西方世界の地図上で最も西にある、各大陸に囲まれた内海の一つである静海と外洋である西太洋に挟まれて南北に延びるガーター半島。この半島の丁度中央あたりの静海沿岸に、半島最大の都市国家である自由都市ウィルミントンがある。
この街の歴史は非常に古く、実に世界が六百年前の魔王による支配下にあった時分から既に、歴史書にその名が記されている。
都市国家としての歴史では西方世界最古とされる、現在のツヴァイク領にあるポドールイに次ぐ歴史を誇る都市であり、この街の繁栄は街の代名詞ともいえる存在である世界一の大商会、フルブライト商会の成長と共に歩まれてきた。
魔王亡き後に四魔貴族が世界を支配した暗黒時代にあっても人々の導き手として数百年に渡り世界経済を支え続けたその偉業を称えられ、メッサーナ王国の手厚い庇護の元で文字通り世界最大の商会として経済界に君臨してきたフルブライト商会を有するこの街は、今もまたメッサーナ首都ピドナに勝るとも劣らない世界経済の中心地として、変わらず存在感を示している。
「・・・あぁ、来てくれたか、トーマス君」
その歴史あるウィルミントンの北部区画の中でも一際大きな建造物である、フルブライト商会の歴史ある本館。その執務室へと通されたトーマスらは、いつになく神妙な様子のフルブライト二十三世に迎えられ、お辞儀をした。
数ヶ月ぶりに会ったフルブライト二十三世は、連日の激務のせいなのか表情にどこか疲れがにじみ出ている様にも見える。
「本当はもっと早く来る予定でしたが、諸事情により遅れました。申し訳ございません」
「いや、その辺りの事情は私も聞き及んでいるよ・・・気にしないでくれ。寧ろ、君の祖国ロアーヌが大変な時にこうして態々世界地図の反対側まで呼び立ててしまって、すまないね」
フルブライト二十三世の言葉にトーマスが恐縮しながら返すと、フルブライト二十三世は自分の傍に佇む大型犬を撫でると、次にトーマスの背後に控えていた人物へと視線を移した。
「そして、ようこそおいでくださいました、ミューズ様、シャール殿。心より歓迎いたします」
片手を胸の前に添えながらフルブライト二十三世がそう言ってお辞儀をするのに合わせ、トーマスの背後にいた二人も礼を返す。
二人はバンガードにて無事に再会したトーマスからの要請を受け、ルーブ山へと発つカタリナらを現地で見送ったと同時に街を発ち、このウィルミントンへと赴いていた。
「本来ならば、先ずはこのウィルミントンを楽しんで頂くべく名所のご案内をしたいところですが、どうにもお互い差し迫った事情を抱えてしまっております。故にご来訪直後に大変失礼であるとは存じますが、早速こちらのテーブルにてお話を始めさせていただければと思います」
そう言ってフルブライト二十三世が彼の背面にある広々としたソファへと促す仕草をすると、トーマスら三人は誘われるままにそこに腰掛けた。
外に待機していた執事に周辺の人払いを命じて自ら執務室の扉を閉めたフルブライト二十三世は、トーマスらの対面に腰掛けると、テーブル上にあった果実水の瓶から人数分のグラスへとそれを注ぎ、そして神妙な面持ちを崩さぬままに手を膝の上で組んだ。
「今回お三方を態々ここにお呼び立てさせて頂いたのは、他でもない、この世界経済界に於ける未曾有の危機の存在と、その現状をお伝えするためです」
「未曾有の危機・・・ですか」
その言葉に、トーマスが鸚鵡返しで答える。
それに対しゆっくりと頷いたフルブライト二十三世は、大変重苦しい様子で口を開いた。
「そう、未曾有の危機だ。現在、世界経済市場では、突如として現れた謎の商会同盟によって大いなる混乱が齎されようとしている」
フルブライト二十三世が続けて語ったのは、次の様な内容だった。
フルブライト二十三世が独自に得た情報によれば、なんと世界中に散らばる商人の一部にアビスの魔貴族と裏で繋がりを持ち、その影響力を武器に交易の独占を企む者が現れた、との事だった。
その商人らは「アビスリーグ」という同盟を秘密裏に組織し、既にその影響は各地の交易に影響を及ぼし始めているのだという。
「アビスリーグ・・・。直近の決算情報でも、そんな禍々しい名の同盟があったとは当社では認識していませんでした」
トーマスが全くの初耳であるという表情でそう言うと、フルブライト二十三世は然りとばかりに浅く頷いて返した。
「ああ。これに関しては現在、私も各地で秘密裏に調査を進めているのだが・・・残念ながら何処の企業がこのアビスリーグに加盟しているのかは、明確な証拠はないという状況なのだ。だが・・・証拠こそないものの、ある程度の目星は付いている」
そう言ってフルブライト二十三世はソファから立ち上がり、部屋の窓際近くにあった彼の執務机と思われる非常に立派な作りのデスクの鍵付き引き出しを開け、そこから数枚の紙の束を取って戻ってきた。
「ここ数ヶ月の、各地の取引帳票の一部だ。ここに纏めている企業の売上高と、それに対する経常利益にどうにも違和感を感じてね。一見すると輸送や護衛コストと照らし合わせたら通年通りの順当な数値なのだが、一方で輸送ルートにあたる現地のキャラバンや武装商隊の売上高は、横這いどころか下がってすらいる。これは捉え方によっては、資金を偽装計上して外部に流している様にも見えるのだよ。以前に御社のタ・・・キャンディ嬢が指摘していた、ドフォーレの資金の流れにも通ずるものがあるように思う。かなり巧妙に隠蔽工作が施されているようなので、これを突き止めるのも相当難儀したがね・・・」
差し出された紙面を受け取ったトーマスは、隣に並んで座っているミューズシャールと共に視線を落とす。そしてその中に記載されていた数字の羅列と共に企業の名を目の当たりにしたトーマスは、彼にしては珍しく驚きを隠さない様子で目を見開いた。
「・・・な、アルフォンソ海運・・・!?」
彼の目に先ず飛び込んできたのは、メッサーナ王国首都ピドナに本社を置く、紛う事なき世界最大の海運企業として名高い、アルフォンソ海運の名だった。
実に世界の海運事業の六割に関わるとすら言われる最大手企業の一角で、総資産ランキングは常に十位以内に位置している。
その他にも幾つか決算ランキング上位数十社に名を連ねる様な企業群がその調書には散見され、トーマスは思わず固唾を飲む。
「・・・これは、商業に疎い私でさえも見知った企業があるな」
「ええ・・・。フルブライト二十三世様、この調書は、失礼ですが真実なのでしょうか・・・?」
トーマスの隣からその調書を覗き込んでいたシャールとミューズが思わず尋ねると、フルブライト二十三世は、これにも浅く頷く。
「先に言った通り、まだ明確な証拠は有りませんが、かなり信憑性は高いと、私は睨んでいます」
「・・・もしこれが真実ならば、確かにこれは今までにない規模での、未曾有の危機です」
一通り目を通した調書の束をテーブルへと置いたトーマスは、フルブライト二十三世と同様に神妙な面持ちで彼に相対した。
するとフルブライト二十三世はテーブルに置かれた調書に視線を落とし、どうしたことか彼にしては珍しく、非常に歯切れの悪い様子で殊更に小さく呟く様に、言葉を続ける。
「・・・そして、こんな事を君に言うのは全くの恥でしかない事だが・・・しかし言わせてくれ。このアビスリーグの魔手は、このフルブライト商会内部にも、既に及んでいる可能性がある」
それは、余りに衝撃的な告白だった。
一体その言葉がどのような状態を示唆しているのかはこの時点では分からなかったが、しかしフルブライト商会は文字通り世界一の企業だ。そのフルブライト商会がアビスに侵食されると言うことは、正に、世界経済の真なる終焉を意味するといっていい。
そしてここに至りトーマスは、何故自分だけでは無くミューズの同席もフルブライト二十三世が希望してきたのかということに、大凡の確信を得た。
シャールとミューズが事態のあまりの深刻さに言葉を失い閉口していると、トーマスは座ったままの状態で不意に天を仰ぐ。これは、彼が何かの決断をする時の癖だ。
「・・・貴方程の方がこの様なところで冗談を言うとは、流石に思いません。そのお言葉で、この事態が私の想像以上に恐ろしく深刻であると言うことが、十二分に理解出来ました」
フルブライト二十三世のとても沈痛な面持ちは、彼の言いたい事、思う所を、その言葉以上に表している様だ。
トーマスの予測が当たっているのだとすれば、今のフルブライト二十三世の想いとは、どれ程に複雑な事であろうか。
其れを察したトーマスは、次に視線を窓の外に向け、窓から見下ろす事のできるウィルミントンの街並みを眺めた。
この自由都市ウィルミントンはピドナほどまでに大きな街ではないが、隅々まで非常に整備の行き届いた、見目麗しく、とても豊かな街だ。
かの聖王が四魔貴族打倒の旗を掲げる直前に長期の滞在をしたことでも知られるこの街は、フルブライト二十三世にとってもかけがえの無い大切な場所なのであろうと言うことが、この部屋からの一望で察することができる。
彼はフルブライトという歴史と己の誇りを捨ててでも、この街の、そして世界経済の救済を強く望んでいるのだ。
トーマスは、視線を戻した。
「・・・では現時点を以って、我がカタリナカンパニーはフルブライト商会との同盟を破棄し、世界経済の救済を成すための覇道を歩みましょう」
突然のトーマスの言葉に一体何を言い出すのかと、隣のミューズとシャールは全く驚いた様子で彼を見つめるが、しかし彼の正面にいるフルブライト二十三世だけは、何処か物悲しげな微笑みを浮かべながらも、とても満足げに深く頷いた。
「あぁ、君ならば、そう言ってくれると信じていたよ・・・。有難う、トーマス君。身勝手な願いだが、今は君に、世界経済の行く末を託したい。君ならば、必ず成し遂げられるだろう」
彼は、こうなる事を望んでいた。それがトーマスには痛いほど分かったのだ。
彼がミューズの同席を希望した理由は、単純だ。彼は、彼女にもこの事態の深刻さを理解してもらい、そして彼女がこの事態に対して立ち上がる事・・・即ち、クラウディウス商会の再興を望んでいるのだ。
先のドフォーレの一件以降、経済界隈では今現在もクラウディウス商会の復活が実しやかに囁かれている。
まるで英雄譚の如くに全世界に瞬く間に報じられたミューズとカタリナカンパニーによるドフォーレ商会成敗劇は、経済界は愚か、それとは関係なく単に今の世を嘆く多くの人々にも歓迎され、称賛された。今やミューズは、経済や政権に不満を抱く一部の界隈では救世の英雄視すらされている。
そんなミューズが率い、嘗て世界三大商会の一角とも言われたクラウディウス商会が再び立ち上がれば、其処には数多くの企業や人々が賛同を希望する事だろう。
だが、そこにもしアビスの魔手が入り込めば、それは瞬く間に世界を破滅へと陥れる強力な劇薬にもなりかねない。
だからこそ、これ以降の道でカタリナカンパニーとフルブライト商会は、共に歩む事は出来ないのだ。
しかしながら、トーマスにはどうしても一つ、引っ掛かる事があった。
「貴方は・・・フルブライト二十三世様は、如何なさるおつもりなのですか」
彼の希望は、わかった。だが彼自身はこの事実をどの様に受け止め、これからどのように相対する気なのか。それが気になったのだ。
フルブライト二十三世はそんなトーマスの問いに、数秒の間をおいてから応えた。
「私はこの商会の代表だ。この立場を用い、内外の凡ゆる情報を集めて内部から状況の改善に努めるつもりだよ」
「しかしそれでは・・・貴方の命に危険が及びます・・・!」
アビスの魔手が伸びているのだとすれば、その可能性は大いにあるという事をトーマスは知っていた。
事実、アビスの魔手が伸びていたドフォーレは会長であるモンテロがとうの昔に殺害されていたことも後の捜査で判明している。それにロアーヌで起こったゴドウィンの変でも、哀れなる男爵ゴドウィンは、アビスの妖魔に唆された末に命を落としているのだ。
アビスに関われば、それは即ち己の生命の危機に関わる事なのだと、彼はよく理解していた。
トーマスのその指摘に、フルブライト二十三世はふっと一息つくと、漸く今日初めて彼特有の不敵な笑みを取り戻し、トーマスに視線を返した。
「なぁに、私は偉大なる祖先、かの聖王に助力したフルブライト十二世やチャールズ=フルブライトの血統を継ぐ、誇り高きフルブライト商会の次期会長だ。己の使命を全うするまで、この命を失うつもりなど微塵もないよ」
その言葉や表情には、確かに微塵も自分の誇りを疑わない自信が満ち溢れていた。
それはとても頼もしく見える反面で、しかし同時に危うくも感じる。
アビスの妖魔というものがどれほど簡単に命を刈り取っていくのかという事を、トーマスはフルブライト二十三世以上によく知っているからだ。
しかし今ここでそれを伝えたところで、彼は真に理解はしないだろう。それに、ここでやり残したことも多い状態では、例え身の危険をトーマスと同等に感じていたとしても、彼の持つ誇り故に、己の成すべき事を辞めはしないだろう。
だから、トーマスは今はただ、深くゆっくりと頷いた。
「・・・そのお言葉を聞いて、安心いたしました。ですが、万が一の際には、どうか必ず御命の優先を。身の危険を感じたら、迷わずピドナにお越し下さい。今貴方を失うことは、其れこそが世界経済の真なる終焉を意味します」
「ああ、その時は恥を顧みずお世話になろう・・・。では、健闘を祈る」
そう言って差し出されたフルブライト二十三世の右手を強く握り返したトーマスは、託された調書を懐にしまってミューズらと共に彼の執務室を後にした。
「これから、どうするのだ?」
ウィルミントン南部にあるこの街で最も大きな宿泊施設であるホテルバイロンの最上階の一室にて、同行者であるハリード、ブラックと合流した三人は、今後の動向を決めるために一同が集まっていた。
ブラックとハリードが其々窓際と部屋の戸を警戒するように立ち位置を取り、そして部屋の中央にある客室用ソファにミューズの隣に腰掛けたシャールからの開口一番の問いに、対するトーマスは軽く腕を組みながら、軽く思案する仕草を見せる。
「・・・先ずは、ピドナでの記者会見を考えています」
「記者会見・・・?」
聴き慣れぬ単語にシャールが疑問符を浮かべるが、その言葉の真意を彼の隣でいち早く察したミューズが、トーマスの代わりに口を開く。
「クラウディウス商会の復活を・・・そこで世間に、公表するのですね」
ミューズの言葉に、しかしトーマスは直ぐ様頷くでもなく、真っ直ぐ彼女を見つめ返した。
「・・・それは、あくまで二つある選択肢の内の一つです。もう一つの選択肢は、先ほどフルブライト二十三世様に言った通りにカタリナカンパニーがフルブライト商会との同盟を切り、覇道を歩むことと、それに伴う今後の方針の発表を行うのみ。このルートもあります」
そう、ここが経済界の・・・いや、今後の世界そのものの行く末をすら左右する程の、とても大きな分かれ道なのだとトーマスは考えていた。
ここで何方の選択をするのかで、世界中の多くの人々の運命を左右する事になるかもしれない。
故に、この記者会見をするにあたっては何よりも、この選択権を持つミューズの意向を確りと確認しなければならない。
トーマスはミューズの真正面に向き直り、口を開いた。
「ミューズ様。仮にクラウディウス商会の復興を記者会見で発表したとしたら、貴女はいよいよ、世界の表舞台にクラウディウス家の後継として大々的に復帰することになってしまいます。そうなれば当然ルートヴィッヒ近衛軍団長は黙ってはいないでしょうし、それ以外にも貴女を貶めるか、又は利用しようとする様々な方面からの接触が、引っ切り無しに起こるでしょう。更には、今以上に身の危険につながることも起こる可能性は、十二分に有り得ます。それらを含め、メッサーナ王国のこの十五年続く内乱は、いよいよ終結へと誘われ始めるでしょう」
なにも、トーマスはミューズを怖がらせたいわけでもないし、変に奮い立たせたいわけでもない。
何しろ、彼が言っていることは何の他意もない、単なる事実なのだ。
それこそ現在ですらドフォーレの一件からの影響を鑑みて用心を重ね、こうして隠密行動をしている。
それが世間に名だたる大商会を再び興すとなれば、当然世間に顔を出す機会は増える。そうなれば、比例して身の危険も増えるのは紛れもない事実なのである。
トーマスは、そこを隠そうともせずにはっきりと言い切った。
彼は、これでミューズが断るならばそれでもいいと、寧ろ、その方が彼女のためにはいいのだとすら思っている。
ドフォーレの一件は、世間の支持を一時的に受けつつメッサーナの首脳陣を抑えながら行うことのできた、最初で最後の報いの一矢だった。
あれだけならば、幾らでもこの後に再び平穏な暮らしに戻る算段は立てることができる。あれでメッサーナの主権を握る者達に一泡吹かせたことを良しとして、それで身を引くことは十分に可能なのだ。
トーマスは抑も、それを確りと示唆した上でミューズにあの場を用意していた。
だから何方に誘導するでもなく、単純に彼女自身に其々の選択肢の持つ意味を理解してもらい、その上で考え、決めて欲しいと思うのだ。
そんなトーマスの思惑を理解していたミューズは、膝に置いていた手を強く握りしめると、毅然とした表情でトーマスを見返した。
「私は、もう守られるだけの存在ではありません。お父様の遺志を継ぎ、クラウディウスの誇りに賭けて、己の役目を全うする覚悟はできています」
そのミューズの言葉に、隣に座るシャールは心中複雑な表情をしながら彼女を見つめる。
だがミューズはそんな彼の内心を知ってか知らずか、そっと彼の手に自分の手を重ねる。そしてシャールの左手の暖かさをその掌に感じながら、優しく微笑んだ。
「シャール。貴方も力を貸して頂戴。私は今も相変わらず、一人ではまだ何も為せない唯の女です。だから、貴方の守護が必要です」
「・・・御意に」
シャールの、彼らしい短い返答に満足げに頷きつつ、ミューズはトーマスに向き直った。
「トーマス様。貴方に、この命を委ねます。どうぞ御心の赴くままに、お使いください」
「・・・分かりました。ベントの名にかけて、必ずやミューズ様の願いに応えましょう」
ミューズの覚悟に正面から向き合う様に、彼女の前に跪いてそう応えたトーマスは、居住まいを正してから今後のスケジュールに関しての説明に移った。
「先ず記者会見ですが、明日にはピドナに向け出発し、本社に戻ったら翌日にでもゲリラ的に、即行います」
「随分と性急なのだな。事前に、今回のアビスリーグとやらについてはこちらでも調査をしなくて良いのか?」
シャールが慎重を期すべきではと疑問の声を上げるが、それにはトーマスは小さくかぶりを振った。
「フルブライト二十三世様の手腕を以ってしても現時点では明確な証拠が掴めていない以上、我々が改めて調査を重ねても、この調書以上の情報は出てこないだろうと踏んでいます。逆にクラウディウス商会の再興とカタリナカンパニーとの同盟を発表すれば、それに端を発し様々に表舞台や水面化にて動きがある事でしょう。その中で、確信に迫る情報を此方から炙り出します。それに・・・我々はドフォーレの一件で、近衛軍団に目をつけられていますからね。行動に下手に猶予を持たせては、彼らに介入されて動きを制限される恐れがありますから」
「成る程・・・確かにその通りだな」
シャールが頷くのを見ながら、トーマスは続けた。
「なので此れを最も効果的にするため我々が記者会見後まず一番に行う事は、現在魔龍公ビューネイ軍と戦火を交えているロアーヌ戦線への、経済的支援です」
「・・・成る程、アビスに仇為す行動であれば、アビスリーグも初動で静観はしないだろう、という事ですね」
ミューズが察し良くトーマスの言葉に応えると、彼は正にその通りと言いながら二人との間に小さな机を寄せ、紙に要点をまとめる様に書き連ねていった。
ロアーヌへの経済的支援の狙いは、次の様になる。
先ずは、ミューズの指摘する通り、アビスリーグの動きを早期に暴くための誘発剤としての役割だ。
アビスリーグの目的は、当然ながら世界経済の独占などではないだろう。ドフォーレの例を見ても分かる通り、最終的にリーグとしての経済活動の行き着く先は、人類を滅ぼすための行動に直結するはずだ。
このためのプロセスとして、一体何が何処でどう動いているのか。これを確りと見極めなければ、此方から迂闊に攻めることができない。なので、敵対する行動を敢えて大々的に発表することで、彼方からの何かしらの接触を引き起こすのが狙いというわけである。
そしてもう一つは、これを機にクラウディウス家の立ち位置を世界的に正義の象徴として確立させ、世論の支持を一気に集める事だ。
対四魔貴族の戦とは、全人類にとって本来最優先にあたる一大有事。しかし今まさにロアーヌがアビスの軍勢と交戦しているところに、未だ各国からの援軍はないという。
つまりは一様に皆、次に自分たちが狙われ攻められるのを恐れているのだ。
何しろロアーヌは、魔炎長アウナスの潜む火術要塞を攻め落とした。そうして四魔貴族に相対したからこそ、今、彼らは攻められている。世間には、その様に映ってしまっているのである。
「このままでは、日和見のまま各国は動かないでしょう。戦線も膠着しており、各国が不安視した通りに先行き不透明。状況が変わらなければ、今後も参戦の意思を示す国家は殆ど無いはずです。だがそこに我々がミューズ様の名の下に支援を宣言すれば、少なくとも世論の大きな賛同は得られるはずです。そして無事にカタリナ様が魔龍公ビューネイを討ってくだされば、必ずやロアーヌ軍は勝利します。これを以って、一気に我々が世論を席巻します」
シャールは、そのトーマスの言葉に固唾を飲んだ。
一体このトーマスという男は、どこまで大局を見ているというのか。
まだ歳若く、一般的なこの年頃の男であれば、目の前の事に我武者羅な時分の筈。それがこのトーマスという男は、まるで世界を知り尽くした翁の様に、物事を見通さんとしている。その知見が果たして、八つの光なる聖王三傑パウルスの予言に出てきた存在であるが故なのか、彼には分からない。
だが間違いなく、彼の言葉には力があり、展望があり、自分たちの気持ちを奮い立たせる。
シャールもまた、ミューズと共にこの若き青年に己の命を預けてみようと思い至りながら彼の話を聞いていた。
「・・・そうすると、マジで早めに動かないと不味いんじゃないか?」
トーマスの話に続いたのは、扉の外の警戒をしながら話を聞いていたハリードだった。
部屋の中の皆が彼に視線を向けると、ハリードは腕を組んで彼らに向かい合うように体勢を変える。
「カタリナがバンガードからルーブに向かったのは、もう五日も前だ。順当に行けばそろそろループ山脈の麓に到達している頃合だろう。ルーブは標高がある山だから高山病対策で体を慣らしながらいくだろうが、それでもあと五日もすればグゥエインの元に到達するだろうな。そこからの説得次第では、すぐに動くことも考えられる。最短でことが運んだことを考えると、此方のスケジュール的には割とギリギリなタイミングだぞ」
「はい、ですので、明日の朝一の便でピドナへ戻り、到着の翌日には記者会見を行うつもりです」
ハリードの指摘に浅く頷き返しながらトーマスが言うと、ハリードは組んでいた腕を解いて指を一本立てながら更に続ける。
「もう一つ問題があるな。スケジュールはそれで滑り込みだとしても、あとは記者会見の規模だ。各国から記者や来賓を集めるといっても、通常ならピドナの立地でも二週間程は要するだろう。即日の会見では、記者もせいぜい現地のメッサーナジャーナルくらいしか呼べない。それではピドナの外に即座に情報が伝わり難く、情報の流布にかなりの時間がかかってしまう筈だ。それまでにカタリナがカタをつける可能性があるんじゃないか?」
ハリードの指摘は尤もなことだった。
この記者会見の要は、言ってしまえばロアーヌが劣勢のうちに、世界に先駆けて唯一の加勢を宣言する、ということだ。
だがその宣言を世界が知る前にロアーヌが四魔貴族ビューネイに勝利すれば、世界情勢は其処で全く掌を返したようにロアーヌの奮闘を賛美し、彼らへの復興支援を名乗り出る国が出てくるだろう。そこに埋もれる形で情報が流布されても、トーマスの期待する効果は全く得られないことは明白だ。
ハリードのその指摘にミューズとシャールが唸るが、しかしトーマスはそれにも余裕の表情を崩さない。
「・・・けっ、どうにも気に入らねえな、そこの坊ちゃんはよ。腹の奥に隠していることを晒さねえ」
窓際を警戒していたはずのブラックが、唐突にそう言った。
彼はいつの間にか普段通りに煙草に火をつけていたが、風を操り煙を外に逃していたので、それには誰も気が付かなかったようだ。
「・・・出し惜しみをしていたつもりは有りませんでしたが、不興を買ってしまいましたね。確かに私には、そこに対しても目算があります」
ブラックの指摘に眼鏡の位置を直しながら応えたトーマスは、懐から一枚の封筒を取り出した。
「これは、招待状です。中身はピドナ宮殿にてここ数年行われている、近衛軍団主催の『死触に打ち勝つ集い』のものです。これにより各国の来賓と記者陣がピドナに集結します。これの期日は、丁度一週間後にあたります」
「・・・なるほど、もうそんな時期だったな。確かに、ここ数年はそんな下らん集まりを宮殿でしているという話は、私も聞いている」
トーマスの持つ封筒に視線を向けながら、シャールが思い出したように呟く。
もう間も無く世界が一年の終わりを迎えんというこのころ、今から十六年前、三度目の死触は起こった。年の瀬に訪れた未曾有の災厄は未だ世界の人々の記憶に鮮明に残っており、今も人々を苦しめ続けている。
そんな折、五年前に現在の地位に就いたルートヴィッヒ近衛軍団長が就任翌年から突如として始めたのが、この「死触に打ち勝つ集い」だ。世界の中心都市であるピドナにて各国来賓を招いて行われるこの祭典は実情を言ってしまえば、その名とは全くかけ離れた内容で、つまりは近衛軍団の権威を各国と大衆に示すことに主軸を置いた催しである。
だが急激な情勢変動があったピドナの状況を見るために各国来賓は初年度から集い、それをルートヴィッヒは実に手厚くもてなした。
こうなると、そもそもの大義名分が死蝕による被害を各国で相互に補助し、今後懸念されるアビスの魔物を始めとした様々な有事に対応するための話し合いの場として設けられているということも手伝い、ルートヴィッヒの周到な歓迎ぶりに毎年の各国参列は盛況だった。
「この祭典は一週間ほど行われますが、二日ほどの会議の後は丸々宴会です。我々がピドナに帰る頃には会議も終わり宴席の期間ですから、各国記者を会見に集めることは容易だと考えられます。これなら、先行して世界への話題の流布には事欠かないでしょう」
「あの、一つよろしいですか?」
トーマスの言葉が一区切りついたところで、ミューズが遠慮がちに挙手をする。それにトーマスがどうぞと発言を促すと、ミューズは小さく眉間に皺を寄せるような表情を作りながら続けた。
「記者会見そのものへの、近衛軍団の介入という可能性は考えられませんか?」
ミューズが言いたいのは、その記者会見自体を近衛軍団が規制しに掛かってくる可能性のことだ。
何しろカタリナカンパニーは、ドフォーレ商会の一件で完全に近衛軍団とは袂を分かったと言っていい。彼らが手を出せない状況を作り出した上で、ルートヴィッヒが最も警戒していると言っても過言ではないクラウディウス家のミューズを表舞台に担ぎ出したことは、近衛軍団からすれば正に煮え湯を飲まされる思いだったことだろう。
そのカタリナカンパニーが彼らのお膝元で会見を行うともなれば、何かしらの理由をつけて会見そのものを阻止しに掛かってくる可能性があるのではないか、という指摘だ。
流石に聡明な彼女の指摘にトーマスは、顎に手を当てて考える。
確かにミューズの指摘は最もなことで、今や国内で反勢力を見事に防いでいる彼らならば、危険性を察知すれば多少強引な手を使ってでもカンパニーの会見を潰しにかかる可能性は十分に考えられた。
「確かに、近衛軍団に対しての何らかの対策は、せねばならないとは考えていました。個人的には直近はこの祭典があったので、我々に対する積極的な動きがあるならば年明けあたりかと考えていましたが・・・。ピドナホテルの会場使用に関しても近衛軍団への報告義務はありましょうから、十分それは考えられますね・・・」
言葉を紡ぎながらトーマスが思考を巡らせている、その時だった。
「・・・おい」
トーマスが思案する仕草を見せた所で、窓際にいたブラックが部屋の全員に伝える様に声を上げた。
それにトーマスらが振り向くと、ブラックは火をもみ消した煙草を窓の外に投げ捨てながら、腰のヴァイキングアクスへと手を伸ばした。
「・・・このホテル、囲まれたぞ」
「・・・なんだって・・・?」
目を見開いたトーマスが窓際に駆け寄り外の様子を伺うと、なんとこのホテルバイロンは既に武装した軍団に取り囲まれており、地上は騒然とした様相だった。
遠目の効くブラックが軍団の鎧や側に目を凝らすと、その軍紋は老若男女を問わず世界に知らぬものがないほど、実に有名なものだ。
「・・・近衛軍団だ」
「・・・なんてことだ。まさか、他の対処を全て後回しにして、此方の捕縛に全力で動くとは・・・」
ここにきて全く予想外の展開にトーマスが苦虫を噛み潰したような表情をしながらこの場の対策を考えている所に、今度はハリードが既に抜刀しながら扉を睨みつけ、一歩離れた。
「此方に来るぞ。数は少なくとも六人以上。武装済みだ」
ハリードの言葉に、一気にその場の緊張感が高まる。
やがて部屋の中からも分かるほどの軍靴の音が幾重にも響き、その軍靴の重奏は部屋の前で止まった。
そして、場違いにも優雅な調子で、部屋がノックされる。
「・・・どうぞ」
ミューズを庇う様に各々が扉に向かって陣取りながら、トーマスがいつでも術を放てるように準備を行いつつ、覚悟を決めた様に声を上げる。
それに応える様に、扉がゆっくりと開かれた。
そしてまず最初に、奇襲を警戒する素振りもなく部屋の中に入ってきたのは、長い金髪を後ろで束ねた、精悍な顔つきの男だった。
特に周囲の軍団騎士とさして変わらぬ鎧を身に纏っているものの、しかしその男から発せられる圧は、明らかに周囲のそれとは一線を画している。
その男を見た瞬間、シャール、ミューズ、そしてハリードの表情が大きく歪んだ。
「・・・ルートヴィッヒ」
そして扉の一番近くにいたハリードが手にした抜身の曲刀を握り締めたまま、やっとのことで絞り出す様にその名を呼ぶ。
「・・・ハリード・・・。久しいな。噂はよく聞いていたが、息災な様で何よりだ」
ハリードの顔を最初に見たその男・・・ルートヴィッヒは、続けて部屋の中に入ろうとする他の兵を片手を上げて制しながら、自らだけが一歩だけ部屋の中に歩を進めた。
そして、トーマスとシャールの間から自分のことを真っ直ぐに見つめるミューズへ、合わせるように視線を向ける。
「・・・ミューズ=クラウディア=クラウディウス殿。宿泊先への突然の来訪の無礼、許してほしい。そして更に急な誘いで済まないが、これからピドナへと共に来てもらいたい。ここにいる者も、無論同行してくれて構わない。不必要に騒がないでいただければ、道中の自由は私の名において保障しよう」
最終更新:2020年06月30日 15:16