聖王歴三百十七年、赤火の月。
歴史上二度目となった四魔貴族と人類の戦いはここに決し、世界からアビスの脅威は去った。
この事が世界中に伝わるのに大した時間が掛かることはなく、きっと一ヶ月ほどもすれば世界中が喜びに満ち溢れる事だろう。
かの聖王記に記されしパウルスの予言、それに導かれし八つの光は見事、その使命を成し遂げた。大いなる邪悪を打ち倒し、アビスの彼方に封じたのだ。
英雄はこれより各地を凱旋し、大いに民の祝福を受け、三百年先までこの偉業は語り継がれるに違いない。
「・・・そう簡単に、この英雄譚はめでたしめでたし、となるのでしょうかねぇ?」
暗く陰気な石作りの空間の中で、何者かが呟く。その声色は、どこか愉しげだ。
「かつて歴史上初めて死蝕を生き延びた祝福の子は、長じて破壊を齎す魔王と化した。そして魔王の再来を恐れられた忌み子は、世界を救う聖王となった。さて・・・此度の宿命の子と救世の英雄は一体、何者になるのでしょう」
一人くすくすと嗤い声を上げ、そこからは見えない空を見上げるような仕草をする。
「サーガは、まだ終わっていませんよね?」
それは予言か呪いか、はたまた切なる願望か。
誰にも聞かれることのない孤独な空間で呟かれたその言葉は、間も無く暗闇にひっそりと、跡形もなく溶け落ちていった。
再び世界に迫ろうとしていた危機は、パウルスの予言にて示された存在である八つの光によって、見事退けられた。
最終決戦の場となったのは、メッサーナ王国首都ピドナの旧市街にある魔王殿の奥深く。四魔貴族の一柱である魔戦士公アラケスか守護すると言われる、最も人類生活圏の側にあったアビスゲート。
人類勝利の知らせはメッサーナ王宮を通じて瞬く間に世界に発信され、世界各地の新聞社も連日この吉報を一面で報じた。
世界は、文字通り歓喜に包まれた。
その知らせから、二週間が経っていた。
「それでは皆様・・・本当に、お世話になりました」
間も無く出航の時間となるキャラック船を背に深々と一礼するモニカに従い、すぐ後ろに控えていたカタリナも深々と礼をする。それを見た隣のユリアンも、釣られてぎこちない礼をした。
「・・・帰りの道中も、どうかお気をつけ下さい」
そう言いながら少し寂しげに微笑んでみせたトーマスは、礼をした後に俯いたままのユリアンへと視線を移す。
「ユリアン・・・モニカ様をしっかり守ってくれよ。何かあったら、すぐ俺に連絡をくれ」
「・・・あぁ、わかったよトム」
自分がこうしてトーマスらと別れる状況に、どこか非現実的な感覚を未だに抱いている様子のユリアン。しかしそれでも彼はしっかりとトーマスと視線を交え、力強く頷く。
「カンパニーも、寂しくなりますね」
何故か当然のように見送り一向に加わりトーマスの横に立っていたフルブライト二十三世が、心底残念そうな顔でカタリナに視線を向ける。
カタリナはこれに対して会心の出来映えだと自画自賛できるほどの嫌そうな顔で返し、それから一転、今度はニコリと微笑む。
「ご心配なく、フルブライト二十三世様。カンパニーは近く代表権をトーマスに移し、合わせて社名も変更する予定ですので」
「それが残念なのだよ」
そんな貴方の趣向など知ったことではないのです、と表情で物語りながら、カタリナは恭しく無言で一礼した。
「・・・エレンやハリード様たちは、もう行ったのですね」
その場で周囲を軽く見渡したモニカが、こちらも少し寂しそうに微笑みながら呟く。
「・・・はい。ただエレンたちとは定期的に連絡を取りますので、何かあればモニカ様にも直ぐにお伝えします」
トーマスとモニカがそんな話をしている横で足早にカタリナへと近づいたノーラは、臆面もなくその場でカタリナをしっかりと抱きしめた。
鍛え上げられたノーラの筋肉による締め付けは常人なら少し痛がりそうなものだが、カタリナはされるがままにしながら微かにはにかみ、そっと彼女を抱きしめ返す。
「・・・カタリナ、本当にありがとう。あの時あんたが来てなかったら聖王の槍も取り戻せなかったし、こうして工房が復活することもなかったよ」
「ノーラさん・・・」
「さん、はおよしよ。ノーラでいい。またいつでもおいでよ。マスカレイド程じゃないけどさ、あんたにぴったりの武具はいつでも何度でも、あたしが仕立ててあげる」
「えぇ・・・ありがとう、ノーラ。また必ず寄らせてもらうわ」
抱擁の後にしっかりと二人は握手を交わし、お土産代わりにと昼食用のサンドイッチが入ったバスケットを持たされる。
「昨夜ご挨拶はさせていただきましたが、ミューズ様とシャール様にも、改めてどうぞよろしくお伝えください」
残念ながら公務の関係でこの場にはいない二人のことを思いモニカが言うと、それにもトーマスがしっかりと頷いた。
「おーい、そろそろ出港だってよー」
乗船用の登り台から身を乗り出してモニカ達に声をかけてきたのは、ポールだ。そしてその背後には、キャンディの姿もある。
「キャンディ、あんたがいないと帳簿の整理が詰まっちまうんだから、早めに帰ってきとくれよ!」
「分かってるよ親方!」
ノーラが大きく手を振りながら声をかけると、合わせるようにぱたぱたとオーバーサイズの袖を振りながらキャンディが応える。
ポールとキャンディの二人はカンパニーとしての所用などもあって、モニカらと共にロアーヌへ向かう予定だ。
ポールの声かけに伴い、モニカは名残惜しげにトーマスらを見渡してから最後にもう一度深々と一礼をし、そしてゆっくり船へと向かっていく。
それに続いてカタリナ、ユリアン、そしてその後ろに控えていたフェアリーも続いていった。
その様子を、口を真一文字に結びながらじっと眺めていたトーマスは、やがて船へと乗り込む渡し板が外され錨が上げられ、船が港湾を離れるまでずっと、同じ表情のまま見送っていた。
対照的にその場では笑顔での見送りをしていたノーラが、徐々に離れていく船を見ながらふと真顔になり、そして遂には眉間に皺を寄せる。
「・・・自分たちの国を救ってくれた英雄たちの見送りだってのに、王宮の連中は誰一人来やしない。それどころか邪魔モノ扱いだなんてさ・・・本当にあたしらの国はどうかしてるって思っちまうよ」
忌々しげにそうつぶやいたノーラの隣で、トーマスは手癖で眼鏡の位置を直し、瞳を細める。
「・・・そうですね。事情があるとはいえ、釈然としない気持ちになるのは俺も同じです」
二人の表情を曇らせているのは、まさに目の前で行われていたモニカの慌ただしい帰郷劇の内情であった。
「世間的には死亡したとされていたモニカ様の生存が公式に知れ渡り、且つメッサーナ王国へ助力を提案するロアーヌ侯国大使という便宜上の役割も終わった以上、モニカ様については一刻も早い今後の対策が必要ですからね・・・」
およそ一年ほど前、ツヴァイク公爵子息との婚儀のためにモニカを乗せた船がツヴァイクへ向かう途上、魔物に襲われて沈没した。
これによりモニカ姫は船もろとも海中に没し、その短い人生を終えた。
これが、つい最近までのモニカに対する世間的な認知であった。
だが真実は異なり、モニカは辛うじて生きていた。
この時点でモニカに示された道は二つ。過去の自分と決別し、人知れず生きていくか。若しくは真実を公表し、元の立場に戻るか。
ユリアンという生涯を誓い合うパートナーを得たモニカは、一度は母国を捨て彼と共に生きることも考えた。しかし彼女はやはり王者の資質を引き継いだ、英雄の子孫だ。結局は、己の幸福のみに甘んじていられる気質ではなかった。
それゆえモニカの生存はトーマスを通じ秘密裏にミカエルにも共有され、それ以降は公的な復帰の機会を窺うこととなったのだ。
そして訪れたのが、此度のピドナ瘴気蔓延に端を発する、急遽のアラケス討伐という難事。
アビスリーグ事件から立ち直りつつあるピドナへの被害を最小限に抑えるべく、カタリナら人類最強戦力の早期投入による可及的速やかな制圧の実行。且つ、この機にメッサーナ王国に対して数ヶ月前の物資援助の借りも返せる、ロアーヌ侯国的最適解で物事を進めていく。
これらを実現するにあたり、本件がモニカの表舞台復帰も兼ねる絶好の機会であろうとミカエルは判断した。
数ヶ月前、四魔貴族ビューネイ率いる魔物郡と交戦、危機的状態にあったロアーヌ軍へルートヴィッヒが支援物資を送ったことへの返礼。そこでルートヴィッヒが一筋縄ではいかない要望を行なってくるであろうことは、考えるまでもなく分かっていた。
それを牽制しつつアラケスによる世界的被害も抑えるならば、カタリナの戦力を返礼として一時提供することが最も効果的であったし、そのための対ルートヴィッヒ折衝という大役も、侯爵の妹であるモニカならば格式としてなんら問題はない。
そしてなによりも。
モニカの復帰とはつまり、かのロード・ツヴァイク、即ちツヴァイク公爵子息との婚儀・・・これを無視してまで生存の事実を伏す必要があったとツヴァイク公国に納得させる事情を、なんとしても成立させねばならなかった。
これは国家間勢力バランス的には、相応の難事だ。
十分な大義名分と共に証明できる、正に千載一遇の機会でなければならないだろう。
「モニカ様が伝説の八つの光の一人であり、それを聖王家との連携により知り得て魔物共から保護したのが、メッサーナの名族たるクラウディウス家のミューズ様だった・・・。その筋書きだからこそ、最後の四魔貴族であるアラケスとの対決までは余計な危険に巻き込まれぬよう伏して隠匿した点にも、国際的なバランスが取れる。そこまでが、俺たちの想定です」
メッサーナ王国に次ぐ大国であり、自軍の強化にも余念がないツヴァイク公国。彼の国に事情を黙認させるための筋書きが、トーマスの言う想定だ。
トーマスの言う通りにクラウディウス家とロアーヌ侯家が示し合わせれば自動的に、ミューズを陣営に引き入れたメッサーナ近衛軍団もこれに同調せざるを得ない。
そうしてメッサーナまで巻き込めばこそ、ツヴァイク公国も事情に一定の配慮をせざるを得ず、必要以上の政治的駆け引きが出来なくなる、というわけだ。
こうして今に至るまでの事情については、一定の解決が見込めていた。
だがそれはあくまで、アビスの脅威という強力な楔があってのこと。
それが消え去り隠匿すべき事情も解消されれば、メッサーナとしては自国内でモニカを庇護し続ける理由はない。
むしろ国内にいられるだけで、ツヴァイクにいらぬ因縁をつけられる口実となりかねない。つまり、政争要因となってしまうのだ。
となれば後のことは、自国内でやって欲しい。つまり、一刻も早くロアーヌへ帰国願いたいと考えるのが自然だった。
事実、アラケス討伐を知らせた翌日には態々ルートヴィッヒの署名まで付けて、送迎用に要人専用キャラック船を手配させる旨の書状が使者からハンス邸に届いた。
即刻お帰りいただきたい、という明確な意思表示だろう。
こうした事情により、モニカは必要最低限の準備だけを終えて早々に帰国することとなったのであった。
「我々フルブライトとしては、カタリナカンパニーと改めて同盟を組んだ上で、今最も勢いのある国家であるロアーヌに大々的に進出するいい機会でもある。なので、悪いことばかりでもないけれどね。それに世界は間違いなく、君たちが齎した平和に歓喜しているんだ。我々もそれに倣い、このような展開もいい方向に捉えていくしかないだろう」
「・・・・・・そう、ですね」
フルブライト二十三世の言葉に、トーマスはまるで自分に言い聞かせるように呟きながら浅く頷く。
世界全体は、確かにこれから三百年、気兼ねなく前に進むことが出来るのだろう。
世界中がそれを素直に受け入れ歓喜しているのも、もちろん知っている。
だが、しかし。
(・・・この平和を喜ぶ・・・俺が・・・?)
ゆっくりとした仕草で眼鏡の位置を直すように手を添えながら少し俯き、すっと目を閉じる。
すると今も鮮明に、二週間前のあの光景が、瞼の裏にありありと映し出されるのだ。
「・・・・・・・・・冗談じゃない・・・。俺は必ず・・・助ける」
閉じた時と同じようにゆっくりと目を開き、沖合に出てかなり小さくなった船影へと視線を向ける。
トーマスは無意識に両の拳をぎゅっと握り締め、風にかき消されるような小さな声で、そう呟いていた。
モニカ一行を乗せたキャラック船が、ヨルド海をロアーヌ領ミュルスへ向けて出航したのと同刻。
それより一足早く同海をツヴァイク公国へ向け出航していたキャラベル船の甲板上に、どの船員よりも我が物顔で艦首に立ち波を見つめる男の姿があった。
「んー確かにこのヨルド海っつーのは、温海や西太洋と勝手が違うな。この波風じゃあ、西より小型で縦帆メインの方が有利だってのも頷けるぜ」
南国人特有の艶がある黒髪を潮風に揺れるに任せながら、ブラックは全身で航海を堪能していた。
彼が十年ほど前に主だって活動していた海域と異なる、四つの内海の中で最も奥まった海域であるヨルド海。
ロアーヌ地方やポドールイ地方を結ぶ航路となるこの海は、外海である西太洋から最も離れた内陸側に位置している。そのためか、海風や波の調子が他の海と異なり航行難易度が高く、また沿岸部では座礁などの危険性も大きい海域だ。
そのため大型船舶よりも中型以下の船体が海域との相性も良く、帆も横帆ではなく小回りのきく縦帆が好まれる。
「あの・・・お客さん、あんまその辺に立たれてると」
「あぁ!?海の上で俺に指図すんじゃねぇ!!!」
明らかに堅気ではない様子のブラックに対して懸命に話しかけた船員に向かい、ブラックは理不尽極まりない一喝をする。
慌てて逃げていく船員の背を不機嫌そうに睨みつけたブラックは、再び海風を満喫するように船首へと向きを戻した。
「ちょっと、あんまり騒ぎとか起こさないでよね」
「あぁ!?」
背後から掛けられた声にブラックがまたしても不機嫌そうに応じると、今度は全く彼の恫喝にも怯む様子のない人影が、お構いなしに近くまで歩み寄ってきた。
「なんだ、エレンか。お前はこの波でも全然酔わないんだな」
「まぁね。このくらいの揺れとかは全然平気」
エレンが腰に手を当てながらそう言うと、その後ろから長身の男も近づいてくる。
いつも通り腰にカムシーンをぶら下げたハリードであった。
「斧は得物に合わせた重心の移動が重要だからな。体幹や平衡感覚が鍛えられるから、こういう時にも役立つんだろう」
「はん、俺様と同じ斧を扱うなんつーおっかねぇ女は趣味じゃねぇな」
「奇遇ね、あたしもあんたは全然趣味じゃないから安心して」
ブラックの軽口にエレンが軽妙な返しをすると、ブラックは満更でもない様子でニヤリと笑いながらエレン達に向き直る。
「ふん、そういやお前の趣味は、長身黒髪の砂漠の民だったな?」
「・・・うっさいわね。ほっときなさいよ」
何があったのかは知らないが、半年ほど前にピドナを飛び出していき、その後二週間前に一緒に帰ってきたかと思えば。
どうもこの二人、距離感が以前と違う。
実はブラックという男、そういうところに異様な察しの良さを発揮するのであった。
とはいえ、恐らくこの二人の関係の変化はブラックでなくとも分かったことだろう。
二週間前に突然帰ってきたかと思えばそのまま魔王殿に向かった後、エレンは強烈な瘴気中毒による昏睡状態で、ハリードによってハンス邸に担ぎ込まれてきた。
なんでも魔王の斧を使用した代償らしく、エレンが魔王の斧と共にハンス邸から持っていった聖王遺物である栄光の杖の加護がなければ、命そのものが危なかったそうだ。
そうしてエレンはミューズによる天術の治療魔術を受けながら三日三晩ほど意識が戻らぬまま寝込んでいたわけだが、その間、彼女の元を離れず献身的に世話をしていたのが、誰あろうハリードだったのである。
普段の彼を思うと非常に意外な光景だとも思えたが、その様子を見ていたシャールが呟いたことを、ブラックは印象深く覚えている。
曰く「守護する対象を定めた者は、ああなるものだ」だそうだ。
ブラックにはそういう対象がいたことはないし今後も予定はないが、そういう理由で船を降りる団員を彼は何度か見送ってきた。だからなのか、存外すんなりと理解することはできる。
「別にいいじゃねえか。惚れたやつが近くにいるってのは、悪いもんじゃねえんだろう?」
それははたして、どちらに投げかけた言葉なのか。
ハリードもエレンもお互いをちらりと見たかと思うと、満更でもなさそうな顔でうっすらと笑みを浮かべ、すぐ元の表情に戻る。
あぁ、やだやだ。こんな感じのナチュラルな惚気オーラを浴びながら暫く行動を共にすることになるのかと思うと、気が滅入るというものだ。
「ったく・・・見てるだけで腹一杯だぜ。なぁお前もそう思うだろ、ロビン」
エレン達の少し後方、右舷側甲板の縁にへばり付いている瀕死のロビンへと、ブラックが声をかける。
もう吐き出すものがないのか、時折口から胃液をぽたぽたと海面に滴らせながらぐったりしていたロビンは、無言で右手だけ上げてブラックの声に反応した。残念ながら、喋れる状態ではないようだ。
「・・・こいつはツヴァイクに着くまでダメそうだな。そうするとあと話し相手になりそうなのは・・・」
そう言いながらブラックは、ぐるりと甲板を見渡す。
するとその視界の端、甲板の後方に、線の細い人影を見出す。
「あの辛気臭せぇガキだけか・・・」
一人甲板の後方に立ち海面を眺めているのは、見慣れない衣服を纏った少年。
二週間前のあの日、魔王殿から帰ってきた五人の中の一人。カタリナ、トーマス、ハリード、エレンと、そしてあの見慣れぬ衣服に身を包んだ、謎の少年。
少年は、自分のことをテレーズと名乗った。なんでも、サラが少年にそう名付けたのだそうだ。
常に下を向き、陰気で口数少なく、やっと喋ったかと思えば口から出てくるのは辛気臭い言葉ばかり。率直に言って、ブラックが最も嫌いなタイプの人種だ。
「・・・けっ、楽しい旅になりそうだぜ」
手癖なのかガリガリと耳の後ろあたりを掻きながら、ブラックはもう一度、広大なヨルド海へと半眼で視線を投げかけた。
ピドナを出航してから五日ほどで、モニカらを乗せた船は無事にミュルス港へ入港した。
カタリナとしては実に一年半ぶりに訪れたミュルスだが、なんだか以前訪れた時よりも活気があるようにも感じられる。
いや、それはあの時の自分が周りを確りと見られておらず、今になってちゃんと見たからそう思うだけなのかもしれない。なにしろあの時は、自らの不手際で奪われてしまったマスカレイドを取り戻すため、殆ど当てもなくこの街を彷徨っていただけなのだから。
「それじゃあ俺とキャンディは、すこしばかりミュルスに滞在してからロアーヌへ向かうよ。まぁ、この先はいよいよ立場が違うから会える保証もないだろうけどな。とにかく、道中気をつけてな」
ミュルスの東門からロアーヌへ向け侯族専用の馬車に乗り込むモニカ、カタリナ、ユリアン、フェアリーを見送るように、ポールとキャンディが手を振る。
「いいえ、必ずロアーヌ宮殿を訪ねてくださいませ。お二人のことは、しっかり城の者に話しておきますわ」
モニカはそう言いながら少し寂しげに微笑むと、トーマスらの時と同じく一礼し、馬車に乗り込んだ。
「・・・ユリアン、この先結構大変だと思うけどさ、がんばれよな」
「・・・あぁ。お前も元気でな、ポール。キャンディも、またな」
「うん、またねー」
年も近かったからか色々と気が合ったらしいユリアンとポールは、互いに固く握手を交わしながら短い別れの言葉を送り合う。
そしてユリアンも馬車に乗り込んだあと、ポールはカタリナに向かい合った。
「カタリナさんよ・・・あんたとは妙な縁だったが、いよいよここでお別れなんだな」
「そうね・・・カンパニーの方は、トーマスと共によろしく頼むわ。ただし、まだまだ未熟なんだから剣の鍛錬も怠らないこと。あと、忙しくても折を見てキドラントには定期的に帰ること。ニーナちゃんをあまり寂しがらせてはダメよ」
「おいおい、お袋かっての・・・まぁ、分かってるよ。もう昔の俺じゃないつもりだ。しっかりやるさ」
そう言いながら差し出されたポールの右手を、カタリナはしっかりと握り返す。
小煩く言ったが、こうして一年以上もさまざまな旅を共にしてきたこの男ならば、きっとこれからも上手くやれることだろう。少なくとも自分よりは器用に立ち回れるだろうな、という確信もある。
「フェアリー、ウチ絶対いつか妖精の里行くからね」
「はい、キャンディさんが来る時は、新しい妖精の里を案内しますね」
いつの間にか目端に大粒の涙を浮かべ、キャンディがフェアリーの手を両手で握りながら語りかけている。
フェアリーが何歳なのかなどは聞いたこともないが、確かに二人は見た目の年頃は似ている。というか、フェアリーの方が幼く見えるくらいだ。なのでキャンディにとってフェアリーは、歳の近い友人というイメージだったのだろう。別れを惜しむのも頷けるというものだ。
「それじゃあ、二人とも元気でね」
短く別れを告げ、カタリナとフェアリーも馬車に乗り込む。
そして間も無く馬車は、ロアーヌへ向けて走り始めた。急ぎ便であればロアーヌとミュルス間は日中いっぱいを使って駆け抜けることも可能だが、それは流石に乗客にも負荷がかかる。なので今回は、途中に宿場を挟んで明日の午後にロアーヌに着く予定だ。
「・・・本当に、寂しくなりますわね」
「モニカ・・・」
長く美しい睫毛が儚げに揺らめき、それに合わせて艶やかな金色の横髪が顔にかかる。それを気にしない様子で少し俯きながら呟いたモニカに、隣のユリアンがそっと彼女の手を握ってやった。
この一年半ほどの間には、本当にいろんなことがあった。
それはカタリナにしてもそうだが、他の面々にしてもそうだったはずだ。
皆に多くの苦難があり、それと同じく多くの出会いもあり、とても短い言葉では言い表すことができないような、沢山の事を経験してきた。
特にモニカはその立場ゆえに他者とは異なる心労があったことも想像に難くなく、更にはこの先にも幾つかの困難が待ち受けているのが目に見えている。
だから尚のこと、束の間の楽しかった日々が強く思い出されるのだろう。
カタリナは自分も彼女に長く仕えた家臣の一人として、これからもその支えにならなければいけないと心を新たにする。例え、関わり方がどのような形に変わろうとも。
それからは馬車の中で殆ど会話らしい会話もなく、馬車はかつて世界を救った英雄の一人が先陣を切って駆けたとされるミュルスロアーヌ間を結ぶメイン街道、フェルディナント街道をゆっくりと進んでいった。
(・・・・・・私は、これからどうするべきなのだろう)
馬車の外に流れる風景をぼんやりと眺めながら、カタリナはふと、そんなことを思う。
これはミュルスへ向かう船の中から、いや、そのもっと前から考えていたことであった。
王家の指輪を受け取ってから始まった八つの光としての使命は、四魔貴族を打ち倒したことで果たされたはずだ。そして、それを成したら聖剣マスカレイドを返上するとミカエルに約束したのだから、まずはそれをする。それは、既に決まっていることだ。
だが、その先はどうするべきなのだろうか。
まず以て、もう旅に出る前の状況に戻れないのは明らかだ。これは、旅の途中にも何度か思いを馳せたことでもある。
そもそも彼女が最も長く側に仕えた主人たるモニカは、ユリアンと生涯を共にするという固い決意を秘めて帰国の途についている。つまりこの先、彼女の最も近くにいるべきはそもそも自分ではなく、彼なのだ。
もちろん、そう易々と事が運ぶとは考えてはいない。侯族たるモニカと開拓民であるユリアンでは、あまりにも身分が異なる。
それこそ、平民出身の母を持つミカエルやモニカが幼い頃に苦しめられてきた境遇以上の過酷さが、そこには待ち構えていることだろう。
故にミカエルがそのまま許すことは、まず考えられない。
だが仮にミカエルが認めなかったとしても、モニカはもうそれに従うことはないだろう。彼女は今も誰より兄を敬愛しているが、しかしそれだけが彼女の心の拠り所ではなくなったのもまた、事実なのだから。
そしてきっと、ミカエルもまたモニカの意思を今なら何らかの形で尊重するような気もしていた。
旅に出る前に比べれば、カタリナにも少しは世界のこと、経済のこと、国家のことなどが見えるようになったから尚の事、そう考えるのかもしれない。
確かに一年半前のあの時、モニカをツヴァイクへ嫁がせるという判断は、彼女の身の安全にとって最も良い選択だったのだろうと思う。その上で国家間の勢力バランスにも悪影響の出ない、状況的に最善と思わせる采配だ。
きっとモニカもその意図が分かっていたから、悩み、涙し、それでも最後は承諾したのだろう。
だが、時と共に状況は変わった。
この一年半だけでもロアーヌの国力は急激に増大し、魔物の活動が沈静化していくであろう今後は、更なる躍進が確実視される。
その勢いに当然ながらツヴァイクを含めた諸国は危機感を抱き様々な形でロアーヌへと関わってくるであろうが、今の国力とナジュ地方へ跨る流通網を得たミカエルの外交手腕ならば、さしたる問題にはならないだろう。
つまり、ツヴァイクに対しても過度に下手に出る必要はもうないのだ。
となればモニカという人格をむざむざ不幸に誘う選択肢を、ミカエルが取るはずはない。カタリナにはそんな、根拠のない確信があった。
(二人のことに関しては、私も微力ながら口添えはさせていただこう・・・)
それはかつて、ピドナのパブ・ヴィンサントでユリアンにも約束したことだ。モニカの幸せを願う気持ちならば、ミカエルにだって負けないつもりではいる。
(・・・だけど、私自身は・・・)
自分のこととなると、また話は別だった。
ロアーヌ侯国にとってカタリナ=ラウランという元侍女にして騎士は、建国時から伝わる国宝を一時紛失させた罪人でもある。通常ならば、相応の処罰をされるのが妥当であろう。
(そりゃあ言い渡されれば斬首だろうと受け入れる覚悟だけれど・・・ミカエル様はお優しいから、それをしないだろうことも薄々分かってる。それに八つの光という聖王教会における最上級の特性を考慮すれば、私には相応の利用価値もあるわ・・・だからこそミカエル様がお示しになられる道に従い、これからも剣としてロアーヌに尽くせるのならば。それは何も迷うことなんてない、とても幸福なこと・・・)
そう、迷うようなことではない。
だというのに、彼女は何よりまず最初に、こう思ったのだ。
自分はこれからどうするべきなのであろうか、と。
世界には、三百年の平和が訪れた。我々はそれを喜びとともに受け入れ、其々が前を向いていかなければならない。
そのはずなのに、彼女の中には、とても大きなしこりがある。
そしてその原因も、実のところ凡その目星はついていた。
『あたしはサラを探す。生きてるなら必ず探し出して、絶対に連れ戻す』
二週間前、あの決戦から数日後。
ハンス邸でそう言い放ったエレンの言葉には一切の淀みがなく、他の全てを犠牲してでもそれを成し遂げるという強い決意がそこにあった。
例えそれが全世界から非難される行為であっても、彼女にはそんなことは一切関係ないのだ。ただ彼女がそうするべきと確信したから、行動するだけ。
その強い意思と言葉を前に、カタリナは何も言うことができなかった。
(私には、あんな言葉を紡ぐことは出来ない・・・私は、ロアーヌの剣なのだから・・・)
八つの光としての使命を果たした今、これからは改めて一人の騎士として、誠心誠意ロアーヌ侯国に仕える。それが自分の、正しく行うべきこと。
(なのに・・・なぜ私は、今も迷っているのだろう・・・)
最終更新:2023年11月29日 13:25