ロアーヌ侯国の首都ロアーヌから南東へエルブール山脈を仰ぎながら三日ほど徒歩行軍した所に、一部が沼地にもなっている広大な湿地平原が広がっている。
四魔貴族が一柱、魔龍公ビューネイの居城があるとの伝説が残る、聖王記所縁の巡礼地でもある霊峰タフターンへと向かう一本道以外には宿場宿も何もない、古ロアーヌから風景の変わらぬ未開拓地だ。
だがこの平原に突如として、湿地帯をほぼ斜めに切り裂くかの様に北東から南西へと伸びる長大な木製の簡易防壁が現在、進行形で築かれていた。
その木製の防壁は短期間の間にも部分的に幾度かの崩壊と再建を繰り返し、既に丸一月以上もの間、ロアーヌ南方とナジュ砂漠を隔てる雄大なるエルブール山脈の最も高い峰を誇る霊峰タフターンより散発的に侵攻してくる妖魔の大群から、ロアーヌ侯国領地と其処に住う民を守るための絶対防衛線として機能している。
この長大な防衛線のすぐ後方には相互の距離を開けて幾つかの幕舎が設置され、そこでは幾人もの名だたるロアーヌ士官が交代で日夜指揮を奮っているのであった。
「戻ったぜ・・・」
直前に沼地を走り回っていたのか、酷く全身が汚れた様子の男が、大層くたびれた様子で幕舎の中へと入ってきた。
丁度幕舎の中で防衛線の補強、改修の計画を練るために戦場図と睨み合っていた、ロアーヌ騎士にして本防衛線の指揮を務める将の一人でもあるタウラスが其方を見遣る。そして幕舎の入り口を潜り入ってきた人物に対し、珍しく随分と覇気のない声を上げながら戻ってきたものだな、と思いながらも、手元の作業を止めて片手を上げつつ迎えた。
「あぁ、よく無事に帰ってくれたよ、コリンズ。悪いな、タフターン攻略班から態々こっちの防衛線に回ってきてもらって」
タウラスの言葉に、彼と同じくロアーヌ騎士にして軍に於いては准将を務めるコリンズは、とんでもないという様にかぶりを振り、そして次には力なく項垂れながら、ここで一際大きくため息を吐いた。
「俺やパットン等の師団は、攻めてなんぼの歩兵と騎兵が中心だ。山岳地帯じゃ騎兵は使えねぇし、挙句に攻める相手が霧に隠れているんじゃ、役立たずのタダ飯食らいみたいなもんさ。准将を拝命してから初の戦だってのに、ほんと、情けない限りだよ。だから、こうして国の役に立つ仕事があるだけ有難いってもんだ・・・。いまいち調子は出ねぇけどな・・・」
国家の一大事というこの場面に於いて自分の得意とする戦ができない事が余程堪えているのか、コリンズは自分の近くの木箱に浅く腰掛けながら心底悔しそうな様子で小さくそう言った。
彼がここまで弱気な様子を、彼の同期であるタウラスは今まで見た事がない。だが、それも今は仕方がないのだろうか、とも思う。
何しろ、直近一ヶ月のこの防衛戦とそれを取り巻く周辺の有り様は、お世辞にも良い流れなどとは言えない状態が続いているからだ。
悪化の一途を辿る世界情勢を鑑みて行われた軍事演習中の謎の強襲に端を発し、ロアーヌ侯国がトゥイク半島の貿易都市リブロフの軍団を相手取った連戦の末、逆賊マクシムスの目論みを打破し神王教団教長ティベリウスとの間に和睦協定を結んでから、二ヶ月弱が経つかどうかという頃。
この戦線は、そのような折に突如として開かれた。
これまでの定期的な魔物討伐とは全く異なる規模での群を、いや、軍を成した妖魔の強襲を受けたロアーヌ侯国は、直ぐ様侯爵ミカエルの大号令の元、国民総動員体制での防衛戦線を即時形成するに至った。
その後、一次戦線を驚くほど速やかな迎撃戦に持ち込み国土の損害を最小限に抑えてみせたミカエルは、その妖魔の軍勢が南方エルブール山脈の特に南東の方角から攻めてきたこと、また、交戦した妖魔軍には特徴として珍しい有翼種が多く見られ、この有翼種がロアーヌに保管されている過去の書物に記されていた「ビューネイの精」という存在に酷似しているという事を根拠に、交戦対象を『魔龍公ビューネイ軍』と断定。
奇しくも、この半月ほど前にロアーヌ宮廷騎士カタリナ=ラウランを中心としたアビス軍勢討伐軍の活躍により地図上では南端に位置する広大な密林の奥にて全滅の危機に瀕していた妖精族の救出、及び四魔貴族魔炎長アウナスの居城である火術要塞の占拠という歴史的偉業を成し遂げていたロアーヌ軍は、その戦勝報を世界へ向けて逸早く発信していた。ミカエルは本迎撃戦をこれに連なる一大有事として、「対四魔貴族戦線」と呼称。全世界へ向け発信し、各国からの援軍を募りながら開戦をしたのであった。
だが最初の迎撃こそ成功したものの、その後に肝心の攻めるべき相手の拠点が全く定まらず、戦線は早々に膠着した。
ロアーヌ軍は攻め手を欠いたことで否応なしに後手に回り、この防衛線にて相手の出方を待つことを余儀無くされたのだ。
タフターン山のある南東の様々な箇所から昼夜問わず攻め入る妖魔に対して幾度も防戦を余儀無くされ、補給線を確保しながら長大な防衛線を建築し、ロアーヌ軍はこの一ヶ月余りを耐え抜いてきている。
だがいい加減に兵の疲労度も限界に達しており、防衛線には乱れも散見される様になってきていた。
前線には負傷者も増え、疲労を抱えたままの連戦も祟り、戦死者もこの半月ほどは増加傾向にある。
そして何より、未だこの状況の打開策が一向に見つからないという現実こそが、戦場の士気を著しく下げ続けているのだった。
「・・・で、援軍の方はどうなんだ?」
くたびれた様子で懐から取り出した給水筒を煽り、コリンズが言葉の割には全く期待した様子もなくタウラスに尋ねる。
その問いに対してすぐには答えられなかったタウラスだったが、コリンズのこの問いには別方向から応えるものがあった。
不意に二人の会話を割って幕舎に入ってきたのは、彼らと同期の騎士にしてロアーヌ軍少将に就くブラッドレーだった。
「流れの傭兵や東部開拓民を中心とした周辺農村からの義勇兵は徐々に集まりつつあるが、国家としての援軍は未だ無いようだ」
「・・・けっ。しがない東国の事なんざ知らねーってか。これじゃあ、アビスの思う壺だぜ」
コリンズの返答に、ブラッドレーは、これはとても良くない傾向だなと感じる。
ここ最近の度重なる戦の主戦場を踏破してきたロアーヌ騎士団の「黄金世代」とされる彼の同期である騎士コリンズは、軍の中でも格段に人望が厚い将の一人だ。
その直向きな性格と信念に強い忠誠を抱く騎士は多く、そんな彼のこうした後ろ向きな発言は、軍の少なくない範囲で良くない影響を及ぼすだろう。
だが、それを直ぐに諫める様な万能の言葉を、ブラッドレーは持っていなかった。
勿論、上辺だけの言葉をかけるなら、それは幾らでも出来る。だが、この一月の惨状は先の通りだ。
コリンズの指揮する軍からも当然少なくない数の殉職者が出ており、その事実に対して生半可な慰めや諫めなど、意味を為さないどころか更なる士気の減少にも直結するのだ。
何より、この戦線の展望の暗さを最も感じているのは、誰あろう戦線を預かる最高指揮官であるブラッドレー自身でもある。
しかし彼は、弱音は吐かない。だが、他者にかけるほどの言葉まで、彼は持たない。
「・・・現在、ミカエル様がタフターン山の奥にあると目されるビューネイの居城を少数精鋭にて潜入攻略するための勇士を募っている。今の我々は、これが動くまで何としてもこの戦線を死守しなくてはならない」
「あぁ、分かってる。分かってるんだけどよ・・・」
コリンズ自身も、ブラッドレーが感じる事を理解していないわけではない。
だが、それでも彼には、そんないつ動き出すのかも分からないものだけでは、彼が失った部下の家族へ向ける顔がないのだ。
「あぁ、畜生・・・。俺に、カタリナみたいな力があればな・・・」
コリンズが呟く。
言葉にしながら彼が頭の中に思い描いたのは、軽鎧を纏い真紅の大剣を翳しながら隊の先陣を切る、女騎士の姿だった。
現在、先の火術要塞攻略までに渡る多大なる功績により宮廷護衛騎士団長の地位に就くカタリナは、彼の直ぐ下の世代の後輩に当たる。コリンズは彼女とは、騎士団候補生時代から十年以上を数える長い付き合いのある間柄だ。
彼女はつい先日まで、とある事情により一年弱ほどロアーヌを離れていた。その事情自体は詳しくは聞かされていなかったが、神王教団との戦の折に再会を果たした時に、大体の事情は本人から聞いていた。
その事情はさておき、その間にカタリナが経てきた経験は、兎角、凄まじいものであった。
一年ほど前、世界的にアビスの魔物の本格的な目覚めを感じさせた、メッサーナ王国首都ピドナにてあった「予兆」の中心に彼女はおり、その後、聖王の故郷である聖都ランスにて聖王家子孫から正式に依頼を受け、以降は四魔貴族を討伐するための旅路を歩んできたという。
その旅の中で神王教団のピドナ支部長マクシムスが隠し持っていた幾つもの聖王遺物を奪還し、彼女は遂に四魔貴族の一人である魔炎長アウナスの居城を攻略するという伝説級の偉業を成し遂げたのだ。
その中身には、実のところ幾つか誇張表現があり、細部は訂正するべき部分もあることは彼は無論知るところではあるが、それでも彼女が世界各地で成してきた事は紛れもない事実である。
そして何より、神王教団との最終決戦の地であったナジュ砂漠にて彼女と再会した時、コリンズは一目彼女を見て、瞬時に理解したのだ。彼女は、もう彼の全く及ばぬ領域にいる存在であるのだ、という事を。
「聖王記に記される『八つの光』の顕現・・・か。ミカエル様は、ロアーヌよりそれが誕生したと、そう各国へと報を出した。聖王家も、それに応じて事実を認める声明を出してくれたそうだ。その効果が、今回の勇士募集に影響をしてくれればよかったんだがな・・・」
ブラッドレーが直近の宮廷内の動きを添えながら応えるが、コリンズは相変わらず投げやりな様子のまま、幕舎の天井を見上げた。
「それでも、世界は動かねぇ。結局、いざ自分の喉元に剣が突きつけられるまで、奴らは気付きやしねえんだ・・・。今の俺たちの様に、な」
コリンズがそう呟いた所に、まるでこれで会話は終わりだとでも告げるかのように、大変慌てた様子で幕舎へと駆け込む兵があった。
「も、物見櫓から報告!前線に獣人族を中心とした妖魔の軍勢を視認!その数、凡そ三千!」
兵を認めたブラッドレーが、その報告に即座に反応する。
「・・・ライブラ隊を核に二層防壁陣を布陣!またフォックス隊に伝令!別方面からの奇襲に備え、四方索敵!」
「はっ!ライブラ隊が二層防壁陣にて対応、及びフォックス隊にて四方索敵、了解いたしました!」
伝令を復唱し兵が即座に幕舎を後にしていくと、ブラッドレーは自分も前線の確認をするためにロアーヌ侯国の紋章が刻まれた腰の剣を確認し、外套を翻した。
「我々は、伝説の英雄にはなれない。だが、故国を守る英雄にはなれる。今ここでそれを証明し続けることこそが、誇り高きロアーヌ騎士としての使命だ」
ブラッドレーがそう言うと、コリンズはそれに応えるように即座に立ち上がり、己に言い聞かせる様に深く頷いた。
「分かってんだ・・・そんな事は。俺は、この国を守る為に騎士になった。それは、俺の中の絶対的な正義だ・・・。俺も行くぜ」
「助かる。タウラス、ライブラ隊の後方支援は任せるぞ」
「了解だよ、大将」
ロアーヌ式敬礼をしながらのタウラスの返答に、ブラッドレーは彼の性格上は仕方がないのかもしれないが、律儀にも「自分は少将だ」と真顔で訂正を返すと、それに苦笑するタウラスを背に、コリンズと共に幕舎を後にした。
海上要塞バンガードが四魔貴族フォルネウスの潜む海底宮の攻略から遂に大陸への帰還を果たしたのは、ロアーヌとビューネイ軍の戦線が敷かれてから大凡一ヶ月半程が経った頃だった。
突如として大地が無慈悲に引き裂かれたかのような実に荒々しい様子で、ルーブ地方とガーター地方を隔てる広大な範囲に及ぶ断崖絶壁。
地図上では、確かにここに、海上都市バンガードがあったはずだった。
南北の相互地域交通網が突然に断絶された事で、多くの行商人が崖を前に一度立ち往生をしては近くの漁村からの渡し船に頼っていく中、この場所にて只一人、根気強く幾日にも渡って野営を続けていたトーマスは、西太洋の向こうから遂にその姿を現した海上要塞バンガードを沖合に見つけると、しかしそれに喜ぶでもなく兎に角必死に狼煙で合図を送り、それに彼方が気付いていることを願い、相手の反応を待つ前に大急ぎで小舟を出した。
幸いな事に船首からそれに気がついた町民の知らせで無事にバンガードへと収納されたトーマスは、そこでおよそ二ヶ月少々振りに再会を果たしたカタリナに、簡潔に現在のロアーヌの状況を説明をした。
すると話を聞いた彼女は一も二もなく急ぎロアーヌへと戻ろうと、即座に旅支度を整え始めたのだった。
兎に角カタリナにとっては、故国の窮地に一刻でも早く駆けつけるという考えのみしか浮かばなかったのだ。
だがそこに更に、彼女にとってはトーマス以上に全く予期せぬ来訪者があった。
正に皆の制止を振り切って単身ロアーヌへと向かうべくバンガードの船着場から大陸に戻らんとしたカタリナの前に小舟に乗って唐突に現れたのは、特徴的な色合いのとんがり帽子を被った、聖王記詠みを自称する詩人であったのだ。
「やぁ、またお会いできましたね。カタリナさん」
「・・・!」
そう言って小船から降りて、やおら優雅にお辞儀をしてみせる詩人に対し、カタリナは思わず反射的に腰の剣に手を掛けようとする。
だが、そんな様子をすら面白がる様に詩人はケラケラと声を上げて笑いながら、相変わらず剽軽な様子で肩を竦めた。
「まぁまぁ、そんな怖い顔をしないで。今まで私があなたの目の前に現れて、事態が暗転した事、ありました?」
これまでの例に漏れず、相変わらず人を喰った様なその物言いにカタリナは当然に憮然とした表情で返すが、それでも不思議とこの詩人の言葉には渋々と従ってしまうような、ある種の強制力を感じる。
彼女と同じく、カタリナを説得せんとその場に集まっていたトーマス、フェアリー、ハリード、シャール、ミューズが一様に突然の来訪者に対し呆気にとられていると、当の詩人は随分とあっけらかんとした様子で船着場から市街地へと向かう階段へと、周囲の様子を全く気にせず勝手に歩き出した。
「まぁこんな所で立ち話も何ですから、皆さん座って話しましょう。バンガードといえば、歴史は浅いですがグッドフェローズのハーブティーが意外と馬鹿にできない味なんですよ?」
そう言って颯爽と市街地へ向かい歩いていく詩人に益々周囲が困惑する中、意外にも最初に彼に続いたのがカタリナだった。
トーマスからの話を聞いて以降は周囲の誰が何を言っても一切ここまで聞く耳を持たなかったカタリナが突如として素直に従う様には再度周囲が驚きつつ、しかし皆もその後についていくことにした。
「さて、現在ロアーヌに訪れている危機に関してですが」
ハーブティーと一部面々にはエールが用意されるまで、のらりくらりと幾つもの追求を躱し続けた詩人は、自らの手元に用意されたティーカップを取り上げ、香りを楽しむ様に顔の前で薫せ、一口飲んでたっぷりと味を堪能したあとで、漸く口を開いた。
その間、丁度彼の真正面に座っているカタリナの怒りの表情が余りに鬼気迫っており、次の瞬間には詩人に斬りかかるのではないかと肝を冷やしていた一同は、彼が漸く話題を切り出したことに大変安堵しつつ、カタリナと共に彼の言葉に耳を傾けた。
「このままでは、ロアーヌは確実に滅びます」
ガタンッ、とカタリナは座っていた椅子を盛大に蹴飛ばして立ち上がる。
そして周りが制止する間も無く、迷わず腰にあったマスカレイドを抜き、テーブル対岸の詩人へと突きつけた。
「・・・いい加減にして。これ以上無駄口を叩くなら、問答無用で斬るわ」
彼女の声色には、一切の冗談めいた要素が含まれていない。
突如として起こった修羅場に、グッドフェローズのマスターをはじめとしたその場の他の客は、その只事ではない様子に遠巻きに避難した。そして緊張感が支配する店内で外野が息を潜めて件のテーブルの様子を見る中、今まさに斬りかかられようとしている詩人は全く動じた様子もなく、又してもティーをゆっくりと啜り、音を立てずにカップを置いて、にこりと微笑んだ。
「なので、今からそれを回避する為の助言をしようと思います」
その言葉から数秒、カタリナと詩人の視線が交錯した。
カタリナはその視線から、目の前のこの男が一体何者で、何を考えているのかを推察しようとする。
初めてこの詩人を名乗る男に会ったのは、確かピドナのパブだったと記憶している。その時は単なる流しの吟遊詩人としか思わなかったが、この詩人との意外に早い再会は、その一週間後の早朝だった。
朝日の差し込む港にて彼と対峙した時、その謎めいた言葉と掴み所のない動きに、彼女は自分の心と体が翻弄されたことを今も強烈な印象として覚えている。だが、後にこの時の詩人の言葉に従ったことで、この後の展開の活路が開かれたのは事実だ。
そして三度出会ったのは、彼女がこの旅の当初の目的を果たさんとする、正にその時。ナジュの神王の塔での事だった。
この時も確かにこの男の助力を得ることで、神王の塔へと容易に潜入することが可能となった。その結果として彼女は逆賊マクシムスを打倒し、聖剣マスカレイドを取り戻すことができたのである。
脳内で冷静に振り返ってみれば、ここ半年程で彼の言葉に従うことが事態の進展に大きく寄与してきたことは間違いない。だが、どうしてか彼女はこの目の前の吟遊詩人が好きになれそうにはなかった。
しかし今はそのような呪詛を吐く時ではないと思い直し、カタリナがゆっくりとマスカレイドを納刀し後ろに倒れた椅子を引き戻すと、近くの面々も一先ずの危機が去った殊に安堵した様子で息を吐き、話の続きを促す。
その様子をすら何処か楽しむ様に辺りを眺めた詩人は、徐に懐から一枚の随分と古びた地図を取り出した。
「さて・・・敬虔なる聖王教徒であるカタリナさんは、聖王記に記された四魔貴族ビューネイの討伐譚は、勿論ご存知ですよね?」
「・・・ええ」
詩人の問いかけにカタリナが浅く頷きながら返すと、詩人はその返答に大変満足した様に大きく頷き返しながら、取り出した地図をさっとテーブル上に広げた。
「現在ロアーヌ領を攻め立てている妖魔の軍勢は、間違いなく魔龍公ビューネイの差し金でしょう。これは正直、いくら屈強なロアーヌ軍が何度迎え撃ったとしても、事態の根源であるビューネイを打倒しない限り、キリがないです。延々とアビスゲートより生まれいでる瘴気が招く妖魔の侵攻が、ロアーヌ軍を食い尽くすまで続くでしょう。従って、力の源となっているビューネイの打倒無くして、ロアーヌ軍に勝利は無いのです」
そう言いながら詩人の手によって広げられた地図にカタリナが無言で視線を落とすと、其処には何やら山岳地帯を示す平面図が描かれていた。
「ですが、天空の支配者たるビューネイは常に空を舞っており、地上から彼の者を相手取ろうとしても、剣は愚か、弓すらも届きません」
まるで詩を歌い上げるかの様な調子でそう語りながら、詩人はさながら歌劇の演者の様な仕草で以って、地図の一点を指し示した。
「ですから、カタリナさんは故国ロアーヌを救う為にも、ここを目指さなければなりません」
その古びた地図に描かれている山岳地帯は、今まさに決死の戦が行われているというロアーヌ地方の霊峰タフターン山の様子とは何処か違ったものの様だった。
それに大凡の察しがついていたカタリナが、視線を正面に戻し、彼に応える。
「龍峰ルーブの頂・・・。まさか私に、ここに行って聖王様のように竜の助力を得ろ、って言うの?」
詩人が地図上で指し示しているのは、このバンガードから北に向かったルーブ地方にある、龍峰の名を冠するルーブ山だった。
聖王記に綴られる四魔貴族ビューネイ討伐の章によれば、地上からビューネイを相手しようとした聖王に対し、肝心のビューネイは全くその様子を意に返さなかったのだという。
天空の支配者である魔龍公は、地を這う存在に興味を示さず、全く相手にしようなどとしなかったのだ。
「左様。魔龍公に相対するのは、地に足をつけていては叶わぬということ。つまり、彼女のフィールドである天空にて戦いを挑まなければなりません」
魔龍公ビューネイの様子に、地上からの戦いが不可能と悟った聖王は、当時のルーブ山に棲まう巨龍ドーラに助力を乞う為、ルーブの頂を目指した。
そしてその冒険の末に巨龍ドーラの協力を取り付け、聖王はドーラの背に乗り大空へと羽ばたき、天空にて魔龍公ビューネイへと挑み、遂に勝利を手にした。
「さしもの魔龍公も、人と龍との力に屈した、という伝説。貴女は、これからこの伝説を準えなければならない。そうしなければ、危機に瀕した現在のロアーヌを救う事は出来ない、という訳です」
詩人の言葉を脳内で反芻しながら、カタリナは目を細めて考える。
今までこの男の言葉に従った時、確かに間違いなく彼女の直面する事態は拓けてきた。
だが今回のこればかりは、如何なものだろうか。
この聖王記の伝説は確かに彼女もよく知っている内容であるし、それに当てはめて詩人の言う理屈もわかる。だが、今の世に於いてこの伝説を準えるには、多分に事情が異なるということも、彼女は知っていた。だから、それが可能なのかどうかが、どうしても疑わしいのだ。
そんな彼女の抱く疑問を代弁する様に口を開いたのは、彼女の隣に座って話を聞いていたミューズだった。
「あの・・・吟遊詩人様、一つ宜しいでしょうか」
「ええどうぞ、クラウディウス家の御令嬢様」
ここまで名乗った事もなく、また会ったことすらない相手にそう言い当てられながら、不思議にそのこと自体は疑問にも思わず、ミューズは軽く頭を下げて言葉を続けた。
「現在ルーブ山には、悪竜グゥエインが棲むと聞いています。確か十年ほど前にも、ルーブ山の麓の小さな山村を蹂躙し滅ぼしたと世間で騒がれていたのを記憶しております。貴方はカタリナ様に、その様な人に仇為す竜と手を結べと、そう言っているのですか?」
「ええ、正にその通りです」
間髪入れずに詩人がミューズの問いに答えると、一時、その場に沈黙が訪れる。
現在のルーブを住処とする悪竜グゥエインの存在は、この地方のみならず、広く世界に知られているところだ。
その存在が最初にいつ確認されたのかは現存する資料も無く不明であるものの、少なくともここ百年以上はルーブを住処としていることが過去の被害情報から分かっていた。
悪竜グゥエインによる被害はループ地方をはじめとして、ウィルミントンを中心としたガーター半島や聖都ランスを横切るイスカル河沿岸地域に至るまで、広い範囲で確認されている。
各地に祀られていた古代の財宝の数々を奪い、街や村を襲っては人肉を喰らい、為す術ない人間を嘲笑う様に土地を蹂躙し、ルーブ山へと戻っていく。
その被害は十数年に一度程度の周期で訪れ、その活動期の度に、世界中の人々を恐怖のどん底に陥れてきた。
四魔貴族が居なくなったこの三百年に於いては、人類にとってはなす術のないという意味では最大の脅威と言って間違いない存在なのだ。
その様な人類に仇為す悪竜に、人が協力を求めることなど、果たして本当に可能なのだろうか。
その事実はその場に集まる誰しもが知るところであり、ミューズやカタリナが抱く懐疑的な思いに全員が同調する様に押し黙った。
だが以外にもその沈黙を破ったのは、一人ハーブティーの代りにエールを勢いよく飲み干したハリードだった。
「ルーブに残された、友人の子・・・か。つまりは聖王が言っていたのが、そのグゥエインという事なのか」
ハリードのその言葉に、カタリナとトーマスがピクリと反応する。
彼が言ったのは、嘗てピドナのハンス邸にて集まった際に彼女らが見た、王家の指輪に刻まれた聖王の語る映像にて聞いた言葉のことだった。
それを知らぬミューズ等はハリードの言葉に対して当然思い当たる節がなく疑問符を浮かべるが、カタリナは確かにその映像を覚えていた。
そうなると聖王の言っていた友人とは、人間ではなく巨龍ドーラのことであったということか。
確かに、友人の子と言われてもそれが人間ならば、当然だが三百年も生きていられるはずもない。後世に現れる八つの光に対して紡ぐ言伝ならば、友人の子というのが人間を指していることの方が寧ろ可笑しい。そうなれば確かに、辻褄は合う。
「友人・・・ですか。そうですねぇ・・・確かに聖王にとっては、巨龍ドーラは友人と呼ぶに相応しい存在だったのかも知れません。ご存知の通り、聖王は魔龍公ビューネイ討伐の後に、聖王の再三の諫めを聞かず人里を襲ったドーラをもその手で屠っています。その際、聖王が竜の命を奪った折に流した涙と嗚咽は、ルーブ山中に響き渡ったと伝えられています。聖王記にすら其処まで記されるという事は、相応の関係性が其処にはあった、と見るべきなのかも知れませんね」
詩人は話の流れからハリードの言葉に頷きつつ、聖王記の内容に準えながら語る。
それは恐らく正しい見解なのだろうな、とカタリナも感じた。
あの時の映像にて最後に「友人の子」について語っていた時の聖王は、『聖王』という神格化された存在というよりも、文字通りの友人の子を心配する一人の単なる人間の様にも見えたのだ。
その聖王に、確かに彼女は頼み事をされていた。
ならば、彼女に用意された答えは、最早一つだけだ。
「・・・分かったわ。ルーブ山に、行ってみましょう」
「ふふ、貴女ならば、そう言ってくれると思っていましたよ」
まるで初めからその答えを知っていたかの様に微笑む詩人に対して、その思惑通りにことが運んでいることを思うと非常に腹立たしい気持ちが沸沸とカタリナの内面に沸き起こる。しかしこれを鍛え上げた強靭な理性でどうにか押さえ込みつつ、カタリナは立ち上がった。
そうと決まれば、ほんの一時たりとも時間を無駄にしている余裕など、ないのだ。
その日のうちに改めてグゥエインとの対話を図るための準備を行いバンガードを発ったカタリナは、バンガードから上陸したルーブ地方側の最寄りの宿場町から馬を駆り、真っ直ぐルーブ山へと向かった。
今回彼女に同行するのは、フェアリーのみだ。
フェアリーに同行を願ったのは、竜たるグゥエインとの対話に人語以外が必要となる可能性を考慮し、その場合の通訳を頼むためである。
そして逆にフェアリー以外に同行者を連れてこなかったのは、グゥエインに対して此方は争う意志はない、ということを伝えるためだ。大人数で押し掛けても、無駄に対象の警戒心を煽るだけだろうというのが、カタリナの考えであった。
また抑もトーマスに関しては、どうやらカタリナにロアーヌのことを伝えることが本来の目的というわけではなく、元々はガーター半島最大の都市国家であるウィルミントンに向かう予定だったようだ。そこで、ウィルミントンを本拠地とするフルブライト二十三世に、何らかの急用で呼ばれているらしい。
今回は偶々それと同じタイミングでロアーヌの危機をピドナで知り得、急遽ウィルミントンに向かう前に、こうしてバンガードの帰還を待ってくれていたのだという。本当に彼には、感謝しかない。
そして如何やらミューズとシャールにも同じくフルブライトからの熱烈な招待があったらしく、トーマスと三人でこのあとウィルミントンに向かう予定だ。
合成術を放ったウンディーネはまだ両腕の状態が芳しくなく、治療が継続して必要な状況で迂闊に動けないので、ボルカノもそれに付き添っている。
ブラックは見かけに寄らず律儀にも今回の恩を返すために暫くは付き合うと申し出てくれたが、それならば、とハリードと共にミューズの護衛についてもらうことにした。トーマスが言うには、今後更にミューズの身辺警護は強化をしていかなくてはならないから、どの事だ。
「こうしてカタリナさんと二人で旅をするのも、なんだか久しぶりな気がします」
馬上でカタリナの手前にちょこんと腰掛けながら、フェアリーはそう言ってニコニコと微笑んだ。馬上でそんなに喋ったら舌を噛むわよ、と言おうかと思ったが、そう言えばフェアリーは常に多少浮いているので、馬の振動は関係ないのであった。カタリナはそのように思い返し、そういえばそうね、と短く言って微笑み返す。
フェアリーとはグレートアーチに向かう船上で出会ったので、それももう既に四ヶ月近くも前の話だ。
あの時の密林の大冒険も、思い返せばとんでもない経験だったな、とカタリナが思い返していると、フェアリーはカタリナを見上げるようにしながら口を開いた。
「今度は、竜との対面ですね。こんな時に不謹慎ですが、私はまた新しい世界が垣間見える様で、少し楽しみです」
一人和やかにそう呟いたフェアリーは、改めて遠く北方に見えるルーブ山へと視線を向けた。カタリナもそれに合わせて、遠くの峰を視界に映す。
二人は、ここから五日ほどでルーブ山へと到達する予定だ。
最終更新:2020年03月23日 18:13