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昭和戦前期


皇紀2587(昭和2/西暦1927)年
  • 3月
 日本海軍、金剛級巡洋戦艦4番艦「霧島」、呉海軍工廠で第一次近代化改装に入る。
  • 3月24日
 蒋介石率いる国民革命軍、南京入城の際に諸外国の領事館を襲撃する南京事件を起こす。
  • 3月25日
 大日本帝國、南京事件に対し列強諸国と協同一致しての懲罰的軍事行動を決定。天津・上海の列強租界に海軍陸戦隊を上陸させる。
  • 4月6日
 事態収拾を図り張作霖が列強に対する生贄として、ソ連大使館を目的とした各国公使館の捜索を行い、南京事件の元凶は世界革命を目論むソ連と共産党であるものとする発表を行う。
  • 4月9日
 ソ連は中華民国に対し国交断絶を通告。
  • 4月12日
 蒋介石は国民革命軍の南京での暴徒化は共産党による煽動が原因であるとして、上海に戒厳令を敷き共産主義者を処刑。
  • 5月26日
 グレートブリテン、南京事件はコミンテルン指揮によって行われたものとして関係先を捜索に及び、ソ連と断交。
  • 6月
 大日本帝國、東京を中心とした関東一円の復興景気。将来性と防火帯設置のため無駄に幅広の道路が確保される。この世界最新鋭と言っても良い都市計画を模倣し、日本各地の大都市で防災兼内需拡大政策実行のため都市改造が実行される。この頃からニューヨークの様な摩天楼チックな高層建築物が日本各地の大都市に建てられるようになり、必然的に重機の類が普及開始。内需が拡大し昭和金融恐慌回避。
  • 6月3日
 ソ連、中央アジアから中華民国へ侵攻。第一次支那事変勃発。軍縮会議までにアメリカから導入した工業力で建設された準総力戦対応型軍隊に、中華民国は鎧袖一触される。ソ連を出汁に中華民国を切り刻むことで欧州で得られなかった利益を少しでも回収する心積もりで居た列強諸国は、ソ連に全てを奪われる前に慌てて本気を出した支那侵攻を考えなくてはいけなくなる。
 大日本帝國、国境線警備を強化し満州進駐を決定。
  • 6月21日
 大日本帝國、列強諸国の同意を得た上で山東半島・満州・天津・上海等から中華民国に侵攻・独力でのソ連軍撃退を主張する国民革命軍を完全に無視して列強租界の保護に走り、暴徒を一蹴する。
  • 8月
 蒋介石率いる国民革命軍、自力でソ連と共産党の脅威を撃退できることを証明し列強を排外しようと北伐に及ぶものの、ソ連から提供された重砲の類の前に精鋭を消耗し各地で大敗。却って列強による利権獲得競争の激化を招き、グレートブリテンが租借する香港にグレートブリテンを始めとする欧州列強の艦隊が入港する。
  • 9月
 第一次支那事変への介入に、自らのモンロー主義もあり乗り遅れたアメリカが部隊派遣を行おうとするものの、ソ連の強力な重砲を生産可能とする能力の大元を提供したある意味での事態の元凶の行為に対し、列強は冷ややかな反応を示す。特に布哇王国を巡り長年の因縁がある大日本帝國は猛反発を見せ、西太平洋に艦隊が大挙出動する事態に。
  • 10月
 重慶会戦に於いてソ連義勇軍指揮下の人民解放軍と、蒋介石率いる国民革命軍が前面衝突。壮絶な塹壕戦の末、個々の兵士の持つ火力差と国民革命軍の士気破綻により、国民革命軍が敗走。更に国民革命軍による徴発で困窮を極める民衆が、各地で一斉に暴徒化。蒋介石は求心力を大きく損ない、事実上失脚。後釜を狙っての暗闘が始まり、中華民国は意味ある行動を取れなくなる。
  • 11月
 欧州列強諸国、揚子江と黄河に砲艦を入れ、河川交通を掌握。上海租界の周囲に堤防を築いて新たな川を拓き、大陸から上海を切り離しにかかる。
  • 12月
 旧大清国皇帝・溥儀、紫禁城の財貨と共に満州へ脱出。紫禁城に蓄えられていた莫大な財宝を切り崩して資金源としていた中華民国、事実上財政破綻を来す。

皇紀2588(昭和3/西暦1928)年
  • 1月
 西安から貴州に至る戦線で赤軍は兵站の攻勢限界に達し戦況が膠着する。ソ連はカザフスタンから東進南下する鉄道(「鉄のシルクロード」)の敷設を開始。
  • 2月
 グレートブリテン、フランスを巻き込んでインドからペルシャ(イラン)を結ぶ鉄道線と、ペルシャ・インドからアフガニスタンを経て西蔵(チベット)に至る鉄道線の敷設を開始。尚、最早政府の体を成していないとして中華民国の同意は得なかった。
  • 6月4日
 満州某重大事件。支那権益に介入する機会を失い続けているアメリカが、自作自演により張作霖を暗殺し、悲劇のヒーローとして扱い易い息子の張学良を擁立し、罪を日本に擦り付けて橋頭堡を確保しようと満州に流れ込んだマフィアを使って張作霖を列車ごと爆破し暗殺しようとするも、偶然通りかかった日本陸軍の警備隊に見つかり、張作霖が乗っていた1両後の車両を誤爆。張作霖自身は重傷を負うも生還。
 大日本帝國、米国に厳重抗議。満州に出資し第一次支那事変に乗じて大陸を切り取る各国も歩調を揃えて非難するが、アメリカは政府の関与を断固否定。両国民は相互に不信を抱く。満州では列強各国に満遍なく向かっていた反発が俄にアメリカに集中し、アメリカ権益に対してテロが相次ぐ。日本陸軍は警備を強化する一方、アメリカは正規軍の派遣が日本によって阻止され続けているため、非正規軍(匪賊・マフィア等のならず者)を大量に大陸に送り込み、各国(特に日本)の権益の妨害や自らの利権防衛を始める。
 大日本帝國に於いて軍部が満州独立計画を構想開始。
  • 7月30日
 日本海軍、金剛級巡洋戦艦3番艦「榛名」、第一次近代化改装を終える。
  • 8月27日
 不戦条約、支那大陸での戦争状態に各国が介入していることを鑑み有名無実化される。
  • 9月
 双方の兵站・戦力・政治的要因により戦況が膠着し今後の進展の見込みもないことから、第一次支那事変、事実上の停戦状態に。
  • 12月
 日本海軍、金剛級巡洋戦艦1番艦「金剛」、横須賀海軍工廠で第一次近代化改装に入る。

皇紀2589(昭和4/西暦1929)年
  • 4月
 日本海軍、扶桑級戦艦1番艦「扶桑」、淡路海軍工廠で第一次近代化改装に入る。
  • 5月
 日本海軍、扶桑級戦艦2番艦「山城」、室蘭海軍工廠で第一次近代化改装に入る。
  • 9月
 一年もの間小競り合いに終始して膠着していた第一次支那事変、ソ連が現戦線の防備を固めて勢力圏化を強め、対する中華民国側が各地の軍閥に分割崩壊したため、もう一度本気で総力戦を行う余力も無い列強諸国も、大陸が分割されていて赤化せず、過度に反日を掲げて敵対的にならなければ問題ではない日本も、現状維持で落ち着くならばこれ以上の積極的介入を是とせず、武漢に於いて各勢力が一堂に会し休戦交渉が持たれ、国家承認こそ各国政府の個別判断に任されたものの、現状の固定化を相互承認することで合意。第一次支那事変は一応の事態収拾を見る。
  • 10月24日
 アメリカ発世界大恐慌発生。第一次支那事変の事実上の終結により、大きな利益・利権を得られないままに終わったアメリカ国内で、支那利権を巡る皮算用の空手形が反故にされたことによって、実体を持たない資産の価値が下落し始めたことが端緒となった。
 しかし内需拡大中の大日本帝國では政府が護送船団式経済政策を行い、資源輸送需要が拡大し既存港湾では容量が逼迫しつつあった繁利亜・荒棲家に新港建設を行うなどの政策を打ち出したことで恐慌を回避。北欧から東欧に至る欧州諸国とのソ連挟撃戦略による経済的連携により、北・東欧も早期に経済的苦境を脱出。列強諸国も個別に各々が支援する支那大陸の軍閥と癒着し、制御された各地軍閥との対立を演出しブロック経済を敷いて生き残りを図り、ドイツは帝室の血縁からロマノフ家の莫大な財産を元手に南米諸国との貿易を拡大する。

皇紀2590(昭和5/西暦1930)年
 ロンドン海軍軍縮会議開催。事実上の現状維持と代艦建造に於ける規定を設けることで軍拡を阻止するだけに過ぎない内容。前身である日本水軍時代より予算は時の政府が与える(編成する)慣例から度々政府により装備品をも制限されていたことから統帥権干犯問題は起きず、回避。

皇紀2591(昭和6/西暦1931)年
  • 3月
 日本陸軍の叛乱計画が発覚。政府は監視を強める。
  • 9月18日
 日本陸軍の満州進駐軍(関東軍)による柳条湖事件が発生。柳条湖に於いて関東軍が実際に攻撃を受け、これに対し米国の影響力(満州に蔓延る白人系ならず者)排除を目指し満州全域に日本陸軍が独断専行で満州全土に進駐を開始。各地で匪賊狩りや重火器の差し押さえが行われる。
  • 10月
 日本陸軍のクーデター計画が再度露見。度重なるクーデター計画発覚と満州での陸軍の独断専行に、度重なる米国の無法に苛立っていた大日本帝國臣民は、評価と不審の相反する思いを抱く。

皇紀2592(昭和7/西暦1932)年
  • 2月
 日本海軍、扶桑級戦艦「扶桑」「山城」の第一次近代化改装を終える。
  • 3月1日
 満州にて旧大清国皇帝・溥儀が満州国皇帝への即位を宣言し、満州国の成立を各国に通告。
 国際連盟、リットン調査団の派遣を決定。
  • 3月18日
 沿海州で大筑事変発生。ロシア系住民と日系住民間で武力衝突が発生。大規模な暴動に発展する。日本陸軍はこれを武力鎮圧したが、煽動したのがソ連による工作員だったことを掴んだ大日本帝國は、防諜体制の大幅な強化を決意。更には元々日本人が住んでいる所にロシア帝国の難民を受け入れ過ぎたのが衝突の遠因として、グレートブリテンに対しロシア系住民のオーストラリアへの移民を申し入れる。
。4月
 支那利権の安全保障に於いて、後方策源地の一つとしてオーストラリアの強化を図りたい(ついでに白人人口を増やして原住民や日系人の相対的人口を減らしたい)グレートブリテン、ロシア系住民に限った日本からの移民受け入れを「人道的見地から」再開する。
  • 5月15日
 大日本帝國、満州での陸軍独断専行による満州国成立を否定し対米府協調に走ることは国益を損うとし、天皇直接親政により事態打開を行おうとした日本海軍青年将校団による犬養総理暗殺未遂事件発生(彼らはグレートブリテンの貴族であるリットン伯爵を団長とするリットン調査団を、グレートブリテンによる満州国成立阻止の尖兵と見做していた。日系人との相対的人口格差を減らしたい故の、大筑事変を受けたロシア系住民のオーストラリア移民受け入れ宣言であり、彼らの見方は無理ある言説ではない)。設立当初より政治の埒外にあるべき存在とされてきた水軍(海軍)の政治介入に対し、国民の間に衝撃が走る。
  • 5月26日
 偶然により難を逃れたものの、重傷を負い職務継続不能と判ぜられたため、犬養総理は負傷退任。代わって、外国語(英語)も堪能な国際派である齋藤實海軍大将を総理大臣に就ける。この人事を巡っては、海軍軍人によって起こされた政変により海軍の意向を露骨に反映する、事実上の軍事政権の成立と見られたが、齋藤實は昭和天皇より軍の文民統制強化の勅命を受け、また時代にそぐわぬとして新たな憲法の研究及び「朕ハ内閣総理大臣ヲ信任シテ任命シタノデアリ、之ニ刃向カウハ朕ニ刃向カウト同義ナリ。朕ハ之ヲ許サズ。即チ内閣総理大臣ノ決定事項ハ朕ノ決定事項モ同然デアリ、之ヲ不服トシ斯様ナ事件ヲ今後更ニ起コスナラバ大逆トミナス」との声明の発表をも勅命として命じられ、ソ連も斯くやと言われる勢いで政軍双方の過激派有力者を片っ端から粛清する大改革を断行することになる。
  • 7月31日
 ドイツで総選挙、大ドイツ主義を掲げ、ドイツ語圏を単一国家へと纏め上げることで不況を脱そうと主張するナチスが議会第1党。
  • 11月
 リットン調査団はリットン報告書を国連に提出。満州事変について「アメリカ合衆国による張作霖爆殺未遂事件がそもそもの発端」「大日本帝國が満州に有する権益に浸透し奪取せんとする不当な軍事的圧迫が存在していた」「満州国建国の経緯については日本陸軍の完全な暴走」「権益は尊重されるべきであるが現在の満州国政府は正当な政治的根拠を有しているとは言い難く、この後ろ盾となっている日本陸軍は漸次撤兵の上、影響力排除が求められる」と結論した。
 同時に「既に成立しつつある満州の新政治体制を自治政権として樹立し、この自治政権に国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下に置いて漸次双方の権益を尊重しつつ、自発的に両者を取り持つことが可能な自主性を持った独立国家とするのが望ましい」と提言する。

皇紀2593(昭和8/西暦1933)年
  • 1月30日
 ドイツ、ヒトラーがドイツ帝国宰相に就任。しかし経済政策などに関し皇帝及び皇帝特別顧問ヒンデンブルクと対立(皇帝・ヒンデンブルクは経済開放による対外協調路線(実質的には旧敵国であるグレートブリテンによるポンド・スターリングブロックの軍門に下る状態)を望んでいたが、ヒトラーは排外・人種差別主義的で、且つ独善的なドイツ語圏の統合(大ドイツ主義)を掲げ、アフリカ植民地の入植欧化を推し進め、更に軍事支援を通じた支那大陸利権の再獲得を目指し強いドイツの再興を行おうとしていた)。
  • 2月1日
 大日本帝國、満州事変に関与した政治家・軍人を一斉粛清。
  • 2月4日
 国際連盟、満州事変に関するリットン報告書に基づき、「一連の状況を鑑み、満州を国連直接統治下に置き、漸次独立を促していく。既存の権益については満州国自治政府と諸国が国連の調停の下に交渉していく。満州国内の軍事力は漸次撤退を義務とする」決議を採択。賛成42、反対1(アメリカ)、棄権1(ソ連)となる。実質的にアメリカの関与が原因であると国際社会が結論する決議であり、反発したアメリカはその場で国際連盟を脱退する。
 大日本帝國臣民の多くは国内開発によって経済が順調であることも重なって、権益が即座に失われたわけでも、本格的な支那大陸の欧州領土化が進められた訳でもない(経済的に従属した市場となりつつはあるものの、自らもその市場で相応に儲けていたし、何より大陸の住人は同胞同士での戦争に忙しかった)ので概ね静観するが、近視眼的な軍の青年将校や右翼勢力、国粋主義者らは一斉に反発する。
  • 6月17日
 大日本帝國、幕府と内務省との対立表面化。1936年の綱紀粛正まで対立が続くことに。
  • 8月2日
 ドイツ帝国で政変。背景には、大ドイツ主義に基づく国家統合交渉を持とうとしたヒトラー率いるナチス政権、他のドイツ語圏でも最大の領域を持つ神聖イシュトヴァーン王冠帝国との交渉を持とうとするものの、大戦のそもそもの原因である民族主義の衝突の反省から、何人にも民族同士の対立を利用されない、多民族国家を自認する独自アイデンティティの確立へと舵を切った神聖イシュトヴァーン王冠帝国からは、如何にもドイツ人至上主義的なナチス政権の政策を自らのアイデンティティを侵犯するものとして素気無く断られたことがあった。このため、初手から拡大政策に躓いたヒトラー政権は、全権委任を画策し現政権に非協力的な皇帝に代わる傀儡的な新帝を擁立しようとしたものの、先手を打った皇帝側によって、ヴィルヘルム3世以外のドイツ皇族(ワイマール憲法に於いて皇位継承権が認められている全ての人物)は集団外遊という白々しい名目で実質的にオランダへと亡命。ナチス政権は擁立候補を失い全権奪取に必要な政治的名目を用意出来なくなったものの、皇帝側も有力人物を失ったため、相対的な権力比重は大きくナチス政権側に傾倒。以後、オランダに亡命した皇族の奪取作戦と、ヴィルヘルム3世を暗殺し皇族不在による帝政廃止作戦の両方が進められ、政治的暗闘が激しく繰り広げられることになる。
  • 8月7日
 グレートブリテン、ドイツ帝国の内紛を受け、オーストラリアにドイツ皇族を受け入れることを表明。同時にドイツ帝国に於いて現政権の圧力を受ける全ての人々の居住地をも同地に用意する声明を発表し、ドイツ帝国からの人材の青田買いと切り崩しを図る。他方、ドイツ政変を受けてグレートブリテンが用意するとした土地に、既に日系人が入植し開拓していた土地を充てることをオーストラリア現地政府が発表したことで、先のロシア系住民受け入れを巡る公然の秘密と化した裏事情もあって、日系人と大日本帝國は強い反発と不審を持つ。
  • 12月29日
 アメリカ合衆国、海外情勢の自国に対する悪化(≒支那大陸利権)を受け、大日本帝國とグレートブリテンに対し東京軍縮条約の破棄を通告。無条約時代が到来する。

皇紀2594(昭和9/西暦1934)年
  • 3月
 アメリカ合衆国は事実上露骨に日本を意識したヴィンソン・トランメル法を成立させ軍備拡張を開始。これに対抗し、陸海を問わず政軍両面での綱紀粛正の大鉈が振るわれる中でありながらも、大日本帝國もこれに呼応した軍備拡張案が容認される。
  • 4月1日
 日本海での日本海軍の演習中、空母艦載機に誤って搭載されていた実弾(九八式八二番三号爆弾)が投下され、煙突に直撃弾を受けた戦艦「榛名」が機関大破し大火災を発生。死者多数を出し、一時は漂流沈没の危機に晒される。航空機の有用性の証明と戦略の方針転換が行われる(海軍乙号事件)。同年度の議会に提出予定だった予算計画書が土壇場で修正を受け、空母1隻の追加建造(史実の翔鶴級の改良版)の予算が追加される。
  • 5月
 日本海軍、加賀級の近代化改装を開始。東京軍縮条約が破棄となったことを受け、金剛級代艦計画として黒姫級の建造計画が予算通過。
  • 7月25日
 神聖イシュトヴァーン王冠帝国でオーストリア・ナチスによるクーデター未遂。皇帝カール1世により鎮圧される。神聖イシュトヴァーン王冠帝国では官民を問わずナチス党に対する反発を強め、逆にドイツ人であるところのナチス党員の国外追放政策を生じ、英仏も同調。大ドイツ主義は完全に行き詰まる。
  • 8月2日
 ヴィルヘルム3世の度重なる暗殺失敗と新帝候補奪取に失敗し痺れを切らしたナチス政権、ヒンデンブルクの病死を以て宮殿を子飼いの軍部隊の包囲下に置き、ヴィルヘルム3世は統治可能状態に無いとして幽閉。更に候補者不在による自然的帝政廃止を宣言。
  • 8月19日
 自然的帝政廃止(自称)に伴う大統領選挙が行われ、ヒトラーが当選。即日、ヒトラーは大統領と首相を兼ねる地位として総統に就任。他の候補者を十把一絡げに帝政派と見做し「皇帝親政を掲げる余り心労を負わせて廃人にした不届き者」として弾圧する中での就任には各方面からの反発を生むが、ヒトラーの突出した演説能力を前に、ブロック経済から取り残され経済的に停滞するドイツの現状(国家予算に占める先の大戦の戦費償還に伴う支出額の多さ)に不満を持つ一般市民からは、その矛先を具体化してくれるヒトラー政権は大変都合が良く、特に当時のドイツの総人口の過半数を占め、相対的にその様な不満を抱く者の多い上に、人口が集中する以上産業も集中し、労働に適した「若者」が集まるプロイセン王国での旗向きは俄にナチス政権へと傾く様になる。
  • 9月
 ドイツでのナチス政権成立を受け、ソ連は社会ファシズム論(社会民主主義を共産党による社会主義革命の障害と見做す論)を放棄し、反ファシズム勢力の結集を図る人民戦線の結成へと動く。この工作は同じくドイツを警戒するフランスへと波及し、後に(支那大陸での利権争いに思う所はあるものの)仏ソ両国によるナチス挟撃を企図したフランス人民戦線内閣の成立を後押しすることになる。

皇紀2595(昭和10/西暦1935)年
  • 4月
 満州で地質調査中に油田が発見され、余りつつあった国内資本と英国資本が日本海沿岸と遼東半島地域への石油関連施設への投資に流れ始める。物資輸送能力の向上が必要とされたことから主要鉄道幹線の改良、全国的な道路網の整備が始まる。この石油資源確保により日米対立がさらに深まる。また同年中に以前から広く議論が行われていた普通選挙法の施行と時代に合わせた大日本帝國憲法の改定が発表される。
  • 9月30日
 琉球本島北部一帯で突如「沖縄臨時協和政府」を名乗り王政を倒し民主化達成を標榜する大規模武装集団が蜂起、沖縄事件勃発。一時琉球王国首都首里が占拠される事態になり、市民と王家は那覇へ退避。
  • 10月1日
 太平洋上をハワイから上海に向かう米軍の小艦隊が那覇へ向かう進路を取ったため、同艦隊を警戒していた台湾の高雄基地からの日本海軍艦艇の半数が那覇港を封鎖。琉球王国政府から正式な救援要請を受けたため、日本海軍は部隊を上陸させ那覇市街に展開する。米軍艦隊はその後、上海へ移動。
  • 10月3日
 嘉手納近辺に高雄基地からの日本海軍増援部隊が上陸。協和政府軍を艦砲射撃により火力で圧倒し順次鎮圧。背後に東アジア地域の混乱を狙う複数国(アメリカとかソ連とかナチスとか)の存在が浮かび上がるが、首謀者が忽然と消えたためついに関連性は証明出来ず。琉球王国は対外不審を強め、俄かに近在の強国(特に日本)の保護を訴える論調が強くなる。

皇紀2596(昭和11/西暦1936)年
  • 1月5日
 日本赤軍過激派の武装集団による札幌の北海道庁銃撃占拠事件が発生。軍が大挙出動し札幌市街で銃撃戦。これを契機として武装集団に対する法整備が行われる。より一層日本の反共姿勢が強まり、通称「昭和のアカ狩り」と呼ばれる共産党弾圧が起きることになる。
  • 2月
 イスパニアに於いてソ連による政治工作から無政府主義者による票を集めた人民戦線内閣が成立。
  • 2月26日
 2・26事件発生。「欧米列強による日本包囲網の軍事的打破」を主な主張として掲げた日本陸軍青年将校団率いる部隊によるクーデター。公共機関だけでなく、東京周辺にも小規模ながら形成されていたユダヤ系ドイツ人難民街(ゲットー)にも襲撃が及ぶ。昭和天皇は難を逃れた齋藤総理に厳罰を指示し、蜂起した部隊を反乱軍として容赦なく鎮圧。軍隊の暴走は統治者(≒天皇)の監督が行き届いていないことが原因であるとして、激怒した昭和天皇により直々に幕府の移転が決せられる。既に勅命により検討委員会が組織されていた新憲法草案の、正式な制定を目指した憲法改正の勅命が出されると同時に、命までは奪わないものの徹底した軍内部の粛清が下命された。
  • 5月2日
 新憲法研究会から提出された新憲法草案が帝國議会の議案として出される。
  • 7月17日
 イスパニア領モロッコでエミリオ・モラ・ビダルが人民戦線内閣に対し叛乱。カナリア諸島に左遷されていたフランシスコ・フランコがこれに呼応し、人民戦線内閣の成立により赤色テロの危機に直面していると感じていた王室、貴族、カトリック教会、地主、資本家、軍部等の右派勢力はこれを支持したため、人民戦線内閣は無政府主義者による人民戦線軍を組織。これ以降、右派勢力を王党派、左派勢力を叛乱軍(人民戦線内閣が法的手続き上は正当な政権であるにも拘わらず)と呼称するイスパニア内戦が勃発することになる。
  • 8月
 日本海軍、扶桑級戦艦と伊勢級戦艦の計4隻の近代化改装を同時に開始する。
  • 9月29日
 イスパニア内戦、王党派総司令官にフランシスコ・フランコが選出される。イスパニアに於ける叛乱の糸を引いていた張本人であるソ連は勿論のこと、ソ連の意向を受けてドイツに対し最悪でも中立を保つであろう人民戦線政権が続くことを望む同じ人民戦線内閣のフランスが叛乱軍を支援し、逆に第一次支那事変に於いてソ連と断交しているグレートブリテンは王党派を支援。ナチス・ドイツも仏ソ挟撃を警戒し、フランス人民戦線内閣を「ドイツの手によって復帰した正当なるイスパニア政府」によって逆挟撃することを目論んで王党派を積極支援する事態に。これまでの府仏による対独防御政策は事実上崩壊し、グレートブリテンは西欧に於いて単独でナチス(独)と共産主義(仏)の脅威に対抗しなくてはならなくなる。
  • 11月3日
 新憲法草案が喧々諤々の論議の末に議会を通過し即日公布。これにより大日本帝國憲法(明治憲法)は1937年11月3日の新憲法施行を以って大幅に改正され、大日本帝國がより強く民主化されることが決まる。この憲法は天皇を国民統合の象徴とし、主権在民などを明記したもので、名実共に天皇は「君臨すれども統治せず、主権はあくまで国民にあり、国家統合の象徴となる(齋藤首相の答弁より一部抜粋)」。但し、5・15事件や2・26事件であわや政府首脳が軒並み死亡し国家機能が停止しかねない事態があったことを鑑み、国家の緊急時に備えた非常時のみの権能は残された。
  • 12月
 グレートブリテンはファシズムと共産主義への対抗から、ドイツ帝政派亡命政府を樹立。更にオーストラリアに於ける日系人の抑圧政策を緩め、イスパニアとの関係が深い大日本帝國を王党派支援へと引き込もうとするが、日本では一部に巨大市場としての欧州を東(大戦以来関係の深い北・東欧諸国)と、西(イスパニア・グレートブリテン)から挟み込んでしまうことを唱える者が居たものの、日本自身が昭和維新の大改革の最中に対外的反応をする余力が乏しかったこともあり、却って徒労に終わるばかりか、オーストラリアの白人社会には本国に見限られた、或いは足手纏いとなれば何時でも取引の代価に出来る生贄と見做されていると思われ、逆に有色人種社会や植民地には段階的独立の兆しと思われ、各地の植民地に独立の機運を芽生えさせてしまい、味方に付けるべき欧州列強からは植民地の独立運動を激化させたと見られ、連携相手としての信頼を失ってしまう。

皇紀2597(昭和12/西暦1937)年
  • 4月26日
 ナチス・ドイツ空軍がゲルニカを空襲。その際、大日本帝國臣民が巻き込まれた事を以て、日本の世論が沸騰。曰く「アカの叛乱軍も無法の王党派も正道に非ず」。グレートブリテンの誘いを素気無く断っていることもあり、今更頭を下げてイスパニア内戦に王党派として介入する訳にも行かず、アカに与するのは論外。ならばどちらにも付かなければ良いじゃないかという何とも形容し難い発想ではあったものの、ナチスに支援の先手を取られた王党派にも、共産主義者の蔓延る叛乱軍にも与し難いグレートブリテンの政治事情にも合致することから、(特に豪州での政策を巡って)思う所はあるものの、両者は急速に接近を始める。
  • 7月7日
 急速にイスパニア内戦への介入機運を高めつつある日本に対し、欧州遠征を阻止すべくソ連が中国共産党を通じた工作員により盧溝橋事件を仕掛ける。何とかしてアジア市場介入の口実を得たいアメリカも支援したため、邦人保護の為駐屯していた日本陸軍に多数の死者を出す惨事に発展。
  • 7月11日
 齋藤内閣は強権を以て在中日本資産の総引き揚げと在日支那資本の凍結接収を決定。邦人に帰国命令を出し、事実上の国交断絶(そもそも正当政府が弱体化し一地方軍閥に転落している現状では、手続きの正当性以外の面での意味は余り存在しなかったが)を断行。
  • 7月19日
 日本海軍、黒姫級巡洋戦艦1番艦「黒姫」竣工。
  • 8月9日
 上海租界の警備に当たっていた日本海軍特別陸戦隊の兵士が虐殺される。
  • 8月12日
 在支日本資産の総引き揚げに際し、上海の現地銀行から引き揚げる正貨(=金銀)の護衛に就いていた日本海軍特別陸戦隊に対し、ナチス・ドイツ軍事顧問団の軍事支援を受けた(数少ない)中華民国軍精鋭部隊が攻撃。本格的武力衝突に発展し、第一次上海事変が勃発。
  • 8月15日
 大日本帝國、第一次上海事変に加担したナチス・ドイツ軍事顧問団とその母国であるナチス・ドイツを敵対組織(飽くまでも国家とは認めなかった)と見做し、全面攻撃を示唆。手の及ぶ限りの華僑資産凍結接収にも及び、これを「自由資本主義の原則に反する」とアメリカが批判。日本も「テロと暴力を容認するならず者国家」と罵倒仕返し、事態は泥仕合の様相を呈する。
  • 9月
 大日本帝國の支那大陸からの撤退を受け、現地租界の警備をする有力な軍隊が存在しなくなることを恐れた列強諸国、上海・天津・香港等の租界に大規模な軍隊を日本の了解の下に派遣。第一次支那事変以来の租界要塞化を推進する。
  • 10月1日
 日本海軍、黒姫級巡洋戦艦2番艦「武尊」竣工。
  • 11月3日
 新憲法(昭和憲法)が発効。地方自治を拡大し日本が多数の国々から成る聯邦国家であることを明記(この事実を以て慣用的表現として「日本連合帝國」が用いられる様になる)。時代に即した各法の制定、各省庁の合理化・合併(この中には特別高等警察の廃止と公安調査庁の設置が含まれる。尚、公安調査庁となってからは特高にありがちだった拷問などが法整備で厳しく禁じられるようになる)、天皇大権の制限、皇室の象徴化と直接選挙によって国民が選んだ宰相による民主主義の確立、三権と軍隊の分立、国家そのものの明確な物的同君連合(連邦)国化、政教分離・文民統制の強化が行われる。
 更に日本海沿岸に於ける工業施設の拡大、農地改革、教育改革(史実での日本の高度経済成長期ぐらいの教育制度と水準)、首都防衛軍及び軍隊の相互抑止力としての近衛師団と海軍の精鋭部隊を中核とした近衛軍(とその事務処理を行う兵武省、備品調達を行う軍需省)の創設などが同年中に決定された。また近衛軍創設を理由とした防衛計画が承認され、海軍力を中心とした軍拡が実行に移される。またこの時期から極秘裏に「ハ号計画」、即ち核分裂兵器開発計画が開始される。
 満州石油開発の開始など、国運が良い方向に向いてきたと見る人々の消費活動が活発になり、高度経済成長開始(第一次)。これらを総じて「昭和の大政変」「昭和維新」とも言う。またこの頃より日米関係が悪化傾向へひたすら転落していく。
  • 11月4日
 日本海軍、大和級戦艦1番艦「大和」を呉海軍工廠で、同2番艦「武蔵」を三菱長崎造船所で起工。主砲に50口径46cm3連装砲を採用、これを4基計12門搭載。酸素魚雷開発により極端に火力が向上した高速軽艦艇や航空機の接近阻止を重視して防盾付12.8cm連装両用砲も20基搭載し、全長278m、全幅39.8m、基準排水量72800トンの巨体で30.2ノットという前代未聞にして世界最大最強の高速戦艦として設計。
  • 12月
 日本海軍、加賀級の近代化改装を終える。
  • 12月24日
 大日本帝國、イスパニアが無政府状態にあり、ゲルニカに於いて邦人が空襲に巻き込まれたことを以て、「長年の友好的両国関係に鑑みて、無法無道の罷り通る内戦状態は正視に堪えず、義によって秩序と安寧を齎すべく武力介入する」ことを宣言。既に親善訪問の名目でグレートブリテンに派遣されていた空母「赤城」を含む遣欧艦隊が、イスパニア上空で空戦中の王党派・叛乱軍の双方を攻撃。

皇紀2598(昭和13/西暦1938)年
  • 2月
「最後のフロンティア」である支那大陸に食い込みたいアメリカは、同じく列強の嫌われ者であるソ連に最接近。日本の支那大陸撤退で解放される枠に入り込もうと、「トラクター工場」の建設を名目とした経済的連携政策を執り始め、大量生産のノウハウと共に援助を始める。
  • 3月
 日本海軍、扶桑級、伊勢級の近代化改装を終え、伊勢級を扶桑級に改める。
  • 5月
 大日本帝國、遣欧艦隊を遣欧軍に格上げ。ナチス・ドイツ義勇空軍とフランス義勇航空隊に対し、海上の不特定の位置から攻撃を仕掛けられる優位性から壊滅的打撃を与える。元々関係性の悪いナチス・ドイツは兎も角、閣内不一致と経済的不振から来る支持率の低下に悩むフランス人民戦線内閣からも、国内の不満を外へと逸らす格好の獲物が現れたため、ここぞとばかりに敵視される。一方、植民地に対する態度に苦慮し対外的対応能力の低下していたグレートブリテンは、勝手に好戦性を発揮して独仏両方を敵に回して恨みを買ってくれるばかりかイスパニアを鎮圧してくれる日本をここぞとばかりに擁護し、イスパニア内戦介入を「日本による欧州侵攻」として批判する米国を宥める役に回る。
  • 7月
 大日本帝國、内戦によりイタリアに亡命中のイスパニア王室を中核として樹立したイスパニア亡命政府を、正当なイスパニア政府として承認。グレートブリテンとイタリア、北・東欧諸国がこれに追随し、「イスパニアの正当なる王権」の回復を掲げ義勇軍(義勇連合軍を称した)の派兵を決定する(背景に前大戦から年数を経過して実戦経験が失われつつある軍隊に経験を与え、キナ臭い独仏ソに対抗しようとする意志があった)。
  • 8月
 イスパニア内戦に於いて地続きであるにも拘わらず劣勢にあるフランス義勇軍の苦境に対し、米ソ両国はフランスが出している戦費の一部肩代わりによる支援介入を行う。
  • 11月
 大日本帝國、大和級戦艦3番艦「信濃」を大神海軍工廠で、同4番艦「甲斐」を横須賀海軍工廠で起工。金剛級戦艦2番艦「比叡」3番艦「榛名」の第二次近代化改装、長門級戦艦の第一次近代化改装を開始。
  • 12月24日
 大日本帝國遣欧軍及び義勇連合軍、バルセロナ上陸作戦「クリスマス攻勢」。フランス人民戦線内閣を刺激(航空隊の圧倒的戦闘力による軍事的な圧迫)しつつ、北・東欧諸国の重火器で武装した部隊を揚陸し、王党派によってイスパニアの南北に分断された叛乱軍の一方を完全に粉砕。陸軍大国を自認するフランスの派遣していた義勇フランス軍は壊滅する。
 尚、一部がサグラダ・ファミリア教会に立て籠もったが、遣欧軍と義勇連合軍は包囲したのみで放置し事実上の兵糧攻めに及び、飢餓により降伏させたため大きな被害は無かった。

皇紀2599(昭和14/西暦1939)年
  • 2月
 グレートブリテンとイタリア、日本と北・東欧諸国が擁立するイスパニア亡命政府を承認。ナチス・ドイツ義勇軍、イスパニアから撤退。
  • 3月
 イスパニア王室を擁する日北東伊府連合軍がマドリードに進軍。フランコ率いる王党派が亡命政府に帰順する旨の事実上の降伏宣言を行い無血開城。イスパニア内戦終結。
 日北東伊府連合軍はマドリードに於いてイスパニア王室と共に、欧亞不可侵条約を結び、(自らが過去にやっていることは取り敢えず棚に上げて)自らへの侵略行為に対し一致して抵抗することを宣言する(連合宣言)。尚、伝統的に仲の良い日北東と何ら日本との間に確執を持たないイタリアと、グレートブリテンとの間にはこの時点でも既に温度差を生じていた。
  • 4月
 イスパニア王アルフォンソ13世、国政の混乱の責任の一端は旧来の抑圧的政策を執り、反体制派による反動的政権奪取を招いた自身にあるとして、王位を王族であるバルセロナ伯フアン・カルロス・テレサ・シルベストレ・アルフォンソ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグに譲位。フアン・カルロス・テレサ・シルベストレ・アルフォンソはイスパニア王フアン3世として即位すると共に、(自分を擁立した日北東伊府も割と同様の狙いを持っていたことは棚に上げて)内戦を激化させ好き勝手に暴れ回った義勇軍の首魁である独仏両勢力に対する当て付けとして、「より強き不可侵たる国家の象徴」たる国家元首として立憲帝政の実施を宣言。「イスパニアに於ける全ての政治体制の保護者にして裁定者、象徴たる皇帝」として、イスパニア帝国初代皇帝フアン1世としても即位する。
  • 8月23日
 ソ連とフランスの間に相互不可侵条約が調印される。二国の間には北・東欧諸国とドイツが横たわり、距離もあれば両者間で係争中の問題も無いにも関わらず相互不可侵条約を結んだ背景には、第一次世界大戦の後遺症が世界恐慌に端を発する不況によって重症化し、財政的に国家の屋台骨が完全に傾いでいたところに、仇敵であるドイツがナチス化し極右的政権が成立。アメリカが東京軍縮条約を破棄したことで無条約時代となり、政権を簒奪したナチスが、軍縮条約の軛に少なくともナチスをドイツ帝国の継承国家として認めない限りは囚われないのは勿論のこと、近隣の列強諸国が随時無条約時代の強力な軍拡に走るのに遅れる訳には行かず、自らも無条約時代に即した強力な艦艇の建造に踏み切らざるを得ず、加えてマジノ線の建設という負担が、財政の悪化に拍車を掛けていたことがある。
 更にそのナチスは、フランスの背中側のイスパニア内戦に介入し、自らの友好的勢力を作り上げてフランスを挟撃しようとし、イスパニア内戦への介入の度合いを深めざるを得ず、そこにこれまで連携して対独政策を行ってきたグレートブリテンとの支援対象の齟齬を生じ、実質的に同盟を解消された上、第三勢力を擁立した日本による本格的武力介入によって、イスパニア内戦への介入は結局義勇軍と戦費を消耗し戦訓獲得以外の全面で徒労となり、仏ソ連携でナチス・ドイツを挟撃したつもりが、国の四方八方を潜在的敵対国に囲まれるという事態を招来した。
 この為、人民戦線内閣成立の立役者でもあるソ連が、自らの持つ支那大陸利権をチラつかせ、同じく列強諸国の嫌われ者であるアメリカからの投資を得て生み出した資金で、フランスの更なる援助を申し出た時、既にフランス人民戦線内閣がフランスという国家を破綻から救うには、自らの主張を曲げてソ連と手を切り日府どちらかに頭を下げて経済的軍門に下るか、それとも米ソと連携して「世界」と戦うかの二択しか無かったのである。
  • 9月1日
 ナチス・ドイツが「在外(ナチス支持者の)ドイツ人の迫害(追放)」を理由に神聖イシュトヴァーン王冠帝国領オーストリアに対し侵攻。条約に基づき自動的に欧亞不可侵条約に調印した全ての国々とナチス・ドイツとの間に戦端が開かれる。

最終更新:2014年05月25日 14:37