「・・・こんなものでいいですか?」
「ええ、ありがとう。すっきりしたわ」
世界でも指折りの標高を誇るルーブ山の麓にある実に簡素な宿場宿に、カタリナとフェアリーは登山の準備をするために立ち寄っていた。
ルーブ山には、こうした幾つかの小規模な宿場が複数の登山ルート上に点在しており、その殆どは様々な鉱山資源の宝庫であるルーブ山脈と商都ヤーマスとを行き来する鉱山作業員や、その作業員らを商売相手とする行商人達の憩いの場として機能している。
更に以前にはもっと大きな宿場町や農村もちらほらとあったようだが、ルーブ山に棲む悪竜グゥエインによる断続的な被害によって、そのような規模の人里はこの数十年で縮小の一途を辿っていた。
なので今となっては、最低限の機能を有する簡素な宿と鉱山作業員の作業用に設えられた何もない広場だけがあるのみの殺風景な場所が殆どだ。
翌朝には直ぐ出発する予定で一泊の宿を取っていたカタリナは、宿の裏手でフェアリーに散髪を頼んでいた。ロアーヌを旅立ってからこの一年ほどですっかり伸びてきていた髪を、旅立った時と同程度まで切り揃えるためだ。
「人間の美的感覚は私たち妖精にはあまり分かりませんが、カタリナさんの髪はとても美しいと思います。なんだか、勿体ない気がしますね」
自分の頭の後ろあたりを手で触りながらカット部分の具合を確かめて礼を言うカタリナに対し、フェアリーは率直にそんな感想を抱いて口にした。だが、カタリナはそれには少し困ったような顔をして微笑む。
「・・・長い髪は、確かに人間の間では女性を美しく彩るために用いられる慣習ね。髪は女の命、なんて言葉もあるほどよ」
「え、じゃあ今私、カタリナさんの命を切ったんですか・・・!? ひょっとしてLP減りました!?」
フェアリーのいうえるぴーというものがなんなのかはカタリナにはいまいち理解が及ばなかったが、兎に角そんなに心配するようなものではない、と優しく付け加えた。
彼女にとって長い髪とは言わば、「かつての自分」を表すものだ。つまりはロアーヌ貴族であり、モニカの侍女であり、そして不相応な幻想を抱く愚か者であった彼女の象徴のようなもの。そんな自分と、少なくとも心の内では確りと決別をする意味で、あの夜に髪を切り落としたのだ。そんな彼女からしてみれば、長い髪に一切の執着などないのである。
むしろ今となっては短い髪の方が動きやすさもあるし、当たり前だが戦闘には此方の方が適しているなと感じるほどなので、必要に迫られなければ今後も髪を伸ばすということはしないだろうな、とすら考えていた。
「そういえばカタリナさん」
髪を切るために彼女の首から下を覆っていた布を払いながら、フェアリーが問いかける。
「今更になって聞くのもあれだとは思うんですが、グゥエインという竜は、普通の竜とはどの様に異なるのですか?」
妖精族の中でも聖王に纏わる記憶は聖王記の内容を中心として継承されており、聖王が四魔貴族の一柱である魔龍公ビューネイを打ち倒すために巨龍ドーラと共闘をしたということは知られている。だが、基本的に人界との接触を絶ってきた妖精族では、この三百年の間に人間を苦しめてきた悪竜グゥエインという存在のことを、殆ど知らなかったのだ。
「うぅん、実は私もそれほど、グゥエインという竜について知っているわけではないのよね」
フェアリーの問いに何とか応えようと頭の中で考えを巡らせながら、自身も散髪の後片付けをしつつ思考を巡らせた。
カタリナの知るグゥエインという竜に関する情報は、それこそ世間で噂される悪評以上のものは殆どない。十数年に一度程度の頻度でルーブ周辺を中心として人里を荒らし周り、血肉を喰らい宝物を奪う存在。それだけだ。
大前提として竜種とは、人に仇為す存在としては異形の中にあって最も恐れられる種族である。
中でも一部の「巨龍種」と呼ばれる存在が非常に突出した存在感を放っており、その数は基本的に極少数でありながら、個体ごとの脅威は他の妖魔と比肩するべくもないほど強大なものである。
巨龍種とは巨人族にも全く引けを取らない体躯を持ちながら、その強靭な翼によって飛行能力を持つ。この時点で人類が対抗することそのものが馬鹿らしくなってくるほどの脅威ではるが、更には多くの巨龍種が体内に個体別の独自器官を持っている。主にそれは捕食行動の際に活用される器官だが、猛毒、電流、炎など、それらをブレス状にして口腔部から放射するという、およそ生物としては正に規格外の攻撃手段を持つ。
グゥエインという竜は、この巨龍種に分類される竜であるとされている。
ただこのグゥエインという竜に関してが殊更に特別視されている理由としては、他の巨龍種と比べても非常に独特な活動の記録による。
前述の通りグゥエインは人里を定期的に襲うが、実のところ他の巨龍種にはこのような行動は殆ど観測されていない。また、通常の捕食行動とは別に金銀宝飾物等を意図的に奪うことから、流石に人間にあるような金銭的な意図はないとしながらも、その物質の希少価値を理解する知能を持っているのではないか、と推察されている。
竜種の研究者によれば、その集めた財の量によって己の力の誇示を表しているのではないか、とも言われている。
このように、グゥエインという竜は他の巨龍種ともまた異なる存在として、人々に恐れられる存在なのだ。
そのようなことをフェアリーに話しながら、しかし今回改めて詩人からグゥエインとの対話を提案されたカタリナには、このグゥエインという存在に対して、驚くほど嫌悪感を抱いていなかった。
(・・・それはおそらく、聖王様の記憶が関係しているんでしょうね・・・)
当然カタリナもグゥエインという竜の存在は幼少の頃から聞き及んでいた。丁度、自身がロアーヌ騎士団候補生であった十年ほど前の時分にグゥエインの人里襲撃の報を聞いていたこともあり、それが悪しき存在である、ということも当然に認識はしている。
だが此度の詩人からの提案を受けた時に、彼女はグゥエインに対して嫌悪感や拒絶感を抱くことがなかった。何なら寧ろその逆ですらあり、その名を酷く懐かしく感じるような感覚すら覚えたのだ。
それも、ハリードが指摘したようにグゥエインが友人の子・・・つまり、巨龍ドーラの子であるとするのならば、違和感もない。
聖王の中ではグゥエインとは、あくまで友人の子であり、人間を脅かす悪竜ではないのだ。その記憶、感覚が指輪を通じて自分にも流れ込んでいるということならば、なんの不思議もない。
そしてその辺りの事実だけを切り取って考えるならば、グゥエインが天空にて相対するビューネイを討つために自分たちとの共闘という判断に至る可能性は、十分にあるだろう。今回の要請に一定の信憑性があると感じられるのは、そういった部分が大きい。
「・・・でも、今のグゥエインにとって人間とは、寧ろビューネイ以上に憎いのではないでしょうか・・・?」
カタリナの話を聞きながら、フェアリーがそう呟く。
カタリナも気になっているのは、正にそこなのであった。
聖王記によれば、聖王と共にビューネイを討った巨龍ドーラもまた、人里を襲う悪竜であったとされる。そして最終的には聖王の手によって、その命を終えているとされる。
こうなってくると、何しろグゥエインにとっては、人間とはつまり親殺しの仇敵だということであるはずだ。その上であっても、ドーラと同じように人間に協力をするなどという筋書きは、果たして本当に成立するのだろうか。
「自分の親を殺した相手との共闘・・・か。目的を達成する為の手段としてそれが最良であったとしても、私たち人間はどうしても感情で動く生き物だわ。直ぐに納得なんて、私ならば出来ないかもしれない。人と竜の精神構造を同一に考えることは出来ないのでしょうけれど、もしグゥエインが噂通りに知性を持つ竜であるのならば、どんな判断をするのかしらね・・・」
「そうですね・・・人と竜とは、当然ながら異なる思考を持つ生物だと思います。でもこればっかりは、話をしてみないと予測がつきませんね・・・。あり得ない話ですが、仮に私たち妖精族が大樹を焼き払ったアウナスの陣営と何らかの事情で手を組まなければならない・・・なんてことになったら、それは種族として絶対に考えられないと判断するはずです」
フェアリーの言葉に神妙な表情で返しながら、カタリナは北に聳える龍峰ルーブへと視線を投げかけた。
その峰は分厚い黒雲によって覆い隠されており、その様はまるでこれからの世界の行く末を示すかのように、カタリナには思われた。
静海、洋上。
ウィルミントンとピドナを結ぶ航路にて。
その厳重に武装された数隻の軍船が隊列を成して航海するその様は、まるでこれから大規模な海戦が始まるのではないかと思われるほどに雄々しく、そして荒々しく周囲の漁船からは映ったことだろう。
その列を成す軍船の中央、一際に立派な軍船のその広々とした船内の一室で、トーマス、ミューズ、シャール、ハリード、ブラックは多くの近衛騎士に囲まれる中、近衛軍団長ルートヴィッヒと対談の席についていた。
矢張りというべきかルートヴィッヒはトーマスの事も既に調べており、彼が名門メッサーナベント家の嫡子にして、現在経済界を引っ掻き回しているカタリナカンパニーの副社長を務めているということや、隣にいるミューズ等との繋がり、その経緯も、事細かく認識していた。
その上でルートヴィッヒがこの席で切り出した言葉に、トーマスは思わず耳を疑った。
「クラウディウス家と・・・講和を結びたい・・・!?」
「その通りだ。無論、私が実質的にクレメンス卿の仇であるという事実がある以上、御息女であるミューズ殿においては簡単には受け入れられるものではないだろうということは理解している。だが、その上での提案だ」
自分とテーブルを挟んで真正面に座するルートヴィッヒのその提案は、トーマスにとっては全く不可解なことであった。なにしろ、このような状況でそのような提案をされる謂れが、彼には全くわからなかったからだ。
彼の隣に座って表情を固くしているミューズとシャールを視線で確認し、そしてトーマスは改めてルートヴィッヒへと向き直った。
「・・・ルートヴィッヒ軍団長殿。お言葉ですが、この状況で講和という提案には、些か疑問が残ります。正直に申し上げて、今貴方は、この場で我々を海の藻屑とする事もできる。講和どころか、今こそ完全にクラウディウスという家名をこの世界から消し去る事ができるでしょう。これまで貴方がクラウディウス家やその他、貴方に反抗的だった諸侯に行ってきたことを思えば、その渦中での講和という提案にどれほどの信憑性があるのか、私には図りかねます」
ミューズらに気を遣う事もなく、トーマスは正直にその胸中を語った。この後に及んで、下手な腹の探り合いなどしている状況でもないのだ。
とはいえ、彼らがこの場にいる近衛騎士団の剣の錆になるということは、あり得ない。
仮にこの場にいる騎士全員が一斉にトーマスらに斬り掛かってきたとしても、正直この面子ならば負けることは有り得ない。それどころか、この中の誰か一人で相手の制圧すら可能だと思われる。なので、そのような心配しているわけではない。
抑も、此方からの武力行使という選択肢を取るならば、ここに来る前にウィルミントンのホテルで既に実行していた。
だが、そんなことをすれば自分たちはまんまと「メッサーナ王国への反逆者」という烙印を押され、全世界から指名手配されるのが落ちだ。それは今後の彼らの活動に取り返しのつかないほどの多大なる不利益を被ることになっただろう。
だから敢えて、大人しく連行されてきたのである。
だが今この場だけに限って言えば、さしものトーマスらとて、この船ごと周囲の軍船から大砲の集中砲火をされれば、それで一巻の終わりでもある。このような洋上で海に投げ出されれば、人の身では文字通り海の藻屑となることは免れない。
それをトーマスと同じく理解しているはずのルートヴィッヒもまた、歯に衣着せぬトーマスの物言いに正面から答えるように薄く頷いた。
「確かに我々には、そう言った選択肢も取ることは可能だ。だが、その選択肢は双方に無益という結論に私は至った。だから、講和という提案をしているのだ」
ぎりり、と強い歯軋りの音が聞こえる。それに気がついたトーマスが音のした方をみれば、そこには顔面が紅潮し激昂した様がありありとわかるシャールが、今にもルートヴィッヒに襲いかかりそうな様相だった。だが彼は己の膝を折れんばかりに握りしめながら自分を必死に律し、息を荒くしながらも、努めて冷静に口を開いた。
「ルートヴィッヒよ、俺は五年前のあの時、貴様に言ったはずだ。絶対に貴様の軍門になど降らん、と。貴様はその返答として、この俺の右腕の腱を切ったはずだ。それが今更、どの口でそのような戯言をいうのか!」
己が主君と右腕の力を失った悲しみを背負った戦士は、今にも相手を貫かんとするような闘気を纏っている。そのあまりの覇気に、周囲の騎士達は思わず直立姿勢を崩して慄く。だが、その様にも一切動じる事なく悠然とルートヴィッヒは答えた。
「シャールよ。私は、お前の騎士としてのその誇り高さを、私なりに理解しているつもりだ。だから、此度は我が軍門に降れ、などとは言っておらぬ。あくまで、互いが対等の立場での講和を望んでいるのだ」
ある意味では鉄面皮、とでもいうのだろうか。
そんなことを考えながら、トーマスはルートヴィッヒとシャールのやり取りの様子を細かく観察していた。
このルートヴィッヒという男は、見た目から推察できる年の頃は、恐らくハリード辺りとそう違わないだろう。
世界最大の国家の実質的な支配者としては、あまりに若い。そういう意味では間違いなく、ミカエルなどと同様に時代に愛され、成る可くして頭角を現した傑物の一人であろう。
ピドナの支配者となってからも継続した広報に余念がないこの男の顔は、宮殿主宰の催しの際の演説等でトーマスも何度か見かけている。
その様は実に饒舌で多彩な話術に長け、その整った顔立ちも表情豊かで、人心を掌握することに長けた為政者だというのが、当初のイメージだった。
だが今この場にて相対している彼の表情は、一体どうしたことだろう。
確かに表面的には以前から見かける通りに、表情豊かに振る舞っているかのように見える。
だがこの会談の間中、彼の表情の変化はなんというか、妙に無機質的なのだ。
だが、いつもの精彩を欠いているというよりは、元が実はそうであったのではないか、と感じる様な違和感なのである。
幾重にも移り変わる表情の一つ向こうには、一切変わることのない鉄面皮が存在している。今日の彼には、特に瞳にその様な印象があり、それで表面上の表情だけの変化に異様な不気味さを覚えてしまうのだ。
そしてもう一つトーマスが気になるのは、その声だ。
ルートヴィッヒのよく通る低めのテノールは耳に心地よく、人の心に語りかけるような響きを持っている。だがその声色は聞くものによっては何処か演技がかっていて、背後に狡猾さが透けて見える様にも感じられた。特にトーマスには最初からその様に感じられていたので、より強く印象に残っている。
だが今この場に於いては、その声色から其れ等の印象を見出すことは出来ない。
つまり彼の表情と声色から推察する限り、驚くべきことに彼は真にこの講和という話を推し進めようとしているようなのだ。
それであるならば、とトーマスは緊迫した空気の中の二人を取り成すようにして身を乗り出した。
「ルートヴィッヒ軍団長殿。双方の講和とは、具体的にどのような条項の上での締結を想定されているのですか?」
「まず、現在近衛軍が管理しているクラウディウス家の屋敷、及び旧クラウディウス家統轄領の返還をさせてもらいたい。第二に、故クレメンス卿の名誉回復を目的としたピドナ新市街での石碑の建築を行わせていただきたい。第三に、今後クラウディウス商会を再興させるという方向性で動かれるならば、その活動に対する近衛軍団としての継続的な支援を約束したい。そして最後に、クラウディウス家が宮廷中枢への復権を望むのならば、それも歓迎しよう」
それまでの彼にしては実に淡々と、ルートヴィッヒはそう語った。
その内容は、ミューズ、シャール、そしてカンパニーにとって、全く以て歓迎することしかない条項だ。正直に言えば、あまりに条件が良すぎて此方を馬鹿にしているのかと思いたくなるくらいの提案内容だといえる。これではまるで、戦争の実質敗戦国が提示するような条項とすら言っていい。
だがトーマスは、彼もまた対面するルートヴィッヒに倣って淡々と真顔のまま、当然のように問いかけた。
「では、我々に対してルートヴィッヒ軍団長殿が望むことは何でしょうか?」
「先の内容で友好条約を結ぶこと以上は、特段望んでいない。だが・・・強いていうならば、この講和と、そしてクラウディウス商会及びその大元であろうカタリナカンパニーへの公的支援という形で以て、一連の世間の軍団に対する反発が止むことを狙う、といったところだ。伝説の四魔貴族をも打倒した稀代の英雄に迎合しようという思考は、なにも特別なことではないということだ」
その言葉に、トーマスは軽く目を見張る。
何とこのルートヴィッヒという男は、どうやら既にカタリナらのフォルネウス討伐をすら、把握しているようだった。
カタリナ達が死闘の末に西太洋から帰還してから、まだ一週間程度だ。それこそ世界では、バンガードが伝説の通りに移動要塞となったことすら未だ知らない人々で溢れかえっているであろう。だというのにこの男は恐らく、バンガードが動いた時から既に情報を得、そして事細かに集めていたのだ。であれば、あの崖でバンガードの帰還を待っていた自分もまた、その一挙一動を完全に把握されていたのだろうという理解に至る。
だがそれらを踏まえても、この男が一体どのような腹積りであるのかは、相変わらずその表情からは読み取ることは叶わない。とは言え、当然このような場所でこれほどの男が、単なる冗談をいうわけでもないだろう。
トーマスは短時間の間に目紛しく活動する己の思考を一度止め、冷静になるべく周囲の仲間の様子を伺った。
ミューズとシャールは、矢張りというべきか怒りと当惑とが入り混じった様子だった。何しろ今のルートヴィッヒの言うことが全て叶うのならば、クラウディウスは五年前の状況を単純に取り戻すだけだということなのだ。
更には、クラウディウス商会の活動に制限をかけるどころか、全面支援を行うとすら言っている。
今の状態でクラウディウス商会を再興すれば、クラウディウス家が世論の支持を集めることは容易だ。その上でクラウディウス家が政への参加を行えるともなれば、世論の後押しを上手く用い様々な制度改革へと着手する事も将来的には可能だろう。
その人気取りを共に行いたいというのは分かる部分ではあるが、それでもこれまでルートヴィッヒが首都ピドナで推し進めてきた様々な政策からは全く以て反していくに等しい提案でしかないし、正にトーマスらが以前に思い描いた通りの方向に進めることが出来る提案であるのだ。
その出来すぎた内容に強烈な胡散臭さを感じるのは、ある意味で当然の感覚と言えるだろう。
一方で更に視線を動かせば、ハリードとブラックは、なんらこの手の話には興味がない態度であるように思われた。
案の定というべきなのか、ブラックは気ままに煙草を燻らせ、ルートヴィッヒの方を向いてもいない。その様を周囲の騎士が睨みつけている事も十中八九本人は分かっていながら、まるでそんな状況をすら面白おかしく楽しむかのように煙を吐き出すのみなのだ。
そしてハリードは、腕を組んで静かに目を閉じている。まるで眠っているのかと思われるほど微動だにしていないが、その姿勢や纏う空気に一切の隙がないことは、見るだけで分かる。彼はどうやらルートヴィッヒと知らぬ仲ではないような雰囲気であったが、それが今の彼の態度に関係しているのだろうか。
それらを見渡し終えたトーマスは、ルートヴィッヒに視線を戻した。
「・・・返答は、少々待っていただいても?」
「構わない。突如の話で、考えるところも多いだろう。ピドナに着くまでに決めてもらえればいい」
これもまた呆気ないほど簡単に、ルートヴィッヒはこの場での返事を求めなかった。
つまりこれは、彼の中ではこちらが考える時間を与えても何の問題もない、という認識であるということだ。
トーマスはそこまでを確認すると、分かりましたとだけ述べて、席を立つ仕草をした。それに合わせてハリードとブラックも立ち上がろうとしたが、しかしそこで一人、一切動かないものがいた。
ミューズだった。
彼女は、真っ直ぐにルートヴィッヒを見つめ、そしてこの場において初めて口を開いた。
「ルートヴィッヒ軍団長、一つ、質問をよろしいですか」
「・・・伺おう」
ルートヴィッヒもまた動く様子なく、姿勢を崩さずに彼女に応対した。そしてミューズは、短く質問を口にした。
「お父様を・・・クレメンス=クラウディウスを殺害指示したのは、貴方なのですか」
しんと、その場が静まり返る。
何も気にする事なく煙草を燻らせるブラック以外の面々が全て動きを止めたその空間で、ルートヴィッヒは深く息を吐き、そして浅く頷いた。
「直接の指示ではない。だが無論、深く関与はしているし、私が当時それを望んでいたのは事実だ。その真相も、他ならぬ貴女が望むならば語ろう」
ひんやりと、その場の空気が冷たくなるのが誰しもに感じられた。それは気温で感じるようなものではなく、正に怖気を感じるといったような、そんな冷たさだ。
それは、魂をすら凍りつかせるという月の精霊の息吹を行使することのできるミューズが、その身に宿す魔力を無意識に拡散させてしまった結果だった。
だが彼女もまた、激昂の内にありながらも己を律したシャールと同じく、すぐにその魔力の胎動を収めてみせた。
「今は、そのお言葉だけで十分です」
そういってミューズが立ち上がると、それに合わせてシャールも立ち上がった。そうして部屋の中にいる騎士らに見守られながら、トーマスら一行はその場から外に出て、当てがわれた船室へと案内されていった。
去りゆく彼らを、ルートヴィッヒは、矢張り表情の読めぬ鉄面皮で見送るのみだった。
『食い止める、だと?! 背後からも追手が迫る!お前ひとりでどうこうできる数ではない!』
辺り一体は、既に炎と怒号に支配されていた。
ゲッシア独自の伝統的な染料で染め上げられた衣服はあっという間に煤で汚れ、挙句には数度となく斬り結んだ返り血で醜悪な斑模様を形成していた。
歴史あるゲッシアの宮殿が無残にも崩れ去る様を横目に、瓦礫に塗れた道無き道を切り開き掻い潜るようにして、無我夢中で駆け抜ける。
そしてついには背後からも前方からも悍ましき邪教徒が押し寄せてくることを察知したハリードは、姫と共に隣を走っていたルートヴィッヒが自分の言葉に珍しく冷静さを欠いた様子で怒鳴りつけるのを、場違いにもどこか可笑しささえ覚えながら聞いていた。
或いは既に自分は、冷静な判断が出来ていないのかもしれない。頭のどこかでそう感じながらも、今の自分にできることはここでの足止めであり、姫を逃すにはこれしかないのだ、と己に言い聞かせ、怒るルートヴィッヒに向き直った。
『ルートヴィッヒ、頼みがある。姫を連れ、お前の祖国、メッサーナに逃げてくれ』
『ハリード!』
ハリードの言葉に、姫が悲痛な声を上げる。勘弁してほしい。そんな声で名前を呼ばれたら、今し方の決意が、いとも簡単に揺らいでしまいそうになる。
だが、それは絶対にできない。何より最優先するべきは、姫の命だ。
自分の覚悟を目で悟ったのか、ルートヴィッヒは苦虫を噛み潰したような表情で、苦悶の声を上げた。
『よもや、我らを逃すための時をかせぐと?』
『なりませぬ!共にハリードも・・・!』
ルートヴィッヒが決死の様子であるハリードに問いただすと同時に、姫が再度悲痛な声を上げる。だが、その声に応えてはならない。
決して、応えてはならない。
当てがわれた船室の椅子で船の揺れに身を任せ、浅い眠りに浸っていたハリードは、寝起きが最悪だと言いたげな表情で眉間にシワを寄せながら目を開いた。
そのままの表情で窓の外を見やると、傾き始めているようだが、それでもまだ陽は高い。時刻は先ほどの会談が終わってから、そう経っていない様子だった。
(・・・見たくもないものを久しぶりに見たな・・・)
既に微睡は去り、そして勿論、寝起きは最悪だ。このままの状態で無機質な狭い船室の中にいても、気が晴れることはないだろう。
そう判断したハリードは、フォルネウス戦で折れたものの代わりにバンガードで新たに用意した曲刀を手にして、気分転換に甲板へと出向くことにした。たかだか気分転換にも自らの得物を欠かせない性分は我ながらどうかと思うが、ある意味で此処は敵地のようなものだ。用心には越したことはないだろう。
そう自嘲気味に思いながら部屋を出ると、程なくして甲板へ向かう階段が通路の先にみえる。軍船内であるというのに一般船舶と比べて通路の広さに国力の強大さを垣間見て皮肉めいた笑みを浮かべながら、波風を求めて外へと登る。
甲板に出ると、表にいる船員も疎らで、感傷に浸るにはこれ以上ないほどの場所だった。
なんとはなしに甲板を歩いたハリードは、適当な船の縁に立ち尽くすと、遠く海の向こうに見える陸地へと視線を向けた。
船の進行方向は、東。となると船の右舷である南側に見えるあの大陸は、南方の密林あたりだろうか。となるとその更に東には、彼の愛して止まない灼熱の故郷、ナジュ砂漠があるのであろう。
今はもう彼には帰る場所のない、愛するべき故郷だ。
「・・・ハリードよ」
幾ばくかの間そうしていると、ふと背後に人が近づく気配を感じた。そしてハリードが振り返る前に、先んじて彼を呼ぶ男の声が届く。
その声は先ほども夢想の中で聞いたばかりだったので、一々振り返らずとも分かる。
ルートヴィッヒだった。
「・・・何の用だ。今更になって、昔話でもしに来たのか?」
そういってハリードが振り返ると、そこには先ほどまでの鎧ではなく軍服を纏い、武装も剣のみを腰に下げたルートヴィッヒがいた。先ほど見た時と変わらずの読めない表情のようだが、よく見れば幾分かは外面を省いている様にも見える。それは夢に見た十年前から全く変わっていないようで、しかし改めて見てみれば多少は老けたようにも感じる。ならばそれは、当然自分もそうなのだろうな、と考えた。
そう。彼の故郷が滅びたあの戦争から、もう十年と言う歳月が流れているのだ。
「お互い、もうそんな間柄ではなかろう。それに俺とお前の間にあるのは、気楽に語れるほど懐かしむような話でもない」
「同意見だ」
ならば何をしに来た、とは言わなかった。ルートヴィッヒという男はその優れた容姿に反して、昔から何方かといえば必要な時以外は無駄口を叩かぬ、行動派の男だ。だから彼がここに来たのは無論、単なる昔話などをしに来たわけではないのだろうということは、言うまでもなく察しはついている。
なので、無言で先を促すようにハリードが視線を送ると、ルートヴィッヒはぴくりとも表情を変えずに歩き出し、ハリードの横に並び立って海へと視線を向けた。
「俺はあの時から今まで、何者にも屈しぬ強さを欲し、その為にここまで歩んできた」
唐突に語り出したルートヴィッヒの言葉に、ハリードは船の縁にもたれ掛かりながら聞き耳を立てる。
「十年前のあの時、俺やお前は、弱かった。俺はあの凄惨な敗戦を経て、己の信を貫くには絶対的な強さが必要なのだと悟った」
強さ。
ルートヴィッヒのその言葉に、ハリードは微かに視線を細めた。
確かに、あの時の自分は弱かった。そして、彼の祖国ゲッシアも自分と同じく、弱かった。
だから、敗けたのだ。
英雄アル=アワドの元で興り、数百年続いたゲッシア王朝の唐突な滅亡は、死蝕の数年後という時節も相まって、大いなる時代の変革を世界に印象付ける衝撃的な出来事であった。
十六年前の死蝕によって、世界は全ての新たな命を失った。
また悲劇はそれだけに止まらず、世界各地で急激な荒廃を理由とした悲惨な事件が相次いだ。そして、一部の人々はそんな世界を憂い、その救済を『神』に求めた。
三百年前に四魔貴族から世界を救った聖王は、もういない。ならば今の世界を救うのは、次なる救世主に他ならない。それこそが、魔王を超え聖王をも超えた、神王である、として。
敬虔なる聖王教国家であるメッサーナ王国の、時の王アルバートと近衛騎士団は、当然にその存在を排除しようとした。そしてメッサーナから迫害された彼らが流れ着いたのが、西方にて聖王を拝しない唯一の国家、ゲッシアだった。
だが、ゲッシアは英雄アル=アワドが魔王を退けた時から自国力に傾倒する独立王朝であり、ここもまた、異教徒を受け入れることはなかった。
各地での度重なる迫害に憤慨し、そして遂に蜂起した神王教団が起こした宗教戦争が、聖王暦三百五年のゲッシア戦役である。
ゲッシア朝は、その長い歴史に浸かり、甘んじ、弱体化していた。その治世は有り体に言って排他的であり、古来からの厳格な階級制度も変わることなく、外部の文明の進化を積極的に受け入れることもなかった。
確かに蜂起した神王教団は、ゲリラ戦に特化し自爆攻撃まで行う苛烈な戦線を築いた。だが、それでも本来、一国を相手取るには不足していたはずなのだ。それでも、彼らは勝った。
つまりゲッシアは、その長年の己が傲慢により、自ら滅んだのである。当時の論者は、挙って知ったような口ぶりでそう言った。
ハリードはその時に故郷、家族、愛する者の全てを失い、それでもついぞ彼自身だけは命を落とすことがなく、喪失感に苛まれながらこの十年という歳月を過ごしてきた。
しかし、同じくあの時に大半のものを失ったはずのかつての義兄弟ルートヴィッヒは、今こうして世界最大の王国の軍団長として自分の隣に立っている。
「今のその姿が、お前の求めた強さなのか」
視線は向けないまま、ハリードはそう呟いた。
すると隣から、ふっと息を漏らす音が聞こえた。ルートヴィッヒが薄く笑った。
堅物男が笑うと思いの外気色悪いものだな、等と思いながら、ハリードは彼の言葉を待った。
「そうだ。いや・・・そうだった、か」
「なんだ、今は違うのか」
基本的には物事に対する回答が明快な男のはずだが、それにしてはえらく歯切れが悪い返事だなと感じてハリードが聞き返すと、ルートヴィッヒは先ほど浮かべた苦笑いを崩さぬままに続けた。
「ハリードよ。お前は、世界を救うのか?」
唐突な質問だった。
思わずハリードが何を言い出すのだとでも言いたげな顔でルートヴィッヒに視線を向けると、彼は至極真面目な様子でハリードに視線を向けていた。そこでハリードは改めて思い出す。この男は、昔から冗談の類をほとんど言わない男であった、と。
「悪いが、俺が『八つの光』とやらであることを根拠にそれを聞いているのならば・・・答えは否だ。まぁ、余程の前金の上での依頼ということならば、受けるかも知れんがな」
自分の判断基準は、常に明確だ。
金になるか、ならないか。それだけでしかない。
ハリードは、改めて考えるまでもなくそう確信して返答した。
実のところを言えば、今自分がこうしているのも半分以上は、それが目的である。己の思うところにより行動を共にした側面も確かにあるが、それでもカタリナらとの旅は、単純に様々な事件事案に遭遇することが多く、その中では通常の小さな依頼を幾つ請負っても全く届かないほどの多額の報償金を狙うことが出来た。しかも古代の遺跡やらに足を踏み入れることもあり、そこでの財宝回収も狙える。これなら、稼ぎの選択肢としてはトレジャーハンターも悪くないのではないかと考えてしまうほどだ。
つい最近ではまさかの四魔貴族などを相手取ることになったが、あの海底宮でも少なくない宝物の回収を行えた。それは一年を只管傭兵業に費やしても、全く届かない様な額だ。戦場と同じく己の命を切り売りしてあれほどの財が稼げるのであれば、それは彼にとって何の不足もない事であった。
その返答を聞いたルートヴィッヒは、何ら笑うこともなく、そうか、と言って頷いた。
「俺はな、恐らく世界を・・・救おうとしていたのだ」
「ほう・・・祖国の同胞をすら裏切るお前に、よもやそんな高尚な目的があるとは思わなかったな」
ルートヴィッヒの渾身の冗談に、ハリードは大いに皮肉めいた笑いを浮かべてやる。
ハリードのいう同胞への裏切りとは、五年前のルートヴィッヒによるピドナ上陸戦のことを指していた。
当時、既に亡国の王族であるという身分を隠して傭兵業に身を費やしていたハリードは、この戦役でメッサーナ近衛軍団の側に雇われて戦場に馳せ参じていた。戦そのものは流石というべきか時の軍団長であるクレメンス=クラウディウス率いる近衛軍が堂々たる戦いでルートヴィッヒの率いる軍を退け、その際に隊列上翼にて傭兵部隊を率いていたハリードも、この時には大いに稼がせてもらったものだ。
この時の戦いでは一部隊長であるハリードと敵軍総大将であるルートヴィッヒが直接顔を合わせることはなかったものの、しかし後にハリードは同じメッサーナの民であるはずの近衛軍を攻めたルートヴィッヒの行動がどうしても解せず、後のクレメンス急死によって台頭したルートヴィッヒのいるピドナ宮を尋ねたことがあった。だが、ハリードの何度かの訪問に対してルートヴィッヒが応じることは、ついに一度もなかったのである。
だが、今更になってその時の真意などを問うつもりは、ハリードにはない。
もう、そんなことは彼の中では、どうでもいいことなのだ。だが心のどこかで、そんな風に思う事自体が、己の中にあった国を思い民を思う情熱を過去のものとしてしまった何よりの証拠なのであろうな、と無意味に自虐的な感傷にも襲われる。
「・・・己の来た道に言い訳はしない。だが、強くあり何者にも負けぬということは、結果として救世主にすらなるのは世の常なる事だ。だが、俺がそれを目指し進んでいた道の先に、お前たちが忽然と現れた」
「・・・・・・」
世界最大の大国メッサーナの王位が今や目前にあろうという男が、一体何の理由で自分たちを気にしようというのか。全く話が見えずにハリードが続きを待つと、ルートヴィッヒはハリードに向き直りながら言葉を続けた。
「お前を含む八つの光が、この年の初めに起こったロアーヌでのクーデターを端として活動を開始したことを知り、俺はお前たちの動向を探っていた」
「・・・流石に、情報は筒抜けか」
これは、恐らくミカエルその人も八つの光であったことも既に知っていると見て良いだろう。メッサーナの間者は文字通り、世界各国各地に潜んでいるようだ。
ハリードがそんな近衛軍団の情報網に感心していると、ルートヴィッヒはそれに対して皮肉めいた笑みを浮かべた。
「あぁ。だから知りたいことは当然知っているし、知りたくなかったこともまた、知っているのだ」
「知りたくなかったこと、だと?」
ハリードが眉間に皺を寄せながら尋ねると、ルートヴィッヒは腕を組んで片足に重心を移しながら、どこか自嘲気味な様子で笑みを浮かべた。
「ハリード・・・お前は既に、四魔貴族をすら打倒する力を秘めているのだろう。いや・・・既にその一部の打倒を為した英雄であったな」
それは、フォルネウスを討伐したことを言っているのだろう。それなら残念ながら自分の功績と言うには全く語弊がある、と言いかけたが、ハリードは今は黙って先を促すことにした。
「先んじてロアーヌもまた、南方密林にあるとされる幻の火術要塞を発見・制圧し、四魔貴族アウナスを打倒した。その際の討伐隊を率いていたのが、フォルネウス討伐にてお前と共にいたというロアーヌの騎士・・・聖剣マスカレイドの所有者であるカタリナ=ラウランであることも伝え聞いている」
ハリードはルートヴィッヒの言を、黙って聴き続けた。
そのアウナス討伐に関しても、その実はカタリナらが到着する直前に何者かによってアウナスは既に滅ぼされていたという事情があるのだが、流石にそこまでは伝わっていないらしい。とはいえ、全く舌を巻くには十分な情報収集能力だ。
「特に此度のフォルネウス討伐に関し、あの伝説の移動要塞バンガードを見事起動せしめたその手腕は、実に見事だった。直前のフォルネウス兵の侵攻によって二度と動かすことが叶わぬかもしれなかった、その間際での起動。あれは、どう足掻いてもあの時点の我々には為し得なかったことだ。もしあの時お前たちの機転がなくバンガードがアビスの魔の手に落ち破壊されていれば、最早その時点で世界を救う術が無くなっていただろう」
「・・・・・・ま、そうかもしれんな」
ルートヴィッヒの言に則って思い返せば、確かにあれは瀬戸際の状況ではあった。
もしバンガードがあのままフォルネウス兵によって破壊されてしまったとしたら、最果ての島へ辿り着くことも、深海にある海底宮への侵攻も、その全てが不可能になっていただろう。そして再び今の人類がバンガードと同等のものを作り出すには、先ず何よりも結束力というものがない。三百年前に聖王十二将であるフルブライト十二世が中心となって構築した世界経済の結束も、荒廃した世に争わんとする国の結束も、救世を願う人々の結束も。
勿論、新たなバンガードを今のメッサーナ王国が単独で作り出せるのかといえば、それも現時点では不可能だと言い切れるだろう。それが、最も今のメッサーナを知るルートヴィッヒには解っているのだ。
「つまり、我らでは世界を救えなかった、ということだ。知りたくもなかった己の無力を、改めて思い知らされた」
「ふん・・・随分と殊勝なことだな」
ハリードが率直に意見を述べると、ルートヴィッヒは何ら動揺することもなく、静かに頷いた。
「思えばもっと以前・・・妖精族を救った時にしても、そうだ。妖精族の里とやらがアウナス軍の侵攻を受けた際、奇しくもロアーヌが軍をトゥイク半島に駐屯させていた。残念ながら今のリブロフの軍は、腑抜けだ。あの時は、ロアーヌの軍でなければ妖精族を救うのは不可能だっただろう。そして火術要塞は、妖精族の助け無くして辿り着くことが適わないと聞く。あの時に妖精族が滅んでいれば、密林からアウナスの侵攻が全世界に広がったかも知れぬ。俺は別に運命論者ではないが、流石にこう立て続けに現実を目の当たりにすれば、宿命がお前達にあり、我らにないということくらいは、理解できる」
ハリードはルートヴィッヒの言葉を聞きながら姿勢を変え、船の縁に両腕をついて体重を預けた。揺れる軍船の先に、先ほど垣間見た南の大陸を見る。
「これら事実を踏まえ俺は、今直面する脅威から世界を救うという点において、お前たちには及ばぬという結論に至った。だから、今お前たちと対立する道は無益だと判断したのだ」
「・・・だから俺たちを召し抱えるわけでもなく、ただ敵ではないという立ち位置を確保しようって腹か」
「そうだ」
ルートヴィッヒの言葉には、微塵も嘘偽りがないのだろう。一人称も先ほどの会談の時とは違い、十年前に互いが義兄弟と呼び語り合っていた時のものだ。彼が今この場では本心の言葉を語っているのだろうということが、確かに感じられる。
「お前たちは、恐らく世界を救うのだろう。寧ろ・・・今のお前たちで救えぬのならば、メッサーナは愚か、他の誰にもそれは為し得ぬことだろう」
「ふん、まるで預言者のような口ぶりだな。さながら、初代メッサーナ王パウルスのようだ。流石は、次代メッサーナ国王様といったところか?」
ハリードの皮肉たっぷりの言葉に、ルートヴィッヒは口の端だけを少しだけ吊り上げて笑った。こんな笑い方は、昔はしなかったな、とハリードは思う。十年で変わったのは、老けた意外にはこんなところか。
「俺は、メッサーナ王を継ぐつもりは、もうない」
「・・・ほう?」
ここにきて、まさかその大役を自分ではなくミューズあたりにでも任せるつもりか、と思う。なら、それはやめた方がいいだろう、と即座にハリードは考えた。
ミューズは確かに聡明な娘だが、その眩しすぎるほどの高潔さは、国というものを動かす時に、時に邪魔になるのだ。
全てが正しさだけで動くほど、国家とは甘くはない。だが、その事実にあの娘は染まらないだろう。そしてそれは国の中枢という、この上無い豊かな苗床の中で跳梁跋扈する数多の役人共の不興を買い、疎まれるうちに絡め取られ失脚するのが落ちだ。それは嫌味ではなく、ハリードは本気でそう思っている。
だが、ルートヴィッヒの続けた言葉は彼の想像を軽く超えるものだった。
「最近までは、そのつもりだった。それが俺の求める・・・己が歩むべき覇道だと考えていた。だが、それでは未来永劫、お前たちには並べぬだろうと悟った。故に俺は・・・今この世界を席巻する聖王崇拝と依存の歴史から脱却すべく、新たな国家を設立することにした」
「新たな・・・国?」
その思いがけない言葉にハリードがルートヴィッヒへと視線を向けると、今度はルートヴィッヒが片手を船の縁に乗せて遠く南の大陸へと視線を向けた。
「お前たち八つの光によって世界が救われた後の新たな三百年にて、人類は、更なる強さを求め、進化しなくてはならない。そうしなければ、いつまでも人類はお前たちのような救世主を待つばかりの、弱き存在でしかない。しかし救世主とはどの場所、どの時代にも常にいるものではない。今のままでは、人が危機に瀕し、その時その場に救世主がいなければ、人は全てを諦め失わなくてはならない。それは、紛れもなく今の人類が抱える弱さだ。だから、それを脱却する為の新たな国を興す」
それはまるで建国の英雄の言葉のようだな、と呑気にハリードは視線を波に移しながら感想を思う。
確かにルートヴィッヒの言うことは、大枠では理解できる。
特に己の力のみを信じてこの十年を生きてきたハリードからすれば、他者に頼らぬ生き方というのは、大いに共感しかない。自分以外の何かに拠り所を求めているという意味では、聖王崇拝を軸とした今のメッサーナ王国も神王教団も、大した違いはないと彼は思うのだ。
だが一方でルートヴィッヒの考えは、かつて独立王朝を築いたゲッシアと、どのような違いがあるのだろうか、とも思う。
己の力を信じ突き進んだ先に、ゲッシアは腐敗し弱体化の一途を辿り、そして滅んだ。
隣に佇むかつての義兄弟が歩もうとするその道の先にも、結局はそのような結果が待っているのではないのか。そんなふうにも、彼には思えるのだ。
だが恐らくは、そんな道を歩んだ一つの国家の滅亡を目の当たりにしているこの男だからこそ、そうはならぬための目算も、きっとあるのだろう。
「・・・お前は、どうするのだ」
突然に話を振られて、ハリードは危うく素っ頓狂な声を上げるところだった。
「お前は、その旅の先に、何を為そうとしている?」
単なる興味本位で聞いている様子は、ない。
それが痛切なほど解るからこそ、ハリードはルートヴィッヒに視線を合わせることはしなかった。
ルートヴィッヒは十年前の敗戦から、己の信じた覇道を歩み続けている。そしてその結果として一つの答えを見出した彼は、今それを自分に包み隠すことなく話している。
そう、これは十年前に全てを失い、その覇道の最中で袂を分かった自分に対する、彼なりのけじめなのだろう。
だが、ハリードにはそれに対する返答など、なかった。
「・・・俺は・・・」
何を言おうとしたのか、自分でも分からない。
ただ、何かを自分も言わなくてはならないという強迫観念に駆られて、声を出したに過ぎないのかもしれない。
いや、本当にそうだろうか。自分は、何かを言いかけたのではないか。
それは、一体何なのか。
未だに夢に見る、十年前の悪夢。
あの時に失った愛する祖国を再興するためと称して、どれだけ意地汚くとも傭兵業に費やしてきた日々。だが本当にそれは、今の自分の望みなのか。
仮に祖国再建を果たしたとしても、そこにもう、自分が愛した人は、いない。
それは、本当に自分の望むゲッシアなのか。
しかしそうではないのだとしたら、ならば一体自分の望みとは、到るべき場所とは、一体何処なのか。
数瞬の間に様々な思いが、頭の中を駆け巡る。
だが、そこに答えはない。
無意識のうちに腰に備えた曲刀の柄を握りながら、ハリードは結局、言葉に詰まってそれ以上は何も言えなかった。
「・・・ふ、お前にはまず、世界を救うという宿命があるのだったな。今は語らずとも、その先に見せてもらおう」
違う。
そんなことでは、ないのだ。
兎に角、そう言おうとしてハリードはルートヴィッヒへと顔を向けた。しかしルートヴィッヒは既に彼に背を向け、歩き出していた。
そして数歩進んだところで足を止め、ハリードへ振り向くことなく、ただ少しだけ上を向いて言葉を紡いだ。
「我々は・・・生きていくために、選ばなければならない。選ばず止まれば、死が待っているのみだ。だからこそ生きて前に進むには、それしかないのだ」
「・・・・・・」
その言葉に対する返答を待つでもなく、ルートヴィッヒは歩き去っていった。
ハリードもまた声を出すことなく、歩き去っていく彼の背中を見つめているのみであった。
最終更新:2020年09月22日 18:10