そんな絶対的不利な状況で
巴御前が行ったのは、自身もまた支給品に頼ることだった。
ディパックに手を突っ込みながら、転がるように二人の間から抜け出る。
それとほぼ同時に石川はライフルの引き金を引いたが、当然その軌道上に巴御前はいない。
和也の方へ真っ直ぐ飛来した弾丸は呆気なく弾かれ、その身に傷をつけることはなかった。
「はははは……皆殺しだ、ははは」
うわごとのうに呟く石川は案の定二発目を巴御前の方へ向けた。
和也に攻撃を続けるより、ここはあの白装束を狙った方がいいと狂いながらに考えたのだろう。
和也は銃弾を弾くような技を持っているが、それも長くは続かない。
白装束を殺した後で疲れたところをなぶり殺しにしてしまえば万々歳だ。
狂笑をあげながら引き金を引く石川だったが、それより先に巴御前は行動を起こしていた。
ディパックから取り出したのは、一個の瓶。
一目で薬品と分かるそのラベルに、二人の狂人は怯まなかった。
瓶の蓋を開けると、それを勢いよく石川の方へ投げつける。
中身を撒き散らしながら飛んでいったそれは石川の顔に当たり、当然ながら内部の液体は彼の目、鼻、口全てから体内に侵入し、見る見るその内容量を減らしていった。
巴御前がこれを投げつけたのは、正直なところギャンブルの色が強かったといえる。
彼女は現代の薬品に知識が明るいわけではない。
だがラベルを見るに薬の類ということを迅速に察知し、とりあえず銃を持っている石川を封じておくために、半ばやけくそといった風で投げつけたのだ。
その中身は薬品エタノール。
アルコール成分を含み、消毒液などに広く用いられる比較的無害な薬品だ。
しかもこれはエチルアルコール、たとえ目に入ったとしても失明に至ることはまずない。
まぁ―――激痛くらいは走るだろうが。
「がぁああああああああぁぁぁぁああっ!! てめぇ、この糞女ァァァァァァアアアア!!!」
叫ぶ石川だが、少なくともあれでしばらくは無力化出来ている。
エタノールの内容物であるアルコールを摂取すれば、当然のごとく『酔い』が現れるのだから。
眼球を苛む激痛と酔いの中でまともに戦うなど、よっぽどの酒豪でもない限り不可能な話だろう。
まず目先の妖刀をどうにかしない限り、あれの相手は後だ。
銀色の煌めきが空を切り、巴御前の頬に一筋の傷を作る。
危ない――もしもあと数十センチメートル前に出ていたら、今頃は惨殺死体だった。
精一杯の脚力で距離を取り、ようやく弓を構え、引き絞る。
「斬らせろォォ!!」
「お断りします、ゆうてなぁ」
放つ。
今度は命中した。
だが、またもそれは巴御前の予想を超えた行動だった。
妖刀を庇うかのように、左の肩を前に出して最強の矢を受けたのだ。
鮮血がじわりと溢れてきて、穴の開いた左肩からぽたぽたと雫が滴り落ちる。
しかも攻撃はそれで終わらない。
肩を撃ち抜かれているというのに、何ら構うことなく妖刀の刃を振り回す。
妖刀の支配の前には人体の危機など無意味。ダメージなど無視して、ただ標的の抹殺を遂行する!
「っつ……何ちゅう無茶するんや……!」
「無駄な足掻きは止めることだな」
ここまで戦って、巴御前は今更ながら後悔していた。
自分は甘かった――最初の一撃で胴体を狙えば、それでダメージを与えることも可能だった。
なのにわざわざ妖刀の破壊に執着してしまった、その甘さを今になって悔いる。
もう二度と同じ轍は踏まない。
どうせ抑えられている威力だ、肝心の刀を砕けるかも分からない。
(次でドタマ、撃ち抜いたるわ……!!)
次で―――次で。
この猛攻をどうにかして凌ぎ切り、ほんの一瞬でもいいから弓を構える隙があれば。
弓使いの精霊巴御前の名は伊達ではない、当たりさえすれば一撃で仕留められる。
だが刹那でも気を抜けば袈裟斬りにされかねない極限で、それに期待するのはなかなか難儀な話だ。
それどころか、妖刀を凄い勢いで降り続ける和也の表情には疲弊の色がまるでない――――疲れていない。
持久戦に持ち込まれればどう考えても不利なのは巴御前の方だ。
精霊が人間に殺されるなんて、どんなに滑稽な話だろう。
銀色が、雲間から僅かに注いだ日光の光を反射する。
それを認識すると同時に、巴御前の右太股を、熱い何かが掠めていった。
それは弾丸であると気付くのに、時間はまるでかからない。
「こ、ロス……」
「あ、のッ……雑魚野郎!」
それこそついさっき彼女のやろうとしていた戦略のように、下手な鉄砲でも数を撃てば当たる。
軽度の泥酔状態と激痛による視界不良が重なれば、確かに狙いをつけることさえ不可能だろう。
―――逆に言えば。狙わなければ当たる可能性は、ゼロではない。
二発ほどの誤射を経て、三発目でようやく巴御前の身体にダメージを通すことが出来た。
そしてそれは、彼女にとって致命的な一撃となる。
傷口自体は小さくとも、銃弾が掠めたことで生まれた隙を、目の前の辻斬りが見逃すわけがない。
振り上げられる刀。
避けようと片腕は確実に持っていかれる。
終わった―――巴御前が思わず諦めかけたその瞬間に、
野村和也の身体は巴御前の視界から消えた。
きぃぃぃぃぃぃぃっ、というブレーキの激しい音。
巨大なキャンピングカーが真横から乱入し、和也の身体を躊躇なく撥ね飛ばしたのだ。
刀で咄嗟にガードしたものの、衝撃はダメージとなって和也の身体に鈍く残っていた。
彼にとっても、そして巴御前にとっても予想外の介入だった。
「ハーイ、お姉さん。白馬の王子様降臨だ」
車内の窓から顔を出して、一人の青年が爽やかな笑顔を向けてくる。
どうやら味方のようだった。何にせよ、このタイミングでの乱入は実にありがたい。
もしもこの乱入が無ければ、今頃巴御前は致命傷を負っていたに違いないのだから。
「な、なんやアンタら……?」
「だから白馬の王子様ですって。……てか真紀ちゃんほんとに躊躇なく撥ねるのな。おれびっくりしたわ」
「あら。おれが撥ねるなんてあなたが言い出したから、代わりにやってあげたんだけど」
「……ま、いいや。最悪の事態は避けられたっぽいし」
車の先には、憎々しげな瞳を向けている和也の姿がある。
大型車の突撃を受けて刃こぼれ一つしない刀がおかしいのか、それともその衝撃を受けて普通に臨戦態勢を取り続けている和也がおかしいのか。
が、助手席の青年は爽やかな笑顔を一変させ、冷ややかな瞳で和也、そして銃を持つ石川を一瞥する。
軽蔑するようなその瞳は、言い知れぬ深みを持っていた。
「おいおい、そこのクズ二人。寄ってたかって女一人に暴力か? はっ、いいご身分だな」
「……まあ良い。斬る相手が増えただけ、良しとするさ」
「そいつらに話は無駄やで……どっちも頭がイカれてる。刀の方は厳密に言えば違うけどな」
「潤平、どうすんのこれ。あの刀の男、相当厄介そうよ」
「うーん、車で撥ねようとしてガードされるとは思わなかったよ……あ、お姉さん。おれは
熊本潤平だ。こっちの可愛い女の子は
新藤真紀ちゃん。新感覚ツンデレガールさゲボォッ」
「黙ってなさい」
鋭い肘打ちを貰って悶絶する熊本を見て、巴御前は唖然となる。
この状況でここまで余裕を持った振る舞いを、年端もいかない少年少女がしていることに、だ。
精霊である自分よりもよっぽど余裕を持っているのではないかとさえ思う。
しかし、車に乗っているというだけでは防護策にはならないだろう。
タイヤを切り裂きでもされれば一瞬で袋の鼠となる、諸刃の剣だ。
「で、お姉さん」
「巴御前や」
「そうか……じゃあ巴さん、あれどうする?」
「どうするったってなぁ……ま、殺すしかないと思うで」
妖刀の支配下にあるとはいえ、我が身を盾にしてでも刀を守るとは思わなかった。
それに、左肩を負傷していながら庇いもせずにキャンピングカーの突進を受け止めたのだ。
あれを殺さずに倒せと言う方が難しい。
「……あの刀なんやけどな、問題は。あれを壊せばきっとあいつは正気に戻る」
「まるで妖刀ね」
「はぁ、残念なことにその通りや。妖刀、あれがあいつの自我を侵してるって訳やな」
「……マジか。そんなこと現実にあるのかよ」
恐らく普通の世界を生きてきただろう彼らからすれば信じがたい話ではあるだろう。
しかし二人も、超重量の一撃を受け止めた超人的な身のこなしを目撃している。
否定することは出来なかった。
熊本は少し離れた位置でうずくまり、赤くなった眼球を向けてくるもう一人の男に視線をやる。
見た限り、武器を失ったあれに何が出来るということはない筈だ。
特攻をかけてきたとしても、そのくらいは対処できる範囲である。
「とりあえず、一回気絶させとかないと危ないな……お姉さん、やれる?」
「やれる……言いたいとこなんやけどな。残念やけど、この足じゃ真正面からはきついなあ」
石川の銃弾による傷は浅かったが、それでもパフォーマンスに影響がないかと言えば違う。
戦闘を続行できたとしても、正面きって攻撃を避け続けるような真似はまず出来ないだろう。
隙を突かれて首を刈られるのが関の山だ。
遠距離からの射撃でなら勝機はないわけでもない。しかし、制限という枷が邪魔をする。
最強の矢自体が大分弱体化しているのだ。これではあの妖刀を壊せるかも分からない状況。
「よし。ならおれも参戦だ」
そう言って、熊本潤平はゆっくりと助手席から降りようとドアに手を掛けた。
「は、はぁ? 頭おかしいんやないのアンタ」
さすがにこれには困惑を隠せない巴御前。
化け物だと分かっていながらわざわざ目の前に躍り出るなんて、自殺行為以外の何物でもない。
それを分かっているのかいないのか、降りようとする熊本の腕が、華奢な腕に掴まれた。
その手には力が籠っており、これが冗談に対する突っ込みとは違う静止であることを暗に告げる。
「離してくれ、真紀ちゃん」
「……あなた正気なの? 言っとくけど、間違いなく殺されるよ」
「そんなの、やってみなきゃ分からないだろ? それともきみは、あいつと戦ったことがあるのか?」
「…………」
返答はないままだが、その手に籠る力は少しも弱まっていない。
唇を噛み締めたまま、黙って熊本の方を見続ける。
新藤真紀は一度殺し合いを制している。呆気ない勝利ではあったが、それ故だろうか。
刀の男、野村和也の危険性をどうしても無視できないと思ったのだ。熊本が出ていって立ち回りでもしたら、間違いなく斬られるという確信めいたものが頭の中にあった。
「人にあれだけ大層な見得切っておいて、あっさり死ぬつもり?」
「いや、それはない――俺は死なない。少なくとも真紀ちゃんより先には死んではやれないな。
女一人の意志をねじ曲げといて、無責任にくたばったなら、それこそ正真正銘のダメ男になっちまうだろ。おれは爽やかに勝利を勝ち取って帰ってくるさ」
熊本は言いながら、まるでドラマか何かのヒーローみたいな心地悪い台詞だ、と思った。
かつてある四字熟語のヒーロー志望者を摘み取った者がこういう台詞を吐くなんて、あの子に怒られるかもな―――そんなことを考えると、ふと手に掛かる力が緩んだ。
「……馬鹿みたい。死ねばいいのに」
「馬鹿と天才は紙一重って言うだろ」
「行けばいいのよ。そして死ねばいいのよ……はぁ、つくづくらしくないわね」
「そういうとこも可愛いけどな、よっと!」
ドアを開け放って地面に立つ。
真紀の視線に気取ったウインクで答えると、一言言った。
「んじゃ、行ってきます」
「……行ってらっしゃい。またのお越しをお待ちしております、ってね」
「――了解っ!」
右手には、元は真紀のものであった銃、ベレッタM92。
左手にはウィンチェスター。
二丁拳銃として扱うにしては相性を欠片も考慮せずに選んだ二丁を持って、熊本潤平は戦場に出る。
既に妖刀を持った男は顔を笑顔に歪めながら駆け出している――それに向け、ウィンチェスターを一発発砲する。容赦の感情は不思議となかった。
弾丸をあの大層な刀で弾いてくることは最早想定の内。いわば実験的な一手だ。
かきん、と小気味いい音を立てて軽々銃弾は落とされる――予想通り。
「巴さん!」
「分かっとるわ、ったく、無茶苦茶な奴やなぁ!」
概念の矢が、その弓に引き絞られる。
野村和也はそれさえも撃ち落とさんと構え、放たれる矢に応戦しようと刀を構える。
放たれた矢は普段の威力ならば受け止めた刀をおしゃかにするくらいは容易い威力の筈。
しかし今は制限で抑えられている、よってこれは必殺の一撃とは思わない。
――繋ぎのプレーだと思えばいいのだ。
「あちゃー、やっぱし壊せんかぁ……でも、当たればそれなりの威力はあるみたいやな」
「ぐ、っ」
最強の矢を受けてなお、その刀は刃こぼれ一つしていない。
だが精霊の固有能力によって産み出された概念の矢を、完璧に封殺することはいくら何でも不可能。
和也の突貫を止め、僅かな距離ではあるが押し返すことに成功した。
以前ならばこれが成功しても、次の矢を放つ時にはもう遅かった。
しかし今は違う――野村和也が対処せねばならない『矢』は、三つあるのだ。
最強の矢。
ベレッタとウィンチェスター、二つの狩人が放つ弾丸という名の矢。
それを防ぎ終える頃には、巴御前の矢は万全の発射体勢を整えられる。
このまま撃ち合いを続ければ、どう考えても不利なのは和也の方だ。
「形勢逆転、やな」
「……チッ、つくづく面倒な獲物だ」
「なら獲物らしく、あんたを食い殺してやるとするよ―――まだ続けるのか?」
「……無論だなァァアアアアアア!!!」
これは駄目だ、と熊本は思う。
巴御前の言う通り完全に自我を食われていて、どんなに絶望的な戦況だろうと止まりはしない。
狂戦士――そんな渾名を、あいつならつけそうだ。
そんなことをふと思いつつ、ウィンチェスターの発射体勢を整える。
さっきの一連の流れ時点では、熊本自身まだ交渉余地はあるのではないかと思っていた。
だから、最強の矢を防いだ後に出来た隙を突く真似はしなかったのだ。
今度は撃つ。初めてこの手を血で汚すかもしれない、と彼は思った。
今更退ける戦いではない。少なくとも今更逃げ切れるとは思えない。
覚悟を決める。あの男の身体を弾丸で射抜くイメージを脳内に構成し、静かに唇を噛み締める。
覚悟は言葉でなく、銃弾を放つというひとつの行動で示す。
巴御前はといえば石川に弓を向けた。
放たれる最強の矢。
それは石川の身体ではなく彼の持つライフルを撃ち抜き、使用不能にまで破壊する。
これであいつは脅威にならない。
助けて貰った相手を銃撃されでもしたら、流石に始末が悪い。彼女なりの義理だった。
和也は妖刀の支配に置かれながらも、半ば直感に近い思考で、次の行動を決めた。
弾丸を弾いた後、自分と戦っている間巴御前が使ったような、転がるような避け方を使って矢の照準から外れ、一気に距離を詰めて熊本潤平を斬殺する。
その後厄介な車のタイヤを切り裂き、放たれるだろう矢の直進を避けて車を更に破壊する。
次は巴御前だ。
今まで通り矢を避けながら接近し、弓もしくは彼女の片腕を削いで無力化。
その後はあれが疲れ果てるまで一心不乱に刀を降り続け、抹殺。
逃走を計るだろう新藤真紀に関しては考えない。名残惜しくはあるが取捨選択も重要だ。
それより、確実に殺せるだろう
石川清隆の元へ行き、一太刀の下に奴を切り伏せる。
後は新藤真紀を追って、途中遭遇した参加者もこれまで通りの容赦のなさで殺していく。
情け容赦など欠片も持ち合わせぬ残虐さで、にぃぃぃぃぃっ、と和也は口を三日月の形に歪めた。
そして、激突の合図が高らかに鳴り響く。
破裂音。
今度はベレッタから銃弾が放たれ、容赦なく和也に向かい直進していく。
他愛ない。
こんなもの、走りながら最低限の造作で自動的に叩き落とし、後続の矢を避けてやるだけのこと。
恐れる必要などない――和也なのか、妖刀なのかは分からなかったが、彼の中の何かが不敵に笑い、その身体を戦闘行為へと移行させる。
迫る弾丸。
それは無情に野村和也の腹に直撃した――――直撃した?
「――――――――――は?」
和也のものではなく、誰のものか分からない声。
もしかするとそれは、その場にいた全員が同時に発した声だったのかもしれない。
彼の腹を中心に、真っ赤な滲みが生まれていく。
だがそれはどう考えてもベレッタの弾丸で起きた出血には見えなかった。
銃器に対して卓越した知識を持つわけでもない熊本だが、この状況がおかしいことくらいは分かる。
これが弾丸による傷ならば、その腹から飛び出る――ある物――の説明がつかない。
紅い塊に所々混ざる肉片。それを外に無理矢理押し出しているのは、小さな一本の腕だった。
発泡スチロールでも貫くように人体を貫通したその腕を、その場の全員が目を見開いて見つめる。
巴御前も。
熊本潤平も。
新藤真紀も。
石川清隆も。
そして、野村和也自身も。
時が止まったようにその異常を見つめ続け、まだ幼さの残る無邪気な声が聞こえるまで静止していた。
「つまんない」
ぐちゃっ、という音がして、腕が引き抜かれる。
野村和也はどう考えても、人体として生きていられない状態にまで至ってしまっていた。
腹から臓物がはみ出て、出血もどこから見ても致死量を超過している。
だがそんな彼を無理にでも突き動かすのは妖刀の支配。
激痛――無視。
熱さ――無視。
溢れる臓物――無視。
「う、おぁぁァァアアアアアアあ!!!!」
銀色の煌きが、僅かな真紅を帯びて不気味な色と化していた。
その少女は、空を切り裂いて放たれた斬撃をいとも容易く屈むだけで避け、にやりと笑う。
次に血塗れの腕を手刀の形にして、刀を掴む腕を木の枝でも折るかのように叩き切った。
止めに、可愛らしい靴から放たれる鋭い蹴りがその脇腹を吹き飛ばし、彼の身体を数メートル先まで吹き飛ばして、彼の戦う力を根こそぎに奪い去って、すべてが終わる。
(――……あ、俺……何やって、るんだ……?)
鮮血に腹部を汚し、右の脇腹は抉られたように破壊されている。
あれほど熱く感じていた迸る血液も、今となっては氷点下の水の如く冷たさとなって、苛む。
掌を返したように、身体の崩壊が生命活動を滅茶苦茶にしていく。
空から降り注ぐ光を浴びて、正常さを取り戻した思考回路が最後の循環を始める。
走馬灯なんて上等なものじゃない。
脳裏を過っていくのは、自分がこの殺し合いで犯した罪の数々。
(刀………)
支給品から出てきた一本の刀を持った瞬間から、自分の中の何かが壊れた。
気付けば、どう足掻いても止められない殺人機械と化していた――辻斬り、というワードが浮かぶ。
何にせよ、分かることが二つだけある。
一つは、刀のせいだろうが、自分の犯した罪は決して消えない、人殺しになってしまったこと。
もう一つは――そんな罪を償うだけの猶予も、自分には残っていないということだった。
(あ、あぁ……情け、ねえな、俺――――)
失意の中で、野村和也は意識を手放した。
【野村和也@需要なし、むしろ-の自己満足ロワ 死亡】
「さってと♪ 対決ムードをぶち壊しちゃってごめんね、レジスタンスの諸君! あ、ちょっと違う?」
中学生相応の笑顔で微笑む少女は、人を一人惨殺したばかりとは思えない無邪気な声色で、鈴のような音で笑って見せた。血に濡れた笑顔は、どこか扇情的でさえある。
しかし、人間の腕を素手で叩き切り、あまつさえ蹴り一つで大の男を数メートルも吹き飛ばすような存在が普通の中学生な筈がない。
あまりにも唐突な乱入を果たした少女は、一瞬にして場の空気を掌握していた。
ルックスで言うなら美少女と形容するに足る外見だったが、熊本潤平も一瞬だけ、気圧される。
だがそこは怯んでばかりもいられない。
女の味方を自称する彼は、すぐにいつもの調子で言った。
「そこの可愛い子ちゃん、お名前は何かな? おれは熊本潤平。お兄ちゃんはもう凛々ちゃんがいるから止めとくとして、「おにぃ」とでも呼んでくれ」
「うん、分かったよ、おにぃ! ……ボクは『アイ』っていうんだ」
「ぐっ、可愛い……超愛でたい……っ!」
「アホか自分は! どう見ても危険人物やないかいっ!」
「何でだ……何で凛々ちゃんといい真紀ちゃんといいこの世は美少女揃いなんだよ! おかしいだろ!」
車内で三人を見つめる真紀は、熊本の判断が正しいと感じていた。
今ここで下手に敵対するより、ああやってフレンドリーに接していた方が安全は確保できる。
どこまで冗談なのか分からないところが非常に見ていて苛々する話だったが。
さて、どうするべきか。
人間離れした身体能力、妖刀の男に勝るとも劣らない躊躇いのなさ。
熊本が会話を繋いでいる……てかあれちょっと本気で楽しんでるんじゃないかとか、そんな雑念を振り払いつつ対応策を案じているその時、事態はひとつの変化を遂げようとしていた。
「でねー、おにぃ。ボクはおにぃたちの戦いを見て思ったことがあるんだよ」
人差し指を一本立てて無邪気に微笑むと、『アイ』は足下を指差した。
その場の全員に戦慄が走る。
目を反らしたくなるような鮮血の湖、その真ん中に無造作に置かれている一本の刀。
妖刀―――普通の青年を、持っただけで化け物じみた殺人鬼へと変貌させてしまう一品。
あれだけの凶悪なマーダーを生み出したそれを、元より化け物じみた者が持てばどうなるか。
「っ、やめろアイちゃん!」
「やだよっ。ボクは勝たなきゃいけないんだ。しーちゃんのために、皆殺しにするんだからね」
「おれは女の味方だ。女の子の心をねじ曲げる刀なんて、使わせるわけにはいかない」
「優しいね、おにぃ。でもボクには――」
熊本の静止を一切無視して、血だまりに沈む刀に右の手を触れた。
「――戻り道なんて、生まれた時からないんだよ」
そして、それを掴み、持ち上げた。
瞬時に、『アイ』の精神をどす黒い憎悪が侵食する。
少女の心を闇が満たすまで、二秒と要さない。
◆ ◆
闇が全てを支配する。
怨念が水となり、『アイ』否、
柳詩織の矮躯を少しずつ足下から飲み込んでいく。
その速度はどうしようもなくゆっくりとしたものだったが、何分手足を動かすことは叶わない。
逃げ場もなく、成す術なく侵略を甘んじて受けることしか出来ない。
これは殺人少女ではなく、その根幹に存在する一人のか弱い少女でしかないのだ。
手にした者を否応なしに狂わせる魔剣の精神侵略に抗おうなどと、そんなことが出来る筈はなく。
彼女が目を開けた時に浮かべた表情は、どうしようもないまでの恐怖と驚愕だった。
『や、やだ……なにこれ、なんで、私……!?』
足下を満たし、秒数を経る毎に増してゆく闇に染まった墨汁のごとき水面。
脛の辺りまでが水に浸っているにも関わらず、詩織には冷たいとか、そういう感覚は一切なかった。
それが逆に彼女の人一倍弱い心を恐怖という名の鞭で責め立てる。
詩織からすれば絶対の安息が約束されるこの『心の中』を脅かされた、それだけでも十分な絶望に値するのだが、あまつさえそれが牙を剥いて襲ってくるなら――彼女は優にパンクする。
パニック状態と恐慌状態が急速に進行して、少女の思考をぐちゃぐちゃに掻き乱してゆく。
逃避行動さえままならない。
何せここが彼女の逃げる場所なのだ――もう何処にも、逃げ場はない。
『や、やだっ! 助けて、助けてよ……!』
動かない身体に必死に命令を送るが、指先一つとして彼女の指示に従ってはくれなかった。
まるで石化してしまったように固く凍り、これが自分の身体なのかも信じられなくなる。
唯一自由に動かせる眼球から涙を溢し、黒い水面にぽた、ぽたと連続して波紋が生まれた。
勿論何の抵抗にもなりはせず、水は少女の矮躯を飲み込んでいく。
それでも必死になって身体を動かそうとする詩織に応えるかのように、何処からともなく響く聲。
少女のような甲高い聲でありながら、含まれる邪悪さまでは隠し切れていなかった。
『殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ』
同じことをまるで甘美な誘惑のように呟く聲が、成す術もない詩織の鼓膜を叩く。
壊れたテープレコーダーを連想させる繰り返しの呪言が恐怖さえも侵食し、彼女を蝕んでいく。
『貴女だってそれを望んでいるんでしょう?』
ちがう、と否定したかった。
少なくともこんな訳の分からないモノの言いなりになるなんて御免だと、首を振って叫びたかった。
しかし『何か』は彼女の意思など考えの内にも含めず、淀んだ水の底に詩織を誘う。
才能保持者ではあっても、『柳詩織』という存在自体は平均以上に無力で虚弱である。
それでも分かった。
この底に沈んだ瞬間、自分はもう二度と這い上がれない闇に囚われるのだと、本能的に理解した。
『堕ちなさい』
静かに冷たく言い放たれた言葉に、詩織は精一杯の自我をもって対抗する。
だが現実は無情。
如何にこれが精神の中で起こっている幻影だと脳では分かっていても、それを振り払えない。
呑まれる。終わる。
首元まで黒い水に浸り、いよいよ精神の死まで秒読み段階へ入った。
次第に笑い声へと変わっていく何かの聲を茫然と聞きながら、ついに詩織が侵食に身を委ねんとしかけたその時だった。
第三の声が、割り込んだ。
「そこまでだよ」
一瞬。
僅か刹那の時間で満ちかけていた闇水は水滴一つも残さずに消滅する。
三つ目の声の主の姿はなく、そこには黒い人の形をした何かと、気弱な内面が見え隠れしていた瞳を真っ赤に染めた、柳詩織の姿をした何かの姿があるだけだった。
少女の姿形のみを借りて現れた突然の乱入者に、呪いの権化たる人型は僅かな動揺を見せる。
バトルロワイアルを引っ掻き回してきた怨念の塊からすれば、これは予測にない展開だったろう。
如何に全てを蝕む妖刀とはいえど――その知識は有限である。
『才能保持者』なんてイレギュラーにも程がある存在など認知してはいなかった。
いや―――仮に知っていたとしても、柳詩織を蝕むことは叶わない。
彼女の才能は、言ってしまえば人格を二つ持つ才能である。
『柳詩織』を蝕もうとも、『アイ』はそれを認めない、許さない。
詩織を守るために生み出された存在が、詩織に危害を加える異物を看過する理由はないだろう。
後一歩で詩織は、妖刀の呪いに食われていた。
人間とは違う、いわば才能そのものに等しいアイは、その在り方を犯されない。
『………殺せ。殺せ。殺せ。全てを斬れ。それがお前の望みだろう?』
「うん、そだねー。言われなくてもそうするつもりだよ」
無邪気な、端から見たなら釣られて微笑んでしまいそうな笑顔。
何か――妖刀は、その言葉を黙って聞いていた。
全身が黒く染まっているから表情は窺えないが、恐らくは忌々しげな顔をしていたろう。
黙って染まらず、あまつさえ意志疎通を試みようとしてくる相手など、かつていない。
「――だけど、しーちゃんを汚すな。お前の言葉はボクには何の効果もない。お前はボクを犯せない」
打って変わって、ゾッとするほど冷たい声色を見せる『アイ』。
妖刀はそれに怯むこともなく、ただ黙って佇むのみだ。
「で、ここからが本題なんだよ、刀さん」
今度は最初の天使のような笑顔で、紅い瞳をウインクさせながら、彼女は誘惑するように言った。
「……力、貸してよ。ボクに全部委ねてほしいんだ」
返答はない。
自身の存在意義を奪う存在と交わす言葉はない、と言わんばかりの沈黙だ。
当のアイは、妖刀は必ず自分に力を貸すものと確信していた。
殺戮と鮮血を望む呪いの刀なら、その望みを十二分にアイは叶えることが出来る。
大体、このままアイに力を貸すことを拒否したとして、どうせ自分を手中に収めることは無理なのだ。
無知な赤子でもないのだ、そのくらいは弁えるだろうと。
「嫌なら良いんだよ? ボクは普通に刀さんを降るだけだからね」
柳詩織の作り出した存在、アイの戦闘能力はかなり高い。
素手で木材を粉砕し、蹴りで人体を何メートルも飛ばすことさえ造作もない。
刀一本だけを得物にしていたとしても、そんじょそこらの人間より多くの戦果を挙げるだろう。
それに妖刀そのものの力が付加されれば、彼女はより苛烈な化け物へと昇華できる。
自我をもった殺人鬼に、多大な力と引き換えに自我を奪われる妖刀。
まさに鬼に金棒――最悪のコンビが完成すること請け合いだ。
首輪など何だのと制約がある対主催を嘲笑うかのように、バトルロワイアルを席巻する。
目の前の黒い人形とて、野村和也の中でアイの力を目撃しているのだ。
これほど自分の力を引き出し、多くの鮮血を生む担い手はそう居ない。
思い通りにはならないが、妖刀村正の望む殺戮は、見られる。
無言の静寂の中で、アイは突然に心の中の風景からブラックアウトさせられた。
肯定のサインと判断したアイはにやりと笑い、拾い上げた刀をまじまじと見つめる。
彼女の体感時間は数分ほどだった。
しかし現実の時間は数秒も経過してはおらず、何ら戦況に影響は無さそうだ。
血塗れの右手に握られる妖刀の柄に微笑みかけて、彼女はただ一言呟いた。
「よろしく」
――――こうして、妖刀憑きは妖刀使いへと変貌し、少年達の前に立ちはだかった。
◆ ◇
「………アイちゃん。きみは……何ともないのか?」
「んー、交渉の果てにお友達になって貰ったよ、おにぃ♪」
口調はさっきまでと同じく、妹が兄に甘えるようなそれだった。
だが、放つ殺気がこれ以上の馴れ合いを拒絶している。
妖刀の力を試したくて仕方がないといった様子で、右手の鮮血を服で拭い、アイは振り向いた。
無意味にそうした訳ではない。
状況を冷静に見れば、誰を斬るのが一番容易いかなど一目瞭然だった。
石川清隆。
今まさに逃走を図ろうとしていた敗北者を、アイは実験相手に定める。
止めろ、という熊本の静止にも耳を貸さず、陸上選手顔負けの速度で石川の背中に迫っていく。
「ひ、うわああああああああっ!! 死ね、死にやがれ―――――!!!」
破壊された銃の代わりに、無骨な肉切り包丁を構えて、彼は逃げることを諦めてアイに向き直った。
考えも何もない。分かるのは、こいつは手加減も何も考えずに、本当に殺しに来ることだけ。
殺らなきゃ殺られる。
逃げられないなら、殺してでも生き延びるしかない。
支離滅裂な言葉を絶叫して包丁の刃を、アイの顔面に向けて突き出した。
当たれば確実に致命傷だったろう一撃。しかし手応えはない――それどころか、少女の姿がない。
が、石川が彼女の姿を再び視界に収めることはなかった。
アイが逃げたのは、空中だった。
元の力でも十分に可能だった化け物じみた跳躍力で飛び上がり、そのまま刀を降り下ろしたのだ。
石川は自分の置かれた状況に気付く暇なく、その身体を文字通り、肩から
一刀両断された。
バトルロワイアルに翻弄され、最期の最期まで死の恐怖に怯え続けた男。
が、痛みを感じる暇もなくその生涯を終えたことだけは、幸福だったのかもしれない。
残ったのは、身体を真っ二つにされた、呆けた表情を残したままの男の屍だけ。
夥しい鮮血が、アイの身体を真っ赤な飛沫で濡らした。
【石川清隆@個人趣味ロワ 死亡】
「……次はそっちだね、おにぃ?」
「律儀に呼んでくれるのはありがたいけどな……おれは、止められなかった」
女の味方を自称する熊本にとって、みすみすアイを狂わせてしまったことは十分なショックだった。
自分があの時傷を恐れずに駆けていき、刀を叩き落とせば事態は違ったろうか。
いや、結果的に熊本はアイを救えなかったろう。
妖刀の支配に置かれて、彼女を斬り殺すか逆に殺されるのがオチだった。
自分の不甲斐なさを、またも実感する。
「ぼさっとしとる暇ないで! あれは化け物や、助けようとか考えるんやないッ!!」
歯噛みする熊本に檄を飛ばし、巴御前はもう何一つ迷うことなく、最強の矢を放った。
威力は真のそれを知る彼女からすれば不条理なまでに抑えられている。
人体を撃ち抜くなら十二分だが、妖刀の破壊ともなればまだ何発か当てなければならないだろう。
彼女は気付いていた。
あの妖刀は本人の自我を食らって人斬りの鬼人に変貌させる代物だ。
だが、刀身を砕かれればひとたまりもないと。
野村和也はキャンピングカーの突撃を受け止めていたが、あれはそんなスマートな止め方ではなかった。
衝撃を可能な限り自らが引き受け、刀自体が負ったダメージはそう大きくない、そういう避け方だ。
機械同然の状態だったから察するのが困難だっただけで、身体の各所にも損傷があった筈。
それなら勝ち目はある。
最強の矢を何度も止めさせて、ダメージを蓄積させ、持久戦だろうが何だろうが、とにかく破壊する。
その後は、遠距離戦に徹すれば事実上の三対一。分はこちらにあるだろう。
が―――最強の矢は、少女の歩みを止めることさえ叶わなかった。
元より超人的な力を保有するアイは、妖刀村正によって更にブーストされた状態にある。
平常時でも村正装備の和也と互角以上に立ち回れる彼女が、今はパワーアップしているのだ。
只の脚力のみで、最強の矢の衝撃を封殺し、速度を一切落とさない。
(速い!?)
熊本が真横から援護射撃を放つが、それをアイは正面から受けようとさえしなかった。
地面を一際強く蹴りつけ、そのエネルギーのみで一気に距離を詰める。
二発目を片手に持った村正で易々と落とし、片腕を裏拳の形にして、巴御膳の腹を打ち抜いた。
咄嗟に受け身を取ったこと、片手間に銃弾を相手しながらの作業だったこともあり、和也のように胴体を破壊されるようなことはなかったが、とんでもない衝撃が押し寄せる。
かはっ、と胃液を吐き出し、巴御前は成す術なく地面を転がった。
意識を保つことさえやっとの一撃。
(なん、や、アレは――)
口元の胃液を素手で拭いながら、巴御前は心中で前置き、それから言葉に出した。
「あんなモン……精霊レベルやないか……!!」
精霊――奇跡の権化たる幻想の存在。
如何に力が抑えられているとはいえ、平常時の自分でも手こずるだろう、と彼女は分析する。
互角。それもあくまで平常時での話であり、この有り様の自分がサシで戦えば勝ち目は相当に低い。
熊本は女に銃撃を行う行為への後ろめたさを未だ払いきれていないようだったが、やるべきことは理解しているようだった。
アイを止める術はない。ならば、やるしかないのだ。
継ぎ接ぎの覚悟を決めた彼ではあるが彼もまた、その顔を引き攣らせるしかなかった。
(……嘘だろ。勝ち目あるのかよこれ……?)
弾丸は当てさせてすらくれない。
巴御前の十八番は足止めにすらならず、逆にこっちが隙を作ってしまう。
肉弾戦――論外だ。十秒と渡り合えずに、文字通り虐殺される。
どうすればいい。
アイは動けない巴御前に近付いていく。
熊本なんて、もはや脅威としてさえ捉えてはいないようだった。
優先して殺すべき獲物は、何やら只者ではないらしい白装束の女。
幸い負傷の度合いは大きい。刀を一発降り下ろせばそれだけで終わらせられるだけの優位。
ウィンチェスター、ベレッタの残弾はまだ残っているが、有効打となる確率はほぼゼロ。
熊本潤平というちっぽけな少年に出来ることは、もう何もなかった。
―――熊本潤平には。
「……はぁ、はぁ……っ」
「ばいばい、弓のお姉さん。言い残すこと、何かある?」
罪人の首に刃をかける処刑人のごとき余裕を持って、巴御前を見下ろす小さなシルエット。
真紅の瞳とよく似合う、衣服に施された人間の血飛沫のペイント。
右腕に握るのは妖刀。
この距離でなら、弓を構える予備動作を目視してからでも弓もろとも彼女を斬れる。
チェックメイト、必殺の距離。
その気になれば虫を殺すくらいの気軽さで、精霊の命を摘み取れるだろう。
「……無いなら、もう死んでくれる?」
無言で自分の瞳を睨み付ける巴御前に、至極つまらなそうな面持ちでアイは刀を振り上げた。
後は降り下ろすだけ。そんな状況で、背後から突然に声が聞こえたのだ。
「止めろ、アイちゃん。殺すならおれを殺せ」
熊本潤平だった。
両手に持っていた銃はディパックにしまわれているのか、何処にも見当たらない。
降伏の証ということなのだろう。馬鹿な人だ、とアイは思った。
「おにぃを殺したら、その後でボクはこの人を殺すと思うよ?」
「……好きにしな。だけどまずは、おれを殺せ。女の味方たるこのおれが、女より後に死ぬなんて許されないからな」
「やっぱりおにぃって、変な人だよ」
「きみに言われたくはないな」
くすくすと、或いはけらけらと、生死のやり取りをしている最中とは思えない笑い声が響いた。
熊本は巴御前を庇うようにその前に立ち、アイの瞳を強く見つめた。
万に一つたりとも、アイが攻撃を外すことはない。
次に銀の煌きが走るその瞬間が、熊本潤平の永遠の眠りのスタートである。
「そうだ、アイちゃん」
「……なぁに? 命乞いなら聞いたげないよ」
「まあそう言うなって―――でも」
熊本はその瞬間、今までとは違う意味での笑顔を浮かべた。
どこか諦めの混じったものではなく、勝利を確信したようなそれ。
それを見て、瞬時にアイは彼と『彼女』の狙いを悟った。
アイが刀を降り下ろす動作を止め、直進してくるキャンピングカーに目線を向ける。
下手糞なドリフトをかまし、開いたままの助手席のドアが見えた。
アイはそこに飛び乗って運転手を殺そうと考えるが、車の後部を避けるために後退を余儀なくされた。
「捕まれっ!」
巴御前が痛む身体に鞭を打って、熊本を背負うようにして助手席に飛び込んだ。
すぐに扉を閉め、無茶苦茶な急旋回でキャンピングカーは走り去っていく。
新藤真紀。取り残された運転手が熊本に合図を送っていたことに、アイは気付かなかった。
熊本たちに背を向けていたせいで、その意思伝達の瞬間を見逃してしまったのだ。
完全に、してやられた。
「あーあ、逃げられちゃったね……追いかけてもいいけど、追い付けるかちょっと分からないな」
無理をして追う気はないようだった。
キルスコアを二人も稼げたのだし、欲張らずともいいだろう、という考えだ。
あまりに呆気なく下りた戦乱の幕。
その激しさは、二人の人間の屍が物語っていた。
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最終更新:2012年06月28日 11:25