人類と海との密接な関係とは、それこそ聖王や魔王の時代を遥かに遡る昔から、人類史の発展と共に連綿と築かれてきたものだ。
二つの外海である西太洋と、北海。そして世界各地に繋がる四つの内海である静海、温海、トリオール海、ヨルド海。是等が、今の人類の知る海の全てである。
特段この世界における是等の海は、大まかには人類にとって二つの関わり方に分別することができる。
一つは、人類に繁栄をもたらす側面だ。
人類は塩や魚をはじめとした多くの生きる糧を各地の海から戴き、また、その海を船で渡ることにより、陸路よりはるかに早く、そして多くのものを各地に流通させることで、大きく繁栄してきた。
正に海なくして、人類のここまでの発展はあり得なかったと断言できよう。
そしてもう一つは、人類に牙を向く側面。
海は時に気まぐれに嵐を呼び、一切の情け容赦なく人と荷を積んだ船を沈める。また各地の海を住処とするアビスの妖魔共の襲撃により、船や沿岸の漁村などには定期的に被害が齎されてきた。
人類にとって海とは、そういうものだった。これらの側面とは、常に歩み続ける事が定めなのである。
だが、其れ等の要素の中に於いて、ただ一つだけ人類が嘗て、己の意思で挑み、打ち勝った事がある事象がある。
それこそが、アビスの妖魔の打倒だった。
今の世にも世界中で教会や吟遊詩人らによって語られる、三百年の昔に聖王が成し遂げた、四魔貴族が一柱、魔海侯フォルネウスの討伐。
この前代未聞の偉業により、人類はその後数百年、劇的に平和な海との共存を謳歌してきた。
そして今、再びそれを阻まんとする根源悪の復活が間近に迫っている。
故に人はまた挑み、再び勝ち取ろうとするのだ。
「・・・でも、この景色は凄いわ・・・」
今、己が為そうとしているそんな正義とは全くかけ離れた感嘆の吐息とともに、カタリナはゆっくりと頭上を見上げた。
彼女が立っていたのは、古代の宮殿を思わせる巨大な大理石にて作り上げられた美しい門構えの直下だった。
天然の作りと思われる珊瑚礁が織り成す海底回廊の所々に、この壮大な大理石による神殿造りの門が構えられている。
その作りは、一見して非常に高い芸術性を備えている。周囲を緩やかに流れ落ちる滝の様相と相まって、あまりに荘厳。正にその光景は、海底の幻想郷のようであった。
思わずここが人類に仇なす悪意の本拠地であり、自分がその悪意の根元たる四魔貴族フォルネウスの討伐の為にやってきた、ということをすっかり忘れかけてしまうほど、あまりにそこは美しかった。
「・・・バンガード内部もすごいと思ったけれど、ここはもう何か・・・とんでも無いわね・・・」
カタリナの後ろで同じく周囲を観察しながら、ウンディーネも同様の感想を抱いたようだった。それに続くハリード、シャール、ミューズ、ハーマンも、其々が思い思いに美しい周囲の光景へと視線を投げかけている。
まだ水が掃けて間もない海底宮の内部には、逃げ遅れた魚が其処彼処に転がっている。
一行はそんな魚を近くの水たまりや落ちる滝の向こうに投げ戻しながら兎に角、回廊の奥を目指すこととした。
イルカ像が噴水の中央で変形したことでバンガードが海中潜航(ボルカノはこれをサブマリンモードと称していた)し、暗く深い深海の向こうにあった海底宮へと辿り着いた際、予測に漏れず案の定、海底宮は海水で満たされていた。
ここで一行は改めて、どうやって海底宮に入るのか、という問題に直面した。
かの様に思われた。
しかしボルカノが玄武の障壁にはまだ出力的な余裕がある事を見つけ、なんとバンガードのみならず、海底宮ごと玄武の障壁で包むという力技を実行するに至ったのだ。
今になって思えば、元々バンガードのこの能力は、これを見越して作られたものなのだろう。
そうして海底宮を巻き込んで障壁展開がされ、それまで海底宮を満たしていた海水はその大部分が障壁の外部へと押し出された。こうして、ついにカタリナ等は海底宮内部へと足を踏み入れるに至ったのだ。
今回の編成では前述の通り、カタリナ、ハリード、シャール、ミューズ、ウンディーネ、ハーマンの六人が討伐班として突入し、後の面々はバンガード側へと留まった。
海底宮攻略中のバンガードの管理や、また不測の事態へ備えと対応を行うのに航海士(本人は何やら「魔導技師」と自称していたが、誰もそう呼ぼうとはしていない)としてのボルカノは必要不可欠であるとの理由から、前提として彼のバンガード残留は決まっていた。
更に、同じく不測の事態の際には異変を討伐班へと一早く念話にて連絡する役目を担う為、フェアリーの残留も同時に決定した。
そして今回の海底宮攻略の鍵となった玄武の障壁の拡張展開によって、事前に用意していたほぼ全ての擬似霊酒の在庫が潰えた。これによりバンガードは残された食料貯蓄の許す期間で大陸への自力帰還の手立てをほぼ失った訳だが、これに関してはロブスター族のボストンが玄武の祈りを用いて必ずバンガードを人界へと導く事を請け負ってくれた。
彼もまたそのために力を温存するという事で、今回の討伐班には加わらなかったのであった。
特にボルカノとフェアリーは、平然を装いつつも探索ができない事を内心では悔しがっている筈だ。彼らの分まで悔いの無いよう探索しようと、カタリナは心新たに注意深く周囲を観察しながら歩を進めるのであった。
(・・・あぁ、そうだ、こんなだった。あの時も確か『私』は不謹慎にも、この光景に軽く感動してしまったんだ。確かに『憶えて』いる・・・)
淡く青く、恐らくはこれも玄武の術式を応用した永久機関が由来と思われる仄かな光を抱く海底回廊を進みながら、カタリナは脳裏に過ぎるどこか懐かしい景色と、そして眼前の絶景を前に考えていた。
同じく四魔貴族の住処として以前に魔王殿の深部を進んだ時と今とでは、己の精神状態が明らかに異なっているのが良く分かる。
あの時はそう、正に「熱に浮かされた」ような状態であった、と思い返す。
単身での度重なる過酷な戦闘と、自分の中を急激に侵食していく異質な『記憶』。
その記憶に悲鳴を上げる体を凌駕する、何処からか湧き出す圧倒的な、熱量。
そして、その根底にあったのは『既知なる未知』という、言い表すことのできない矛盾に対する、生理的な恐怖。
あの時アラケスと対峙した事で「自分」を辛うじて取り戻していなければ、自分は恐らくあの『記憶』に踊らされ殺されていたのだろうと、今になって思う。
だが、今の自分はあの時とは明確に異なる。
聖剣マスカレイドを始めとした数多くの聖王遺物を身に纏い、信頼に足る仲間達と共に居る。そして何より、あの時よりも明確に「自分の意思」で、ここに居るのだ。
そう言えば、あの時は魔王殿に迷い込んだゴンを探しに行ったのだっけ等と、近くで槍を振るうシャールを視界の端に捉えながら思い出す。
随分と昔のことの様にも思えるが、そう言えばピドナであったあの出来事は、もう一年ほど前になるのか、と気が付く。
なんと激動の一年であったのだろうな、等と感慨にふけりながら、妖魔を退けつつ先へと進む。
淡く光る海底回廊を奥へと進んだ先には、なんと驚くべき事に、元より海水に満たされていた様子のない、非常に整備の行き届いた大きな海中庭園があった。
ここが仄暗い深海であることなど全く信じられない程の、澄んだ豊かな水と、緑と、空気。
明らかに現代の人類が持つ技術を超越したその建築技術に合わさり、淡い胎動の如き蒼の発光が空間の神秘性を、更なる至高へと昇華させていた。
そして、その神秘性とは真逆の様相で庭園に設置されていた醜悪な妖魔の石像が、この海底楽園への侵入者を察知して次々と生身に変化し襲いかかってくる。
景色に感嘆する間も無く、そのうちの一匹を月下美人にて一刀の元に斬り捨てたカタリナは、その間に次々と他の妖魔共を殲滅していく頼もしい仲間達に心中で最大限の感謝を送りつつ、一気にその場を駆け抜けていく。
庭園の先には天然の巨大なサンゴ礁の岩盤を削り抜いて作られたと思われる立派な神殿造りの門があり、そこに飛び込むと内部は最早完全な人工物と思しき内装が広がっていた。
大理石を基調として組み上げられた見事な建築美に視線を向ける間も無く、ここでも水棲の様々な妖魔が彼女らに襲い掛かる。
だがそれらは須く前衛のカタリナ、ハリード、シャールに斬り伏せられ、彼女らに向かう後続の妖魔もミューズとウンディーネが遠距離から魔術による狙撃を行なっていく。そして最後列から全体を見渡すハーマンは、左右からの急襲への対処や進むべき進路の指示などを的確に飛ばす。
(・・・行ける。これなら最奥まで、体力の温存も十分に可能だわ)
カタリナは魔王殿深部の時と同様に、既に、この海底宮の行き着くべき場所が分かっていた。
大理石の神殿部を抜けると、そこには又しても海中に有るとは思えない巨大な空洞があった。はるか上を見上げると海水が滝となり、この空間の上部の端々から流れ落ちているのが見て取れる。この状態から、そこがバンガードの玄武の障壁によって空洞となったことが伺える。
そして空洞の向こうには再び巨大な岩盤と神殿の門があり、ご丁寧にもそこには、カタリナが今まで見た中で一番の大きさだと確信できるほどの、とても巨大な橋が掛かっていた。
海中に有る筈なのに、まるで元から歩いて渡る事を想定されているような、若しくは地上にあった建造物が突如として海底の珊瑚礁の岩盤と一体化してしまったかのような、そんな、歪な印象を受ける場所だ。
そして、その神殿間にある巨大な橋を埋め尽くさんとする程のフォルネウス兵へ向かい、ウンディーネが強力な電流を纏った雷球を周囲に展開し、文字通り雨のように降らせていく。
そして橋の上で為す術なく雷球を浴びて身動きが取れなくなったフォフネウス兵へと、シャールが豪快に手にした槍を振り回しながら突撃し、次々と薙ぎ払っていく。
その勇猛さには、同じく勇名を馳せるハリードも思わず口笛を吹くほどだ。
因みに、シャールには神王の塔から持ち帰った聖王の槍を使ってもらおうとカタリナは考えていたが、それは本人から丁重に断りを入れられてしまった。
曰く、既に分不相応にも聖王遺物たる銀の手を授かっているので、これ以上は自分の手には余る、との事だった。
王家の指輪を始めとした複数の聖王遺物を常時身につけているカタリナとしては、その言には共感が得られず首を傾げるばかりだった。だが、どうやらミューズが言うには銀の手は時折、勝手に動き出すことがあるのだそうだ。シャールはその特性に、現在進行形で陰ながら苦労しているらしい。その上で聖王の槍も、とは流石に考えられなかったというのが、遠慮の真相のようだ。
しかしカタリナの思惑外れなどは完全なる杞憂であったと思わせる程に、彼の力は頼もしい。
ウンディーネとシャールの猛攻を逃れた幸運な(ある意味では不運な)フォルネウス兵をハリードと手分けして殲滅したカタリナは、そのまま一気に橋を駆け抜けた。
橋を抜けた先は天然の珊瑚礁の洞窟を利用したと思われる道を進み、その更に先では、再び荘厳なる神殿部へと合流する。
(・・・朧げにだけど、思い出せる。そうだ、この先の入り口を右に行ったところで、古文書を見つけたんだった。そういえば、あれの解読はどうなったんだったかしら・・・)
かつてグレートアーチに渡る際に温海の船上にて遭遇したのと同じ種族と思われる魚人を通り抜け様の一閃にて滅したカタリナは、脳内で反芻される様々な「懐かしい光景」を何とか頭の隅に追いやりながら、最奥を目指す。
僅かに水が床上に浸水した状態の神殿を進んで行くと、奥に向かうにつれて妖魔の体躯も大きくなっていった。
以前にユーステルムの氷湖で対峙したのと、これも殆ど同じ種族と思われる巨大な怪魚を難なく斬り捨てたカタリナは、その妖魔から自分の足元に落ちてきた半透明の鱗を拾い上げた。
「巨大魚の鱗ね。持っておいたほうがいいわ。それには玄武様の加護を感じる」
それをみたウンディーネがそう言うと、カタリナは浅く頷いてそれを懐に忍ばせた。
序でに、もう少しないかと注意して足元を探す。すると案の定、数枚の鱗を発見することが出来た。それらを拾い上げてハリード達にも配り、皆に玄武の加護を授ける。因みにウンディーネは元から湖水のローブと呼ばれる玄武の加護を編み込んだ魔装を纏っており、此処までの水棲妖魔の猛攻にも随分と涼しい顔をしていたものだ。
「フォルネウスは地の四術式の中でも玄武の力を行使する四魔貴族。玄武の加護があれば、戦闘を優位に進められるはずね」
全員へと玄武の加護を行き渡らせたカタリナは、後続の皆が準備を終えるよりも早く、次に進むべき進路へと当然のように振り返った。
「・・・やっぱり、全く迷わないのね。貴女が『八つの光』だと言うのが、今更になって理解できてきたわ」
この海底宮に侵入してから常に先頭を征くカタリナは、ただの一度もこの海底宮の中で迷うことが無かった。
そして今もまた、二手に分かれた通路から進むべき方向を躊躇いもせずに選んだカタリナに対して、ウンディーネは改めて感心するようにそう言ったのだった。
「まぁ同じ八つの光とかいっても、俺には全くわからんけどな」
「貴方に関しては、なんかの間違いだったんじゃないの?」
抜身のファルシオンを肩に乗せながらハリードがあっけらかんと言うと、ウンディーネはそれには半顔で答える。それにハリードが、実は俺もそう疑っている、と言いながら肩を竦めて反応すると、ふっと笑って道を進み始める。
背後のそんな軽口を受けながら、カタリナは間も無く終着点が近いことを感覚で理解しながら、この後に訪れるであろう死闘の前に、一つでも役に立つ情報はないものかと指輪へと意識を集中させていた。
(・・・ダメね、あまり頭の中に具体的な映像が思い浮かべられないわ。建物の形状などは朧げに思い出すことができるけれど、こと戦闘に関してとなると全く具体的なビジョンは見えてこない・・・)
結局のところ、指輪の記憶で彼女が具体的に見ることができたのは、魔王殿にて謎の少年と会った時と、そしてピドナに謎の少年やミカエル以外で八つの光と目される面々が集まった時に脳裏に流れた映像のみだった。
それ以外の様々な記憶は映像という形ではなく、気がつけば体に刻み込まれていた戦の動きであったり、今この瞬間のように、ふと瞬間的に道がわかると言った程度のものだ。
四魔貴族を討伐する為に最も期待すべきは、何より彼らとの戦闘における記憶だ。だがしかし、そういった部分の記憶は全く彼女の中に流れ込んでくることはなかった。
(案外そういうところは残してくれていないのよね。痒いところに手が届かないというかなんというか・・・)
不謹慎にも三百年前の勇者たちに向かいそのようなことを思いながら、カタリナはそれ以外に何か参考になるものはないかと考えた。
そうなると彼女に思い出すことができるのは、実際に彼女が戦ったことがある四魔貴族である、魔戦士公アラケスについてだ。
(仮にあの時に今の面々と、今の武具があったら、果たしてどうだっただろう・・・)
一瞬でも気を抜けば狂ってしまいそうなほどの、瘴気の渦の中。己の死を一瞬で悟ることになんの疑問の余地も挟まないような、圧倒的な存在感。魔神と呼ぶに相応しいその佇まいと、あの存在の凶悪性を具現化したかのような、燃え盛る真紅の魔槍。
自分があの時出来たのは、あの時思いついた中で最大の剣技(今では彼女の十八番となった神速の二段斬りだ。これを彼女は「逆風の太刀」と名付けた)にて、魔神の右腕を切り飛ばしたことのみ。
あの時に比べるなら、自分で言うのもどうかと思うが、相当に戦闘技術は向上したと確信している。無論アラケスほどの存在とは対峙していないが、竜種や巨人族を始めとした様々な種族と戦ってきたし、その中で様々な状況からの戦闘経験を積んできた。あの時のように防戦一方になるようなことはないと、慢心ではなく思い返すことができる。
そして何よりも、今の自分には、聖剣マスカレイドがある。
これがあればこそ、たとえ自分一人であったとしても、あの時の魔神アラケスにそう簡単に引けを取ることはないと、素直に思う。
そして更に今は、彼女の周りには五人もの、とても心強い仲間がいるのだ。
(いける。これなら、四魔貴族相手でもなんとかなる。そう、確信できる)
空間を縦に貫く何本もの巨大な柱が並ぶ通路を走り抜け、一行はこれまでの行程の中でも一際大きな広間へと出た。そしてその広間に入った瞬間、此処がアビスゲートに繋がる最後の場所である事をカタリナは察する。
全く隠すつもりのない、重苦しく禍々しい瘴気。ゲートからこの広間へと漏れ出ているその瘴気に触れた事で、カタリナ以外の面々も自ずと此処が最後の場所であることを察したようだった。
「・・・これ迄とは、段違いに濃い瘴気ですね・・・。以前の私ならば、これだけで卒倒していたかも知れません」
固唾を飲みながら、しかしミューズは気丈な面持ちを崩さずにそう言ってのけた。
その言葉に応えるようにシャールが槍を構え直すと、彼女の前に出るようにしながら周囲を視線で牽制しつつ進む。
「本来ならばミューズ様をこのような場所にお連れするべきでは無いのでしょうが・・・」
そう言いつつも、しかしシャールは既に悟っているのだ。ミューズも、そして自分さえも、何か大きな流れに導かれるままに此処にきているのだということを。
「お父様なら、この状況に於いて静観をすることはありません。私はクラウディウス家の一人として、来るべくして此処に来ているのです」
ミューズの力強い言葉にシャールが覚悟を決めたように頷くその横では、どこか場違いな様子で笑みを浮かべるハリードとハーマンの姿があった。
ハリードのそれは、何処か触れてはいけないような悲壮感を漂わせる薄ら笑いであり、その心のうちで一体何を考えているのか、読み取ることは出来ない。
一方のハーマンは、此方は非常に分かりやすい。この時を待ち望んでいたであろうことがありありと窺える様子で、その生命力を凝縮したような瞳はフォルネウスとの対峙を今か今かと待ち望んでいるかの様に輝いている。
「・・・冷静なんですね」
そしてカタリナが一番気になったのは、他の四人とはまるで違う様子で広間の先を見つめている、ウンディーネだった。
彼女の様子には大きく焦ったところもなく、ただ真っ直ぐに目の前を見つめているのみなのだ。そこには焦燥も余裕もなく、至極冷静そのもの。
この広間の先には聖王記に綴られた伝説のアビスゲートが待っているというのに、それを裏付けるかの様に圧倒的なこの瘴気の渦中に在って、人は、ここまで冷静でいられるものなのだろうか。そんなことをカタリナは、思わず訝しんでしまうほどだ。だから、そのままの感想が口をついて出たのだった。
「そう見えるかしら?」
カタリナの言葉に小首を傾げながら反応したウンディーネは、直ぐに前に向き直った。そしてゆっくりとした動作で緩く腕を組み、真っ直ぐに前を見つめる。
「私は、言ってしまえば特に四魔貴族なんていう存在と戦う特別な理由もなく、知識探究の末にここにいるだけだもの。それに魔術士っていうのはどうにもね、それが初めての体験であればあるほど、その物事を見定めることに集中しがちな性質なのよ。だから、貴女達がこの場で奮い立てば立つほど、逆に冷静に見えるのかもしれないわね。不快かしら?」
「いえ、そんなことはありません。冷静な人が後衛にいるほうが、前衛としても助かります」
素直にそう思っただけなのでカタリナがそのままに答えると、ウンディーネはふっと笑って腕組みを解いた。
「私からしたら貴女の様な歳若い、しかも王侯貴族付きの騎士様が態々ここにいる事の方が、余程不思議でならないけれどね。矢張り貴女がここにいるのは、八つの光としての宿命に導かれてきたからなのかしら?」
ウンディーネのそんな言葉を受け、カタリナもまた広間の先を見据えながら、少し考えた。
「・・・いえ、八つの光とは違う、自分自身の意思です。私が八つの光だったのは、偶々そうだっただけ、という程度にしか考えていません」
仮に自分の考え方や価値観などが、そもそも『宿命』とやらに捻じ曲げられてしまっていたのだとしたら話は別なのかもしれないが、少なくとも彼女は己の心に己のなんたるかを問うた時、己の、その心が常にロアーヌと共に在るのだ、ということを今も再認識出来る。
それは幼き頃に彼女が騎士を志した時、騎士候補生の時分にミカエルにその誓いを述べた時、騎士となってからモニカと共に穏やかな日々を過ごしていた時、己の慢心によりマスカレイドを奪われた時、そして己の信念の元にこの場に立つ今この時に於いても、一切変わっていない。
「アビスの脅威を滅する力が私に有るのなら、迷いなくそれを成します。その先に、私が剣を捧げた国の繁栄があると信じて」
言葉と共に、手にしていた月下美人を納刀し、しっかりと腰に括り付けていた聖剣マスカレイドを替わりに抜き放つ。
「行くわよ、マスカレイド」
カタリナの呼びかけに応じてマスカレイドが輝きと共に真紅の大剣へと姿を変えたのを合図に、一行は広間の奥にある門を潜って行った。
殆ど視覚が意味を成さない程の暗闇を慎重に進むと、程なくして仄かな白い光が、道の先にぼんやりと見えてくる。
その光に向かってそのまま歩を進めると、唐突に通路は終わりを告げ、まるで奥行きが把握できない不可思議な空間に放り出される。
一行が天を仰げば、其処には禍々しさを具現化したかのような紋章が中空で明暗を繰り返し、その先には天井らしきものすらも見えない。
そして空間の中央奥には、嘗て魔王殿の最深部で見たものと全く変わらぬ、純白にして醜悪なるアビスの光源。
その光から生み出される純粋なる瘴気は、魔王殿で感じた其れよりも、心無しか純度が高いようにすら思えた。
「し、死蝕・・・?」
その悍しいまでの瘴気に、ミューズが顔を強張らせながらそう呟く。
そう、正にこの空間では、史上最悪の災害である死蝕の、その最中にいるようなものだと言える。
(・・・勘違いではない。魔王殿のあの時よりも、瘴気が濃い・・・)
まるで此処はアビスそのものなのではないかと、その様に勘違いをしてしまうくらいに。それ程に、この空間に滞留した瘴気は異質で、醜悪で、圧倒的だった。
先頭に立ったカタリナの背後で、他の皆が圧倒されている事が見ずとも伝わってくる。
無理もないだろうが、しかし圧力が更に上がる事を彼女は知っていた。
「・・・来たわね!!」
そう言ってマスカレイドを振りかざしたカタリナの檄と殆ど同時に、白い光から巨大にして醜悪なる「何か」が姿を現しはじめる。
目の前の空間が不自然に振れるように振動し、それまで何も無かった中空に、その「何か」が蠢きながら形成されていく。
そして彼女らの目前に現れたのは、人など全く及ばぬような大きさの、悍しい姿をした怪魚だった。
「・・・待ちわびたぜ、てめぇを捌ける時をよ・・・」
ハーマンが腰を落としてバイキングアクスを構えながら、その巨体を見上げる。
そしてその言葉が届いたのか、まるでその場に充満する瘴気の海を泳ぐ様に光の前に漂う巨大な怪魚は、そのエメラルドグリーンの瞳だけをカタリナ達へと向けた。
『・・・何をしに来た、人間。死星の宿命をすら背負わない人間に、この海底宮に立ち入る資格はない』
聞くだけで気が狂れてしまいそうな、悍しいその「声」。これだけで、それまで奮っていた筈の戦意など、急激に削がれていくことだろう。
こんな規格外の存在に、人間の身で太刀打ちなど出来るわけがない。そう確信するには、その声だけで十分過ぎるほどなのだ。
『・・・小さく華奢なその姿は、見ているだけで虫唾が走る。その様な姿でこの海底宮に踏み入る愚かしさは、正に度し難い限りだ』
言葉の通り、自分にとっては全くの虫螻を見下す様に、怪魚はそう吐き捨てた。
「上等だぜ・・・化物の分際で人間様に楯突いたことを、アビスの掃き溜めで後悔させてやるよ」
ハーマンはマスカレイドを構えるカタリナに横並び、真っ向から啖呵を切りつつ、その怪魚を見据える。
アラケスに相対した時など、カタリナは恐怖で真面に言葉を発することすら出来なかったものだが、矢張りこの男は異様に肝が座っているのだろう。
『愚かしい・・・。我が名は、アビスの魔貴族が一柱、魔海侯フォルネウス。その無知故の蛮勇にも、この我が大いなるアビスの慈悲によって、無様なる死を与えてやろう』
フォルネウスは、その言葉と共にその巨体をカタリナ達へと真正面に向けた。
『先ずは、お前だ』
発狂を促すほどの圧倒的な瘴気と共に、フォルネウスの巨体が、その大きさからは全く信じられぬ程の速度で動く。
すると次の瞬間には、最前面にいたカタリナとハーマンに、彼らの視界全面を覆い尽くすほどのサイズの尾ひれが衝突した。
「カタリナ殿!!」
一歩後ろにいたシャールが叫ぶが、それで何が止まるわけでもない。
あんな速度で衝突する大質量の物量を真面に受けて、人間が無事に済む訳などない。下手をすれば人としての原型すら留めぬほどに、その体は千切れ飛ぶだろう。
しかし。
『・・・貴様、何をした・・・?』
相変わらず地の底から響くような声で、フォルネウスは勝利を宣言する訳ではなく、逆に若干当惑したような声色でそう言った。
「・・・ふっ、やるじゃねーか」
同じく、凄惨なる現場を目の当たりにした筈にしては余りに軽い口調で、米神から一筋の汗を垂らしたハリードが曲刀を構え直しながら、にやりと笑う。
彼の視線の先には、先程の立ち位置から殆ど動いた様子のないカタリナと、その隣には変わらずハーマンが無事な様子で居た。
彼女らを薙ぎ払った筈のフォルネウスの尾ひれは、真横ではなく斜め上に軌道を変えられたようで、今は既に姿勢も元通りになっていた。
何かが変わったかと言えば、カタリナが正眼に構えていたマスカレイドを、いつの間にか下段構えに変えていた事くらいか。
彼女が尾ひれの衝突の瞬間に行ったのは、以前魔王殿にてアラケスに用い、アラケスに「無行の位」と呼ばれた高等回避術だった。
カタリナ自身、手元に構えたマスカレイドに無事を問いかける様に一瞬視線を落とし、そして再びフォルネウスに向き直る。
「いけるわ・・・。物理攻撃は私が全て捌く。皆、全力でお願い!」
「カタリナを先頭にデザートランス隊形!各個最大火力でぶちかますぞ!!」
カタリナの言葉に被せるようにハリードが曲刀を高らかに掲げながら素早く号令を発し、それに応えて即座に全員が動いた。
「アビスの相を崩したいわ。二人とも術でお願い。私もここは天術で応戦する。玄武術程ではないけれど、威力はまあまあ自信あるのよ」
極力フォルネウスから距離を取るように飛び退ったウンディーネは、近くに居るシャールとミューズの二人にそう言うと、高速詠唱に入った。そうして紡がれていく印は、ミューズの扱う天術体系の「月術」と対を成す、「太陽術」と呼ばれる紋章であった。
太陽術は三百年の昔に魔王軍を一度打ち負かした古ゲッシアの連合軍が用いた天術のうち、特にアビスへ効果が高いとされる術式だ。
それに合わせミューズも大規模術式のために詠唱を始めると、シャールは二人を庇うように位置取りをし、以前に増して大きな灼熱の刃をフォルネウスに放ちながら槍を構えた。
『人間如きが、調子に乗るな!!』
フォルネウスはシャールの放った火の刃を受けながらも、何ら気にした様子もなくアビスの瘴気を撒き散らしながら激昂した。
魔神たるフォルネウスの視界から見る人間とは、なんと小さき事か。
小さくか弱く、触れればそれだけで容易く殺せてしまうほど、儚い存在。それが人間であり、その小さき姿こそが、その象徴なのだ。
魔神フォルネウスは、その様な存在を何よりも嫌う。
だからこそ、対照的にフォルネウスは大きく雄々しく醜く、何よりも強大でなければならないのだ。
『・・・これは一体・・・』
だからこそ、疑問に思うのだ。
つまり今、魔神フォルネウスは、目の前の生物の行動が全く理解出来ないでいた。
嘗て自らをその強大な力で従えた『魔王』は、その身に宿したアビスの力があまりに大きく、「器」に過ぎないその魔王の体に対して何かを思うことなどなかった。
だが今、目の前にいるこの人間達は、その様な圧倒的な力を感じる存在ではない。全く知る通りに小さくか弱い、ただの人間にしか見えない。
『・・・なのに一体、何故』
翳すは、何者をも切り裂く巨大にして鋭い爪。
振るうは、巨岩をも吹き飛ばす頑強な尾ひれ。
突き出すは、硬い鉱石をすら貫く雄々しき角。
その強大なる質量から繰り出す何れもが、一撃で人を滅ぼすには十分過ぎる程の存在だ。事実フォルネウスは、これまでに何度も、そうして過弱き人を無数に屠ってきたのだ。
だが其れ等の猛攻を、真紅の大剣を構えた華奢な人間が、全て真正面から受け止める。
そしてその合間には、場に溢れるアビスの力を削り取らんとする天術の吹雪と焦熱風に、玄武と対を成す朱鳥の加護を宿した灼熱の刃。そして降り注ぐ数多の術式の合間にも確実に自らの身を削ぎ落としていく、竜巻の如き剣の乱舞。
それは魔神フォルネウスの知る人間ではない、まるで新たなる何かを目の当たりにしているかの様な、そんな感覚をすら覚える。
『貴様らは、本当に我の知る人間なのか・・・?』
この様な存在を、フォルネウスは知らなかった。
四つの属性の一つを司る魔神が嘗て三百年前に相対した『最強の人類』は、これまた単なる人間に比べて、明らかに異質ではあった。
その時も魔神の前には今と同じように幾人もの矮小なる人間が並び立ったものだが、とは言えその中でフォルネウスの知る人間という存在を確実に逸脱していたと感じたのは、確か二人だったと記憶している。
だが、今この場にて魔神フォルネウスの前に居る六人は、その時の者達とも何処か異なる。
小さき筈の人間一人一人が、理解し得ぬ何かの『宿命』を持っているかのような、そんな不可思議な印象を持つのだ。
「おい、寝ぼけた顔してんじゃねぇぞ!!」
人の領域で到達するとは、よもや思ってもいない程の速度。
その領域にてフォルネウスの眼前に迫ったハリードが、手にした曲刀で以て強力な五月雨式の三段斬りを浴びせる。
その斬撃が確実に自らの命を大きく削った事を悟り、其処で漸く、魔神フォルネウスは思い直すことにした。
目の前に相対する是等の存在は、今までの自らの知る『人間』ではないのだ、と。
フォルネウスが、この三百年の間にアビスの淵で溜め込んできた瘴気の量は莫大だ。それこそ、三百年の昔に自身を滅ぼした『最強の人類』に今、負ける事は絶対に有り得ないだろう。そう、強く確信を得る程度には。
だからこそ、だ。
自分が力を溜めたのならば、彼ら人間にもその三百年の間に変化があったと考えるのは、とても自然な事なのだ。
強きを求める事と強さに溺れる慢心は、全く異なる意識だ。その事実を反省し、この目の前の、新たなる存在に今改めて相対しなければならない。
フォルネウスは魔神にあるまじきとすら言える思考回路で、そう考えを改めた。
それまで断続的に続いていたフォルネウスの攻撃が止まった事を感じたカタリナは、下段に構えていたマスカレイドを振り翳し、一足跳びでフォルネウスの懐深くへと飛び込んだ。
「これで・・・!!」
空間が切り裂かれたのかと錯覚する程の断裂音が、その場に響き渡る。
アラケスに対して放った時に比べ完全に制御された神速の二段斬りが、確実にフォルネウスの胴を捉えたはずだった。だがフォルネウスは直前に大きく身を捻り、尾鰭の半分ほどを斬り飛ばされるに被害を留め、そして用心深くカタリナ達から距離を取る。
その行動に間髪入れずに追撃を行おうとしたカタリナだったが、しかし明らかに相手の纏う空気が異質に変貌した事を察し、既のところで思い止まった。近くにいたハリードも、どうやら全く同じ事を肌に感じたようだ。
「・・・不味いな。なにか、えらくヤバい感じがする」
「ええ・・・」
ぽつり・・・
ハリードとカタリナが緊張した面持ちで剣を握り直したのと時を同じくして、上方から唐突に水が滴ってきた。
そして一滴だと思ったその水滴は直ぐに後続があり、それはやがてスコールとなってその場に降り注ぐ。その一粒一粒にはアビスの瘴気が混じっており、玄武の加護がなければこれだけで体力を大きく消耗させられてしまいそうだ。
「・・・一体何だってんだ」
「・・・・・・なんてこと」
場に降り注ぐ突然の雨に困惑した様子のハリードの横で、注意深く魔神を睨んでいたカタリナが、引き攣ったような声で呟く。
その声に皆が魔神を注視すると、これまで六人が全力で与えてきた数多の傷が、今し方カタリナが切り飛ばした筈の尾鰭も含め、見る見るうちに修復されていくのだ。
「属性加護による自己再生・・・? それにしたって、あんな馬鹿げた速度の修復なんてあり得るの・・・?」
まるっきり現代魔術理論の外にあるかの様な事象を目の当たりにし、ウンディーネは戦慄した面持ちで、それを見つめる。
その修復の間にも再度、苛烈に攻め立てねばならないという事は、重々分かっている。
分かっているのだが、その場にいる誰もが、どうしても動けずにいた。
何しろ、彼らに相対している今のフォルネウスは、その巨体の何処にも、全く以て「隙」というものが無い様子なのだ。
ミューズらの天術が中和していたアビスの瘴気も、最早完全に元通り・・・いや、寧ろ当初以上に濃度を増し、この空間に禍々しく満ち満ちている。
そしてカタリナ達が動けずにいる間に殆ど無傷の状態へと再生し終えたフォルネウスは、先程までの様子とは全く異なる態度で彼女らを見据えた。
『力ある者を、我は評する。そして我こそが、無様に傲りを見せた事を恥じ、詫びよう。お前達は、我が力を知るに相応しい存在だ』
その言葉と共に、場に充満していた瘴気がフォルネウスの元へと急激に収束する。
その余りの瘴気の濃度にカタリナは軽く目眩を覚えながら、咄嗟に後続の隊列変更を指示する。
「来るわよ、備えて!!!」
カタリナの叫びと共に前衛が密集隊形になり、その直ぐ後ろに駆け込んだミューズとウンディーネが隊列全体を覆うように天術の結界を展開する。
それとほぼ時を同じくして、フォルネウスは自身に収束したアビスの力を、荒ぶるその力の奔流を、一切の躊躇いも無く解き放った。
『アビスの力を知れ!』
咆哮と同時にフォルネウスの元から爆散した瘴気は、瞬時に巨大な渦を巻く大質量の水へと変換された。
そしてその渦に、場に犇めくアビスの波動が幾重にも絡みつき、この空間全体を埋め尽くす様に広がる。
その場の全員がこの直後に感じたのは、水の冷たさだった。
だが、この「冷たさ」とは単純な温度のそれだけではない。それは非常に明確な「死」を連想させるような、全く生気を感じさせない異様な冷たさなのだ。
その冷たさが体に執拗に絡みつき、深海の更なる深淵へと引き摺り込まれて二度と目覚めることのないような、そんな感覚に支配されていく。
それが剣先から腕へ、腕から全身へと、瞬く間に浸食していった。
防御態勢をとっていたことなど、全くの無意味であるかの様に。
カタリナ達はその圧倒的な水量に成す術もなく引き摺り込まれる。そして渦の渦中にありながらアビスの力が込められた衝撃波を幾度も身体に叩き込まれ、やがてその身はボロ雑巾の様に渦から床に放り出された。
『・・・天術だけでは無く、玄武の加護も持っていたか。加護無き者には即座に死を齎す深淵の渦を、良く耐えた。だが、我がアビスの波動はその身にはとても心地悪かろう』
場違いにも、どこか感心したようなフォルネウスの声と共に、散らばって倒れていたカタリナ達に僅かな動きが見られる。
そして壁に叩きつけられた際に砕けたらしい肩当が崩れ落ちるのを尻目に、瘴気の混じった水を咳き込むとともに吐き出しながら、カタリナが最初に起き上がった。
「・・・っ」
口の中を切ったか、口内に充満する鉄の味に顔を顰めながら、兎に角、自分の五体が今どれだけ動くのかどうかを先ず確認する。
両足は、打撲以上の異常は無い。まだ問題なく動く。
左の二の腕に、あまり直視したくない類の痛みがある。どうやら、砕けた肩当の一部が深く突き刺さっているようだ。
四肢は血の巡りが悪くなると、途端に力が入らなくなる。これでは、もう先程までのように両手で聖剣マスカレイドを振るうのは難しいだろう。
冷静に、というよりは戦人の直感でそう判断してマスカレイドを小剣の状態に戻し、切っ先を形の上ではフォルネウスへ向けて牽制を行いつつ、次に自分の背後に素早く視線を向ける。
ハリードとシャールは、既に立ち上がっている。自分と同等か、それよりは若干負傷が軽そうか。継戦可能のようだ。ミューズもシャールに庇われながら立ち上がろうとしていた。
ウンディーネもハーマンを立ち上がらせつつ、治癒術を掛けているようだ。
視界に映る上では、全員が五体欠損を伴う程の大きな怪我はない様子だ。ミューズとウンディーネが施した咄嗟の天術の障壁がなければ、被害はこの様なものでは済まなかっただろう。
唯一見てとれた被害は、ハーマンの左足がないくらいだ。これは元から無いのを忘れていたという訳ではなく、括り付けていたと思われる木製の義足がもぎ取られた格好だ。
それ故に、ハーマンは最早これまでの様に立つことも間々ならず、この後はこれまで同様の戦力として換算するのは難しい状況に追い込まれたということになる。
状況を概ね理解したカタリナは、小剣を構えながらフォルネウスを真っ直ぐに見つめ、思案した。
(・・・読みが、完全に甘かった。この場に入った時の、魔王殿の時より強く感じた瘴気について、私自身が一番慎重になるべきだった・・・)
アビスゲートは以前から変わらず、まだ完全には開いてはいない。だがしかし、刻一刻とその門は更なる解放を続けていたのだ。そんな事は、考えれば直ぐにわかる事だった筈なのだ。
そして門の開く度合いが大きくなれば大きくなるほど、四魔貴族の力も当然に比例して大きくなるのだ。
彼女が単身アラケスと対峙したのは、もう一年程も前の話だ。この一年で彼女は、その取り巻く状況も内包する力も、大きく変動してきたのを実感した筈だ。ならば彼女が変わったのに相手だけがそのままであるなど、当然あるはずも無い。
だからこそ、あの時と同じ感覚で挑む事が抑も間違いだったのだ。
隠そうともせず苦虫を噛み潰したような顔をしながら、一瞬だけ後悔する。そして次には、この状況を元に次の行動を模索し始めた。
(・・・此方の与えたダメージは全快されている。対して此方の被害はかなり大きくなった。私もそうだけど、特に前衛の負傷度が大きい・・・一度、撤退を試みるべきか・・・?)
幾つもの想定で考えを巡らせるものの、実際のところは前進も後退も非常に困難な状況であった。
フォルネウスは再度瘴気の渦を練り上げに掛かっているようだが、その一方で全く油断なくカタリナ達を見据えている。
対峙を辞めて背を向ければ、即座にその爪や牙で引き千切られるだろう。
だが、ここで無闇に攻撃を行ったとしても、またすぐに再生されるのがオチだ。今もなおスコールは絶え間無く降り注ぎ、この空間をアビスと玄武の地相へと固定している。この状況にあって、まさにフォルネウスは無敵であるかの様に思われた。
(・・・不幸中の幸いなのは、私たちも玄武の加護があるから緩やかな治療効果を受けることができている、ということ。だけど、こちらは恐らく、もう一度あの渦が来たら、耐えられない・・・)
特にアビスの波動はかなり体に響いており、術を得手としないカタリナとハリードは特段その損傷が蓄積されている。正直に言ってしまえば、割と立っているのも辛い状況だ。
そんな中にあって、しかしカタリナは前を見つめた。
例え自分がここで朽ちても、それでも次に繋げなければならない。八つの光とは、思えばその為に八つあるのだろう。そう考え直したカタリナは、マスカレイドを構えて真っ直ぐにフォルネウスへと突きつけた。
「私が、なんとしても時間を稼ぐわ。その間に、皆はここから脱出をして頂戴」
カタリナは横を向き、後ろの面々へ向かってそう言い放った。既に彼女は、覚悟を決めていた。
彼女の使命は、ここで一秒でも長くフォルネウスを抑えること。他の皆が逃げる時間を稼ぐのだ。そしてあわよくば、フォルネウスの手の内を全て見ることが出来ると尚いい。
彼女の中には、その知識がきっと他の八つの光にも共有されるはずだ、という朧げな確信があった。
その確信は、一体どこから来るものなのか。それは例えば、今の彼女の取得技術から一端を垣間見ることが出来る。
今の彼女の得物は小剣状態のマスカレイドだが、小剣の扱いは指輪の記憶にて桁違いに洗練されている。更に、嘗て魔王殿深部にて流れ込んできた記憶とは別に、このところは別の新たな技術も彼女の中に蓄積されていることが最近になってわかったのだ。
例えばこの小剣を振るい、今の彼女には非常に強烈な、南十字星を象る超速の五段突きを放つことが出来る。これはつい最近までは全く記憶にない戦技だったものだが、今は何故か彼女の中には確かに存在しているのだ。
恐らくはこれを、彼女は同じ八つの光の誰か(小剣を用いるとなると、ミカエルかモニカあたりだろうか)が会得したものだろうと考えていた。
この考えが正しく、ある程度の記憶や技術は共有されるのだとすれば、彼女がここで得るものは、次に戦いを挑むものに、多少なりとも引き継がれるはずなのだ。
これでは、まるでサラから借りて読んだアバロン伝記の皇帝のようだな、等と場違いに思い出しながら、そう言えばサラは大丈夫なのだろうか、とまるで走馬灯の様に考えが移ろいゆく。
「・・・おいおい、一人だけいいとこ持っていくなよ。今回こそ、俺にも付き合わせろ」
ふと、カタリナの隣に並び立つように、ハリードが如何にもしんどそうにファルシオンを構えながらそう言った。
カタリナがちらりとその顔を横目に見ると、その顔は全くこの状況に絶望をしていない。それどころか、この状況をすら楽しんでいるかの様に、実に心の底から笑っているような笑みなのだ。
正直に言えば彼女一人でどこまで持つのか不安がないわけではなかったので、こうして言ってもらえることは非常に有り難い。後続の撤退に関しては、突破力のあるシャールが先頭となればなんとかなるはずだ。
「・・・助かるわ。けど、笑ってるのキモいわよ」
「ほっとけ」
それ以上の視線は交わさずに軽口を叩き合い、今まさにフォルネウスへの突撃をかけようとしたその間際。
彼女らの目の前に、突如として巨大な炎の壁が現れる。
驚いてカタリナが背後を振り向けば、やはりその炎の壁を発生させたのはシャールだった。
「此方はいいから、急いで!」
カタリナは一分一秒が惜しいと言った様相でシャールにそういうが、しかしそれに答えたのは、シャールの脇から出てきたウンディーネであった。
「ちょっと・・・頭を冷やしなさい」
カタリナを制する様にそう言い放ったウンディーネは、彼女もやはり負傷をしているのか、足を軽く引き摺りながらカタリナに近づいて口を開いた。
「捨身の撤退は、最後の手段よ。まだ、試したいことがあるわ」
「・・・試したいこと?」
聞き返すカタリナに小さく頷いたウンディーネは、炎の壁の向こうにいるはずのフォルネウスを睨む様にしながら、前衛二人に内容を伝える。
「・・・・・・承知したわ」
「こちらも了解だ。ま、いつまでもつか分からんがな」
カタリナとハリードが其々頷くと、ウンディーネは満足した様に微笑み返しながら後方へと戻った。
そしてシャールとミューズに指示を出し、陣を組む様にしてフォルネウスへと相対しながら、術式の構築に集中する。
「炎の壁が消える・・・いくぞ!」
シャールの作り出した炎の壁が揺らめきながらフォルネウスに向かって倒れるのと同時、ハリードとカタリナが突撃をかけた。
炎の壁には目も触れずに瘴気の集約に集中していたフォルネウスは、左右から攻め立ててくる二人に対応する為、一時的に瘴気の塊の形成を遅くする。前衛二人の役割は、これだけだ。
その間にシャールは周囲に炎の障壁を張り、スコールの届かない空間を作り出す。そしてウンディーネが詠唱をしながら前方に手を翳すと、ミューズ、シャール、ウンディーネの間に複数の属性を司る紋章が浮かび上がった。
(・・・さて、解読自体は殆ど終わっているとはいえ、いきなり実践なんていうのは、魔術師として実に短絡的だわ。そう・・・実に短絡的で、実に、愉しい・・・)
ウンディーネは、心の奥底で微笑んだ。
彼女が今作り出さんとしているのは、古代の大魔術だ。
モウゼスでの一件の後にカタリナから依頼を受けた古代魔術書の解読をバンガードに乗ってからも進めていたウンディーネは、その魔術書が示す内容が、魔導器の構造にも通ずる「陣形術式」であるということに、早々に気がついていた。
バンガードの起動術式を観察する中でも古代魔術書の解読に役立つ共通点が幾つも見つかり、バンガードに乗ってからのここまでの道のりは、彼女の魔術士人生の中でも、とりわけ格別に素晴らしい時間の一つだったと断言できるだろう。
ましてや、彼女が追い求めていた魔術の進化系である連携術のその先にあるべき知識が一気に得られていく快感は、何者にも変えがたいものだった。
そしてその魔術を、一世一代のこの瞬間に試すことが出来る。
これが、魔術士冥利に尽きると言わずして、一体、他のなんだというのか。
「・・・ぐぅっ!!」
シャール、ミューズと共に、ウンディーネの腕の皮膚にも唐突に亀裂が走り、派手に鮮血が吹き出す。
(陣形による循環が不安定か・・・。でもこの類の負荷が掛かるってことは、術式自体は間違いなく発動しているということ。あとはこっちが力技で、これを練り上げるだけ・・・!)
ついには口元に笑みまで浮かべながら、ウンディーネは全身に走る激痛など物ともしない様子で詠唱の最終段階に入った。
その間、既に何度も地面に叩きつけられながら、満身創痍でカタリナとハリードがフォルネウスに応戦している。殆ど動けないハーマンも斧の投擲で中距離から援護を行い、可能な限り注意を逸らしていく。
彼らの尽力により、フォルネウスの元に収束している瘴気は、まだ先ほどのものほど固まってはいない。
先に放つのは、ウンディーネだ。
彼女の詠唱の最後の一文が紡がれたことを悟ったシャールとミューズは、こちらも最後に残った己の全魔力を放出させる様に陣に集中する。
すると、みるみるうちに術士たちを包んでいた炎の障壁が空間を蹂躙するように広がり、それは瞬く間にその場に降り続いていたスコールを消し飛ばした。
『・・・・!?』
その突然の事態にフォルネウスが動揺した様子でいると、カタリナとハリードは時が来たことを察し、痛む体を引きずって一気にその場を離脱する。
そして血塗れの腕を振り上げたウンディーネは、朱鳥、月、太陽が三位一体となった純然たる至高の魔力の塊にして、この魔術界に於ける一つの究極の形をその手に宿し、高らかに叫んだ。
「さぁ見せて頂戴・・・クリムゾンフレア!!」
遂に現代に復活した合成術式が、陣から放たれる。
これまでに練られた魔力が三人の間に浮かび上がった陣の中を高速で循環して超加速的に膨れ上がり、やがてそれはその場の全てを焦がさんとする灼熱の熱気を纏いながら、一気に中空に吹き荒れた。
そして瞬時に空間全体を、まるで業火の地獄にでもいるかの様に高温たらしめた熱気は、間も無く吸い寄せられる様に術式の標的であるフォルネウスの中心部へと急激に収束していく。
『な・・・ばかな・・・!!?』
収束した熱気は一瞬でフォルネウスの巨体をすっぽりと包み込む様に膨らみ、そして直後には内包する莫大な自己魔力量に押し潰されるかの様にその形を歪めて横に伸び、それに合わせて幾重にも炎が奔る。
刹那、薄暗く不気味な空間だったアビスゲートのある間が、白く染め上げられた。そして、空間が白くなった、という事を認識する間も無く、その場にある全てを吹き飛ばさんとするほどの大爆発が巻き起こったのだ。
(・・・轟音って、こういうのを言うんだろうな・・・)
最前線を急ぎ退いたとはいえ、まだ爆心地に近いところにいた為に見事に衝撃波で吹き飛ばされながら、カタリナは盛大に耳を擘く大爆音で自分の聴覚が確実に少しイカれたことを自覚しつつ、自力ではどうしようもない浮遊感と共に、呑気にもそんな感想を抱いた。
『・・・ぉ・・・・・・ぉぉぉ・・・』
それはたった数秒の間に起こった事だった筈なのだが、えらく長いようにも感じられた。
やがて爆風が止み、空間を支配していた灼熱が去り、熱で歪んでいた視界が元に戻ってきた頃。
地の底から響き渡るような、重苦しく低い呻き声が空間に響いた。
爆風に飛ばされ、ミューズらと同じ辺りまで転がり込んでいたカタリナは、もうこれ以上は動けないと必死に訴えかける満身創痍の身体に問答無用で鞭を打ち、なんとか動く右腕を使って上半身だけでも起き上がった。
そして眼前に広がる光景を目の当たりにし、絶句する。
「・・・・・・」
爆心地の真下は大きく地面が抉れており、その後方にあるアビスゲートと思われる白い光も、爆発によってゲートの起動装置と思われる仕掛けが大きく破損している関係からか、非常に弱々しくなっていた。
そして、胴体の八割ほどを完全に消し飛ばされ、文字通り首の皮一枚に近い状況で頭部と胴が繋がった状態のまま宙に浮いているフォルネウスが、視界の中心にあった。
すっかりこの場にあった玄武の地相は跡形もなく吹き飛び、自己再生も全く行われている様子はない。
『・・・あ、有り得ぬ・・・』
果たしてあの状態で何処から声を出しているというのか、フォルネウスは殆ど掠れたような呻き声と共に、そう言った。
そして弱々しくエメラルドグリーンの瞳が光ったかと思えば、僅かながら、霧雨のような雨がその場に降り始める。
「・・・不味いわ・・・自己再生を始める・・・!」
またしても回復を図ろとしている事を察し、カタリナは立ち上がろうと必死にもがく。
だが左手にはすっかり力が入らなくなっており、両足も先ほど吹き飛ばされた時に打ちどころが悪かったか、動かそうとすると激しい痛みを感じる。
直ぐには立ち上がることすらできないという事実を自覚するには、十分過ぎるほどの損傷だ。
他に何か手段はないかと周囲を見渡せば、ハリードは自分と同じ様な状況で且つ得物のファルシオンが折れているし、大魔術を放った術士三人は疲労の極限へと達して崩れ落ちており、全く動ける様子ではない。
そして視界には映っていないがハーマンは先のフォルネウスの攻撃の時点で義足を失っており、抑も動く事も間々ならないはずだ。
(・・・なにか・・・なにかないの・・・?)
緩やかに再生を始めようとするフォルネウスをやけにスローモーションのように視界に捉えながら、自分の中にある記憶を辿り、この一瞬で何か打つ手はないものなのかと脳内で思考が高速回転をする。だが、自分を始めこの場にいる全員が動けない状況では、打つ手などあるはずもない。
目の前の現実にそれを確信して弱々しく歯軋りをした、その瞬間だった。
カタリナの視界の横を勢いよく駆け抜ける、人影があった。
「・・・!!?」
何が起こったのかとカタリナがその影に視線を向けると、その謎の人影は一直線にフォルネウスの懐へと飛び込み、手にしていた仕込み杖を構えた。
「・・・きっちり返してもらったぜ、クソったれめが」
『・・・な・・・に・・・?』
フォルネウスのエメラルドグリーンの瞳が、自らの懐に飛び込んできたその人物に向けられる。
それは、見知らぬ男だった。
抑もフォルネウスには人間の顔など対して見分けもつかないが、兎に角その男は、知らない男だ。なにしろ、つい先ほどまでこの場において戦っていた人間の中にも、この様な男はいなかったからだ。
『貴様は・・・』
誰だ、と、フォルネウスは続けようとした。
だが、それは出来なかった。
男が笑みを浮かべながら抜き放った何かが、視界に止まらぬ速度で、魔神の身体を真っ二つに切り裂いていたのだ。
「抜刀燕返し、ってな。十年、てめぇをぶった切るためにこれだけを鍛え続けてたんだよ」
その言葉は、届いていたのかいないのか。声にならない断末魔と共に、フォルネウスの巨体が霞み、揺れて次第に消えていく。それを背にしながら、男は懐から煙草を取り出し、慣れた手つきで火をつけた。
その特徴的な香りが自分の元まで届き、カタリナは眉間に皺を寄せながらその男を見上げた。
「貴方・・・ハーマンなの・・・?」
なぜカタリナがそう思ったかと言えば、答えは簡単だ。その男が吸っていた煙草の香りが、ハーマンの吸っていたものと同じだったからだ。そして、その服装も、ハーマンのそれと同じなのである。
だが、カタリナは自分で言っておいてなんだが、にわかには信じられないという表情をしている。
なにしろ、彼には立派な左足がちゃんとあるのだ。
一度失った四肢が生えてくる事象など、カタリナの常識の中にはない。だからその時点で、信じられないのは当然なのだ。その他にも、体のサイズ自体が一回り大きくなったようにも見えるし、更には頭髪もハーマンの白髪とは全く違い、豊かな黒髪を生やしているのだ。
カタリナのそんな困惑した様子を何処か楽しむ様にしながら見ていた男は、銘柄特有のとても甘い香りのする煙草をたっぷりと肺に溜め込んで真っ直ぐ上に向かって吐き出し、手にした仕込み刀を仕舞いながら、にやりと笑った。
「ハーマン爺さんは、死んだ。俺の名前は、ブラックだ」
自らをブラックと名乗ったその男に、カタリナは数度の瞬きをしながら応える。ブラックといえば、何処かで聞いたことがあるような気がする名前だ。
「・・・そうか、あんた・・・左足がまだあるっつってたのは、生気ごとフォルネウスに喰われていただけだからっつーことだったのか」
一足先に何とか立ち上がったハリードが、砕けたファルシオンを腰の鞘に納めながらブラックに向かって語りかけた。
「つまりハーマン爺さんの正体は、十年前に西太洋で消息を断った海賊ブラックってわけだ」
「おう、ご名答だ」
ハーマンの時は眼球にのみ凝縮されていた生命力が、今は彼の体全体から溢れ出しているようだ。海の男特有の筋骨隆々とした体躯、南国特有の艶のある黒髪、そして一層輝きを増した様にも見える、力強い瞳。
確かにミカエルとはまた違った魅力を感じないわけではないが、しかしちょっと自分のタイプではないかな、とカタリナは分析する。
「・・・あいつの土手っ腹に穴が空いた時に、恐らくあいつの中にあった俺の一部が抜け出したんだ。だからさっき突然、足が生えやがった。体も前みたいに動くし、こりゃあ間違いなくあの木偶をぶった斬れっつー玄武様の思し召しだと感じたってわけよ」
そういってブラックが二の腕で力瘤を作りながらニカっと笑うと、つられて他の皆にも笑みが浮かぶ。そうして漸く戦闘が終わったのだという実感が訪れると共に、体の痛みが強くなった様にも感じる。
これはまた、治るのにしばらく時間が掛かりそうだ。
「さて、取り敢えずこいつをぶっ壊せばいいんだよな?」
そういってブラックは愛用のバイキングアクスを振りかざし、誰からの答えを待つまでもなく、アビスゲートを出現させる装置と思しき純白の光を放つ紋章の中心部に位置する球体へと叩きつけた。
ミシリ・・・
衝撃音の後に亀裂音が走り、その場を照らしていた白い光が、次第に弱々しくなっていく。それらを一同が無言で見つめている数秒のうちに、やがて光は跡形もなく消えてしまった。
その瞬間、海底宮を包んでいた空気が静まり返った様に大人しくなる。
「・・・何が起こったんだ?」
その変化に皆が周囲を見回していると、カタリナはやっとの思いで立ち上がりながら口を開いた。
「恐らく海底宮が、また次の死蝕を待つために眠りについたのよ」
「眠りについた・・・ねぇ。確かにこれは、火術要塞の雰囲気と全く同じだな」
カタリナの言葉に反応したハリードが、静まり返った海底宮を見回しながら呟く。彼は既に何者かの手によって魔炎長アウナスが滅せられたあとの火術要塞に、カタリナ等と共に踏み込んでいる。確かに今の海底宮の纏う雰囲気は、その時の火術要塞のそれと全く同じ様に感じられるのだ。
「つまり・・・三百年後にまた死蝕が訪れれば、フォルネウスは復活する、というわけなのですね」
シャールに支えられながら立ち上がったミューズが呟くと、カタリナは小さく頷いた。
「はい。恐らくは、今回よりも更に強力になって復活する、と思われます」
「・・・これより強烈なのか・・・。流石に、そんなものを倒せる気が今は起きんな・・・」
ミューズを支えるシャールも、彼にしては珍しく弱気な様子で苦笑いをしながらその言葉に反応する。それは、先の戦闘の間に張り詰めていた緊張感から解放されたことによるある種の冗談とも受け取れるが、一方では紛れもない本心だとも感じる。
そう感じるのは、事実カタリナ自身にしても、強くそう思うからに他ならない。今回にしたって、ウンディーネが古代魔術書の解読を終えていなければ、彼らは全滅を免れなかったことだろう。あの規格外の強大な魔術がなければ、間違いなくこの場の全員の命はなかった。
「・・・兎に角、今は生き延びたことを喜びましょう。本当にありがとう、ウンディーネさ・・・ん・・・」
そういって、ウンディーネの方を振り向く。
彼女は上半身を起き上がらせて壁に寄り掛かった状態だったが、しかしまだ立ち上がってはいなかった。それどころか、今までのこちらの言葉が聞こえていたのかどうかも怪しいくらいには顔面蒼白で、呼吸が弱く、体を起き上がらせているのもやっと、というような状態だった。
そして彼女の両腕からは今も緩やかに血が流れ続け、彼女の周りを紅く染め上げている。
合成魔術を放った反動は、術を主導した彼女に最も大きく跳ね返っていたのだ。
「ウンディーネさん・・・!」
そのただ事ではない様子にカタリナが駆け寄ろうとするが、彼女自身も大概全身が重症だ。走り寄ろうとして蹴つまずいてしまったところに、彼女の隣を横切ってウンディーネに駆け寄ったブラックは、脱いだ自分の上着を千切って彼女の両腕を肘の辺りから強く結んで簡易止血し、余った部分で両腕の流血部分を包み、軽々と彼女を抱え上げた。
「このままじゃ危ねぇ。おい、急いでバンガードに戻るぞ」
「ハーマン・・・ブラックさん、先に行って頂戴。私たちも後を追うわ」
「おう、途中でくたばるなよ」
そう言って勢いよく走り出したブラックに続き、その場の全員も痛む体を引き摺りながらアビスゲートの間を後にした。
地図上ではそこにバンガードがあったはずの崖に為す術なく立ち尽くしたトーマスは、周辺の村で聞いたところによるとカタリナ等が向かったとされる西の海を只管に見つめながら、彼にしては珍しく焦りを隠した様子もなく、小さく祈る様に独り言を呟いていた。
「カタリナ様・・・どうか、お急ぎ下さい・・・。このままでは、ロアーヌが・・・!」
最終更新:2020年01月15日 23:18