであった。
 詩人が何のことであろうかと目を瞬かせているのを他所に、カタリナはモニカの部屋を後にした。





 なにしろ自分は、これまでサンヴァロンタンという行事にあまり縁の無い人生を送ってきた。
 カタリナは自分のこれまでの半生を振り返り、そのように考えていた。
 幼少の頃は、父から毎年この時期に大きな花束を受け取って嬉しかったことを、今も覚えている。母と共に両手いっぱいの花束を父から受け取って直ぐにその香りを嗅ぐと、まるで自分の腕の中に一足早く春が舞い込んだような気がして、意味もなく喜んだものだった。
 だが彼女はその後に幼くして死蝕を経験し、世の中が混乱に陥る中でロアーヌという国を守るべく騎士を志した時から、所謂一般的な女の歩むべき人生とは決別したのだ。
 それ以来、サンヴァロンタンという行事について彼女が自ずと何かをするということは、一切無かった。
 とはいえ紆余曲折を経て騎士団候補生となってからモニカの側に使えるまでのこの十数年の間には、彼女の元にも毎年随分と花が届けられたものだ。
 有り体に言ってしまえば、彼女は非常に容姿に優れている。そして当初から方々より様々な反感を買いつつも、今となってはフランツ侯の勅命による侯族付きの護衛騎士である。その容姿と立場も手伝い、その実はモニカにも匹敵するのではと思われるほど、今も彼女宛に毎年多くの花束が届けられていた。
 だが彼女は騎士を志したその時から今に至るまで、それら一切の受け取りを問答無用で拒否している。
 無論のこと対外的には、彼女は騎士という立場であると同時に、紛う事なきロアーヌ貴族の一人である。その立ち位置からすれば彼女もこうした行事には本来、少なからず関わらなければならない都合はある。
 だが彼女は、その志と引き換えにして貴族としての自分を捨てたのだ。
 抑も騎士になると公言した時点で、周囲からは「非常識」「貴族の面汚し」「女が騎士になれるわけもない」、果ては「死蝕で気が狂ってしまった」等々、実に散々に言われたものだった。なのに、そういう部分は当たり前に付き合えという『常識』が納得いかないというのもある。
 無論その中で彼女が騎士となることを最終的に肯定してくれた両親には、幾ら感謝してもし足りないと感じている。だが、それに対して自分が出来る恩返しとは、志した通りに騎士となりロアーヌの剣として恥じない生を全うすることだと考えていた。
 そこに貴族としての自分など今更、ほんの少しも介在する余地はないのだ。
 ロアーヌの剣は、花を受け取る立場などではない。国民皆に希望と安らぎを与えるロアーヌの華を守ることこそが、剣たる自分の立場である。
 カタリナはその信念から、このサンヴァロンタンという行事には関わることもなかったのだ。
 さて前置きが長くなったが、それ故に彼女はこのサンヴァロンタンというものについて兎に角、疎いのである。
 なので先ずは改めて、このサンヴァロンタンというものが今現在、世界でどのような行事として存在しているのか。その情報収集から始めることにしたのだ。
 そのために彼女が向かったのは、日夜宮廷内の様々な場所で忙しなく活動する給仕たちのレストスペースだった。
 宮仕えの給仕という仕事は、実に様々に宮廷内外の情報をいち早く仕入れる事に卓越した職業であると彼女は理解している。
 なにしろ彼女達にかかれば、本日のフランツ侯の昼食の献立から宮廷正門の門番とその彼女の昨夜の痴話喧嘩の詳細までも朝飯前に、そして今の城下町の流行りやメッサーナから流れてくる流行の最先端まででさえも当たり前に把握しているのだ。
 その諜報部顔負けの情報網は一体どのようにして形成されているのか、カタリナは常々不思議に思っているものだった。
 そしてそんな彼女達からサンヴァロンタン・・・諸外国のバレンタインについての最近の傾向を聞いていくと、なんともロアーヌとはまた違った趣である事が徐々に分かってきた。

「女性から男性へ愛の告白をする・・・のですか」

 なんと給仕が言うには、今の世の中の最新トレンドはロアーヌのそれとは全くの真逆とも言える志向のようなのである。
 戸惑いを隠せぬカタリナの言いように同調するように、給仕は続けた。

「そうなんですよカタリナ様。でも女性からアプローチをかけるなんて、ちょっとがっついてて下品な感じがしますわよねぇ」
「え、えぇ、そうね」

 給仕の勢いに押され気味になりながらも、実際は確かにそうだなと感じながらカタリナは同意した。
 ロアーヌでは昔から変わらず、サンヴァロンタンとは男性から女性へのアプローチをするための催しであった。だから、その感覚がそう易々と抜けるわけもないのである。なので給仕や彼女がそう感じてしまうのは、至極当然のことなのだ。
 しかし、だからこそ其処に、今回の問題を如何にかする為の活路があるのではないか。そうカタリナは発想を変えてみることにし、聞き込みを継続する。

「もう少し詳しく知りたいわ。因みに、メッサーナでも贈り物はやっぱり花なのかしら?」

 ロアーヌにおける女性へのこの時期の贈り物の定番といえば、矢張り花である。
 まるで送り主の愛をその大きさで表したかのような豪勢な色取り取りの花束もいいが、対照的にシンプルな一輪の赤い薔薇を情熱的に装飾したものなども、趣があって良い。
 とは言えそれを逆に女性から男性へ送るというのは、矢張り違和感を覚えてしまうのだが。
 そんなことをあれこれ考えながら返答を待つカタリナに対し紡がれた給仕の答えは、なんとも意外なものであった。

「それがですねぇ、最近はなんと、ショコラが贈り物の流行りだそうなんですよ!」
「まぁ、ショコラ!」

 うっかり反応する声が大きくなってしまったと、カタリナは自分の口を上品に手で抑えながら居住いを正した。
 突然声が跳ね上がったことに目の前の給仕も、何事かと首をかしげる。

「まぁ、どうかなさいましたか?」
「い、いえ、なんでもないわ」

 努めて笑顔のまま流すことにしたカタリナは、そのまま二言三言交わしてから給仕に礼を言って別れた。

(贈り物にショコラ・・・成る程。この要素は、私ならうまく利用できる気がするわ・・・。でも、それをモニカ様から諸外国に示すとなると、思いの外規模が大きくなるわね・・・どうしたものかしら)

 一人宮廷の通路に立って考えを巡らせていたカタリナは、ともあれ一先ずモニカの様子を見るべく部屋へと踵を返した。






 明くる日、一日勉強で部屋に缶詰であるモニカに恨めしそうに見送られながら、カタリナはロアーヌが世界に誇るロアーヌ宮廷庭園の中央噴水近くにある、石造りの屋根付きベンチにいた。これは所謂東屋の様なもので、一般的にはガゼボと呼ばれる。ロアーヌ庭園の素晴らしい景観に合わせ、このガゼボも実に見事な彫刻の造りとなっている。
 このロアーヌ宮廷の前に広がる庭園は「世界で最も美しい庭園」とも言われ、広大な範囲に軸線を元に左右対称に幾何学模様の池や著名な庭師による植栽や彫刻が配置され、見るものを魅了して止まない。
 日付や時間帯を限定して市民にも庭園の大部分は解放されており、この庭園の美しさこそがロアーヌの栄華を象徴するのだと市民も感じ入ることができる。
 しかしカタリナは、なにも庭園の景観を堪能しに来たのではない。それどころか視線は自らの手元に落とし、自らが昨夜のうちに纏めた計画概要と要点を見ながら延々考えを巡らせていたのであった。

(・・・ううん、客観的視点から不足部分の洗い出しも行いたいわ・・・。でもその前に、メインとなるショコラトリーを選出しなければ・・・)

 彼女の思いついた計画とは、メッサーナのサンヴァロンタンの流行をロアーヌに取り入れ、ロアーヌの特産品であるショコラを世界に売り出す、というものだった。そしてこの広告旗振りをモニカにやってもらう事で、今後は世界基準に合わせ送り先や品を女性側が選定するという能動的なアプローチをロアーヌ侯室の主流とすることにより、モニカのサンヴァロンタンの負担を減らそうという目論見だ。
 ショコラというキーワードからこの計画を思い付いたのは、我ながら実に素晴らしい案だとカタリナは考えていた。
 ロアーヌという国は抑も、何を隠そうショコラに並々ならぬ情熱を注いできた国なのである。
 ロアーヌで有名な食品産業といえば兎角、第一にワインが挙げられるが、実の所は侯国内にはワイナリーと同じくらい、その筋にとっては世界的に有名なショコラトリーが数多くある。
 しかもそのほぼ全てが現在ロアーヌのみでの営業なので、国外には殆ど流通していない物ばかりだ。
 そして奇しくもカタリナ当人は、ある諸事情によりロアーヌ内のショコラトリーのほぼ全てを網羅する知識を内包している。
 つまりこれは、彼女だからこそ思いつくことが出来た作戦であるといえよう。
 だが、彼女はその着想から次に進むための第一歩で、既に躓いてしまっていた。
 この計画を成し遂げるには、大きく三つの課題をクリアしなくてはならないと現時点で彼女は考えている。
 第一に、売り出しのメインとなるショコラを作るショコラトリーの選定だ。
 これは彼女にとって非常に困難な作業だった。
 なにしろ彼女にはお勧めのショコラトリーがいくつもありすぎて、何処も甲乙付け難いというジレンマがある。既にカタリナは、ここで大いに頭を悩ませることとなっていた。
 更にその次には、流通経路の確保がある。メッサーナ諸国へと広く売り出すのであるからして、当然そこまでショコラを運ばなくてはならない。
 輸出品目としてはワインと同様に嗜好品の扱いで良いと思われるので難しい事ではないと予測できるが、なにしろ彼女にはその手のツテがない。これは実家に相談してみるしかないか、と考えていた。
 そして最後に、宣伝広告展開である。
 モニカを顔役にするのは良いとしても、それをどうやってこの短期間に宣伝するのか、と言うのが問題だ。
 計画の本番となるサンヴァロンタンまでの期間は後一ヶ月少々しか無く、中長期的な広告戦略は立てられない。そうなると何か一度でインパクトのある宣伝手法が欲しいが、それも彼女のまるっきり専門外の分野なのだ。
 なんにせよ、ショコラトリーの選定の時点で頭を悩ませてしまっている彼女にとっては、この上なく途方も無い話なのであった。
 そして悩めども悩めども、一向に答えは出ない。そうして彼女がもう小一時間悩み始めそうになっているところに、彼女のいる場所に近づく何者かの気配があった。
 それに気付いたカタリナが顔を上げると、其処に現れたのは美しい金色の長髪を簡素に後ろで一括りにしたラフな出で立ちの青年、モニカの兄であり次期侯爵と目されるフランツ侯の第一子、ミカエルであった。

「これはご機嫌麗しゅう御座います、ミカエル様」

 即座に立ち上がりドレスの裾をつまんで優雅にカタリナが一礼すると、ミカエルはそれに片手を上げて応えた。そしてそのまま通り過ぎるわけでもなく、彼女の前で立ち止まったのだった。

「このようなところに一人でいるのは珍しいな、カタリナ。何かあったのか?」

 普段であれば片時もモニカの元を離れないカタリナが単独行動をしている時は、大抵何かの別命を帯びている。それをミカエルは知っていた。
 ミカエルからしてみればその別命に要らぬ干渉をしようというわけではないだろうが、何か手助けができるならば、という程度の心算で恐らく話しかけてくれたのだろう。
 普段は表情を崩すことが殆どなく周囲からは冷徹に見られがちな彼だが、芯ではこのようにとてもお優しいことを自分は知っている。
 それをどこか誇らしく思いながら、今回の彼の行動もそういった優しさなのだと受け取ったカタリナは、ここは一つ、分不相応という恥を忍んで彼の厚意に甘えようかと考えた。何しろミカエルは古今東西の様々な分野において博識であるので、今回彼女が抱えている難題についても解決の糸口になる智慧があるかもしれない。
 それに元より、第三者意見を聞いて計画の補強をしたいとは丁度考えていたところだ。
 とはいえ、話し方には多少気をつけねばなるまい。
 なにしろ本来の話の発端はモニカがこの行事を酷く嫌がったことから始まっているものだが、それ自体をミカエルに知られることは、モニカは望まないだろう。そうなれば、それとは違う視点から自分がこの計画を思いついた、という背景が必要になる。
 カタリナは頭の中を多少整理し、ミカエルに計画についての話題を振ることにした。

「はい。実は・・・」

 彼女の生家であるロアーヌ貴族の一門ラウラン家が日頃から懇意にしているショコラトリー(勿論そこが彼女の一番の推しであり、実際にラウラン家はお得意様でもある)からサンヴァロンタンをきっかけにした全世界向け拡販についての相談を受けモニカとも話していたが、自分には専門外の知識も多分に必要で悩んでいる・・・と、それとなく設定を練り、先ほどの三つの要素も交えて相談を持ちかけた。
 それに対してカタリナの真正面に座ったミカエルは思いの外真剣にその話に耳を傾けてくれ、カタリナはどのような数奇な運命のいたずらか、ショコラの話題でミカエルとこのような時間を共有していることを何処か不思議に感じながらも、心持ち高揚した様子で話をした。
 そうして一通り話し終えると、ミカエルは腕を組み、そこに掛かる前髪を指先で弄りながら、ふむ、と息を吐いて数秒考えた。
 考え事をする時に前髪を弄るのは彼の無意識の癖であるらしいが、それを知っているのはせいぜい、モニカとカタリナくらいだ。
 そして次に、カタリナを真っ直ぐ見つめる。その視線にカタリナが全力で平静を装いながら柔和な笑みで返すと、ミカエルはカタリナに向かってすらりと、人差し指と中指を立ててみせた。

「・・・概ね、良い案だと私も感じる。流通や宣伝も、侯室と繋がりのある商家を頼れば何とかなるだろう。だが、今の話にはもう二つ程、押さえておきたい要素があるように思う」

 別にそんな意図があるわけではないのだろうが、それじゃあまるでピースサインですミカエル様可愛いです尊いです、とカタリナの脳内では補正の掛かった眼前の光景に対し死力を尽くして平静を装うという大戦争が行われつつも、辛うじて冷静さが上回り反応を返す。

「お、押さえておきたい要素・・・で御座いますか。ミカエル様、是非ともその部分につきまして、この無知なカタリナめにご教示頂けませんでしょうか」

 カタリナという人物を知る人間に言わせれば、彼女のこの言葉は随分と珍しいものであった。
 何しろ彼女は、人に教えを請うのが心底下手なのである。なのでこういう場面というのは、ついぞ知り合いの誰も想像がつかないものであった。
 抑も、なまじ大抵のことは初見で人並み以上に熟してしまうものだから、彼女は誰かに教えを請うことが殆ど無い。
 無論騎士団所属となってからの剣の稽古は他の候補生と同様に教官から受けたのだが、カタリナは女性としては平均以上の身長ではあるものの、周囲の男性候補生に比べれば華奢な部類。故に彼女は独学で指導の意図を理解し、自分に置き換えた型へと常に練り直しを行なった。なので彼女の剣の型と技術は、騎士団の教えるそれとは幾分か異なるものとなっている。
 なので教えられたはずの彼女の剣の技術すら、殆ど独自のものといえるのだ。
 そんな彼女がこうも素直にミカエルに教えを請うたのには、無論のこと明確な理由がある。
 それはつまり、単純にミカエルと話せる機会を嬉しく思ったからなのであった。
 しかもその話題がサンヴァロンタンとくれば、なかなかどうして、これではまるで『普通の男女の会話』の様ではないだろうか。そこに少なからず心の高揚を感じる程度には、彼女は存外乙女なのである。
 因みに付け加えるならば、ショコラにおいて彼女の右に出るものは中々いないという自負からくる、純粋な対抗心も少々混じってはいた。なにしろ彼女は諸事情によりショコラについては非常に詳しい。だからこそ、その自分が考えるショコラ拡販計画(もはやモニカの気苦労を減らすというのは二次的な目的にすり替わったようだ)については、少なからず自信がある。それについて彼女が思いつかぬ「二つの要素」というミカエルの意見がもしショコラそのものに関わるものならば、彼女にも言うべき意見はあるはずなのだ。

「よかろう。それではそうだな・・・時間が惜しい。移動しながら話すとしよう」
「え、あ、はい。畏まりました」

 そう言って颯爽と立ち上がって歩き出したミカエルに、カタリナは何事かと思いながらも付いていくことにした。


 そのままなんとミカエルは真っ直ぐ宮廷とは反対方面に庭園を抜け、何故か妙に慣れた様子で正門ではなく人目につかぬ、庭師がよく使う小さな出入り口から城下町へと抜け出したのだ。その際、庭師の小屋に何故かあった小綺麗なローブを当然のように手に取り身に纏っており、一応身分を隠してのお忍びのようだ。
 一緒に予備らしいローブを纏ったカタリナは、ミカエルに促されるままに彼女が今回の相談の大元と称したショコラトリーへと足を運んだ。

「おや、ラウラン家のお嬢様ではありませんか。随分と久しぶりですね」
「お久しぶりです、ジャンおじさま。相変わらず繁盛しておられる様ですね」

 何故か目の前まで来たというのに「外観をよく見たい」と言って離れたミカエルを不思議に思いつつ上品な鈴の音を響かせて扉を入ると、そこでは芳醇なカカオの香りが充満する魅惑の店内で顔馴染みのショコラティエが出迎えてくれた。
 彼女自身久方ぶりに訪れた店内にディスプレイされたショコラは、そのどれもが作りたての芳しい香りと艶のある色合いで、見るだけでも思わずカタリナは笑みがこぼれてしまう。
 店内にはそのショコラを求めて多くの人が来店しており、カタリナもあまり長居しては不味かろうと二言三言のみ交わして最も小さなショコラの包みを買うと、後ろ髪を引かれる思いでその楽園を後にした。
 そして外で待っていたミカエルの要望により、すぐ近くにある緑豊かで小さな公共庭園のベンチで休むことにした。

「どうぞ、此方が先程のショコラトリーの主人、ジャン=ピエール・エヴァン氏によるショコラです」

 カタリナは膝の上にシルクのハンカチを広げ、小さなショコラの包みを紐解き一つミカエルに差し出す。それを受け取ったミカエルはそれを口に含み、品定めをするべくしっかりと吟味をする。
 ミカエル自身はショコラについて特段詳しいわけでは無いが、そのショコラは彼が今までに食したどのショコラよりも芳醇であり濃厚であり、しかし全くしつこくも無く軽やかな口溶けで、ともすればワインとのマリアージュにも十二分に通ずるのでは無いかと感じるほどだ。
 一言で言えば、それは彼がこれまで食したショコラの中で最も素晴らしいショコラだと言えるだろう。
 これは食していると思わず笑みがこぼれそうになるな等とミカエルが感じながら隣に座るカタリナを見てみると、カタリナは少し得意げな表情だ。彼女の選別眼は、間違いなく一級品だろう。

「確かに、これは素晴らしいショコラだ。それは、全く疑う余地もない」
「ミカエル様にそう仰っていただけて、光栄でございます」

 まるで我が事の様にショコラを褒められたことに得意げに反応するカタリナだったが、しかし彼女はその上で、即座に居住まいを正し冷静になった。

「それではミカエル様、二つの要素ものというのを、教えていただけませんでしょうか」

 そう、そこなのだ。
 彼女はその実、頭のどこかでうっすらと確信していた。抑もミカエルがこのショコラを、酷評するわけはないだろうということを。それに関して彼女は、己の剣の腕と並ぶ程に絶対の自信があった。
 であるからこそ、あとは一体なにが足りていないものなのか。
 真剣な様子で見つめるカタリナの視線を受け、ミカエルはふむ、とひとつ息をついた。

「まず第一は、供給力の確保だ。先のショコラトリーは、残念ながら今回の計画を実行するに足る生産量の増加に対応できるマニュファクチュールを持っている様には見えなかった」
「供給力・・・ですか・・・」

 それは、彼女には思いつきもしなかった部分だった。なのでその要素がどの様に関わってくるのかがいまいち想像し難く、カタリナはミカエルの言葉をそのまま鸚鵡返しにした。

「そう、供給力だ。先程の計画では諸外国へ向けショコラの売り出しを行うということだったが、その実現の為には、メッサーナという世界最大の流通市場に供給出来るだけの生産を請け負えるマニュファクチュール・・・つまり、製造所が必要になるだろう。だが、このショコラは偉大なショコラティエの手によるハンドメイドが織りなす、言わば一つの『作品』だ。個の出来は無論文句のつけようがないが、これをメッサーナという巨大な市場に売り出すには、供給が全く追いつかないだろう。無論、希少価値は一つの武器に成り得る。だが、サンヴァロンタンという大衆を中心として世界的に催される行事においては、その強みはミスマッチだ。大多数の大衆を巻き込んだ需要を狙って国家として前面に出せるものには、どうしても供給力という側面が必要不可欠に思う」

 ミカエルの言葉は、正にその通りだった。
 そもそもカタリナがJPHのショコラを好む理由には、偉大なるショコラティエがその人生をかけて仕上げてきた至高の作品性に惹かれ、その作品に出会えたことに感謝するという気持ちがある。
 それはつまり「その様な希少な作品に出会えた自らの幸運」を含んだ上での充足感なのではないだろうか。
 そうなると彼女が考えるこの計画には、「彼女が真に愛するショコラ」は抑も始めから出番などないのだ。
 カタリナは、己の考えがなんと浅はかであったことかと大いに悔やみ、力なく首を垂れる。

「正に、ミカエル様の仰る通りです・・・。それでは、この計画は・・・」
「実に実行のしがいがある、というものだな」

 カタリナが言いかけたところに、ミカエルは被せる様に語気を強めてそう断じた。
 カタリナがその言葉に目を大きく瞬かせていると、ミカエルはカタリナの膝の上に広げられた宝石の様な仕上がりのショコラをひとつまみ取り上げ、口に運ぶ。
 そしてその味を存分に堪能した後、不敵で、そしてどこか少年の様な笑みを浮かべてみせた。その表情にカタリナが思わず視線を外せずにいると、ミカエルは口を開いた。

「私は、ロアーヌのワインは世界一だと考えている。そして、このショコラもまた、間違いなく世界一のショコラであろうと確信した。違うか?」
「もちろん、ロアーヌのショコラは世界一です」

 カタリナは、ミカエルの言葉に即座に同意した。それに満足げに頷くと、彼はベンチの背もたれに片腕を乗せながら、もう片方の手でワインのボトルを持つ手を真似てみせた。

「ロアーヌの偉大なるシャトーが作り出す至高のワインは、このロアーヌという大地への感謝と、法と伝統に則した製法、生産者の弛まぬ品質向上に懸ける努力、適正条件下での慎重なボトル保管、そしてテーブルにおける正しいサーブがあってこそ、真の味わいを発揮する。だが、それに出会うには多くの条件が必要であり、時間と金と、運が絡む。つまり、大衆向けではない」

 カタリナは、ミカエルのその言葉に浅く頷きながら、なんとなくミカエルが言いたいことが分かってきた気がした。

「だからこそロアーヌには、多くの民に親しまれる愛すべきヴァンドターブル・・・大衆向けワインが溢れている。かく言う私も、普段飲みは此方の方が好みでな。その日の気分や、目の前の食事に合わせて銘柄を選ぶのも楽しいものだ。そして私は同時に、確信しているのだ。ロアーヌのヴァンドターブルは、他国のどのテーブルワインにも負けぬ、とな」
「つまり、大衆向けショコラ・・・いわばショコラドターブルを作ろうという事ですね」

 カタリナの返答に、ミカエルは然りと言わんばかりに頷いて微笑んだ。

「さて、先ずは供給の問題を解消せねば、二つ目の不足要素を知る以前の問題だ。特に設備だけでなく製法や品質等、ここから先は職人とカタリナの見識が必要になる。先ほどのショコラティエに、これの実現の可能性について詳しく話を聞きたい。行こう」
「はい!」

 ミカエルが今一体頭の中で何を考え実行しようとしているのか、カタリナには全く分からない。だが、ミカエルの征く道は正しいということをカタリナは知っている。なので、迷わず彼女はミカエルに付き従うこととした。





 一週間後。
 ロアーヌ領西方ヨルド海沿岸、貿易都市ミュルス。
 ロアーヌ領内で最も大きな港を有し、日々膨大な数の品々が船によって日夜行き来するこの港町に、ミカエル、カタリナ、そしてモニカはお忍び衣装で馬車から降り立った。
 そして彼らの乗っていた馬車の後ろにはもう一台の馬車がおり、そこからはラウラン家一押しのジャン氏をはじめとした、数名のロアーヌ屈指のショコラティエ達が降り立つ。

 この一週間、カタリナはその殆どの時間をミカエルと共に過ごしていた。
 これを役得と言わずして、何というのか。何にせよ本来の目的を思わず忘れそうになる程度にはショコラの如く甘美な日々だったな、と能天気に振り返っていた。
 因みにその間モニカの護衛にはミカエルの影を含めた騎士団生え抜きの面々(どうやらコリンズらも駆り出されたらしい)が担当し、ミカエルとカタリナは計画遂行の為にロアーヌの各所を回った。
 先ず真っ先に商談を行い、今回の計画に賛同してくれたショコラティエのジャン氏を同行者として加え、一行は計画の基盤となるマニュファクチュールの確保に乗り出した。
 ジャン氏が品質を維持しつつ生産量を確保する為に示した複数の条件を満たす候補地の中から、ミカエルは自身の人脈を頼りにロアーヌ南方の霊峰タフターンから流れる河のほとりにあるロアーヌ製粉場が所有する作業所の一部を確保することに成功した。
 特に製粉の際に扱う流水動力の石臼等の設備が今回の計画には必要不可欠で、仕入れたあとの大量のカカオをすり潰したり撹拌したりするのに必要なのだそうだ。この行程を時間をかけて継続し行う事によってショコラの味は劇的に変わる、というのがロアーヌ流ショコラの拘りだ。
 ジャン氏は実のところ以前からこの施設には目をつけていたそうなのだが、何分普段の忙しさにかまけてしまい行動に移す機会がなく、手を拱いていたのだという。だからこそ今回の話は渡りに船だったと大いに喜ぶ姿は、まるではしゃぐ子供のようだと、ミカエルとカタリナは顔を見合わせて微笑んだものだった。
 そして最後に製粉場にはないカカオを炒るための竃作りを指示し、これでマニュファクチュールの目処は立った。
 次に一行はロアーヌ市街地に戻り、本計画を共に行ってくれるショコラティエの同志を集めることにした。
 なにしろ、繰り返すがこの計画には量を確保することが大前提としての必須条件である。かといって、何も知らない素人がいきなり行えるほどショコラ作りはその味わい程には甘くないのである。ある程度の行程は未経験でも問題ない部分もあるが、仕上げの調温(テンパリング、というらしい)はどうしてもショコラを知る者にしか任せられない、というのが、ジャン氏の拘りポイントなのだ。
 ここではジャン氏はもとより、ロアーヌにある多くのショコラトリーを網羅しているカタリナが各個職人の縁を繋ぎ、元よりショコラティエとして名を馳せるジャン氏に集うようにして、若く才能に溢れた何人ものショコラティエがものの数日で集まったのだった。
 そして設備と人員の目処が立った一行は、いよいよ製造前の最終工程であるいくつかの要素を補完する為に、このミュルスへとやってきたのである。

「港町なんて久しぶりですわ!」

 今回の外出のために無理矢理詰め込んだ連日の壮絶な勉強から解放され、モニカは水を得た魚の如くに珍しくはしゃぐ様子を見せながら街を見渡した。

「さて、ここからは一時別行動だ。各々のやるべき事を成そう。カタリナよ、良い成果を期待しているぞ」
「はっ、お任せ下さい」

 ミカエルはカタリナの返事に満足げに頷くとモニカを連れ、まるで観光客の様子で市場の露店冷やかしに向かっていった。
 その背中を微笑ましく見送ったカタリナは、表情を引き締めてショコラティエ一同へと振り返る。

「それでは、参りましょう」

 そのまま彼女らが向かったのは、ミュルスが誇るロアーヌ最大級の食品専門市場だ。
 ここには世界中からありとあらゆる食材が輸入され、ロアーヌ各地へと運ばれていくのだ。
 職人一行の目的は、二つ。
 先ず一つ目は、ミュルス近郊で手に入る限りのカカオの確保であった。
 製造場所と設備に関しては一応の目処が立った状態だが、とは言えショコラの原材料であるカカオがなくては話にならない。
 その為、グレートアーチやアケ方面からミュルスに入るカカオを可能な限り集めなければならないのだ。
 事前に輸入食品の買い付けに強いコネクションを持つ商人を中心に仕入れ専用チームが動いているが、市場にあるそのほかのものも可能な限り回収しようという魂胆だった。
 そしてもう一つの目的は、「メッサーナにおけるリアルタイムなショコラやその他菓子の流行り」に関する調査である。
 この調査こそが、ミカエルが示唆した「二つ目の要素」なのだ。
 確かに、ロアーヌのショコラは素晴らしい。だがそれは、その歴史を知り、それに親しんでいるからこそ解る部分も多くある。
 故にそのまま伝統に傲っただけの商品では、世界の大衆に広く受け入れられることはないだろう。
 これが、ミカエルの指摘であった。
 そういった市井の視線を意識した指摘にはカタリナもハッとさせられる部分があり、とても共感が持てる。

「ロアーヌの伝統と、世界最先端の融合。そして何より、大衆に広く親しまれるショコラの提供。実に、やり甲斐のある仕事です」

 仕入れ班と別れて食品を見て回りながらジャン氏がそう言うのを、カタリナは深く頷きながら肯定する。
 これから彼らが作るショコラドターブルとは、単に彼らのこれまでの『作品』の簡易量産型であってはならない。量産を可能としつつも世界に認められる品質の維持と、誇るべき伝統を守りつつも、その伝統に囚われ過ぎない新たな可能性を示さなければならないのだ。
 その為には、甘味における世界動向を知ることは必要不可欠であろう。
 それが、ミカエルの言であった。
 カタリナとジャン氏はその言に習い、他国のショコラに関する情報やそれ以外の現在の流行を含めて見て回ることとした。

「あとは世界への流通を睨むとなれば、ある程度の保存に関しても注意をしなければなりますまい。本来であれば相応の試行錯誤が必要でしょうが・・・」

 そう言いながらジャン氏が目を留めたのは、様々な果物が砂糖漬けにされた菓子を並べている露店だった。
 なかなか面白いお菓子だなぁと思いながらカタリナがそれを見ていると、ジャン氏は試食を勧められてカタリナと共に一つ口にする。
 それは、オレンジの皮を用いた菓子だった。
 砂糖の甘さが目立つが、その中にほのかな果物の皮の苦味が加わり、味わいに幅が出ている。

「最近は漸く死蝕前に近い程度まで砂糖の供給が安定してきたので、このような菓子も出てきているのですね。砂糖は塩ほどではないにしろ防腐の効果がありますから、これの使い方や分量はピドナへの輸出を狙う上で重要なポイントです」

 基本的にロアーヌで現在地産地消されているショコラは、調理から二、三日程度のうちに食されることを前提に作られている。使用している原材料的にも、そこを超えると痛みが進み、味も格段に落ちるのだ。
 しかしショコラをピドナへ運ぶには、西への潮流があるヨルド海を最短ルートで渡っても三日は掛かる。抑もロアーヌで作ったショコラを箱詰めしてからミュルスへ運び、そこから輸出したとなれば、ピドナへ届けられる頃には品質が大幅に下がったものとなってしまうのだ。
 そこを改善するためには、今までとは材料を工夫した調理が必要となる。

「ある程度そこは予測していましたが、これは使えるかもしれないです」

 ジャン氏はその露天商から砂糖漬けを何種類か購入すると、再び歩き出した。
 特に露店を回っていて目を引くのは、果実系食品のバリエーションが多いことだ。レモンやオレンジなどの定番果実が大勢を占めるが、中にはロアーヌ産のフランボワーズもある。
 カタリナがフランボワーズの赤みに誘われてそれを見下ろしていると、ジャン氏もそれに倣って露店に所狭しと敷き詰められたフランボワーズを一つ手に取った。

「甘酸っぱいフランボワーズはショコラとも相性が良さそうだ。これも使ってみましょう」
「どんなショコラが出来上がるのか、楽しみです」

 まるで少年のような瞳の光で食品を見つめるジャン氏を横目に見ながら、カタリナは彼女こそまるで幼い少女のように目を輝かせながらそう言った。




「全く、久方ぶりに連絡をいただいたかと思えば、相変わらず行動の読めないお方ですね。まあ、仕上がりは期待していてください。あと織工房のオーナーにも、どうぞよろしくとお伝えください」
「有難う、期待している」

 ミュルス最大の港の一画を買い上げている、ロアーヌ最大の造船所であるガーフィールドの事務所エリアの一室。
 そこで事前に手紙にて依頼をしていた作業を終えた後の相手の言葉に、ミカエルはにこりとも微笑まずにそう謝辞を述べた。
 それに連なり、一方のモニカは花のような笑みを浮かべてぺこりと頭を下げる。

「有難うございます。よろしくお願いいたします!」
「こうしてロアーヌの華から感謝をされるなど、この身に余る光栄です。それでは早速、我々は写真を元に制作に取り掛かります」

 談笑しながら出口へと向かい、最後にそう言って一礼しその場を離れていった男を見送る。
 するとモニカは当然のように颯爽と馬車に戻ろうとするミカエルの腕を掴んで全力で引き止め、半ば無理やり港方面への散歩に連行した。

「・・・ねぇお兄様、何故今回はここまでお手を差し伸べてくださったの?」

 人と荷が忙しなく行き交う賑やかな港の一角をのんびりと歩きながら、モニカは周囲に気を配りながら彼女をエスコートするミカエルへ、そう投げ掛けた。
 今回のカタリナの計画がモニカの我儘に起因していることなど、きっと既に兄はお見通しだろう。モニカは、そう確信していた。
 兄が優しいことを彼女は知っているが、しかしそれは何にでも手を差し伸べるような「甘さ」とは全く違うものだ。だから普段の兄であれば、こんな事には手を貸すとは思えないのも事実であった。
 無論兄がこうして今彼女の隣を歩いてくれていることは彼女にとっては何物にも変えがたい程に喜ばしいことであり、幸福なことだ。だが彼女には前述の通り、兎に角なぜ今という状態が実現しているのか、ということが疑問だったのだ。
 だがミカエルはそんなモニカの胸中を察してか、安心しろというように彼女の美しい金髪を撫でた。

「無論、私には私なりの思惑があってのこと。今回のこの件は、私にとっても非常に好都合だと考えているよ」
「好都合、ですか。差し支えなければ、是非ご教示いただきたいですわ」

 モニカが兄を見上げながらそう言うと、ミカエルは軽く肩をすくめながら微笑んだ。

「そうだな・・・この案件では、ロアーヌからミュルスまでの陸運を司るロアーヌ社と、ヨルド海を渡るためのミュルス海運。宣伝のためにガーフィールド造船所と、ロアーヌ織工房。製品パッケージを担当するアダムス製紙・・・。ざっと挙げても、これだけのロアーヌおよびミュルスの企業群と繋がりを持つことができた。商人は何より、利益によって信頼を得られる。ロアーヌにとって今後の国力の発展には、商人の力が必要不可欠だ。その彼らとこうして密な関係を築くことは、宮廷内で父上が日々耐えられておられる退屈な定例会議よりも、余程有意義だといえよう」
「まぁ、お父様が聞いたらきっとお嘆きになるわ!」

 そう反応しながらモニカが華やかに笑うと、ミカエルは彼を知る者にしか判断がつかない程度の僅かな微笑みを絶やさず、そんなモニカを見つめる。そうして見つめられるのが大好きなモニカは、充足感を覚えながらも、最後に少し悪戯っぽい笑みを浮かべて兄を見据えた。

「お兄様にも有益なものであることが分かって、モニカはとても安心いたしました。それではわたくしも、気兼ねなくお兄様にご相談が出来ますわ!」

 モニカは何故か上機嫌そうに満面の笑みを浮かべ、隣を歩くミカエルの袖を軽く掴みながらそう言った。
 対するミカエルは、そんなモニカに視線を投げかけながらも珍しく相手の意図が読めず、怪訝そうな顔をしてみせるのだった。






 かつて、バレンタインという行事がこれほどまでに盛り上がったことはあっただろうか。
 少なくとも筆者の知る限りでは、これ程の盛り上がりは生まれてこの方、経験した事がない。
 そんな本年のバレンタインの火付け役は、今やこのピドナで知らぬ者はいないであろうというほどの人気を博した本場ロアーヌのショコラ、「Les joyaux de Lorane」・・・ロアーヌの甘い宝石、だ。
 今更ではあるが紹介しておくと、このショコラ(敢えてチョコレートではなく、ショコラと呼ばせてもらいたい)はヨルド海の向こうのロアーヌ侯国にて国一番の美女と名高い、アウスバッハ侯爵家のモニカ姫がプロデュースを行ったという代物だ。
 抑もあまり出回っていなかったのでこれまでご存知なかった読者の皆様もいるかもしれないが、ロアーヌ侯国はワインに留まらずショコラの本場としても名高く、侯国内では幾人ものショコラティエが腕を競い合っているのだ。
 そんなショコラの本場ロアーヌでも最も有名なショコラティエの1人であるジャン=ピエール•エヴァン氏がこの度モニカ姫の呼びかけに応じ、一気に賛同者が集い国を挙げての一大事業にまで一気に盛り上がったのが、このロアーヌの甘い宝石である。
 勿論そうして作られたショコラを筆者も上陸初日に頂いたが、お世辞ではなくこんなに美味しいショコラは生まれてこの方、食べた事がない。
 そして従来の地産地消型の製法を覆し、日持ちがして且つ本場のクオリティを損なわず、寧ろ世間の流行を幾つも取り入れ数々の大胆なアレンジをしてみせた総合監修のジャン氏を始めとするショコラティエチームには、正しく脱帽の一言だ。
 特にフランボワーズをはじめとした色鮮やかな幾つもの果実を閉じ込めたボンボンショコラが敷き詰められた目にも美味しい甘い宝石の箱詰めは、大人にも子供にも大人気であった。
 正直、余り馴染みがない我々ピドナ市民から見たロアーヌという国は、厳格で拘りの強い頑固なイメージを抱く事が多いだろう。
 斯様に素晴らしいロアーヌのショコラが今まで大きなブームにならなかった理由も、正にそこにあるのではないかと筆者は考えている。
 何しろ彼らの作るショコラは、あくまで地産地消の代物だったのだ。クラシカルな製法では確かに日持ちせず流通には向かないから仕方ないし、ロアーヌのショコラティエはそこに敢えて変化を齎そうとは考えてこなかった。
 それは「古き良き伝統」と言いつつも、一方で様々な品種を意欲的に取り入れる同国のワイン程の飽くなき情熱を感じる分野では無かったのも事実だ。
 だが、モニカ姫は大いなる勇気で以ってそれを否定した。そしてそれに多くのショコラティエが賛同したという事実こそが、最早一種の革命とすら言えるだろう。筆者はそのチャレンジ精神にこそ、この上ない賞賛を送りたい。
 そして筆者がそれと同じくらいにとても感心しているのが、今回の宣伝方法だ。
 電撃的、且つピドナ市民の度肝を抜いたあのド派手なプロモーション方法こそ、今回の一大ムーブメントの立役者だと確信している。
 これこそ既にピドナ中が知っている事実であろうが、突如として現れた輸入用大型帆船の帆にも、船体にも、それこそ至る所に大きくモニカ姫の肖像が描かれた「パッケージ船」の入港には、港全体が度肝を抜かれたものだ。
 製品のメインイメージキャラクターであるモニカ姫を前面に押し出した実に華やかな演出は細部にわたるまで徹底されており、船から降ろされる木箱、港の特設販売所の装飾、そしてそこに並べられたショコラが包まれた包装紙に至るまで、美しく微笑むモニカ姫の表情が描かれているのだ。
 特に広告塔として一週間近く停泊したパッケージ船を一目見ようと訪れた見物客で、港は連日大いに賑わっていた。
 失礼な話かもしれないが、正直、ロアーヌという国にここまで革新的な伝統の変革、プロモーションを生み出す人物がいたという事が驚きでならない。モニカ姫は確かに発起人なのかもしれないが、しかしまだ彼女は経験浅く年若いはず。なれば、この一連の動きの裏には必ず別の仕掛け人が居るのではないか、と筆者は睨んでいる。
 そうなると今後も、このロアーヌの甘い宝石を取り巻く様々な動きには、逐次注目していきたいところだ。
 とはいえ、今は兎に角目の前のショコラを味わう事に専念することをお勧めする。こうしてこの記事を書いている今も、傍らにはジャン氏による此度の新作「オランジェット」がある。何しろ筆者はこれが一番のお気に入りなのだ。読者の皆様も、お気に入りの一粒を見つけられただろうか。(モニカ姫特別インタビュー記事は二面にて掲載)






 ロアーヌ宮廷庭園の中央噴水近くの石造りのガゼボで、珍しくメッサーナジャーナルなど読みながらやきもきした様子で何かを待っていたモニカは、庭園の植木の陰からミカエルが現れたのを視界の端に捉えると、思わず立ち上がって兄に向かい大きく手を振った。
 カタリナはそんなモニカの様子を微笑ましく思いながら、台車に乗せられた茶器の準備を進める。
 サンヴァロンタンの喧騒が過ぎたある日の午後、事前にモニカが提案していたお疲れ様会がこのロアーヌ庭園にて催されることとなった。
 とはいえ、その参加者は僅か三人。会の発起人であるモニカとカタリナ、そしてミカエルだけだ。
 本来ならばジャン氏をはじめとしたショコラティエの皆も招待したいところであったのだが、ピドナでのプロモーション直後に各方面からの発注が幾つも飛び交い、ついには本来なら期間限定だった筈の臨時マニュファクチュールを共同で買い上げて発注に対応することが、サンヴァロンタン前に既に決定してしまった。それにより彼らはサンヴァロンタンが終わった今も、連日大忙しなのである。とてもではないが、この茶会に顔を出せるような状況ではないのであった。
 ちなみに、モニカは彼女をメインキャラクターとして起用した今回のショコラブランド「Les joyaux de Lorane」の営利運営権の全てを今回の製作チームに委譲しており、今後営業において彼女が直接関わることはない。せいぜい、新しいパッケージの写真を年に数回撮る程度だろう。
 そしてモニカとカタリナは当初の思惑通り、来年からはこのショコラを宮廷から発注し、こちらから送り先を選ぶという手法に切り替えていく予定だ。
 いよいよミカエルが直ぐ近くまで来ると、モニカは待ちきれないと行った様子でガゼボを飛び出し、小走りに駆け寄った。

「ようこそお兄様!」
「ご機嫌麗しゅうございます、ミカエル様」

 兄のもとに駆け寄りガゼボへと招き入れるモニカと、恭しくドレスの裾を持ち上げながら一礼するカタリナ。

「済まないな、少し遅れたか」
「いいえ、そんな事はありませんわ。丁度良い頃合いです。さぁ、お茶にしましょう!」

 ミカエルを石造りの椅子に座らせながらモニカがそういうのに合わせて、茶会が開始された。
 とはいえ特に何か特別なものが用意されているわけでもなく、カタリナが用意した紅茶とモニカが用意したスイーツをいただきながら三名は今回の一連の苦労話に花を咲かせるのであった。
 特に話題に上がったのは、ジャン氏をはじめとしたショコラティエの面々についてだ。
 ミュルスでの市場視察の後、今までのクラシックなショコラを覆す様々なアイディアが若いショコラティエから次々に発案された。その結果として今回の製品化にこぎ着けたのは、まだほんの一部に過ぎなかったのである。ジャン氏もそんな若い情熱に触発され、すっかり新たなショコラの制作にのめり込んでしまったのだという。
 総出で過密スケジュールの中でショコラを作っている間も、少ない暇を見つけては数人で集まって今後の新作の話をしているものだから、職人というのは皆こういうものなのだなぁとカタリナ達は感心したものだった。
 しかしカタリナが、そういえば今日のお茶請けに件のショコラ達を並べなかったのは敢えてなのかしら、等とふと考えていた、その時。
 話が途切れた一瞬のその間に、モニカが不意に立ち上がった。

「お兄様、お花を摘んで参りますわ」
「・・・あぁ、行ってくるといい」

 余りに不自然なタイミングで立ち上がったモニカが唐突にモニカがそう言って歩き出すと、ミカエルは何やら含みのある表情でそれを見送った。しかしカタリナが兎に角それにお供しようと椅子から立ち上がると、モニカは明確に片手を突き出して遠慮する。

「大丈夫ですわ。カタリナはお兄様と一緒に待っていてちょうだい」

 カタリナがそれに答える間も無く、足早にモニカは植木の陰に消えてしまう。突然の事に流れが全く読めず呆然とした様子で立ち尽くすこととなったカタリナは、ミカエルに促され取り敢えず椅子に座りなおした。

「許せ。モニカの立っての希望でな」

 その場に残った二人してモニカの去った先を見つめていると、不意に笑みを漏らしながらミカエルがそう言った。
 唐突なその台詞にカタリナが全く意味を理解出来ずに瞼を瞬かせていると、ミカエルはそんな様子のカタリナに構わず、何処からか小さな包みを取り出した。
 そしてその包みをそのまま、カタリナの前に置く。

「・・・これは」
「ショコラだ。私が作った」
「えっ!!?」

 ミカエルが作ったショコラ。それは果たして、奉るべき国宝か何かだろうか。
 カタリナは眼前に展開された現実が瞬時に彼女の処理能力を超えた様子で、そんな突拍子も無いことを考えていた。
 そしてたっぷり数秒固まった後、申し訳ありませんと言いながらわたわたとする。しかしその動きに、なんら意味はない様だ。

「私の見立てではカタリナは相当にショコラが好きなのだと思ったが、違ったか?」
「え、あ、いえ・・・好きです、けれど・・・何故それをミカエル様が・・・?」

 そう、カタリナは兎に角甘いものに目がなかった。
 それは彼女自身も、大いに自覚をしていることだ。故に彼女はその甘いもの好きが長じて国内のショコラトリーの殆どを制覇しており、その味を知っている。だが騎士を目指してからはこれも自制をし、敢えてあまり食べないようにしていたのだ。
 だというのに、一体なぜそれをよりにもよってミカエルが知っているというのか。一体何時如何なる時に、この秘密が流出したのか。ロアーヌの騎士として一生の不覚である。
 この様に彼女の慌てる様が珍しいのか、ミカエルはうっすらと笑いながら肩を竦めた。

「いや、偶々そう思っただけだ。偶々な」

 ミカエルは含みのある様子で、そう言った。
 と言うかあそこまであからさまであれば今回の事業に携わった全員が気付いていただろうな、という事までは敢えて言わずに、ミカエルはそのまま流れでショコラをカタリナに勧める。

「初めての試みであったが、中々上手くできたと思うぞ。何しろ、レシピはジャン氏のものだからな」
「・・・頂いても、宜しいのでしょうか」
「無論だ」

 ミカエルに再度促され、カタリナは包みの中からショコラを一粒つまみ上げ、恐る恐るといった様子ながらも上品に口に運ぶ。
 口の中に入れるとショコラはその役目を果たすべく甘美な味わいと共に溶け広がり、彼女に幸福を齎す。その品質が間違いなくロアーヌの愛するショコラであることを、その味わいが証明している。

「元来、我々のサンヴァロンタンには花ということだが、カタリナにはこちらが良いかと思ってな」
「・・・こ、光栄です」

 ミカエルの言葉にも、カタリナは直接彼を見ることができず、間をもたせたい気持ちでもう一粒ショコラを口に運ぶ。
 とても美味しい。
 一体全体どういう事情でこんなことになっているのかは、彼女には全くわからない。しかし確実に言えるのは、自分は一生分の運を使い果たしただろうな、という事である。
 このように現実逃避めいた事をカタリナが考えながら目を伏せているところに、間を見計らってか何やら意味深な笑みを浮かべながら、そそくさとモニカが戻ってきた。

「うふふふ、お邪魔してしまったかしら」
「え、あ、モニカ様お帰りなさいませ」

 わたわたとしながらカタリナがモニカを迎え入れると、モニカはカタリナとミカエル、そしてカタリナの前に置かれたショコラを見て随分と機嫌が良さそうに笑みを浮かべつつ座った。

「ふふふ、やはりロアーヌのサンヴァロンタンといえば、男性からの贈り物ですわよね」
「そうだな。そういうわけで、モニカにも渡しておこう」
「えっ!?」

 唐突にミカエルから差し出された第二の小さな包みに、今度はモニカが素っ頓狂な声をあげる。

「ショコラだ。私が作った」
「それは知ってますわ!・・・というか、そういう事ではなくて!」

 何やら声を上げているモニカに、処理能力が未だ止まった状態のカタリナは何が起こっているのか当然理解できずに目の前の兄妹を交互に見つめる。

「いや、折角作るのなら、と思ってな。なにもカタリナだけに渡す、という話ではなかっただろう?」
「それはそうですけれど、そうでもなくて!」

 今度はモニカがミカエルにショコラを勧められて、普段の彼女にはない表情で慌てふためいている。
 そうですよねモニカ様もそうなりますよね不意打ちズルすぎますよね、と一人納得の表情を浮かべながら目の前の兄妹二人の仲睦まじい様子を眼福としつつ、カタリナはもう一つまみ、甘い宝石を口にした。





最終更新:2019年09月01日 14:24