荒れ狂う大気のように、あらゆる方面から襲い来る瘴気の暴風。
魔王殿地下全体を駆け回るその暴風は、触れるもの全てを一瞬のうちにアビスの瘴気に沈めんとしながら、足を踏み入れた愚かな来訪者を出迎えている。
その馬鹿げた量の瘴気を全身で受け止めながらでは、もはや一歩足を前に進めることすら、文字通り命懸けのような有様だった。
あれほど濃密だと感じた魔王殿の地上部すら比較にならない瘴気量に、身体中が生命の危機を感じて拒絶反応を起こしているのが分かる。
何も持たぬ常人がここに立てば、それこそ秒で精神が侵され、身体は黒く蝕まれることであろう。
なにしろ聖王遺物による守護を得ていてさえ、余り長い時間ここにいては同じ末路を辿るであろうことが本能で理解できるほどなのだ。
嘗て踏破したはずの魔王殿地下の迷宮回廊は全くその様相を変え、紛うことなき地獄そのものへと変貌していた。
「一体・・・何が起きているんだ・・・!?」
淡く輝く聖王の槍を前に突き出して身を守るように歩を進めつつ、トーマスは余りに現実離れした光景を前に驚嘆を隠せないでいた。
このような極限状況は、彼の生きてきた中では勿論のこと、聖王の時代に刻まれた記憶の中にすらも一切存在していない。
まさしく、全くの未知の世界だった。
「・・・まるで、アビスゲートがすぐ目の前にあるみたいな瘴気だわ。今までにないほどにゲートが大きく開きかけているのね・・・」
三度アビスゲートの前に立った経験のあるカタリナは、多少はトーマスよりも状況の把握が出来ている。
だが、そんな彼女をしてもこの状況は完全に理解の範疇を超えたものであり、この先にどのような事態が待ち受けているのか全く予測がつかないのは、やはり変わらないことであった。
「でも、ここにも魔物の気配がないのは不幸中の幸いね。最短ルート突っ切るわよ・・・!」
トーマスと同じく瘴気を防ぐように大剣化したマスカレイドを前に構えながら、カタリナは以前通った道を辿り、先を急ぐ。
(この瘴気量・・・これはもう既に、幼い頃に感じた死蝕のそれを超えている。つまりこの先では、死蝕を凌ぐ程の何かが起ころうとしているということ・・・急がなきゃ・・・)
気を抜けば意識が飲み込まれてしまいそうな瘴気を押し分けながら、カタリナとトーマスは奥へと進んでいく。
すると奥に進めば進むほど、瘴気の激流とは違う何かを身体が検知していることに、二人ともがほぼ同時に気がついた。
「・・・地面が、揺れている・・・?」
カタリナが視線を前から逸らさず口を開くと、トーマスがその声に応えるようにこくりと頷いた。
「はい、揺れています。この回廊自体の鳴動ではなく、何処かで起こっている衝撃による振動、という感じです」
「やっぱりそうよね・・・となると恐らく・・・」
カタリナの言葉に、トーマスの表情が見る見る険しくなっていく。
「・・・サラと少年とやらが、既に魔戦士公と交戦状態にある・・・」
「状況を考えれば、その可能性は高いわ・・・見て、あの階段を降りた先がアビスゲートの間よ」
カタリナが指差した先には、巨大な部屋の外周両側から回り込む形で更なる下層へと降りていく階段があり、その下には無尽蔵に瘴気を吐き出す漆黒の空間への入り口が見て取れる。
それをトーマスが確認している間にも、より身近に感じられるようになった振動は断続的に続いていた。
トーマスは、思わず固唾を飲んだ。
この先には、今の自分が持ちうる全ての力を出したとしてもどうなるか全く予測のつかない、未知の存在がいるのだ。
以前にも彼は魔王殿でそのような感覚を持ったことがあったが、それでもあの時はまだ、退路があった。
だが今回に限ってはそのような退路は、ない。
そう思うと、如何に冷静を装っていても普段とは異なった挙動をしてしまうものだ。
トーマスが頭の中で思ったつもりの言葉は、うっかり口をついて出てしまっていた。
「・・・どこまで俺の力が通じるのか分からないが・・・やるしかないな・・・」
「・・・そうね。ふふ・・・トーマス、貴方の一人称、そっちの方が自然体で素敵よ」
はっとして、トーマスは口元を軽く押さえる素振りを交えつつカタリナに振り返る。
独り言に反応を返されたこともそうだが、こんな時に何を脳天気なことを、といった感想と表情でもって。
するとカタリナは悪戯っぽくニヤリと笑ってウィンクをトーマスに返し、そのまま階段下まで一気に柵を越えて飛び降りていった。
それが彼女流の気の落ち着け方なのだと二、三度の瞬きの後に漸く気が付き、トーマスは馬鹿げた瘴気の源泉を目の前にしながらも、釣られてふっと笑みを漏らす。
次いでいつもの調子で眼鏡の位置をさっと正すと、もはや臆する意味などないことを理解し、ただまっすぐに前を見据えた。
眼前の状況とこれから起こること全ては、もはや自分如きには計ることなどできないことなのだろう。
トーマスは事前の準備を入念にしながら物事を進める性分だと自己分析をしているが、それが全く通用しそうにないのが、これから待ち受ける場所なのだ。
ならば、今になって一々余計な気をあれこれと回すことは、それこそ杞憂。
その場で出来る最善手を、己を信じて導き出す。
それだけのことなのだ。
そうとなれば今は気負わず自然体でいる位の方が、確かに丁度良いのかもしれない。
「・・・そうは言っても、俺が素を出すのは限られた人の前だけですよ、カタリナ様。まぁ・・・貴女相手なら遠くないうちに、そうするのかも知れませんが」
そう一人で呟くと、トーマスもまた目の前の柵を飛び越えて眼下の魔窟へと身を投げ出す。
一瞬の自由落下の後に階下へ素早く着地し、既にマスカレイドを手に深淵の入り口を見据えていたカタリナと一瞬だけ視線を交わらせ、何方からともなく、浅く頷き合う。
「いくわよ」
「はい、行きましょう。聖王の槍よ、どうか我らに勝利の加護を・・・!」
振動、轟音、そして醜悪な瘴気の渦巻く目前の暗闇へ向かい、トーマスが聖王の槍を高らかに掲げる。
すると聖王の槍が持つ淡い輝きはアビスに対を成す生命の息吹を奏で、カタリナとトーマスの体を包み込んでいく。
聖王の加護を纏った二人は、闇夜を切り開く疾風の如き素早さで、目の前に口を開ける深淵の中へ一気に飛び込んでいった。
道なき道を、出口なき暗闇を、ただただ只管に突き進む。
それは果たして一瞬のことだったのか。
はたまた数秒か、数分か、数時間ほどもあったのか。
一切の光が届かぬ羨道の如き暗闇を抜けたその先には、一体どこまで広がっているのかも知覚できない、巨大な亜空間が広がっていた。
「こ、これは・・・」
眼前に広がる非現実的な光景にトーマスが困惑の表情を浮かべながら呟くが、それに対して眼光鋭く前方を見つめたままのカタリナ。
「落ち着いて。ゲートの力で空間は歪んでいるけれど、地面も壁もちゃんとあるわ。それより前を!」
カタリナの言葉に反応しトーマスが前方へと意識を集中すると、それに合わせて一気に視界が拓けていくように空間の奥が光り出す。
そこには白く眩く、そして邪悪なる光で周囲を照らす紋章が中空に浮かび上がっていた。
それと同時に、今までで一番強烈な瘴気の風圧が挨拶がわりに二人を直撃した。
「うぉ・・・・・・!!?」
槍を両手で前に突き出し、腰を低くしてなんとか耐える。
それと同時に風圧のものとは明らかに異なる轟音が耳に届き、地面の揺れも同時に感じた。
断続的に感じていた振動の正体はこれかと確信しながらトーマスが前方へ意識を向けると、そこには三つほどの、激しく動く影が見えてくる。
その中に見覚えある背中を目にしたトーマスは、考えるよりも先に、力の限りに叫んでいた。
「サラッ!!!!!」
その声は空間全体に響き渡り、白い紋章の近くにいた三つの影がそれに反応してトーマスらに振り返る。
「・・・トム・・・!?」
「・・・・・・」
影のうち一つは、懐かしい少女の姿。長らく行方不明となっていた、サラの姿に間違いなかった。
そしてサラの近くにあるもう一つの影の正体は、見慣れぬ服装の少年。その姿をカタリナは、忘れたことがない。
間違いなく、以前魔王殿で出会った少年のものだった。
『・・・舞い戻ったか』
そしてその二人と対峙するように奥に居るのは燃え盛る灼熱の槍を構えた、禍々しい瘴気を全身に纏う巨大なる魔神。
この姿もまた、ほんの一時とて忘れたことなどない。
それこそは嘗てこの場でカタリナが敗北を喫した四魔貴族の一柱、魔戦士公アラケスだった。
(やはり少年とサラの二人は、アラケスを討ちに来ていたのね。でも何故二人だけで・・・・・・いや、それより今はアラケスを如何にかしなければ・・・!)
「話は後よ!今はアラケスを!」
カタリナはマスカレイドをアラケスに突き出すように構えながら、短く叫んだ。
なにしろ今は、交戦の真っ只中であろう。お互いに声をかけている余裕は、ないはずだった。
故に少年たちもカタリナの声でアラケスへと視線を戻すが、しかし槍を構え少年らと対峙していたはずのアラケスは、何故かここにきて臨戦体制を解いていた。
それどころか場違いにも戦いを取り止めた様子で槍を地面に突き刺し腕を組み、徒手で四人へと向き合ってきたのだ。
『人間・・・カタリナ、だったな。良くぞ我が前に戻ってきた。貴様は必ず来ると思っていたぞ』
まるで久方ぶりに会う旧友にでも語りかけるが如くに、アラケスは言い放つ。
その意図が分からずに四人ともがアラケスの動向を見守るようにしていると、次にアラケスは先ほどまで激戦を繰り広げていたであろう少年とサラへ、鋭い視線を移す。
それに合わせて二人は身構えるが、しかしアラケスは全く相手取る様子を見せない。
『もう十分に良い頃合いだが・・・主ら、少し待っておれ。一太刀のみ、その騎士と剣を交えさせてもらうぞ』
「・・・・・・」
なんとアラケスは唐突に、カタリナを一騎打ちに指名してきた。
しかしカタリナはそんな申し出にも何ら驚く様子もなく、構えていたマスカレイドを一度降ろした。そしてすぐ横のトーマスと軽く視線を交わらせて頷きあい、ゆっくりと前に進み出る。
自分たちが来る前、この場でどのような戦いが行われていたのかは、先の振動や瘴気の濃さを思えば想像に難くない。
アラケスの力は、以前相見えた時よりも飛躍的に増大しているのは間違いないはずだ。
「・・・お姉さん、気をつけて。僕たちが思ってたよりずっと、あいつは強い・・・。僕とサラでも、攻めきれてない・・・」
丁度サラと少年の脇をすり抜けんという時、カタリナの耳に少年の声が届く。
あぁ、そう言えばこの子はこんな声だったな、などと微かな記憶の中から思い返しつつ、カタリナは返答代わりにこくりと無言で頷いた。
今のカタリナになら、分かる。
先ほどまでアラケスと対峙していた二人、少年とサラからは、何か途方も無い力を感じ取ることができる。
それは遠い記憶の彼方でも感じたことがあるような、どこかで身覚えのある類の力。
しかし力の正体が何であるのかまでは、どうにも思い出せない。
だが、少なくともこの二人が自分たちのような八つの光とは明らかに異なる力をその身に宿しており、それは人としての潜在的な力とも違う圧倒的な「何か」であるということだけは、確信をもって分かるのだ。
その二人を以てして、なお今のアラケスは強いのだと言う。
(・・・とはいえマスカレイドならば、瘴気に身体ごと蝕まれることは防げる。アラケスの攻撃の軌道自体は、以前見切った。今持っている最大の一撃を叩き込めば、十分に勝機はある)
そして、なにより。
騎士として独り立ちして以来初めての、相手に情けを掛けられ生き延びただけの、痛恨の敗戦。その雪辱を果たすには同じく一騎打ちでありたかったと、心のどこかでは願わずにいられないでいたのだ。
そんな、非合理的であるとわかっていても抗えない武人としての欲求が、カタリナの中にはあったのである。彼女とて、武の道を極めんとして生きる武人。だからこそ、このような願望を持っていないなどということはないのである。
その願望に、相手が真っ向から応えてきたのだ。これには場違いにも、カタリナは高揚感を覚えてしまった。
アラケスの間合いから少し離れた位置まで歩み寄ったカタリナが改めてマスカレイドを正眼に構えると、アラケスはそれに合わせて地面から槍を引き抜く。
そのまま石突をカタリナに向けるようにして槍を上段に構え、腰を落とした。
その構えはまさしく、歴戦の武人そのもの。
相手にとって、不足はない。
『さぁ・・・我を楽しませて見せよ』
「・・・ご期待に添えるよう、全力でいかせてもらうわ」
以前にアラケスと相対した時は、あまりに圧倒的な力の差に慄いた後、一か八かで相手の力を利用した捨て身の一撃だった。
故に下段の構えから転じた奇襲気味の斬撃となったが、今回はそのつもりはない。
恐らくはアラケスも、此方の意図を理解しているのだろう。故に前回のような槍の投擲ではなく、全身全霊の一撃をあの上段の構えから直接カタリナに叩き込むつもりなのだ。
槍の周囲には強大な瘴気が渦を巻くように集まり、瞬く間に穂先の一点へ収束していくのがわかる。
その重圧は一年前と比べても、明らかに増大している。
(・・・あんなのもらったら、マスカレイドが大丈夫でも私の身体は木っ端微塵ね・・・受けることを考えては駄目。相手を上回る最大速度で、斬り抜ける・・・!)
正眼に構えていた剣をカタリナは大きく後ろに逸らし、脇構えの型から深く腰を落として前傾姿勢をとった。
ジリジリと、互いの間を焦らすような乾いた空気が漂う。
目の前のアラケスから感じるのは、紛れも無い武人の圧だ。
それは、これまでにカタリナが相対してきたアビスの魔物とも他の四魔貴族とも全く異なる、とても異質なもの。
膨大な瘴気を力のままに振り回すのではなく、その瘴気を武芸として昇華させた、まさしく戦のための奥義。
力による蹂躙ではなく、技による戦。
そのための術をこの魔神は、持ち合わせているのだ。
そういう意味では、他のどのアビスの魔物や四魔貴族に比べても、このアラケスこそが最も隙の無い相手であると言えよう。
今まで相対してきた中で間違いなく一番の難敵に対し、カタリナは深く深く息を吸い込みながら全身に緊張を走らせ、解放の時を待った。
まるでその時を告げる役を勝って出たかのように両者を隔てる、強烈な瘴気の暴風。
その風に、刹那の切れ目が訪れた。
(・・・・・・斬るッ!!)
両者が地を蹴るのは、同時。
深淵から響き渡るような特大の咆哮と共に、瞬時にアラケスはカタリナの目前まで躍り出た。そのまま限界まで振りかぶった槍に深淵の波動を乗せ、迷いなく振り下ろす。
局地的に重力すら変動する程の強大な瘴気と共に振り下ろされた槍は、寸分違わずカタリナの体を断ち切るように軌道を描き、地面へと叩きつけられる。
それとほぼ同時に、赤く眩い閃光が空間を迸った。
『・・・・・・』
一瞬の交わりの後。
まるで凪のように空間に停滞していた空気が、一歩遅れて周囲に拡散していく。
確かに、アラケスの槍は大上段から振り下ろされた。
だが、その鋒はカタリナを捉えてはいなかった。
それどころか、その槍の一撃によって生まれるはずの強烈な衝撃波、轟音、風圧。そして周囲環境の著しい崩壊。
本来ならば起こるはずのそれら全てが、一切起こっていない。
『・・・・・・』
アラケスは、己の目の前を見下ろす。
そこには、誰もいない。
そして、振り下ろされていたはずの槍もない。
それどころか、槍を持つ己の両腕すら、その視界に入ってこなかった。つまり両の二の腕から先が丸ごと、消失していたのだ。
しかしアラケスはまるで何事もないかのように直立の姿勢をとり直し、ゆっくりと後ろに振り返る。
そこにはマスカレイドを振り抜いた格好のカタリナの後ろ姿が、先ほど己が槍を構えていたあたりの位置にあった。
そして間もなく両者の間には、高らかに宙を舞っていたアラケスの両腕と槍とが、ぐしゃりと音を立てながら地面に落ちてきた。
その不快な音と同時にカタリナもアラケスへと振り返り、正眼に剣を構える。
だがカタリナのその構えは、明らかに先ほどより精彩を欠いていた。
(・・・仕損じた・・・全身全霊の一閃、確実に首を斬るはずだったのに・・・)
カタリナは、一見すると優位に見える戦況の中にあって、しかしその瞳には絶望が色濃く浮かび上がっていた。
先の一撃は、今の彼女が持てる全ての力を乗せたものだ。この後の継戦など考えず全身の力を一点集中させた、最速最強の一刀。真紅の刀身から放たれる赤い旋風に彼女が持てる限りの技術と剣速を上乗せした、もはや何者にも知覚不可能なはずの奥義。
それを、アラケスは「見切った」のだ。
(そうだ・・・前回も私は首を狙ったつもりが、腕を一本斬ったに過ぎなかった。私がアラケスの太刀筋を見切ったと同時に・・・アラケスもまた、私の太刀筋を見切っていた・・・。たとえ剣速が上がっても、剣筋そのものが読まれていれば急所は避けられる・・・内心では武人といえどもアビスの魔物と思い油断した私の、完全な慢心だ・・・)
『・・・人間。いや、騎士カタリナよ。見事・・・実に見事な剣であった』
そう言った時には、もうアラケスの両腕は再生していた。
そのままゆっくりとカタリナと己の間に落ちた槍を拾いに歩くが、カタリナはその無防備に見える様にも攻勢に転じることができず、踵を擦るようにして僅かに後退する。
カタリナには、この相手にもう一度刃を突き立てる未来が、全く描けないでいた。
『その様子、我が貴様の剣筋を見切っていることも察したか。だが落胆の必要はない。我は感嘆しておるのだ。見切ったはずの剣筋に両の腕を取られるなど、本来有り得ぬこと。それほど、我が予測を遥かに上回る剣速と技術であった。短命なる人の身で見事、という他ない。ゲートの力が集約されていなければ、我とて首を持っていかれていたやも知れぬ』
場違いに上機嫌な様子で饒舌に喋りつつ槍を拾ったアラケスは、しかしもう勝負は終わった、とばかりにカタリナへ背を向けた。
そして煌々と浮かび上がる紋章、その足元にあるアビスゲートへと歩み寄っていく。
「ゲートの力が・・・集約・・・?」
アラケスの発した意味深げな単語を繰り返すようにカタリナが呟くと、アラケスはまるで堪え笑いをするような仕草をし、黒く蠢くアビスゲートの前で立ち止まる。
『左様、集約だ。ゲートは我ら四魔貴族に応じて四つあるが、本来は一つで良い。むしろ、ただ一つに集約される方がアビスから流れ込む力は増し、ゲートを司る我らの力も昂る。そして・・・』
アラケスはゲートを覗き込むように、僅かに深淵へと身を乗り出した。
そうして開放の時を待つゲートの内部で悍ましい深淵の滾りが十分に活性化していることを上から見て取ると、実に満足げに頷く。
『それはゲートそのものもまた、同じこと。我らは元より、一つのゲートを完全に開くことしか考えていなかったのだ。此度貴様らの術式が齎した星と次元のズレでは、ゲート四つが同時に開くことは不可能であったからな』
(・・・私たちの・・・術式?・・・一体、アラケスは何を言っているの・・・?)
アラケスの言葉の内容が分からず混乱するカタリナだったが、しかしこれだけは理解していた。
(しかし・・・不味い・・・。兎に角、非常に不味い状況だということだけは分かる・・・)
力の源が四つから一つに集約されることで、最も強くこの世界に顕現した四魔貴族アラケスと、最も暗き深淵に繋がろうとしているアビスゲート。
今ここでその二つの活動を止めるための確実な手段が、自分たちにはない。
それだけが、唯一分かっていることだった。
『さぁ、既に時は満ちている』
アラケスがそう口にした、その瞬間。
あたかもそれは、地獄の門が開くかのように。
アラケスの足元にある深淵が巨大で醜悪な生き物のように激しく蠢き、次にはぽっかりとその口をあけ、そこから漆黒の「何か」が溢れ出していった。
それは湧き出る水のように瞬く間に空間全てを満たし、溢れ、無尽蔵に世界へ漏れ出していく。
「うぁぁああッ!!?」
「きゃぁぁあああ!!」
深淵に満たされた空間に、少年少女の悲鳴が木霊する。
その声に気付いたカタリナとトーマスが視線を向けた先では、空間全体から際限なく伸びてくる悍ましい瘴気の触手が少年とサラの体に巻きつき、彼らを空中へと持ち上げていた。
「サラッ!!」
叫ぶと同時に飛び出したトーマスは、サラに絡みついた瘴気の触手を切り裂くように槍を振り下ろす。すると聖王の槍は強烈な光を宿しながら束縛を期待通りに切り払うが、しかし即座に新たな触手が生まれて彼女に絡みついた。
「・・・トム・・・お願い、私より彼を・・・テレーズを・・・!」
サラがそう言って、少年へ視線を向けた直後。その願いも虚しく、二人の体は瘴気の触手群によって瞬く間に深淵の中心まで引き摺り込まれてしまった。
『さぁ・・・宿命の子よ、いざ、ゲートを開け』
高らかに燃え盛る槍を掲げ、アラケスが宣言する。
それに呼応するようにゲートの上に浮かぶ紋章が激しく鳴動し、暗く淵の見えなかったアビスゲートが円形に光を放ち始める。
「・・・くっ、なんとかしないと・・・!!」
何とか力を振り絞りカタリナもサラと少年の元に近付こうとするが、その行く手にはアラケスが立ちはだかる。
『既に貴様らの出る幕はない。これより我らは、この世界に真なる姿で顕現する。その祝福すべき時を、集いし魔物らの凱歌を、精々楽しむがいい』
そう言い放ち、アラケスは正面から二人に対峙する。
カタリナは先刻よりも明らかに瞬発力が落ちた状態であり、万全とはいえトーマスのみでアラケスを打倒することは不可能に近い。
圧倒的に攻め手を欠いた状態に、二人は何か突破口がないものかと血眼になってアラケスとその周辺を凝視しながら、考えていた。
(・・・アラケスは、明らかに他の魔貴族と戦いにおける思考が違いすぎる・・・。フォルネウスやビューネイは強大なアビスの力を存分に振るい、力なく弱い私たち人間を見下していた。そこに油断が生まれるからこそ、万に一つの突破口があった。でも此奴には、それがない・・・)
他の四魔貴族と同じくアビスの力を広範囲にむかって存分に振るうことは、無論アラケスにも可能なのだろう。だが、アラケスがそれをする素振りは全くない。
むしろ溢れるほどのアビスの力を己の戦技に集中させ、研ぎ澄まし、最も効果的に目的を達成するための一手を繰り出すことに美学を見出してすらいるように見える。
このアラケスという魔貴族には、油断という概念が存在しないのだ。
(やはりこの魔貴族は、力押しが通じる相手ではなかった・・・。恐らくこの状況まで含め、全てアラケスは先見した上で俺たちに対峙している・・・)
トーマスは奥歯が砕けそうなほどに歯を噛み締めながら、それでも冷静にその場の分析と突破口の模索を続けている。
今になって思えば、違和感は幾つもあったのだ。
アビスリーグのような長期間の活動を必要とする搦め手までを、効果的に用いる。そんなことができるほどの知略があって、何故アラケスはこうも簡単に魔王殿深部まで攻めさせたのか。
魔王殿周辺への魔物の集結や、瘴気を拡散させる速度。そしてなにより、その発生タイミング。それらは正に自分たちやサラたちを『然るべき時』にこの場に辿り着かせるための、撒き餌であったのではないか。
いやそもそも、魔貴族同士は互いに干渉しない、という聖王記に記された事実自体を、真っ向から疑うべきだったのではないか。
仮に他の魔貴族がそうであったとしても、アラケスが己の知略を活用して人類に仇をなさんと欲すれば、独自に動きを合わせることなど幾らでも出来たはずなのだ。
だが、そうはしなかった。つまりこれは「各個撃破される事を最初から想定していた」と捉えることが出来る。
その上で魔王殿入り口からここまで、障害物の一切を排していた。これもまた確実にアビスゲートへと対象が辿り着くように仕向けた、としか考えられない。
それらは全て、今この時に宿命の子をゲートに立たせるための行動だったのだ。
(俺たちの中では掛け値なしに最大戦力であるカタリナ様の剣が届かなかった以上、打倒によるアラケス突破は不可能だろう・・・。いや、アラケスを倒すことは考えるな。いま最も重要なのは、ゲートからサラと少年を引き剥がすことだ。何か・・・何か一瞬だけでいい、隙があれば・・・)
トーマスは思考を高速回転させながら槍を片手で後ろに構え、短く空いた手で印を結ぶ。
するとたちまちトーマスの周囲に強力な玄武術の雷球がいくつも生じ、トーマスの意思に従い次々にアラケスへと飛来していく。
それに合わせてカタリナは瞬時に地面にマスカレイドを突き立て、強烈な地走りを発生させた。
それらの連撃をアラケスは難なく槍の一振りで無効化するが、それを予め見越していた二人は、互いに逆方向からアラケスを通り抜けるべく走り出していた。
しかしトーマスの前には、アビスの闇の中から巨大な双頭の獣魔が突如として出現し、その行く手を阻んだ。
一瞬だけ視線を横にずらせば、カタリナ側にはアラケス本体が進路を塞ぐように対峙している。
そして瞬く間に双方から猛攻を浴び、二人は防戦の末に結局元の位置まで後退せざるを得なかった。
(・・・くそっ、安い撹乱は矢張り通用しない・・・次はどうする・・・!?)
トーマスが槍を握りしめながら、必死に次の攻め手を考えている中だった。
唐突に、アラケスの視線が此方ではなくゲートへと僅かに向けられる。
『・・・・・・おかしい。なぜ、ゲートが開かぬ?・・・集約した力が僅かに足りていないというのか・・・何処かで、漏れている・・・?』
この刻こそが、最後の好機に間違いなかった。
アラケスの意識と視線が此方を離れたその一瞬、トーマスは一足跳びで瞬時に魔神の懐に飛び込んでいた。
「そこを退けぇぇぇぇえええ!!!!」
己の倍以上もあるアラケスの巨躯を全く物ともせず、トーマスは渾身の力で聖王の槍を振り回す。
その台風の如き槍の大車輪はアラケスの脇に控えていた双頭の獸魔をも巻き込み、幾重にも連撃を放っていく。乱れた軌道予測は難しく、獣魔は斬撃を諸に受けて後退し、アラケスも予想外に踏み込まれたことから否応なしに自分の槍で受けつつ数歩下がった。
だが、未だその表情には大きな焦りの様子は見えない。
「ぉぉぉぉおおおおお!!!!」
同じくこれを最後の機と見たカタリナが、悲鳴をあげる身体に鞭打ちながら高らかに飛び上がった。
そのままの勢いで叩きつける真紅の刃は強烈な爆発力を伴う打ち下ろしであったが、しかしそれもアラケスの驚異的な槍捌きによって阻まれる。
(くそ・・・届かない・・・!!)
カタリナとトーマスによる必死の攻撃でも、やはりアラケスを退かせることは出来ない。
『何処に力が漏れ出ているのかは分からぬが、それならば我がアビスの波動にて抉じ開けるのみ』
そう言いながらアラケスはカタリナとトーマスを槍の一閃で弾き飛ばし、少年とサラが縛られたアビスゲートに向き直ろうとする。
その瞬間だった。
ザシュッ!!
『ぬぅ!!?』
突如カタリナらの後方から飛来した「何か」により、槍を携えていたアラケスの腕は呆気なく切り飛ばされていた。
そして飛来物はそのままアラケスの後ろにいる少年とサラにまで到達し、なんと二人を縛めていた瘴気の触手の一部をも切り裂いたのである。
「サラッッ!!!!!!!」
「ッ・・・お姉ちゃん・・・!!」
響き渡ったのは、エレンの声だった。
彼女がアビスゲートに向かって投擲したのは、聖王の時代を更に遡る魔王時代の遺物にして世界最強の破壊の化身、魔王の斧。
この場にあってすら最も強力なアビスの力を司るその斧の力で、一時的にアラケスの腕の再生は愚か、瘴気の触手の再生までもが阻害されていた。
しかしサラがエレンの声に応えた瞬間、魔王の斧を扱った強烈な反動を真面に受けたエレンは、もはや立っていることすら出来ずにその場に崩れ落ちる。
それと同時、倒れゆくエレンの脇を瞬く間に走り抜ける、一陣の疾風があった。
そのまま戦場の中心へと躍り出た疾風は荒々しく旋回する竜巻と変貌しながら宙に飛び上がり、隻腕となったアラケスに追い打ちをかけるように上から下へ、瞬時に滅多切りにしていく。
『ゴァァァアアアアアアッッ!!??』
アラケスが堪らず苦悶の叫びをあげる最中、カタリナが視線の端に捉えたその竜巻の正体。
それは彼女が最もその腕に信頼を置く仲間の一人である、最強の傭兵だった。
「ハリード!!!」
「今だ!!!!!」
煌々と輝く刀身のカムシーンを振り抜きながら着地すると同時、ハリードが吠える。
その声と重なるように、トーマスは渾身の力を振り絞り、聖王の槍を前方に投擲していた。
周囲の瘴気をも消失させつつ、流星の如き尾を引きながら放たれた聖王の槍は、その目的を阻止せんと突き出されたアラケスの左足を難なく貫いて真っ直ぐにアビスゲートへと飛んでいく。
そのまま吸い込まれるように聖王の槍はアビスゲートの中心に着弾し、サラと少年を束縛していた瘴気の触手を、今度こそ完全に断ち切っていた。
その時、少年とサラが、同時にお互いを見つめ合う。
(・・・今日ここで生まれるのは、未来永劫の絶望を世界に齎す災厄の宿命を背負う子か、向こう三百年の平和を世界に齎す祝福の宿命を背負う子の、いずれか。それは、貴方と出会った時から分かってたこと・・・)
(僕もそうだよ・・・僕はサラと出会わなければ、間違いなく災厄の宿命を受け入れていた。この世界があってもなくても、僕には変わらないことだったから・・・。でも君のいる世界を守れるのなら、自分が祝福の子となるのはとても素晴らしいことだと思えたんだ・・・)
二人の瞳に、自然と涙が溢れてくる。
全てを覚悟の上で迎えた宿命の時であっても、心を寄せる誰かと別れることは、こんなにも悲しいものなのだと二人は初めて知った。
(テレーズ・・・貴方と出会えて、旅ができて、本当によかった・・・どうか、この世界で生きて・・・)
(だめだサラ・・・僕は君のいないこの世界なんて、考えられないんだ・・・どうか僕に、君が生きているっていう希望を抱いたまま行かせてくれ・・・!)
二人はお互いの肩を手に抱き、そして同時に口を開いた。
「僕が魔貴族達をアビスへ押し戻す。君は向こう側へ行く人じゃない・・・!」
「いいえ、ゲートを閉じるのは私の定めよ・・・あなたじゃない!」
二人の間で交わされた言葉は、ほんの瞬く間のこと。
そして僅かな差でもって、サラが少年の肩を押し出す方が早かった。
瘴気の戒めを解かれていた少年は、バランスを崩すようにしながら数歩後ろに押し出され、アビスゲートの外に転げ落ちる。
その様子をみて安心したように微笑んだサラは、未だ涙を含んだ瞳で胸元に手を寄せ、その場に集まっていた他の人物らに視線を向けた。
それに合わせて空間に広がっていた黒き深淵が、まるで時間の逆流を起こすように急速にサラの足元へと収縮していく。
アラケスの身体は既に殆どが瘴気と共に霧散し、深淵の向こうへと吸い込まれている。
数秒のうちに空間に広がっていた邪悪全てが深淵の彼方へと還っていく最中、サラは泣いているような微笑んでいるような、どちらとも言えない儚げな表情で皆を見つめた。
「テレーズと二人だけで終わらせるつもりだったから・・・最後に会えるなんて思っていなかった。嬉しい・・・」
ゲートの上にある紋章は既に輝きを失いながら崩壊を始め、ゲートそのものから漏れ出す光もまた、消える寸前。
そしてそれらと同じくしてサラの身体もまた、漆黒の中へと霧散していく。
「・・・さよなら、みんな」
その言葉がカタリナらの耳に届いた時。
サラの姿はその場にあった全ての瘴気と共に、この世界から完全に消え去っていた。
最終更新:2023年11月01日 15:45