ドンッ!!

 木製の扉を打ち破る勢いで蹴り開け、鼻息荒くバンガード商業ギルド会館の一室へと乱暴に踏み込んできたのは、誰あろうバイロン卿その人だった。
 とはいえ余りにその有様が先日までの彼とかけ離れていることから、その場にいた誰しもが一瞬、彼がバイロンであるということに気付けなかったほどである。
 顔こそ同じで、着ている衣服も確かにウィルミントン製のハイブランドスーツなのだが、しかしいつもの紳士然とした姿勢や振る舞いは、完全にどこかへと消え失せてしまっていた。
 余程急いでここにきたのか、帽子も被らず頭髪は乱れ、興奮からか目は醜く充血し、呼吸も荒い。
 そして手にした杖をまるで棍棒代わりのように握りしめながら、獣じみた前傾姿勢で周囲を威嚇しているのだ。
 その様相はまるで、癇癪を起こして暴れ回らんとする悪徳商人もかくや、というような有様であった。
 その姿を見て、場違いにも思わず失笑してしまったのは、かつての自分の姿をそこに垣間見てしまったからか。
 内心でそう自嘲しながら、ラブ=ドフォーレは至極落ち着いた様子で深くソファに腰掛けたまま、戯けるように大仰に両手を広げて驚いてみせた。

「これはこれは、バイロン卿。随分と遅いご到着でしたな。よもや来られないのではないかと、少々心配してしまいましたよ」
「!!!?・・・貴様、貴様が仕組んだのか!!??」

 ラブの様子を見たバイロンは烈火の如くに怒りの表情へ変わり、手にした杖を振り上げながらラブへと迫る。
 しかしラブの背後に控えていた屈強なボディガードに遮られ、更には慌てたバンガード商業ギルドの職員にも背後から身を押さえられたことで、それ以上ラブに接近することは出来なかった。
 だが彼の怒りは、そんなことで欠片も収まることはない。
 バイロンはギルド職員に羽交い締めにされたまま、半ば叫ぶように口汚くラブを問いただした。

「貴様が!!貴様のような品性の欠片もない豚如きが、この私とフルブライトを嵌めたのか!!??」
「おやおや・・・嵌めたとはまた、とんだ濡れ衣ですな。私が聞き及んでいる限り、今回の事はあくまで御社内での揉め事だと理解しておりますが、ねぇ?」
「き・・・貴様ぁぁぁああああ!!!!!!!」

 ラブの言葉にバイロンは絶叫し、その後は歯が砕けそうなほどに強く口内を噛み締め、力任せに杖を床に叩きつける。
 その様子が大層面白かったのか、自らの性根の悪さを自覚しているラブはニヤリと下卑た笑みを浮かべながら、膝に手をついてゆっくりと立ち上がった。

「私はね、こう聞きましたよ、バイロン卿。何でも・・・どうしたことか今回のトレード終結後、普通なら即座に商業ギルドを通じて動くはずのオーラムが微動だにしない。何故かと言えば、今回のトレード決着と同時にウィルミントン本店以外のほぼ全ての支店で、傘下企業が商会からの離脱を表明してしまったからだ、と。それ故、本店口座の残高だけではトレードで提示したオーラムが用意できなかったから、だそうですねぇ?」
「これは!! これは全く悪質で卑劣な!!! 神聖なる商いの道理を無視した物件独立工作だッ!!! このようなことは断じてッ!! 断じて認められるようなものではないッッ!!!!!!」

 これまた叫ぶようにバイロンが喚き散らすと、対するラブは実に愉快そうに瞳を歪ませながら、さも同情するかのような声色でバイロンへと語りかける。

「えぇえぇ、そうでしょうとも。これはとても悪質な独立工作でしょう。ただし・・・それをトレード相手ではなく身内が起こしたとなると・・・ふふふ、これには全く同情の余地がありませんがなぁ・・・!」

 ついには抑えきれずに、声を上げて笑い出したラブ。それをバイロンは脳が茹で上がりそうなほどに顔全体を熱で赤らめながら、憤怒の表情で睨みつけた。
 全ては、ラブの言う通りであった。
 トレード終結宣言によってバイロンが勝利を確信したその時、既にフルブライト商会の内部では、全てが覆っていた。
 商業ギルドによる正式なトレード終結の報が各国へ発せられる同時に、今回は未曾有の巨額トレードであることから各国に散らばるフルブライト商会傘下の企業に対し、各国商業ギルド支部口座を通じてトレード資金の拠出要請及び集金が行われる算段であった。
 しかしあろうことか、この資金集約要請を商会全体の六割もの傘下企業が全面拒否したのである。
 つまり、物件独立をされたのだ。
 これによりトレードで提示したオーラムの拠出が不可能になったフルブライト商会の醜態は世界中に瞬く間に伝播し、トレード結果以上に各国権力者の耳目を強く引きつけた。

「しかもどうやら独立した企業群、御社の会長が立ち上げた『フルブライト二十三世商会』という名の企業に参画していらっしゃるとか。加えてその企業、なにやら各地の御社残留企業やリブロフ、ナジュ周辺の特定企業に対して既にトレードを仕掛けているそうですなぁ。これでは、ご自慢のリーグからも資金は出せませんな・・・?」

 そういってまたしても笑い出すラブに対し、バイロンは今度こそ言葉にならない叫びを上げながら殴り掛からんとする。
 しかし呆気なくボディガードに弾かれて尻餅をついたバイロンは、血管をはち切れんばかりに顔中に浮かび上がらせながら、ゆっくりと立ち上がった。
 その瞳には、怒りを通り越した狂気が宿っている。
 思わず、その瞳を見たラブは真顔に戻って口を噤んでしまった。

「お前達のような屑に・・・私の・・・私の崇高な目的など、永遠に理解出来まい。もはやこれで、人類の間違いを正すことは不可能になった。人類は、遠からず自らの愚かさによって滅ぶことになる・・・!」

 力なく横に首を振ってそう言い捨てながら、バイロンは懐から細く小さな笛を取り出した。
 場にそぐわない妙な行動に誰もが首を傾げる中、何故かラブだけはバイロンのその動作に、只ならぬ狂気を感じ取った。

「おい、それを止めさせろ!」

 慌ててラブが言葉を発するが、それを聞いたボディガードの反応は遅い。ボディガードが動き出す前に、バイロンはその笛を力一杯に吹き鳴らした。
 その笛の音は、その場にいる者にはほとんど聞こえない。
 冷や汗をかくラブと、それ以外の面々が変わらず怪訝な顔をしていると、それをみて気が狂れたように笑い出したバイロンは、杖を振り翳しながら叫んだ。

「今のはなぁ、外に控えさせているデーモン種族を呼び起こす笛だ・・・愚かな人間たちには聞こえない。お前達は、全員ここで死ね。私は貴様らの死を見届けてからアビスへと降り、人類が滅ぶ様をも虚しく見届けてやろう・・・!」

 その言葉と同時に、建物の外から俄かに人の叫び声が聞こえてくる。

「ふ、ふははははははは!!私の救済を台無しにした人類に、裁きを・・・!!」

 翳した杖の先端をラブへと向けて、高笑いしながら叫ぶバイロン。
 後退りをしながら逃走の手段を即座に模索するラブ。
 何が起きたのかも分からず慌てるばかりのその他の面々。
 だが、どうしたことだろうか。
 バイロンの宣言に反して、外からは最初に叫び声が一度聞こえたきり、そのあとは荘厳なる破壊のコンチェルトも、愚かなる人類の成す悲痛なアンサンブルも、全く聞こえてこない。
 部屋の外からは何やら微かな騒めきだけが、控えめに届いてくるのみであった。

「・・・・・・ぁぁ?」

 求めてやまない悲鳴と惨劇が一向に訪れないことに対し、なんとも気の抜けた声を上げながらバイロンは周囲を見渡す。
 するとそんな彼に応えるかのように、開け放たれたままの扉から何かが、徐に部屋に飛び込んできた。
 その場の視線の全てが、一斉にそれに注がれる。
 飛び込んできたものは、無惨に切り落とされた大型デーモン種族の、未だ血の滴る頭部だった。

「ひ、ひぃぃ!!?」

 最も扉の間近にいたバイロンが、悍ましい表情で絶命しているデーモン種の頭に驚いて再び尻餅をつく。
 するとその後に、扉から部屋の中へと何者かが足を踏み入れてきた。
 その手には先に投げ込まれたものと同じく、恐らくは一瞬のうちに命を奪われ驚愕の表情を残すしかなかったであろう、二体目のデーモン種の頭部。
 それを手に現れた人物は、色素の薄い肌の色をした細身の女だった。
 女は身につけている衣服こそバンガード市民と殆ど変わらぬのだが、彼女の足元を覆うグリーブから発せられる微風に揺れる美しい銀髪が、明らかにこの地方の民ではないということを示している。
 その佇まいには一分の隙もなく、身体は細身なれど強靭にしてしなやか。武具を手に構えてはいないが、腰には小型の剣帯を下げており、見目美しい装飾の小型剣が納まっている。
 デーモン種の亡骸を持ってそこに現れたのは、グゥエインとの戦闘で破損した装備の代わりに街で買った適当な服を身に纏った、カタリナだった。

「・・・全く、街中でなんてもの呼び出してんのよ」

 呆れたようにそう言ったカタリナは、手にしていたもう一つのデーモン種の頭部も床に放り投げ、それらの召喚者であるバイロンへ冷めた視線を向けた。

「貴方が、バイロン卿ね。私の名は、カタリナ=ラウラン。ロアーヌの騎士よ。縁あってバンガードキャプテン直々の依頼を受け、貴方をアビスリーグなる犯罪集団と結託した罪により、この場にて捕縛します」
「・・・え・・・?」

 カタリナがそう言い終わると、彼女の後ろから出てきた二人の衛兵がバイロンを取り押さえ、その手首に縄をかける。
 だが、そうされている間もバイロンは全くこの事態が飲み込めていない様子で、突如現れたカタリナを呆けたように見つめていた。
 バイロンが従えていた従者は、デーモン種族が擬態していたものだ。その数は二体。人間には戦鬼と呼ばれ恐れられる、殆ど伝説上の存在とも言えるほどの凶悪な悪魔である。
 この戦鬼が二体もいれば、このバンガードやウィルミントンなどの都市をすら壊滅させることは難しくない。一介の都市国家が持つような数百人規模の衛兵隊など、問題なく薙ぎ払える程の力を有した存在なのである。
 これほどの強力な悪魔を従えるものは、アビスリーグに与する者の中でもバイロンをおいて他にはいないだろう。
 それが、目の前に突然現れたロアーヌ騎士を名乗る一人の女に、あっさり斬られたというではないか。
 目の前に転がる首がそれを事実たらしめているが、しかしそんなことを普通の人間が出来るはずなどないということも、バイロンは知っている。
 そこで、漸くバイロンは思い出した。

「ロアーヌ騎士・・・そうか貴様が・・・火術要塞を制圧し、魔海侯フォルネウスと魔龍公ビューネイを退けたという・・・」
「さぁ、どうかしら・・・。衛兵さん、あとは任せるわ」

 そう言いながら衛兵に目配せすると、衛兵は捕縛したバイロンを連れ、足早にその場を後にした。

「ふぅー・・・流石に、肝が冷えたな・・・」

 一連の様子を黙って見届けていたラブは、額の冷や汗を袖で拭いながら深く息をはいた。

「流石、というべきかしら。貴方はこの展開、分かっていたみたいね?」
「・・・まぁな。何しろ一歩間違えていれば、あそこに居たのは俺だったわけだからな」

 カタリナが懐から取り出した手拭いでデーモン種を掴んでいた手を拭きながら話しかけると、ラブはこれまた自嘲気味に笑みを浮かべながらそう応えつつ、すっかり気が抜けたようにどかりとソファに座り直した。

「・・・いや、俺もそこまで馬鹿じゃねぇ。間違えることは、もうない。商いにしろ修羅場にしろ、お前らに刃向かおうなんて気は、もう微塵も起きねぇよ」
「あら、随分と殊勝なことね」
「ふん・・・」

 これ以上お前とお喋りをつもりはない。そう態度で表しながらラブがそっぽを向くと、カタリナは軽く肩を竦めた後、特に何を話すでもなくその場を後にする。
 あとに残されたのは、終始何が起こったのか分からずに怯えていた可哀想な商業ギルド職員と、変わらずラブの後ろに控えるボディーガードたちだけだ。

(・・・刃向かう、か。自分で言っといて馬鹿らしい・・・。忌々しいことこの上ないが・・・俺には、あいつらに刃向って自分のタマがある未来が全く見えねぇ。俺にはアビスの連中なんぞよりも彼奴らの方が、余程恐ろしいものに見えるぜ・・・)

 無意識にラブは、自分の上着の内側に入れている数枚の書簡へと手を伸ばしていた。
 その書簡は、このトレードについてラブへの指示が認められた、ピドナ本社からの指示書であった。
 当然その指示書を書いたのは、副社長であるトーマスである。

(幾重にも張られた伏線と仕掛け。結果がどんなパターンであっても、それら幾重にも張られた糸に操られ、帰結する結果は大枠では同じだ・・・。そして最も恐ろしいのは、その結果へと辿り着くためとなったならば、何ら躊躇なく昨日までの成功を全て切り捨てる決断力・・・。無論、俺が離反をした場合のシナリオもあの男の頭にはあったことだろう・・・。その時、俺は間違いなくあのバイロンと同じ道か、それを上回る悪夢の中に・・・)

 それは想像するだけで、とても恐ろしいことだ。
 ラブはその恐ろしい想像を否定するように小さく首を振り、目を瞑って深呼吸をする。
 ラブがこの場に至るまでに行った具体的な行動は、概ねラブ自身の独断によるものが多かった。
 というのも、どちらかといえばトーマスから送られてきた指示書は、具体的な行動にはあまり触れられていなかったからなのだ。
 こうするように仕向けて欲しい、するとこうなると思うので、次にはああなるように流れを作って欲しい。なお、その手段は基本的に任せる。
 そういった「方向性の指示」が主であったのである。
 しかし、その方向性のチャートが恐ろしいほどに細かい。
 膨大な事前調査データと、それを元にした方向性提示への反応予測。資金の流れや情報の伝達速度を見切った変動予測と、此方からのアクションのタイミング指示。それらを元にした様々な市場関心変化の可能性と、このトレードを取り巻く市場と世論全体をも見据えた展開予測。
 実のところ、それらが記された何通かの指示書を見る間にラブは、トーマスに逆らおうという気など完全に消え失せてしまっていた。

(見ている世界そのものが、完全に俺の理解を超えている。これは・・・ここに書いてあるのは最早、予言みたいなもんだ。一体どこまで視えたなら、この膨大な可能性を掌握してここまでの道筋を描くことが出来るってんだ・・・?)

 彼が今日ここで命拾いをしたのも、何しろトーマスの采配があってのことだった。
 そこに至った手段は、全く分からない。
 全く分からないが、トーマスはウィルミントンで起こったというフルブライト商会本館襲撃事件を殆ど発生と同時に知り得ていて、そこで起こったフルブライト二十三世による新生フルブライト商会設立すらをも読んでおり、このトレードの決着が調印後に覆ることを、一か月前のピドナから「視て」いた。
 早馬で自分が一連の流れを知り得た頃には、状況を既にトーマスから聞いているというロアーヌ騎士を名乗る女が彼の前に現れ、これから起こるかもしれない有事に備えての護衛を担うなどと言われたのである。
 聞けばこの女の名前は、カタリナというではないか。
 カタリナといえば、このカタリナカンパニーの社長の名だ。確かに、その女の顔は以前にメッサーナジャーナルで見た覚えがあった。
 社長を配下の護衛に起用するなんて馬鹿げた采配もそうだが、なにしろここまでの全てを、流通が途絶し陸の孤島と化したピドナから指示しているなど、今この段階になっても全く信じることが出来ない。
 今この場で後を振り返ったら、実は部屋の隅にトーマスが隠れてました、とでもいう方が、余程得心がいくというものだ。

「・・・・・・」

 一応、後ろを振り返ってみる。
 しかし、そこには誰もいる様子はない。

「・・・おい」

 視線を前に戻して気を取り直したラブは、未だ呆けているギルド職員へと声をかけた。

「は、はい?」
「トレード相手が指定金額を振り込まなかった場合はどうなるんだ」
「あ・・・はい、えっと・・・。・・・ルールブックのトレード決着について書かれた第十七条二項で、何らかの事情によりトレード決着金の納付を行えない状況が確定した場合は、これを白紙撤回の上、商会ギルド調査の上で・・・」

 職員が手元にルールブックを取り出して中身を確認しながら読み出すと、その途中でラブは煩わしそうに手を振った。

「後のことは、今はどうでもいい。つまり今回のトレードは、ノーゲームでいいんだな?」
「は・・・はい、そうなります。カタリナカンパニー様は不履行を受けた側になりますので、後日当ギルドを通じて先方からの違約金を受け取る権利が・・・」

 しかしラブは職員の言葉を最後まで聞く気もなく、さっさと立ち上がると扉へ向けて歩き出した。

「後のことは、ピドナ本社とやりとりしてくれ。どうせ流通断絶すらも、間も無く終わりに向かうんだろうからな。俺はもう、お役御免だ」

 ラブは不機嫌そうにそう言いながら立ち止まって、懐からシガーを取り出す。すかさずボディーガードがシガーの端をカットし、もう一人が朱鳥術を組み込ませた魔術具で火を起こした。
 シガーを火に当て、何度か吸って煙が立つと、ラブは勢いよく煙を口内に含み、鼻から吐き出す。

(・・・俺だって、このまま終わる訳にはいかねぇ。トーマスどころか、あのキャンディの小娘にまで舐められたままじゃ、絶対に終われねぇ。とっととヤーマスに戻って、仕事に取り掛からなきゃな・・・。裏稼業になくとも、このドフォーレこそが最も優れた商会だってことを証明してやる・・・そして売上でアイツらの鼻っ柱をへし折ってやるさ・・・)

 既に、新たなビジネスプランはある。そこでの早期垂直立ち上げを脳裏にありありと描きながら、ラブは葉巻を咥えながら足早にバンガードの商業ギルド会館を後にした。







「ゲヒ・・・ギャヒ・・・ッ!!」

 鈍色の一閃が、寸分違わず人型に擬態した悪魔の頭蓋を貫く。
 小さく断末魔の悲鳴をあげた悪魔は、シャールが放った槍の一撃で呆気なく絶命した。
 その間に同じくミューズとトーマスが、それぞれ術と槍で周囲にいた小型の魔精を屠る。

「・・・よし、討ち漏らしはなさそうだ」

 シャールが周囲を警戒しながらも魔物の気配を感じないことを伝えると、トーマスも同じく周囲にそれらしい気配がないことを確認して折りたたみ式の槍を畳んだ。

 彼らが踏み込んだのは、ピドナ旧市街の片隅にある、ほとんど倒壊間近のような有様の簡素な荒屋だった。その荒屋の外には、申し訳程度に誂えられた木製の看板に「魔王殿観光組合事務所」と書かれている。

「蓋を開けてみればありきたり・・・とも感じますが。しかし企業としての活動実態があまりに無さすぎて、盲点でしたね。灯台下暗し、の助言がなければ、発見が致命的に遅れていたかも知れません」

 そう呟きながらトーマスは、魔物の血飛沫で汚れた卓上の書面を手に取った。そこには、全く利益が出ていない様子の見窄らしい数字が並んだ、空白の目立つ決算表が記してある。

「企業としてのオーラムの動きを見る限りでは、ナジュ地方あたりに本部を置いているものと想定されていましたが・・・リーグの指示役は、ここだったのですね」

 トーマスに倣ってミューズも近くの棚の中身を検分しながら、誰に当てるでもなく呟いた。

「魔物が商売に携わっているどころか、世界規模の同盟まで結成しているとは・・・。この事例以後も、再発を防ぐべく警戒せねばならんな」

 シャールは二人に物品の探索を任せて荒屋の中を警戒するようにしながら、奥の部屋へと慎重に歩を進める。

「・・・トーマス殿、ミューズ様、こちらへ」

 そして奥の部屋に進んだシャールから声をかけられ、二人は一瞬顔を見合わせてからシャールの元へと向かう。
 ちょうど荒屋の奥まった部屋の入り口に立っていたシャールは、近づいてきた二人の気配を察すると体ごと避けるようにして、自らの目線の先にあったものを二人にも見せた。
 元は物置の用途かと思われる狭いその小部屋は、殆どものが置かれておらず、ただ部屋の中央には青白く鳴動する紋様が描かれた不気味な円形の物体が、悍ましい瘴気を微かに漂わせながら鎮座していた。

「これは一体、なんなのでしょう・・・」

 明らかに異様な空気を察してか、ミューズはシャールの後ろに控えたままでそう呟く。
 その判断は賢明だと思いながら、しかしトーマスは歩を進めてシャールよりも先、鳴動する円形の物体に近づいた。

「トーマス殿、あまり近づいては」
「いえ・・・大丈夫です。これは恐らく、魔王殿の深部へと移動するための魔導器です」

 トーマス自身の身に覚えがあるわけではないが、彼にはこれが何なのか、なんとなく分かっていた。自分の中にいつの間にか紛れ込んでいる何者かの記憶が、この台座型の魔導器の正体を教えてくれるのだ。
 だが、辛うじて分かるのは移動用魔導器、という部分までだった。
 これが魔王殿のどこに繋がっていて、それは往復可能なものなのか、片道なのか。人が利用しても大丈夫なものなのか、そうではないのか。
 それら詳細に関するような情報は、掠れた記憶からは判別することは不可能だった。

「・・・これは、ここで壊しましょう。新たに魔物がここから現れても厄介です」

 そう言いながらトーマスが再び槍を取り出そうとすると、それを左手で制したシャールは銀の手に構えた槍を狭い通路で器用に振り上げ、上半身のバネを使って紋章の台座に鋭く突き立てた。
 ガシャリ…と慣れない類の手応えがあり、その後すぐに台座から鳴動は失われ、魔導器はどうやらその機能を永遠に失ったようだ。

「・・・これで、終わったのか?」

 破壊した台座から槍を引き抜きつつ、シャールはどうにも釈然としない様子で、小さくそう呟いた。

「そうですね、これでアビスリーグについては、一先ず元凶を絶ったかと思います。残党と思しき企業もリブロフとナジュに絞られましたので、あとはキャンディとポールが仕留めるでしょう」

 だが、しかし。
 そんな言葉を口にする寸前で飲み込むように少し俯き、トーマスは物言わぬ台座へと視線を落とした。

(・・・このアビスリーグは、魔物が人間に対して、同じ文化レベルでの謀略が可能であるということの証明に他ならない。いや・・・これほどの大規模な行動に移すまでフルブライト二十三世様しか気が付けなかった時点で、もはや人を超える策謀を巡らせることが出来るようになっていると言っていい。そして、恐らくこれを仕掛けたのは・・・)

 ふっと顔を上げたトーマスは、まるで壁の向こうを見るように視線を中空に投げる。
 この粗末な荒屋の先には、スラム化した旧市街の住人ですら好んで立ち入りはしない。なぜならその先には、未だ立ち消えぬ瘴気を漂わせた暗黒時代の遺物、魔王殿が佇んでいるからだ。
 今にも崩れ落ちそうな壁の向こうにあるであろう魔王殿へ視線を向けながら、トーマスは己の中にある妙な確信について、密かに戦慄を覚えていた。

(仕掛けたのは恐らく・・・四魔貴族、魔戦士公アラケスで間違いない。俺の記憶に紛れ込んだ何者かの記憶が、そう告げている・・・)

 現代に生きる人類が知ることのできる四魔貴族に纏わる逸話は、主には聖王記の中に記された聖王による討伐譚と、その前時代について書かれた魔王伝記なる章などに、簡潔な記載があるのみだ。
 そこに記されるアラケスの討伐譚では、聖王三傑たるパウルスの手引きにより魔王殿へと進軍した聖王によって討ち取られた、としか描かれていない。
 また魔戦士公という爵位名からか、後世に生まれた様々な創作物でも、非常に好戦的な存在として描かる事が多いのがアラケス公の常だ。
 しかし、実際の魔戦士公は、そんな単純な存在ではない。

(・・・むしろ他の魔貴族のように天空、海中、密林などの進軍不可能な立地ではなく、唯一進軍が安易な魔王殿に居を構えながら、聖王を最後まで苦しめた存在だ・・・。その事実が指し示すところはつまり、武は元より、そこに知略をも兼ね備えた恐ろしい将であるということ・・・)

 経済界において特段に大きな事変となった、ドフォーレ商会の台頭やアビスリーグの暗躍。これらがそもそも魔戦士公の仕掛けた罠の一つであろうと、今になってトーマスは確信していた。
 奇しくも、聖王記の順をなぞるかのようにして四魔貴族をアビスへと追い返すことに成功しているカタリナらであるが、どうにもトーマスには、この最後の四魔貴族が圧倒的に不気味な存在に思えてならなかった。

(正直、他の魔貴族とは相対する上で難易度が桁違いにも感じる・・・。魔物に加え人をすら動かしてマネーゲームを展開するほど人界に精通し、更にはアビスの魔物を自在に動かすことのできる圧倒的な暴力を兼ね備えた存在・・・。いくらカタリナ様といえど、力一本で押し通せる存在であるとはどうしても思えない・・・)

「・・・トーマス様?」

 壁を見つめたまますっかり押し黙ってしまったトーマスを心配するように、ミューズが傍からトーマスを覗き込む。

「あぁ・・・失礼、なんでもありません。目ぼしい書面を回収して引き上げましょう。この後も、やることは山積みです」

 ミューズの声で物思いから現実に引き戻されたトーマスは気を取り直し、その場から踵を返して書類の散乱した部屋へと戻っていった。







 終わってみれば、それはまるでお祭り騒ぎのような出来事であった。
 ドフォーレ商会の時を遥かに上回る規模の経済戦争の裏で、一時はメッサーナ王国の存亡すらが揺れ動いていたというのに。
 それがいざ終わってみたら、まるで一夜の熱狂がすっかり醒めてしまったかのように、各方面では静かに粛々と後片付けが行われているのだ。
 正しくそれは非日常の熱に浮かされたお祭り騒ぎそのもので、今はその翌朝に訪れる一抹の虚しさそのもののように、トーマスには感じられた。

(・・・今回は辛うじて切り抜けたか・・・)

 連日の後処理に奔走する中、どうにも眠りが浅く目覚めてしまったトーマスは、一人早朝のピドナ市街地を港の方へ向けて歩きながら物思いに耽る。
 既にアビスリーグを中心とした騒動の終焉から、あっという間に一ヶ月が経とうとしていた。
 その間にカタリナカンパニーの支援を受けて再建の道を歩み出したアルフォンソ海運とメッサーナキャラバンは、取り急ぎ同業他社から船舶や馬車の買い付けを行い、あっという間にピドナの流通は回復。既にピドナ港は、以前と変わりの無い様相を取り戻し始めている。
 メッサーナ王宮からの緊急出庫の継続もあり、銀行機能も危機を脱出。ピドナ内部での経済混乱自体も収束へと向かっている。
 それに伴い各国の動向もピドナ流通断絶以前の状態に表向きは戻り、世界は本当に、まるで何事もなかったかのように振る舞っているのである。
 アビスの魔物が裏で糸を引いていることにすら気が付かず、秘密裏にアビスリーグと取引を行っていた形跡がある各国の要人たち。彼らを今回どうにかすることは、出来ないだろう。
 彼らのように権力ばかり持つ短慮な存在は確かに今後も世界に対するリスクではあるが、恐らくそれは今後ルートヴィッヒ軍団長らが対処をしていく事柄であり、自分たちがこれ以上の関わりを持つことは現時点ではないだろうとトーマスは考えていた。

(・・・ナジュとリブロフ方面でも、アビスリーグの要所を落とす目的でポールとキャンディが上手くトレードを仕切ってくれた。結果として当社の利益は今期も伸長したしな・・・)

 ここは結局相手も本丸でなかったためか想定以上に順調に進み、現地のアビスリーグを根絶すると同時にリブロフ、ナジュ方面にカンパニーの基盤を作ることに成功した。
 これでカタリナカンパニーは、現在描かれている地図上の全地域へと商圏を広げたことになる。これは経済界でも、フルブライト商会に次いで歴史上二社目となる偉業だ。

(そしてそのフルブライト商会は、フルブライト二十三世様を真なる盟主とした新生フルブライト商会へと生まれ変わり、まるで何事もなかったかのように世界一を維持している)

 かねてよりフルブライト二十三世は、父である二十二世からの完全な脱却と実権継承を目論んでいた。それは、出会った頃より分かっていたことだ。
 そのために彼は表向きの無気力を演じ、放蕩外遊と称して世界各地を精力的に回り、水面下で強かに準備を進めていたのである。
 彼の中ではもっと完璧に準備が終わってから事を起こしたかったという展望はあったのだろうが、それを押してこのタイミングで奮起を選択してくれたことは、今回の事態収拾に向けて大いに助かったというもの。
 彼の英断を、心から称えたい。

(準備不足など微塵も感じさせないほど、鮮やかな旧母体の取り込みだった。既に新会社の登記社名もフルブライト商会に戻してしまったというのだから、世間的にはフルブライト商会の中で何が起こったのかさえ、全く分かっていない者が殆どだろうな・・・。そしてバイロンという右腕を失った二十二世様には残念ながら、再起の道はないだろう。勘付いた者がいても、これではもう何ができるわけでもないのは確実だ・・・)

 当然フルブライト二十三世とて、あの極限状況を利用するつもりで勝負に出たのだろう。
 確かにあそこでバイロンごと仕留めるのは、彼の覇道を成すためには良い機会であった。此方が助かったと同時に、彼方も助かったというわけだ。
 正しく、有意義なトレードが出来たと言えるだろう。

「・・・本当に元通りだな」

 気がつけば、港に辿り着いていた。
 既に船舶周辺では人々が忙しなく荷下ろしと搬入に追われており、一ヶ月前の閑散とした港など本当になかったかのようだ。
 トーマスはその様子をみて思わず呟き、次には人混みを避けるようにして大型港湾地区とは反対の小型船用港へと歩み出し、そこで丁度良さそうな小さな埠頭を見かけると、その桟橋の先端まで行ってから徐に、その場に腰を下ろした。

「・・・・・・」

 なに故かトーマスの中には、上手く表現のできない不安が渦巻いていた。
 それは、旧市街であの転送用魔導器を見た時から一ヶ月の間、ずっと彼の中に渦巻いているのだ。

「・・・何かお悩みですか?」

 誰もいない事を確認してから腰掛けたはずの埠頭桟橋であったが、トーマスの背後から、不意にそんな声がかかった。

「・・・何だか貴方が来るのではないかと、少し期待していましたよ」

 トーマスはその声に振り向かず、しかし誰なのか分かっているように答える。

「ふふ・・・お見通しでしたか。カタリナさんは毎回、とても驚いてくれるのですがね」

 そう言いながら桟橋の先端に座るトーマスの横まで歩み寄ってきたのは、朝の閑散とした港にはとても不釣り合いな鮮やかな衣装を見に纏った人物。
 聖王記詠みを自称する詩人だった。

「今回の件、貴方の言葉には大いに助けていただきました。ありがとうございます」
「いえいえ、私は特にはなにも。事態を解決へと導いたのは、間違いなく貴方の手腕によるところでしょう」
「私の手腕・・・ですか」

 詩人の言葉に、トーマスは思わず苦笑する。苦笑というよりもはや、それは自嘲に近いのかもしれない。
 何しろ、彼は今回の件について、まるで自分の力が及ぶような出来事ではなかったなと、いま改めて感じているからだった。

「貴方は、一体何者なのですか?」

 思わず口をついて、そう尋ねる。
 トーマスがこうして詩人と会うのは、もう四度目になるか。
 最初は、ピドナの老舗パブ、ヴィンサントだ。あれは確か、ユリアンとモニカのために開いたささやかな祝宴の席だった。
 次に会ったのは海上要塞と化したバンガードにて、カタリナへロアーヌの危機を知らせに向かった時。そして前回は、このピドナが大いなる混乱に陥る直前だったと記憶している。
 こうして会うのは確かに四度目ではあるが、しかしこの人物が一体何者であり、なにを目的としているのか。それは今の彼にすら、全く掴めるところではないのだ。
 彼はそれを、恐らくとても驚異的な事なのだろうと感じている。

「以前にもここで、カタリナさんに同じ事を問われましたねぇ」

 実に呑気な様子の声色で、詩人はそう言いながら自分の顎を撫でた。
 どうやら、真面に答える気はないようだ。
 トーマスがそう判断して答えを待つでもなく海面へ視線を投げかけていると、詩人はくるりと反転し、海原へ背を向けた。

「まぁそれはまた、いずれ。とはいえ・・・貴方はその時が来る前に、気づくかもしれませんね。何しろ貴方は、どうやら最も色濃く稀代の策謀家の記憶を引き出しているようですからね」

 詩人はそうとだけ言うと、ゆっくりと歩き出した。
 トーマスは肩越しに横目で詩人の後ろ姿を見るが、そこに映るのはやはり、単に派手な衣服と特徴的なとんがり帽子を身につけただけの人物だ。

「あぁ、そうです。現れたからには一応、何かタメになりそうな助言をしておきましょうかね。希少な私の役どころですし」

 そう言って立ち止まった詩人は、トーマスと同じように肩越しで彼を見返しながら、ゆったりとした様子で微笑みながら口を開いた。

「もし今後、皆さんに鍵が必要になったなら。それは、きっとポドールイにあります」
「鍵・・・?」

 ここまでと全く脈絡のないその言葉に、トーマスは思わず上体ごと捻って詩人へと視線を向ける。
 だがそれに対して詩人は帽子を目深に被り直して会釈してみせただけで、再び市街地へと向けて歩き出してしまった。
 トーマスはその後ろ姿をしばし見つめていたが、しかし後を追ったところで仕方がないのだろうなと思い直し、ゆるやかに揺蕩う水面へと向き直った。
 詩人の言葉の意味は、もちろん気に掛かる。
 鍵とは一体、なにを指しているのか。
 ポドールイといえばあのヴァンパイアであるレオニード伯爵の領地だが、鍵と彼とは何か関係があるものなのだろうか。

「・・・まぁいいか」

 そう呟き、トーマスは後頭部に回した手を組み、ごろんと埠頭の桟橋に寝転がった。
 今は、あまり何かを考える気分になれない。
 ただ相変わらず彼の中にある得体の知れない不安と、それをどうにかしようとする彼の中の彼ではない部分との鬩ぎ合いがあって、それをずっと観客席から本当の自分が鑑賞しているような気分だ。
 それを腹の中に抱えながらこの一ヶ月間、いやもっと前から、トーマスは動き続けていた。
 彼は分かっているのだ。
 自分が、元々そこまで強い人間ではないという事を。
 今回の事態にここまで冷静に対処できたのは、本来の自分を超えた八つの光としての授かり物のおかげだ。
 誰よりも素早く情報の収集と伝達が世界中にできたのも、フェアリーの持つ念話能力とそれを中継することができる聖王遺物という強大なオーパーツがあって、初めて成立したものだ。
 それもこれも全部、トーマスが持っていたものではない。
 そういう過ぎた力をトーマスという名の凡人が無理矢理扱っているのだから、そろそろ無理が祟ってくるのではないかな、なんて。
 本当はそんな展開を、少し期待すらしている。

「ユリアン・・・エレン・・・」

 不意に、今は離れている同郷の仲間を想う。
 物事全てに直向きな男友達と、妹想いの男まさりな女友達。彼らと始めたシノンの自警団での日々が、今はとても懐かしい。
 そしてピドナにきてから今に至るまでの怒涛の日々を思い返し、自分の中の不安はなんなのかという部分について、少し認めたくない程度にはすんなりと、自分の中で腑に落ちたのだった。

「サラ・・・」

 ピドナに於いてはよく気の利く秘書であり、同郷の仲間としては活動的な他二人の陰に隠れながらも、その実は芯のしっかりした考えを持つ利発的な妹分。
 そんなサラが彼の元を離れたのも、もう半年以上前の話になる。ピドナに来てからも一緒だった彼女とここまで離れているのは、今までになかった事だ。
 気がつけばひょっこり帰ってくるんじゃないかなんて、今も常に頭のどこかで期待している自分がいる。

「・・・そうだ。俺は弱いし、一人では何ができるわけでもない。それが分かっていれば、まだ大丈夫だ・・・」

 先ほどまでの朝焼けからすっかり青く染め上がった空へ、小さくそう呟く。
 彼の言葉は海風に吹かれ、まるでトーマスの儚い願望もろとも打ち消してしまうかのように、霧散していく。
 そのまま海風と波の音に体を預けながら目を瞑ると、トーマスは束の間の浅い眠りに落ちていった。








最終更新:2023年07月23日 18:26