ゆらゆらと舞い踊りながら降り積もる純白の結晶は、緩やかに空間全体を染め上げている優しい宵闇と相まって、その中心に位置する街を妖しく美しく、そして幻想的に彩っている。
積雪に覆われた辺り一帯は不気味なほどにしんと静まりかえっているが、不思議と怖さは感じない。むしろどこか安堵をすら覚えてしまうような既視感すら、ふと脳裏に訪れる。それは、この地がこの地たる所以によるのかもしれない。
伝説によるならば、千年続くとすら言われているその光景。今正にそのように語り継がれる街を一望できる小高い丘の上から一人見つめていた女は、ゆっくりと雪除けのフードを取り去った。
フードの中に窮屈そうに押し込められていた長く美しい銀髪が雪の中に咲き広がるのに任せながら彼女は瞳を閉じ、次に見開きながらゆっくりと空を見上げる。
そこには昼が訪れることもなければ、真夜中が訪れることもない。まるでここだけ時が止まっているかのように、ずっとこの宵闇だけがまるで永遠に続くかのように世界を包み込んでいる。
否、それは今この瞬間は間違いなく永遠を約束された景色であるのかもしれない。
それらは正にこの地方に根付いた一つの伝説・・・若しくは真実を表しているようにさえ、女の瞳には映った。
「ヴァンパイア伯爵の治める地・・・時を刻む事を忘れた街、ポドールイ、か・・・」
数々の伝記に残る夜の王の二つ名を小さく呟やきながら今一度街を見下ろした女の頭上を、まるで「ようこそ」とでも応えるように蝙蝠が一匹ゆっくりと旋回し、そして街へと飛び去っていく。
間も無く訪れるであろう名月が、この地に訪れた彼女の運命をどのように照らすのか。それを確かめる為に彼女は自ら、宵闇の街ポドールイへと誘われていった。
ポドールイとは元々この辺り一帯を指す地域の名称で、地域に該当する周辺諸国としてはツヴァイク、キドラント辺りまでを含む広大な範囲を指している。
その地域の名を冠するこの都市は、街としての歴史は間違いなく世界最古を誇る。
六百年の昔に魔王が君臨していた時代よりも以前からこの街は今の様に宵闇を纏っており、魔王の時代の後に世界中を蹂躙した四魔貴族支配の時代にすらこのポドールイだけは如何なる襲撃も受ける事なく、様相変わらず有り続けたのだという。
斯様に四魔貴族ですらあえてこの地に手を出さなかった際たる原因と言われるのが、このポドールイを治める領主、レオニード伯爵の存在だった。
驚嘆すべきことにこのレオニード伯爵という人物は三百年前の聖王の時代には聖王当人と関わり、果ては六百年前を生きた魔王とすら面識があるとも言われている。
それほどの昔から生き永らえ、この地から世界を見つめ続けている存在なのだというのだ。
そしてその正体は事の他有名でもあり、恐らくそれは、例えば世界の真反対にあるグレートアーチの子供達ですらも御伽噺に聞いた事があるだろう。
曰く、レオニードという人物は他人の生き血を啜る「吸血鬼」であるのだという。
彼に血を吸われた人間は皆等しく彼と同じ夜の眷属・・・ヴァンパイアとなるが、その代わりに永遠の命と若さを手に入れる事ができると言われている。
それは、今も昔も命儚き人間が求めて止まない究極の願望の一つだ。
伯爵は若い女性の血を特に好むといい、故にこの街には数百年の昔より今に至るまで、伯爵によって与えられる永遠を求めるうら若き乙女が幾人も集う。
年に一度、その年で最も空高くに煌煌と輝く満月の夜に伯爵の城で催される舞踏会に集った中から一人が伯爵に選ばれ、永遠を得られるというのだ。そしてその代償に乙女は夜の住人となり、このポドールイの宵闇を抜ける事は未来永劫叶わぬと言われている。
それでもこのポドールイにはそのような永遠を求める娘が後を絶たない。
それ故、この街には伯爵に気に入られるために着飾り競う乙女たちの為の服飾店が多く軒を連ねている。とはいえ、揃っている洋服の数々はモードの発信地として有名なリブロフやウィルミントンの様な先鋭的なファッションではなく、どちらかと言えばクラシカルな佇まいのドレスや重厚な装飾がなされた宝石が多い。この辺りは、伯爵の好みに合わせているのだろうか。
「・・・あらあら、いらっしゃい。この街へは、今来たばかりなのかしら?」
些か不用心にも思えるほどに気前良く軒先の宝飾台に所狭しと並べられた煌びやかな宝石類に目を落としていると、店主らしき老齢の貴婦人が声をかけて来た。
まるで盗って下さいとでも言わんばかりの並べ方に驚いてました、などとは流石に言えず、女は取り敢えず形だけ笑顔を作りながら会釈を返す。
今来たばかりか、との聞き方は恐らく女の格好を見て言ったのだろう。明らかに旅用の丈夫なローブを身に纏って荷物を抱えたその姿をみれば、誰だって外から来たのだろうと思うはずだ。
だがその中で老貴婦人が他と一つ違ったところは、なにやら女のような人物にたいそう慣れた様子の物腰であった点であろう。
貴女の様な旅人を私はよく知っている。まるでそう言っているかのような対応に、女は成る程この土地柄そういうものなのかと変に納得したものだった。
「・・・少し、驚きました。ここはとても治安が良いのですね」
この雰囲気なら素直に言ってもよかろうと思い、女が本音を漏らす。
すると老貴婦人は可笑しそうに小さく笑い、そして街の北方へと視線をずらした。
「ここは伯爵様の治める土地ですもの。あのお方のお膝元で悪事を働こうものなら、天罰が下るわ。それをここの住民はよく知っているから、なんの心配もいらないのよ」
おっとりと上品な皺を目尻に湛えながら老貴婦人が柔らかくそう言うのを、女は感心しながら聞いた。この老貴婦人が寄せる伯爵への信頼感は、その言葉の雰囲気で十二分に伝わってくる。外ではヴァンパイアとしての噂しか聞かないが、その実これほど民から慕われているとは露ほども知らなかった女は、伯爵という人物は少なくともこの土地では名君たるのかと考えを改めた。
しかしそれでも、ここまで不用心な陳列は本当に心配いらないのだろうか。
そんな思いが顔に出ていたのかもしれない。すっと目を細めた老貴婦人は、でもね、と言葉を続けた。
「稀に外からやって来た旅人さんが、ついうっかり出来心を出してしまうことはあるわ。でもそうした方達はこのポドールイを出ることなく、蝙蝠の贄となるの。そうしていつの間にか軒先に、盗られたものがちゃんと帰ってくるのよ。だから、そういうことがあったとしても大丈夫なのよ」
老貴婦人は言葉と共にもう一度微笑んだが、女にはその内容を聞いたあとに全く同じ印象を抱くことは叶わなかった。
また来ますと頭を下げ、そそくさとその場を後にする。
やはりこの街の住人は一味違うのだなと感じながら、女は兎に角宿を求めて街の広場まで出ることにした。
雪の丘から女は既に感じていたが、ここは街全体がどこか緩やかな眠気を誘うように、とても安穏な空気に包まれている。だがそれは広場に近づくにつれ、まるで真逆の、どこか熱に浮かされたような感覚へと変貌を遂げていった。
街の広場付近では若い女達が幾人も行き交い、ガラス製のショウウィンドウの向こうに置かれたドレスとその値段に一喜一憂し、美しさを称えながら宝石を勧める売り子に笑顔を返す。
そんな実に華やかな街の様子を横目に、女は宿の集まる通りへと入っていった。
しかしどうした訳か通り一面に連なる宿は、驚いたことに満室が目立つ。
当然の如くすんなり宿に泊まるつもりでこの事態を全く想定していなかった女は、戸を叩けど叩けど満室ばかりの状態に半ば唖然としながらどうしたものかと途方にくれた。
通りの出口まで来たところでここの宿がどうやらほぼ全滅である事が分かり、女は頭を掻きながら唸る。
すると丁度そこに、女に掛かる声があった。
「・・・お前さん、泊まる部屋がもうなかったのかい?」
声に振り向くと、そこには大型の犬を二頭紐に連れた老人が立っている。
「ええ、そうです。まさかこんなに繁盛しているとは思わなくて・・・」
「・・・この時期は仕方が無い。もうじき、伯爵様の城で舞踏会が催される。毎年こんなもんさ」
うっすらと表面に積もった雪を払うように体を震わせた犬の体を撫でつけながら、老人は小さく笑った。
その笑みがどこか失笑に近いようにも感じたので、ひょっとすると彼の目にはこの光景が滑稽に映っているのだろうか。ここの住人の表情はいまいち読み難い。
女がそう思っているところに、老人は再び声を掛けてきた。
「お前さんは、珍しく旅慣れしているようだね。そこの宿程小綺麗にしちゃあいないが、うちに空き部屋がある。三日ほどなら使ってもいいよ。どうするね?」
なんとも唐突な申し出だったが女は多少考える仕草をした後、喜んでそれを受ける事にした。
老人が言うとおり恐らく三日以内にはこの街を出ることになるはずだったから、日程的に丁度良かったのもある。
それに先ほどの老貴婦人との会話から、寝込みに盗みを働くような不埒な輩はこの街には往なさそうだという安心感も、その決断を手伝った。
「そうかい。じゃあおいで。こっちだよ」
老人はそう言うと、思いの外機敏な動きで犬を連れて歩き出した。
その後ろについて賑やかな通りを背に歩き出した女は、一度だけ街の広場の方を振り返る。
そこには街灯に照らされて舞い散る雪と、色とりどりの看板と若き乙女達が変わらずある。
これらの景色は三日の後にどうなるのだろうかとふと頭の片隅に過ったが、今の自分には関係あるまいと女はそこで考えるのを止めた。
翌朝、なんとも言えない不思議な気分で女は目覚めた。
昨夜は予想に反して随分と真面な部屋とベッドにとても満足し、旅の疲れを落とすようにゆっくりと眠りについたはずだった。
だが起きて窓の外の景色を見ても、そこには彼女が眠りにつく直前の宵闇が只々あるばかりなのだ。
果たして自分がどの位の時間眠りについていたのかが全く分からず、女は困惑した。
それは数秒の話なのか、まさか数年の話なのか。例えなんと言われても、彼女にはそれを否定することができるだけの自信か得られない。
兎に角何か確かめられるものはないかと外に出ると、そこでは最後に見た時と全く変わらぬ姿の老人が犬と戯れていた。どうやら数年寝ていたわけではないらしいということに、女はほっと胸を撫で下ろす。
「おや、よく起きれたね。ここにきて間もない人は皆時間の感覚を失って随分と長いこと眠るもんだが・・・お前さんは、流石に体を鍛えているだけあるね。規律が出来ている」
空を見ながらそう言った老人に倣い、女も同じく空を見上げた。
そこには粉雪の合間に幾つもの星が見えるので、つまり現地の人たちは星の位置でおおよその時間を判断しているといったところなのだろう。
そういえば何故老人は自分が鍛えている事を知っているのだろうと疑問に思い、そういえばこの老人とは昨夜夕食を馳走になりながら話をしたことをそこで思い出した。
どうやら彼はこの地で、マンドラゴラと呼ばれるものを採取することを生業としているらしい。それ故彼は自らのことを、マンドラゴラハンターと名乗った。
マンドラゴラとは魔術や錬金術等の古文書にもよく名前の出る植物で、女も存在は聞きかじったことがある。
彼が飼っている犬達はそのマンドラゴラを採取するのに必要なものだと彼は言ったが、結局その方法までは昨夜には教えてはもらえなかったと記憶している。
無論相手の生業についてそこまで根掘り葉掘りと聞くほど無粋でもないので、女は適当なところで自己紹介がてらに自分の事を掻い摘んで話しながら夜を過ごしたのだった。
「明日の夜には、この一年で最も美しい月が昇るだろう。今日のうちに街中で済ませられる用事は済ませておいで」
相変わらず犬と戯れながらそう言った老人に女は頷くと、部屋に戻って幾らかのオーラムを手に、街へと向かった。
街中は相変わらず賑やかさがあり、心なしか各商店の売り込みは昨日より熱が高いようにも感じられた。
行き交う乙女達の口からは、近年の売れ筋や伯爵の好みがどんなものであるかなど、様々な話が耳に飛び込んでくる。昨年に選ばれた娘が服を買った店はどこそこの店であるだとか、あそこの店は必ず何年かに一度選ばれているから今年は確率が高い、だとか。
そんな様子を横目に、女は広場を通り越して、昨日立ち寄った宝飾店へと向かった。
「あら・・・昨日の方ね。また来てくれて嬉しいわ」
こちらも昨日となにも変わらぬ姿の老貴婦人に出迎えられ、女は軽く会釈をしてから軒先に並べられた宝石達に視線を向ける。
昨日一目見てここで扱っている宝石達は美しく、ここの宵闇の合間に煌めく輝きが見事なものであったことを思い出したのだ。
手に取って質感を確かめ、宝石そのものの純度もさることながら周囲に施された装飾も実に繊細で見事なものである事に改めて目を見張る。
「・・・これと、あとこちらを頂けますか?」
「あらあら・・・うふふ、随分とお目が高いのね。宝石には慣れていらっしゃるの?」
老貴婦人が多少驚いたようにふんわりと笑いながら女の選んだ宝飾を包むのを見ながら、女は肩を竦めた。
「いえ・・・個人的に持っている数は多くはありません。ただ、とある高貴な方にお仕えしておりまして、良いものを間近で学ばせていただいております」
「そうなの。ではその御方様は本当に良いものをお持ちでいらっしゃるのね。お見事な識別眼をお持ちだわ」
小綺麗に包まれた宝石を受け取って思いの外安価に提示された代金を支払い、女は老貴婦人に礼を述べて来た道を引き返していく。
通りには今も賑やかな声と音楽が其処彼処から響くが、女はどうにもその中に混じってウィンドウを眺める気にはならなかった。
ふと帰り道に空を見上げると、いよいよ宴の訪れを告げんとばかりに巨大な月が登っている。その輝きが最高潮に達する明日に、このポドールイに集った乙女達は自ら喜んで奈落へと続く道を歩んでいく。
その何とも言えぬ奇妙な事象にやや冷めた笑みを浮かべつつ、女は老人の元へと帰っていった。
翌る日。
女は再び宵闇の中で目覚めた。
ベッドのすぐ横に置いてある小さなテーブルには、昨夜寝つきが悪かった女に老人が気を利かせて用意してくれたホットワインのカップと、小さなチーズの欠片が置いてある。
それを横目に確認した女はどうやら今回も寝ていた時間は数年などというわけではなさそうだという事に確かな安堵を覚え、そしてそんな自分に小さく笑う。
ここでの目覚めはどこか心が不安定で、暫く慣れそうもない。
いや、抑も慣れる必要もないのだと思い直した女は、立ち上がって顔を洗いにいったついでに老人に寝覚めの挨拶を済ませ、髪を整え薄く化粧を施し、直ぐに着替えた。
女が袖を通した淡いピンクのスリムなドレスは、あまり主張し過ぎないながらも上品に施された艶美な刺繍とフリルがアクセントとなり、艶やかさだけでなくどこか少女のような純粋さをも感じさせる。
だがその割には機動性を重視した深いスリットがスカート部分には施され、その裏に隠せる様に剣帯が装着出来る細工もある。
そこに愛用の小剣を忍ばせた女はドレスの上から防寒具を羽織り、長い銀髪を纏め上げ、これも愛用の櫛でしっかりと留める。
そうしてまた老人に挨拶をすると彼は驚いた様な顔をし、次いで微笑んだ。
「こいつは驚いた。随分と整った顔立ちだとは思っとったが、わしはとんでもない方を泊めていたようだね」
「・・・とんでもありません。それでは、行ってまいります」
「・・・あぁ。気をつけておいで。君ならばきっと、伯爵様のお目に適うだろう」
老人の言葉に軽く会釈だけを返した女は、宵闇の中にぼんやりと浮かんでいる街灯を頼りに街の北へと向かって歩き出した。
街中を通り過ぎる段階で幾人もの若い女達が我先にと急ぎ足で北へと向かっていくのを眺め、その流れが向かう先に広がる宵闇の向こう側、霧に覆われながら幽かに見える城を見据えた。
街の北門から雪に覆われた丘を二十分程歩いて登れば、伯爵の住む城へと辿り着く。
そこは緩やかな傾斜ではあるものの、普段は行き交う人があまりいない丘陵の道はあまり整備状況がよいとはいえず、ましてやこれから舞踏会へと向かうような出で立ちの娘たちには容易い道のりではない。
余りヒールの高い靴を選ばなくてよかった等とぼんやり考えながら丘を登っていた女は、唐突に周囲に不穏な気配を感じて立ち止まった。
隠すつもりの毛頭なさそうな敵意が女の周囲にいくつも感じられて瞬時に身構えたが、それは直接女に向けられているわけでもないように感じられた。
すると程なくして敵意の所有者が丘の沿道から姿を現す。それは、獲物を捉えて唸る数頭の獰猛な狼であった。
獣らがターゲットとして見定めたのは、丁度女の前を歩いていた数人の娘達だった。それを察知した瞬間に女は駆け出しながら懐の小剣を抜き放ち、丁度狼の存在にいち早く気がついて悲鳴を上げた先頭の娘を横に突き飛ばしながら最も距離の近い狼に対峙する。
そして狼が自分へと向かい飛びかかってきたことを確認すると、着地点を予測しながらバックステップを踏み、その体勢のまま上半身の捻りを存分に効かせた突きを繰り出す。それが寸分違わず狼の額から頭蓋を貫通したことを手応えで確信すると、女は引き抜いた小剣の穢れを払うように血振りをしながら次に飛びかかってきそうな狼へとじりじり移動しつつ背後に声をかけた。
「大丈夫?」
声を掛けるが、反応は返ってこない。流石にこのような状況で背後の様子を伺うわけにはいかないが、そこまで怪我をするような突き飛ばし方をした訳でもないので問題はなかろうと女は踏んだ。
だが次の瞬間、背後の娘は凄まじい形相で女の背中を睨みつけ金切り声をあげた。
「どうしてくれるのよあんた!せっかく用意したドレスが地面に擦れて汚れてしまったじゃないの!これじゃあ・・・伯爵様の前に出られないじゃない・・・!」
唐突に背後から責め立てられ、流石にこの展開を予想していなかった女は思わずびくりと体を震わせてしまった。
求めるわけではないが、流石に礼を言われこそすれ責められる場面であるとは思わなかったのが正直なところではある。
だが突然獲物が喚き散らし出したことに反応して警戒を解き唸り声を上げて興奮する狼に、女は再び意識をそちらに戻す。
その間にも娘は手に握った雪を衣服の汚れに擦りつけて落とそうとしたり、はたまた女に投げつけては怨嗟の叫び声を上げ、痛ましく顔をくしゃくしゃに歪ませている。
いよいよ興奮が抑えられなくなり娘らに飛び掛らんと姿勢を低くした一匹を視界の端に捉えた女は、足場の悪さを物ともせずに力強く地面を蹴り、そのまま加速を乗せた刺突を今まさに獲物に飛びかからんとしていた地狼に見舞う。
しかし地狼は真正面から放たれたその刺突をなんとか左に躱し、反撃せんとして女に飛び掛かった。
女は体勢を戻してからでは回避が間に合わないと踏み、地狼から間合いを取るように右足で地面を再度蹴りつつ上半身ごと捻りながら右手の小剣を地狼の鼻先を切り掠めるように振り抜く。
正に目前を振り抜かれて飛びかかった勢いを殺された地狼が女の眼前に着地して怯む。そこに女は小剣を頭上に軽く放り上げながら素早く腰を落とし、顎を目掛けて右肘を打ち上げた。
衝撃と共に脳髄を強く揺さぶられて更に地狼がよろけると、その隙に女は折り曲げていた肘を伸ばして自由落下してきた小剣を掴み取った。そして上半身のバネだけを用いて零距離から放たれた小剣の突きが、寸分違わず地狼の眼球から脳髄までを貫く。
そして小剣を引き抜く際に飛び散った獣の血飛沫が女の外套とそのすぐ後ろにいた娘のドレスに掛かると、そこで漸く現実を取り戻したように娘たちは瞬きをし、そして叫んだ。
「血が・・・!汚らしい獣の血が私のドレスに・・・!どうしてくれるの、これでは伯爵様のところにいけないわ!」
既視感とは、こういうことをいうのだろう。
あまりに酷似した罵倒を頂き、女は多少辟易しながら小剣の穢れを払う。
その間にもドレスに血痕のついた娘は泣き喚き、これでもう私には永遠の若さと命は得られないと叫び狂う。
永遠どころか下手をすればつい数秒前に終了の間際にあった命だというのに、どうやらこの娘にはまだ現実は見えてはいなかったようだ。
とはいえ娘らをここにおいておくわけにもいかない。兎に角城まで向かって伯爵に保護を頼もうと考えた女は、泣きじゃくる二人を宥めながら他の娘たちも誘導しつつ丘を登り、その後は特に危険もなく城へと辿り着いた。
伯爵の城は女がこれまで見てきたどんなものよりももっとずっと古い石造りの建造物であり、白の周りを取り囲んでいる堀に鬱蒼と生えている苔の濃さが年代を感じさせる。
堀を越えて城へと繋がる跳ね橋はまだ上がったままで、橋の前には既に十数人の若い娘たちが集っていた。
そこに更に数人を引き連れてきた女が加わると、まるでそれを待っていたかのようにガチャリと上げ橋の戒めを外される音が響き、橋が一人でに降ろされる。
接地と同時に周囲に雪を撒き散らし、轟音を残して娘らを城へと誘うように降ろされた橋。それに驚いて足が竦んでしまったらしい娘たちの間を抜け、女は城の中へと進んでいった。
歴史を感じさせる重厚な石造りの城の内部は思ったより寒くもなく、各所に灯された真新しい蝋燭に照らされた城内は清掃も隅々まで行き届き、女に続いて城内へと入ってきた娘たちは口々に安堵の息を漏らした。
すると、そこに奥から一人の老執事が足音もさせずにゆっくりと近づいてくる。
「皆様方、ようこそレオニード城へ。今宵の舞踏会への皆様のご参列、伯爵様も歓迎しております」
低くよく通る声で一礼をしながら来客を迎えたその執事の瞳を見た女は、思わず背筋をびくりと震わせた。
あれは人ではない。
即座に女は老執事に対して、そう感じた。
見た限りはどこからどう見ても生身の人間の形をしている。そして動きがあり、表情があり、人語も操る。
だが、あれは間違いなく人ではない。決定的に何かが、自分たちとは異なるのだ。
なまじ見た目が人と変わらぬので、人語を操る魔物と相対した時のそれよりも肌に感じる不気味さは勝るようにすら思われた。
「次のお部屋にクロークをご用意しておりますので、上着やお手荷物はどうぞお預けください。それではどうぞこちらへ・・・・おや・・・」
女の様子とは裏腹に言葉と共に優雅に奥へと誘う仕草を見せた執事は、来賓の丁度中央あたりにいる女とその背後にいる地狼に襲われた中で不運にもドレスを汚してしまった娘二人を見て異変に気がついたのか、うっすらと目を細めた。
思わず女は身構えてしまうが、しかし相手に敵意がないことは分かっていたので、一呼吸して落ち着きを取り戻す。
「ここに来る丘の途中、彼女たちは狼に襲われたのです。そのまま街に返すのは危険だと判断したので、保護を求めに同行させました。どうかご対応願えますでしょうか」
執事に向かって女が一歩前に出ながらそう言うと、執事は感心したように頷きながら口を開いた。
「なんと、そうでありましたか。それは大変でしたな。どれ、案内させましょう」
言葉と共にどこからか現れた若く美しい女の給仕が二人、娘達に肩を貸しながら別部屋へと案内されていく。その様子を一瞥だけして視線を戻した執事は、娘達を連れて城の奥へと歩き出した。
今現れた給仕2人もまた、人ではなかった。流石は吸血鬼の城ということか。人外のものに娘らを預けて大丈夫なのだろうかと今更になって考えてもみるが、まぁとって喰う訳でもあるまいし、と思い直す。
女はそんな思惑を抱きつつ周囲に視線を隈なく走らせ、一歩遅れて集団についていった。
「ようこそ、我が城へ。今宵の舞踏会は、常よりいっそう華やかになりそうだね。おっと・・・挨拶が遅れたな。私がこの城の主、レオニードだ」
思いの外低くもなく心地よく聞いたものを包み込むようなその声に、女はこの城に入ってから間違いなく最も反応の大きい悪寒を背筋に感じた。
埃一つ落ちていない真っ赤な絨毯が伸びた先の壇上に構えられた豪奢な玉座に座して彼女らを見下ろしていたのは、絨毯より更に深い紅の豊かな長髪を湛えた、目を疑うほどに美しい男性だった。
あれもまた、人ではない。それは一目見た瞬間に悟った。だが先ほどまでのこの城の住人とも、あの存在は全く異なるようだ。女はその様に感じた。
ではあれはなんなのかと問われれば恐らく女は、あれは『王』だと答えただろう。
無論、この城の主であるから、などというわけではない。
この空間・・・ポドールイを見下ろす丘から肌に感じていた緩やかな宵闇の空気。それが介在するすべての場所に絶対的に君臨する、夜の王。
その威風、その容姿、その瞳に、思わず女は意識を持っていかれそうになる感覚を覚え、軽く唇をかんだ。
それとタイミングを同じくして彼の顔をみた途端に女の周囲からは嬌声にも近い声が漏れ聞こえ、レオニードはその様子に満足そうに浅く頷き、立ち上がった。
「さぁ、堅苦しい挨拶をするためにここに招待したわけではない。宴席の間へと案内しよう。シェフにとっておきの料理を用意させている」
そう言って案内のために立ち上がって足音もなく歩き始めたレオニードは、ふと思い出したように立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「そうだ、皆にひとつ注意してもらいたい。この城内には危険な場所があちらこちらにあるから、不用意に移動しないほうがいい。なにせ、吸血鬼の城だからね」
そう言ってうっすらと微笑みながら再び歩き出したレオニードにわらわらとついていく娘たちの最後尾に位置した女は、自分に向いた視線がないことを確認して素早く近くの柱の陰に身を隠した。
そのまま息を殺して周囲の気配を探ることだけに努め、やがて集団が扉の向こうへと完全に消えていくのを察知すると、改めて視界で確認をする。
扉の向こうに感じられる人の気配が遠ざかっていくのを感じながら他に潜んでいる物がいないかどうかを確認するため、再度部屋全体へ神経を張り巡らせる。
一頻り女がそうしている間も周囲には蝋燭の灯りだけが揺らめいており、唯々その場は無音に包まれていた。
生ける者の気配に加えてこの城の住人の気配もないことを確認すると素早く周囲を観察してあたりをつけ、女は躊躇うことなく皆が向かった場所とは全く別の扉を開いた。
外から見た段階ではあまり気にはならなかったが、この城は実に実戦的な城のようだ。
堀に囲まれた城門もそうだが、先ほどの広間から一度扉を潜れば、そこは侵入者を惑わすかのように細く折れ曲がる通路が続いている。
女は帰路に迷わぬようにと通って来た道沿いの燭台を一定間隔毎に吹き消しながら奥へと進んでいった。
「気分はヴァンパイアハンター、といったところかしらね・・・」
ドレスのスリットから愛用の小剣の柄に手を掛け臨戦態勢を取りつつ、女は無音の続く空間に耐えきれなくなったのかそんな事を呟きつつ、ふと隙間から吹いてくる冷たい風に気付いて自分の真横の扉に手を掛けた。
見た目は周辺の扉と何も変わらないその扉は、しかし押し開けた先が薄暗い地下へと下っていく細い通路となっていた。
その先にはこれまでのように設置されていた燭台による灯りもなく、後手に扉を閉めてから女は忍ばせていたランタンに火を灯す。
「ギャギャギャギャッ!」
「・・・!?」
途端、奇声を上げながら飛来する不自然に巨大化した蝙蝠が女を襲ってきた。前方に飛び込むようにしてそれをなんとか回避した女は、取り落としてしまったランタンが照らしている通路の先に広い空間があることを確認し、一目散にそこまで駆け抜ける。
広間まで抜けた女は背後から迫った巨大蝙蝠の強襲をしゃがんで躱し、忍ばせていた小剣を抜き放って対峙した。すると先ほど聞こえたものと同じ奇声が、今度は更に背後から迫ってくる。
「・・・!!?」
横に飛んでそれを回避した女は、状況を確認しようと周辺にざっと視線を這わせる。通路に置き去ったランタンとは別に何処からか月明かりが入ってきているのか広間は薄っすらと明るく、なんとか状況を確認することができた。
視界の中には自分を経った今襲ってきた蝙蝠と、先ほど襲ってきた別の個体。そして奥に別で三匹。計五匹もの巨大蝙蝠が広間に待ち構えていた。
女はそれらの距離を目測でざっと見当をつけ、徐に前方へと飛び出した。
三度奇声を発しながら飛来したのは、先ほどの二匹。それらを確認した女は先に牙を剥いてきた蝙蝠に対しては身を低くして躱し、次に飛来した蝙蝠の喉元を剣先で抉り抜く。
その様子を見た後方の三匹は奇声を発して騒ぎ立て、耳を劈くような高音を発しながら女の周囲を飛び回った。
「ぐ・・・!?」
思わず耳を塞いだ女は、背後を取られている一匹の動向を確認しようと振り返る。案の定と言うべきか、その隙を逃すことなく背後から襲いかかってきた蝙蝠の頭蓋目がけて思い切り回し蹴りをお見舞いした女は、その蝙蝠が首から上をあり得ない方向に曲げながら墜落するのを横目に確認しつつ誰も見ていないだろうに癖なのか捲し上げられたスカートを素早く戻し、残りの三匹を鋭く見つめた。
あとは知能がそれほど高くないであろう蝙蝠達が有り難いことに五月雨式に襲来してきたところを確実に仕留め、改めてその他の脅威がないか周囲に注意を払う。
幸いその場に他の気配を感じることがなかった女は小剣の穢れを払い通路を戻ってランタンを回収し、改めて広間の奥を目指した。
空間の奥には再び小さな通路が伸びており、更にそこから地下へと続く階段が暗闇の中にぽっかりと口を開けている。
それを確認して女が躊躇うことなく階段に一歩足を踏み入れた、その時だった。
広間から更には階段、そしてその先に広がっているらしき地下の空間。それらの壁面に設置されていた古びた化粧の飾り灯籠が、まるで奥へと案内するかのように順番に灯されていった。
「・・・・!!?」
突然のその現象に驚いた女が周囲を見渡すが、特に何者かの気配らしき物は感じない。
灯された蝋燭たちによって映し出された広間はどうやら礼拝堂のような作りのようで、念のため女はそこまで歩いて戻って確かめたが、当然そこにも人の気配は感じられなかった。
「・・・歓迎してくれている、ってところなのかしらね」
強気な言葉の割には、多少その表情には引きつったような印象を受ける。明らかに強がりが混じった台詞だが自分を勇気づけるためにあえてそう声を出した女は、ゴクリと唾を飲み込むと意を決して階段を下っていった。
階段を下りきった先は、上階とは明らかに異なる空気に包まれていた。そこにはもう永いこと使われていないことが窺えるにも関わらず、まるで今しがたその役目を全うしたばかりのようにべったりと血のついた処刑道具の数々。そして朽ちて半分崩れているようなものなのに今もそこに死体が転がっているかのような腐臭漂う牢獄。
そしてその奥で女を見据えて瘴気を撒き散らす、巨大にして醜悪な死せる魔物。
その魔物を一目見た女は、ぞわりと背筋を這う怖気に身を震わせた。先ほどまでの安易な怯えなど瞬時に吹き飛んでどっと冷や汗を垂らしながら、それでもなんとか小剣を握りしめて対峙する。
(不味い・・・本気でマズい・・・。この魔物・・・さっきのとは桁違いの強さだ・・・。一瞬でも気を抜いたら、殺される・・・)
女の直感は正しかった。アンデッドと化して知能なく瘴気をまとって雄叫びを上げながら突進してきたその魔物は、単純にその力だけが極限まで強化されていた。
とんでもない速度で突っ込んできた魔物を何とか横っ飛びに回避した女の後方で、盛大な激突音と共に壁を崩しながら止まる魔物。
直ぐ様起き上がってそちらに向き直った女は、汚らしく濁った体液を滴らせる腐肉を引き摺らせながら何事もなかったかのように向き直ってくるその魔物に向かって一足飛びに突っ込んだ。
女は速度を殺さずに自分が得意とする加速突きを相手の眼球へと向かって放つが、アンデッドとは思えぬ素早い動きでそれは腕により防がれ、振り払われるままに任され為す術なく女は壁まで吹き飛ばされる。
だが空中でなんとか体勢を持ち直した女は、着地直後を狙って再び高速で突進してきた魔物を避けるために空中で壁に着地し、そのまま三角飛びの要領で壁を蹴って斜め前方へと飛んだ。
再び周囲を揺るがす激突音が響き渡り、衝撃によって巻き上げられた塵が魔物の周辺を包みこむ。
空中で身を反転させながら片手をつきつつ着地した女は、この硬直を狙って再び駆け出した。
そしてその場で咄嗟に新たな何かを思いついた女は、魔物と自らの間にある空間をも切り裂くほどの勢いを乗せるように小剣を持つ右手へ渾身の力を込めた。
(・・・これで・・・どうだ・・・・!)
瞬間的に極限まで加速された突きは捻りと共に迸る電撃を纏い、衝撃音と共に魔物へと突き立てられた。腐肉の焼ける酷く不快な臭いが辺りに充満していくのを堪えつつ女が手応えを感じながらバックステップを踏んで距離を取る。
ずるり、と何かを引き摺る音と共に舞い上がった塵の中から姿を現したのは、片足を吹き飛ばされた魔物だった。
だがそこに流れる血はなく、最早痛みなど感じることのないアンデッドは、著しく発達した両腕を使って石畳の一部を抉り取りながら飛び上がり、女へと襲いかかった。
女はそれを真正面から見据え、手にしていた小剣を両手に構え直し、下段から斬りあげる姿勢を取りながら前方へと身を投げた。
「起きなさい、マスカレイド!!」
声と共に、周囲を強烈な赤い光が満たす。
その一瞬だけは辺りに立ちこめていた瘴気の一切が立ち消え、死ぬことを許されなかった魔物はまるで自らの役目を終えたかのように不気味な光をその眼底から一瞬だけ発し、そして次の一呼吸で粉塵と化して崩れ落ちた。
その様子を肩で息をしながら見届けた女は、手にしていた赤く流麗な大剣を見下ろし、さっと一撫でする。すると真紅の刀身の大剣は瞬く間に小剣へと姿を戻し、彼女の手に収まった。
「・・・聖剣マスカレイドか。随分と物騒な物をもっているね」
「・・・!!??」
突然耳に届いたその艶やかな声に、女は大層驚きながら背後に振り返る。
そこには、ワイングラスを片手に弄びながら軽く笑みを浮かべたレオニードが忽然と立っていた。
「・・・何故、そこに・・・」
「何故って、それは随分と可笑しな問いだな。ここは私の城だから私がこの城のどこにいても不自然ではないし、なによりこんなに派手に大立ち回りをしてくれているんだ。寧ろ気がつくなという方が難しいのではないか?」
あくまで上機嫌な様子で笑みを浮かべながら女を見つめるレオニードは、そう言いながら女に背を向けて地下牢の奥の方へと歩き出した。
その様子に女が怪訝な表情をすると、直ぐに立ち止まったレオニードは肩越しに女を見ながら口を開いた。
「何か目的があるのだろう?・・・おそらくそれは、この奥だ。丁度パーティーにも退屈していたところだし、案内しよう」
それだけ言って再び背を向けて歩き出したレオニードを暫し見つめていた女は、その一寸の間に考えられる限り彼の行動が何を意味しているのかを考える。が、やはりその答えは明瞭には出てこない。単なる酔狂のようにも見えるし、勿論なにかしら明確な目的があるようにも見える。が、それがなんなのかは、人間である彼女にはどうしても分からない。
ただはっきりしていることは、レオニードという人物は自分よりも強いだろう、ということだった。確かに先ほどはアンデッドとの戦いに全神経を集中していたという事実はあるが、それでも女は自分が一切気配を悟れることなく背後に立たれたことなどこれまでの人生の中ではまず記憶にない。
罠の類いであった場合は圧倒的不利に陥る状況ではあるが、しかし女は意を決してついて行くことにした。言われるとおり、女には目的の物があるからだった。そしてそれはおそらくこの奥にあるであろうことも、なんとなく察していた。それをわかっていてレオニードが案内を買って出たのであれば、何れにせよここでついて行かなければ目的の物は手に入らないだろうということが分かったから、女はついて行くことにしたのだ。
朽ちた牢獄の奥にある階段を更に下ると、そこは城の基礎部分を囲うように巨大な空間が広がっていた。その空間を伸びていく石造りの空中回廊(この場合は地中回廊というべきか)を進んでいくと、扉の開いた部屋にたどり着いた。
どうやらレオニードはここに入っていった様だ。
一瞬躊躇った後に女がそこに入るとそこには少し大きめの、しかし城の一室というには少し小さめの、そんな部屋があった。天蓋付きのキングサイズのベッドが部屋の中央にあり、周囲にはテーブルやクローゼット等がある。この城に入った当初に感じたよりもずっと生活的なものが、ここにはある。
そしてテーブルの上に置かれたワインのデカンタと二つのグラス。その一つを手に取りながら備え付けの椅子に座ったレオニードは、もう一つの椅子を女に勧めてきた。
「座りなさい。立ち話も何だからね」
予想だにしない展開なのでここでも女は一瞬躊躇ったが、レオニードの様子から少なくとも今すぐ自分をどうこうするわけではなさそうだと判断し、意を決して勧められるままに椅子に腰掛けた。
「ここに生身の人を案内するのは、何時振りだろうな。殺風景な部屋ですまないね。ここは私の自室なのだよ」
そういって微笑むレオニードの表情に、女は初めてどこか人間らしさを感じる。謁見の間で見てからここまでは正体不明の何かにしか感じられなかったが、その実が基礎は一応自分と同じらしいという事に今漸く気が付いたのだ。
内心でそのような事を考えながら女は軽く会釈を返し、少し緊張が解かれたところで改めて室内を見渡す。
一見して殺風景というにはあまりにも豪奢な調度品の数々が存分に存在を主張しながら目に飛び込んでくるので、このレオニードという人物は恐らく殺風景の意味を履き違えているのだろうと考えながら女は呆れる。例えば入り口近くの壁に掛かっている絵画などは四魔貴族支配の暗黒時代に名を馳せた画家の代表作と言われる世界の破滅を描いた国宝級の芸術品であるし、腰の高さほどの棚の上に徐に置いてある置物は、西方諸国では破片しか発見されたことがないと言われる東の国で作られるという色鮮やかな焼きものだ。その他明らかに一般では手に入らないであろう逸品が唐突に、しかし見目良く散りばめられている。
だが確かにこの部屋には窓がなく、室内を照らしているのは陽の光ではなく蝋燭の灯だけだ。そこばかりは、殺風景というのが当てはまるようには感じる。また自室とは言われたものの人が暮らしているような気配がここには何故か殆ど感じられず、総じて余りこの部屋からは城内と同じく現実の香りがしなかった。
女が一通り部屋の中を見回すのを可笑しそうに眺めていたレオニードは、デカンタからワイングラスに中身を注ぎながら口を開いた。
「そういえば、私は君の名前を聞いていないな。名はなんと言うのだ?」
その質問に、女はぴくりと反応する。
だがこの場でもはや隠し通せるものでもなかろうと予め観念していたのか、惑う事なくすんなりと口を開いた。
「・・・申し遅れました。私はロアーヌの騎士、カタリナ=ラウランと申します」
女が名乗ると、レオニードはまるで予想通りの答えが返ってきたことをほくそ笑む子供のような表情で目を細めた。
「ふふ、矢張りか。フランツ侯は息災かね?」
「・・・存じておいででしたか。恐れ入ります。マイロードは、相変わらずでございます」
女、もといカタリナが伏し目がちに言うと、レオニードはその答えに満足したように頷いてワイングラスを掲げた。
「さて、久々の来客を祝して」
「恐れ入ります」
カタリナも控えめにグラスを掲げ、注がれたワインの水面を見つめる。
全体は濃い紫を帯びた紅の色合いで、スワリングからグラスを伝うティアーズは淑やか。顔に近づけると香りは黒すぐりの印象から複雑な幾つもの花々が見え隠れし、その全てが芳醇。
それは彼女にとって、とても慣れ親しんだ香りの一つだった。
「北ロアーヌ、ですね。エンプレス・ヒルダ・・・よく開いていますね」
「分かるか。さすがはこのワインを生んだ偉大なる大地を従える侯国の騎士よ。これはロアーヌの知り合いから頂いたものなのだが、私は昔からこのワインに目がなくてね。これは最近のヴィンテージの中では特に気に入っているんだ。267年のものだよ」
とんでもないことを随分と気軽に言ってくれるものだ、とカタリナは幾ばくか目を見開く。
というのも聖王暦267年はロアーヌではこの50年で最も偉大なグランドヴィンテージと名高い年で、もともと生産量がそこまで多くない銘柄などは入手が非常に困難だとされている。
なかでもこの場に提供されたワインはロアーヌワインの女帝と称される銘柄で非常に有名であり、入手にはオーラムよりも運の方が必要だとすらいわれる逸品だ。それの更にグランドヴィンテージともなれば、これは下手をしたら一生お目にかかれないかもしれない。
一口含み、舌から口内全体に柔らかく広がるしなやかなタンニンに思わず表情が緩む。
そして余韻を一頻り愉しむと、カタリナはグラスを置いて正面のレオニードに向き直った。
「本題かね?」
「はい」
魅惑的な薄い笑みを絶やさぬレオニードに対し、カタリナはまず上半身のみ前傾姿勢をとった。
「先ずは、身分を明かさずこのような形で入城し、あまつさえ無許可で会場以外の場所へと立ち入った非礼を深くお詫び申し上げます」
「よい。今日という日に公式訪問をされてもそれこそ無粋。それに私は注意を促しはしたが、他の場所へ行くなとも言っておらぬ」
レオニードの言葉にカタリナが再度頭を下げると、レオニードはうっすらと目を細めながらカタリナを改めて眺めた。
「ロアーヌの華たるモニカ姫を守護せしマスカレイドを操る女騎士の話は私も聞いていたが、フランツ候はよい人材に恵まれたようだ。ロトンギアンを単騎で打ち倒す人間など、この世界にどれほどいることか。君ならば、何れはこの城の最深部にも到達できるかもしれないな」
ロトンギアンとは、先の魔物の種別名だろう。それよりもその後に出てきたこの城の最深部、という言葉にカタリナが微かに反応すると、レオニードは更に興味をそそられたようだった。
「この城の奥深くに、君は何を求めて来たのかね?我が眷属と同じ闇を遍く纏う宵闇のローブか?世界の真理が刻まれしルーンの杖か?それとも・・・聖王の血が注がれたという、聖杯か?」
そのどれもが伝説に聞くような至宝ばかりであるが、カタリナがそのなかで僅かに反応を見せたのは、聖杯の言葉が出てきたときだけだった。レオニードはそれすらも予測済みであったかのようににやりと笑い、ワイングラスに口をつけた。
「聖杯を持つにはそれ相応の力が必要だ。君は恐らく嘗ての聖王十二将に迫る程に強いが・・・まだ足りないな。それでも今欲しいと言うのならば・・・無理には止めないがね」
不敵に笑いながらそういうレオニードに対し、カタリナは一切の反論の余地なく視線を伏せた。
彼はこう言っている。この先に進めばお前は間違いなく死ぬ、と。
それは恐らく、紛れも無い事実なのだろう。実際彼女には先ほどの魔物以上の化け物を相手取って五体満足で生還できる自信はない。
しかし彼女が求めるものが矢張りこの先にしかないというのであれば、彼女は何としてもそこまで行かねばならない。
目を閉じて数秒考える。或いはそれは、覚悟を決めるための時間だったのかもしれない。
「不躾ですが、御願いがございます。伯爵様」
「なんだね?」
「私が求めているものは、正確には聖杯から溢れ出すという生命力の源、聖水です。どうか私にそれを一掬い、譲ってはいただけませんでしょうか」
言葉を紡ぎ終えると同時にレオニードの視線がうっすらと細まり、カタリナを射抜く。それまでには見られなかったその表情に、しかしカタリナは凛とした態度を崩さず真正面から受け止めた。
「・・・聖杯に関してはどうも話が方々に広まっている様だから、誰が知っていても不思議はない。しかし、あの聖杯がもたらす奇跡を知っている者は殆ど居ない」
レオニードは淡々とそう喋り、唇を濡らす程度にワイングラスを傾ける。
「ロアーヌで聖杯の奇跡を知る者は、私の知る限りは一人だけだ。いや、君も知っていたから、これで少なくとも二人という事になるか。さて・・・口外は基本的に遠慮願っていた筈だがね、困ったものだな」
言いながら、カタリナの表情に微細な動揺が走るのをレオニードは見て取った。
彼女のように強固な意志を纏った表情の裏に揺れるそんな感情を見て取り愉しむのが悪趣味なのは自覚しているが、レオニードはこれが止められない。仄かに嗜虐心が擽られるのだ。
「・・・ふふ、まぁいい。それで、私への対価は何かね?」
「・・・この私に用意できるものであれば、なんなりと仰せください」
どこか潔さをすら感じるカタリナの言葉に、レオニードはその表情を読むように薄っすらと視線を細め、そして即答した。
「では、君を頂こう。今宵の舞踏会、広間に集まった娘たちで私の目に適う者はいなかったのでな。今日の宴の趣旨はわかっているのだろう?」
カタリナはその言葉を聞きながら、伏し目がちに豊かなまつ毛を震わせて数度瞬きをする。
広間に集まった娘たちが今の言葉を聞いたら本気で発狂しそうだな等と頭の片隅を過るが、生憎とここでそれを口に出して言えるほど彼女は冗談が上手くはない。いや、言われた内容がおそらく冗談ではなさそうであるからこそ言えない、と言った方が正解だろうか。
なので、彼女も迷わず即答することにした。
「申し訳ございません。それは出来ません」
「何故だね。君に用意できるものであればなんでも良いというのだから、その身一つならば出来ない事柄ではあるまい?それとも我が眷属となることは、やはり恐ろしいかね」
ワイングラスを軽くスワリングしながらレオニードが可笑しそうにそう言うと、カタリナはうっすらと微笑みながら応えた。
「伯爵様。申し訳ありませんが、思い違いをなされておいでのご様子。残念ながらこの身は、私のものではございません。ロアーヌ侯国のものでございます。この身はマイロードを、そしてロアーヌの民を守るための剣。ですので、私には今のオーダーを受けることは叶いません。どうか、なにか別のもので仰せいただけませんでしょうか」
カタリナがさも当然のようにそう言うと、レオニードは二、三度瞬きをしてから声を押し殺すようにして小さく笑った。
「ふふ・・・そうだった、君は騎士だったな。言わば神と契りを交わした修道女の様なもの。私としたことが、とんだ思い違いをしていたようだ。つまらん問いかけをしたな」
「いえ、とんでもございません」
どうやら今の一連の会話が面白かったのか一頻り小さく笑っていたレオニードは、ワイングラスの中身を飲み干すとゆっくりと立ち上がった。その様子をカタリナが視線で追っていると、レオニードはゆっくりとした足取りで部屋の扉まで向かった。
「少し待っていたまえ。所望の品を持ってこよう」
「・・・宜しいのですか?」
カタリナが小さく首を傾げながら彼の方を向いて確認すると、それに対して薄っすらと微笑んだレオニードは、扉の取っ手に手をかけながら口を開いた。
「よい。こうして普段とは違う時間を過ごしたのも、私にとっては新鮮なものだ。故に、この辺りで手を打とうと思い直したまで。それに・・・いや、これは控えておこう」
「・・・?」
それまでの様子とは一風変わって少しだけ無邪気そうな含みのある語尾に疑問符を浮かべるカタリナだったが、レオニードは一人納得顏のまま上機嫌な様子で部屋を後にした。
そうして一人取り残されたカタリナは流石にいきなり招かれた伯爵の部屋でリラックス出来るほど図太い神経をしているわけでもなく、多少緊張した面持ちを崩さぬままに改めて部屋の内装を眺めながら手元のワインを口に含む。
まだ油断は出来ないだろうが、どうやらここに来た目的は達成できそうだということには一先ず安堵しつつ、座り心地の良い椅子の背もたれに軽く身を預けた。
何とは無しに眺めていると、この部屋はどこかポドールイという街そのものととても似た雰囲気があるように感じられる。
過去から今まで、そしてこの先も変わらずこのように在り続ける不変の場所。周囲を柔らかく甘美に包み込む宵闇に誘われるまま時が止まっているかのように感じられ、こんなところでうっかりうたた寝でもしようものなら何年先に目覚めるのか分かったものではないように思うことだろう。
(・・・こうしてここにいると、確かに永遠なんてものを意識してしまうかも知れない。永遠というものがこんなにも柔らかく緩やかなものであるのなら、それが甘美な響きにも思えてしまう。ここに集ったあの娘たちはひょっとしたら、この城に来るまでもなくポドールイという街に既に取り込まれてしまったのかも知れないわね・・・)
そうして周りの停滞した空気に彼女自身も思わず囚われそうになるところを、手元のワインが引き戻す。
時間と共に花開き表情を様々に変えていく偉大なワインを味わいながら、伯爵がこのワインを好きな理由が何となく分かったような気がした。
そうしてグラスがちょうど空いた頃合いに、部屋の外から誰かが近づいてくる気配を感じ取る。
伯爵が戻って来たのかと思いカタリナが軽く姿勢をずらして扉の方へと向き直ると、しかし扉を開けて部屋に入ってきたのは予測に反して一人の給仕であった。
更に言えばその給仕の顔にカタリナは見覚えがあり、数度瞬きをしてから声を掛けようかと思案する。だがそれに先んじて、給仕が軽く一礼をしてきた。
「・・・先ほどはお助けいただき、有難うございました」
目の前の給仕は、外側はこの城にたどり着く前に地狼に襲われていた娘たちの一人に間違いなかった。丁度ドレスが汚れてしまったことで別室に案内されたうちの一人だ。
だが顔こそ間違いなくその時の娘なのだが、おそらく彼女は既に人間ではなくなっていた。彼女が纏っている空気は、先程までのものとは全く異なる。
それは間違いなく、この城の執事らに感じたそれ。生気はなく、虚ろにこちらを見返す瞳。その様は、夜の住人そのものだった。
「貴女・・・ここの給仕になったの?」
「本日から、お世話になることになりました」
虚ろな瞳で抑揚無くそう答えた給仕は、手にしていたシルバートレイからガラス作りの小さな瓶を持ち上げ、カタリナの座っているテーブルの上に置いた。
瓶の中には粉末が詰まっており、色は白い。だが見てわかるのはそれだけで、結局それが何であるのか彼女にはわからない。
「伯爵様から、カタリナ様にこれを、と。こちらは聖杯より湧き出でる聖水を安息香の樹脂と配合して作られた香薬で御座います。聖水の持つ効果を最も引き出す精製法であると伺っております」
「そうでしたか。感謝致します」
礼を述べた後に小瓶を手に取り、ドレスの下に忍ばせていた小さなポーチに入れる。
その仕草を見届けた給仕は一歩引くように下がりながら扉に向き直り、扉の前まで歩み寄ってからカタリナに向き直った。
「お帰りまでのご案内も仰せつかっております」
「そうですか・・・」
給仕の申し出に礼を述べながら立ち上がったカタリナは、部屋の中に漂うワインの残り香を惜しみながらその場を後にした。
給仕の背中を視界の端に置きながら、ここまで来た道をゆっくりとした足取りで戻っていく。しかしレオニードの部屋に来るまでの間に保っていた緊張感は、もはや必要もなかった。
不気味さというかなんとも落ち着かない感じは相変わらずなのだが、身体中が感じていた拒否反応のようなものがすっかり無くなっていたのだ。
魔物に襲われる心配がないからかとも思ったが、それはどうやら彼女の勘違いのようだった。
それに彼女が気づいたのは、丁度牢屋を抜けて礼拝堂らしき場所まで戻ってきた時だった。
不意に、給仕が立ち止まって天井のステンドグラス越しに月明かりを眺める。
その様子を小首を傾げてカタリナが見守っていると、給仕は数秒の後にカタリナへと振り返り、無表情は崩さぬままに口を開いた。
「本当に、カタリナ様には感謝しています」
「・・・それはどうも」
丘で助けたことを言っているのだろうか。あの時は盛大に罵倒されたものだが、今ではあまりに人格が変わりすぎていはしないか。そう思いながらもカタリナが無難に反応を返すと、給仕はそんな彼女の思惑など特に気にする風でもなく言葉を続けた。
「カタリナ様は、何故伯爵様のお誘いをお断りになられたのですか?」
無感情な声色であるはずなのに、どこかその質問には含みがあるように感じられる。
しかしどう返答したものかとカタリナが思案する間も無く、給仕は独白を続けた。
「私は今、幸せです。望み通り、永遠の命と若さを得られたのですから。カタリナ様は、望みを同じくしてここにいらしたわけではなかったのですか?」
ミシ・・・
静寂なる礼拝堂に響き渡ったその僅かな物音は、例えるならば石同士をする様な、何か硬いものをすり合わせる音か。
「折角カタリナ様は伯爵様のお眼鏡に叶ったというのに、勿体ない限りです・・・あら、ふふ、出過ぎた言い様でした・・・申し訳・・・ありません」
ミシミシ・・・
再び不自然に擦られるような音と共に給仕の背中は大きく膨れ上がり、そのまま衣装を破り裂いて中から大きな蝶のような羽が広がった。
目の前の突然の状況に目を見開いたカタリナが思わず後退りするのは見えているのか、月明かりに照らされた給仕の瞳は暗く紅みを帯びた色へと変わり、それまで無表情だった彼女は思わずぞくりとするほど妖艶に微笑んで見せた。
「ほら・・・だってこんなに美しい羽も・・・肌も」
着ていた衣服は背中から大きく破れ落ちて腰から下に垂れ下がり、乳房まで露わになった上半身は肌全体仄かに発光しているように見えた。給仕はそのあられもない格好を一向に気にする様子もなく、自らの羽を艶めかしく撫でる。
「ふ、ふふ・・・あははは!」
突然気が触れたように、給仕はあどけなく子供のように笑った。
そのまま飛び上がるようにしながら衣服を全て脱ぎ去ると、給仕だったなにかはふわりと鱗粉を撒き散らしながら天井付近を旋回し、次には迷うことなくカタリナの方へと急降下してきた。
「・・・!!」
驚きはしたものの横に飛んで冷静に回避をしたカタリナはすぐ様小剣を抜き放って対峙しようとしたが、給仕だったなにかはそのままカタリナをすり抜けて奥の地下牢へ笑い声と共に潜っていってしまう。
遠ざかる笑い声を耳にしながらカタリナが小剣片手に呆然としていると、今度はさらに別の個体の気配が礼拝堂へと入り込んでくる。
そのあまりに異質且つ不快な気配で我に帰ったカタリナがそちらへ振り向くと、其処にはこの城で最初に彼女を迎えた老執事が相変わらずの不気味に表情のある顔で足音もなくそこに立っていた。
「新人が大変失礼を致しました。お出口までのご案内を変わらせていただきます」
そう言って静かに一礼をする執事に、カタリナはやはり身構えようとしてから老執事に敵意のないことに気がつき、剣を納める。
そして静かに大きく呼吸をし、とにかく声を出そうと口を開いた。
その方が冷静さを保っていられるような気がしたからだ。
「彼女は、一体どうしてしまったのですか?」
「適性なし、で御座います」
即答されたものの、その言葉が何を意味しているのかはさっぱり分からない。
しかし二秒ほど待ってみたが相手が続ける気配がないので、仕方なしにカタリナは鸚鵡返しをした。
「適性なし、とは・・・?」
「我らが眷属となった存在が私めのように人型を保っていられるかどうかは、適性によります。その者の宿星、身体能力、魔力、あとは特に意志力などが適性に関与いたします。あの者にはそれが足りず、人型を保つことができなかったのです。まぁ、この城では良くあることです」
事も無げに老執事はそう言いながら、仕草で出口への案内を続けるようにカタリナを招きつつ、ゆっくりと歩き出した。
その背中が少しずつ遠ざかっていくのを立ち止まったまま眺めながら、カタリナは今し方言われた言葉のおぞましさに身震いする。それと同時に、自分の体が再びこの場所に対して拒否反応を示していることに気がつく。
(・・・気付かないうちに、体が宵闇に侵食されていた・・・。あのままだったら、この城を出る前に私も彼女と同じようになっていたかもしれない・・・)
助けられたのは自分の方かもしれないな等と考えながら給仕だった何かが飛び去っていった地下へと続く道を一瞥し、カタリナは礼拝堂の出口で立ち止まっていた執事へと向かって歩き出した。
そのまま城の中を二人は無言で進んでいたが、丁度エントランスに差し掛かるあたりでカタリナはどうしても気になったことを聞いてみることにした。
「・・・彼女ともう一人、保護をお願いしたはずです。その娘はどうなりましたか?」
「適性なし、で御座いました」
即答される。予測はできたがその答えにカタリナが眉を歪ませると、老執事はまるで彼女に気を遣うようにかぶりを振った。
「貴女様がお気に病むことは御座いません。我らは我らが眷属となる事がどういう事なのかを説き、彼女たちが強くそれを望み、我らはそれに応えたまでの事。あれは本人の望んだ姿でございます」
「まさかとは思いますが、舞踏会に参加している全員をそうするつもりなのですか・・・?」
城の入り口までたどり着いたところで聞かれたこの質問に、執事は暫し立ち止まって考える仕草を見せた。
それが本当に考えているのか、それとも人間であった頃の名残なのか。それは見ただけではカタリナには分からない。
「人であればこそ得られるもの程、人にとっては無価値に思えるもの。自らが持つものの得難さを知らぬ者は、捨てることも厭わぬのでしょう。このポドールイという国は、斯様な存在が集まりやすい場所でございます。貴女様のような例外も、勿論おいでではありますが」
「・・・そうですか」
執事の言葉を受け止め、カタリナはこれ以上何かを聞こうとは思わなかった。
彼らはただここに在り、彼らが持つものを求めるものたちがここに集う。ただそれだけのことであるのだ。
そのまま無言で執事に一礼をし、足早にレオニード城を後にする。
行きに地狼に襲われたなだらかな雪の丘も帰りは平和なもので、すんなりと城下町まで辿り着いた。
街の北門を潜ったカタリナは、そこで初めてこの街の本当の姿を見たような気がした。
レオニード城へと向かう時にあった浮ついた熱気は忽然と消え去り、あるのはただ粉雪とともに優しく町全体を包み込む静寂と宵闇。
ここはこんなにも静かだったんだなとぼんやり考えながら、カタリナは町外れの小屋を目指す。
程なくして見えてきた小屋の外には、老人が大型の犬の世話をしているところであった。時刻は明け方であると城の去り際に老執事から聞かされていたが、毎日この老人は朝早くに世話をしているのだろうか。
近づいてくる気配に気づいたのか老人が顔を上げてこちらへ向けると、カタリナは軽く会釈をした。
「おや・・・あの城から帰ってくるなんて・・・。やっぱりお前さんは他の娘たちとは違うみたいだね」
そう言ってこちらに向き直ってくれた老人に、カタリナは宿を貸してくれた礼を述べた。
老人は今夜も泊まっていくかと申し出てくれたが、カタリナはこのまま帰る旨を伝えて宿の礼にと幾ばくかのオーラムを差し出す。
「いや、お気持ちだけ頂いておこう。ここではオーラムなんてものは、そんなになくても不自由はしないんでね」
そばに擦り寄ってきた二頭の犬を撫でながらそういう老人に再度会釈をすると、カタリナはそのまま真っ直ぐ町の南方入り口へと向かった。
入り口すぐにある宝石店はまだ朝が早いこともあり、軒先には誰もいない。
相変わらず無用心にも手に届く位置に宝飾類が展示されたままだが、今となってはこれもまたこの街ならではの光景なのだろうと思える。
そのまま煌びやかな宝石を横目に通り過ぎ、振り返ることなくポドールイを後にした。
真新しく降り積もった雪原に足跡を残しながら足早に歩いていると、ふと頭上を飛び去るものがあった。
見上げれば、それは小さな蝙蝠。蝙蝠はカタリナの頭上を一回りし、その先にある小高い丘へと飛び去る。その軌道を視線で追っていくと、丘の上に人影があった。
「・・・」
気持ち歩行速度を速め、後を追って丘へと向かう。
程なくして丘の上へとたどり着くと、粉雪の舞う宵闇の中で丘に独り佇んでいたのは、レオニード伯爵であった。
「望みのものは、受け取れたかね?」
カタリナを見るわけではなく、小高い丘からポドールイの街並みを眺めつつ、レオニードが言った。
「はい、頂戴致しました。有難うございます」
カタリナが軽く頭を下げながら応えると、レオニードは満足そうに頷いてカタリナに向き直る。
「さて・・・君に一つ、伝え忘れていたことがあってね」
相変わらず背筋が凍る程に妖艶な笑みを浮かべたレオニードは、優雅な仕草で懐から封書を取り出した。
「ロアーヌ宮廷に戻ったら、これを渡してほしい」
そう言って差し出された封書を、カタリナは数度瞬きをした後にレオニードの近くまで寄って受け取る。
ポドールイ領主の封蝋が為された手紙には、表にも裏にも宛名はないようだ。
「マイロードにお渡しすれば宜しいでしょうか?」
「いや、君から渡しに行く必要はない。受け取りに来るだろう」
「・・・畏まりました」
受取人が自ら動くと言うところがなんとも彼女には理解し難かったが、恐らくは自分が考えても致し方ないものだろうと考え、カタリナは二つ返事で了承した。
そのまま一礼をしてからレオニードに背を向け、帰路へと戻る。
「・・・また来たまえ。君には、ここの宵闇がよく似合う」
ふわりとした風とともにそんな声が耳元に届き、カタリナは振り返る。
だがもうそこにはレオニードは居らず、見えたのは丘の向こうにぼんやりと浮かび上がったポドールイの明かりのみだった。
驚くことにはこの二日ほどで随分耐性が付いたつもりでいたが、それでもカタリナは面食らった。この国は、何から何まで自分の感覚を狂わせる。
とても自分にこの宵闇が似合っているとは思えないな等と考えながら、再び帰路へと体を向ける。兎に角この地での目的は達せられた。あとは急ぎ故国へ帰るのみだ。
流行病に掛かって暫く病床に臥せっていたというロアーヌの華が漸く快復したという知らせに、宮廷内はもとより城下町の民も一緒になり、国を挙げて喜んだ。
別段命に関わるものではないものの症状が長引く厄介なものであったが、数日前に北の地から届けられた香薬によって驚異的な速さで快復に向かったとのことだ。
「いいな、カタリナ。私も次の機会には是非訪問してみたいわ!」
すっかり血色も良くなり上半身を起き上がらせながらポドールイの土産話を聞いていたモニカは、そのように感想を紡いだ。
そんなに楽しいことばかりでもなかったのだが、それは土産話には相応しくもなかろう。そう思ったカタリナはにこやかに微笑みながら詳細を躱し、膝に置いていた小さなポーチから小綺麗な包みを取り出した。
「そうです、モニカ様。快気祝いも兼ねて、現地のお土産です。流石は古都の宝石商と申しますか、素晴らしい細工のものが置いておりましたので」
包みから取り出したのは、ポトールイで買い求めた首飾り状の宝飾品。モニカも一目でその細工が非常にきめ細やかであることを見抜き、歓声をあげながらそれを手に取る。
「せっかくの機会だと思いまして、ちゃっかり自分の分も買ってしまいました」
モニカに送ったものよりは幾分かシンプルな装飾のものをもう一つ取り出して見せながらカタリナが言うと、モニカは花のような笑顔を振りまいてお揃いだねとはしゃぐ。
その様子を見てまた微笑んだカタリナは、宝飾品の入っていた包みの奥に封蝋の施された手紙を見つける。
ポドールイの去り際、レオニードから預かったものだった。
「随分賑やかだが・・・すっかり体調は良くなったようだな」
唐突に声が掛かったかと思うと、二人のいた部屋に顔をのぞかせたのはモニカの兄、ミカエルだった。
「これはミカエル様。ご機嫌麗しゅう御座います」
「あ、お兄様!見てください!カタリナが買ってきてくれたのです!」
兄の登場で俄然元気になったモニカが首飾りを掲げながら微笑むと、ミカエルはその様子をみて微笑み返す。
普段の鉄面皮か物事が思惑通りに運んだ時に見せる少々迫力の混じった笑みではない、極く稀に現れる彼のこんな表情を間近に見ることが出来るのは、実の所この兄妹間以外では自分くらいなものたと言うのがカタリナの密かな自慢だ。
「ほぅ、良い細工だな。流石は伯爵お膝元の名産品よ。だが、病み上がりにあまり興奮すると身体に障るぞ」
「はぁい、ごめんなさい」
肩を竦めながらモニカが謝るとミカエルはそれにも微笑みを返して応え、それからカタリナの手元へと手を伸ばした。
「・・・?」
カタリナがその動作を視線で追うと、ミカエルはそのままカタリナが手にしていた封蝋付きの手紙を手に取った。
その封蝋の印を確認すると、カタリナにはにやりと口の端を釣り上げるような笑みを向けて見せた。
「モニカの様子を見がてら、これを受け取りに来たのだ。御苦労だったな、カタリナ」
「受け取りに来る・・・とは申しておられましたが、ミカエル様宛てであられましたか」
「ああ、そうだ。いつもこうなのだ、伯爵は」
「いつも・・・ですか?」
まさかミカエルへ向けたものだとは思いもしなかったカタリナが驚きを混じらせた表情でそう言うと、ミカエルは近くにあるモニカの鏡台の引き出しからレターオープナーを取り出し、その場で封を開けて中身に目を通した。
n見る限りは一枚綴りの短文のようだ。すぐに目を通し終えたミカエルは、ぴくりとも表情を動かさない。
「・・・読むか?」
不思議そうに見上げていたカタリナの視線と絡むと、ミカエルは事も無げにそう言いながら手紙を差し出してきた。
他人に宛てられたものを、増してやミカエルに宛てられたものを見るというのは流石に気が引けたが、その実あのレオニードがどの様な文を送っているものかという興味は尽きぬところであり、一瞬考えたもののカタリナはお言葉に甘える事にした。
流麗な文字で綴られた手紙には、こう記されていた。
親愛なるミカエルへ
先日頂いたワインは早速だが非常に楽しませてもらった
所望の品はお役に立てたかな?
そろそろ君が生まれた年あたりの貴腐が飲み頃だ
其方も今度送らせてもらおう
追伸
私の酔狂に一幕の余興を設けてくれた事にも感謝を
とても楽しませてもらったよ
次は是非とも二人で来るといい
レオニード
最終更新:2015年07月30日 12:28