四魔貴族の一柱、魔海侯フォルネウスの打倒。
 その難事を成し遂げるために一路西太洋を西の最果てへと航行する海上要塞バンガードには、この大遠征を行うという最中にも残留を決意したキャプテン以下数名の勇気あるバンガード住人以外にも、実に多くの者達が使命のために乗り込んでいる。
 この遠征を主導しているカタリナやハーマンらも当然その類であるのだが、その実、外部搭乗者で最も多くを占めるのは、モウゼスの魔術ギルドから来た者たちだった。
 特にこのバンガードを動かす主軸となる玄武術を扱う水術士が最も数多く、次いでバンガードの整備を目的とした技師もとい火術士たちが数名。
 これら人員は、地図上ではバンガードの南方に位置し世界最大の魔術ギルドを抱える学術都市モウゼスの中でも稀代の天才と称される二人、玄武術士ウンディーネと朱鳥術士ボルカノが連れてきた者たちである。

「しかし、お前らってつい最近まで歪み合ってたんじゃないのか?それがいきなりこんななって、仲良くできるもんなのか?」

 唐突にそう口を開いたのは、ハリードだった。
 バンガードの甲板部分にあたる市街地エリアの片隅に佇む、酒家グッドフェローズ。その店内で、珍しくカウンターではなくテーブル席の椅子に座りながらウィスキーのロックを傾けていた彼は、同席している休憩中らしい水術士と火術士の二人に、そんな素朴な疑問を投げかけたのである。
 彼が唐突にそんな疑問を投げかけたのは、言ってみれば当然のことなのかもしれない。
 なにしろこのバンガードで日夜忙しなく動き回る彼ら両術士チームは、側から見てもチームワークは完璧で、完全に意気投合してこのバンガード運用に当たっているのである。
 しかしながらハリードの記憶では、彼らはつい先日までモウゼスという一都市の南北を分つほどの大騒動を演じていた陣営同士だったはずだ。
 それが今は共同任務に従事し、休憩時間にはこうして同じ卓を囲んで酒盛りをしている始末。これでは流石に、疑問の一つや二つくらいは出てこようというものだろう。

「いやー、そうなんすけどね。っても元々はウンディーネ様がバチバチやっていただけなんで、実際あんまり俺らは・・・なぁ」
「あーぶっちゃけうちもそんな感じっす。ボルカノ様が一歩も引かなくて・・・。てか今回来たのもボルカノ様が勝手に決められて、自分ら連れてこられただけですし・・・。いえまぁ望んで仕えてるんで、文句あるとかじゃないんすけどね?」

 両術士は、ハリードとお互いの顔を交互に見合わせながら、口々にそう語る。
 稼働に膨大な魔力を消費するバンガードを動かすために集まった水術士の数は、実に三十六人にも上る。
 彼らは三交代制勤務の形をとっており、動力供給、休憩、睡眠というローテーションで業務に当たっていた。そしてその彼らを補助するために動き回るサポートチームを、ボルカノが連れてきた火術士たちが担っている。
 彼らの業務の中で思いのほか重要なのが、この休憩セクションだ。
 水術士たちは連続八時間にも及ぶバンガードへの魔力供給というハードワークをこなし、結果すっからかんになった魔力を、次のローテーションまでに短時間で回復させねばならない。
 そこで、術具の扱いにおいては右に出る者がいないとまで言われるボルカノの指導の元、火術士たちサポートチームが独自調合し霊酒相当にまで効能を高めた特製術酒を休憩時間に飲み、次の魔力供給の順番までに失った魔力を回復させるのである。
 つまり、業務内容に酒盛りが強制的に加わっているのだ。
 下戸には辛い仕様だが、この世界で魔力回復のための術具といえば、残念ながら術酒しか存在しない。そんな事情もあるので、実は魔術士には海賊などにも負けず劣らず酒に強いものが割と多い、という裏話もあったりする。
 そんなわけでこのグッドフェローズは自然と、勤務交代して休憩する術士たちの貴重な憩いの場として、二十四時間稼働をすることになったのであった。
 この酒家の店主は何やら事情があるのか、強い使命感からこの街に残ったという街の住人の一人だ。その店主たる彼がいない間も、厚意で店は開けてくれている。
 所定位置へのキャッシュオン形式で、店にあるものならドリンクメイクはご自由に、というやつだ。
 お陰で長い海路の間でも酒にありつけると、ハリードはほぼ毎日ここに顔を出している。もうすっかり術士たちとも、顔馴染みの気安い仲だ。

「ていうか元々、そんなに仲が悪いとか無かったもんな、俺ら」
「それな。あ、ハリードさんはあんま関わってないと思うんすけど、今回居ないんすがモウゼスは地術四術式は全てにちゃんと派閥があって、天術の専門研究施設もあるんすよ。魔術ギルドの総本山もうちにあるんで、そこが色々調整とかも行なってて、ぶっちゃけ派閥同士が仲悪いとかあんまなかったんすよね」

 術士たちの話す内容は、どうもハリードが脳内に思い描いていた業界泥沼事情のようなものとは異なる様子だった。

「じゃあなにか。俺らが介入した時が、たまたまバチってただけってことなのか?」

 続けてハリードが尋ねると、二人の術師はこれまた息ぴったりに頷いてみせた。

「まぁ・・・そういうことになりますね。あれほんと突然だったんで、俺らもびっくりしましたよ。ウンディーネ様もボルカノ様も、魔術史に確実に名が残るほど本当に凄い方々なんで、その二人が十年ぶりに、しかもほぼ同時にご帰還なされたって時は、こりゃもう街を上げてお祝いでもしようかって雰囲気になったくらいだったんすけどね」
「あー、その話こっちにも来てたわ。それが一転、帰ってきたと思ったらいきなりあんなゴリゴリ対立が始まっちゃって。でもあの二人に意見できるような実力を持った人も正直、今のギルドにはいないんすよね・・・」

 二人共が苦笑しながら肩を竦めてそう言い、手元のグラスを傾ける。
 何だか大変そうな業界事情にハリードも半ば同情するような表情をしながら、つまみに用意していたローストナッツを口の中に放り込んだ。

「はぁーん・・・それが今じゃあ、息ぴったりに共同作業ねぇ。お上に振り回されるお前らも大変だなぁ」
「あはは・・・でもまぁ、本当はお互いリスペクトがあるのは俺らも察してたんで、どっかのタイミングで折り合いはつくだろうとは思ってましたけどね。ウンディーネ様、対立している間も何だかんだずっとボルカノ様のことぶつぶつ口に出しながら心配してて、何かすごい必死だったんすよ。あんなの見せられたら、本当に歪みあってるなんて思えないっすよ」
「それな!ボルカノ様もまんまそれだったわ!」

 水術士がそういいながら笑っているところに火術士も同意して盛り上がっていると、不意にカランカランと音を立てて、店の扉が開く。
 ハリードがチラリとそちらに目線を向けると、入ってきたのは連れ立っての二人。
 ウンディーネと、ボルカノだった。

「おっと、噂をすれば御両人か」

 多少声量を絞ってハリードがそういうと、術士二人も無言で頷きながら何気なく二人へと視線を向けた。
 だが当の二人は何やら熱く議論を交わしながら歩いており、テーブル席の三人には軽く視線をやってご苦労様と簡単な労いの言葉を掛けただけで、そそくさとカウンター席の一番奥に二人並んで陣取って座った。

「うわ、二人してここにくるなんて珍しいっすね」
「うっわ、二人で何話すんだろ。めっちゃ気になるけど、そろそろ就寝時間なんすよねー」
「・・・ふぅん、やっぱ仲いいんじゃねえか。面白そうな話だったら、あとで会った時に教えてやるよ」

 そろそろ休憩時間が終わるとのことで、術士二人が名残惜しそうに席を立つのをグラスを掲げながら見送ったハリードは、何気なくカウンターの二人の会話へとこっそり耳を傾けることとした。






——酒家に赴く、少し前——

 バンガード艦橋から程近い位置にある、彼女専用にあてがわれた一室。その室内でウンディーネは忙しなく、机の端に積み上げられた何冊もの本を手に取っては開き、パラパラと捲っては閉じ、を繰り返していた。
 そこまで広くない机の中央に陣取っているのは、如何にも古めかしい装丁が施された書物。
 それは、商都ヤーマスにてキャンディらの活躍によりドフォーレ商会の裏倉庫から回収され、その後カタリナによって彼女の元に持ち込まれた古代魔術書であった。

「・・・・・・ふぅ」

 一頻り書物の山と格闘していたウンディーネは、ふと燭台の火が視界の端で揺らめいたのを感じ、息を吐きながら顔を上げた。
 どうやら、思ったよりも作業に集中しすぎていたようだ。先程火を灯したばかりだと記憶していた燭台の蝋燭が、もう今にもその役割を終えようとしている。
 ウンディーネは両手の指を組みながら思い切り上に伸ばしてぐっと背伸びをし、次いですっかり冷めてしまった机の端の珈琲を一口啜った。
 その表情は、明らかに消化不良の様子である。ウンディーネ自身は自覚していないが、意外と彼女は思っていることが顔に出やすいタイプだ。
 ところで何故そんな表情なのかと言われれば、なにしろ時間の消費に対して作業の進捗が非常に芳しくない、と彼女が感じているからに他ならなかった。
 古文書に書いてあることの大筋は、実は既に解読を終えている。この古文書には、現代には伝わっていない魔術の秘技が書き記されているのだ。
 彼女の元に持ち込まれた古文書は、二冊。それらには丁度、玄武と朱鳥の秘術に関して書き記されているであろう、ということまではもう分かっている。
 また、術の構成に当たって複属性の記述が見受けられることから、これは彼女が専攻する「連携術」の延長線上にある陣形術式であろう、という予測まではついていた。
 だが、そこから先が問題だった。
 肝心の術式発動に関する理論的な記載が、この本には殆どないのである。
 かと言って特段中身が欠落しているわけでもない様子なので、元からこの本にはその記載が無いのであろう。全く、魔導書としては欠陥品も甚だしい。編纂者をどついてやりたい気分だ。
 だが、文句を言ったところで問題は解決しない。
 そうなると、あとは不明な箇所を現代に伝わる魔術理論から推測し補填するしかないわけなのだが、その解明作業が遅々として進まない、というわけなのだ。

「もっと関連してそうな書物を持ってくるべきだったわ・・・」

 モウゼスにある彼女の館には、多くの魔術書がある。今回のフォルネウス討伐を目的とした遠征にはこの古代魔術書の中身がなんらかの役に立つのではと踏んでいたウンディーネは、目的地に辿り着くまでにその解読をせんとして、モウゼスから解読に役立ちそうな蔵書をバンガードに持ち込んでいたのだ。
 だが、持ってきた蔵書に書いてある内容だけでは、どうにも魔術理論構成が上手くいかないのである。
 手詰まり感を抱えながら口元に手を添えて考えを煮詰めていると、そこに、元から半開きだった背後の扉をコンコンとノックする音が響いた。

「・・・ディー姉、今大丈夫か?」

 それは、最近特に聴き慣れた声だった。
 しかしそれにすぐには敢えて応えずに、軽く眉間に皺をよせてわざわざ苦々しい表情を作り、そして椅子の背もたれ越しに半分だけ振り向いてから重々しく口を開いた。

「・・・いい加減、そのディー姉っていうのやめなさいよ」
「あぁ・・・クセでな、すまない」

 あまり悪びれた様子もなくそう返しながら部屋に入ってきたのは、上品に切り揃えられた赤髪をした青年-ボルカノだった。
 魔術の徒としては彼女の後輩にあたる青年で、専攻は朱鳥術。伝説の玄武術師ヴァッサールの再来とすら言われるウンディーネをして、間違いなく天才だと認めることができる類稀なる才覚の持ち主だ。
 因みにウンディーネとは一回りほど歳が離れているものの、同じ時代に二人の天才が誕生したということでモウゼスではよく同格に扱われることが多く、年上のウンディーネとしては何とも歯痒い思いをしてきたものだ。
 とはいえ彼女にとっては年の離れた弟のような存在であったこともあり、彼女が十代の頃には少年ボルカノに術のいろはを教えてあげたりしたこともあった。
 その当時から既に、天才たるボルカノが教えを請うのも同じく天才である彼女くらいしかいなかった、という事情もある。
 そんなわけでボルカノがウンディーネのことを「ディー姉」と呼ぶのは、その当時の名残である。今となっては、その当時そう呼ばれてちょっと喜んでいた自分を殴り飛ばしてやりたいとウンディーネは密かに思っていた。

「ふん・・・まぁいいわ。でも少なくとも、他人の前ではそう呼ばないで。お互い、今は立場ってものがあるでしょう。で・・・何か用?」

 ウンディーネが半身だけ振り向いた姿勢のまま半眼で問いかけると、ボルカノはそんな彼女の様子など気にすることなく部屋に入ってきて、手に持っていた紙切れをウンディーネに差し出した。
 それは、バンガード内部の地図のようだった。

「少しバンガードの構造で気になる場所があって、一度ディー姉にも見てもらおうと思ったんだが・・・何か調べ物か?」

 机の中央に広げられた古文書に目を止めたボルカノは、ウンディーネの座っている椅子の背もたれに片手をつきながら興味深げに身を乗り出し、書物を覗き込む。
 彼の腕がウンディーネの横髪をさらりと掠めるくらいにはいきなり近づいてきたものだから、ウンディーネは一瞬固まりながらも、動揺を表に出さぬように極力自然体を意識しつつ、彼のみる本へと合わせて視線を移した。

「ええ、ちょっとね・・・そうだ、丁度いいわ。少しこの古文書の内容について、貴方の意見を聞かせて頂戴。持ってきた書物と照らし合わせただけだと、どうにも得心いかないのよ」
「なんだ、ディー姉が俺を頼ってくるなんて珍しいな。明日はスコールか?」
「五月蝿い。無駄口叩くなら頼まないわ」
「そんなツンケンしないでくれ。どれどれ、このページか。解読メモは?」

 身を乗り出した姿勢のまま、ボルカノはウンディーネが仏頂面で差し出したメモを受け取る。そしてそのメモと古文書の文字列を、交互に指でなぞるようにしながら読んでいく。彼自身も古文書の類には慣れ親しんでおり、こうなるとあとは話が早いはずだ。
 だが、それはともかく。
 先ほどから、少々お互いの距離が近すぎるようだとウンディーネは感じていた。
 別に自分は気にしないが、しかしここの部屋の扉は今、半開きなのである。もし外から通りすがりの誰かがうっかり部屋の中を見たとしたら、ちょっと二人の距離が近すぎるのを、不審に思うかもしれない。

(いや不審って何よ。別にそういうのじゃあるまいし)

 そういうのではないので、自分から変に気を使ってわざわざ距離を取るのもおかしい。それではまるで、そういうのを此方が気にしてしまっているみたいに受け取れてしまうではないか。

「これは驚いたな・・・古代魔術の秘技書か。でも、確かに記述が抽象的だな。うーむ・・・何となくイメージできないでは無い気もするが・・・。因みに、ここまでをディー姉はどう解釈しているんだ?」

 しかし、外から見えてしまった時には変な勘違いをされかねない程に近い距離というのは流石に問題だと言えなくも無いので、やはりここは多少なりとも此方が椅子を引いたりして距離を取るべきか。いや、しかしながら今更距離をとったところで、それはそれでもう手遅れ感満載で不自然なのではないか。万が一にも、この察しの良い憎たらしい後輩に変な勘ぐりでも入れられてしまったら、これはもう一生の不覚といっても差し支えない。それはだめだ。絶対にだめだ。阻止しなければならない。

「おい、ディー姉・・・?」
「・・・え? わ!」

 至近距離でこちらを覗き込むように顔を近づけていたボルカノにようやっと気が付き、ウンディーネはガタンと音を立てながら椅子ごと後退ろうとする。
 しかし、思いのほかしっかりした椅子の足は後ろ二本だけで傾いてしまい、ウンディーネはそのまま椅子ごと後ろに倒れそうになってしまった。

「お・・・っと」

 それを、ボルカノが造作もなくウンディーネの手を取り、自分の方へと引き寄せる。
 ガタン、と大きく音を立てて椅子が後ろに倒れるのと同時、ウンディーネは間一髪ボルカノに抱き竦められるような格好で難を逃れた。
 結果、先ほど以上に密着したような状態になってしまっている。

「あー・・・すまない。そんな驚くとは思わなくて」
「・・・・・・」

 一瞬の沈黙が、部屋の中に訪れた。
 そして、その間すっかり固まるウンディーネ。
 ウンディーネがこの小憎らしい後輩と再会したのは、ほぼ十年ぶりのことであった。お互いに、モウゼスを離れていたのである。
 その間もギルド支部を通じ文書での連絡は取り合っていたが、姿をお互いに見たのは本当に十年ぶりなのだ。
 そして二ヶ月ほど前に訪れたその再会の場面は、それはそれは最悪の形であった。
 双方の意思疎通不足から始まった悶着は街を巻き込む騒動に発展してしまい、今となっては本当に恥じ入るばかりである。
 そんな騒動から、今度は殆ど間を置かずにこのバンガードに乗り込んでいるものだから、実は改めてボルカノをまじまじと見るようなタイミングなど、ここまで殆どなかったと言える。
 不意に抱き竦められた気恥ずかしさと、そして今更ながら相手の大きな変化を目の当たりにして、ウンディーネはすっかり黙りこくってしまった。

(・・・なによこいつ・・・十年前、私が旅に出た時は、まだ私よりも背が小さかったのに・・・)

 抱き合ったような格好の二人には、明確な身長差があった。以前は自分の方が背が高かったのに、いつの間にか頭ひとつ分はボルカノに身長を抜かれていたのだ。
 それに以前は魔術士らしく自分と一緒で華奢だと思っていたその腕も、今はこうして彼女の体を支えても何とも無いくらいには、逞しくなっている。
 声だって、そうだ。凄く低くなった。昔は鳥が囀るような可愛らしいソプラノだったはずなのに。
 そう言えば声色だけじゃなく、口調そのものも少し変わっているではないか。なんだかちょっとキザったらしくなってて、それがなぜだか癪に障る。以前はもっと、生意気だけど可愛げのある喋り方だったのに。
 本当に、色んな所が凄く変わったと思う。それなのに名前の呼び方だけが昔と変わっていないのは、なんだかとても見た目の変化とアンバランスで、ちょっと可笑しい。
 自分の知らない間に、弟分はこんなにも成長したんだなと、何故だかこんな時にふと思ってしまった。
 そこに至り、あまりの後輩の変化ぶりに実は自分の方がついていけていなくて、なんだか後輩への態度が空回りしていたのかもしれないな、なんて。ふと冷静にそんなことを考えたりもする。
 そのまま、数秒の時がお互いの間をゆっくりと流れた。

「・・・・・・離して」
「あ・・・すまない」

 言われて初めてボルカノは腕の力を緩め、ウンディーネは彼の腕から解放された。
 いきなりのことだったから、自分でもびっくりして顔が紅潮してしまったのがわかる。気づかれていなければいいが。

「別に・・・。まぁ、支えてくれてありがと」
「・・・あぁ」

 そそくさと衣服の乱れを整えながら、ウンディーネは平然を装って椅子を起き上がらせた。
 少し、気まずい。何か話題を振らなければ。

「で・・・その古文書、貴方の見解を聞かせて欲しいんだけど」
「え、あぁ、だからディー姉の考察を聞こうと・・・まぁいい。これはディー姉のほうが想像ついていると思うが、陣形魔術だと思う。これは朱鳥術の書のようだが、実際重要なのは、恐らく朱鳥の力を誘導する天術の配置とバランスだと考えられるな」

 そう言いながら、ボルカノは先程持ってきたバンガードの内部地図らしき紙切れを広げた。

「丁度ディー姉に見てもらおうと思っていたのが、ひょっとしたらヒントになるかも知れない。どうもバンガードの水晶から各機関への魔力の伝わり方に、一定の法則があるようなんだ。それがこの地図でメモした場所だと視覚的に良くわかる。これが、ひょっとしたら陣形術に関連するんじゃないかと思ってな」
「それは興味深いわね。案内してもらえる?」

 とにかくこの部屋の空気を脱したかったウンディーネは、古文書を手にとって我先にと部屋の出口まで進んだ。
 それに合わせてボルカノが続くも、ふとウンディーネが部屋の扉の前で立ち止まる。

「・・・ディー姉?」

 彼女が止まったので、その背中のすぐ後ろにボルカノも立ち止まる。そしてボルカノが不思議そうに首を傾げると、ウンディーネは顔半分だけ後ろに振り返り、ボルカノを見上げた。

「・・・貴方、お酒は少しくらい飲めるようになったの?」
「え、まぁ・・・それなりには」

 この世界で魔術士と酒は、切っても切れない関係だ。術酒を飲めない者は一人前の魔術士にはなれないとすら言われており、魔術士を志す者は小さな頃から水に薄めた術酒を飲みながら体に慣れさせていくほどである。
 彼女の覚えているボルカノは、やっと術酒の慣らし始めをしたくらいの時節だった。初めて術酒の水割りを飲んだ時の彼などは、それはそれは珍妙な表情をしていたものだ。
 何故だかふとこのタイミングで、それを思い出したのである。

「・・・やっぱり案内は、明日お願い。だから、今日はちょっと付き合いなさいよ」

 そう言いながらグラスを傾ける仕草をしてみせると、キョトンとした様子で二度三度瞬きをしたボルカノは、次いでふっと微笑む。
 少し、その笑顔には昔の彼の面影が残っているような気がした。

「オーケーだ、受けて立とう」

 ボルカノの返事を聞いてウンディーネも僅かに口の端を上げるように笑ってみせると、部屋を後にした。
 十年の間に彼がどれだけ変わったのか、それとも、実はそんなに変わってないのか。
 何の因果か、こうして今、一緒に居るのだ。それを確かめる程度の時間を、ほんの少し設けることくらいは、なにも問題ないはずだ。
 心持ち足早にウンディーネがバンガード上部エリアに向かって歩いていくのを、ボルカノもまた軽い足取りで後を着いていった。






「・・・でまぁ、来てからずっとあの調子なんだよ」

 グッドフェローズのテーブル席には、相変わらずのハリードと、カタリナ、ミューズ、シャールが座っていた。

「聞こえてくる限り、ずーっと魔術の小難しい話ばっかしてんだよ。男と女がバーのカウンターで並んで飲んでるってのに、全く色気も何もないぜ。そうは思わんか?」

 ハリードはその様子を最初から見ていたらしく、何杯目かのウィスキーをグラスに注ぎながら肩を竦めてそう言った。
 巡回を終えて合流していたカタリナら三人は、それぞれグラスを片手に彼の問いかけに対して思案する。

「うーん・・・まぁ、あの二人にとってはそれが共通の話題なのだろうし、その話で盛り上がるのは仕方ないんじゃないかしら。私だって騎士団の同期と飲む時は、大抵訓練の話ばかりだったわよ」

 ロアーヌの騎士団仲間を思い出しながら、カタリナはハリードにそう相槌を打つ。どちらかと言えばカタリナも、そういう話題には疎い方だという自覚はある。

「あー・・・お前さんは想像がつくな。意見を求める相手が悪かった。シャールはどうだ?」
「俺に聞くな」

 このつれない態度である。
 しかし、その隣で瞳を輝かせているミューズがいるので、これ以上シャールに追求は、するだけ無駄だろう。

「私はあのお二人、いい雰囲気だと思います。実はウンディーネさんが結構ボルカノさんへの接し方に戸惑っている感じが普段からあって、それがもどかしくてポイント高いですよね。ボルカノさんも不器用っぽいですけど、ウンディーネさんよりは直球な気がするんですけどね」

 この辺りの話題に関してはサラに大分仕込まれているのか、流石の鋭い観察眼でミューズは二人を評する。
 なんのポイントが高いのかはいまいち分からないが、何となく言いたいことが分かるような気がするかな、とカタリナなどは思った。

「でも・・・あれはあれで楽しそうじゃない。モウゼスで初めて会った時とは比べ物にならないくらい、二人とも生き生きした顔しているわ」
「はん、そんなもんかね。ま、当人らがそれでいいならいいんだろうが・・・。少しは外野も盛り上がるような展開があってもいいと思うけどな。なぁシャール」
「だから俺に聞くな」

 静かにグラスを傾けながら釣れない反応を返すシャールにハリードは再度肩を竦めて苦笑し、もう一度、ちらりとカウンター席へ視線を向ける。




「だから、俺が思うに陣形魔術は天術のコントロール量が重要であって・・・」
「ちょっと待ちなさいよ、だってそれじゃあ根本的な魔術媒介の定義から見直す必要が・・・」

 結局、十年の変化なんて互いに微塵も探ることなんてなく。
 酒も入ってすっかり饒舌になり、数時間に渡って二人は魔術理論について、熱く激論を交わし続けた。
 その姿を、変わるがわる休憩に入ってきた術師たちが背後で生暖かく見守っていることなどは、露ほども知らず。





最終更新:2021年08月12日 14:27