全世界が注目する、歴史上類を見ない巨額レートで争われたトレード。
その記念すべき会場となったバンガード商業ギルド会館の一室にて今まさに、その史上最大トレード終了の調印が成されようとしていた。
この歴史的なトレードは、通常の開催期間とほぼ変わらず凡そ一ヶ月間の中で行われた。
期間中で両社の間に積み上がったオーラム総額は、なんとここ十年の過去トレード累計額を全て合わせても全く及ばぬほどで、まさしく未踏の領域であった。
そんなトレードが終結する様子を、至極満足そうな表情でソファに腰掛けながら見下ろしていたバイロンは、その脳裏でゆっくりと、ここまでのことについてを思い返していた。
バイロンが真なる目的に向けて動き出したここ十数年の中でも、この数ヶ月間は正に正念場。実に、激動の日々であった。
ただ、それは当然に予想されていた事でもある。
一年ほど前にピドナ旧市街で起こった、『予兆』。
全世界へと向けて発せられたあの知らせこそが、世界を取り巻く激動の時代の訪れを告げるものであったのは、明らかだった。
それに伴い、彼はいつどこで何が起きても良いように急遽の様々な仕込みを行ってきた。そしてその結実が、今まさに目の前で成されようとしているのだ。
着地としては十分に満足のいくものになったわけだが、しかしここまでの道は決して平坦ではなかった。
その中でも特段、彼の中で大きく想定外であると判断した出来事が、三つだ。
まず一つ目は、カタリナカンパニーという無名の新興会社がフルブライト商会にトレードを挑むという、まさに理解不能の暴挙に出たこと。
激動の時代だからこそというべきか、これは最も大きな想定外であり、そして同時に好都合な想定外でもあった。
何しろ、アビスリーグという力を利用してフルブライト商会掌握を企てている彼にとって、これは己の『品格』を高める儀式として絶大な利用価値があると考えられたからだ。
バイロンという男は、ウィルミントンきっての紳士であり、公私共に品位を重んじる。特に商売事に関しては、彼としても確固たる矜持があるのだ。
例えばドフォーレ商会のような、野蛮で品位の欠片もない、下賎な商い。
あのような所業は、全く彼の好むところではない。それでいて同じアビスリーグの同志などと、冗談だとしても耐え難い思いだ。
同じく大規模商会として名の上がるラザイエフ商会も、駄目だ。あそこはドフォーレほど品性下劣ではないが、残念なことにあそこの一族経営者層は類稀なる才覚を持つ者を欠き、その商いの様子からは全く矜持の類が感じられない。このまま無能な一族経営が続けば、自ら手を下さずとも自ずと衰退していくのは、火を見るより明らかだろう。
そんな彼が最も好ましく思っていたのは、今は亡きクラウディウス商会であった。
家系や土地柄のためか些か政治力に頼った運営ではあったものの、その商いの仕方には確かな品格があった。ルートヴィッヒ政変により当主が命を落としたことは個人的には非常に残念ではあったが、いずれは排除すべき存在であったことから、心の中で静かに手向けたものだ。
このような趣向を持つバイロンという男が、世界一の商会であるフルブライト商会を手中に納める。
この偉業を成し遂げるにあたり、そこには絶対に譲れない条件があった。
それは即ち、世界中の誰もが彼を世界一の商会の真なる主として歓迎する形での台頭、である。
聖王の時代から続く、商会の伝統に則った早期の世代交代。それにより一見表舞台に出ることのなくなった旧知の先代会長と、片や実務能力皆無の当代会長。
その間にいて実質的な商会の実務担当筆頭である彼は、既に経営者としての実力という意味ならば、フルブライト商会を掌握するには申し分ないであろう。
それは、商業ギルドに属する者であれば誰しもが口にせずとも理解していることであった。
だが、それだけでは全く駄目なのだ。
名実共に世界一であり、伝説の聖王の系譜にも連なる、由緒正しい唯一無二の歴史を歩む商会。
斯様に品格高きフルブライト商会であるからこそ、その当主の名を一族以外の者が引き継ぐには、世界が諸手を挙げて受け入れるような大義名分。即ち、相応の格というものが必要なのである。
それをバイロンという男が世界に対して示すのに、この誰もが注目する史上最大規模のトレードを越える舞台は、恐らくない。
そう彼は考えたのであった。
次に想定外であったのは、そのカタリナカンパニーとのトレードの場に現れた、ラブ=ドフォーレという男の存在だ。
ラブの父であるモンテロ=ドフォーレが魔物の擬態となっていることは、アビスリーグによる情報網でバイロンも把握していた。故に、単なる商売敵という以上の関心で、彼はドフォーレ商会の動向を十数年注視してきたのである。
そして昨年、モンテロに扮した魔獣が討たれたと聞いた時、これでドフォーレ商会は完全に終わったなと考えていたのだ。
しかしてその息子がまさか父の狂気を受け継ぎ、よもやカタリナカンパニーの中に潜伏していようとは。
これは、彼にとっても全く想定外であった。
そして当然ながらこれも、彼にとっては実に歓迎するべき想定外だと言えるだろう。
ラブがカタリナカンパニーの内部で情報を操作し此方と連携することで、トレードの勝敗が更に確固たるものとなるのは間違いないからだ。
無論、元よりバイロンはラブなどという外的要因を利用せずとも、カタリナカンパニーとのトレードに勝つ算段を確りと確保していた。
なにしろ彼は商会資産以外に、アビスリーグが保有する莫大な資金を秘密裏に同盟支援金として利用できるのである。
その保有総額は実に、フルブライト商会総資産の倍額に迫る程にもなる。
今回カタリナカンパニーが打って出た、ヤーマス塩鉱を担保にする、というこれまでに例をみない集金手法。その着眼点には確かにえらく関心したものだが、それでも此方の資金量を上回ることは不可能だろう。
ドフォーレ商会とのトレード直後で自社資金の不足に陥っているカタリナカンパニーが、流通孤立状態である今のピドナ王宮と組んで出せるであろう額。
これは精々が二十億オーラムあたりまでであろう、とバイロンは踏んでいた。対して同盟資金と自社資産を合わせればその倍額まで確保できる彼には、その時点で一分の隙もなかったのである。
だが、トレードとは単なる物量戦ではない。
トレード開始前やその期間内に様々な駆け引きが存在しており、それによって着地をどう定めていくかを様々な要素を元に導き出す、芸術品にも近い唯一性のある工程を踏むのである。
時には一筋縄では行かず、物量ではなく時代の風によって結果が変わるといったようなトレードも、彼は何度も見てきた。
故に今回の要素の中に入ってきたラブ=ドフォーレという存在は、彼にとっても一世一代であるこのトレードを更に確固たる勝利に導くために時代が齎した要素であると捉えた。
精々彼も上手く扱い、このトレードの先を理想の展開へ導くべく、事を運ぶだけだ。
そして最後の想定外は、フルブライト商会の当代会長であるフルブライト二十三世である。
これは三つの想定外の中で唯一、歓迎すべきではない想定外であるといえた。
名ばかりの会長風情が、身の程を弁えずに商会内で何やら嗅ぎ回っている様子である、ということ。これは比較的早い段階で、彼の耳にも届いていた。
そこで彼はフルブライト二十三世を、この機に抹殺することを段取りに加えて実行に移したのである。
だが驚くべきことに、フルブライト二十三世はそれに抗い生き残った。
思い描いた通りの着地にならぬこと。それは実に、歓迎すべきでない想定外である。
とはいえバイロンは、その程度で取り乱すような肝の小さな男ではない。紳士は、無様に喚くことなどあってはならないのだ。
初手は確実性に欠けるものの騒ぎになり難い手段として、暗殺者による襲撃を採用した。
そして次には、多少の騒ぎや事後処理が面倒ではあるものの、そのぶん確実性の高い魔物を用いた襲撃を行なった。
この二つの襲撃を、なんとあのフルブライト二十三世は乗り切ったというのである。
バイロンの知る甘ったれの小生意気な「ブライトJr」からは考えられない、まさに奇跡としか言いようがない展開だ。魔物をけしかけてウィルミントンからバンガードに戻る最中、襲撃の失敗を聞いた時は、流石に我が耳を疑ったというものだ。
雇われの暗殺者はともかく、騎士団でもなければ相手にもならない強力な魔獣らを如何にして退けたのか。それは、相応に興味が湧くところではあった。
まさかとは思うが、ここ最近で噂に聞く四魔貴族討伐の英雄と言われる何処ぞの騎士にでも、たまたま助けてもらったのだろうか。
この点、仔細に関する興味は尽きない。
だが、それすらもバイロンは予定外の楽しみとして受け入れようと思えた。
商売とは、ゆめゆめ想定通りには運ばないものだ。それをこれまでの経験によって深く理解しているからこそ、この状況変化をも加味しながら、バイロンは新たにシナリオを描くだけなのだ。
何事も、全て筋書き通りでは面白くもない。
だからこそバイロンはフルブライト二十三世の処遇を今回は急がず、先ずはこのトレードを確実に美しく終えるつもりでいた。
例え生き延びたフルブライト二十三世がどのように足掻いたとしても、今更このトレードの大勢を崩すことなど出来はしない。そして此方がウィルミントンの街を盾にしていると思い込ませている以上、向こうは迂闊に手を出すことも出来ないのだ。
陰に隠れて何をこそこそとしていたのか、その理由までは知るところではないが、この程度のシナリオ変更ならば大きな支障はない。
斯様に想定外の要素がいくつかあったものの、あとはどのようにこのトレードの終結を大々的に世界に喧伝するか、である。
それこそ、フルブライト二十三世のように各国を外遊し、改めて各地の商業ギルドを通じその存在感を直に知らしめるのも悪くない。
あとは近々、改めてフルブライト親子に舞台から退場してもらえば、自ずと世界の方から新たな当主を求めるだろう。
その時こそ、彼が最も輝く時なのでなる。
脳内でそれらの構想を練っている間にも、バイロンの目の前でトレード終結の調印の準備が、間も無く終了するところであった。
「・・・そ、それでは双方合意の元、フルブライト商会による買収阻止の成立にて本トレードの終結をここに宣言し、双方の調印後は速やかに提示資金を商業ギルド経由で共通口座に納付・・・後にフルブライト商会主導にて権利譲渡取引を行なってください。よろしいですね・・・?」
立会人となるギルド会館職員の強張った様子の宣言に、バイロンは何の問題もないという様子で頷き、テーブルの向かいにいるラブ=ドフォーレがそれに追随する形で同じく頷いた。
立会人は今まで見たことがないだろうと思われる擬似オーラム貨幣の山を前に緊張しているのだろうが、反面バイロンとしては少々物足りない結果に終わったな、とも感じていた。
彼らの目の前に積み上がっている擬似オーラムは、総計で大凡二十五億オーラム分ほど。
無論、これまでの歴史上でも最も多くのオーラムが積み上げられたトレードであることには、何の疑いの余地もない。
昨年にあったカタリナカンパニーとドフォーレ商会のトレードでは、これまた歴史上類を見ない額面として合計五億オーラム程が積み上がったと聞き及んでいるが、今回その五倍ともなれば、記録としては当然だろう。
しかし、元から相手の倍額までを想定していたバイロンからすれば、少々物足りない額で終わったな、というのが正直な感想でもあった。
今回の提示額面はフルブライト商会が十四億オーラム、カタリナカンパニーが十一億オーラムとなっている。
ラブが元々このトレードに挑む際の初期裁量として本社から落とされていた額面は、十億オーラムだった。これは、おもてなしを受けた夜に本人から直接、聞き及んでいたことだ。
つまり着地としてはそこから追加で一億を乗せた格好ではあるが、恐らくそこからもっと積もうと思えば本社に掛け合って積むことはできたのであろう。
だがラブとしては、最早「そこまで接戦を演じる義理もない」というところなのだろう。
彼はこの『茶番』をとっとと終わらせ、この後アビスリーグから秘密裏に受ける予定の融資でドフォーレ商会を独立復活させたいのだ。
実際このトレードの後半二週間ほどは、その殆どがトレード後の話し合いに終始した。これらの内容を先んじて突き詰めたのは用心深いラブが望んだ事だが、その中でラブが想像以上に実務能力に長け、またきめ細やかな論旨進行を行う人物であると発見できたのは、今後の利用想定を固める上では僥倖というものであろう。
そしてその調整も終わった今となっては、ラブとしては一刻も早く計画を実現させたいことだろう。となるとこのトレードをこれ以上長引かせるなど、一切望まない事であった。
バイロンとしてはもう少し競り合いによる盛り上がりがあってもいいかとは思っていたが、とはいえこの時点でも歴史上類を見ない最高額トレードであることに変わりはない。ここは、彼の早る気持ちを優先してやっていいだろうと考えた。
今後バイロンが率いるフルブライト商会としても、ドフォーレという存在がいることは何かと都合が良いことが多い。なので、ドフォーレ復活が早いに越したこともないのは確かだ。
「そ・・・それではここに、これにて本トレード商談の終了を宣言いたします。双方、速やかに拠出資産の納付手続きをお願いいたします」
立会人であるギルド会館職員の宣言に則り、バイロンとラブの双方はゆっくりと立ち上がってお互いに視線を僅かに交わらせ、積み上げられた擬似オーラム金貨越しに形ばかりの握手を交わしたのであった。
全世界が注目した史上最大のトレードは、挑戦者であるカタリナカンパニーではなく、受け手であるフルブライト商会の勝利によって決着した。
このニュースがそれこそ瞬く間に、世界中にあらゆる手段で伝播していくのに、左程も時間はかからなかった。
むしろこのトレードの結果をいち早く知るためだけに、各国の特使がバンガードに連日詰めかけていた程である。特使らは幾人もが入れ替わり立ち替わりとなって、段階的な情勢進捗を逐一母国へ連絡し続けていた。
故に商業ギルドが正式な結果発表を行う頃には既に、各国には大勢が決したことは情報として持ち帰られていたのである。
ここまで各国が欲しがる今回のトレード勝敗の結果が意味するものは当然ながら、単なる企業同士の勝ち負け、などということではない。
確かに経済界の今後を占うトレードとしても、今回の勝負は十二分に注目に値する催事ではあっただろう。
だが今回の結果の真なる価値とは、このトレードの裏に公然と隠されていた『流通孤立によるピドナ弱体化の真偽』である。
史上三度目となる大災害・死蝕の発生から十七年が過ぎ、アビスの魔物が日夜じりじりと勢力を拡大させていく途上。
人類の行く末には陰鬱なる暗雲が立ち込めんとしたその最中、ロアーヌ軍による四魔貴族ビューネイの撃退という、人類にとって非常に喜ばしい知らせで幕を開けた本年。
しかしながら、そこから急転直下で起こったのがピドナ経済危機だった。
その結果としてアルフォンソ海運とメッサーナキャラバンが経営破綻を起こし、この二大陸海運の破綻により、ピドナを介して世界を繋いでいた流通大動脈は、実に呆気なく断たれてしまった。
これにより俄然、打倒ルートヴィッヒに色めきたったメッサーナ王国の各都市軍団長を中心に、世界中の主要都市国家のほぼ全てが、メッサーナ王国首都ピドナへの武力侵攻を考えたのである。
なにしろこの数年間、世界はずっと指を咥えながら見てきたのだ。
血生臭い政変の結果ピドナを手中にし、その圧倒的な地の利を最大限に活用した狡猾な政策によってルートヴィッヒが世界に振り翳してきた、絶大なる権勢を。
それは誰しもが羨むほどに圧倒的、かつ魅惑的なものであった。
そのピドナが今、大いに弱っているのだとしたら。
なればこの機を活かしルートヴィッヒに代わって偉大なる栄華を欲さぬ権力者など、逆にどれほど居るというのだろうか。
加えて言うなら、ピドナが経済危機と流通孤立により世界中心都市としての機能を果たせていないという状況は、支配者たるルートヴィッヒの大いなる失態に他ならない。それを救済するという大義名分が通るこの状況ならば、かつてのルートヴィッヒのように私欲に塗れた侵略者の謗りを世論から受けることもないだろう。
あまりにも状況が、揃っているのであった。
とはいえ、それでも。
これだけの条件が揃っていてもなお各国は、如何せん動くに動けないでいた。
何しろ相手取るのは、あの狡猾なるルートヴィッヒである。
これら状況の全て、若しくは何れかが「彼の仕掛けたブラフ」である可能性が、どうしても否定出来ないのだ。
それでなくとも昨年からこの年始にかけての一年ほどで、ピドナでは実に目紛しい情勢の変化があった。
ピドナ旧市街で突如として起こった、膨大なアビス瘴気の暴走。
一部では『予兆』とも呼ばれるこの現象の発生を皮切りに、次には近年ピドナで隆盛を誇っていた神王教団支部の壊滅による政権への少なくないダメージ。そして年の後半にはヤーマスの悪徳商会として名高かったドフォーレ商会の成敗によって世間に存在感を示した、前近衞軍団長クレメンス=クラウディウスの娘、ミューズ=クラウディア=クラウディウスの世論台頭。
そして年末のコングレスにて全世界に向け示された、ルートヴィッヒとミューズの共存体制確立という急転直下の展開。
これら怒涛の情勢変動により、各国権力者は非常に注意深く興味深く、メッサーナの中心都市へと熱視線を注いでいた。
そんな中で起きたのが、今回の一連の騒動である。
ピドナのメインバンクまでが機能停止に追い込まれるほどの経済危機、世界最大の陸海運の破綻による流通断絶と続いて、仕舞いにはなんと、絶対的窮地にあるはずのピドナに本店を置くカタリナカンパニーによる、世界最大企業フルブライト商会へのトレード開始宣言ときた。
カタリナカンパニーは公言こそされていないが、近衞軍団と最も深く繋がる企業であるとの噂が、昨年末のコングレス以降は絶えなかった。
そんな企業による過去に類を見ない超大型トレード勃発となれば、当然その背後には近衞軍団がついているであろうと見るのは、少しも可笑しな話ではない。
この危機的状況の最中に斯様なトレードを行う余裕など、果たして今のピドナにはあるのかどうか。
これは、経済危機を隠すためのブラフなのか。
それとも、ブラフだと思わせて挙兵したところを制圧するために張った、狡猾なる罠なのか。
仮にこれが二重ブラフだとしたら、踊らされた国は只では済まないだろう。
それどころか、その国の蛮行を理由に世論を味方につけ、更なる流通規制強化へとルートヴィッヒが舵を切る未来までもが、安易に予測がつく。
だがしかし、単なる危機を隠すためのブラフならば、今こそがピドナを手中に収める千載一遇の機会に他ならないのである。
その真偽の見極めのためにこそ、このトレードは嘗てないほどに世界の注目を集めたのである。
「・・・だが、そんなことはどうでも良い」
バイロンはホテルバンガード最上階客室の窓際に立ち、眼下に広がるバンガードの街並みと、その向こうに広がる広大な外海へと向けて小さく呟いた。
その言葉の通り、彼にとってはそんな凡人たちの事情などは本当にどうでも良いことであった。
勿論この計略をあの状況から打ち立て実行に移したルートヴィッヒの機転と才覚、そして胆力たるや、流石という他ないとは彼も感じ入っている。
実際は、単なる時間稼ぎが目的であったとしても。それでもこの計略は、用意周到な準備の上で世界経済の崩壊と人間同士の分断を目的としたアビスリーグ最大の悲願の結実を、チェックメイト寸前から一ヶ月以上も遅らせてみせたのだ。
これは正に驚嘆、そして賞賛に値する見事な手腕であろう。
アビスリーグはこの計画のために世界各国の要人に対し、世間に溶け込んだフロント企業を通じて数年もの間、極秘に接触してきた。
世界中のリーグ拠点と連動して着実に情報を統制操作し、それらを各国要人に都合よくリークしながら、人類世界の中心に位置するメッサーナ王国首都ピドナを機能停止に追い込むその時を、密かに待ち続けていたのだ。
仮に自分もリーグと同じくそれを悲願としていたのならば、今回のルートヴィッヒには大いに「してやられた」と感じた事だろう。
しかし繰り返すが、彼にとってはそのようなアビスリーグの悲願もルートヴィッヒの機転も、両者の思惑の中で一喜一憂する凡愚共のことも、全てどうでもよい事だ。
このトレードの結果により、各国が我先にとピドナへ侵攻し、間も無くアビスリーグ本体の悲願は成就するのだろう。
そして団結を失った人類は、救世の英雄再誕を自ら否定するのだ。
かつて聖王がアビスに勝利した背後にあったような人類の結束は、即時には不可能となる。
人類はその後、間も無くアビスに敗れ、再び四魔貴族による恐怖支配の時代が訪れることになる。
「・・・これで、人類は正しい道を歩むことができる」
バイロンはこれから起こるであろうことは、破壊と創造である、と捉えていた。
今の人類の進んでいる道は、生物として全く正しくない。
無価値な『血筋』や『家柄』などというものに大いなる価値があると信じ込み、個の持ちうる可能性を捨ててしまった。
才ある者がその才を活かせず朽ち、無価値なものを信じて才能を蔑ろにしてきた凡愚が我が物顔で世界に蔓延っている。そんな人類の先にあるのは、生物としての衰退に他ならない。
それを止めるには、一度今の世界を、間違いごと壊すしかないのである。そして真に力あるものが始まりの荒野に立ち、全てをやり直す。
バイロンは、それを望んでいた。
しかし彼自身には、剣を振るう力はない。
だから嘗ての聖王のように四魔貴族を打ち倒すのは、彼の役目ではないのだ。それは、次なる宿命の子の役割となるのだろう。
バイロンは、聖王の後に人類が進むべき道筋を築いたフルブライト十二世や、聖王三傑にも数えられた初代メッサーナ国王パウルスの役を担うつもりでいた。
彼が最も敬愛する歴史上の人物こそ、聖王三傑にして初代メッサーナ王国の主、建国王パウルスだ。血を捨てきれなかったフルブライトと違い、パウルスはメッサーナの王位継承に養子制度を採用したという点で、非常に素晴らしい。
これは当時どころか今の時代であっても実に画期的で、人類が正しい道を歩むために必要な決断の第一歩だとバイロンは今も信じて疑わない。
そして、経済こそが人類の持ちうる力の中で最も素晴らしい力であるのも事実だ。フルブライトは我が子可愛さからか血筋を尊重してしまった点こそ愚かであるが、それでも世界一の力を手にしているということは非常に評価ができる。聖王の伝説に連なるという品格も、申し分ない。
だからこそ、その力をバイロンが手にし、四魔貴族によって現在の間違った世界が壊され、それを十数年の後に当代の宿命の子が追い払った、まさにその時。
その時にこそ、人類が正しく歩める道筋を、このバイロンが示す。
「そう、これは人類の救済だ。私にしか成しえぬ、救済。私こそが正しい道を築くための、人類の道標に相応しい」
不意に、笑みが漏れそうになる。
バイロンはあくまで上品に口元に手を当て、深く呼吸をして気を落ち着けようとした。
まだだ、まだ笑う時ではない。
彼が高らかに笑い祝杯を上げるのは、首都ピドナが陥落したその時であると、以前から決めているのだ。
大いなる破壊と創造の序曲開演の時にこそ、人類のために祝杯を上げるべきなのだ。
それまでは、素知らぬ顔でフルブライト商会のことだけを考える振りをしていればいい。
こうして笑みを堪えるのに痛く苦労するのも、あと数週間程度の辛抱なのだ。
「組織における属人化や権力の集中というのは、なんとも厄介なものなんだな・・・」
ピドナ商業地区にある邸宅のテラスで日光浴がてら一人紅茶を啜りつつ、トーマスはティーソーサーの柄に目を落としながら、小さくそう呟いた。
未曾有の流通断絶という極限状況にあってか、普段ならばビジネスマンの往来が絶えないはずのピドナ商業地区メイン通りも、今は実に静かなものだった。
この静けさを「不気味」と見ることも出来るのだろうが、トーマスはこの静謐さが何やらシノンの穏やかなさまを思い起こさせるようで、むしろ好ましいとさえ感じていた。
そんな時には、自分は矢張り生粋の田舎育ちなのだなぁ等と思い、薄らと顔に笑みが浮かぶ。
「まぁ・・・お陰で遂に眠れる獅子が動いたということなら、結果オーライか。いやむしろ想定より良くなった・・・かな?」
どうしてこうも、計画とは想定通りに行かぬものなのだろう。
そんなことを思いながら、一方では手元に置かれた二つの書簡に書かれていた報告の内容を、脳内で繰り返し分析し続ける。
この時点で各方面の最適化に向けた準備は完了しているが、それでも情報と状況は常に動き続けるものだ。目まぐるしく変わる状況を常に加味し、その瞬間瞬間で、最も効果的な一手を打ち続ける。
なにしろ今この瞬間こそが、一手間違えてしまえば全てが崩壊するかもしれないほどの、とても刺激的な局面なのだから。
ただその中にあって、トーマスは自分でも拍子抜けするほどに冷静だった。
自分にはこれほどの胆力があっただろうか、などと、トーマスは素っ頓狂なことを考えてみる。だがそれにはすぐに答えがでる。そこまでの胆力は、間違いなく無かった。
自分の一手が、世界最大国家の命運を分けてしまうかもしれない。そんな超極限の状況に在って、たかだか一介の開拓村の豪農の跡取りに過ぎない自分が相対し、こうも平然としていられるわけなどないのだ。
今持っている知識や戦略は、確かにその大凡が自己研鑽の中で身につけてきたことだ。それを元にこの一年ほどは試行錯誤を繰り返して経験を積み、より成長してきた。それは確かに、自分の大いなる糧となっている。
だが今の自分の精神状態は、明らかにそんな程度の経験値で獲得できるようなものではない。
どう見ても、生まれてからこれまでの経験を以てして自分が相対するには、この案件は荷が勝ちすぎている。到底、冷静な判断や分析が出来るとは思えない。
だが、トーマスには断言できる。今の自分は、至極冷静そのものだ。そしてその理由も、おおよそ見当がついている。
彼はこれくらいの危機的で刺激的な状況を、どうやら『知っている』ようなのだ。この空気に、懐かしさすら感じるほどなのである。
その感覚を頼りに思い起こすと、脳裏に薄らと過ぎるのは、生と死の狭間で繰り返され続ける極限状態の軍議の風景。
数多に渡り歩く戦は常に、勝つか死ぬかの二者択一。そしてその繰り返しの先には人類の勝敗という究極の分かれ道。己の選択がそれを決定づける。そのような極限の空気の中で生き続けたような、そんな記憶が薄らと思い起こされる。
(恐らくこれは、聖王十二将の記憶なんだろうな。俺もそうだが、ユリアンやモニカ様たちも急激な身体能力の向上や覚えのない戦闘技術の発現を体験したという。これの契機は完全に、ピドナでカタリナ様と再度の合流を果たしたあの時だ。夢の中で聖王様と思しき方が俺たちに語りかけたあの時に、恐らく聖王十二将の力の片鱗が『八つの光』と目される者たちに継承された。中身はてっきり戦闘技術だけかと思っていたけれど、こんなふうに記憶も薄らと継承されているとは。道理で、一国が滅ぶか否かって程度では動じなくなってしまったはずだ。しかし、記憶の継承なんてしたら人格すら変わってしまうんじゃないか・・・? 俺はどうやらまだ許容範囲内で済んでいるみたいだけど、みんなは大丈夫なのかな・・・。適正とか考えられているのだろうか・・・?)
「トーマス様」
一人物思いに耽っているところに、彼を呼ぶ声がかかる。呼びかけに応えるようにトーマスが背後に視線を投げかけると、そこにはこのハンス邸に仕える執事が立っていた。
彼は長らくメッサーナベント家に仕える執事で、この国でトーマスが最も信用を置く人間の一人だ。流石に現在のような状況でもその物腰は大層落ち着いた様子で、これこそ年の功がなせる姿勢というものだろう。
「御用命の調査結果が届きました」
「そうか、ありがとう」
執事から手渡されたのは、簡素な封を施された新たな書簡。
素早くその封を解き文面へと視線を走らせると、見る見るうちにトーマスの瞳は細まっていった。
「灯台下暗し・・・か。なるほど、矢張りあの詩人殿の言葉は、金言だったな。全く、彼は一体何者なのか・・・いや、今はそれを考える時じゃ無いな」
ティーカップに残っていた紅茶をぐっと飲み干し、トーマスは三通の書簡を手に取って立ち上がった。
「さて、仕上げだ・・・爺、みんなを会議室に呼んでくれ」
「畏まりました」
椅子の背に掛けていた外套を羽織り直したトーマスは、少しずり落ちていた眼鏡を鼻根の定位置に人差し指で戻しながら、足早にテラスを後にした。
最終更新:2023年07月23日 18:18