予定通りミュルスを発った翌日午後にはロアーヌへ入り、久方ぶりのロアーヌ宮廷でどこか落ち着かない一夜を明かした、翌朝。
 日の出前のまだ仄暗い時間帯にふと目が覚めてしまったカタリナは、寝巻きの上に一枚羽織っただけのラフな格好で庭園へと足を伸ばす。
 するとそこには予想外にも先客がいて、更にはまるでカタリナを待っていたかのように声をかけてきた。

「お久しぶりね、ロアーヌの騎士様?」
「・・・教授?」

 そこに居たのは、相変わらず周囲とは趣の異なる服装に身を包み、高いヒールを履きこなした妙齢の美女。
 ツヴァイクの西の森に住む天才と名高い、教授その人であった。

「何故、貴女がここに・・・?」
「あら、何故とは心外ね。アビスゲートの調査に私を推薦してきたの、貴女でしょう?」

 そう言いながらリズミカルな靴音と共にカタリナへ近づいてきた教授は、服装柄か殊更に強調された様子の豊かな胸部の下で緩く腕を組みながら、彼女の前で立ち止まった。

「火術要塞を大方調べてバンガードにも調査に向かい、今はタフターン山のゲート跡を大まかに確認したところで、調査経過の報告を求められてね。少しここに逗留していたの。それに、貴女がここに戻るというのも小耳に挟んだしね」
「そうだったの・・・。今こんなところで言うのも何だけれど、教授、改めてお礼を言わせて頂戴。無茶な依頼を受けてくれて、本当にありがとう」

 そう言いながらカタリナは、ぺこりと頭を下げた。
 彼女とこうして会うのは一年以上ぶりである上、実際に関わったのはキドラントの一件の時だけだ。だというのに危険を伴うアビスゲートの調査という難題を快く引き受けてくれたことには、言葉通り感謝しかない。
 調査費用は基本的にロアーヌの国庫から出るが、自分としても出来る限りの謝礼を行いたいとは思っていた。

「あら、寧ろ礼を言いたいのは私の方よ。普通ならまずお目にかかれない研究対象に関わる機会をもらえたんですもの。しかも報酬付き。何ならパトロンごと乗り換えたいくらいよ」
「あ、いえ、それは遠慮させてもらうわ」

 全力でそこは拒否しておく。確かに目の前の教授という人物は不世出の天才だろうと、カタリナでも分かる。だがそれゆえに常人とはあまりに価値観が異なるので、必要以上に関わるのが憚られるのもまた、事実なのだ。

「ふふ、謙虚なのね。まぁいいわ。取り敢えず調査で分かったことについて貴女に話しておきたいのだけれど、そうね・・・夜にでも少し時間取れるかしら。私は今でもいいんだけど、同席したがっているヨハンネスが日中は寝てるのよ」
「ヨハンネスさんも・・・。えぇ、分かったわ」

 教授はカタリナの返答を聞くと満足げに頷き、カツカツと靴音を鳴らしながら宮廷の方へと歩いていった。城下町ではなく宮廷方面ということは恐らく、調査団関係者として宮廷内に部屋が宛てがわれているのだろう。
 彼女の話からするとランスのヨハンネスも無事に調査依頼を引き受けてくれていて、ここにも一緒に来ているようだ。
 しかし、その二人が一体自分に、何を話そうというのであろう。
 こう言っては何だが、八つの光としての使命を終えた自分には、もうアビスゲートの調査報告など貰ったところで大した意味はない気がするのだが。

(・・・まぁ、確かにミカエル様がお帰りになるまでは何も予定がないし、付き合うだけならいいけれど・・・)

 本来ならば一刻も早くミカエルに謁見し、正式にマスカレイド返上の上で自身の今後の処遇を仰がなければならないところなのだが、現在ミカエルはナジュ地方へと出払っていた。
 これも今のカタリナにならば、大凡の目的は理解できる。
 アラケス討伐からそう日を置かずに出発したとの情報から見ても、恐らくこれは今後の他国牽制のための一手だ。
 四魔貴族という人類共通の敵が消え去った今、世界は既に、国家間の勢力争いへと早くも視点を移し始めているのだろう。

(・・・結局私達が命をかけて世界を救ったところで、人はお互いに争う事をやめられはしない。私は聖王教徒として盲目的に聖王様の教えを信じ、世界もその意思の元にあると思っていた。でも世界はもっと複雑で謎だらけで、美しさも醜さも併せ持っているのだわ・・・)

 剣を振るい、悪を打ち倒すことで全てが丸く収まる世界ならば、どれほど良かったことか。
 だが、残念ながら世界はそういう風にはできていないようだった。
 特段それを実感させられたのが、アビスリーグ事件で垣間見た人の欲深さだ。トーマスはあれをアビスの介入の結果だと言っていたが、結局アビスの甘言に拐かされたのは、欲深い人間自身。
 長年に渡り悪意を醸成していたバイロンなどの存在は確かに稀かも知れないが、それ以外でもアビスリーグによる要人を介した商圏介入がほぼすべての国で起こっていたというのだから、それは本当に末恐ろしいことだ。
 その恐ろしさは、アビスの脅威が無くなったあとも、決して消えることはない。

(だからこそ正しい心、強い信念、揺るがぬ決意で人々を導くような存在が必要になる・・・勿論ミカエル様はそれを成し遂げられるお方だと信じている。でも・・・)

 カタリナが敬愛してやまないミカエルであっても、「全て」を救うことは出来ない。
 それもまた、この旅を通じてカタリナ自身が感じてきたことだ。
 世界は広く、様々な場所で様々なことが起きる。
 キドラントでの生け贄騒動や、ミューズを襲った夢魔の事件、マクシムス絡みの事件にバンガードの危機など、それらは世界に出なければ遭遇し得なかった出来事であり、それら様々な出来事の結果で救えた命、回避できた悲劇があった。
 結局のところ世界中で起こる様々な出来事にそれぞれ対処出来るのは、その事態に遭遇した当事者だけなのだ。

(そう・・・救えるのは、その場にいてそれらを知る者だけ。でも・・・こうしてロアーヌへ戻ってきた私には、もう是非もないこと・・・)

 いつの間にか昇り始めた陽の光に目を細めながら、カタリナは唇を薄っすらと噛み締め、朝日から目を背けるようにしてその場をあとにした。





 靄がかかったような気持ちで過ごした日中が過ぎ去り日も落ちた頃、カタリナは明け方と同じく、宮廷庭園へと訪れていた。
 腰にはマスカレイドのみを装着した軽装で、服装も今は侍女というわけでもないので、ロアーヌ騎士団員に配布される制服を着用している。
 庭園の中央を目指してカタリナが歩いていくと、やがて見慣れぬ不可思議な明かりが灯されたガゼボが見えてきた。
 蝋燭とも異なる妙な明かりを不審に思いながら近づくと、そこにはガゼボ内に座る二人の人影と、石造りのテーブルの上で煌々と辺りを照らす不思議な照明器具。恐らくこれは教授の発明品であろうと、カタリナは勝手に当たりをつけた。

「お久しぶりです、ヨハンネスさん」

 その場に教授と共にいたのは、今朝の話の通りヨハンネスであった。まずカタリナは彼に向き直り、挨拶とともに一礼する。

「お久しぶりです、カタリナさん・・・約束通りに父の悲願を果たしていただき、ありがとうございました」

 そう言いながら立ち上がったヨハンネスがぎこちない動作で頭を下げると、カタリナは力なく微笑みながら、軽く頭を横にふる。

「いえ・・・四魔貴族討伐は、私だけが果たしたことではありません。むしろ私は・・・」

 言い淀みながら少し俯いたカタリナを、ヨハンネスは何事かと不思議そうに見る。

「二人の会話は、後でゆっくりやって頂戴。私もいるのだから、話すべき本題を先に話しましょう」

 二人の様子を気に留めることもない教授がマイペースにそう言い、手元のマグカップを手に取って口に運ぶ。香りからしてどうやら中身は珈琲のようで、カップの近くには見慣れぬポットらしきものも置いてある。これも教授の持ち物だろう。

「あぁ、そうですね・・・では」

 ヨハンネスが慌てて座り直すと、続いてカタリナも空いているスペースに腰を下ろす。それを確認したヨハンネスは早速懐から何枚かの紙を取り出しつつ、話を始めた。

「まず、本題の前提から行きます。火術要塞ゲート跡、バンガード内部、そしてタフターン山のゲート跡をそれぞれ調査した上で、我々は大凡確度が高いと思われる一つの推論を導き出しました。それはすなわち・・・アビスゲートとは、聖王遺物とほぼ同種の技術理論を元に作られているだろう、というものです」
「ゲートと聖王遺物が・・・ほぼ同種・・・」

 唐突に言われたその内容を、カタリナは口に出して繰り返した。

「はい。専門的な部分は一旦省きますが、ゲートにせよ聖王遺物にせよ、人類が現在活用している魔導技術とは全く異なる水準のオーバーテクノロジーです。それは幾つかの聖王遺物を持つカタリナさん自身も良くご理解しているかも知れませんが・・・その上で両者の構造や特徴は、見れば見るほど類似点が多いのです」
「・・・・・・」

 実のところ、この推論に関しては驚きは少ない。何故ならそれは、カタリナ自身も確かに薄々感じていたことではあったからだ。
 それに以前グゥエインから人類のこの三百年の進歩について不可思議な点があると話をされたときにも、この点について思い至った。

「つまりアビスゲートも、本質的には魔導器ということね」

 珈琲を啜りながら、教授がそう付け加える。それにもカタリナは無言で頷いた。
 教授がその名を世界に広く知られるに至った分野、魔導科学。その科学理論で構築される代物を、界隈では魔導器と呼称する。
 魔導科学という学問自体は聖王の時代から存在しているとされるものの、その概要すら一般には殆ど知られていない。それどころか、研究対象に聖王遺物を含むことから聖王教会の中では分野そのものが禁忌ともされ、世間的には殆ど研究自体進んでいない状態である。
 何しろこの分野を専攻する教授がパトロンとしてツヴァイク公を選んだのも、公がその辺に対する信仰心が薄いという背景があるからだ。

「・・・ですので、この調査結果を報告すれば即座に情報規制される可能性が高いと思い、先にカタリナさんには個別でお伝えしておこうと思ったのです」
「そうだったんですね・・・。続きを聞かせてもらえますか」

 カタリナが催促すると、ヨハンネスは頷いて口を開いた。

「プロフェッサーによれば、魔導器とは基本的に『特定の術力を媒介し設計された効果を発揮する代物』であり、アビスゲートは主にアビスの瘴気を仮想術力に変換し作動する特殊機構を有する魔導器である、と定義することが出来ます」
「同じ理屈で、聖王遺物は基本的に人体エネルギーを仮想天術に変換して動力とし、バンガードなんかは直接玄武術式を動力として作動する魔導器、というわけね」

 話の内容に何とかついていこうとカタリナが全力で脳内回転速度を上げながらフムフムと聞いている中、お構いなしに二人の解説は進んでいく。

「そこで魔導器の構造理論に明るいプロフェッサーが色々と調査を行い、幾つか興味深いことが判明しました」
「うふふ。そう・・・実に興味深いことが、ね」

 そう言いながら勿体ぶる教授に対し、カタリナは早く続きを、と視線で煽る。

「まず第一にアビスゲートは、ある程度の相互干渉特性を持っていたわ。要するにゲート同士が互いに反応するって考えてくれればいいのだけれど、これを利用することで、他のゲートなどの状態がある程度分かるってわけ。そしてこれに付随して判明したこととして・・・」

 再度足を組み替えながら、教授はテーブルに身を乗り出して頬杖を付き、さも楽しそうに話を続けた。

「第二に、恐らく各地のアビスゲートは、より巨大なコアシステムから派生した一種のコンソールに過ぎない。つまり・・・もっと巨大な魔導器に繋がる、小規模の魔導器である可能性が高いわ」

 教授がいう言葉が何を意味しているのか、すぐにはカタリナには理解できなかった。
 ゲート同士が何らかの形で繋がっているというのは理解できたが、その後については、全く想像がつかないのである。

「巨大な・・・魔導器・・・?」
「そう、巨大な魔導器。アビスゲート・・・というかアビスゲートを含む建築構造自体も魔導器としては馬鹿みたいに大きな代物だけど、どうやらそれらを統括するもっと巨大な魔導器がある、というのが私の推論。まぁ推論というか、見た限りはほぼ間違いないでしょうね」

 アビスゲート自体が、もっと大きな魔導器の一部である。教授はそう言いたいのだろう。それはカタリナにもやっとわかった。しかし、だとしたらその大きな魔導器というのは一体何なのだろうか。その疑問をそのままぶつけてみる。

「その巨大な魔導器というのは一体、なんなの・・・?」
「分からないわ」

 にべもない即答である。
 盛大に肩透かしを食らったカタリナが綺麗な仏頂面で返すと、すかさずヨハンネスあせあせとフォローを入れにきた。

「げ、現在火術要塞とタフターン山のゲートを調査した限りそのような事が判明し、あとはフォルネウスの住処や魔王殿のゲートを調べられればもう少しその詳細にも迫れるとは思うのですが・・・。しかしフォルネウスの住処は調査難易度が非常に高く、魔王殿はメッサーナ領なので、これも許諾問題から即座の調査実現は難しそうです」

 それは確かに、その通りであった。
 海底宮は数十人の水術師と大量の術酒という膨大な人件費及び資材費が掛かるし、魔王殿深部については現在、ピドナ近衛軍団直轄の最重要立入禁止区域となっている。余程の事情がない限りは、調査の許可が降りることはないだろう。

「そして一応ここが、次の話題にも繋がるのですが・・・」

 言いながら、ヨハンネスは何故か言い淀む。カタリナが疑問符を浮かべながら首を傾げると、ヨハンネスは実に気不味そうに続きを述べた。

「あぁ〜・・・これは悪い知らせ、とも言えるのですが。カタリナさん達が四つのアビスゲートを閉じ、これで全て終わりのはずが・・・先程の相互干渉作用の検証、及び私の天体観測結果を照らし合わせると・・・あと一つ、世界の何処かにゲートらしきものが残っているようなのです」
「・・・・・・」

 ヨハンネスの述べた内容に対し、カタリナは無言で応えた。
 それは突如の事実に対し大きな衝撃を受けているからなのかとヨハンネスは最初に思ったが、どうもカタリナの表情を見る限り、そう読み取ることは出来そうにない。
 そんな不思議な様相に今度はヨハンネスが軽く首を傾げていると、カタリナはどこか自嘲気味にも見える笑みを薄っすらと浮かべ、重い口を開いた。

「・・・もう一つのゲートの存在は、知ってるわ」
「知ってる? それ、どういうことかしら」

 今度は教授が疑問符を浮かべながら、口を挟む。
 するとカタリナは自嘲気味な笑みを崩さぬまま、力なく椅子の背もたれに体を預け、そのままの姿勢で話を続けた。

「・・・魔王殿でアビスゲートを閉じた、そのあとの事よ」

 サラがアビスゲートの向こうへ消え去った、そのあと。
 カタリナ、トーマス、ハリード、エレン、謎の少年の五人は、満身創痍でハンス邸に帰還した。
 その後三日三晩寝込んでいたエレンが起きるのを待ってから、ハンス邸に集まった仲間全員に少年を交え、状況を共有する場が設けられたのだ。
 主には少年から話を聞くという場になったのだが、そこで少年がぽつぽつと口にした内容は、これまでの旅の中で最も衝撃的な内容であった。
 まず明かされたのが、少年とサラの正体についてである。

「その少年とサラさんの二人が、どちらも宿命の子だった・・・ですか」

 唐突に明かされた事実に驚愕するヨハンネスをよそに、話は続く。
 自らとサラを宿命の子だと言った少年は、サラと出会ったことでお互いの宿星が同じ死の星であることを間もなく理解し、開きつつあるアビスゲート封鎖を目的とした活動を開始した。
 この時点で少年とサラに覚醒した力は、創造の力と破壊の力だそうだ。特にサラが創造の力を強く発現し、少年が破壊の力を大きく覚醒させたという。その力は人類の持てる能力を遥かに凌駕するもので、その力で先ずはアウナスを難なく撃破したそうだ。
 その後二人はナジュ砂漠を越えてから北上し、ロアーヌの更に東、腐海と呼ばれる地方ヘ。その理由は少年の出生に関わる事を確かめに行ったとのことだが、あまりそこについては詳しく語られなかった。
 そしていよいよ四魔貴族がアラケスのみになったことを察し、最後のアビスゲートを自分たちが閉じるためにピドナの魔王殿を目指した。
 この時既に二人は、何方かが身を挺して最後のアビスゲートを閉じなければならないことを分かっていたのだという。
 最後まで自分がそれをするのだと心に誓っていた少年だったが、結果はサラに押し出された。

「そしてあの少年・・・テレーズは、ハンス邸で身を震わせながらこう言ったわ。四つのゲートをすべて閉じて戦いは終わったはずなのに・・・まだもう一つ、何処かにゲートの存在を感じるのだ、とね」

 それは、宿命の子だからこそ感じられるものなのだろう。その場の誰も、彼が嘘をついているとは思わなかった。
 そして少年は自らの宿命ゆえか、残り一つのゲートが一体どんなものなのかについても察しがついているようで、分かる限りを語ってくれた。

「彼が言うには、そのゲートは他の四つのアビスゲートと違って不安定で、それを放っておいても恐らく次の死蝕まで害を及ぼすことはないそうよ。また、恐らくそのゲートの存在は聖王様も後々になって気づいていたんじゃないか、とも言っていたわね」
「・・・となると聖王様が四魔貴族征伐後、東の見捨てられた地へ遠征を行ったという伝承の理由は・・・」

 カタリナの言葉を聞きながらヨハンネスは聖王記の内容に照らし合わせて考察をする。確かにそれはカタリナも考えたことだが、今はもう考察したところで仕方のないことだ。

「そして、下手にこの不安定なゲートを刺激すれば、世界に何らかの悪影響を及ぼす可能性が非常に高い・・・。だからそのゲートは、関わるべきではないものだ・・・と」

 突然存在が発覚した第五のゲートに関わらずとも、向こう三百年の世界平和は保たれる。
 しかしゲートに関わろうとすれば、その三百年の平和すらも脅かされる危険性がある。
 ならば、無闇に触るべきではない。
 誰が聞いても、この状況で下すべき判断は明らかだろう。
 カタリナとて、態々そんなゲートに関わることで悪戯に世界を危険に晒そうなどとは、考えられなかった。

「・・・というわけで、もう一つのゲートのことは、既に知っていたの。先に話してなくて御免なさいね」
「いえ・・・ご情報ありがとうございます。こちらの調査結果とも整合性が取れたのは、喜ばしいことです」

 ヨハンネスの礼に力なく微笑み返しながらカタリナが頷くと、何かを考えるようにしながら黙って話を聞いてた教授が、手にしていたマグカップをことりとテーブルに置く。

「なるほどね。貴女、それでそんな感じなのね」
「・・・・・・どういうこと?」

 唐突な教授の言葉に、カタリナは怪訝な顔をした。
 しかし教授はカタリナへ返答する前に自前のポットから優雅に珈琲のおかわりを注ぎ、まるで淹れたてのような温かい様子の珈琲を一口飲んでから、改めてカタリナに視線を投げかけた。

「貴女、キドラントで言っていたじゃない。『如何な理由であるにせよ、生贄なんて馬鹿げたものを見過ごすわけにはいかない』って」
「・・・・・・」

 それは、キドラントで起きた生け贄騒動の時のことだ。
 ポールとともにニーナを助けた後、町長に対して嫌味混じりで自分が言い放った言葉。それは、確かに覚えている。

「つまり今回の事はそのサラって子を生け贄にして、三百年の世界平和を選んだということでしょう。それって、貴女が言うところの『馬鹿げた選択』だわ」
「・・・・・・そうね、その通りだわ」

 ぐうの音も出ないほど、その通りだった。
 自分は、もう一つのゲートとやらを手がかりにサラを救出出来る可能性と、ゲートに関わらないことで確約される三百年の世界平和を天秤にかけ、世界平和を選んだ。
 それは元よりサラの望みでもあり、また世界中の人々の望みでもあろうことが分かっていたからだ。
 当然それはカタリナのみならず、その場に集まったほぼ全員がそう考えたことだろう。ただ誰も、それを表立って口には出せなかっただけだ。
 だがその選択を唯一、即座に真っ向から否定し、他の事情を顧みずサラを助け出すために無理やり少年を連れ立って旅立ったのが、エレンだった。

『あたしはサラを探す。生きてるなら必ず探し出して、絶対に連れ戻す』

 サラがアビスの彼方でまだ生きていることも、少年は感じ取っていた。だからエレンはそれを確かめ続けるために、少年を連れて行ったのだ。
 カタリナは、その姿をただ見送るしか出来なかった。

「私はその判断は、とても合理的だと思うわ。助けられるかも分からない一人の命と、高確率で世界中を危険に晒す可能性。そんなのは、一々比べるまでもないことよ。それに貴女は主君のある騎士だものね。態々主君と国にまで危険が及ぶ可能性のある選択肢を取ることは、ナンセンスだわ」
「・・・そうですね、それに第五のゲートに関わることは、すなわち世界を敵に回す事と同義です。世界が望むのは、向こう三百年の確実な平和。それを脅かそうとする者を世界は間違いなく否定し、排除しようとするでしょう。私の父が、そうであったように・・・」

 三度目の死蝕を予言し、故アルバート王によって処刑された父を思い返しながら、ヨハンネスも教授に同調する。
 四魔貴族を討ち果たした英雄という立場が、ゲートを目指せば一転して世界を危険に晒しかねない反逆者となるのだ。
 そしてもし、カタリナが世界に否定される側に立った時。その影響は、自分を騎士として擁するロアーヌという国までを確実に巻き込む事態となる。
 それはカタリナにとっては、絶対にあってはならない事だった。
 何よりその事実が彼女の決断を後押ししたのは、紛れもない事実なのである。

「そう、だから貴女の選択はこの世界にとってとても合理的。ただ・・・それが正しいかどうかは、別の話ね」

 教授は、どこか含みのある言葉を放つ。その意味を問うようにカタリナが視線を向けると、教授は顔にかかった金髪を掻き上げながら、妖艶に微笑んだ。

「正しさとは、世界が決めるものではないわ。自分が決めるものよ」

 言い放つその言葉に感じられるのは、何者にも曲げることの出来ない、絶対の信念だ。

「世界が正しさを決めるのだとしたら、私はこんな研究なんてしていない。そこの陰気な男にしたって、父のあとをついで天文学などやっていないでしょう。私達は自らで、自らを正しいと確信したから今こうしているの。つまり正しさとは一つではなく、人の数、星の数ほどあるということ」

 腕を組んで腰掛け直し、教授はカタリナの心の内を見透かすかのように上目遣いで見つめた。

「貴女いま、正しさの判断を自分の心ではなく世界に委ねているでしょう。別に私はそれを否定はしないけれど、ただ・・・貴女の正しさはそうじゃないと感じる。それだけよ」
「ッ・・・・・・!!」

 世界のこと。
 ロアーヌのこと。
 ミカエルのこと。
 それらを考え、選択する。それは自分にとって、正しいことのはずだ。
 だというのに自分の中には、ずっと迷いがあった。
 二週間前のあの時に下した判断を、自分の心は正しいと感じていない。

「・・・・・・救うことが出来るのは、それを知る者だけ」

 ぽつりと、カタリナが呟く。
 教授とヨハンネスの二人は、その言葉の続きを黙って待った。

「・・・誰かの犠牲の上で成り立つ平和を、悪いとは言わない。自らを犠牲にしてでもそれを為そうとする人の意思は、とても尊いものよ。でも・・・そのことを知った当事者なら・・・救える可能性が少しでもあるのなら・・・それが私なら・・・やっぱり、助けたい」

 気がつくと、頬を一筋の涙が伝っていた。
 騎士カタリナの心が思う正しさとは、世界の正しさとは、別のところにある。
 それを改めて自覚したことでカタリナは、一瞬でも己の騎士道を歪めたことを強く後悔し、涙した。

「貴女が正しいと思ったなら、そのように進めばいいだけ。何も難しく考えることはないわ」

 教授はそう言いながら変わらぬ様子で珈琲を啜り、ヨハンネスは懐から思いの外清潔なハンケチーフを取り出し、カタリナに差し出す。
 それを会釈しながら受け取ったカタリナは、中々止まってくれない涙を拭いながら、感情が落ち着くのを待った。
 そしてカタリナが恥ずかしいところを見せたと二人に頭を下げたところで、教授は仕切り直すように姿勢を変え、今宵一番含みのある笑顔を浮かべる。
 カタリナはその笑顔になんだか見覚えがあるようで、内心ではとても嫌な予感がした。

「それじゃあこれまでの調査結果を元に、ここからは今後の話をしましょう」





「入れ」

 ロアーヌ侯国初代侯爵フェルディナントが誂えたとされる由緒正しき玉座の鎮座する、ロアーヌ宮殿謁見の間。
 その玉座に腰掛けた当代侯爵ミカエルの発声によって衛兵が両側から扉を開き、外で待機していたカタリナが一礼し、室内へと歩みを進める。
 そして玉座拝謁の位置を取ると流れるような動きで片膝をつき、頭を垂れた。

「面を上げよ」

 ミカエルの許しに伴いカタリナはゆっくりと顔を上げ、ミカエルを見つめる。
 こうしてミカエルの姿を見られるのは、実に半年以上ぶりのことだ。カタリナはそれだけで胸が高鳴る思いになり、改めて自らの中にある気持ちを強く自覚する。
 思えば、その感情のお陰で色々とあったものだ。

「ご拝謁賜り光栄に存じます、ミカエル様。此度、自らの不始末により紛失していた国宝マスカレイドのご返上をさせて頂きたく、ここに参りました」

 四魔貴族を打ち倒し、聖王遺物の役割は全うされた。故に、前回ミカエルと会ったときに交わした約束の通り、先ずはこの宝剣を返さねばならない。
 発言と同時に腰の剣帯から鞘に収められたマスカレイドを外し、両手で支えるようにしながらミカエルへ向けて軽く差し出す。

「カタリナ、返す必要はない」

 その様子を見ていたミカエルは、表情を変えずに短く、そう言った。
 そう、ミカエルならばきっとそういうのだろうと、カタリナには薄々分かっていたこと。
 その言葉をかけてもらえるだけでカタリナの心は昂り、瞬く間に幸福感でその身が満たされていくのだ。

「マスカレイドと共に、今後も私に仕えてくれ」

 その言葉は、天上にも昇るほどの甘美な響き。
 国宝を紛失するという不始末をしでかした者が、これからも敬愛する主君と国家に仕える許しを得られるなど、まさにこれ以上ない幸福だと断言できよう。
 自らがそれを与えられたことにカタリナの心は今一度大きく打ち震え、その事実だけで彼女は、この先も自らの信念を曲げることなく進むことが出来るのだと確信する。
 何度も噛みしめるようにその言葉を頭の中で反芻し、あまりの幸福にカタリナは思わず微笑んだ。
 その微笑みを見て、ミカエルは少し驚いたような表情をする。
 そしてミカエルが何かを察したのか再度口を開こうとするのを制し、カタリナは声高に、力強く、宣言した。

「いいえ、お暇を頂きたく存じます。ミカエル様のそばには、いられません!!」







最終更新:2023年11月29日 13:28